第三話 逃避
……青森でも、桜は咲くんですね。そんなことを思いながら、常花高校の敷居を跨いだ。
先月、唯一の肉親であるお父様が他界してからの初めての式典。名家と会社は叔父様に継がれ、私はもう何も怖くないと思えるようになっていた頃だった。
「え、お前が女バスの主将? マジで?」
「勿論だ。フッフッフッ、我が監督も我の力を認めた証拠だな」
「……黙れ厨二病患者。私たちはまだ、主将になったってこと認めてないから」
「高崎先輩、女バスは終わった。もし何かあったら僕らは男バスのマネするぜ」
「ちょっ……! フッフッフッ、我が力に臆したか二年!」
「星宮双子。この厨二病、いくらでもシバいていいからな」
「もうシバいてます。ね、夢」
「そうだな愛。シバき倒そう」
「人の話を聞いてぇぇぇえ!」
なんですかあのせんぱ――いえ、先輩とも思いたくない……! 私が入学式の時に視界に入れる先輩は、何故いつもあんな風に残念なのでしょう。歩きながらそう考えた。
「……え?」
視線を上げると、こちらに向かって歩いてくる人が一人。
かつて、その髪色を飽きることなく見続けて。かつて、その声を堪らなく聞きたいと思って。かつて、私はその人に――。
「な、なんで……貴方がここに……」
「はぁ? 何? そんなの僕の勝手でしょ?」
どくんと心臓が高鳴った。全然違う。かつてじゃない。私は、今も――
「洸っ!」
――洸のことが好きなんだ。
洸は表情を変えず、そして歩く速度も変えずに
「きゃっ……!」
私のことを抱き締めた。
「こ、洸……!」
言葉を発するごとに、強く抱き締められていく。
「……やっぱ、クマさんの言う通りだ」
「え……?」
「あんたたちって変に不器用だし、放っておくとありえないことするし」
最後の方は、震えた声だった。
……ありえないこと。私の場合は、転校なのでしょうか。
「あの、もしかして……クマさんとは、緑川さんのことですか?」
「そだよ?」
素っ気なく洸が言う。私は笑い、緑川さんのことを思い浮かべた。
「……敵いませんね、緑川さんには」
「ていうか、それ以上クマさんの話するの禁止。いくらリンでもぶっ殺すからね?」
「そっ、それは困ります!」
「はぁ……? 変なリアクションしないでくれる?」
「えぇ……?」
「ま、僕がぶっ殺さなくてもトリちゃんがリンを握り潰すけどね〜」
「……トリちゃんって、琴梨ですか?」
未だに洸が使う呼び名が把握できない。これからもつき合って行くのなら、聞かなくてもわかるようにしないと。
「そ。これはトリちゃんからの伝言」
「握り潰す……言ってくれるじゃないですか」
琴梨はそんな台詞、割としょっちゅう言ってそうですもんね。そう思ったら笑ってしまった。
「……あ」
「はい?」
見上げれば、洸が私を凝視していた。
「なっ、なんにもない! こっち見ないで!」
慌てて視線を逸らす洸を見て、私は抱き締められたままだということを思い出す。一気に押し寄せてくる羞恥心に耐えながら、私はとんと洸の腹部を押した。
「……ッ!」
「…………」
意味が通じたのか、すっと洸の腕が体から離れる。
「……あ、あの、体育館に行きましょうか」
このままだと入学式に遅刻します、そうつけ加えて返事を聞く前に歩き出した。
*
「……あ」
僕は、ついさっき離した腕を伸ばす。けれど、どうしてもリンに触れることができなかった。
開花が遅い青森の桜は、入学式の今日ちょうど散っている。その中を、僕に背中を向けて歩く彼女。行き場を失った右腕を、僕はゆっくりと力なく下げた。
「…………」
僕は、この三年間で誰よりも背丈が伸びたという自負がある。けれど、かっこいいからって理由でやっているバスケで役に立っても、肝心な時に役に立たないことがあっていいのかな。
ボールを奪えるこの腕が、リンに届かないと言うのなら――これはただのガラクタだ。そう思った。気づいたら拳を痛いくらいに握り締めていた。
僕を傷つける僕の力。それも年々強くなっていって、無力だった頃の自分の力はどこにもない。
僕は一度も笑えなかった。
*
「おい、厨二病」
振り返ると、幼馴染みの高崎が立っていた。
「反応したってことは、厨二病って自覚あんのか?」
「うるさいな! 我には茅野空っていう名前があるんだ!」
にやにやと笑う高崎の脛を蹴り、痛みに悶絶するこいつを見下ろす。
「フッフッフッ、我を侮辱するからだ!」
「茅野、前は〝プロミネンス空〟と言ってなかったか?」
我妻が何か言っているが、こういうのは無視に限る。
「あれっ?! 俺無視された?!」
「愛、夢」
呼び掛ければ、双子は揃って顔を上げた。物凄く嫌そうな顔をされたのは気のせいだろう。
「一年に〝東雲の幻〟と〝東雲の魔物〟が入学したと聞いたが。それは本当か?」
「そういえば、紫村洸が男バスに来るんだよな?」
「あぁ、そう聞いているが?」
完全復活をした二人が脇で何かを話している。よし、今度はもっと強力なのを与えてやろう。
「……本当だけど? つか、僕らは厨二病患者の下僕じゃねぇし」
「そんなのを確認してどうしたいんだか。指図するな、厨二病」
「貴様らもっと先輩を敬え!」
「わかる。その気持ちわかるぞ、茅野」
ぽん、と我より四十センチほど高い身長の我妻が肩に手を置く。
「気安く我に触るな! 消えろ!」
足の小指に集中攻撃をすれば、我妻は一気に戦闘不能になった。
「せこ」
「ださ」
「……お前、ほんっと残念だな」
「フッフッフッ。誰がなんと言おうと我は巨人を倒した! てことで貴様ら我を敬ってください!」
「よーし、星宮双子。入学式始まるから体育館に行こうぜ」
「そうですね、高崎先輩」
「わかったよ、高崎先輩」
「あれぇっ?!」
妙に「高崎先輩」を強調して連呼までする双子を連れて、高崎は体育館へと向かう。残されたのは、我と踞っている我妻のみだった。
*
入学式はあっという間に終わった。そう感じた。クラスごとに列を作り、自分たちの教室へと向かう。
来た時は洸と一緒に体育館へ向かっているつもりだったけれど、気づけば私一人で歩いていた。……洸、どこに行ったんでしょう。
そんなことを考えていたら、不意にあることに気がついた。どうして洸は、わざわざ青森に来たのでしょう。
実家が東京にある洸ならば、わざわざ青森に来る必要はない。さっきははぐらかされてしまったからか、無性に気になって仕方がなかった。
「……あ」
どくんと一瞬胸が高鳴る。駄目駄目駄目、そんなの自意識過剰すぎる……!
私は、少しでも期待した自分を恥じた。
*
……僕、どうして青森に来たんだろ。そう思った。自分の席に座って、何も感じずに飴を口の中に運ぶ。
味なんてまともに味わずに、機械のように口を動かしていた。
「洸くん!」
「んー……?」
顔を上げると、同じ中学の――〝東雲の魔物〟なんて呼ばれていた千恵が立っていた。
「は? なんであんたもここにいるわけ?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
苦笑いをする千恵に苛立ちを覚えながら、なんの用、とだけ聞く。
「用ってほどの用もないんだけど……。ほら、青森って知り合いいないからさ、アウェーなんだよね」
その言葉に、たった一つの疑問が浮かんだ。
「……あんたはさ、なんで青森に来たの?」
少しでも、今の僕に近い状況に置かれた千恵から何かを聞けたなら。そうやって、ちょっとだけ期待した。
「え、なんでって……」
うーん、と千恵は唸る。
「言っても洸くんには多分わからないよ?」
「別にそれでもいいし。あんたのことなんて理解できるとも思ってないし?」
僕自身、自分の気持ちがわからないんだから。
「逃げたかったからだよ」
妙にはっきりと千恵がそう言い放つ。
「何から?」
相槌を打ったのは、それほど気になった証拠だった。
「〝東雲の魔物〟……みんなから、かな」
ほら、やっぱりわからないよね。そう言って千恵は苦笑いをした。千恵はその時のことを思い出しているのか、目を細めていた。
「推薦もあったし、洸くんにも来てるって聞いてたから、つい何も考えないで来ちゃったんだ」
ふーんと返した瞬間、さっきの台詞の一部が引っ掛かった。
「何も……考えないで……?」
そうだ。
「うん。私、バカだよねー」
自虐的に笑うが、千恵の目は笑っていない。
「そだね」
僕は――。
「え……。ちょっとは否定してよ……」
「やだ」
飴玉を全部口の中に放り込んで立ち上がる。本能的に、今、リンに会わなければと思った。
「ねぇ、リンってどこのクラスか知ってる?」
「……え? 隣のクラス、だったかなぁ……」
走り出そうとする足を抑えつけ、なんでもないように歩き出す。隣のクラスなのに、異様に長い道のりだと感じるのはどうしてだろう。
「って、いないじゃん!」
びくっと、扉付近の女子の集団が震え上がった。
「あ、あのさぁ……」
恥を忍んで、確認の為に一応聞く。
「……あぁ、その子なら早退したよ?」
「……はぁ?」
胸騒ぎがしたのは、多分、気のせいじゃない。
*
「……ただいま帰りました」
自分で鍵を開けたにも関わらず、ついついそう言ってしまう。引っ越してきたあの時は、お父様と私、使用人が数名いたということで――東京と同じくらいの広さの家を建てていた。けれど、お父様の死後、使用人を雇う必要がなくなった家は私一人が住んでいる。
東京の家を受け継いだ叔父が、私を引き取ると言ったくれた。けれど、これを機会に私は一人暮らしを望んでいた。けれど、何十の人が暮らす予定で建てられたこの家。それを私のみが使っているのだから、大袈裟に言えば敷地の大半が廃屋みたいなものだった。
「お父様、どうしましょう……! 生まれて初めて早退してしまいました……!」
仏壇に手を合わせて、今さらながらとんでもないことをしてしまったと思う。
緊張で気分が悪くなって――という理由ではあるけれど、何故かそれだけではないような気がしてならなかった。
「……洸」
自然と出てきたその名前に、過剰に驚きはしなかった。
「そういえば……」
と、今日早退する前に貰った部活動紹介の冊子を取り出す。今のうちに見ておきましょう。別に損はないでしょうし。そう思ったからだった。
洸が来たくらいだから、男バスはあるんだろう。今朝の残念な先輩方は、女バスと言っていた。ページを捲る度に様々な部活が視界に入ってくる。その中には――
「これは……」
――茶道部もあった。
「……どうして」
ぐしゃっと、柔らかい冊子が潰される音がした。