第一話 陽気な日に誘われて
桜咲く春の暖かな陽気の日。階段を上がり、第三体育館内を見渡す。すると、男子バスケットボール部が練習をしているのが見えた。
バスケなんて、もう二度とやりたくない。そう思っている私ではあるが、これを見てしまうとどうしても体がムズムズしてしまう。
シューズの音がリズムよく鳴り響く。蒸し暑い空間を心地よい風が冷ます。ここまで届く彼らの熱気――。
帰宅部の私であるけれど。バスケ嫌いな私であるけれど。放課後、この体育館に毎日欠かさず来ては、こうして練習風景を眺めて帰る。
彼らのマネージャーである猫宮桃太郎が、『一緒にマネージャーやりませんか?』なんて言ってしつこく勧誘してくるけれど、生憎バスケにはもう二度と関わりたくない。……矛盾しているのはわかっている。けれど、それをやめられない何かが〝ここ〟にはあった。
それに、私――黒崎奏歌には、〝ハンデ〟があるから――。
*
「あの、一緒にマネージャーやりませんか?」
昼休み。同じクラスの彼は、また私をマネージャーに勧誘する。
「ごめんなさい」
「でも、転校初日からずっと男バスの練習を見に来てくれていましたよね? それほど興味があるなら……」
「ないです」
私は彼の言葉を遮る。
「でも……」
「モ〜モっ! どう? マネージャー勧誘上手くいってる?」
顔を上げると、耳に髪をかけてピンで留めさせた元気な少年が猫宮くんの肩を抱き寄せていた。
距離感近いなぁ。そんな私の思惑を知りもしないで猫宮君は笑っている。
「あ、赤星くん! 紹介しますね。彼、男バスの……」
「赤星健一君、ですよね?」
「えっ?」
「うん、正解! はじめまして。君って転校生だよな? 俺隣のクラスだからちょっと疎いんだけど」
驚く猫宮君を他所に、ちょっと馴れ馴れしい感じの赤星君が私に詰め寄る。
「はい」
あぁ、近いなぁ。
「そっか! まぁ、何はともあれこれからよろしくな! マネージャー!」
「いや、私、マネージャーやらないので」
私は呆れて言葉を返した。
勘違いされると大変だから一応言うけれど、誰がいつマネージャーやりますなんて言ったんだろう。お願いだから人の話を聞いてほしい。
「け、見学だけでもダメですか? 部活まだ決まってないんですよね? うちの部今すっごくマネージャー不足で困ってるんです……!」
「ていうか君、毎日見学してるじゃん。それでもイヤなの?」
「えっ!?」
「赤星君、気づいてたんですか?」
驚く私と猫宮君の表情を不思議そうに眺め、赤星君は「うん」と軽く頷く。
「毎日熱心にこっちを見てるしさ。みんな気づいてるぜ?」
「…………」
気づいてたんだ。けれど、気づかれたところでなんとも思わない。
「あっ。あの、今日も来ますよね?」
不安そうにそう問いかける猫宮君。私は否定できずに短く頷いて、自分の意思を示した。
「ありがとうございます! 放課後、待ってますね!」
嬉しそうにそう言って、彼は自席へと戻っていく。
「俺も待ってるよ。勿論他のみんなもな」
そして、赤星君もすぐに隣のクラスに戻っていった。
「…………」
行くよ。……だから、待ってて。誰に聞かせるまでもなくそう心の中で呟いて、私は決心した。
*
「あ、こっちですよー!」
いつもどおり二階から彼らの練習を見下ろす。猫宮君は私に気づき、大きな声で声をかけてきた。
「どうしたんですかー?! 下りてこないんですかー?!」
本当は行きたくなかったけれど、一軍全員の目が私のことを捉えていた。……これは、行かなきゃいけない雰囲気だ。
私は階段を渋々と下り、彼らの前に立った。
「みなさんにも紹介しますね。この人は僕のクラスの転校生の、黒崎奏歌さんです」
「初めましてー、隣のクラスの黄田宗一郎だよ。よろしくねー」
満面の笑みを浮かべる細身の少年。
「……は、はぁ」
「確か、アメリカ帰りの帰国子女なんだよな!」
歓迎してくれる赤星君。
「……そうです」
「お前かよ、猫宮が言ってた新しいマネージャーってのは」
どう見ても感じの悪い不良少年……って
「えっ?!」
「はい! そうですよっ!」
「ちょっ、なんでそんなことになって……」
慌てて猫宮君の肩を掴むけれど、猫宮君はまったく人の話を聞いていなかった。笑って首肯して、私を混乱させているだけ。
「あんた、バスケが好きなのか?」
一見大人しそうな少年の問いに動きを止めて、恐る恐る彼を見上げる。自分の胸に手を当てて、私は自分の気持ちに正直に答えた。
「……いいえ。というか、私はバスケなんてもう二度とやりたくありません」
「……つまり、冷やかしだとでも言いたいのか?」
「違います」
「馬鹿馬鹿しい。矛盾しているぞ」
少年は盛大にため息をつき、私のことを侮蔑した。その気持ちは痛いくらいにわかるし、わかってほしいとも思っていない。
「……そうですね」
私はそうやって答えることしかできなかった。
「緑川くん、黒崎さんは転校してきたばかりなんですから優しくしてあげてくださいっ!」
一方の猫宮君は、そう言って私を体育館の端まで引っ張っていく。服が伸びると思ったけれど、それを上手く言葉にすることもできずに私は大人しくついて行った。
「お願いします! マネージャーになってください!」
手と手を合わせて頭を下げられる。
「でも……」
「ですが、このままだったらみなさんに『好きな人がいるから来てるんだ』って思われちゃいますよ……?」
「えっ?!」
「やっぱり、こういう感じの噂って黒崎さんも嫌ですよね……。僕も注意したんですけど、みなさん聞いてくれなくって困ってるんです」
断ろうと思っていたけれど、猫宮君の話を聞いて固まった。
好きな人?! 何をどうすればそうなるの?! 私の表情を察した猫宮君は指と指と絡めて俯く。
「……だって、〝バスケは嫌いだけど男バスの練習を見に来る〟ってことは、〝男性……つまり好きな人を見に来る〟ってことになるじゃないですか」
「あ」
そっか。言われてみればそうかもしれない。私はさっき、それを思わせるような発言をしたんだ。
「本当に好きな人がいなくても、そんな誤解を受けたままだったら見学しづらいですよね?」
「……そう、ですね」
「あのっ、お願いします! 本当にマネージャーの人数が足りなくて困っているので頼まれてくれませんか……?!」
猫宮君は、また手と手を合わせて頭を下げた。マネージャーの人数……私は充分いると思うけれど、選手の数と比率が合っていないのだろう。小さな彼の手の荒れ方は苦労している人のそれだ。
「……わかりました」
「えっ、本当ですか?!」
渋々了承すると、猫宮君は今までの不安そうな表情をどこへやったのか弾けるような笑顔を見せる。
「はい」
今まで嫌だと思っていたが、そんなことは彼の笑顔で吹っ切れてしまった。
「戻りましょう。私、やるからにはみなさんにもちゃんと挨拶したいので」
「ありがとうございます……! 黒崎さん大好きですっ!」
「わっ、ちょ……!」
急に抱きつかれてしまったが、アメリカで慣れていることもあってか抵抗はなかった。私は猫宮君のふわふわな髪が間近にあるのを感じながら目を閉じる。
半年くらい前、全中でも私はこの髪を見た。いや、この髪の少年と私は少しだけ言葉を交わした。猫宮君はもう覚えていないだろうけど、私は何故か覚えていた。
「これからよろしくお願いします」
「はいっ、よろしくお願いします! 黒崎さん!」
猫宮君の輝かしい笑顔を、私は今でも――。
*
笛の音が、体育館に響き渡る。
「今日の練習はここまででーす!」
あの日から数日。マネージャーの仕事には大分慣れてきた。ぞろぞろと集まってきた彼らはお菓子を出し合って、目の前に集まった不要物を私は冷めた目で見下ろす。
「やった〜! 終わりだ〜!」
紫村君は部活が終わると本当に活き活きするな……。最初はやる気がないのかと思ったけど、これでもスタメンなのだから人ってよくわからない。
「黒崎さん、食べますか?」
「猫宮君……って、それはなんですか?」
「飴ですよ。何味がいいですか?」
「え、えーっと……そうですね……」
困ったな。猫宮君の手中にある飴玉を見て戸惑う。
「イチゴ味、レモン味、ブドウ味しかないんですけど……」
「……あ。じゃあ、イチゴがいいです」
猫宮君は、私に飴玉を手渡した。私はそれを口に含み、不要物の消費に加担してしまう。
「…………」
そんな私の横顔を猫宮君は何故かじっと見つめていた。私はその視線に耐えられず、思わず彼を見て問い詰める。
「さっきからどうしてジロジロと見てくるんですか」
「い、いえ! なんでもありませんっ!」
慌てて手を振る様はなんでもなくない。私はため息をついて自分よりもほんの少し背の高い猫宮君にデコピンをした。
「わっ……!」
「落ち着いてください」
「は、はい! 落ち着きます!」
深呼吸をし、微笑む猫宮君は最早別人だ。私は帰る準備をしようとしたけれど、その背中を猫宮君が呼び止めた。
「ところで黒崎さん、今日は一緒に帰れますか?」
猫宮君がそう聞くのは、私と一緒に帰りたいというそれではない。なんだかんだで仲良く一緒に帰っている輪の中に入ってほしいというそれだった。
「……ごめんなさい、今日も寄る所があって」
「今日もなんですか? ……わかりました。じゃあ、また明日会いましょう!」
「誘ってくれてありがとうございました。さようなら」
「はいっ! さようなら!」
元気良く手を振る猫宮君は愛らしい。けれど、踵を返した私が見た鏡にはただ見つめてくる猫宮君の瞳が映っていた。
「ッ!」
何もかもを見透かしたような、何を考えているのかよくわからないその瞳が私の心に引っ掛かる。
もしかして、〝あれ〟、バレちゃった?
途端に背筋が凍りついた。これから気をつけなきゃ。そう心に決めて駆け足になる。
さっさと用事を済ませて外に出ると、既に太陽は沈んで見えくなっていた。雲で見え隠れする月が浮かぶ中、私は一人で帰路に着く。しばらくして自宅が見えてきた。
「ただいま」
「おかえり。……どうだったの?」
心配そうにお母さんが尋ねる。
「……大丈夫。いつも通りだよ」
「……そう」
「心配しないで、お母さん。このままでいいって向こうにいた時も言ったでしょ?」
「……そうね」
それでも尚、お母さんは心配そうな表情を止めなかった。
ごめんなさい。こんな娘でごめんなさい。
そんなことは口には決してできないけれど、そう強く思ってしまう毎日だった。
*
「お疲れ様です、黒崎さん」
「お疲れ様です、猫宮君」
「今日は一緒に帰れますか?」
「はい。今日は大丈夫ですよ」
今日はなんの予定もない。断り続けるのも申し訳なくて答えると、猫宮君の表情は一気に華やいだ。
「わっ、本当ですか?! みなさーん、今日は黒崎さんも一緒ですよー!」
「ちょっ、そんな大きな声で言わないでください!」
「あっ! す、すみません……!」
「……別に、そこまで怒ってるわけじゃないですけど」
猫宮君の扱いは難しい。少しでも猫宮君を傷つける発言をしようものなら、紫村君から過剰な暴言を浴びることになるだろう。
私は渋々猫宮君の後について行き、あまりにも多すぎる部員たちがいつものメンバーに分かれて帰っていくのを横目に全員と合流した。
「黒崎! 良かった、今日は用事ないんだな!」
いつも元気な赤星君。
「ねぇねぇ、黒崎ちゃんがいつも言ってる用事ってなんなの?」
人の話を過剰に聞きたがる黄田君。
「黄田、軽々しくそういうことを聞くな」
みんなにいつも小言を言っている緑川君。
「ねぇ、モモっていっつもサキのこと気にかけてるよね。なんで? ねぇなんで?」
猫宮君の一番の友達で口調がキツめな紫村君。
「おいお前ら。さっさと帰んぞ」
そして、いつも苛々している青原君だ。
「ごめんなさい、青原くん。でも、黒崎さんは転校してきたばかりなので話し相手がほしいかなって思ったんです」
……余計なお世話、だと思う。けれど、猫宮君は温かく笑っていた。そんな猫宮君の温かさが眩しかった。
ぞろぞろと列を成して帰っていく私たちだったけれど、途中で赤星君が足を止めて寄り道をする。
「コンビニ……ですか?」
あまり利用したことのないそれを見据え、私はさっきまで話していた猫宮君に視線を移した。
「もしかして、コンビニは初めてですか?」
「はい。日本のコンビニ、初めてです」
「そうなんですか! じゃあ、一緒に寄り道しましょう! 黒崎さん!」
「はい」
楽しそうにコンビニの方へと私を案内する猫宮君は、私のことを軽く馬鹿にしているのだろうか。いや、猫宮君に悪意はないんだろう。今まで接してきたからわかるけど、そういう子に見えるし。
「コンビニにまだ行ってないのなら、黒崎さんにはまだ行っていない日本のお店がたくさんあるんですね!」
「そうなりますね」
「じゃあ、いつかみんなで一緒に行きましょう! 少しずつ増やして、楽しい思い出にして……! 日本のこと、僕がたくさん教えてあげますから!」
「……ありがとう、ございます」
あまりにも猫宮君の勢いが強すぎて、思わず礼を言ってしまった。……どうして日本人って、こんなに優しいんだろ。いや、猫宮君だけか。他の日本人も並以上には優しいけれど。
「黒崎さん、何にするか決めた?」
店内をしばらく歩いていると、赤星君に声をかけられた。
「まだです。もしかして、みなさんもう決めちゃいましたか?」
「んーん、洸がお菓子コーナーから動かなくってさ。しばらくはかかりそうかなぁ?」
『だってこんなに新商品あるなんて聞いてないもん!』
『この新商品、アイデアが奇抜だなぁー。俺買っちゃおうかなー』
『奇抜じゃなくてゲテモノじゃねぇかそれ』
『黄田は相変わらずゲテモノ好きだな』
『あ、みなさん見てください! この新商品、コラボ商品らしいですよ……!』
「……そのようですね」
隣の棚から賑やかな声が聞こえてくる。端から見るととても楽しそうで、自然とアメリカにいた頃を思い出した。
「じゃあ、俺はレジに行ってくるよ。それと、俺たち同級生なんだし敬語なんか使わなくていいから!」
「あ……。私、敬語しか喋れないんです」
「そうなの? じゃ、これから覚えてこう!」
「ありがとうございます」
会釈した。私は歩を止めて、日本ならではの商品とにらめっこをして気を紛らわせる。……びっくりした。赤星君は意外と鋭いな。
ちゃんと見ていなかったせいで結局何も買わなかったけれど、嬉しそうにお菓子が入った袋を振り回す紫村君たちを見ているとまたみんなで来れるかな、なんて思える。
「じゃあな」
「はいっ、また明日!」
赤星君、緑川君、紫村君、黄田君に続き、青原が違う道へと進んでいった。私と同じ道に進むのは、もう猫宮君だけ。
「……あの、黒崎さん」
「はい?」
何やら深刻そうな表情で足を止めた猫宮君は、一息吸い込んで決意を固める。
「あそこの公園に、一緒に寄り道してください」
そう言われて、私はまた断れなかった。
「い、いいですけど……」
「ありがとうございます」
寄り道? どうして? いいよって言ったのに喜ばないのもなんだか変だ。けれど、私は顎を引いて猫宮君について行った。
私は帰りが遅くなることをお母さんに伝える為、持たされていた携帯を取り出す。数秒の沈黙。お母さんはすぐに出てきた。
『どうしたの? 何かあったの?』
「ううん。近くの公園で〝友達〟と遊んでから帰るね」
『……そ、そう。わかったわ』
通話を切る。お母さんは心配性だと思うけれど、猫宮君は変なことなんかしない。そういう子じゃないとわかっているから信じている。猫宮君はどこまでもいい子なのだ。
だから、ブランコに腰を下ろしていた猫宮君に倣って私もブランコに腰を下ろした。
「猫宮く……」
そこまで言って、不意に名前を呼ばれる。
「――何か、僕たちに隠し事をしていませんか?」
刹那に心臓が止まる音がした。