第三話 心
結局あの後、あいつらが屋上に戻ってくることはなかった。たいした会話もしないくせに俺たちはずっと屋上にいたが、別に居心地が悪いわけではない。それは、《死神》が《死神》だったからだろうか。
月岡高校男子バスケットボール部は、ラフプレーが多い。それは認める。だが、東雲中学女子バスケットボール部と同じように証拠がないおかげで無罪放免とされ続けている部活だった。
《死神》は、そんな俺たちのことを知っていて月岡高校を選んだのだろうか。枝松が所属する女バスにラフプレーの噂は一切ないが、校内で浮きまくった者たちが集まるイカれたような部活だ。そんな歪な俺たちを選ぶ《死神》の神経がよくわからなかった。
「あ」
「あ……?」
下駄箱で会いたくないヤツに会った俺は、眉間に思い切りしわを寄せる。自分の素を曝け出せる唯一の女子、枝松夏希――そういえば、枝松には最初から素を出していたような気がする。
「お前、今帰りか」
「見ればわかるだろう? 馬鹿じゃないんだから」
「……そうだな」
枝松は俺を追い越して、自身の下駄箱を無言で開けた。そして何故か、正門を出てからも枝松は俺の斜め後ろを歩いていた。
「ついて来るな。ウザったい」
「ここは夏希の通学路だ。文句あるのか」
「大ありだ、焼き殺すぞ」
「……ッ」
すると、枝松が感情的に俺の足を蹴る。よろけると、オレンジ色のアスファルトが視界に入った。
倒れそうになる体を立て直し、苛立たしげに振り返る。枝松はむすっとした不細工な顔で俺を睨んでいた。枝松にどう仕返しをしようかと思ったが、馬鹿馬鹿しくなってすぐに止めた。
「……え?」
「勝手に暴行して勝手にビビるか? 普通。お前相当イカれてるなぁ」
「なっ?!」
再び歩き出すと、なかなか開かないことで有名な踏み切りに辿り着く。枝松は俺の隣に立っていた。
「……お前、変わったな」
「はぁ……?」
「少しだけだ! 少しだけ!」
「…………」
枝松が早口でそう言った。俺は興味なさそうに相槌を打った。電車の音が遠くから聞こえてきた。
「…………《死神》のせいか?」
「どうしてそうなる。ヤツには会ったばかりだぞ?」
枝松は黙った。タイミング良く俺たちの目の前を電車が通り去っていった。
『……なんなんだよ』
雑音に混じって、そんな声が聞こえてきた。電車は遠くに行ってしまったが、まだ来るらしく踏み切りは開かない。
「お前は《死神》のことを……どう思う」
……どう思う? 刹那、また電車が通り過ぎ――生暖かい風が吹いていった。
俺は、《死神》のことを。名前も知らない《死神》のことを――少なくとも〝イイコ〟だとは思わなかった。〝類は友を呼ぶ〟、その通りではないかとは思う。……ただ、多分それらは枝松が求めている答えではなかった。
雑音に眉を顰めながら思考を幾度も巡らせていると、枝松が少しだけ動いた。
『…………夏希は、お前が好きだ』
聞こえていないと思っているらしいが、生憎俺は地獄耳だ。が、聞かなかったことにした。
電車がまた通り過ぎ、ようやく踏み切りがのろのろと開く。そういう意味で改めて《死神》のことを思い浮かべると――昼間の出来事が鮮明に蘇ってきた。
*
私は自室で写真を眺める。アルバムになりそうなほどの量のそれは、全部松岡が撮ってくれたものだった。
それを愛おしそうに眺めていると、ノック音が聞こえてきた。
「はーい?」
『お嬢様、お風呂の用意ができました』
扉の向こう側から聞こえてきた松岡の声に、顔が見えない分私は努めて明るく受け答えをする。写真を大事に仕舞おうとして、数枚の写真を床に落としてしまった。
「……あ」
拾い上げると、一枚目は中学時代にスタメン全員で撮った写真だった。二枚目は〝東雲の幻〟と呼ばれた五人の写真。三枚目はたまたま見に行った一学年上に所属する〝月森先輩の試合〟の写真であることがわかった。
「…………」
どれもこれも、私の人生に深く関わった出来事を写真と化した思い出のもの。三枚とも、切なくて淡い日々の記憶の断片たち。共に戦い、共に戦いたいと願い、憧れていた。
「……やっぱり、月森先輩は格好いいです」
ラフプレーをしている、月森先輩はそう答えた。だったらどうして罪悪感を持たないんだろう。それが不思議でならなかった。
人々は月森先輩のことを忌み嫌うだろうけれど、私の目に映った月森先輩はちょっとだけ違った。
あの日、試合で見た月森先輩は――清々しいほどに堂々としていて、その姿勢に私は格好いいと思い憧れたのだった。
私は写真を机の中に仕舞い、部屋から出る。シャワーが溢れた涙を洗い流した。一気に込み上がってくる感情は、ぐちゃぐちゃしていて気持ちが悪かった。
桜が葉桜になる頃――最後に月森先輩と会って、半月になる頃。私は入部届けを手に校内を歩いていた。
「……あ」
ちらっと、廊下の隅で月森先輩を見かける。けれど月森先輩は私には目もくれずに奥へと消えていった。
(また話せなかった……)
気のせいかもしれないけれど、私はあの日から避けられていた。何がいけなかったのだろう、そう考えても答えなんて出るはずもなくて夜更かしをした。
伸ばそうとした手を握り締め、私はため息をつく。その手は何故か、酷く汚れて見えた。
私は首を思い切り振り、また歩き出す。目指していた体育館には、案外早く着けた。
*
「……またお前か」
夏希は思わず眉間にしわを寄せてしまった。《死神》は好きじゃない。というか嫌い。
「……はい」
幾度となく突き返した入部届けを持って、《死神》は夏希の目を見つめてくる。……その目も、嫌いだった。
「私の入部を認めてください」
別に夏希の許可がなくても入部はできる。けれど、この女は何を考えているのか「部員全員が認めないと入部しない」の一点張りだった。
(なら、絶対に認めてやるもんか)
夏希は無視を決め込んでボールを回す。《死神》は真っ直ぐな目で今でも夏希を見つめていた。
(……ウザい)
月森はどうして、あそこまで《死神》を意識するんだろう。夏希は月森がわざと《死神》を避けていることを知っている。だから尚更腹立たしかった。
適当に放ったボールは見事にリングをくぐり抜け、すぐに落ちる。夏希は《死神》のことをこれでもかというほどに睨んだ。
「ッ!?」
「お前は月森のこと、どう思ってる」
返答次第では認めてやってもいい、なんて甘いことを考える。それほどまでに、夏希にとってその質問は重大だった。
(……それほど、お前と違って好きなんだ)
自覚した時は、自分が恋をしているだなんて信じられなかった。けれど、それと同じくらい胸の鼓動が愛しかった。
「月森先輩ですか?」
一瞬、何を言われたのかわからずに目をまばたかせた《死神》は、そう聞き返す。夏希は苛立ちを抑えつつ頷いた。
「……格好いいと思います」
夏希は死神の頬が朱色に染まるのを見逃さなかった。瞳だって、先ほどとは比べ物にならないほどに輝いている。
「私、月森先輩とどうしてもお話がしたくて月岡高校に入学したんです。月森先輩は、私の憧れですから……」
そう言った《死神》の中の月森は、随分と美化されていて眩しかった。
確かに夏希は月森が好きだが、決して美化しているわけではない。夏希が好きなのは、ありのままの月森なのだ。勝った、瞬時に夏希はそう思った。
「要するに好きなのか?」
けれど、これを知りもしないままライバル視をするのは時間の無駄。夏希は確かめて――《死神》のことを試してみたいと思った。
*
「要するに好きなのか?」
枝松先輩が覚悟を決めた瞳で問うた。先輩の言葉はいつも唐突で、どうしても反応が遅れてしまう。
「え……」
言葉の意味を理解したのに、私は何故か答えられなかった。
(好き? 私が…………月森先輩を?)
まさか、そう思いつつも月森先輩との思い出が鮮やかに蘇ってくる。病室暮らしのあの頃にはまったく感じなかった感情の波が押し寄せてきた。
けれど、私に誰かを好きになる資格があるのだろうか。本意ではないとはいえ、一体どれほどの人たちの人生を狂わせてきたのだろうか。もし仮に、私に好きな人ができたのだとしたら――その人は、どんな人なのだろうか。
「……さっさと答えろ」
枝松先輩は苛立ちを隠さなかった。私にそんな感情を包み隠さずにぶつけてくれた人は、今までいただろうか。いや、いなかった。
「好きです」
私は枝松先輩の返事を聞かずに飛び出していった。入部届けは、手元にはなかった。
私は銀之丞家の社長令嬢として、安全な人生を約束されていた。そして誰よりも病弱で、誰よりも大事にされていた。誰も彼もが優しくて、仲間でさえそうで。唯一嫌な思いをしたのは試合だけで、後は全部松岡が口封じをしてくれていたのを私は知っていた。
(けど……先輩たちは……)
隠さなかった。己の全てを。〝私〟を見てくれていた。
誰かが私を見る時は、いつも私ではない何かを見ているようで怖かった。……だから、ただただ嬉しかったのだ。優しくされなくても、それだけで嬉しかったのだ。
「――月森先輩!」
人気のない廊下で叫ぶ。月森先輩は目を見開いて振り返った。
「……お前……」
息を切らす私を不可解そうに一瞥して、月森先輩はまた歩き出す。
(まって……いかないで……)
息を吸い込む。頭がクラクラした。
一歩前へ進む。床の感触がしない。
瞬間に鈍い音がした。なのに全然痛くなくて、伸ばしかけた手はやっぱり汚れていた。それだけしか覚えていない。
*
「――月森先輩!」
聞き覚えのある声に驚いた。大声が出せるなんて思ってもおらず、意外に思って振り返った。
「……お前……」
唸るような声が出る。見れば《死神》は息を切らしていて、まともに喋れるはずもないと判断した俺は再び歩き出した。その足を止めたのは、鈍い大きな音だった。
「ッ!?」
振り返り、すぐに視界に入ったのは床に倒れてしまった《死神》だった。微かに俺の方へと伸ばしている手は、何故か血で汚れている。どう見ても転んで怪我をしたレベルではなかった。
「……何、してる」
音からして頭から倒れたのは間違いない。抱き上げると意識がないことがすぐにわかった。
顔面も真っ白で、近づいみて初めてわかるが酷いくまが見てとれる。唇の端から赤い糸が流れていて、吐血したのだと理解した。
「クソッ、何俺の目の前でぶっ倒れてんだお前ぇ……!」
何故ここまで必死になるのだろう。だがすぐに理解する。人の不幸は蜜の味でも、命に関わるようなことだけは耐えられない。このままあっさりと《死神》に死なれたら、自分に深い傷を残す。それがわかっていたから必死になるしかなかったのだ。
味わったことのない胸の痛みに、俺は舌打ちを繰り返す。こんなことをしても《死神》は助からない。さっさと救急車を呼んで自分の手からこいつを手放そう。
「お嬢様ッ!」
刹那、近くの窓が甲高い音を立てて割れて崩れた。見ると松岡が外側から鍵を外し、無理矢理中に侵入して来る様が映る。
ここは三階のはずなのに、松岡はそんなことを考えさせないような身軽さでそこに降り立った。だが、切羽詰まったような表情で《死神》を俺から引き剥がす様はどこにでもいるただの人間で――〝俺自身〟だった。
「汚らわしい手で触るな! 離れろ!」
初めて会った時よりもさらに殺気だった雰囲気に押され、俺は目の前の出来事が現実なのだと思い知る。《死神》の命の危機なのだと知る。
「お嬢様! 今救急車をお呼びしました! だから――ですから……! 目を覚ましてください! 死なないでください……!」
松岡の絶叫は、無関係の生徒を多数引き寄せていた。その中には枝松もいて、紙切れを握り潰しながら怯えた表情で《死神》を見下ろす。
……俺は多分、そんな表情はしなかった。目の前で命が消えるところなんてものは見たくはなかったが、多分、怒っていた方が正しかった。
俺よりも枝松の方が人間らしく、枝松にあった心をほんの少しでも理解したいと思い、それでもお互いに無力なんだと思い知らされた痛い感情が俺の心臓に刻み込まれる。《死神》を前にすると、いつもそんな痛みを味わう羽目になる。
《死神》が救急車で運ばれていったのは、その数分後のことだった。当然の如く松岡が同行し、当然の如く俺は拒否された。最後に吐き捨てられた台詞には、苛立ちしか覚えないほどに一方的な暴言だった。