第二話 仲間と✕✕
「…………え? な、何を言っているんですか。隠し事なんてありませんよ」
心臓が早鐘を打ち始める。どうしよう。どうしてそのことに気づけたの?
「隠し事はないかもしれません。でも、だとしてももう一つ気になることがあるんです。どうしてあの時黒崎さんは嘘をついたんですか?」
「う、嘘? 私、嘘なんてつきましたか?」
何それ。知らない。
「さっき、敬語しか喋れないと赤星くんに言っているのを聞きました。でも、さっき黒崎さんが喋った言葉は敬語ではありません」
「ッ!?」
「どうして、そんな嘘をついたんですか?」
猫宮君は眉を下げていた。悪意のない、追い詰めるような言い方でもないけれど――確実に私を追い込んでくるその言い方。
「嘘をついたのは……認めます。でも、猫宮君に理由を話す義理なんてありません。放っておいてください」
「確かに、僕と黒崎さんはあまり仲良くないのかもしれません。でも――仲間じゃないですか」
「…………な、かま?」
「はい。マネージャー同士も、チームメイトのみんなとも、僕たちは全員仲間として黒崎さんの側にいます」
「…………」
そんな単語、初めて言われた。日本人って――ううん。猫宮君って、やっぱり優しいな。心が綺麗だと本気で思う。
「……ありがとうございます」
「無理にとは言いません。でも、仲間に隠し事をされたり、嘘をつかれたりするのは…………僕、嫌です」
直線に並んでいるブランコ。視界の隅は長くて強い金属の鎖。その鎖は私の心にも多分あって、猫宮君の顔を見たくても――鎖が、心が、邪魔をする。それでも私は少しずつ話し始めた。ぽつり、ぽつりと。
*
全色盲。それは、五万人に一人の病気。それは、世界中が〝モノクロ〟に見える病気。
数年前、私がまだアメリカにいた時たくさんの子供たちが私の横を通りすぎていた。
誰も私を見てくれなくて。
誰も私に触れてくれない。
病気を理由に渡米した私の家族は、ついてきてくれたお母さん一人だけ。お父さんは離婚してしまったから今も日本で暮らしている。
病気が原因で友達ができなかった私は、予想通りアメリカでも友達ができなかった。この国には人種差別があったらしいけれど、その色の違いがハッキリとわかる私に彼らが近づいてくるはずもなく
『早くしないとコート獲られるだろ!』
『わかってるよ!』
また、誰かが通りすぎた。……今の人たち、日本語喋ってたなぁ。
私は黙って振り返る。二人の少年が楽しそうに走っていった。
彼らを『白い世界の住人』と例えるのなら、私は『黒い世界の住人』だ。幼いながらにそう思った。
友達が欲しくて、彼らが向かったコートを眺める。それだけでは友達なんてできはしないとわかってるのに、楽しそうだなぁなんて私は思っていた。
コートでは、先ほどの少年たちが地元の子と一緒にバスケットボールをしていた。
『お前、バスケ好きなのか?』
そんな日が数日続いたある日、少年が話しかけてきた。……日本語で。
『…………い、いいえ』
顔を逸らすと、覗き込んでくる。
『ッ!?』
『どうした? 顔赤いぞ?』
赤い? ……赤いって、どんな色?
わからない。わからない。わからない。わからないわからないわからないわからない。
『……わからない』
ぼそっと呟く。
『そっか。なぁ、一緒にバスケしねぇか?』
『……なんで?』
『バスケは見てるよりもやった方が楽しいし! 一人でやるよりも、大勢でやった方がもっと楽しいからだ!』
『なに、それ』
『俺はそう思う!』
『……私、やったこと、ないよ?』
『教えてやるよ!』
『……ほんとに?』
少年は快諾した。バスケはまだ下手くそだったけれど、私にとっては生きる意味だった。だけどある日、バスケが上手い人たちがコートを占領しはじめて彼とは会わなくなっていった。
『大丈夫だ! また別の場所探そうぜっ!』
『そうだよ。もしくは、エマがいるクラブとか……』
『嫌! 他の場所もクラブも、私には無理!』
『どうしてだよ』
『だって、私…………もう、いい』
『ソウカ! 明日もこの場所で……!』
病気のことを懸念して逃げた私に声がかかる。私は振り返らなかった。けれど翌日、私は心を傷つけながらもその場所に戻ったのだ。いつもの時間、いつもの場所。
なのにそこに、あの二人はいなかった。それが私たちの最後だった。
バスケなんて、もう二度とやりたくない。
そう思った一因は他にもあるけれど、今の私はそう思う。
*
「隠していたことは、病気。嘘をついたのは、逃避」
「…………」
「……私、病気のせいで友達ができないことが怖かった。逃げたのは、本当の自分を隠したかったから。言わないことで、なんでもない振りをした。言葉を隠したのは、どう喋れば嫌われないで済むか、どう喋れば友達ができるのか……わからなかったから。敬語を喋ることで、逃げていたんだと思う」
「大丈夫ですよ。僕は、ありのままの黒崎さんを受け止めますから」
温かい何かが頬を伝う。どこかでそう望んでいた。誰かにそう言ってほしかった。
「……猫宮君」
無意識に私は彼の名前を呼んでいた。一滴の涙が重力に従う。
「はい」
「……私、友達が欲しかった。けれど猫宮君は、仲間だって言ってくれた。……私、信じていいの?」
私は二度と、今日という日を忘れないだろう。
おもむろに立ち上がった彼は私の前まで歩いてきて、立ち止まる。
「…………猫宮君?」
既に日は沈み、月光が彼を照らしていた。今日の夜空は星がよく見えていて、私は思わず目を凝らす。
いつもの私なら〝モノクロの世界〟に見えるはずなのに、不思議と今日はキラキラと輝いてるような。それらを背景にして、振り返った彼はこう言った。
「勿論です」
しっかりとした声で、そう言った。
その後のことは、実はよく覚えていない。ただ、彼に家まで送ってもらったような……一人で帰ってきたような。
お母さんに聞いたら一人で帰ってきたと答えられたけれど、本当にそうだったのだろうか。だからといって、本人に直接聞くなんて恥ずかしくって絶対にできない。
……恥ずかしい? あれ、私、今なんで恥ずかしいって思ったの?
考えても答えはでないから、仕方なく学校に行くことにする。まだ登校するには早い時間だったけれど、何もしないことに比べたらまだマシだった。
「おはようございます、黒崎さん!」
「……あ、おはよう猫宮君」
昨日の今日だから緊張する。だけど、ちゃんと挨拶はできた。良かった、良かった……。
すると、猫宮君が目を見開いた。
「猫宮君?」
「びっくりしました……。黒崎さん、今ちょっとだけ笑いましたね!」
「……猫宮君だって笑ってる」
「えっ? えへへっ、そうですね!」
あぁ、日本に帰ってからいいことがいっぱいある。……帰ってきて、良かったな。心からそう思ったから、私の呪いとも言うべき鎖が消え去った。
敬語から急にタメ口になった私を、みんなは驚きつつも受け入れてくれる。……猫宮君に話して、良かったな。そんなことも思っていると、視界の端にとある少女が映り込んできた。
あの子は――体育館の入り口で仁王立ちをしているあの子は、忘れられないあの子だった。
「猫宮君、あの子……」
「はい? ……あぁ、女バスの子ですよ。たまにここに来てみんなと試合をするんです」
「…………え?」
言っている意味がわからない。だってあの子は橙乃唯さんで、赤星君と話をした彼女は一軍のみんなを勝手に集める。
何をするのかと思ったけれど、猫宮君の言葉が真実だとすると――答えは一つ。
「まさか、一軍全員と?」
「はい。初めてでしたっけ? 橙乃さんに会うのは」
「……ううん」
違う。私は一度、あの子を去年の全中で見ている。けれど、あの子は……女バスはもう……。
疑問が尽きることはなかった。有り得ない。いくらあの橙乃さんでも、一人でみんなを相手にするなんて絶対に無理なのに。
「待って猫宮君。一対五だよ? 男女差があるのに、人数まで……どう考えても不利じゃない」
「黒崎さん、二階に行っててくれませんか?」
「え?」
「きっと、いいものが見えると思います」
半ば強引に二階まで連れて来られた。猫宮君はすぐにみんなの元に戻り、打ち合わせまでし始める。
一体、何が始まるの?
一体、何が見えるの?
やっぱり疑問しかなかったけれど、信じるしかなかった。橙乃さんは軽いウォーミングアップを済ませ、涼しげな顔をみんなに見せる。
対する一軍のみんなは、赤星君、黄田君、緑川君、青原君、紫村君のいつものメンバーだった。
ホイッスルの音で試合が始まる。ジャンプボールをとったのは、当然男バスだった。そして、これも当然のように男バスが先制点をとる。……もしかしてこの試合、余裕で勝てるんじゃ?
さっきまで橙乃さんが不利だと思っていたけれど、よくよく考えたらみんながこれほどに警戒している相手だ。橙乃さんが普通じゃないのは知っていたけれど、改めて警戒をした直後の先制点だった。そして橙乃さんは少しだけドリブルをし――反撃に出た。
敵の攻撃は防げなくても、敵の守りは突破できる。
橙乃さんは紫村君と黄田君をいつもの〝フェイク〟で抜き去った。私が最後に見た日よりも明らかに成長しているそれは、彼女の唯一の個性。ディフェンス不可能なフェイクは、〝ペテン師〟のようで不気味だった。
「あ」
次に橙乃さんの前に立ち塞がったのは、赤星君だった。私の予想通り彼は橙乃さんを止め、あっという間に点をとる。
決して橙乃さんが弱いというわけではない。赤星君たち男バスもとても強い。
橙乃さんはまたドリブルをする。立ち塞がったのは今回も赤星君。けれど、どうせ今回も止めるんだろうなとかは思わなかった。いつ橙乃さんが赤星君を抜くかわからなかった。
――バァンッ!
「…………えっ?」
ボールが地面にころころと落ちる。いや……止められた?
「緑川君!」
その日、私は初めて〝✕✕〟を見た。
緑川君のパスが、赤星君に通る。あれが、アカイロ?
赤星君のパスが、青原君に通る。なら、あれがアオイロ?
青原君のパスが、黄田君に通る。あれが、キイロ。
黄田君のパスが、紫村君に通る。あれが、ムラサキイロ。
紫村君のパスが、駆け上がってきた緑川君に通った。あれは、きっとミドリイロ。
見える。ミエル。みんなが〝イロ〟を繋いでくれたから、イロがミエル。猫宮君が言っていたいいものって、きっとこれのことだよね。
――猫宮君、イロをありがとう。一瞬の奇跡を、ありがとう。
『……だから、もうアメリカは嫌なの。治らなくてもいいから、日本に帰りたい……』
モノクロのままでいいからと懇願した。あの日の出来事でぼろぼろに傷ついた私は、治るわけのない病気の為にこれ以上アメリカに留まりたくなかった。
どうでもよくなっていたのだ。それは、諦めることと一緒。そしてそれは、今も変わらないこと。だけど、諦めじゃなかった。
見えなくてもいい。私はそれを受け入れた。そう思わせてくれたのは、他の誰でもない――猫宮桃太郎君という人だ。
そして、物語は〝モノクロ〟から〝カラフル〟へと――。