第一話 死神
逸る気持ちを胸に秘め、私は足早に歩いていく。本当は走りたいのに、病弱な体はそれを一切許さなかった。
(早く、早く……あの場所へ……!)
ずっと、ずっと、この時を待っていたから――。
目を開ければ、変わりようのない白い天井が視界に入る。私は小さくため息をついて、視線を動かした。季節は、冬だった。
生まれた時から病弱だった私は、幾度となく入退院を繰り返していた。小学校六年生の今、こんな人生がつまらなくてつまらなくて誰かに助けを求めてしまう。けれど、誰も救いの手を差し出してくれなかった。そうすることができなかった。
『お嬢様、起きていらっしゃったのですね!』
ただ、この瞬間だけは違った。
『松岡……』
松岡は私の執事で、病室に縛りつけられている私の面倒をよく見てくれている良い人だ。
『ねぇ、私……暇なの』
そう言えば
『そう言うと思っていました』
松岡は、柔らかく笑うのだった。
『松岡、それは……?』
『あぁ、DVDですよ。私が高校時代の時のもので申し訳ないのですが……』
『なんの?』
『それは見てからのお楽しみです』
人差し指を口元に当て、悪戯っぽく片目を瞑る。松岡はそのままDVDを挿入して、再生した。
『……ッ!』
《続きまして、スターティングメンバーの紹介です。十一番 松岡一真――》
『あぁっ?! すみません、お嬢様! 間違えました!』
慌てて停止ボタンを押そうとする松岡に、私の方が慌てて声を上げる。
『待って!』
『……え?』
『これ……これが見たい……!』
呆然と私を見下ろす松岡は、渋々と手からリモコンを離す。テレビに映ったのは、高校時代の松岡がやっていたバスケットボールの試合だった。
『松岡……!』
『はい?』
『私、中学生になったら――バスケ部に入りたい!』
『お嬢様……』
あの時、松岡は――どんな顔をしていたんだっけ?
校内を歩き回ってどれほど経ったのだろう。半年前に松岡に無理を言って女バスに入部したはいいものの、私はなかなか退院できずにいた。
『モチベーションを上げるの。バスケをやる為なら、リハビリも辛くないもの』
それに半年もかかるとは思わなかったなぁ……。
頭を抱えていると、目の間に体育館が姿を現した。予想以上に頑丈な扉を開けると、探し回っていた少女がそこに立っていた。
「……誰?」
「あ、ここにいたんですね! あ、あの私、幽霊部員の……」
久しぶりに松岡以外の人と話をしたから、緊張してしまう。少女――橙乃唯さんは、勢いよく駆け寄ってきて私のことを抱き締めた。
「えっ? えっ!?」
「ありがとう……。来てくれて、ありがとう……!」
何故かその肩は震えていた。女バスの顧問の小塚先生から他の三人は退部したと聞いていたから、そのせいかもしれない。
「これからよろしく!」
「お待たせしてすみません……。よろしくね!」
これが、今の私に言える精一杯の挨拶だった。
*
半年後、季節は巡って春になった。唯さんや松岡に教わって人並みにバスケはできるようになったけれど、人数の問題で試合はずっとできないまま。
新入部員、たくさん来るといいな。私は、勧誘のポスターを掲示板に貼ってそう思った。
「アタシ、バレー部辞めようかな」
「えっ? いきなりどうしたの?」
「なんかつまんないなぁって思って」
「……辞めてどうするのよ」
「ん〜……、ほとんどのスポーツはもうやったからなぁ」
近くで声がして振り返ると、そこでは三人の少女が話をしていた。綺麗な黒髪をした三人は、私や唯さんよりも背が高い。
「あ、あの……!」
その時私は、一か八かの賭けに出た。
体育館に入ると、唯さんが部活の準備を一人でしていた。その小さな背中に向かって声をかけると
「……え?」
唯さんはぽかんと口を開けた。私は少し得意気になって、後ろの三人のことを紹介する。
「入部してくれることになったの!」
すると、唯さんは自身の頬を抓ったり叩いたりしてこれが夢であると確信したそうにしていた。
「唯さん、夢じゃないよ?!」
「まっ、マジかぁ!」
唯さんは「私だって連れて来るんだから!」と息巻いて、すぐに体育館から出ていった。
「準備は放置なの?」
「……橙乃さんって賑やかだね」
「ちょっと意外かもなぁ」
「え、えーっと……」
置いていかれた私は、戸惑いつつも準備を教えようと奮闘する。
東藤葉月さん。北浜沙織さん、西宮千恵さん。女バレだった三人は私にとって希望の塊で、だけど上手くできなくて、凹んで。途中で駆けつけてきた松岡がほとんどやってくれて、なんだか申し訳なくて落ち込む。
準備が終わると、唯さんが見事に部員を連れて来てくれた。
後にこの三人とその子が〝四天王〟と呼ばれることになるなんて、この時は誰も思わなかっただろう。
「お嬢様、帰りましょうか」
「あっ、うん」
部活が終わり二年生で雑談していると、松岡が私に話しかけてきた。
「またね、みんな。入部してくれてありがとう!」
「まだ届け出出してない」
「あっ」
今日勧誘したばかりなのを忘れていた。過ごした時間を忘れるほど、随分と前から知り合っていたようか感覚がする。
私は不思議に思いながらも、松岡をこれ以上待たせたくなくてみんなと別れた。
「お嬢様、頑張りましたね」
二人きりになると疲れがどっと溢れてくる。松岡の言う通り、私、今日、すっごく頑張ったのかな。
「あ、ありがとう……。けど、どうして紺野さんと水樹さんと藍沢さんは辞めちゃったんだろう」
この三人とも一緒にバスケがしたかった、そう思うのはきっと私の我が儘だろう。
「…………さぁ、何故でしょうね」
松岡はそれだけを言って、車のドアをゆっくりと開けた。
*
季節は五月になり、日が長くなった。アタシは初心者ながらも持ち前の反射神経でなんとか上手くやれている。
「二人とも、ちょっといい?」
今年東雲の監督になった竹藤監督が主将である橙乃さんと副主将である銀之丞さんを呼ぶのを横目に、アタシは無言でシュートを入れた。
――スパァンッ
いい音で落ちたボールを拾い、遊び心でそれを回す。他の二年生である三人が拍手をしてくれたことをいいことに、アタシは得意気に笑った。
「ナイスシュートです、東藤さん!」
アタシを勧誘した銀之丞さんの執事が話しかけてくる。好青年でバスケ経験のある松岡さんにそう言われると、照れくさくて仕方がなかった。
「……あ、ありがとうございます」
「あ、照れてる」
「違う!」
「嘘は良くないって」
「そうですよ〜」
同じ二年で同時期に入部したアタシたちは、元からというのもあるけれどさらに仲が良くなった気がする。バスケも楽しいし、最近はいいことだらけでアタシはとても幸せだった。
「あの、皆様」
松岡さんが、急に真面目な表情でアタシたち一人一人の表情を見回す。改まったようなその表情に、アタシたちは何事かと少し身構えた。
「皆様に、折り入ってお話があります」
「……話、ですか?」
松岡さんがちらりと主人である銀之丞さんに目をやった。それだけでアタシたちはなんとなくだが察してしまった。
「私の主人――お嬢様は、昔からお身体が丈夫ではありませんでした。そのせいで幾度となく入退院を繰り返し、体力も全然ない人へと成長してしまいました」
「ッ!」
人よりも細身な子だとは思っていたけれど、入院していたなんて知らなかった。どうりで見慣れない顔だと思ったわけだとアタシは思い直す。
「説明は省略いたしますが、ある日お嬢様はバスケに興味をお持ちになり、ご存知の通り今では夢中になっております」
アタシたちは、誰からともなく銀之丞さんに視線を向ける。瞳に映る銀之丞さんは、真剣な表情で橙乃さんと竹藤監督の話を聞いていた。
「お話というのは、〝お願い〟なのです」
「……お願い、ですか?」
戸惑うような声がした。正直、アタシだってそのお願いの意味がわからなかった。
「〝約束〟をしてください。この先、何があってもお嬢様と共にいてくださることを。お嬢様と、共にバスケをしてくださることを」
松岡さんの思いは、真っ直ぐにアタシたち四人の心を揺さぶる。少なくともアタシは、銀之丞さんに同情とまではいかなくても放っておけないと思っていた。
「勿論」
アタシはそう言って拳を前に出す。アタシに続いてみんなも拳を前に出した。
「――約束だ」
そして、拳をぶつけ合った。
その時は誰も思いもしなかった。その約束が、アタシたちを《四天王》と呼ばせるきっかけになったことを。その約束が、アタシたちの暗黙の契りになることを。その約束が、あの子を――南田奈々を裏切り者にさせたことを。
その時、松岡さんがほくそ笑んでいたことを――。
*
車に揺られて小一時間。車は、月岡高校付近の道路に止まった。
「本当にここまででよろしいのですか? お嬢様」
「うん。……ねぇ、松岡」
「はい?」
私は後部座席から、運転席の松岡に声をかける。中学とは正反対の黒いブレザーに身を包まれた私は、深呼吸をして彼に言った。
「私ね、松岡がいてくれたからここまで来られたんだと思う」
「ッ!」
高校生になるまで、いろんなことがこの身にあった。病室にいる私を励まして支えてくれたもの、両親ではなく松岡だった。
「今まで、本当にありがとう。これからもよろしくね、松岡」
しばらく返事はなかった。私は扉を開け、外へと足を出す。アスファルトを踏み車から出た瞬間
「……私こそ、お嬢様には感謝してもし尽くせません」
松岡は鼻を啜って、顔を逸らした。
「……ッ!」
松岡が私の前で泣いたのは、多分今日が初めてだった。今まで見れなかった松岡の一面が見れた私は、自然と頬を緩ませる。
「……私、松岡のこと大好きだよ!」
扉を閉めて歩き出した。今日からの学校生活に、松岡はいない。当然仲間も知り合いもいない。私は一人ぼっちでこれから生きる。
(それでも私は、まだバスケが好きなんだ)
誰に何を言われても、信念だけは曲げたくなかった。桜だけが、私の覚悟を知っていた。
*
「つ〜き〜も〜り〜」
甘ったるい声を出しながら、玉木が俺に話しかける。
「……なんの用だ。用もないのに話しかけたら焼くぞ」
正門付近にはそれほど人がいない。だから俺は素で答えた。
「お前知ってる? 今年の新入生ヤバいんだってさ」
ケラケラと、何が可笑しいのか玉木は笑う。
「……そうみたいだな」
と、珍しく河野が相槌を打った。こいつらが揃いも揃って「ヤバい」と言うということは、その内容は間違いなくバスケ関連のことだろう。
今年の月岡に有名な選手が入って来ないのは主将としてわかっていることで、だとしたら俺には関係のないことだとすぐに解釈した。
「中身のない話題だな。後で焼くから覚悟してろよ」
俺は校舎へと足を向ける。そんな俺の背中に玉木が再び声をかけた。
「知りたくね〜の?」
「興味ない。くどいぞ」
「まぁ、ヤバいのは女バスの方だしな」
ほら見ろ、と俺は口には出さずともそう思った。玉木と河野を置いて先に行けば、後ろからしつこく玉木が声をかける。
「――《死神》」
「ッ?!」
「それでも興味ねぇの?」
振り返ると、玉木がニヤニヤと笑っていた。
「……………………いいや」
ごくりと自分の喉が鳴った。女バスのことでも、バスケをしていれば自ずと耳に入る噂。実際俺は、興味本意でその試合を見たことがある。
「面白いことになっているじゃないか」
その時、桜吹雪と共に一人の新入生が正門からやって来た。
「……まさに噂をすれば、だな」
河野はいつも通り興味のなさそうな目で新入生を観察する。玉木は手を翳して、新たな笑顔をその顔に貼りつけた。
「……そうだね」
女は正門を通り、月岡高校の敷地に入る。俺たちの後ろにある校舎を眺めながら、ほんの少しだけ《死神》は笑った。
(笑った……?)
微笑んだ、の方が表現としては近いだろうか。それでも俺は、視界に入る光景に目を疑った。刹那、春風が吹き俺たちの髪を無遠慮に撫で――女のスカートを乱暴に捲った。
「……お、白パン」
玉木の言う通り、通り名には似合わない色の下着が見えた。俺は眉を顰め、違和感を払拭するように首を左右に振る。すると、女が慌ててスカートを押さえた時――目が合った。
「あっ……!」
「…………は?」
女は俺の方へと歩を進め、何故か目の前で立ち止まる。こいつとは初対面だ。俺は猫を被って対応した。
「どうしたんだい?」
河野は目を逸らし、玉木は口元を覆ってわざとらしくむせる。後でどうやって焼こうかと考えていると
「月森先輩ですよね?! 雑誌で紹介されていた!」
妙に明るい声で《死神》が言った。
「……あぁ、そうだけど?」
俺は何故か妙に反応を遅らせて答える。《死神》は何が嬉しいのか、笑みを絶やさなかった。
「やっぱり……! あ、あの、わた……」
「お嬢様ー!」
顔を上げれば、正門から妙な格好をした男が駆け寄って来る。今日はやけに妙なことばかり起こるな。そう思っていると、急に身体がぞくりと反応した。
「ッ?!」
「ま、松岡?!」
「お嬢様ー! 車内に鞄を忘れていますよー!」
「えっ?! ……あっ!」
ご丁寧に差し出されたスクールバックを《死神》は受け取り、執事服の男に礼を言う。松岡という名の男は、〝完璧すぎる笑顔〟で《死神》に答えた。
「……ッ!」
俺は、この時違和感の意味を予想した。それが正解かはわからないが、そうでないとおかしい。
「……その方は、月森詩弦さんですか?」
執事の方も俺を知っているらしく、《死神》の一歩前に出た。
ぞくり。
「月岡高校だったのですね」
ぞくり。
「見ての通り、私のお嬢様もこれからこの学校で学ぶ身なんですよ」
ぞくり。
「これからよろしくお願いいたしますね?」
執事のその顔で、予想が確信に変わっていった。
大事なお嬢様の前に立っているからか、素を出してこない松岡は〝似ている〟。玉木と河野もそれに気づいたらしく、二人は思いっ切り顔を引き攣らせていた。