第二話 雨上がり、陽があたる
「黄田〜。今日はあんたと1on1したいんだけど……って、聞いてる?」
「へっ? あ、ユイユイ。なになにどうしたの?」
「『なになにどうしたの?』じゃないわよ! わん、おん、わん。オッケー?」
小馬鹿にしたように笑うユイユイ。やっぱり何か可愛気がない。
「はいはい。いいよ」
「じゃ、私からね!」
ドリブルをし始めたユイユイの目は鋭い。戦う時のユイユイの目を間近で見たのは初めてかもしれない。
「ユイユイ」
「何よ」
「今朝、紺野ちゃんに会ったんだけどさぁ」
「はぁ?」
「いつもあんな風にビクビクしているの?」
「……そうだけど、それが何?」
「いや、それだけだよ」
「あっそ」
刹那、ユイユイが俺を抜き去った。
「あっ?!」
――スパァンッ
そんな軽快な音を立ててボールが入る。
「やったぁ! 入ったぁ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ね、子供みたいに喜ぶユイユイの姿はちょっとだけ可愛かった。
*
翌朝は霧雨だった。時々傘を差そうか悩む私の頬を雨粒が掠める。
だからか嫌な予感がした。しかも、私の嫌な予感は百発百中。……自慢では、ないけれど。
校門を潜り、傘立てに傘を入れ、下駄箱まで歩く。靴を履き替え、黄田くんの名前が視界に入ったその時。
「ちょっと」
「……え?」
数人の女の子に囲まれてしまった。
「……あ、あの……」
半年前に見たバッシュと写真が脳裏に過ぎる。
「昨日は楽しかったかしら?」
「なんであんたみたいな地味な子が、黄田くんと仲良く話してるのよ」
「……ッ!」
怖くて、怖くて。ただ、それだけで。
『なっ!?』
『ちょっ、どこ行ったの?!』
体を縮めて彼女たちの間を突破した私は、二度と彼女たちの前に現れることはなかった。不意に、《隠者》という通り名を思い出した。
教室に駆け込むと、予想通りの光景が広がっていた。黒いペンらしきもので落書きされた机。バッシュも写真もないけれど、半年前と何も変わってなかった。
「どうして……?」
「ねぇ、紺野ちゃん。さっきすごい勢いで走ってたけどなんかあったの?」
振り返れば、私よりも遥かに大きい黄田くんが立っていた。
「どうして……」
「え?」
先ほどまでの笑顔は消え失せ、視線は私の机に向けられる。
「……どうしたの、コレ」
「…………」
いけないと、わかっていた。けれど、わかっているだけで止められるものでもない。水滴が頬を伝うけれど、これはきっと、雨粒。
「……黄田くんの目に、今の私はどう映ってる?」
「……泣いてるよ」
いけないと、わかっている。
「黄田くん……」
……助けて。なんて、言えるわけがなかった。
*
今日の私は、いつも以上に影が薄かったと思う。いや、影が薄いとか濃いとか関係ないのかな。友達や仲間なんて、いないに等しいのだから。
それで得することは何もない。影が薄くて得することは、あるけれど。現に、今がそうだった。
雨が降る外から体育館を――赤髪の少年を見つめる。まだ諦めきれていない自分がどこかにいた。
「あれ、そんなとこにいて寒くないの?」
「ッ!」
またこのパターン。黄田くんにはいつも驚かされる。
「外にいないで中に入ったらどう?」
「……だ、大丈夫だから」
「や、でも、震えて……」
「も、もう、帰るから!」
踵を返すと、中にいた黄田くんが急に外に飛び出してくる。
「えっ?! ぬ……濡れますよ?!」
雨に濡れても気にせずに、黄田くんは足を動かし続けて私の方へと近づいてくる。刹那、私の傘が宙を舞った。
「んッ……!?」
そして、黄田くんの腕の力が強くなる。どうして私は、抱き締められているんだろう。
「あ、あの……」
身長差がありすぎて、押しつけられてる場所がどこかもわからない。というか、体が熱い。
「どうして赤星くんばかり見てるの?」
え……。なんで、黄田くんがそれを知ってるの……?
「赤星くんが好きだから?」
「ッ!」
暴れようにも、暴れられず。姿を眩まそうにも、眩ませず。
「好きだよ」
「え」
今、なんて?
「紺野ちゃんが好き」
「や、あ、あの……」
言いたいことが言えない。でも、言わなくちゃならない。だって、今言えなかったら一生後悔するもん。
「お、お気持ちは……嬉し……んッ!?」
唇に何かが押しつけられた。それは、強引に私の唇をこじ開けて入ってくる。
「ッ!?」
「…………」
既に力が抜けた私は、黄田くんにさせるがまま。そのうち、背中に壁の感触がした。
「……ッはぁ!」
離れては繋がり、離れては繋がりの繰り返し。降り続ける雨は、体育館の屋根で遮られた。そしてまた、離れた。
「……ごめん」
「……え?」
「……ごめん」
黄田くんが私の体を離し、数歩下がる。上げた黄田くんの顔は、濡れていた。
それが汗なのか。雨なのか。涙なのか。今の私にはわからなかった。
*
季節は過ぎ、夏になった。もう誰かに何かをされることはない日々。だけど、安心していたのは束の間だった。
写真を撮ることしか出来ず、退屈な日々とも言える。そんな、ある日の放課後の出来事だった。
「あ、忘れ物しちゃった……」
学校を出てすぐに気づけたのが幸いだった。いや、その時の私は、幸いだと思っていた。
教室に戻ると声が聞こえる。知っている人たちの声。
『何よこれ……』
『あ』
『……あんたが書いたの?』
『ち、違う!』
唯ちゃんと、黄田くん? 二人で一体何を……?
私は影を薄めて教室を覗いた。夕日をバックに、揺れるカーテン。シャッターチャンスなんて思った。けれど、黄田くんの手に握られている雑巾がすべてを台無しにしていた。
『それ……消そうとしてたの?』
『このことは内緒だよ?』
『いつから?』
『去年』
なんの話? ほんの少し近づいてみる。唯ちゃんは私の元相棒だから、気をつけないと。
『……私の、せい?』
注意深く唯ちゃんを見ていると、二人が囲んでいる席が私の席であることに気がついた。そして、落書きされた自分の机が視界に入る。
嘘……。だって、最近は全然こんなのなかったのに……。
『それは違う! ……俺は、そう思う』
『……もしかして、あれも……』
瞬間、呆然としている私の真横を唯ちゃんが走り去った。……唯ちゃん、泣いてた? どうして唯ちゃんが泣いているの?
「ユイユイ!」
足音が聞こえた時、黄田くんは既に扉まで来ていて――私と、目が合った。
「……あ」
「…………」
すべてを察する。終わってなどいなかったのだと。それを、黄田くんがずっと隠していたのだと。
「……また、泣いてるよ」
そっと、黄田くんの大きな手が私のそれを拭う。
「……なんで? なんで、隠していたの?」
真っ白な頭の中で自然と言葉になった疑問。黄田くんは一瞬戸惑って、それから口を開いた。
「――『助けて』って、声がしたから」
「ッ!」
「言ったよね? 『助けて』って」
「い、言って……」
……言ってない。そう言ったら、どうなるの? そう言ったら、何かが変わるの?
「…………」
「もう一度、言って? 『助けて』って」
「……いいの」
「え?」
黄田くんが目を開いた。私は必死になって黄田くんを止めた。
「わ、私が悪いの。私は、陽のあたる場所に出すぎた《隠者》なの」
私はきっと、こうなる運命。そうずっと思ってた。だからいいの。
「そんなことないよ!」
「ッ!?」
「君だって〝光〟になれる! なっていいんだよ!」
「え……?」
「《隠者》だかなんだか知らないけど、そんなの絶対おかしいから! 紺野ちゃんは……ウサミンは本当にそれでいいの?!」
両肩を掴まれて、強く揺さぶられる。それだけで、黄田くんがどんなに私のことを想ってくれているかがわかった。
こんな私に、好きと本気で言ってくれる人がいるのか。そのことが、とてつもなく嬉しかった。
「……よく、ない……!」
私は負けじと首を横に振る。黄田くんの手が、ピタリと止まった。そして、その手が優しく……私の頭を撫でる。
よくない。それだけ言うことに、どれほどの時間がかかっただろう。
「なら、もう言えるよね?」
優しい瞳が私を捉えた時、コミュ障だとは思えないほど滑らかに出てきたのは
「……助けて」
言葉と。そして、涙だった。
「よく言えました」
そう言う黄田くんの目は、何故か少し潤んでいた。赤星くんを見つめるついでに眺めていた男バスの中で、一番頼りなさそうに見えた彼だけれど――本当は、強くて優しい。
「……黄田くん」
「ん? 何?」
「……ありがとう」
「礼を言うのはまだ早いよ。この机、新品に変えてもらった方がいいよね?」
「そうだね。よいしょ……」
「ちょっ、何してるの!」
「え? 何って、机を運んでるんだけど……」
「一人じゃ無理だよ! 俺も持つから!」
一人で持てるけれど、黄田くんは私と一緒に机を運んでくれる。
「……あ、ありがとう」
最後の最後にお礼を言って、机を変えてもらった私はそのまま帰った。
「……あ、忘れ物」
何しに戻ったのだと責めながら、戻る気にもなれずに歩く。……そういえば、吃らなくなったなぁ。なんて、夕焼けを見ながら思った。
後から聞いた話だけど、この日黄田くんは部活に大遅刻をして緑川くんに怒られたらしい。一応フォローはしてみたけれど、緑川くんは聞く耳を持たなかった。
*
「黄田くん、卒業おめでとう」
「それはウサミンもだよ。卒業おめでとう」
黄田くんが卒業証書が入った筒を弄びながら笑みを浮かべる。
「……あ、そうだね」
卒業生で溢れている校門の側にある音葉公園に私たちはいた。そこは、ある意味二人だけの世界。それがほんの少し、嬉しかった。
「そういえば、高校ってどこに行くの?」
全然教えてくれなったよね、と黄田くんは口を尖らせる。
「あはは、そうだっけ?」
その姿が面白くて、自然と笑みが零れた。
「笑うとこじゃないから!」
「ご、ごめんなさい」
しばらく笑っていると、黄田くんの雰囲気が変わる。いつもとは違う、大人しい――寂しそうな雰囲気だ。
「やっぱ、朱玲?」
「え?」
「……教えてくれなかったってことは、そういうことだよね?」
しゅれい? え、どこ? というかどうしていきなりそんなのが出てきたの?
「ウサミンは赤星くんが好きだもんねー。諦めたくないけど、やっぱ赤星くんは凄いわ」
らしくなく、悲しそうに笑っている黄田くん。だけど私は、なんとなくだけど察した。
「勝手に決めつけないでくれるかな」
「は?」
私は黄田くんの耳たぶを引っ張り、自分の口元に近づける。
「私が行くのは豊崎高校。赤星くんは関係ないよ」
「と、豊崎って……」
「どっかの誰かさんと一緒かな」
あえて名前は伏せておこう。調子に乗っちゃうから。
当の本人は呆然としたまま、しばらくして口を開く。
「え、それって……少しは脈ある?」
「どうかな」
「えっ?! どっち?!」
耳たぶから手を離すと、耳が赤いことに気がついた。
「あ、ごめん。強く握り締めちゃったかな? 耳が赤く……」
「えぇっ?!」
「えっ?」
「耳が赤いの?!」
「う、うん。そうだけど……?」
「ちょっ、あんまり見ないで!」
「な、なんで?」
「なんでも!」
両手で両耳を隠した黄田くんはしばらく唸る。犬みたい……そう思ったのは束の間だった。
「と、とにかく! 同じ高校に行くんだよね!?」
「うん」
「っしゃあ! やったね!」
ガッツポーズを決めた黄田くんを見て、止めておけば良かったかなと少し後悔する。そして――あの日の返事を、いつ言うか迷った。
「黄田くん」
「なになに?」
「私の初恋ね、終わったの」
今は、これだけを言うことが自分自身の精一杯だった。