第一話 止めたい鼓動
中学校の入学式。式が終わった後でも、誰も私に話しかけない。こうやって、誰にも気づかれないまま卒業するの?
それでも、いいかな。そう思った直後だった。
『ねぇ、女バスに興味ない〜?』
『うっえ?!』
『ふぇ?』
先輩であろう人が、一年の教室で部活動勧誘?! しかも私に?!
『え、あ、あの……』
机に座っている私の死角から現れた先輩。って、この人……正門で部活動勧誘してた人……?
『私と一緒にバスケしない?』
『わ、私……バスケ……したことな……ぃ……です……』
人と話すことが苦手。運動が苦手。チームプレーが苦手。こんな私が、バスケなんて……
『だいじょ〜ぶ! 初心者だいかんげ〜だから!』
『あ、あの……』
……そう思ったけれど、正門で泣いてしまった先輩のことを思い出した。
『私で、良ければ……』
こんな私を、見つけてくれてありがとうございます。心から思うから、私は先輩のことが好きになった。
*
全中で優勝し、喜びあったのも束の間だった。
「ゆ、唯ちゃんのお父さんが……?」
聞かされた内容は信じられない内容だった。
「……らしいよ。唯も来てないし、結構な噂になってるし」
「大丈夫……でしょうか?」
「ちょっと心配だよねぇ」
「茶野先輩は受験に集中してください……! 唯だって、そんなの望んでいませんよ……!」
「でも……」
「先輩、受かりたいんじゃないんの?」
「……それは別問題だよ」
「と、とにかく、唯ちゃんを信じましょう……!」
私たちがここで言い合ったって、解決しない問題だもん。
「……そうですね」
「うん、そうだよ」
「……わかった。じゃあ、今日は解散ね」
私たちはそれぞれ別の方向へと歩き出す。『信じる』と言いながら、心配で心配で仕方がない。
「……はぁ」
「どうしたの? 紺野」
「へっ?」
振り返れば、そこに赤髪の少年がいた。
「あ、あ、赤星くん?!」
「うん。っていうか、どうしてそんなに驚いてんの?」
「な、な、なっ?!」
一気に頬が熱くなるのがわかる。どうしよう、何か言わなきゃ……!
「あ、ねぇねぇ。橙乃が休んでるそうだけど、どうしたのかわかる?」
「あ……」
……どうして、そのことを? 赤星くんと唯ちゃんって、そんなに仲が良かったっけ。
「唯ちゃんのお父さんが……その、警察に捕まったらしくて……」
「……そう、なんだ。それで休んでいるだ」
「……う、うん」
「話してくれてありがと、紺野。じゃあまたね」
そう言って微笑んで、赤星くんは去っていった。
男の子で初めて私に声をかけてくれて。男の子で初めて私に微笑んでくれて。好きな人と話せて嬉しいはずなのに、話のきっかけが〝唯ちゃん〟で。その内容も、あまり喜ばしいことではなくて。私は、どうしていいかわからなかった。
そのまま翌日になって、結局何もしないで帰った昨日を思う。唯ちゃんの家に行こうか迷ったけれど、止める。それは、そっとしておいた方が良いと思ったから。
彼女が学校に来た時に温かく迎えようと決めて、教室の扉を開ける。
「……え?」
見ると、ロッカーに置いてあったはずのバッシュが机上に――
「な、なんで?」
――ボロボロの状態で置かれてあった。
さらに、それの隣には数枚の写真。どれも私と赤星くんが写っていた。それらを震える手で退かすと、机には大きく《隠者》と書かれていた。
元から影が薄いせいで、いつも誰も私に気づかないけれど――今日だけは、悪意を感じた。
「席につけー、ホームルーム始めるぞー」
担任の先生が来たとわかった瞬間、私の体はコートと同じように素早く動いていた。ボロボロのバッシュと写真だけを持って、教室を飛び出す。
……大丈夫。だって、私なんか居なくても誰も気づかないから。
私が向かった先はごみ捨て場。それも、すべてのごみが集まる場所。
「はぁ……! はぁ……!」
息を整え、改めて見たバッシュはもう履けそうにない。これは、ごみ箱に投げ捨てた。
次に見たのは、写真。好きな人とのツーショットでも、喜びは感じられない。これは、破いて捨てた。
「……私は、唯ちゃんの影」
そうだ。私は、陽のあたる場所に出過ぎた《隠者》。唯ちゃんの影にはなれないほどの〝醜い影〟だ。……退部届けって、どう書くんだろう。
試行錯誤を繰り返し、退部届けを出して、数日が経ったある日。琴梨ちゃんと凜音ちゃんも退部したという風の噂が、私の心を締めつけた。
……どうして退部したんだろう。私の場合は、バッシュ。二度と履けないそれは、二度とコートに立つなと言っているようだった。
「…………ちぃ、ちゃん?」
「…………ぁ」
顔を上げると、唯ちゃんがいた。
「ち、ちぃちゃん、どうして……」
お父さんの件があるのに、私の件で迷惑をかけたくない。だから――
「ご、ごめ、ごめんなさい……」
――温かく迎えられなくて。弱くて。何も言えなくて。
「……何が? ねぇ、ちぃちゃん。何がごめんなさいなの? ……女バスを辞めたこと?」
「――ッ! ……ごめ、ごめんな、さい……。もう、唯ちゃんの側には……いられ、ない」
「ッ!?」
「……ごめんなさい」
私は、それだけ言って走り去った。
*
二年になって、暖かい春の日射しが私を照らす。あの日から半年。退部してからは何もなく、平和な日々が続いていた。
けれど、私は戻るつもりなんて一切ない。
「あ」
目の前に、部活勧誘のポスターが貼ってあった。その中には、勿論女バスのもある。
「…………」
私はそのポスターを、指先で撫でた。
「……唯ちゃん、私、応援してるから」
女バスの存続を。そして――赤星くんのことを。
未だに彼のことが好きだけれど、諦める。だって、赤星くんは唯ちゃんが好きだから。なら、私が身を退かなくちゃ。
不意に吹いた風が私の髪を撫でる。風の吹く方向へと目を向けると、そこには小さなポスターが貼ってあった。
「……写真部?」
写真と聞けば、あの日のツーショット写真を思い浮かべる。よく撮れていたけれど、私は破いてしまった。
「……写真、かぁ」
いいかもしれない。何かの部活に入らないとお母さんも心配するだろうし。写真部に入るとお母さんに報告すると、お母さんは安堵した。
*
「いってきまーす」
「……あら、今日は早いのね」
「うん。朝の学校の写真を撮りたいの」
「そう。頑張ってね、写真部」
買ってもらったばかりのカメラを持ち、家を出る。写真部に入部してから、日常が少し変わっていった。
朝練ばかりで気づかなかったけれど、朝の景色はきれいだ。雨上がりは特にきれいで、太陽に照らされる雫の美しさはなんとも言えない。
小柄な体格を生かして、様々な写真を撮ろうか……そう考えていたら学校に着いてしまった。
「よし!」
気合いと同時に、カメラの電源を入れた。
『おはよう、みんな』
『おはよ〜、タク』
『二人ともー! おっはよー!』
「ッ!?」
振り返ると、男バスの人たちがいた。
『はよ』
『おはようみんな〜』
そうか、朝練の時間だもんね。
『おはようございますっ!』
『ちょっ、猫宮君! 抱きつかないでください!』
『大丈夫? 黒崎』
『……大丈夫に見えますか?』
赤星くんは『見えない』と即答し、『モ〜モ! 離れろって!』と猫宮くんに抱きつく。
『……あんたら、朝っぱらから何してんの』
あ、唯ちゃん。
『おはようユイユイ〜。相変わらずちっちゃいね〜』
『うっさい! それに、私より小さい人他にいるし!』
それって、もしかして私のことかな。
『見苦しいぞ』
『はぁっ?!』
『お前より小さいっつーことは、小人か?』
『違うわ!』
私、小人なのか……。なるほど。
なんだかんだ言ってるけれど、彼らはとても仲が良さそうで――私みたいな影が入る隙もない。
「あ」
今、みんないい顔してる。
『『ッ?!』』
「ッ!」
無意識に撮ってしまった私を、八人の双眸がはっきりと捉えた。ど、どうしよう?!
「え、あ……その……」
徐々に顔が下がる。たくさんの人に見られると、恥ずかしい。恥ずかしさのあまりに泣きそうになる。
『……ちぃちゃん』
「ッ!」
『え……と……』
唯ちゃんが口を噤む。そう、だよね。今の私と唯ちゃんの関係は、相棒でもなければ親友でもない。友達でもなければ、クラスメイトでもない。
「…………」
何故か溢れてきた涙を制服の袖で拭い、顔を上げる。すると、前髪の隙間から赤星くんと目が合った。
「ッ!?」
『あっ!』
私は校舎に向かって走っていた。ただがむしゃらに、みんなから逃れる為に。
自分のクラスに逃げ込むと、足が竦んだ。そのまま座り込むと、また涙が溢れてきた。
「諦めるって、決めたのに……!」
この鼓動は、どうやって止めればいいの?
*
「……現像……しちゃった……」
手汗が溢れて止まらない。撮った日に消そうと思ったけれど、勿体なさ過ぎて消せなかった。そして、気がついたら現像してしまったのだ。しかも、九枚。
「……だって、見られたんだから……渡さないと……。でもでも、勝手に撮ったんだから……怒られるかな……だからって九枚もいらないよぉ……」
男バスが使う体育館の裏口で、脳内会議を開くこと早一時間。
「早くしないと、日が……」
「どうしたんですか?」
「……暮れちゃう……って、うぇえ?!」
「わっ! び、びっくりしました……」
顔を上げると、猫宮くんが私の顔色を覗き込んでいた。
「こ、こ、猫宮くん!」
「こんなところでどうしたんですか?」
「あ、あの、こ、これ……! みなさんに渡してくださいそれではさようなら!」
「えっ?! あっ、あの! 紺野さん?!」
遠くなる声を聞き流して、全速力で走る。みんな、喜んでくれるかなぁ? そうだといいな。そう願った。
*
「あれ? 猫宮くん、その封筒何。どうしたの?」
「これですか? これはさっき、紺野さんに渡されて……」
「なになに? 貸して!」
「はい!」
赤星くんが封筒の中から取り出した物は、写真だった。これって、前に紺野ちゃんに勝手に撮られたヤツだよね?
「うわぁ〜! よく撮れてますね!」
「え、ちょっ、俺にも見せて!」
「うわ、黄田君! 引っ張っちゃダメですよ!」
「何これ! 俺すっごくよく撮れてるじゃん!」
「なんだそれ」
「これ、プロ並みって感じ? 俺のことよくわかってるなあ〜!」
「キモ。ソウってホントナルシストだよねぇ」
「こんなの、そう簡単に撮れないよ〜!」
信じられない。これを紺野ちゃんが撮ったなんて――でも、本当に撮ってたしね。間違いはないね。
「……練習サボって何してんの?」
「あ、橙乃さん。これ、紺野さんからです!」
「え?」
ユイユイが、震える手で写真を受け取った。
「そういえば、二人の間に何があったの? 退部してから全然話してないよね?」
「……あ、それ私も気になります」
「だよねだよね。黒崎ちゃんもそう思うよね〜?」
「…………」
けれど、何故か橙乃ちゃんは黙った。
「あれ?」
しかも、みんなの出す雰囲気も良くない。ていうか俺睨まれてる?!
「馬鹿者」
「えぇっ?!」
「……別にいい」
「……橙乃さん」
「多分、私のせいなの」
「え?」
「……だけど、やっぱわかんない。わからないまま去年辞められちゃったし」
「あぁ……そうだよね」
確かに、みんなの退部は急だった。ユイユイがそう思うのも無理はない。
「今は写真部で頑張ってるらしいよ。……これ、本当によく撮れてる」
大事にしなくちゃね。そう言って、ユイユイは笑った。俺は「そうだね」と相槌を打った。
翌日の朝も、いつも通り登校する。けれど
「おっはよ〜、紺野ちゃん」
「ッ!?」
紺野ちゃんは、話しかけた途端に飛び上がった。
「あれ? そんなにびっくりした?」
驚かすつもりはなかったんだけどな。紺野ちゃんは最近いっつもビクビクしているしそのせいだろう。
「あ、き……黄田くん」
「うんうん、俺。久しぶりだね」
「う、うん。久しぶり……」
同意するようにコクコクと頷く。なんか、ユイユイ以上に小動物っぽい。ていうか可愛い?
紺野ちゃんがユイユイの元相棒なのは知っているし、あの写真を撮った子だということも知っている。けれど未だに信じられなかった。
「……世の中不思議だよねぇ」
「……え?」
「ううん。こっちの話だよ」
*
「ううん。こっちの話だよ」
「…………」
黄田くんは明るく笑った。それは、私には到底できそうにない笑顔だった。
「ん? どうしたの?」
「い、いえ。別に……」
黄田くんと私は違う。すぐにそう思った。
「そう?」
「……はい」
「ふぅん。ねぇ、これから一緒に行かない?」
「……え、行くって……ど、どこに……?」
「教室に決まってるでしょ? 隣のクラスだよね、確か」
「ッ!」
私には、さっきから不思議に思っていることがある。
どうして黄田くんには私が見えるの? どうして話しかけてきたの? どうして隣のクラスだって……知っていの?
不思議な人。いろいろと聞きたいことがたくさんある。だけど、これ以上〝光〟には関わりたくないなぁ。
私にとって黄田くんは、避けるべき存在のように見えた。