第二話 二人の先輩
変わりたかった。戻りたい、の方が正しいのかもしれない。とにかく私は、今の日常に嫌気が差していたのだった。
今の日常を変えようとするのなら、皇牙に会わないと始まらないような気がしていて。……あの頃の私を、皇牙の中から見つけたくて。急に練習にやる気を見せた私に、訝しげに見つめる視線が集中する。マヒロや監督だけは普段通りだった。
――〝五強〟。
幹栞。茎津春。茅野空。枝松夏希。そして私――種島都樹。
幹さんと茎津さん以外は中学が違った私たちは、その名の通り強かった。けれど、突如として現れた東雲の子たちの方が強かった。だから、その名前が嫌で嫌で仕方がなかったのを覚えている。どうしてだっけ、小さく首を傾げた。
インターハイの予選を突破したら、皇牙の近くにきっと行ける。
大抵の運動部が全国大会に行けるほどの実力を持つ朱玲高校は、活動日がたくさんあって休日が少ない。いくら約二時間で東京に行ける時代になっても、日帰りで行ってすぐに答えを見つけられるほど簡単ではないこともわかっていた。
「急にやる気になるなんて、不気味」
マヒロがボソッと私に耳打ちをしてドリブルをする。サークルを一周してきたマヒロに
「赤星のせいだから」
と答えると、驚いた表情でマヒロはドリブルに失敗した。
「なんか、去年の都樹と同じだね」
三年――と言っても同い年の子たちがくすっと笑っていて、マヒロにもわざわざ聞こえるように言っている。マヒロは今年からの私しか知らないけれど、私も今の今まで当時のことを忘れていた。
「絶対勝つって顔してたじゃない」
「……知らない」
恥ずかしくなって嘘をついた。マヒロは不可解そうな表情で私を見ていたけれど、父親の視線に気がついて練習を再開させる。
なんだか、マヒロは父親の存在のせいで自分を殺しているように見えた。
「ウソやろ、それ」
「知らないっ!」
また別の三年――勿論、同い年を忘れてはならない子たちに話しかけられて、私はボールをゴールに投げた。当然ボールは跳ね返り、監督にめちゃくちゃ怒られてしまった。
*
買ってきたコンビニ弁当をテーブルに置いて、冷蔵庫を開ける。高校に入学し一人暮らしを始めた私は、帰りが遅いせいで夕食はいっつもコンビニ弁当だった。
去年お世話になったお姉さんに作ってきてもらうこともあるけれど、申し訳なくて最近はそれさえもない。お茶を取り出して、そのまま飲んだ。
たまたま鞄から出していたスマホの画面が、電話が来たことを告げている。応答すると、お姉さんと呼んでいる女性の声が聞こえてきた。
「もしもし」
『あ、もしもーし? 都樹ちゃん元気?』
「部活後じゃなければ今よりも元気」
『まぁーたそんな答え方してー』
お姉さんが唇を尖らせている姿が簡単に想像できた。こんな面倒くさいお姉さんでも、一年間お世話になった人には変わりないけれど。
『でもそっか。楽しそうだねー、部活』
「まぁね」
つい数時間前までは嫌だったなんて、言えない。私は話題を変える為、「なんの用?」とすぐに尋ねた。
『あぁ、そうそう。皇牙くんが選手として戻ってくるかもしれないんだって。インターハイに向けて調整してるらしいよー』
「え、せ、選手に戻る?」
予想外の単語に私は耳を疑った。
『……え、もしかして皇牙くんから何も聞いてない?』
「聞いてないよ、そんなこと……! そもそもバスケから離れてたの?! どこかを悪くしていたの?!」
お姉さんはしばらく言葉にならない声を出していて、私が急かしたら口を開いた。
『なんだっけ? 去年からコートの上に立てなくなっちゃったらしいよ。都樹ちゃんなら気持ちわかるのかなぁ? ……って、皇牙くん、手紙で何も言わなかったんだね』
違う。去年というのは、私たちが手紙を止めた時期と重なっている。
『用っていうのはそれだけだよ』
「……お姉さんはなんでそのことを知っていたの?」
『ん?』
どうして三つ年上のお姉さんがこんなにも皇牙のことを知っているの。
『あぁ。私ね、今でも施設と連絡とっててさ。そこで入ってくるんだよねー、いろいろと』
お姉さんは顔が広い。向こうの知り合いも、こっちの知り合いも、たくさんいる。
「そう……ありがとう」
『ううん、可愛い妹の為ならなんでもするよ』
その会話を最後にお姉さんは通話を切った。
狭いアパートの一室だから、少し後ろに倒れればすぐに壁がある。私はその壁に頭を預け、しばらく言葉を失っていた。
どうしてそんな大切なことを言ってくれなかったんだろう。どうして私はくだらない理由で手紙を止めたんだろう。
「……ばか」
声を押し殺して久しぶりに泣いた。泣かずにはいられなかった。
『どうして泣いているの?』
皇牙に聞かれたら、余計に何も言えなくなる。教室には私と皇牙だけが残されていて、わざわざ二年の教室に来てくれたんだと私は思って――
『放っておいて』
――突き放した。
『それは無理』
去年よりも少しだけ声変わりした声が、はっきりと言って机に突っ伏している私の側に下りた。部活終わりの教室は、夕日が地平線に隠れていて薄暗かった。
皇牙は何も言わなかったけれど、知っているような気がしていた。私がいじめられているということを。
『……ここにいるから』
頭部に置かれた皇牙の手が、癒すように私の髪を撫でてくれた。それだけで涙は引っ込んで、私はゆっくりと顔を上げた。
やがて皇牙の手が下ろされて、私の腕は痺れていた。
『……ありがとう』
中学生の私たちは、それだけ単純で真っ直ぐだった。
今この部屋にいるのは私だけ。癒してくれる温かな手も、側にいる奴も、どこにもいない。伸ばした手の先にあったコンビニ弁当は冷めていた。
「……会いたいよ、ばか」
その気持ちには、つまらない練習を楽しくさせる力があった。
*
静かなこの病室も、三日で慣れてしまった。白くていい感じの広さであるこことは今日でお別れだ。
静かな部屋だったけれど、少し大きな足音がそれを否定する。こんこんと控えめに叩かれた扉は俺の病室のもので、つい苦笑しながら返事をした。遠慮なく開かれた扉から、緑髪が飛び出してきた。
「三峰先輩、見舞いに来たのだ」
そう言って歩いてきたのは、中学の頃の後輩だった。
「凪沙ちゃんじゃない。珍しいわね〜」
無表情のまま軽く頭を下げて、凪沙ちゃんは適当に椅子に座る。じぃっと俺を見つめてくる目は、あの頃と何も変わらない。
「どうしたの?」
「三峰先輩が検査入院中だって聞いたから、顔ぐらい見ようと思っただけなのだ」
凪沙ちゃんは持っていたお菓子を置いて、再度俺を見つめてくる。
「大げさね、検査入院よ? 面会に来る人がいるなんて思わなかったわぁ」
「うちの男バスが磐見に負けたのだ」
刹那、凪沙ちゃんが目を逸らして窓の外を眺めた。
「あぁ、その話ね」
俺も窓の外に視線を移すと、ちょうど鳥が一羽だけ木から飛び立った。凪沙ちゃんは少しだけ棘のある声で
「〝その話〟とはなんなのだ、先輩」
睨むように俺を見た。
「あ、あぁ、ごめんなさい」
慌てて両手を上げて弁解すると、凪沙ちゃんはふぅと息を吐いて苦笑する。
「そういうとこ、変わらないのだな」
「あら、それは凪沙ちゃんもでしょ?」
凪沙ちゃんの口癖は勿論、図太い神経だったり、変に気を遣うところ。本当に何にも変わらない。
「あの人のことともどうせ変わってないのだ?」
そして、不満そうに凪沙ちゃんがそう言った。
凪沙ちゃんの言うあの人とは、きっと幼馴染みの都樹のことを言うのだろう。なんだかんだで一年は音信不通だ。
「……そうね」
ぐっと、白い布団を握り締めた。凪沙ちゃんはあまり変化のない表情の代わりに、よく瞳が表情を見せる。今は強い呆れと悲しみが混じったような瞳だった。
「先輩たちには言いたくなかったけど」
音もなく凪沙ちゃんは立ち上がって
「……少し失望したのだ」
吐き捨てて病室から出ていった。
俺はその小さな背中に返す言葉を見つけられず、見送ることしかできなかった。情けない先輩だと凪沙ちゃんに思われたことが、なんだかとてもショックだった。
窓の外に視線を戻すと、さっきの鳥が戻ってきていた。都樹もこの鳥と同じように帰ってくる日が来るのだろうか。そう思ったけれどすぐに否定する。
都樹は、誰よりも強く勝利を望んでいた。その都樹がようやく強豪校に行けたのだ。帰ってくる根拠なんて何もなかった。
*
病院を出ると、日光が冷めた体を包む。体中から吹き出す汗を指で拭い、帰路に向けて歩いていた。
(……まったく。なんなのだあの二人は)
中学の頃から思っていたけれど、見ていて苛々する。自分の気持ちに気づかずに卒業していった二人のその後は、あまりにももどかしい。
「……だからバカは嫌いなのだ」
脳裏に広岡のアホ顔が過ぎった。私は広岡を追い払うようにあの頃の記憶を再生する。
『私の友達に、皇牙のこと好きな子がいるの』
私を廊下に呼び出して、深刻そうな表情でそう言う種島先輩。だからつい、自分の気持ちに気づいたのだと思っていた。
『それをなんで私に言うのだ?』
ずっともどかしいと思っていた第三者からすれば、素晴らしいことだった。けれど、種島先輩は私にそれを伝えて一体何を言いたかったのだろう。
『だって皇牙って、絶対彼氏に向いてないんだもん』
あぁ、この人はまだ気づいてないのだ。そう落胆したのをよく覚えている。
『……だからなんなのだ。それとこれとは話が別……』
『だって緑ちゃん、いい相談相手で有名なんだもん』
私の台詞を遮って、種島先輩は当たり前とでも言う表情で断言した。どうでもいいけれど、〝だって〟にずっと苛々する。というか私、そんなので有名なのか。
『だから私の相談も聞いてくれる?』
最初は断ろうと思っていた。こんなくだらないことにつき合ってる暇はない、と。
けれど、これを機に今度こそ自分の気持ちに気づいてくれたら安いものでは? そう思ったら段々やる気が出てきて。
『――わかったのだ』
気づけば先輩にそう返していた。種島先輩は安心した表情で礼を言って、その友達がどうしたら諦めてくれるのかと聞いてくる。
どうしてそう思っていても、自分の〝恋心〟には気づかないのか。
『先輩はやっぱりバカなのだ』
『その子は頭いいよ』
『……先輩の友達のことじゃなくて』
私は心の中でため息をついて、種島先輩から視線を逸らした。
結局、その友達は惚れやすい体質のようで。次の週にはまた別の人を好きになっていた。その時の種島先輩は、安堵に満ちた表情をしていて。
『私って嫌な女だね』
そう自嘲した種島先輩は、それでも三峰先輩への〝恋心〟に気づかなかった。私が中一だった初夏、ちょうど今と同じ季節の話である。
近道の為にショッピングモールの中を通っていると、見覚えのある金髪が日光に照らされて輝いていた。彼女は茶髪の少年と、黒髪、茶髪の少女と行動を共にしている。
「あっ!」
私に気づいたエマが大きく手を振った。近づいてはじめて、茶髪の少女が〝四天王〟の裏切り者である南田奈々だと初めてわかった。
「紹介しマス、ナギサ! ジュンとソウカとナナデス!」
ソウカ――彼女がエマの妹のような存在の子か。ジュンはロドリゲス純のことで、従兄の拓磨に勝った奴だった。
視線を南田奈々に向けると、彼女は緊張気味にはにかむ。〝四天王〟への嫌悪感は未だに拭えないものの、彼女自身を嫌いになることは何故かなれなかった。
「私の妹と弟、そして友達たちデス!」
無邪気にエマが言うものだから、つい警戒を解いてしまったのだ。こうも簡単に――と、自分自身に苛立つ。
「どうも」
ぶっきらぼうな私に、「エマがいつもお世話になってます」と奏歌が丁寧に挨拶をする。
「いえ、別に……」
口を閉ざした。
出逢った当初は外国人である彼女を警戒していて、次に彼女の世話を焼き、そして今に至っている。けれど、迷惑ではなくて
「一緒にいると、価値観が広がっていくような気がして楽しいのだ」
これが本心だった。
奏歌やロドリゲスは限界まで目を見開き、逆に奈々は頷いて微笑んだ。この瞬間、なんとなくだが私と奈々が似ているのだと思った。
エマは肝心の〝価値観〟という単語の意味がわかっていないのか、「ワタシも楽しいデス!」なんて言って笑っている。勘違いを訂正するのも面倒だから、放置した。
エマの勘違いは大体訂正するけれど、その対象が自分だと〝まぁいいか〟と思っている自分がいるのを初めて知った。
「じゃ、私は帰るのだ」
すると、エマが歩き出す私の二の腕を無理矢理掴んで
「一緒にショッピングするデス!」
と、人の意見を無視した発言をして私を引っ張った。
「ちょっ……!」
驚いている私を他所に、エマは行く宛もなく突き進んでいく。私は抵抗するのを止めて大人しく彼女についていった。
これが他人だったら止めるのに、自分だったら諦める。いや。私は、エマになら振り回されてもいいと思っているのだ。
「……エマは昔からこうなのだ?」
近くにいたロドリゲスに聞くと、呆れた表情で「まぁな」とエマを見て。奏歌は「変わらないんだよ」と奈々にも教えるように言った。
「みなさん、お待たせしました〜!」
すると、急に耳が新たな人の声を認識した。内心焦って人数を確認する。エマ、奏歌、ロドリゲス、奈々――。
「まさか幽霊なのだ?!」
「えっ?! 違います!」
「ぎゃあっ!?」
「ふぎゃあ?!」
振り返ると、涙目になった少年が私から距離を取った。
「こういうのなんだかすっごく久々だね」
「奏歌さん、流石にそれは傷つきます〜!」
「そういやあったな、こういうの。オマエちっちゃいからわかんねぇんだよ」
「初めは誰だって驚くからね」
同じ高校とあってか四人はとても仲が良さそうだった。彼らが今の三峰先輩の後輩だと思うと、親近感みたいなものが自然と湧いてくる。
後から聞くと、猫宮は奏歌と、ロドリゲスは奈々とつき合っているらしい。それを聞いて、私は先輩たちを思い出していた。