なまえをよんで!
バーンと大きな音を立てて開いた扉に、津田真之介は握っていたペンを放り投げてしまった。
「な、なんだ?」
バクバクと鳴る心臓を押さえながら音の出所へと目を向ける。大きく開け放たれた扉――その先に、一人の少年が立っていた。
すらりとした体躯に癖のない焦げ茶色の髪。随分と見覚えのある立ち姿だが、ここは彼にとって敵地であるはずだ。彼がそう易易と訪れるとは思えない。
「み、みくに……?」
恐る恐る名前を呼べば、少年がゆるりと顔を上げる。
色素の薄い吊り目、すっと通った鼻筋、薄い唇。その美しい顔立ちは間違いなく、生徒会長である三國英のものだ。
(なんで三國がここに……?)
津田は、放り投げたペンを拾うことも忘れて少年を凝視した。
三國英といえば、持ち前のルックスと能力の高さで有名な男だ。お世辞にも愛想が良いとは言えないが、見目も良く、やることはやるため、一般生徒からの評判はすこぶる良い。
一方で、三國は風紀委員会をひどく敵視していた。――いや、風紀委員会というよりは、風紀委員長である津田を敵視していると言ったほうが正しいかもしれない。
風紀委員会宛ての書類を届けに来るのはいつだって他の役員。廊下で津田とすれ違おうものなら眼光鋭く舌を打つ有り様。
そんな彼が津田は苦手だった。当然といえば当然である。自分を嫌っている相手に好意を抱くことは誰であろうと難しい。
「……会長……?」
微動だにしない三國を不審に思った副委員長――吉野壮人が呼び掛ける。
それにようやくピクリと反応を示した三國だが、視線は先ほどから津田を捉えたまま動かない。
なんとなく、彼の目が虚ろなことに気付いたときだ。
「しんのすけ」
薄い唇が紡ぎ出した名前に目を丸くする。
「は?」
思わず間抜けな声が漏れた。
しんのすけ。確かに彼はそう言った。この場合、状況からして“津田真之介”の“しんのすけ”に間違いないだろう。
しかし問題は、その名を口にしたのが三國という点だ。
津田は今まで、三國に名前どころか名字すら呼ばれたことがない。そもそも、まともな会話を交わしたことがないのだ。
固まったまま動かない津田に痺れを切らしたのか、三國はもう一度その名を呼ぶ。
「しんのすけ!」
そしてあろうことか、一番奥の席に腰掛ける津田の元へ駆け寄り、ぎゅうっとその首に腕を回したのだ。
「み、みみみ、みくに……!?」
「かっ、会長!?」
突然の奇行に、津田と吉野はぎょっとする。
そんな二人に構わず、目を細めて頬擦りする三國。
午後四時の風紀室に衝撃が走ったのだった。
なまえをよんで!
「……吉野、この状況を説明してくれ」
自分の机からソファへと移動した津田は、視線を彷徨かせながら吉野に助けを求めた。
「俺が知るかよ……」
そう素っ気なく返す吉野も、居心地悪そうに額を押さえている。
「つーかさ、それ、本当に会長?」
「……少なくとも見た目は三國だな」
二人の視線が向かう先はもちろん三國だ。
この混乱の原因である彼は、津田の手を握りにこにこと笑っている。津田と目が合うと、一層嬉しそうに目が細められた。普段の彼からは想像できない表情に、津田は「三國にも表情筋ってあったんだな」とおかしなことを考える。
「なぁ、三國?」
頬を引き攣らせながらそっと手を離そうとすると、より強い力で握られてしまった。痛みに顔を歪める津田をよそに、三國は声を上げる。
「なまえ!」
「はぁ?」
「なまえでよべ!」
「いだだだだ……!」
ギチギチと握る手に力が篭もる。様子がおかしくても暴君ぶりは健在だ。
「しんのすけ」
舌っ足らずに急かす三國。
観念した津田は、ええと、と口を開いた。
「はなぶさ」
これでいいか、と尋ねる前に、嬉しそうに破顔した三國に抱きつかれてしまう。
「いだだだだ! だから力強いってお前!」
「なまえ!」
「は、はなぶさ」
「うん」
三國は頬を染め、甘えるように津田の首筋に顔を埋める。吐息が肌をそっと撫でていくのがこそばゆい。
息を詰め、吐息から逃れようと身を捩ると、わざとらしい咳払いが向かいから寄越された。
「こらこらこら」
「なんだよ」
「俺がいる前で、そんなやらしい顔しないでもらえますかね」
「やっ……!」
やらしい顔ってどんなだ!
津田の叫びは声にならなかった。
「そんな、目尻染めて堪えるような顔しちゃってさ。会長とどんな関係になろうがお前の勝手だけど、俺の前ではやめてくれよ。居た堪れないだろ」
「馬鹿言うな! 擽ったかっただけだよ!」
吠えるように言い返しても、吉野の目はやはり胡乱げだ。
男相手にそんな誤解をされるなんて堪ったものではない。
どうにか三國を引き剥がそうとする津田だが、細い体のどこにそんな力があるのか、依然としてぴっとりと抱きついたまま。コアラに抱かれる木にでもなった気分だ。
結局、現状について知ることができたのは、副会長の相川芳が駆け込んで来てからだった。
*
「で? 洋酒入りの菓子を食べて会長はこうなったって?」
「はい」
吉野の問いに相川は深く頷いた。
「へぇ。様子がおかしいとは思ったけど、まさかただの酔っ払いだったとはな」
「会長がこんなにお酒に弱いとは知らなくて……。お二人にはご迷惑をお掛けしました。会長は責任を持って引き取らせていただきますので――」
「いやだ!」
まるで保護者ような相川の言葉を遮ったのは、紛れもなく元凶である酔っ払いだった。
津田にしがみついたまま、三國はギロリと相川を睨む。
「おれはしんのすけといっしょにいる!」
「ですが、会長……」
「うるさい! ぜったいやだ! しんのすけといっしょにいる!」
「ああっ、普段素直になれない反動がこんな時に……!」
相川は嘆きながら顔を覆った。どこか喜んでいるようにも見えるが、相川はもとより変わったところがある少年だったので深く追究しないことにする。
それより今は事態を収拾させなくては。
まいったなぁと息を吐き、提案すべく手を挙げた。
「もう埒が明かないから、今回は俺が引き取るよ。引き取るって話もおかしいけど……。今はお互いそんなに仕事もないから大丈夫だろ?」
その言葉に三國だけでなく相川までもが目を輝かせる。感動しているように見えるのは何故だろう。
「ほ、本当ですか! そう仰っていただけると助かります! ついに津田くんとの関係に進展が……!」
「進展?」
「いえ! こっちの話です!」
相川との会話もそこそこに、袖をぐいぐいと引かれる。
「どうした?」
意図せず、幼い子供に話し掛けるような口調になってしまった。さすがに怒られるかと思ったが、全くの杞憂だったらしい。
三國は、それこそ子供のように目をこしこしと擦って言う。
「……ちょっとねむい……」
「え、眠い?」
津田は瞬いた。
いやに突然だな。酔いが回りきったのだろうか。
「じゃあ送って行ったほうがいいかな……。相川、みく――英の家の場所って知ってるか?」
「いえ、最寄り駅までなら知ってますけど……」
「駅かぁ……。じゃあとりあえずそこまで……ん?」
会話を遮るように、再び袖を引かれる。
「まだかえらない」
「え、でも眠いんだろ?」
「ここでねる」
ここ、というのは、単に風紀室を指しているわけではない。三國の手は、現在進行形で腰掛けているソファを叩いた。
「ここで、しんのすけとねる」
「……それは……どうだろうなぁ……」
このソファは、横並びで三人腰掛けたらいっぱいいっぱいなサイズ。それなりに年季も入っているし、スプリングだってイマイチ。決して寝心地は良くないはずだ。
もちろん、問題はそれだけではない。
(大の男が二人でこんな……)
「いいんじゃないか?」
傍若無人な子供になってしまった三國を納得させる理由を頭の中で並べていると、そんな無責任な言葉が飛んできた。
「ちょっと眠れば酔いも醒めるだろ」
「はぁ?」
「あと三時間もしないうちに見回りも来るだろうから寝過ごす心配もなし。相川もそう思うだろ?」
「そうですね! 大賛成です!」
「何を――」
「てことで俺は帰るわ」
「あっ、僕も帰ります!」
「おい!」
勝手に決めるな、という声は、扉が閉まる音に掻き消された。相川はともかく、吉野は帰り支度が素早すぎないか。
「あいつら……」
大して仲なんて良くないくせに、こんなときばかり息を合わせやがって。
「しんのすけ?」
名を呼ばれ、忌々しげに扉を睨みつけていた津田はハッとして振り返った。
よほど眠たいようで、三國の声から先ほどまでの覇気が感じられない。瞳もとろんとしている。
(……これは、どうするべきだ……)
体験したことのない状況に困り果てる津田だったが、彼も馬鹿ではない。
観念したとばかりに深く息を吐き、ソファの端に寄る。そして自らの太腿を二度ほど軽く叩いた。
「さすがに二人で横にはなれないから、これで我慢してくれよ。寝心地は保証しないけどな」
俗に言う、膝枕というやつだ。
まさか自分がされる側ではなくする側になろうとは。況してや男相手に。
添い寝でないことに不満がるかとも思ったが、睡魔が勝ったのかのそのそと横になる三國。もしかしたら、津田が近くにいれば何だって構わないのかもしれない。
移動のために一度離した手を再び握られる。きゅっと握り返して、ついでにやわらかな髪も梳いてやれば、その下で嬉しそうに笑ったのを感じた。だんだんと扱い方がわかってきた気がする。
「……しんのすけ」
「なんだ?」
「なまえ……」
「英、はなぶさ」
「……しんのすけ」
「うん」
「すき」
「うん、……うん?」
あれ?と思ったときには遅く、爆弾を投下した三國はすやすやと夢の世界へ旅立ってしまっていた。
しばし呆然とする津田だったが、眠ってしまった暴君を起こすわけにもいかず、仕方なしに彼のもちもちとした頬をやさしく抓る。そのまま津田の瞼が下がるのに時間は掛からなかった。
*
「おい! 起きろ! おい!」
耳元で誰かが騒いでいる。
「んん……?」
津田は覚醒しないままのろのろと顔を上げた。
目の前には怒り狂った暴君のお綺麗な顔。心なしか頬が赤いが、寝惚けた津田は気付かない。
「なんだこの状況は! つーか手を離せ!」
どうやら三國の酔いはすっかり醒めてしまったらしい。鋭い目つきは普段の三國そのものだ。
なんとなく残念に思いながら、繋いでいた手を離す。振り解こうと思えばできただろうに、何故そうしなかったのか。
窓の外はもう薄暗い。壁の時計を見上げると、時刻は六時を回ろうとしていた。
「俺まで寝落ちしてた……」
ソファに座った状態で一時間半も眠りこけていたからか、体がバキバキに固まっている。ぐっと伸びをしても完全にはほぐれてくれやしない。
男の膝枕なんかで眠った三國もさぞ体をおかしくしていることだろう。況してや酔っぱらいである。
「もう大丈夫なのか? 吐き気とか、頭痛とかは……」
「は?」
気遣って尋ねれば、意味がわからないという顔をされた。
「まさか、憶えてない? 何も?」
「何の話」
「マジかよ」
あれほど引っ掻き回しておいて何も覚えていないだと? 人騒がせにもほどがある。
津田は深い溜息を落とした。横でビクリと肩が揺れる。
(でもこれ、ちゃんと話しておかないとまた同じことを繰り返しそうだよな……)
何度もこんな気疲れを起こすのはごめんだと、津田は一から説明すべく口を開いた。
そういえば、素面の三國と一対一でこうして言葉を交わすのは初めてだなぁと頭の隅で思う。
「えーと、お菓子に入ってたアルコールで酔っ払っちまった英が――」
「はな……! なっ、馴れ馴れしく呼ぶな!」
「ええ!? 理不尽!」
これを期に、二人の距離がほんの少し縮まったとか、そうでないとか。
2013.08.12
2017.09.10 加筆修正