第三話 歌よ届け
「直也」
真上から聞こえてきた声に、俺は眉を顰めた。
「……なんだよ」
温かく心地よい風が屋上に吹き、俺はまた寝転がる。
「直也、バスケ部行かないの?」
見上げれば、三年前と比べてだいぶ髪が伸びた水樹がいた。水樹は俺好みにアレンジされた髪を弄りながら、軽音部でもないくせに持ち歩いているギターを地面に置いて俺の隣に座ってくる。……パンツ、見えなかったな。
「赤星みてぇなこと言ってんじゃねぇよ。そもそも、バスケ辞めた奴にあーだこーだ言われたくねぇ」
俺にとっては、何気ない言葉のはずだった。
「ッ! しょうがないでしょ?!」
「……はぁ?」
「直也は何もわかってない! バスケしたくてもできない人の気持ち、考えたことあるの?!」
視線を真横に向ければ、何故か水樹は泣いていた。
「もういいっ!」
わけがわからない言葉を吐き捨て、水樹は乱暴に出ていった。それは、高校に入学した五月の下旬の出来事だった。
*
高校生活に慣れ始めた頃、屋上で授業も部活もサボっている直也と喧嘩した。
『そもそも、バスケ辞めた奴にあーだこーだ言われたくねぇ』
そりゃそうだ。直也からしたら、あたしが勝手に逆ギレしたと思われても仕方がない。けれど、それをあたしたちの前で言ってほしくなかった。
罪悪感に苛まれた、唯。
バッシュを捨てざるを得なかった、ちぃ。
夢を追いかけた、あたし。
名家に囚われた、凜音。
「……はぁ」
「これから仕事の話をするというのに、上の空?」
「ッ! 舞ちゃん、ごめん……」
でも、喧嘩したのさっきなんだよなぁ。
「舞ちゃん言うな。一緒に仕事する高校生も来るんだから、しっかりしない」
「高校生?」
「名前は……」
「遅れてごめんなさい! 豊崎高校の黄田宗一郎です!」
振り返ると、久しぶりに姿を見た気がする黄田がいた。
「……は?」
「あれっ?! コト?!」
「来たわね、黄田くん」
「き、黄田?! なんで?! なんで黄田?!」
慌てて舞ちゃんを見るけれど、舞ちゃんは涼しい顔。
「舞ちゃんキャンセル! この仕事キャンセルぅぅぅぅ!」
あたしは一心不乱に舞ちゃんを揺さぶった。舞ちゃんは途切れ途切れだったけれど、舞ちゃん言うなと言葉を返す。
「コトがあの《Blue Bird》だったんだね〜! いや〜、びっくり! 知らなかったよ〜!」
「帰れ黄田! お前なんか知らん!」
「酷っ! 小学校からのつき合いじゃん! ……まぁ、俺もこの話はあんまり乗り気じゃないから断る気でいるんだけどねぇ」
「……え?」
あたしは舞ちゃんを揺さぶる手を止めた。
「舞ちゃん、どういうこと? 決定じゃないの?」
「今日は、向こうから直接オファーが来た二人の意向を聞こうと思って」
「へぇー……」
「で、いい加減離してくれないかしら?」
「あ、ごめん」
ぱっと離すと、舞ちゃんが少しだけ崩れ落ちた。
「二人とも嫌だと言うのなら先方にそう伝えますが?」
「じゃ、よろしく!」
「あ、ありがとうございまーす」
「その代わり、琴梨は早くラブソングを完成させなさい。いつまでも出さないとあうわけにはいかないのだから」
「うっ……!」
「では、お疲れ様でした」
「……お、お疲れ様でした」
「お疲れ様でしたー」
会議室から出ていく舞ちゃんの後ろ姿を眺め、一緒に帰らないかという提案をした黄田に頷く。あたしも黄田も制服姿で、お互いに学校帰りであることが伺えた。
「つーか、なんで黄田にこんな仕事がきたの? 意味わかんないんだけど」
「えぇ? ほら、俺らってよく雑誌で特集されてたじゃん? そん中でも俺って結構メディアでも注目されてたらしくってさぁ、前からちょくちょく商品イメージにピッタリとかで連絡寄越されてきたってわけ。で、仕方ないからここの事務所に所属することになったんだけどさぁ……」
あたしの質問に黄田が苦笑いをする。
「……正直、もうこういうのいいかなぁって思ったんだよね。そういうファンとか要らないし」
「はぁっ?! ファンは大切にしなきゃでしょ?!」
「いやそうなんだけど! 芸能界で有名になっても嬉しくないっていうか……これ以上、ウサミンを悲しませたくないんだよねぇ」
「ウサミン……って、ちぃ?! なんでここでちぃが出てくるんだよ!」
「あ、俺とウサミン最近つき合い始めたんだよ。長年の恋がようやく実ったって感じ?」
「……ん?」
黄田を見上げれば、物凄く嬉しそうに笑っている。
「……んん?」
「ん?」
「つっ、つき合ってるぅ?!」
「今さら?!」
酷くない? とわざとらしく泣き喚く黄田。いや、だって、あの黄田とちぃだよ?
「うっそぉぉぉお!」
「そんなに?!」
「だって……えっ?! 二人ってめちゃくちゃ正反対な性格してるじゃん!」
けれど黄田は、不満そうに唇を尖らせた。
「ご、ごめん」
驚きすぎて否定し過ぎてしまった。反省して謝れば、黄田は笑う。それを見ていると、黄田だけがメディアに注目されていたのもわかるような気がした。
「……あたしはさ、黄田が羨ましいよ」
「え?」
「あたしは、あんたと違って器用貧乏だからさ。それに、スポーツや勉強はそれなりにできても、恋愛や友情に関しては不器用。……バスケと歌手の両立さえもできない。それに比べて、黄田はバスケもやってメディア露出もしてちぃともつき合って……悔しいよ、正直」
まさか、この悩みを――この劣等感を、黄田本人に打ち明ける日が来るなんて。昨日までのあたしだったら考えもしなかったな。
「したことあるの?」
「……え?」
「バスケと歌手の両立。それに恋愛。……コトはしたことあるのって聞いてるの」
そう言われて、思い出した。
「……したこと、ない」
「やる前から諦めてるんじゃないの? コトはもっと欲張ってもいいと思うよ。毎日バスケの練習をして、時々雑誌から取材されて、ウサミンに自分の気持ちを伝えて……俺はそうして生きてきたよ。高校生になってユイユイからいろいろと言われても、俺はそれを受け入れられる。自分のしたことが自分に返ってきているだけだからね」
黄田はまっすぐにあたしを見下ろし、あたしの知らない黄田を教えてくれる。あたしは唾を飲み込んで、同時に黄田の生きてきた道を飲み込んだ。
「……って、唯? 唯も豊崎なの?」
「ん? そうだよ? 俺とウサミンと、ユイユイ。ここに赤星くんがいたら最高なんだけどねぇ」
あぁ、残メンだ。こいつのどこがいいんだよ、ちぃ。
「……唯とちぃさ、元気?」
「元気だよ? 女バスにも入部して、月岡高校と練習試合をしたくらいだからねぇ」
「……え、二人とも女バスに?」
「乗り越えたって、ウサミンは言ってた。俺はそれを信じてる」
街灯が黄田を照らした時、黄田は生き生きとした表情を浮かべていた。最後に見た時とは違う輝きで、あたしは驚きを隠せなかった。
「……黄田、なんか変わったね」
そして、あの二人も。
「え、そう?」
自覚なしか。
「黄田、ありがと。今日あんたに出会えて良かったよ。唯とちぃによろしく伝えといて」
「うん、わかった。じゃあ……またね」
「ん。また」
あたしは前を向く。そして新たな可能性を目にして、じっとしていることができないのだと悟った。
*
「舞ちゃん!」
事務所の扉を爆音で開けると、舞ちゃんはびくっと肩を上げて身を震わせた。
「舞ちゃん言うな! ……貴方、帰ったんじゃなかったの?」
訝しげに問う舞ちゃんに、あたしは首を横に振る。
「あたし……あたし、もう一回バスケしたい!」
それだけで、舞ちゃんはすべてを察したようだった。
「駄目に決まっているでしょう」
「なんで!」
「ッ?!」
「なんで舞ちゃんはそうやってすぐに否定するの?! 三年前もそうだった! 黄田がさっき教えてくれたんだよ……! やる前から決めつけたら駄目だって! あたしもそう思ったよ! だから、やる! やりたいんだよもう一度!」
舞ちゃんは黙った。その表情は苦しそうで、葛藤しているようでもあった。
「……どうなっても、わたくしは知らないわよ?」
か細く、震え、涙を流し、そして私を見た。その瞳は、舞ちゃんの決意の瞳だった。
「……わたくし、昔バスケで挫折したことがあるの」
「……え、舞ちゃんが?」
今度はあたしが驚く番だった。舞ちゃんはお嬢様タイプで、バスケと無縁そうに見える。……いや、それはあたしの親友の凜音も同じか。
「……そうよ。だから、公私ともに……貴方にバスケを続けてほしくないと願った。怪我をして、二度とバスケができないという後悔を、貴方に味わってほしくなかった。だから、最初から否定してしまっていたのね」
「けど舞ちゃん! あたし、バスケができなくなる後悔よりも……バスケをしない後悔の方がめちゃくちゃ嫌だ!」
「……そんなの、三年間も貴方を見ていればわかるわよ」
舞ちゃんは、力なく笑った。あたしは、今日初めて梅咲舞という人間を知れた気がした。
「……今まで、本当にごめんなさい」
頭を下げた舞ちゃんに、あたしは精一杯の笑顔を見せる。
「あたし、舞ちゃんのこと結構好きだよ。だから、これからもよろしくお願いします!」
握り合った手の温もりは、一生忘れないだろう。それくらい今のあたしの心を揺さぶっていた。
*
「はぁー……」
あたしは、背中に背負ったギターをちゃんと確認する。目の前にある分厚い扉を開けると、成清高校自慢の屋上に、あいつがいた。
「……直也!」
高校に入ってから呼び始めたその呼び名は、最初こそ気味悪がられたものの今ではお馴染みの呼び名となっている。
「…………」
給水塔の上に寝転がっていた直也は、見事にあたしを無視しやがった。昨日喧嘩をしたばかりだから――多分そういう理由だろう。
「直也、昨日はごめん! だからこっち向いてってば!」
あたしの呼び掛けで少しだけ向けられたあいつの表情は、徐々に驚きで満ち溢れる。
「お前、その髪……」
「あぁ、これ? 昨日切ったんだよ。邪魔だったし!」
バスケを辞めてからずっと伸ばし続けていた自慢の髪を、あたしは遂に切ってしまった。肩までしかないそれを指先で弄り、あたしは笑う。それを見て、直也は眉を顰めた。
「あたし、バスケやることにしたから!」
そんな直也に理由を話す。直也は目を見開いて、「……は?」と言葉を漏らした。
「だから、ごめん!」
あたしは頭を下げ、直也に言ってしまった言葉の数々を謝罪する。自分自身の矛盾を謝る。
「んだよ、急に。気持ちわりぃな」
直也にそう言われても仕方ないのかもしれない。あたしはそれに、苦笑いで答えた。
「お詫びに貸し切りライブするからさ」
許してよ、そう言えば。上手いのかよ、口角を釣り上げられた。
「当然」
あたしも負けじと口角を釣り上げる。そのまま背中に背負ったギターケースを開け、紅色のギターを取り出した。チューニングは、完璧だ。
直也はすぐに起き上がり、聞く姿勢になる。あたしは今日に限ってだけ部活をサボっていたことに感謝し、一曲目を何にするか考えた。
ううん。やっぱり、あれしかないかな。
「《Tears》」
届け、この曲の意味。
――もしも幼い頃 あたしに夢があったなら
――きっとそれに向かって ただがむしゃらに走るのだろう
この曲は、あの日なくしたと思っていた曲に歌詞をつけただけの曲。
舞ちゃんがどのようにしてあのCDを手に入れたのかは知らないけれど、そんなことはもうどうでも良かった。
あたしは歌う。ただそれだけ。
ギターに歌声を掻き消されないように、それでも荒々しくならないように、感情を込めて歌い続ける。
両立は不可能。
『……選べないよ、そんなの』
『私は――親に逆らえるほど大人ではありませんから』
――あたしは不器用なのだとしたら 追いかけたくて裏切ったあの秋の日
『……あたしも、辞める』
弦が曲の終わりを告げた時、あたしの中で何かが吹っ切れたような気がした。それは、今まで肩にのし掛かっていた重圧が一気に消えたような――。
直也の顔が視界に入った刹那、あたしは意識を手放した。