第四話 裏切りの烙印
あの後、部費でタオルを購入した。ロドリゲスくんと相談して、別の場所でテーピングを買うことになったのだけれど。
「……あ」
スポーツ用品店のバスケコーナーで、艶のある短い黒髪が揺れる。
「……アンタ、どうして……」
目を見開いた〝四天王〟の一人である少女――葉月ちゃんは、幽霊でも見たかのような表情をした。
『この……っ! 〝裏切り者〟がぁっ!』
腹部を押され、回る世界。痛む体に、歪む視界。悲鳴と謝罪の大合唱。……今でも、私はちゃんと覚えている。
「……ぁ、の……」
声が掠れた。
「おい」
ぽん、とロドリゲスくんが私の肩に手を置いた。それだけで、私は一人じゃないのだと思えた。
「……久しぶり。まさか、アンタとここで会えるなんて思ってなかったよ」
私に《裏切りの烙印》を押した張本人は、苦しさのあまり顔を思い切り歪めていた。葉月ちゃんもまた、あの時の私と同じように弱さに押し潰されていた。
「……うん」
彼女と話しても平気なのだろうか。もう私を怒ってはいないのだろうか。伝える勇気が出ない疑問だけが浮かんでは消えた。
「誰だ?」
「元チームメイトだよ」
私の代わりに葉月ちゃんが答える。そして彼女は、こうも言った。
「どうしてあの日、来なかったの?」
あの日というのは、蛍ちゃんに呼び出された日のことだろう。
「それは……」
それは、なんだろう。そんなものはただの言い訳に過ぎない。
「……ごめん、なさい」
葉月ちゃんの瞳が揺れた。何かを言いたげにしているけれど、何故かなかなかそれを言わない。終いには「あーもう!」と苛立たしそうに髪を掻き毟った。
「一度だけでいいから、蛍に会って! 蛍も松岡さんも、アンタに一番会いたがってるんだよ!」
「私、に……?」
葉月ちゃんは大きく頷き、私は一瞬だけ困惑した。
「……わかった」
けれど、葉月ちゃんがここまで言うのは珍しい。だから私は了承して――すると、葉月ちゃんが安心したように頬を緩ませた。こんな彼女を見るのは、入部当初以来だった。
そんなものを見せられたら、行かなかった後悔が私を襲う。
「ごめん」
「……え?」
顔を上げると、葉月ちゃんが謝っていた。
「アタシ、自分が弱くてアンタを傷つけてた」
彼女の弱さ。それは、脆い心だった。私のとは違う、逃げることを知らずに心に蓄積してしまう弱さだった。
「それは私も……」
「それ以上は何も言わないで。……その台詞は、蛍の為に残しておいてほしいからさ」
人差し指を唇に当てて、葉月ちゃんは眉を下げた。
「じゃあ、ありがとう」
〝ごめん〟の代わりの〝ありがとう〟は、葉月ちゃんの心に届いたようだった。すると、ぼそりと葉月ちゃんはこうも呟いた。
「……いつか、人の弱さを理解できる人になりたいな」
その時の彼女は、やけに大きく見えた。
「もう話は終わったのか?」
わからないはずなのに、今までの話を何も言わずに聞いていたロドリゲスくんが口を開く。
「うん。ごめんね、待たせちゃって」
すると、葉月ちゃんが私ではなくロドリゲスくんを見て――一言。
「奈々の彼氏?」
「はぁっ?!」
「うぇえ?!」
な、何を言ってるの葉月ちゃん! ほら、ロドリゲスくんが固まっちゃったよ!
「そそそそそんなことないよ!」
ぶんぶんと両手を振って否定する。葉月ちゃんは私とロドリゲスくんを見比べて、何故か呆れたような表情をした。
「それよりも、テーピング! ね、ロドリゲスくん!」
「お、おうっ! そうだな、テーピングテーピング……」
不意をつかれたロドリゲスくんは、口元に手を当てながら店内を見回す。私も同じように店内を見回すと
「……ここにあるよ」
そう言って葉月ちゃんが体を逸らした。そこには、テーピングの山ができていた。
話題を変える為の糸口として「それだ!」と叫ぶと、ロドリゲスくんと見事に声が重なってしまう。恥ずかしさのあまり顔を両手で覆っていると、「……もうわかったから」と近くで声が聞こえてきた。手を離すと、葉月ちゃんが正面から歩いてきていて私だけを見つめていた。
「また、運があれば」
そう言い残して、店内から出ていった。
葉月ちゃんを視線で追っていたからか、必然とロドリゲスくんが視界の中に入ってくる。微塵も動いていないような気がして恐る恐る視線を上げると、そこには顔を片手で覆っているロドリゲスくんがいた。
「……ッ?!」
刹那、ロドリゲスくんが片手を下ろした。その視線はテーピングの方に向いていたけれど、私の視線に気がついたのか目が合った。
「あ……。よ、よし。さっさと買ってくか」
急に大股で歩いていったロドリゲスくんに、私は置いていかれてしまう。けれど、慌てて追いかける気にはなれなかった。
タイミングを見計らってレジに行くと、ロドリゲスくんがテーブルの上にテーピングを置く。すぐに会計を済ませたら、暑い外の世界へと二人揃って出るしかなかった。寄り道という選択肢はなかったはずなのに――
「この後、どっか寄ってくか?」
「ううん。特に予定はないよ」
――ロドリゲスくんが、期待させるようなことを言った。
すると、ロドリゲスくんは思案げに辺りを見回す。喉が渇いてきて、私はさっき貰ったジュースを鞄の中から出そうとした時
「じゃあ、あそこ行こーぜ」
ロドリゲスくんが、喫茶店の方を指差した。私は「うんっ!」と食い気味に返事をしてしまい、行き場を失った手を鞄の中から恐る恐る出す。
先に歩き出したロドリゲスくんの後に続くと、パキッという音が足元から聞こえてきた。
「っきゃ!?」
がくんと、膝が急に下がる。咄嗟に掴んだロドリゲスくんの服の袖を少しだけ伸ばしながら、私の片膝はアスファルトの地面についた。
「えっ? えっ?」
一体何が起こったのか、理解できなかった。驚いたロドリゲスくんは私が掴んでいた手を握り、私の足元をしゃがんで覗く。
「これ、もう駄目だな」
そう言いながら、握っていた私の手を引っ張った。ロドリゲスくんに支えられながら立ち上がると、すぐにバランスが悪いことに気づく。
「ヒールが壊れてんだよ」
ロドリゲスくんが「ほら」と見せたほぼ長方形型のそれは、ヒールの踵部分だった。
「え、ど、どうしよう……」
これでは家に帰るのは難しそうだ。今の手持ちを考えても、靴を買うお金はあまりない。
「……ウチ、来るか?」
「……え?」
ロドリゲスくんはぽりぽりと頬を掻いて、視線をさ迷わせる。
「近いんだよ、ここから。ウチに行ったら応急措置とかできるだろうし……」
「……いいの?」
ロドリゲスくんは何も言わなかった。その代わりに、じっと私のことを見つめていた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて……」
*
ロドリゲスくんの言う通り、すぐに彼の家に辿り着いた。マンションの上階にある家に通されて、壊れたヒールを脱いで上がらせてもらう。
意外と片づいていたリビングに驚いて、私は思わずロドリゲスくんを見上げた。
「そこらへん適当に座ってくれ」
「う、うん」
床に座ると、ロドリゲスくんがすぐにお茶を出してくれた。礼を言って、私は無意識に足を擦る。
「痛めたのか?」
「……多分」
「じゃあ見せてみろよ」
そっと手を退けると、足首が擦れてしまっていた。特別痛いとは思っていなかったけれど、目にしてしまうとヒリヒリしているような気がする。
「これも手当てするか」
「あ、ありがとう……」
立ち上がったロドリゲスくんは、玄関から新品だったヒールを持ってきた。そして、しばらく考え込む。
「と、とりあえず……ボンドでいいのか?」
「いい、と思う……」
正直、初めて履いたヒールだった。そういうことにも詳しくないし、そして何よりこれはお姉ちゃんが用意してくれた物だ。
(知られたら絶対に怒られる……!)
「じゃ、じゃあ、つけるぞ?」
ぷるぷるとロドリゲスくんの手が震えているのがわかる。こういう細かい作業が苦手なのだろう――私のことなのに、ロドリゲスくんに任せっぱなしなのはいけないよね。
「わ、私がやるよ!」
「けど……」
「元々私のだし!」
「……そ、そうだな」
渡された靴とボンドを持って、私はなんとかくっつけてみる。まだ乾いていないそれを押しつけながら、なんとなく顔を上げた。
「ッ?!」
「……ん?」
ロドリゲスくんの睫毛が細かく見える。いつの間にそこにいたのだろう――互いの吐息がかかるほどの距離にロドリゲスくんがいる。
近いのに、なんだかそれが嬉しかった。なんでだろう。なんでかな。
「そういえば、さっきなんの話してたんだ?」
「……えっと、中学の頃、私がバスケしてたのは知ってるでしょ?」
「あぁ」
「私たちのチームね、ラフプレーをすることで有名だったんだ」
なんでこんなことをロドリゲスくんに話しているんだろう。知られたら幻滅されるかもしれないのに。けれど何故か、知ってほしいと強く思っていた。
「ら、ラフプレー?」
「あっ、ち、違うの! ……してないのに、してるって言われ続けてたの。だから私、耐えられなくて辞めたんだ」
すると、ロドリゲスくんの瞳が見開かれた。