第四話 心の叫び
図書館のすぐ側に設置されてある階段を、ゆっくりとした足取りで上っていく。真上はちょっとした展望台となっているけれど、いつも人気がないのが特徴的だった。
数年前までは、幼馴染みの都樹と一緒にここに来ていた。主に外のコートが俺たちの遊び場だったけれど、ここでは花火を見たりしていた。――〝秘密の場所〟なんて言って、当時はすごくすごく大切にしていた場所だった。
階段を上りきると、先客が遠くの町を眺めていた。肩まであるこげ茶色の髪を靡かせて、同じく茶色い制服を着ていて……なんとなく、その後ろ姿に見覚えがあることに気がついて息を呑んだ。
先客の女性が俺の気配に気づいて振り返る。目が合った。そうして互いに息を飲んだ。
「皇牙……?」
先に反応をしたのは、年上の幼馴染みである都樹の方だった。
「え、えぇ……」
心の準備ができていなかったせいか、掠れたような声しか出てこない。
「嘘、信じられない、本当に会えた……」
彼女は小さく、それでも俺が聞き取れるほどにはっきりと言って。そしてぎこちなく笑って涙を零した。
「……わたし、おうがにあえたぁ…………」
何年も聞いていないその声は、昔と違ってだいぶ大人びたような気がする。顔立ちも、泣いているけれど輪郭がはっきりとしてるのがわかった。
「……ちょ、ちょっと、泣かないでよ」
そうでも言わないと、もらい泣きしそうだった。一歩一歩足を踏み出して、また小さくなった――俺が大きくなって小さく見えてしまった彼女の前に立った。
彼女は泣き顔で俺を見上げ、鳩尾に優しく拳を入れる。
「ばかぁ」
そんな痛々しい言葉を添えて。
「ば、ばか?」
言葉の意味がわからず混乱している俺に
「ばかぁ、ばかぁ、ばかぁ……!」
と、何度も何度も同じことを都樹が繰り返した。その手を彼女自身が止めた時、充血した目が俺を捉えて
「どうして、私に何も言ってくれなかったの」
か細く俺に訴えた。
「……知っていたの?」
「答えろ」
「それは……心配かけたくなかったから」
「もう充分に心配したっつーのぉ……!」
そして、その頭を俺の腹部にぐりぐりと埋めた。
「ご、ごめんなさい」
鼻声の都樹は何も言わない。
「……ごめんなさい」
泣き張らしたその顔を上げもしない。
「…………本当に、ごめんなさい」
都樹の頭に手を置くと、すっぽりと頭が隠れてしまった。昔もこうして彼女の頭を撫でていた気がする。だから懐かしみながら撫でていた。
「…………ばかぁ」
あまりいい言葉ではないと思うけれど、都樹の言葉には優しさが含まれていた。
どれだけ彼女が泣いたかはわからない。少なくとも、彼女は数年前までは人前で泣くことを拒んでいた。
「……ごめんね」
顔を上げる気配がして、不意に都樹を撫でる手を止める。
「ごめんって、何が?」
泣き腫らしたその表情は、後悔を秘めていた。赤くなったその瞳に、困惑する俺だけが映っていた。
「手紙、止めて」
たったそれだけ絞り出して、都樹は俺の体を離した。離されたら漠然とした不安に襲われそうで、俺は都樹を引き止めた。
「……そんなの、謝らなくていいわよ。俺はずっと、都樹が勝利を望んでいることを……知ってたんだから」
嗚咽混じりが情けなくて、だけど都樹に伝えたくて。
「……勝利?」
不思議そうに尋ねた都樹に
「……『バスケで一番になって、自分を捨てた親に見つけてもらいたい』」
俺はあの頃の都樹の言葉をそのまま伝えた。それは、捨て子の心の叫びだった。彼女の唯一の願いだった。
*
「『バスケで一番になって、自分を捨てた親に見つけてもらいたい』」
皇牙の瞳に映ったのは、満面の笑みでそう言ったかつての私だった。彼に、恐れることを知らなかった私が言った言葉だった。
……あぁ、思い出した。私は、実の両親に見つけてほしかったんだ。
生きているなら、テレビに映った私を見て後悔してよ。どうせテレビに映るなら、得意なバスケがいいって単純な理由で。
そう決意した私にとって、〝東雲の次に強いとされた〟〝五強〟は汚名以外の何物でもなかったのだ。
「……『そうしたら、一緒に暮らせる日がくるのかなぁ』って……言ってたね……私」
「えぇ、そうね」
どうして忘れていたのかな。勝ち続けて、どうでも良くなったのかなぁ。私にとって実の両親は、その程度だったんだなぁ。
「なぁんだ」
見上げると、夕日がどこまでも高く広がっていた。地元の空も、神戸の空も、変わらない。そうしたら、涙なんて止まっていた。
「……皇牙、人生ってさ、まだやり直せるよね」
皇牙は目を丸くして驚いていた。それもそうか。いきなりこんなことを言われたんだから。
「都樹はまだ若いからね、大丈夫でしょ」
だけど皇牙は、すぐに笑って肯定した。
「皇牙の方が若いけど」
「変わらないわよ」
……変わらない、か。なんだか嬉しいな。
「私、浪人して良かったよ」
「ちょっと、そりゃあ同学年になったからそう思うのはわかるけれど……」
私は皇牙の唇を人差し指で無理矢理塞いで
「――覚悟しといてね」
大人の余裕で笑ってみせた。
*
マヒロのその表情を私は初めて見たし、今後マヒロがその表情をする日は訪れないだろう。マヒロは時間をたっぷりと使って、口を重そうに開いた。
「……本気?」
「冗談は嫌いよ」
ホテルの一室で、私はマヒロに対して苦笑いを見せた。
「父さ……監督は?」
「まだ言ってない」
私は首を横に振る。マヒロが険しい表情で私を見上げ、あからさまに眉を顰めた。
「……どうしても?」
「後悔だけはしたくないから」
そうしてマヒロは目を閉じる。二歳年下の彼女に厳しいことを言っているのはわかっている。それでも、決めたことは曲げたくはない。
「好きなようにすればいい」
マヒロはそう言って、視線を窓の外に向けた。私は弱々しく笑って、「ありがとう」と言うことだけが精一杯だった。
*
「もう行くの?」
一六の声が後ろからかかった。
「うん」
振り返ると、俊介や雄平や赤星、マヒロもいる。遠くの方では、京が腕を組んで立っていた。
ホテルの玄関口で、彼らは私を見送りに来たのだ。
「早い方がいいかなって」
「それは……そうだけど」
俊介はすぐさま口を開いたけれど、渋々同意した。
「まさかお前にあんな行動力があるとはな」
雄平は素直に感心しているようだ。赤星に視線を移すと、赤星は面白そうに笑っている。
「種島先輩はいつも興味深いことをしますね」
「誉め言葉として受け取っとくよ」
「お好きにどーぞっ!」
マヒロはじぃっと私を見ていたけれど、言葉はなかった。
「じゃ、またね」
持ってきた鞄を持ち上げて、私は彼らに手を振った。すると、何故かマヒロがついてきた。
「マヒロ?」
「送ってく」
昨日はマヒロだけに話して、今朝も送ってもらっている。
「そんなの悪いよ」
「一応主将だから」
「その前に後輩でしょ?」
夏休みともあってか、案外早く事は進んだ。やらなくてはならないことはたくさんあるけれど、きっと大丈夫だろう。
マヒロは唇を尖らせて、「もっと浪人すれば良かったのに」と私を睨んだ。
「それは勘弁」
マヒロはニッと笑って、青空を仰ぎ見た。
「次会うときは……」
「ん?」
「次会うときは、✕✕だ」
マヒロの目は私を捉えた。私も一瞬空を仰ぎ見て、マヒロを見る。
「――その時は、全力で」
マヒロは同意するように、不敵に笑った。