第四話 真実と秘密に踊る
「黒崎さん、一緒に帰りませんか?」
部活後、猫宮君がそう言って話しかけてきた。いつものようにみんなを癒すような笑みを浮かべ、あの時と同じようなことを言う。
「うん、いいよ」
「ありがとうございます!」
私と猫宮君は地元も一緒。多分、同じ方向に行くのは私たちだけだった。
「なんだ、オマエらもう帰るのか」
「うん。またね、ジュン」
「さようなら、ロドリゲスくん」
「おう」
校門を出て、二人で同じ帰路を歩いた。夕日が互いの頬を照らして、少しだけ白くなる。中学の時と変わらない他愛もない会話で私たちは盛り上がっていた。
「猫宮君、見て! 影絵!」
アスファルトの上に猫を作る。
「うわぁ! 上手ですね、黒崎さん!」
「本当? ありがとう!」
猫宮君は、私の影絵を見様見真似で作って寄せた。
「どうですか?」
「あ、可愛い」
猫宮君の影絵が私の影絵に重なる。猫宮君よりも小さい手を持つ私は猫宮君の猫に消されてしまって、私はゆっくりと猫宮君を見上げた。
「見てください。僕の猫が君の猫を食べてしまったみたいです」
「えぇっ?!」
クスクスと笑う猫宮君は、悪戯っ子のような部分もあるのか。あんまり聞かない言い方に驚いてしまう。
「……あ、猫宮君」
「……あ。少し寄りますか?」
「うん」
ここまで歩いてきた私と猫宮君が寄り道した場所。それは、あの時の公園だった。
「懐かしいね。ここに座って話をして……」
「はい。僕の思い出の場所なんです」
「……私もそう思ってるよ」
ブランコに座ってみると簡単に足がつく。試しに漕いでみるけれど、大きくなった今となっては至難の技だった。
「二年前、だもんね」
「はい。あ、そういえば……覚えていますか?」
思い出したように猫宮君が問うてくる。
「え? 何を?」
「二年前、僕が黒崎さんにあげた飴です」
そうして脳裏にちっぽけなものが浮かび上がった。
「あぁ、覚えてるよ。それがどうかしたの?」
「あの時、黒崎さんはイチゴ味が欲しいと言いましたよね?」
「うん。それで、猫宮君はイチゴ味を……」
「違います」
そう断言した猫宮君は、まったく笑っていなかった。真顔で私に横顔を向け、手先を弄る。
「え?」
「あの時黒崎さんにあげたのは、イチゴ味じゃなくってブドウ味なんです」
「えっ!?」
「……すみません、騙すつもりはなかったんです。ただ、あの時に黒崎さんが隠し事をしているんだなって確信しました」
俯いた猫宮君は縮こまって、私に謝った。私よりもほんの少しだけ背が高い猫宮君だけど、今は私よりも小さく見える。
「そう、だったんだ」
「怒らないのですか?」
「ううん、いいの。いつかバレてしまうと思っていたから」
「優しいんですね、黒崎さん」
「優しくないよ」
「僕にとってはすっごく優しい人です」
「……ありがとう、猫宮君」
「どうしてお礼なんか言うんですか?」
驚いた猫宮君は困ったように私に詰め寄った。どうしても私に罰してほしいのか、あの時の出来事のせいで自己嫌悪をしているらしい。
「猫宮君が私のことを優しいって言ってくれたから。そんなことを言われたのは初めてだったし、すっごく嬉しかったから」
「えぇっ?! 黒崎さんは優しいですよ! なんで初めてなんですか?!」
「ずっとアメリカにいたからかもね」
「だから初めて……じゃあ僕、黒崎さんの初めてになれて嬉しいです! そう思うことにします!」
でも、猫宮君はいつだって最後に笑顔を浮かべられる人だった。
*
「よう」
振り返ると、ジュンが片手を上げて私の肩に手を置いた。
「おはよう、ジュン。そういうの日本ではやめた方がいいよ」
「あ、ワリ。でもコレ、ハーフだからって言って大体許されるんだよなぁ」
「便利だねぇ。私はそういうのなかったけど」
「ソウカは元から日本人って感じだったもんな」
それは、幼少期を日本で過ごしていたからかもしれない。私は頷き、ジュンの手を肩から下ろした。
「なぁ。昨日のことなんだけどよ、聞いていいか?」
「聞くって何? 普通に聞けばいいのに」
「いや……あの目標、コミヤに出逢ってなかったら思いもしなかったってどういうことだと思ってさ」
「え?」
顔を上げると、ジュンが珍しく真面目な表情をしていた。
「答えてくれ」
「……あれね、中学の頃猫宮君が私に言ってくれたことなの」
「コミヤが?」
「『マネージャー同士も、チームメイトのみんなとも、僕たちは全員仲間として黒崎さんの側にいます』って。猫宮君らしいでしょ?」
私は今でも覚えている。猫宮君との間にあった出来事は、どれも忘れられなくて――忘れたくもない出来事たちばかりだ。
「へぇ。だからあんな目標になったのか」
「うん。マネージャーとして、選手を全力でサポートするからね」
「おう。よろしくな、ソウカ」
「うんっ!」
思わず、猫宮君のような返事をしてしまった。彼に似てきたのかと思って、ジュンが驚いた顔をするのを前にして照れ笑う。
「オマエ、会わない間にマジで変わったな」
「……そうみたい。自覚はあるんだよね」
「ふぅ〜ん」
ジュンは興味深そうに私を見下ろしていたけれど、チャイムに合わせてつま先を動かす。
「じゃ、また放課後な!」
「またね」
手を振り、自分の教室へと戻る。私のクラスメイトは奥村くんだけで、ジュンは猫宮君と一緒。昔の友達ばかりと話していられないことに私は気づき、隣の子に声をかけてホームルームが始まるのを待った。
*
手を振るソウカに、オレは手を振り返す。数年前まで弱音を吐きまくっていたソウカは、もうどこにもいなかった。
昔に比べて笑顔が多くなった。明るくなった。自分の意見を言えるようになった。
「……仲間として側にいる、か」
「ん? ロドリゲスくん、何か言いましたか?」
「うわっ、コミヤ?! オマエなぁ、チビなんだからもっとでけぇ動作してから話しかけろよ! びっくりするだろ!」
「うわぁあっ?! ごっ、ごめんなさい! 次からは気をつけます!」
縮こまって謝るコミヤが、あのソウカにそう言った。オレは盛大にため息を吐き、数年前のアメリカを思い出す。
あの時、オレたちは仲間としてソウカの側にいることができなかった。
『ソウカ! 1on1しよーぜ!』
『うん、わかった』
『よっしゃ! 決まりな!』
オレはドリブルを始める。ソウカはじっとオレの手元を見つめていた。
『あっ』
一瞬の隙をついて抜き去る。ソウカはただただ驚いた顔を俺に見せ、次に歯を見せて笑った。
『ジュンっ! もう一回! もう一回っ!』
ピョコピョコと飛んで必死に頼み込んでくるソウカは、小動物のようだった。オレはあの時のソウカがバスケに興味を持ってくれたことが嬉しくて、『いいぜ!』と答える。
何年、何十年経とうと、オレたちはココでバスケを続ける。そういう確信がオレにはあった。だが――
『…………』
『…………』
『あれ? 今日はバスケしないの?』
『…………あれだよ』
オレは顎でアレを差す。ソウカはアレへと視線を移し、ぽかんと口を開けてボールを落とした。
『Pass it!』
『OK!』
『あれは……』
『見ての通りだよ』
アニキがソウカに淡々と答えた。
『見ての通りって? 何があったの?』
『……ここのコート、買い占められたんだって』
アニキはフェンスに手をかけて、それを握り締める。それは簡単にぐにゃりと歪められ、アニキの手の形になった。
『……え?』
『つーことだよ。クソッ、ムカつくぜ!』
『ジュン、ソウカ。行こう、今から新しいコートを探すんだ』
『私、帰るね』
オレはアニキに従う気だったが、ソウカはそれを断った。意味がわからない。このままでいいわけがない。
『はぁっ?! おい、このまま黙って引き下がるのかよ!』
『……だって、仕方ないもん』
そう言ったソウカはぽろぽろと泣いていた。服の裾を握り締め、そのまま去っていこうとする。
『大丈夫だ! また別の場所探そうぜっ!』
オレはソウカを引き止めた。苛立ちは、目の前のソウカを見た瞬間に消え去っていた。
『そうだよ。もしくは、エマがいるクラブとか……』
『嫌! 他の場所もクラブも、私には無理!』
『どうしてだよ』
『だって、私……』
ソウカは自分の手を目元に持っていく。それだけでオレはソウカの言いたいことがわかったが、納得は全然できなかった。
『……もう、いい』
『ソウカ! 明日もこの場所で……!』
後ろ姿が寂しそうだったのを、オレは鮮明に覚えていた。この日から、オレとあいつは会わなくなってしまった。
明日もこの場所で。オレたちは約束を守る為にあの場所へと行こうとした。だが、その日父親と母親が大喧嘩して母親が大怪我を負ってしまったのだ。その母親につき添って病院に行くしかなかったオレたちは、明日こそ行くつもりだった。だが、もうソウカは来なかった。
住所を知らなかったから、どうすることもできなかった。込み上げてきた感情をどうすればいいのかもわからずに、オレとアニキは両親の離婚によって離れ離れになってしまった。
母親に引き取られたオレは日本に行かなければならなくなって――二年後、オレとソウカは日本で再会した。
*
黒崎さんに初めて出逢った場所は、二年前の東雲中学校だった。中学二年生の春にアメリカから転校してきた、珍しい少女。そういう意味で彼女はクラスから浮いていた。
『黒崎奏歌です。アメリカから戻ってきました。よろしくお願いいたします』
丁寧な日本語でそう言った彼女は頭を下げる。第一印象は大和撫子みたいな人。艶のある黒髪を耳にかけて、黒崎さんは僕の前――最前列の教卓前にある席についた。
二年生になって初めての授業は、国語。さまざまな色のチョークが使われているから僕は好きだ。転校してきた黒崎さんの席は、黒板が一番見やすい席だったはずなのに――
『あの、ノートを見せてくれませんか?』
『えっ?』
『来る前の授業内容を確認したいんです』
『あ、あぁ! そうですよね! いいですよっ!』
僕は、黒崎さんは真面目な人なんだと思った。けれど、一瞬見えた黒崎さんのノートは今日の板書の一部が書かれていなかった。
……その一部は、全部緑色で黒板に書かれていた。
『ありがとうございます』
硬い笑みを浮かべている黒崎さんを見ていると、先ほどの疑問はどこかへと消え去ってしまう。
その日から、本当に色々あった。
赤星くんが黒崎さんにペンをあげた時、最初は喜んでいたけれど色違いだと知った途端に表情を強張らせた。
黄田くんにジャケットの色は何色がいいかと聞かれた時、黒崎さんの態度は冷たかった。
緑川くんがゼッケンを二種類持ってきた時、黒崎さんはそれを色違いだと知らずに試合中のメンバーの見分け方ができていなかった。
紫村くんがたくさんの飴玉をみんなに配っている時、黒崎さんは全部同じだと言って適当に選んでいた。……それはまるで、色の違いで味が違うことを知らないかのようだった。
――全ての共通点は、〝色〟だった。
前に似たような症状を紹介した本を読んだことがある。僕はあの日、イチゴ味だと言いながらブドウ味の飴を渡した。彼女はそれを躊躇なく食べた。それは、僕の疑問が確信に変わるきっかけだったと思う。だからあの時、あの公園で、思い切って彼女に尋ねた。
色々あって、黒崎さんとは仲良くなれた。初対面の頃に比べたら随分と打ち解けてくれて、浮いているなんてことももうなかった。
良かったな、なんて思う。けれど、僕は黒崎さんにとって仲の良い友達の一人として認識されただけだった。そのまま、僕たちは東雲中学校を卒業した。進学先が同じだということを、なんとなく伏せて。