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モノクロ*カラフル  作者: 朝日菜
Still…
39/88

第五話 物語の男女

 あの日から一体何日が過ぎ去ったのだろう。もう、それさえも私にはわからなかった。狂ってしまった時間は、もう元には戻らなかった。


(……詩弦しづるさん)


 心の中でしか言い慣れていない呼び名を何度呼んでも、月森つきもり先輩が私の目の前に現れてくれることはなくて。今はただ、足音だけが鳴っていた。


(……あれ?)


 どうしてだろう。普段よりも足音が大きい。一歩一歩、すべてを蹴散らすように踏むその音は――明らかに松岡まつおかのそれではない。


(……誰?)


 ぞっとした。どれほど助けてほしいと願っても、得体の知れない〝何か〟にではない。けれど、生まれて初めてこの家で聞く私や松岡以外の足音は――何故かとても頼もしくもあった。

 ぴたっと、足音がこの部屋の前で止まる。ノックなんてしてくれるほどこの訪問者の心に余裕なんてものはなく――いつも無情に閉まる扉がゆっくりと開く音がした。


「……ッ!」


 それでも何故か部屋は暗く、考えてようやく目隠しをされていたことに気づく。そんな感触さえ麻痺してしまうほど、私は長い間この部屋に監禁されていた。そう思った。


「……おい。そこにいるのか?」


「ッ?!」


 じゃらっ。そんな鎖の音がする。自分の全身が喜びで震えていることに気がついた。

 鎖はそんな私の反応に呼応するように音を立て続ける。長く喋らなかった私の喉は掠れ果てて、声さえ出なかった。


 ようやく目が慣れたのか、〝詩弦さん〟が小さな小さな声を漏らしてため息を吐いた。


「いるなら返事くらいしてもらわらないと困るんだよ。それくらい犬だってできるだろう?」


 棘があるような台詞に聞こえても、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ混じった安堵が私の体を包み込む。詩弦さんの手であろう温もりが、頬にそっと触れてくれた。


「……あり、がと……う、ござい……ます……」


 なのに、私の掠れた声を聞いた詩弦さんは「はぁ?」と軽く笑って手を離す。


「えっ……?」


 それだけで急に不安になってしまった。私は幻聴を聞くほどになってしまったのか、そう思って戸惑う。それほど詩弦さんに会いたかったのか、それほど狂ってしまったのか――とてつもなく寂しくなって、私は思わず体を丸めた。





「えっ……?」


 手を離すと、急に不安混じりの声になる。目隠しの効果なのかは知らないが、少しだけ面白いと感じてしまった。


(……それにしても、なんだコレ。悪趣味だな)


 扉を開ければ、案の定そこに銀之丞蛍ぎんのじょうほたるがいた。よくよく目を凝らして見ると、両手両足を鎖に繋がれベットに拘束されている。おまけに目隠しと来たものだから、松岡の趣味を根本から疑った。

 きょろきょろと、見えもしないくせに首を回すことに何か意味があるのだろうか。銀色の長髪がその度に揺れ、ベットの上で擦れている。こんな状況は今まで一度も見たことがない。しようと思ったこともない。だが、せっかく滅多にお目にかかれない状況をあえて壊すような真似はしたくなかった。だから俺は、目隠しを外さなかった。……いっそのこと、銀之丞蛍自身を壊してしまおうか。


 胸に沸き上がってくるこの感情の正体。これが独占欲から来る〝愛〟だと言うのなら、松岡に壊される前に壊したい――。


 ますます松岡に対する気に入らない要因が増えたところで、俺にはなんの問題もなかった。瞬間、みしっと床が不自然に軋む音がした。


「ッ!?」


 本能的に真横に飛び退く。刹那、右頬を何かが掠めていった。金属と金属がぶつかる音がして、銀之丞蛍の短い悲鳴が聞こえてくる。


「きゃっ……!」


「くそっ……!」


 振り返ると、予想通りそこには松岡がいた。手には投剣が握られていて、俺の右頬を掠めたのはそれなのだと理解する。


「チッ」


 執事にしては行儀の悪い舌打ちをして、松岡は俺のことをきつく睨んだ。視線で人が殺せるのなら、俺はとっくのとうに死んでいた。


 ――ヒュン


 と、唐突に投げられた最後の一本も俺は避ける。偶然か必然か、それもまた銀之丞蛍を縛る鎖に当たってベットに落ちた。


「ッ! っぅ……!」


「お前……」


 ……どういうつもりだ?


 あれほどまでに怯えたような声を出す〝お嬢様〟がそこにいるのに、松岡は一切気にかけることもなく俺を殺すことに専念している。

 そのままヤツは何も持っていない手を一瞥し、腰を落とした。格闘技で来るというのなら、俺に勝ち目はないだろう。さっきのものは持ち前の反射神経で避ければ済んだ話なのだから。


「右脇腹……」


「……は?」


「……右脇腹です、詩弦さん!」


「ッ!」


 死なないで。目隠しの隙間から涙が零れ、そんなことを言外に込めたような叫びが俺の全身を動かしてきた。

 信じる信じないの前に松岡が飛びかかってくる。俺は咄嗟にヤツの右脇腹に拳を入れた。


「ぐっ……っあぁ?!」


 予想以上に痛みに悶絶する松岡は、右脇腹を抑えて両膝をつく。そんなヤツを、俺は無言で見下ろしていた。


「くははっ」


 松岡が床に倒れる姿を見て、妙な爽快感を得る。次に、まだ足に鎖がついている銀之丞蛍――いや、《死神》に目を向けて「外道」とだけ言ってやった。


「……詩弦さんには言われたくはないです」


 むすっと、不服そうに反論される。


「……というか、さっきから〝詩弦さん〟ってなんなんだ? 勝手に下の名前で呼ばれるのは不愉快だよ」


 聞く度に吐き気がして、けれど指摘する前に松岡に邪魔されて言うに言えなかった。


「……ッ! え、えっと……! それは……!」


 しどろもどろに、そう呼ぶようになった経緯を説明する。俺は苛立ちを抑え、銀之丞蛍の目隠しを無理矢理引きちぎった。


「するなら、さんづけは止めてもらわないとな」


「えっ……?!」


 銀之丞蛍の真っ赤な瞳が見開かれる。耳まで真っ赤にさせて、銀之丞蛍はすぐに視線を俺から逸らした。


「何勝手に逸らしてるんだ?」


 俺は少し強引に、自分の唇を押しつけた。そうして、俺のモノだと蛍の体に刻みつけようとした。





「んん……!」


 初めてのキスは、予想以上に強引で激しかった。「……もう」と、唇が離された時に思わず呟く。それは、子供に対して言う「しょうがないな」と一緒だった。

 このキスに、一体どんな意味があるのだろう。物語の中の男女のキスには、いつだってそこに〝愛〟があった。だから多分、彼にも私に対する〝愛〟があるはずだ。例えそれが、とてつもなく歪んでいたとしても。私の中のそれが、とてつもなく歪んでいたとしても。


「詩弦先輩、私は詩弦先輩のことを愛しています」


 まだ意識はあるであろう松岡にも聞こえるように、私は告げる。右脇腹にある〝古傷〟は今でも癒えていないようで、罪悪感は拭えなかったけれど――松岡が止まってくれて本当に良かった。ここで終わることができて本当に良かった。


「あぁ、俺も愛しているよ」


 俯き、そう私に告げてくれる詩弦先輩。ベットの上で自分の背中を少し丸め、次に言う台詞を少しだけ視線で迷わせて。


「……なんて言うと思ったかい?」


 口角を上げ、にっと笑う詩弦に私は微笑みを返す。その微笑みさえも消すように、詩弦先輩がまた唇を重ねてきた。

 言葉なんてなくっても、行為でわかる。ちくりと首筋が痛みを訴えたけれど、それさえも愛おしいと思うほどに私は詩弦先輩のことを求めていた。詩弦先輩のことを追い求め続けた果てに、彼に触れられて本当に良かった。


「はい、思っていません」


 答え、詩弦先輩の呆れ顔を頬を緩ませながら眺め続ける。

 詩弦先輩は私の視線に耐えられず、私の両手足を拘束している鎖を持ち上げて「鍵は」と尋ねた。


「……あ、それは多分松岡が……」


 言うと詩弦先輩は顔を歪め、倒れている松岡の方へと渋々歩いていく。そのまま松岡に声をかけるということはなく、彼の執事服のポケットを漁って鍵を取り出した。


「蛍」


「わっ……!」


 投げられた鍵を顔で受け止め、私はその鍵をじっと見つめる。


「これ、この家の鍵です」


「じゃあこれか」


「わっ……!」


「あとこれも」


 ぽんぽんと容易く投げられる鍵は見事に私に命中し、その命中率はさすが男バスの主将だと思う。私はそこまでできる気がしない。


「これは金庫の鍵で、これは車の鍵で……」


「なんだそれ。持ち歩きすぎだろう」


「……鍵を持ち歩かないと不安になっちゃうみたいです」


「……あぁ、なるほどな」


 詩弦先輩は何故か納得したように頷いた。最後の鍵を投げることはなく、わざわざ持ってきて拘束具に挿入する。それは、狙っていたのかと思うほどにぴったりだった。


「あ」


 じゃらじゃらと取れる、私の鎖。ようやく自由の身になった私の体。

 詩弦先輩は無言で私の頭を撫で、「生きているのか」と最後に尋ねた。


「ふふふっ、何を言っているんですか? ……生きているじゃないですか」


 そうだと思う。だから彼と手を繋ぐ。大丈夫、まだ温かい。

 閉められたカーテンはまだこの部屋を薄暗くさせる。その薄暗さにもっとと詩弦先輩を求めてしまう。


 さらさらと詩弦先輩が私の長い髪を梳いた。その行為に意味なんてものはきっとなかっただろうけど、大事にしてくれていることだけわかればそれでいい。そうやって、私と詩弦先輩はずっと続いていくんだと思った。





 右脇腹が酷く痛む。十年ほど前だっただろうか、ここを怪我してしまったのは。

 意識はあったものの、俺は何もする気にはなれずに倒れたままでその場を過ごす。月森にお嬢様が「愛しています」と言ったことも、月森がお嬢様に「愛しているよ」と言ったことも、はっきりと聞こえていた。


(……もう、俺ではないのだろうか)


 お嬢様の隣に立つべき人間は、月森あいつなのだろうか。


『かずま、ずっといっしょだよ?』


 事故で両親と妹を亡くし、独りとなった俺が旦那様たちの使用人として働くようになったきっかけをくれたのがお嬢様だった。別に欲しいなんて一言も言ってないのに、俺に〝家族〟をくれたのはお嬢様だった。そんな時に、そう言ってくれたのもお嬢様だった。


 時は、俺が思っている以上に流れていた。俺だけが、十年も前からずっと時を止めていた。


 子供のまま、ずっとずっと、こんなところまで来てしまった。変わることもできないまま、お嬢様の側でずっとずっと生きていた。それ以外の世界を忘れ去って生きていた。


(なら…………変わるのは、今……なのか……?)


 とっくのとうに枯れていたと思っていた自分の涙は、案外簡単に流れていった。

 認められない。認めることができない。それでも、お嬢様をすべてとして生きてきた自分の世界が崩れ落ちる音がする。長い間縛っていた鎖が消えていくような喪失感がある。


 ……認められない。認めることができない。それでも、世界は俺に変わることを強要して去っていった。嫌でも俺自身の何かが変わっていった。崩れ落ちた。消えていった。空っぽになっていった。


 渇いたような笑みを浮かべ、手元の絨毯を握り締める。右脇腹の痛みが体中を巡って、俺の命を削って、罰していた。それでいいのだとなんとなく思った。




「お嬢様……」


 俺は、お嬢様の背中に小さく声をかける。その声が去っていくお嬢様に聞こえるわけもなく、俺は黙って深々と頭を下げた。

 昨日の今日だと言うのに学校に行くと言い出したお嬢様は、何故か妙に頑固だった。俺のせいだということは充分に自覚していることで、自身の意見を貫くお嬢様に強く口出しすることもできずに今に至る。


「隣でなくても……せめて、見守らせてください」


 俺にとっては、今でも貴方だけがすべてですから。そんな俺のすべてが変わる日は、いつか来るのだろうか。

 お嬢様のすべてがいつの間にか月森に変わっていたように、俺のすべてが、いつか、いつの間にか、何かに変わっていくのだろうか。


 俺のことを旦那様に報告しなかったお嬢様の真意がわからない。俺を赦し、生かそうとしているのか。俺を罰し、もう二度と歯向かうなんて真似をさせることなく縛りつけようとしているのか――。お嬢様の気持ちは、いつだってわからなかった。それでいいのだと理解した。最初から理解なんてできなかった。


 退学を急いで取り消した俺の元から離れ、お嬢様は前へ前へと進んでいく。

 彼女に依存していた。それをもう止める為に、俺は彼女に背中を向けて――たった一人で家に帰った。





「あっ!」


 昨日会ったというのに、懐かしく感じるその背中に私は声をかけた。


「詩弦先輩っ!」


 詩弦先輩は、少し鬱陶しそうに振り返った。


「……なんでここに来てるだ? お前は」


 それは、とてつもなく不可解そうな声色だった。


「詩弦先輩に早く会いたくて、来ちゃいました」


「昨日まで監禁されていたとは思えないな」


 若干ドン引きしているような気がする詩弦先輩は、自分のポケットに手を入れて背中を丸める。


「そうですか?」


 やっぱり、私もある意味では壊れているのかもしれない。自嘲気味に笑ったら、訝しげに先輩に見下ろされた。


「……まぁ、松岡には止められたんですけどね」


 あんなことをされても、私はまだ松岡を嫌いにはなれなかった。私にとっての松岡は、〝育ての親〟でもあり〝頼れる兄〟なのだ。そんな彼を手放すことなんて絶対にできない。

 私は多分、松岡に依存している。松岡も多分、私に依存している。そんな関係だったから。


「チッ」


「えっ?」


 ぐいっとネクタイを引っ張られ、詩弦先輩の顔が近づいた。唇が触れるか触れないかのところで寸止めされ、少しだけ期待をして、損をした。


「今度俺の前で松岡あいつの話をしたら焼き殺す」


 名前を呼ぶことさえ嫌そうに顔を歪める詩弦先輩に、私は思わず頷いてみせる。そして人目を一切気にすることなく、自ら唇を彼の唇に押しつけた。


 こんな行為になんの意味があるのだろう。物語の愛し合う男女がしているから、詩弦先輩がそうして私の所有権を主張したから、私も詩弦先輩を自分の所有物だと主張するだけだと理解してキスをする。

 すると、詩弦先輩に唇を甘噛みされた。生意気なんだよ、多分そんなことを囁かれた。


「…………」


 瞬間、やっぱり詩弦先輩が好きなんだと自覚する。

 私が嫌悪していたことを平気でやれる凄い人。その姿が堂々としていて格好良かったこと。松岡の口封じが及ばない位置から私に色んな感情をぶつけてきた人。その松岡に真っ向から歯向かった姿が格好良かったこと。


 もう、詩弦先輩じゃないと考えられないくらい私は詩弦先輩に毒されていた。詩弦先輩は、多分そんな《死神》の私が気に入っているんだと思う。詩弦先輩が心から好きだと言ってくれたことはないけれど、いつか言わせる為ならば私はどんな罵声を浴びても生きていける。

 もう、一人じゃない。いや、元から一人じゃない。


 私は松岡の願いを聞いて私を一人にしてくれなかったみんなを想う。そして、そんな彼女たちに代わる詩弦先輩に引っついた。


「……おい、引っつくな」


「うふふっ。嫌ですよ、先輩」


 だって私は、先輩の所有物だから。


 ――貴方に出逢えて、本当に良かった。

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