第一部 エピローグ
様々な雑音が聞こえる中、あたしはある人物のことを待っていた。
「おっ!」
東京駅の改札口から出てくる顔見知りに向かって声を上げ、手招きをする。向こうもこっちに気がついたらしく、満面の笑みを浮かべて小走りに駆け寄ってきた。
「久しぶりだな! 凜音!」
「えぇ、そちらこそ!」
大きなキャリーバッグを持った凜音は、そのままゆっくりと振り返る。そこには、紫色の髪をした同級生が立っていた。
「紫村、あんたも来てたのか!」
言葉にならない声で返事をし、怠そうに「相変わらずトリちゃんはうるさいなぁ」と小言を言う紫村にあたしは思わず苦笑をした。
「あんたは相変わらずだなぁ」
「……でしょう?」
凜音もそれには少し手を焼いているようで、ため息をつく。こんな何気ない会話が懐かしくて懐かしくて堪らなかった。
青森にいる凜音が、そして紫村が、休みを使って東京に来た理由。それは、数日前の出来事まで遡る。
*
――スパァンッ
綺麗に入ったボールがころころと床に転がっていく。
「唯ちゃん凄い! これで五回連続だよ!」
「唯やん最近むっちゃ入るようになったなぁ〜」
「でしょでしょっ?」
唯は得意気になって笑っていた。中学時代、シュートがなかなか入らなかったのが嘘みたいだった。
「おーい、橙乃、紺野!」
すると、先輩である歩が扉口から二人のことを呼ぶ。
「はーい?」
「どうしたんですかー?」
「なんかメッセージ来てたよー!」
差し出されたスマホを見ると、確かに一件のメッセージが入っている。二人がスマホを確認していると
「練習中、スマホ、禁止」
生粋の日本人である棗が、下手な日本語で三人のことを咎めた。
「すっ、すみません!」
「ごごごごめんなさいっ!」
「いーじゃん、いーじゃん、携帯くらい」
「良くない」
「なぁなぁ、二人とも。なんてメールが来たん?」
「えぇ〜?」
好奇心故に芽衣が聞けば、二人は揃って画面に視線を落とす。そして、同時に甲高い声を上げた。
「はーっ! 休憩休憩!」
どかっと琴梨がステージに座る。
「……アンタ、最近ますます青原に似てきてない?」
「確かに、ちょっと変わったよね」
琴梨に続き、〝四天王〟と呼ばれた葉月と沙織もそこに座った。
「はっ、はぁっ?! 別にそんなことないだろ!」
「あははっ。その反応とか、ね?」
「あ、暁先輩」
唐突に現れた香に対して、三人は思わず背筋を伸ばす。香は苦笑いをして、「先輩への礼儀は似てないけどね」とお茶目につけ足した。
刹那、琴梨のスマホがメッセージを受信した。
「ん?」
鳴ったスマホは一台ではなく、葉月と沙織もポケットからスマホを出す。
「ちょっ、なんで携帯持ってきてんの?!」
柚が目を見開き、「没収だ」と叫んだ。
「別に禁止してないわよ? ねぇ、暁」
「そうですよね〜」
そう梅咲監督が言えば、香も同意して。柚は不服そうではあるが一応黙った。
「三人同時って、偶然だね」
「あ、いえ……」
「えっ? 違うの?」
「……これ、グループに送られてて」
答え、三人は視線を合わせた。
「私は泊まり込みで帰りますが、千恵はどうするのですか?」
「私は日帰りかなぁ」
常花のルーキーである二人がスマホを片手に話し込んでいる。
「それって、実家には帰らないということですか?」
「うーん、卒業するまで帰らないって決めてるし」
凜音は「そうですか」簡単に答え、スマホに視線を落とした。
「貴様ら、サボるな!」
すると、体育館に空の怒声が大きく響く。その後ろを、同じ顔をした双子の二人が顔を顰めてやって来た。
「どうして厨二はいっつもいっつもうるさいの?」
「その口さ、僕がガムテープを貼って塞ごうか?」
「ハッ! 愚民が何かサワイデルナー!」
またも喧嘩になりそうな雰囲気を、凜音が冷めた目を無言で送ってあっさりと遮る。
「三人とも、ちょうどいい所に。主将、私たち今週の休日は休ませていただきます」
「へぁ?」
ぽかんとする空に、双子の片割れである愛が見かねて口を出す。
「なんで」
「召集されたんです」
「んー……」
「んー?」
近所のファーストフード店で、灯の台詞を留学生であるエマが繰り返す。
「……エマ、そんなの繰り返さなくていい」
そしてそれを、呆れた表情で春が諭した。
「どうしたの? そんなに眉間にしわを寄せて」
「確かに。珍しいのだ」
学校帰りに仲がいい部員全員で寄ったはいいものの、ムードメーカーでもある灯がずっと黙り込んでいる。
不思議そうな部員全員の視線を集めている灯は、携帯から顔を上げてにぱっと笑った。
「あははっ、なんでもないよ〜。ごめんね、心配かけて!」
そう言ったはいいものの、頭はメッセージの内容で埋まっていた。――送り主は、接点なんてないに等しかった銀之丞蛍だった。
「どうしてそんな大勢にメールを……」
蛍がメールを送った相手は、〝東雲の幻〟と〝東雲の魔物〟――またの名を〝四天王〟だった。その中には勿論、茶野灯や〝四天王〟の裏切り者と呼ばれた少女も入っている。
「……枝松先輩には関係ありませんよ」
一瞬だけ悲しそうに微笑む蛍だったが、夏希はそれ以上部外者が追及してはいけないような気がして止めておいた。
「にゃはは〜! 夏希たん蛍たんテンション豆粒ですなぁ〜!」
そんな雰囲気を平気でぶち壊す月岡の主将楠木恋は、独自の日本語で二人に馴れ馴れしく話しかける。
「……止めてください」
心の底から嫌なのだろう。いつも以上に表情を歪める夏希を見る度に、恋は嬉しそうに笑うのだった。
「お嬢様! それ以上その悪魔に耳を傾けてはいけませんよ!」
二階にあるギャラリーから、松岡が必死になって呼びかけている。本来なら今すぐにでも飛び降りて引き剥がしたいくらいなのだろうが――できない理由が彼にはあった。
蛍は軽く松岡に微笑んで、自分は大丈夫だと言外で伝えて、練習を再開させた。
*
べりべりと、飴の包装を破る音がする。それは少年少女の会話によって特に際立つことはなかった。
「ね〜え、なんでナオまで来てるの? おかしくない?」
太陽の眩しさに対して不愉快そうに目を細めながら、洸は隣の直也に尋ねる。
「相変わらずお前はうるさいな。そんなの俺の勝手だろ?」
そんな直也の隣を歩くはずの人間は、本来なら洸ではなかった。直也は隣にいるはずだった少女へと視線を向け、その少女である琴梨は親友の凜音と話し込んでいる。それは、成清と常花へと進んだ〝四天王〟の三人も同様であった。
前を歩く五人の速度の遅さと照りつける日差しの熱さに苛立ちを覚えた直也は、洸のポシェットに入っている飴を奪って自らの口内に放り込んだ。
「あぁっ?! ちょっと、何すんのバカナオ!」
「だからうるせぇつってるだろ」
「バーカ! バーカ! バカナオ!」
「……洸、さっきから何を騒いでいるのですか」
「直也、紫村に意地悪すんな」
「はぁ?! 元はと言えばお前らが……」
「なんですか」
「何よ」
凜音と琴梨がそういうと、直也は何故か大人しくなる。洸も逆らう気にはなれず、自分よりも大きな直也の後ろに隠れて誤魔化した。
「相変わらずだね」
「……騒々しい」
「でも、懐かしい」
そんな四人を、〝四天王〟の三人は少し離れた場所で見守っていた。
*
「あ、思い出した。ここの道俺らよく通ったよね〜」
「うん。懐かしいね」
卒業してまだ数ヵ月だというのに、宗一郎とうさぎは懐かしそうに目を細める。その後ろを、ほんの少しだけ不貞腐れた唯が歩いていた。
「はいはいはいはい、懐かしいですねー」
宗一郎とうさぎの〝二人だけの世界〟に一気に嫌気が差した唯は、思いっ切り唇を尖らせる。兵庫にいる健一と遠距離恋愛をしている唯がどれほど恋人との時間が特別で貴重なものなのだと理解していても、目の前でさせると話が違った。
「唯ちゃん……。ほら、ここ、唯ちゃんと一緒に寄り道もしたよね?」
「えぇ……って、思い出した! そういえばあったね昔!」
それは中学一年生の時の出来事で、唯もようやく懐かしさに頬を綻ばせる。ただ、次は宗一郎がむすっと不貞腐れる番だった。
「宗一郎、そんな顔しないで。ね?」
「そうよ。せっかくのイケメンが台無しよ?」
「えっ、ユイユイ俺のことイケメンだと思ってたの?!」
「いや。あんたナルシストだからそう言えば元気出るかなと思って」
「すっごい余計な言葉を吐いてきたね?! いつの間にそんな毒舌キャラになったの?!」
「逆に黄田はいつバカキャラになったんだか。……まぁイケメンなのは間違いないと思うけど」
「ゆ、唯ちゃん……!」
「あっ、ちぃちゃん! 勘違いしないで、別にこんな奴狙ってないから……!」
慌てて唯が否定すると、「そんなことを言ってるんじゃないよぉ」とうさぎが耳まで赤らめる。唯は瞬時にうさぎが言いたいことを理解して、「ごめんごめん」と謝った。
そんな二人を、宗一郎はすぐ側で見守っていた。
*
彼女たちの母校である東雲中は、休日にも関わらず活気づいていた。誰よりも早くついた灯は、隠れてついてきた拓磨に向かって苦笑いを見せる。そんな中、近づいてくる影があった。
「茶野さぁーん!」
ぶんぶんと手を振り、凜音を引きずる琴梨は満面の笑みを浮かべている。一歩遅れて、他の五人も到着した。
「琴ちゃん、凜ちゃん!」
普通の少女よりも体格の良い灯は、両腕で二人のことを抱き締める。かつてのチームの主翼と両翼は、こうして笑い合っていた。
「せんぱーい!」
そうして別の方向から駆け寄ってきたのは、小さな身長の唯とうさぎだった。ばっと三人に飛びついた唯は、うさぎも巻き込んで大きく笑う。
そんな幸せそうな五人を遠巻きに見ていた〝四天王〟の三人は、少しだけ羨ましそうな笑みを浮かべた。
「遅れてすみませんっ!」
全員がいる体育館裏に、呼び出した張本人――銀之丞蛍が姿を現す。蛍は呼んでいない宗一郎、直也、洸、拓磨の顔を見て一瞬だけ驚いた。
そんな彼女に四人はらしくもなく気を利かせ、校舎の方へと歩いていく。その間に、松岡がこの場に姿を現した。
葉月、沙織、千恵の三人は松岡の顔を見て微かに微笑むが、松岡はその視線に耐えられずに視線を逸らす。蛍は一通り辺りを見回して、口を開いた。
「今日皆様に集まっていただいたのには、わけがあります。それは……」
「待ってください、お嬢様」
遮る松岡に対して蛍は反論しようとするが、彼は一歩も譲らなかった。
「〝俺〟にけじめをつけさせてください」
蛍は一瞬瞳を揺らせ、やがてゆっくりと頷いた。
松岡は、自分が一体何をしてきたのかを余すことなく話し出した。極力、その時自分がどう思っていたのかは言わなかった。だから多分、松岡の感情が一切入らないその話は狂気に満ちていただろう。それでも、蛍に呼び出されて集まった八人は口を挟まずに黙って聞いていた。
「……本当に申し訳ありませんでした」
松岡が最後にとった行動は、土下座だった。蛍はそれに驚き、慌てて自分も膝を曲げる。その直前に彼女の腕を引いたのは、〝四天王〟の三人だった。
「……止めてよ、蛍」
「そうだよ、主将」
「蛍ちゃんが謝る必要はないんだから。ね?」
「でも……っ!」
蛍は目に涙を溜めながら、三人に掴まれた両腕を離そうとする。一方、松岡を囲んだのは灯以外の〝東雲の幻〟たちだった。
「頭を上げてください、松岡さん」
凜音は、父親が残した手紙のことを思い出していた。それでも頭を上げない松岡の腕を引っ張ったのは、梅咲舞との出逢いを思い出していた琴梨だった。
唯は父親を、うさぎはいじめを、灯は別々の道を歩んだと知った日の涙を思い出していた。
「……なんであたしたちなんだ?」
琴梨の呟きを、松岡は聞き返すように目で問うた。
「なんであたしたちだけに謝るんだよ!」
琴梨の叫びは、校舎にいた直也にも聞こえていた。
「そ、それは……!」
「察してあげてください、琴梨」
蛍の台詞を遮って、眉間にしわを寄せた凜音は続ける。
「これから先、彼は私たち以外の何人の人間に謝れば許されるんですか? どれほどの人間に謝ったら彼の気が済むんですか? ……そんなの、きりがない。未来永劫終わらない赦しを誰に乞えと言うのです? それに、このことが公になれば銀之丞の名に傷がつきます。そうやって出てきた失業者の数の方が圧倒的に多いのは明白でしょう?」
名家出身の凜音は、それを良くわかっていた。琴梨は黙り、唯とうさぎは関西からわざわざ上京してきた芽衣に対してどのように説明したらいいのかわからずに困惑していた。
「よくご存知ですね、凜音様。けれどこれは、許されることではありません」
「……でも、私、こうなって良かったって思ってます」
うさぎは、彼女たちの前で初めて声を出した。その台詞に驚いていたのは、松岡と蛍のみだった。
「私、女バスを辞めて写真部に入ってなかったら、〝宗一郎に出逢えてません〟」
「確かにね。私も、〝健一と一度も話さずに卒業してたのかもしれないし〟」
「私に茶道部に入るように言ったのは、松岡さんなんですよね? 〝私と洸は、そこで出逢いました〟」
「……確かに、あのままバスケを続けてたらあたしも〝直也のことを好きにはならなかったかも〟」
松岡と蛍は、驚愕の表情のまま顔を見合わせる。二人の中では、ここで全員から忌み嫌われるはずだったのだ。
「じゃあ、結果オーライですね〜!」
場の雰囲気をそのまま包み込むように、灯はそう言ってすべてを纏める。そのおかげとあってか、始まりと同じようにみんな笑い合えていた。
二人は涙を流しながら、その場に崩れ落ちてしまった。
*
『なん、で……』
消え入るようなその声は、今から約十年前に松岡自身から発せられた。男バスのレギュラーに抜擢された彼の初めての試合の日に、松岡一真の人生を切り裂く悲劇は起こっていた。
交通事故で死んだ家族の墓石を見てもなお、未だにその事実を受け止め切れない松岡は力なくその場に崩れ落ちる。
その時、彼の視界に一瞬だけ幼女が映った。妙に惹きつけられるその姿に、松岡は思わず顔を上げる。美しいと言うに価する銀色の髪を持つ幼女は、半べそをかきながら両親と思われる男女の後を追っていた。
追いついては置いていかれ、追いついては置いていかれの繰り返し。幾度となく引き離されたその距離は、修復できそうに見えなかった。幼女はそれでも、健気に両親の後を追おうと横断歩道を渡り始める。……信号は、赤だった。
『……ッ!』
咄嗟に松岡は走りだし、幼女の後を追う。刹那、〝右脇腹〟に激痛が走った。
松岡を轢いたトラックが止まることはなく、後には松岡の腕の中で不思議そうに自身を見つめる幼女――銀之丞蛍だけが残っていた。
『君、大丈夫かね』
娘が轢かれかけ、彼女を守り轢かれた当時高校生の松岡を見ても、無機質に男性はそう語りかけた。
この後、蛍の父親は身寄りのない松岡を執事として雇い、松岡は蛍を見て手を握った。もう二度と、彼女が誰からも置いていかれないように――。
蛍は夕焼けを見ながら松岡と共に帰路につく。許されたかったわけではないのに、最終的には笑って済まされ、こうして二人で歩いていた。
《偶然と必然は紙一重である》
地球上に生命が誕生したのと同じように、破壊がかけがえのない未来に繋がる。蛍は松岡を見上げ、手を握った。もう二度と、彼が広大な世界で迷わないように――。
*
《東雲中女バスOG(10)》
《お久しぶりです。突然のメッセージ失礼致します》
《今週末に東雲中の校庭に来てください。皆様にとても大切なことを話したいんです》
(……皆様?)
そう思って、グループに招待されたメンバー表を好奇心で押してしまった。私が入っていること。その人数。それだけで明らかだったのに。
《橙乃唯、紺野うさぎ、水樹琴梨、藍沢凜音、茶野灯――》
「ッ?!」
私は慌ててスマホの画面を消した。ただでさえ蛍ちゃんからのメッセージで心が揺らいでいるというのに。
《――東藤葉月、北浜沙織、西宮千恵――》
……そこにあった名前は、かつての仲間たちの名前だった。
「…………」
〝裏切り者〟。そう呼ばれていた私は見なかったことにして廊下を歩く。
「奈々? 何かあったの?」
すれ違った奏歌ちゃんに「なんでもない」と答えて誤魔化した。それが、どんな未来に繋がるかも知らないで――。