第四話 狂人
「ん……」
目を開け視界に入ったのは、自室にあるなんにも変わらない天井だった。倒れたと思っていたのは気のせいだったのかな――私はそう思って視線を回す。瞬時に飛び込んできたのは、鎖だった。
「……え?」
じゃら、と音がした。鎖の行く先を辿れば私の両手首に繋がっている。
「嘘、なんで……?!」
反対側はベットにくくりつけられていた。当然、私の力ではびくともしなかった。
「……あぁ、起きましたか。お嬢様」
「ッ!?」
繋がれているせいで、この位置からはよく見えなかった。けれど、それは私がよく知っている声だった。
「……ま、まつ……おか?」
「はい、そうですよ」
薄暗がりの中から姿を現したのは、やっぱり松岡だった。
「ど、どういうこと? 私、倒れたんじゃ……」
「えぇ、倒れましたよ」
「ね、ねぇ、どうして鎖に繋がれて……?」
松岡は数秒首を傾げ、仕方ないなぁ、とでも言いたげに私を見下ろす。
「お嬢様にわかりやすいよう、順を追って説明しますよ」
そう言って松岡は話し出した。
「お嬢様は確かに倒れて気絶しました。すぐに病院に運ばれたのですが、自宅療養として家に帰されたんですよ。お嬢様の体調が優れないことには薄々勘づいてはいましたが、これは私の判断ミスですね。申し訳ございません」
松岡が謝るようなことじゃない。なのに私はそう言えなかった。口を縫いつけられたように言葉を話すことができなかった。
「お嬢様、私はこう思ったんです」
そして、ついに松岡は私の質問に答えた。
「〝お嬢様を外の世界に出したのがいけなかったのだ〟、と。〝あの男――月森詩弦の側にいたのがいけなかった〟のだ、と。〝バスケをやらせたのがいけなかった〟のだ、と。――なら、答えは一つじゃないですか」
そのたった一つの答えが私にはわからなかった。
「お嬢様をこの家に閉じ込めておけばいいんですよ。そうすれば〝俺〟だけを見てくれますし、月森にも会わなくて済みますし。……ねぇ、お嬢様も名案だと思いません?」
それでも、笑顔で彼はそう言った。
「バスケもしなくて済みますし――何より、ふふふっ。潰す手間も省けますしね?」
「ッ?!」
刹那、全身に電流のような衝撃が走った。潰す手間も、省ける――?
「それって……まさか……!」
声が震え、目頭が熱くなった。私の脳裏に浮かんだのは、橙色の髪を持つ唯さんだった。
「えぇ、そのまさかですよ」
「……ッ!」
じゃら。ぴんと鎖が真っ直ぐに伸びる。これ以上前に進めないまま、私は松岡に顎を優しく掴まれた。
「……そうですねぇ。もうお嬢様は外には出ませんし、教えてさしあげます」
刹那、松岡は心の底から楽しそうに笑った。
「――たった一つの、真実をね?」
皮肉にも、その言葉は彼の名前を体現していた。
『橙乃誠吾さんですね?』
会社から帰宅していた橙乃唯の父親、橙乃誠吾に松岡は話しかける。誠吾は何一つ疑うことなく、松岡の話を親身になって聞いていた。
――その温厚な人柄が仇となることを知らずに。
見事に松岡の罠にかかった誠吾は、詐欺の首謀者として捕まった。これまた皮肉にも、その娘の通り名と同じように。
『あ、ねぇねぇ。橙乃が休んでるそうだけど、どうしたのかわかる?』
『あ……。唯ちゃんのお父さんが……その、警察に捕まったらしくて……』
『……そう、なんだ。それで休んでいるだ』
『……う、うん』
『話してくれてありがと、紺野。じゃあまたね』
東雲中学校の廊下で話をしている二人を、影から松岡が撮影する。二人がいなくなったのを見て、松岡は紺野うさぎのロッカーから取り出したバッシュを引き裂いた。
――机上に大きく《隠者》と書き残して。
数枚の写真と引き裂かれたバッシュ。翌朝の紺野の表情を思い浮かべて、松岡はにたりと化け物じみた笑顔を浮かべた。
『……なんの用なの、一真』
松岡の高校時代の同級生、梅咲舞が眉を顰める。
『久々に会った同級生に言う台詞がそれかよ』
松岡は、鞄からとあるCDを取り出して弄んだ。
『ちょっ! やめなさい!』
職業柄見て見ぬ振りができなかった梅咲は、松岡からCDを引ったくる。
『聞いてみろよ、それ』
『……はぁ?』
松岡はそれだけ言い残して去っていった。
――それが水樹琴梨のデビューのきっかけだった。
水樹の鞄から抜き取り、芸能事務所に勤務する同級生に売りつける。ただそれだけだった。
『……あぁ、君が銀之丞の愛娘さんの!』
そう言って出迎えたのは、藍沢凜音の父親、藍沢金蔵だった。名家である藍沢家と有名企業の社長をしている銀之丞家との間には深い親交があり、あっさりと中へ入ることを許される。
『ところで金蔵さん、お嬢様がバスケをしていると小耳に挟んだのですが……大丈夫なのでしょうか』
『大丈夫とは?』
『ですから……』
松岡は語った。経験者として、バスケの危険性についてありありと。
――子を想う親は操りやすい。
松岡はその時そう学んだのだった。そして、一瞬だけ藍沢凜音と自身のお嬢様を重ねて見た。
松岡はこれで、女バスが潰れると思っていた。潰れれば、お嬢様が――蛍がバスケをすることはないと思っていた。
バスケなんて反吐が出る。もう二度と見たくもない。存在自体日本から消えればいいのに。滅べばいいのに。なのに自分がバスケをする姿を見てバスケがしたいと言い出した蛍に何も言えなかった。そんな蛍の為に松岡は独りで頑張った。
けれど、実際そう上手くはいかなかった。絶望から這い上がった〝チームの光〟こと、橙乃唯が茶野灯の〝意志〟を受け継いでいたからだった。
――なら、それさえも利用しよう。
『〝約束〟をしてください。この先、何があってもお嬢様と共にいてくださることを。お嬢様と、共にバスケをしてくださることを』
適当に勧誘して揃ってしまった四人の少女に、松岡はそうやって訴えた。素人上等――〝勝たせる自信〟はある。そうして見せつけてやりたかった。
お嬢様に近づいたら痛い目に会う、と。これで、松岡が思い描く〝死の罠〟と――それを生み出す《死神》と、それに従う〝四天王〟が完成した。
「予想以上に簡単だったんで驚きましたよ。ほんの少し道具に細工したりするだけでしたから。……ただ、橙乃唯だけが本当に邪魔でしたねぇ」
艶のある声で松岡は最後の台詞を吐き捨てた。
私の心臓は、突き刺されたように痛んでいた。
「松岡……なんてことを……」
けれど私は、松岡を完全に咎めることができなかった。
(……私も、同罪だ。松岡だけ責められない)
頬を撫でる涙を松岡が舐める。抵抗なんてしても無駄だと、私は早くも理解してしまっていた。
(このまま、外に出ない方がいいのかもしれない)
繋がれたまま果てることが、みんなの安全の為でもあり罪滅ぼしなのかもしれない。私はきっと、そうやって死ぬべきなのだ。
「――お嬢様、愛しています」
「……ッ!」
ぞくっと自分の体が震えた。それは、狂気に満ちた告白だった。
(……嘘。やっぱり、そんなの嫌だ……!)
我が儘だと瞬時に思った。松岡以外、誰が本当の意味で私の存在を認めてくれるだろうか。
(……つきもり、せんぱい……)
月森先輩とは、似ているようで根本が違う。けれど確かに通じるものが少しでもあった。
先輩のガラじゃないことくらいわかっている。けれど思わずにはいられない。
(……助けてください)
ガラじゃないことくらいわかってる、何度も何度も自分にそう言い聞かせた。
「……あ、わかっているとは思いますが、高校には退学届けを出す予定なのでそのつもりで」
「えっ……?」
「当然でしょう? なんの為にここに繋いでいると思っているんですか。……では、俺はこれで失礼します」
無情に閉まる扉を、私は見ていることしかできなかった。じわりと、シーツに涙が滲んでいった。
月森先輩との唯一と言ってもいい接点が、今にも切れようとしていた。
(……もう、月森先輩って呼べないんだ。じゃあ、なんて呼べばいいの?)
多分もう二度と呼ばないであろうその名前を、私は繰り返し心の中で呼んでいた。
*
《死神》――銀之丞蛍は今日も学校には来なかった。たまに、あのまま死んだんじゃないかと思う時がある。正直、それを肯定したくはなかった。
「……そこで一体、何をしているんだ?」
放課後、部活に行く前に何気なく入った教室に枝松がいた。紙切れを修復している。らしくねぇことを、と思う。
「……なんでもいいだろ。月森には関係ないんだから」
よく見ると、それは銀之丞蛍の入部届けだった。おおよそ、握り潰して後悔でもしたんだろう。
俺はこれ以上この場にいる気にはなれず、教室を出た。部活に行く気にもなれなかった。
ぶらぶらと校内を歩いていると、いつの間にか職員室の前に来た。面倒なことになるような予感がして、回れ右――をする前にあの男が視界に入った。
(……面倒なこと、か)
ちょうど職員室から出てきた松岡は、俺を見るなり憎悪の視線を投げて寄越した。そして何故か俺に近づいてきた。
『貴様のせいでお嬢様は……! もう、二度と近づくな』
冷酷な声だったのを覚えている。
『あぁそれと、操り師なんかが《死神》に釣り合うとでも思ったのか? 分不相応なんだよ、バァカ』
それらは、救急車に乗り込む直前に松岡から言われた台詞だった。急にフラッシュバックした出来事に、俺は思わず顔を顰める。松岡はそんな俺を見てニヤッと笑った。
「前に言ったこと、あまり気にすんなよ?」
「はぁ……? この俺が気にするわけないだろう」
互いに素で話すというのも、気味の悪いものだ。松岡は「ならいいけどな」と吐き捨てて、言葉を続ける。
「一応言っといてやるよ。退学するんだ、俺のお嬢様」
「ッ!?」
生きているのか、瞬時にそう思った。退学なんて二の次で、そんな自分に笑えてくる。
「そうか。可哀想だなぁ、入学した直後だったというのに」
退学ということは、良くはならなかったのか。そう思っていると、松岡は多分無意識に――どす黒く笑った。
「…………」
俺はそんな表情に見覚えがあった。そして、すぐに部活に行くことをやめた。
スマホを取り出し、銀之丞蛍の家の会社を検索する。そこからネットのスレに移動して、自宅を割り出し、その方向へ行く電車に乗った。
自宅にいるとは思っていないし、見舞いに行くというわけでもない。松岡と話した時、何かが俺の中で引っ掛かっていた。
例えば知り合いが倒れたとして、普通の人間ならばどうする。
例えば大事なお嬢様が倒れたとして、松岡ならばどうする。
普通、あれほどまでに大事にしていたお嬢様が倒れてどす黒く笑えるのだろうか。枝松のように、そして俺のように、何かしら心境の変化があってもおかしくはないと思う。ただ、本当に笑えるのだとしたら――それはこの俺でさえ理解できない正真正銘の狂人、サイコパスだ。
「……馬鹿みたいに大きいな」
自宅を見てそう思った。ネットで見た話だが、ここには銀之丞蛍と松岡しか住んでいないらしい。両親やその他の使用人は、会社に近い別荘で暮らしているのだとか。
ご丁寧にインターホンを押そうとして、止めた。嫌な予感がして目を凝らすと、一室だけカーテンがしまっていて中の様子がまったく見えない。
なんとなく門を押すと、簡単に開いてしまった。広大な西洋風の中庭を突き進みドアを押すと、また簡単に開いてしまった。
「……不用心過ぎるのか、誘っているのか、本気で殺す気でいるのか」
さぁ、どれだ。松岡ならどれを選ぶ。そう思っている自分にも狂った一面があるのだと、俺は知っていた。
だが、考えたところで答えが出ないのも明白だった。開いているなら入ってしまえ。中でぶっ殺されても、防犯カメラのせいで警察に突きつけられても――どんな未来を想像しても、俺の足はまったく止まらなかった。
一歩ずつ、足を使って前へと歩く。人間とは不思議なもので、一歩踏み出すと後は躊躇いもなく突き進んでいった。
もちろん、行く場所は閉じられたカーテンの部屋のみ。その部屋の中に一体何が、そして誰が待っているのかはわからない。何もないのかもしれない。俺はただ不法侵入しているだけかもしれない。それでも止める気さえ起きなかったのは、ただ俺が狂っているからか――それとも、ただ会いたいと思っているからだろうか。