第二話 東雲の女バス
「…………」
自分の目の前に広がっている光景は幻だとでも言いたげに、幼馴染みの拓ちゃんが目を見開く。同時に、家からその妹の真子ちゃんが出てきた。
「いってきま〜……あれ、お兄ちゃん? あっ、灯お姉さんだ! 新しい制服着てるー!」
少し痛んだランドセルを背負い、真子ちゃんは私に駆け寄ってくる。そして、羨ましそうに私を見上げた。
「いーなぁ! いーなぁ!」
「こら、真子! やめろ!」
慌てて自宅の門から出てきて、真子ちゃんを私から引き離す拓ちゃん。
「え〜? 別にいいのに〜」
なんだかおばさんっぽい台詞が出てきて、内心傷ついた。
「あっ! 灯お姉さん、あの時のリボンしてるんだ!?」
「リボン……?」
なんだそれはとでも言いたげな拓ちゃんに、私は見せつけるように後ろを向く。長い髪を、決勝戦の時に貰った白いリボンで結んでいた。
「……はぁ? なんだそれは」
「えっ?!」
「お前にそんな趣味があったのか? 知らなかったな」
「お兄ちゃん? 何言ってるの?」
恐る恐る振り返ると、眉を顰めた拓ちゃんがそこに立っていた。
(あの反応は……覚えてない、のかな)
悲しかったけれど表情には出さず、不満そうな真子ちゃんに向き直る。そして屈んだ。
「早くしないと遅刻だよ〜?」
「あっ、そうだった! またね、灯お姉さん!」
ぱたぱたと走っていく真子ちゃんを見届け、私は自転車に跨る。
「拓ちゃんも。じゃあ、またね〜」
振り返らず、真子ちゃんとは反対方向に向かってペダルを踏んだ。
*
「……やっぱ、桜咲いたなぁ」
貝夏高校に植えられている桜を見上げて、呟く。入学式に満開を迎えた桜は、やっぱりとってもきれいだった。
(……本当は、拓ちゃんと見たかったなぁ)
私は自分の我が儘を押し殺して、教室へと足を運ぶ。
「……ん?」
すると、新入生っぽい男の子が廊下の角から現れた。
「……あ、なぁ。お前さ、この教室どこにあるかわかるか?」
「えーっと……」
差し出された紙を見つめ、すぐにピンとくる。
「同じクラスだ〜!」
「お、マジで? 俺は国島英二。よろしくな」
「うん、よろしくね!」
「……ん?」
「えっ、何?」
急にまじまじと英ちゃんに見つめられて、私は思わず後退りする。
「……いや、お前、どっかで見たことある顔だなー……って思ってさ」
「どっかで?」
と言われても、私は英ちゃんに見覚えがない。
「私は英ちゃん知らないよ?」
「ん〜……、気のせいか? つ〜か〝英ちゃん〟ってなんだよ。馴れ馴れしすぎだろ」
急に不満そうになった英ちゃんは、機嫌を損ねてしまったのか先に行ってしまう。「道わかるの〜?」と声をかければ、ぴくっと両肩が動いてすぐに戻ってきた。
(……英ちゃん、すっごく面白い!)
しばらくは英ちゃんで遊べるな、そう思ったら頭を小突かれた。エスパーなのかな、英ちゃんって。
抗議をしようと思ったけれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。私は英ちゃんを連れて一緒に教室の中に入った。
「おぉ〜……ついた」
さっさと黒板に貼り出されている席を見に行く英ちゃんの後を追うと、そこには既に二人の女の子が立っていた。
「……あれ?」
二人の顔に見覚えがあるのか、英ちゃんは流れるように二人の顔を指差す。
「あっ!」
その内の一人は、何故か私を指差した。隣の女の子も、英ちゃんではなく私を見て驚く。
「……え、英ちゃん……誰……?」
体の半分を英ちゃんの後ろに隠して聞くと、英ちゃんは軽く声を上げて私を見た。
「思い出した! お前、〝東雲の幻〟の《暴君》だろ!」
「えっ? 〝東雲の幻〟……? 暴君……?」
聞こえた単語の意味がわからず、私は英ちゃんから距離を取る。女の子二人は、幽霊を見たかのような表情をしていた。
「覚えてないかな? 私たち、中学の頃〝五強〟ってずっと言われてて……全中でも会ってるはずなんだけど」
「……決勝戦で会った」
「……え?」
言われて私は、半年ほど前の記憶を思い出そうと努力する。いたような、いなかったような。白いリボンを貰った日の出来事のはずなのに、試合内容はあまり覚えていなかった。
「ごめん、覚えてない……」
「私は幹栞。こっちの子は茎津春。星森女学園だったんだ」
「……どうも」
「あ、うん。よろしくね〜」
一通りの挨拶が終わって、微妙な空気が流れ始める。なんとか沈黙を回避しなきゃ。入学式早々の沈黙は痛い。そう思って私は疑問を三人にぶつけた。
「……ね、ねぇ、〝東雲の幻〟ってどういう意味なの?」
そのままの意味で考えると、あんまりいい気はしなかった。
「……え、知らないの?」
言葉を発する気にはなれず、頷く。
「〝東雲の幻〟。……まぁ、〝半年間の奇跡〟って言ってる人たちもいるんだけど」
ぽつりと呟かれた栞ちゃんの台詞は、私の心を深く抉った。
「……なにそれ。何かの冗談?」
自分でも驚くほどに声のトーンが低くなる。それ以上聞きたくない、知りたい、二つの思いが私の中でせめぎあった。
「違うよ。茶野さんのチームメイトが全員退部しちゃったから……って、もしかして知らないの?」
「えっ……?」
「……何があったのかは知らないけれど、秋には誰も残ってなかった、とか」
「それ、雑誌でも載ってたぜ。中学生の話だし、ちょっとだけだったどな」
自分に深く関わりのある出来事のはずなのに、何故見ず知らずの他人がそこまで知っているんだろう。私には疑問しか残らなかった。
「……そん、な……」
掠れた声しか出てこない。
「まさか高校で、その東雲の一人に会えるなんて思ってなかったよ」
悪意なく微笑む栞ちゃんに、無表情で頷く春ちゃんに、同情の眼差しを向けてくる英ちゃん。そんな三人に私はこの感情をぶつけられなかった。
泣くわけにも、いかなくて。ただただ唇を噛み締めていたら鉄の味がした。
「ッ、おいっ! お前口から血が流れてんぞ!?」
「…………あ、本当だ〜……」
とりあえず、笑ってみる。英ちゃんの瞳に映った私は、惨めだった。
*
午前中に家に帰り、自分の部屋の窓の外を見つめる。人影があるのを確認して、私は彼の名前を呼んだ。ただ、上手く言葉にできなくて何度も呼んだ。
「なんの用だ…………あ、灯?」
私を一目見た拓ちゃんは、まばたきを一回した。ぼんやりと、拓ちゃんの瞳に私が映し出される。その私は、なにやら唇を動かしていた。
「……おい、一体何が言いたい」
「……ん、で…………の」
「学校で何かあったのか?」
「……で、の」
心配そうに私の瞳を覗き込む拓ちゃん。刹那、行き場のなかった思いを彼にぶつけた。
「なんで言ってくれなかったの!」
住宅街に反響した言葉は、拓ちゃんを一瞬にして不機嫌にさせただけだった。
「主語を言え、主語を。それだけでは何を言いたいのか……」
「聞いたよ、女バスのこと」
ぴくっと、拓ちゃんの眉が動いた。
「……その反応、拓ちゃんは知ってたんだね」
徐々に徐々にばつが悪そうに顔を顰める拓ちゃん。
「……本当なんだ」
「あぁ、本当だ」
それから躊躇うことは一切なく、はっきり言葉が聞こえてきた。それから、視界が悪くなって私が顔を歪めた。
「橙乃以外は全員辞めた」
「え……」
唯ちゃんが、まだ……?
「……なんで」
拓ちゃんが逸らしていた顔を私に向ける。それ以外はよく見えなかった。
「……泣くな。俺が知っているわけがないだろう」
「……泣いてない」
私が知る限り、涙は微妙な気持ち悪さを持って流れてくる。けれど、この涙ははらりと落ちた。
「…………灯」
「……ねぇ、拓ちゃん。もしかして、みんな嫌々バスケをしてたのかな」
入学式に思ったことを、彼に問う。困らせたかったわけじゃないけれど、誰かに答えてほしかった。
「嫌々なら、優勝なんかしていないだろう」
決勝戦で会ったらしい栞ちゃんと春ちゃんが脳裏を過る。拓ちゃんに断言してもらったことで、少しだけ前向きになれたような気がした。
*
「お前らはやっぱ女バスに入るの?」
「そのつもりだよ?」
「……私も」
他の二人が、英ちゃんの言葉に頷く。英ちゃんの言う「お前ら」に私が含まれていることはわかっていたけれど、返事はできなかった。
「茶野は?」
「……英ちゃんは男バスだっけ?」
「まぁな」
質問を質問で返されて、英ちゃんは少し不機嫌そうに眉を顰める。私はお茶を一口飲み、英ちゃんを見上げた。
「私ね、男バスの見学をしようかな〜って思ってるの」
「……は?」
「えっ、男バス?」
「……馬鹿なの?」
三人は、私が男バスでバスケをすると思っているのか次々と呆れた表情をする。
「ん〜ん、マネージャーだよ〜」
私は何も間違ったことは言っていない。そういう意味を込めて、少しだけ強調した。
(バスケは好きだけど……)
遠くにある母校を思い、息を漏らす。
(……今は、やりたくないかも)
「おい、マネージャーって……」
動揺したのか、英ちゃんがお箸を床に落とす。
「……どうして?」
辛うじてお箸を受け止めた春ちゃんは、驚愕の表情のままに聞いた。
「ん〜? いや、普通にやってみたいな〜って思って」
言葉を切る。代わりに卵焼きを頬張った。
「へぇ〜……。私はてっきり、女バスに入部するのかと思ってた」
元から丸い瞳をさらに丸くさせた栞ちゃんは、女子高生らしい水筒を手に取りお茶を飲む。その間目を宙にさ迷わせ、私たちは黙った。
「……ちょっと箸洗ってくる」
「あ、いってらっしゃ〜い」
英ちゃんはお箸を握り締め、教室から出る。水筒から口を離した栞ちゃんは、後ろの黒板を指差した。
「ねぇ、みんなは母校訪問って行く?」
指先を辿ると、母校訪問をしなければならない生徒名が書かれた紙が貼ってある。
「……まだ見てない」
そう言って立ち上がり、春ちゃんは見に行った。
しばらくして戻ってきた春ちゃんは首を横に振る。代わりに私を指差して、「……名前あったよ」、そう言った。
「えっ?」
「あ〜……ってことは東雲かぁ」
栞ちゃんは、「母校訪問いいなー」と言ってお弁当をしまう。その間に英ちゃんが戻ってきて、話題はまた逸れてしまった。
(東雲中に、母校訪問……)
一瞬嫌だと思ったけれど、これはある意味チャンスでもある。
学校にいけば拓ちゃんにも会えるし。今の女バスのことも知れる。私はそうやって自分自身に言い聞かせ、振られた話題に笑顔で答えた。