第五話 光が差し込む
「……リンのこと、触ってもいい?」
真上から、洸のそんな声が聞こえてきた。言われた台詞を理解することに、そう時間はかからない。……答えは勿論。
「……はい」
ふっと、辺りの空気が変わった気がした。
暗闇だと思っていた世界に光が差し込み、自分のせいで汚れてしまった洸のセーターを照らし出す。それはあまりにも悲惨で、謝ろうとした私のことを洸が止めた。洸もそれに気づいていたけれど、何も言わなかった。その代わり、洸は省略しただけの私のあだ名を呼んでくれた。
ちらりと視線を上に上げると、洸がセーターの袖でごしごしと私の目頭を拭う。そのまま手は頬に添えられ、視線は外すことを許されないかのように真っ直ぐに見つめてきた。
唇が重なったのは、その直後だった。最初は遠慮がちに、軽く触れる程度。次は体温がきちんと感じられる程度に触れる。
「……ん」
「……ッ!」
噛まないで、そう言おうとして止めた。それが、彼なりの愛情表現だった。
終わってほしくない、そう思ってしまうほどに優しい世界。私たちは茶道部の部室で一体何をしているのだろう。
笑い合い、手を繋ぎ、これから一緒にいるのだと思って嬉しくなる。失ってばかりだった私が久しぶりに得たものは、もう二度と手放したくないもの。
茶道部から出た私たちは帰路に着き、名残惜しいと思いつつも私は彼に手を振って――思わず呼び止めた。
「ただいま帰りました」
心細さを掻き消す為に、ずっとつけっぱなしにしていた玄関の電球を消す。
「お邪魔しまーす」
意外と律儀にそう言った洸だったけれど、靴はそのまま脱ぎっぱなしにして入っていった。
私は、リビングとは別の――和室の片隅にある仏壇の元へと洸のことを案内する。洸は大人しくついてきてくれた。そしてそれを視界に入れた途端に足を止めた。
「……私のお父様です」
じっと、無言で黒いそれを見つめていた洸にそう言った。
「……は、はじめまして」
珍しく間延びしない――強ばった声色に驚きつつも、歩き出す洸についていくことで精一杯だった。
「お父様、彼が紫村洸さんです。私の初めての男の友達です」
「はぁぁあ? 違うでしょ? 何言っちゃってんの? ちゃんと言ってよバカリン」
「……ッ!」
一気に火照る体――お父様が生きてきる人間だったら絶対に恥ずかしさに堪えられないと、あったかもしれない未来のことを思ってまた照れる。
「……私の、初めての…………か、か、かっ、彼氏、です」
きちんと言ったにも関わらず、洸は全然反応してくれなかった。けれど、お線香へと手を伸ばして私の分も持ってくれる。
「ねぇ、これどうやんの? 僕やったことほとんどないんだけど」
洸がそう言った瞬間、ぱきっと不吉な音がした。
「あ、折れた」
「こっ、洸?! 気をつけてください!」
「ご、ごめん」
「もう、仕方ないですね……」
折れたお線香はもうどうにもならない。私は自分でもしつこいと思うほどに洸にお線香の持つ力を教えた。
「もう、わかったから。十回言わなくてもわかるから。しつこいから十回黙ってて」
案の定そう言われるけれど、私だって引けない理由があります。
「ですが、今後の為にも必要なことです!」
何気ないが、洸の将来を思いやった一言。なのに洸は、顔を真っ赤に染めて「はぁっ?!」と叫んだ。
「えっ?」
「……あぁ、そういうことか。……あんたってさ、時々かなりのアホになるよね」
私の反応を見て、はぁ、と盛大にため息をつく洸。そして、そのままお線香をお父様にあげてくれた。
「それ、一体どういう意味ですか」
私は阿呆なんかじゃありません。心外です。そう思って反論しようとすると、洸は顔を近づけてきた。
「こういう意味なんだけど?」
何をするのか――その思考は口づけで途切れた。
「んなっ?!」
ぱっと、すぐに私から離れる洸。
「なぁに? さっきもしたじゃん」
むすっと、あからさまに不貞腐れる洸。
「そうですがっ! 不意打ちは駄目です絶対!」
そんな洸に対して、ぶんぶんと弧を描きながら私は腕を振りまくった。
「えー……、いちいち許可取んないと駄目なのそれー?」
めんどくさいなーと、洸はぶつぶつ小言を言う。けれど、私だってあぁも簡単に唇を奪われるわけにはいかないのだ。
「断固拒否です! 譲りません!」
強く言えば、洸は私を一瞥して左手で頭を撫で始めた。
「ッ?!」
「……あ。ちょー照れるじゃん」
面白そうな玩具を見つけた子供のように洸は笑い、私は一層力が抜けたような気がして項垂れる。もういいや。洸には敵う気がしませし。
私が諦めるタイミングを待っていたのか、洸の右手で木魚を叩く。その刹那に左手を離して両手を合わせる。閉じた瞳でわかったけれど、洸は睫毛が長くて相変わらず幼い顔つきをしているのだと思った。
「……あ、すみません。私、飲み物持ってきますね」
きっと喉が渇いているはずだ。なのに私はお茶をお先にお出ししないで仏壇まで通してしまった。駄目駄目な彼女だなぁ、洸に愛想つかされないように気をつけないと。
私はそう思って、すぐさま立ち上がり和室を出た。
冷蔵庫から麦茶を取り出す。冷えた内部は質素な食べ物しかなく、私は苦笑いを浮かべてそれを閉じた。
絢爛豪華なトレーにグラスを乗せ、それに麦茶を注ぐ。私は自分の生活がちぐはぐだという自覚があったけれど、今まで直そうとはしなかった。けれど直そう。洸の為にも。これからの自分の為にも。
麦茶を溢さぬように運びながら、そんなことを考える。まずは、洸がよく食べている飴玉に馴れましょうか……。
好物は極力共用してみたいですし、そう思った刹那に和室から声がした。
「あんたさぁ、なんでリンのこと一人にしたの?」
「……え」
小さく声を漏らして、慌てて唇を噛む。誰かいるのかと思えば、ただの洸の独り言だった。
「……まぁ、僕が一人にさせないけどさぁ」
「……ッ!」
一人にさせない。その台詞が私に痛々しい記憶を呼び戻させる。ただ、今になって思い返してみると――すべてが辛い記憶だとは思えなかった。
ありがとうございます、洸。
私は、何も失ってなかった。そう思った。
「……あ、戻ってたの? 早くお茶ちょーだい」
振り返った洸は、何事もなかったかのように喋る。だから私も、何事もなかったかのように笑った。
「はい。麦茶で良かったですか?」
「うー……ん、まぁいいや。美味しそう」
洸はグラスの一つを持って、一気に飲み干す。そして、とある封筒を私に差し出した。
「……これは?」
「仏壇の引き出しにあった」
手渡されたそれを裏返すと、そこには紛れもないお父様の筆跡で――私の名前が書かれてあった。
「なんで、お父様が……?」
いや、それよりもどうして洸が人の家の仏壇の引き出しを勝手に開けたのか――。一瞬そう思ったけれど、それよりも手紙の内容が気になって視線を落とした。
「開けてみれば?」
と、洸が私のことを催促する。私も頷き、封筒の上部を破いた。
『凜音へ』
一行目の単語に、私は眉を顰めた。……凜音へ? 今さら何を言っているのです。行き場のない憤りを感じた。
『お前には、謝らなければならないことがいくつかある。末期になった今になって、ようやく気がついた』
気がついたって、何にですか……?
『いつからか、お前が笑わなくなったこと。仕事を辞め、冷静になった時、不意にそう思った。理由はなんだと、動きもしない体を恨みながら考えた』
お父様は病院ではなく、この家で最期の時間を過ごした。頻繁にお父様の部屋に出入りしていたのに、私は、お父様がそう考えていたなんて微塵も思わなかった。
『私か、バスケか』
「……ッ?!」
その文字以降の筆跡は震えていた。推測だけれど、この手紙は大部前から書かれていて、考えている期間が長いことを物語っているのだと思った。
『あるいは、その両方か』
水滴が乾いた跡が、ところどころにある。飲み物を零したわけではなさそうだ。
『言い訳と捉えてもらっても構わない。今ここに、真実を綴ろうと思う』
「……え?」
「ん? 何?」
『お前が中学一年生の夏。私の元に、松岡一真と名乗る昔馴染みの家の執事が来た』
「松岡……一真?」
どこかで聞いたことのある名前だと思った。なのに、咄嗟には思い出せなかった。
『彼は私に、お前の部活の現状と危険性を唱えて儲かる話を持ち込んだ。巧みな話術で、私はすっかり彼の口車に乗せられて、気がついた時には何もかもが遅すぎた』
「……ッ!」
その文章に、視界の端がじんわりと滲む。
『ただ、お前はまだ遅くはないはずだ。身勝手だということは痛いほどにわかる。だが私は、あの世でもいい。もう一度、お前が笑ってバスケをしている姿が見たい。今お前の隣に、お前を幸せにしてくれる人がいることを、願っている』
「おとうさ……ぱぱぁ……!」
右手で顔を覆い、左手で手紙を抱き締めた。
「あのさぁ、僕、最後の文読んでないんだけど?」
「……ッ! 洸は見なくてもいいです!」
「……は、なんで?」
「駄目です駄目です! 絶対に駄目です!」
きょとんとする洸に、私は全力で手紙を死守する。……そういえば、何故洸がこの手紙を見つけることができたのでしょう。
使用人の人たちは、私は、何故見つけられなかったのでしょう。
「捕まえた〜!」
「きゃあ?!」
洸は、私の手から離れた手紙を見向きもせずに――私を畳に押し倒した。
「……いい匂い」
私の首の匂いを嗅ぐ洸の髪が頬に当たる。
「洸……! お父様の前ですよ……?!」
「いいじゃん、逆に」
「逆に?!」
「そう、逆に」
猫のように、洸は私に甘えてくる。これが幸せと言うでしょうか――そう思った。愛おしかった。傍にいてくれることが嬉しかった。
「……洸」
彼の名前を呼ぶ。
「んー?」
彼が返事をする。私は口を開く。
「ありがとうございます。大好きです」
――貴方に出逢えて、本当に良かった。