第三話 悪魔
部活が始まると、奏歌ちゃんと私は部員の記録を取る。すぐ側では、三峰先輩と猫宮くんが何か作業をしていた。
「あらぁ……?」
三峰先輩がぶつぶつと呟き、何故か唸る。見れば三峰先輩と目が合って、無視するわけにもいかず「どうしたんですか?」と尋ねた。
「あぁ、うん。あのね、ちょっとこれを見てくれる?」
三峰先輩が指差したのを見れば、部活で使うタオルがある。奏歌ちゃんはそれを見て「ボロボロですね」と眉を下げた。
「そうなのよねぇ〜、もう使えないかしら。テーピングも切れちゃったし買いに行くしかないわよねぇ」
はぁ、と、三峰先輩は短くため息をつく。私はそれを聞いているだけで何も思わなかった。
「ねぇ、今週の土曜空いてる?」
「僕は空いてま……」
「黙らっしゃい!」
「……ぴぎゃあ?!」
三峰先輩は猫宮くんを成敗し、何故か私だけを見る。
「え? あ、空いてます」
私は聞かれたことを素直に答えた。三峰先輩は「じゃあ」と手を合わせて笑顔を浮かべた。
「買いに行ってくれる? ロドリゲスくんと一緒に」
「えっ?」
三峰先輩は「だって」と奏歌ちゃんを見る。
「猫宮くんと奏歌ちゃんじゃ厳しいでしょ?」
「そっ、そんなことはありませんよ!」
「えっ、そ、そうですよ!」
奏歌ちゃんと猫宮くんは少しだけむっとした表情になり、両方の拳を上げて三峰先輩に反論した。
「猫宮くんは重たい荷物持てなさそうだし、奏歌ちゃんは色が認識できないじゃない」
三峰先輩の言い分に、奏歌ちゃんと猫宮くんはうっと言葉を詰まらせた。私も確かに厳しいとは思うけれど、二人で力を合わせればできるとは思う。
「ロドリゲスくんなら荷物持ちとして機能しそうだし…………近づくチャンスよ」
最後の方で三峰先輩がぼそっと囁く。奏歌ちゃんと猫宮くんはすぐに納得した表情をして私に向かって親指を立てた。
*
ぼふっと音を立ててベットに倒れた。ふかふかな布団を掻き集めて、言葉にならない呻き声を出す。すると、ノックもなしに扉が開いた。
「……何してるの、あんた」
恐る恐る顔を上げると、ドン引きした表情のお姉ちゃんが立っていた。無言で枕を投げつけると、見事にキャッチされる。
「ふぅん。命中力はまだ落ちてないのね」
「……うるさい」
お姉ちゃんが言っていることはシュートのことだろう。バスケを始めてから知ったのだけれど、七海お姉ちゃんはバスケをやっていて――おまけに強いらしい。だから、お姉ちゃんにはそういう意味で迷惑をかけた。
「下手くそなのにさぁ」
思い出し笑いをするお姉ちゃんに対して、私は用件を聞く。
「そうそう。今週の土曜、買い物行かない?」
「無理」
「なんでよ、引きこもりなんだからせめて……」
「〝約束〟があるの!」
そう言って私は、ぽかんとするお姉ちゃんを部屋から追い出した。
「……はぁ」
約束と言っても、ほぼ強制に近い。ロドリゲスくんは快く承諾してくれたけれど、内心どう思っていたのかななんて考えてしまう。
『おーい』
「ッ!? な、何!」
もたれかかっていた扉に向かって、私は噛みつくように叫んでしまった。
お姉ちゃんはいつだって、私とは正反対な人だ。追い出したのに傷つくことはなく、呑気な声を出している。……お姉ちゃんが強さの塊だとするのなら、私は弱さの塊だ。そんな自分が嫌だった。
『楽しんでこいよー』
「ッ?!」
薄い板の向こう側。足音が遠ざかった。少しだけ扉を開けると、お姉ちゃんは向かい側の自室へと姿を消していた。
「……ごめん、お姉ちゃん」
*
ぼふっと音を立ててベットに倒れた。倒れて、先ほど見た奈々と同じことをしていることに気づく。
「……やっぱ、姉妹なんだなぁ」
枕元に置いてあったぬいぐるみを抱き締め、そう呟いた。
今から約二年前、奈々がバスケを始めたと知った時は驚いた。と同時に、かなり嬉しかったんだ。だから、へとへとになって帰ってきた奈々をへとへとで帰ってきた私がまた教える。
共通の趣味なんてなかった私たちの大切な時間は、奈々の精神的な弱さと私の甘さで長続きはしなかったけれど。奈々は、一年ももたなかったけれど。
その後は引きこもってばかりで、他人との会話が減ったように見えた。
「約束、か」
またバスケ――いや、マネージャーだけどバスケに関わり始めて雰囲気が明るくなった奈々。女のカンが正しければ――
「――その子に会ってみたいなぁ」
*
「う、ど、どうしよう……!」
土曜日の朝は、私にしては珍しく全身鏡で格闘することから始まった。タンスから引っ張り出してきた服を、体に当てては放っていく。
そもそも、中二の頃から外出しなくなった上に成長してないのが重なって――高校生にしては子供っぽい服装ばかりだった。
「子供っぽいって思われたらどうしよう……!」
がんがんっとタンスに頭をぶつけていると、またノックもなしに扉が開く。
「助けてほしいか、我が妹よ!」
普段なら怒っていたけれど、今日は別だ。右手に大きな紙袋を下げ、左手にメイクポーチを持つお姉ちゃんは――とても頼もしく私の目に映っていた。
「お姉ちゃぁあぁぁぁぁぁあん!」
ドヤ顔のお姉ちゃんは、べしっと私の額を叩く。そして、「お姉ちゃんに任せなさい!」と誇らしく笑った。
「お姉ちゃん、これどうしたの?」
着せられた服はサイズがピッタリで、さらに言えばちゃんと可愛い。レースがついた裾を持ち上げると
「こら、動かない」
お姉ちゃんにお腹を摘まれた。
「あぅっ」
お姉ちゃんは真剣な表情でメイク道具を私に向ける。
「目、閉じて」
暗闇になった時、柔らかい何かが頬や唇を撫でるように擽った。
「……よし。いいよ」
「……え、これだけ?」
もっと時間がかかると思っていた私は、思わず腑抜けた声を出す。お姉ちゃんは頬を引き攣らせて
「高校生が派手にメイクするとブスになんの」
と、またお腹を摘んできた。そして別の手で用意していた鞄を押しつける。
「行ってこい!」
「うん……!」
どんっと思いきり背中を押された。ドアノブを回そうと手を伸ばした時、言い忘れた台詞があることを思い出す。
「……ありがとう」
「土産話、忘れないでよね?」
「はいはい」
そう言って、ドアノブを回した。
*
腕時計を一瞥する。一応待たせては駄目だと思って早く来たのだが、それに早くも後悔しそうになっていた。
(……まぁ、遅刻しそうなヤツでもないしな)
待ち合わせ場所近くのベンチに腰をかけ、オレは気長に待つことにする。
『……ん、ロドリゲスくん』
「……ん、あ……?」
瞼を開けると、色素の薄い髪が揺れた。柔らかい何かが俺の肩を揺さぶっている。
「うぉっ?!」
「きゃあ!?」
飛び退くと、背中が固い背もたれに当たった。目の前にいるミナミダは、元から丸い目をさらに見開かせていた。
「わりぃ、寝てたか!?」
「うん。凄く気持ち良さそうだったよ」
くすくすと、ミナミダが面白そうに笑う。それは、今まで一度も見たことがないミナミダの笑顔だった。
「…………」
今まで一度も見たことがないと言えば、私服だってそうだ。レースみたいなものがついた白いワンピースで、春らしい女子の服。俺の視線に気づいたのか、ミナミダはすぐに頬を赤らめた。
「に、似合ってるな」
褒めることに馴れてなくて、多少ぎこちなさが出る。顔を伏せてしまったミナミダは、しばらくしてこう叫んだ。
「き、着替えてくる!」
「はぁ?!」
走ろうとするミナミダの腕を、なんとか加減して引き寄せる。ミナミダは足を躓かせ、何故か俺の方へと蹌踉けた。
「ひゃあぁあぁぁあぁあ?!」
「ッ?!」
何故か鳩尾に一発食らった。たいして痛くなかったことが幸いかもしれない。
「お、おい。大丈夫かよ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃ……!」
耳まで真っ赤にさせたまた俺の上に乗っかっているミナミダは、不思議と可愛いかった。
ソウカが大和撫子だとするのなら、ミナミダは小動物のような――。
「ぶっ……!」
「えぇっ?!」
そう思ったら、おかしくておかしくて仕方がなかった。笑いを堪えきれずに声に出して笑っていると、むすっとミナミダがハムスターみたいに頬を膨らませた。
*
ロドリゲスくんに何故笑われたのかがわからなくて、私はむっと頬を膨らませた。すると、私を指差して声にならないほどに彼が笑う。
べしっと怒りを持って腹部を叩くと、ロドリゲスくんは「悪かった」といつものように謝った。
「……ほんとだよ」
無意識に出てきた台詞に驚きつつも、私は彼の膝の上から下りる。
「おし、行くか!」
太陽に照らされながら立ち上がったロドリゲスくんの姿を見たら、私の中の怒りはなくなっていった。
「うん!」
鞄の中から、三峰先輩がくれたメモを取り出す。私の歩幅に合わせるように歩いてくれるロドリゲスくんの後ろを歩きながら、私は彼の背中を見つめていた。
六月中旬と言っても、昼になれば気温は上がる。梅雨時ともあってか、湿度が異常に高かった。
目的のデパートの中に入ると、中はほどよい温度で満たされている。早速案内図を見に行くロドリゲスくんは、隣に立った私に声をかけた。
「そういや、一体何を買うんだ?」
「タオルとテーピングだよ」
「じゃあ、七階から行くか」
私に案内図を見る暇も与えずに、ロドリゲスくんはエスカレーターに乗り込む。その後を慌てて追いかけて、私は数段下に乗った。
ロドリゲスくんがいる下の段まで勇気を出して上ってみると、ロドリゲスくんはわざとらしく視線を逸らす。表情は見えないけれど、耳たぶが赤みを帯びていた。
「…………」
そのまま互いに無言だったけれど、不思議と気まずさというものはなく。スポーツ用品専用フロアである七階まで無事に辿り着き、二人揃ってバスケコーナーまで歩いた。
コーナーが近づくにつれて、私は無意識に顔を隠そうとしてしまう。目を輝かせてバッシュに飛びかかるロドリゲスくんに苦笑しながら、テーピングコーナーを探していると――女の子の集団を見かけてしまった。
「ッ!?」
一気に足が竦む。良くない思考が一気に脳内を巡る。
(ど、どうしよう……)
たったそれだけのことなのに、泣きそうになる私はなんなのだろう。一歩後退すると、棚に肩が当たってしまった。
その音に、一人の女の子が反応する。その子は私を見て、「あ」と声を漏らした。
「どうしたの?」
訝しげに尋ねる二人目の女の子に、その子はそっと耳打ちをする。瞬時に振り返った女の子は、すぐに眉間にしわを寄せた。
『あれってさぁ、〝四天王〟の裏切り者の《悪魔》じゃない?』
『だよねぇ。確か、中三の全中前に辞めたって言う』
『けどさぁ、退部しただけで裏切り者って他の〝四天王〟も大袈裟だよねー』
『それ私も思ってた。あれってすっごく異常だよねぇ』
クスクスと、女の子たちは笑っていた。
「……ッ!」
足の竦みは自然となくなっていた。その代わりに生まれた感情は初めてのもので、どうしていいかわからなかった。
その間にも、彼女たちの話題は私のことではなく〝四天王〟の悪口へと移っていく。
「ぁ」
声が出ることに驚きつつも、私はこの感情を言葉できるのだと歓喜した。
「……みんなのこと、悪く言わないで!」
それは、怒りだった。一気に向けられる二人以上の視線が私を貫く。刹那、私の手首を誰かが思いきり掴んで引っ張った。
「……ッ!?」
変わったハーフの髪色は、止まることを知らずに私を連れ去る。私はずっと、彼に引っ張られたままだった。
「大丈夫か?」
自販機近くのベンチでようやく止まったロドリゲスくんは、そんなことを言った。大丈夫だよ、そう言いたいのに言葉にできない。自販機に映った私は今にも泣き出しそうだった。
それを見てしまったら最後、足が震えているのが嫌でもわかる。ロドリゲスくんは私をベンチへ座らせて、自販機でフルーツジュースを買った。そしてそれを、私に「ほら」と言って差し出した。
「え……?」
「……一人にさせて悪かった。よくわかんねぇけど、オマエ、怖かったんだろ?」
じっと、ロドリゲスくんが私を見つめる。私もロドリゲスくんを見つめていたはずなのに、気づいたらロドリゲスくんの顔がボヤけていた。
「……ありが、とう……」
受け取ったフルーツジュースは冷たかったけれど、不思議と心が温まった。頬を塗らした涙を拭こうと腕を持ち上げると、急に伸びてきた指が私の涙を拭ってくれる。……その手は、ゴツゴツしていた。
「……服、台無しになるだろーが」
顔を真っ赤にさせたロドリゲスくんがしゃがみ込んで、下から私を見上げてくる。
「えっ……あ、うん……」
なんだか急に恥ずかしくなって、顔を逸らしたくなった。けれど、ロドリゲスくんの手が私を離さなかった。
「オマエ、顔真っ赤」
ニッとロドリゲスくんが笑う。
「……ロドリゲスくんもだよ」
「はぁ?!」
言い返すと、ばっとロドリゲスくんは手を離してそのまま上げた。そして頭を膝につけ、髪を掻きながら丸まった。
「あははっ」
それがおかしくて、思わず笑ってしまう。ロドリゲスくんは不満げに私を見上げたけれど、いつもの逆だと気づいているのか何も言わなかった。
「……笑った、な」
ぼそっと、思い出したようにロドリゲスくんが呟いた。