壊れてしまった世界
よろしくお願いします。最後まで読んでいただけたら幸いです。
妹の死を知らされたのは、どんよりと曇った雨上がりの夏の日だった。
当時14歳だった妹の『柚葉』は自室で首をつり、窒息死していたらしい。
この一件に事件性はなく、「近年多い若者の自殺」として処理され、メディアに取り上げられることもなかった。流れ作業のように現場検証をし、慣れた口調で状況説明を求めてくる警察が、心無い機械のように思えたことを、俺は妙に覚えている。
だとしても、世間的な記録に残らなくとも、家族である俺たちの心に忘れがたい深い傷を刻んだのは、紛れもない事実であって。
あの日、妹を失った我が家は、陽の届かない大地の如く枯れ果て、そして壊れてしまった。
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線香の匂いが鼻梁をかすめる度、胸をきゅっとつねられるような気持ちになる。普通、一日家にいれば嗅覚も鈍るはずだが、この匂いだけはいつになったって五感を支配して放さない。
そう、きっとこれは報いなのだ。俺たち家族に「忘れるな」といい聞かせる為の、妹のかけた呪い。
柚葉が自殺しこの世を去ってから、もうすぐで丸一年が経とうとしている。
まだ一年。いや、もう一年だ。
始めの頃、全ては時間が解決してくれるのだろうと思っていたが、それは俺の怠慢。実際はその逆で、時間がたつほど身に生じた闇は深くなっていって……。
「たくみ。朝ごはんドアの前に置いておくから、お腹がすいたら食べなさい」
扉越しに聞こえてくる柔らかな声音に、ベッドで寝そべる俺は返事もせずに奥歯を噛んだ。
数秒の沈黙が流れると、冷房もつけずじめっとした部屋に遠のく足音が小刻みに届く。
親父が玄関を出たのを確認すると、固くなった体を伸ばしつつ、軽く一息。
「なんか言えよ。糞親父」
小声で悪態をつき、頭の裏を無造作に掻く。寝起きの口は唾で粘ついていて、不快な悪臭が鼻をついた。
その都度、喉元がせり上がってくる「何か」を取り払うべくきつく目を閉じて必死にあがくのは、俺の恒例行事。
俺の親父は、学校にも行かずただ無駄に一日を浪費する息子に対して、何も言わない。
かつては規律に厳しく厳格な態度をとっていたものの、今ではその影すらなく、惨とも思えるほど、俺の機嫌を伺ってくるのだ。
それも全て、妹が自殺しこの世を去ってからの事。
高校の教師である俺の親父は、生前、妹に行き過ぎた教育を施していた。勉学を強制し、出来が悪いと手が出る事だってざらにあった。そのたび親父の口をついて出てくるのは、「お前の為」だという、恩着せがましい常套句。しかし、俺は分かっていた。無論、妹だって気づいていたと思う。
親父のしてきたことは、全部「自分の為」だったという、救いようのない事実を。言葉には出さなくとも、彼の今の変わりようが、それを顕著に表している。
また同じ間違いを犯さない為、親父は予防線を張っているのだ。たった一人残された子供を、失いたくない一心で。
全部親父が悪い。
俺はあれから、この言葉を何度心の中で繰り返し言ったか分からない。全ての責任を親父に押し付けてしまえば、俺の腐りきった生活も正当化される、そう考えての思案だった。
だが、それが何の意味もなさないのだという事を、俺自信が誰よりもよく分かっていた。
他人を欺くことが出来ても、人は自分自身に嘘をつくことだけは、決して出来ないのだ。
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朝食を食べ終えると、俺は久々に外に出た。
髪の毛がボサボサにの伸びきってしまったため、床屋で切りたいと思ったからだ。熱いし、できたらこのまま家にいたいのだが、肩上まで伸びた長髪をこのままにしておきたくない。それに、今の時間なら知り合いと出くわす心配もないだろう。日程は早く済めせれば済ませるほど、その後部屋にこもる時間も多く確保できる。
外は雲一つない快晴だった。絵具で塗ったような青い空に、蝉の鳴き声が響いている。激しい陽光がでこぼこのアスファルトを焼き、ぬめっとした汗が背中にすっと流れた。
俺は手の甲で額の汗を拭うと、庭に置いてある自転車のサドルにお尻を乗せる。勢いよく地を蹴り、ぐっとペダルに乗せた足に力を込めた。
風が気持ちイイ。
俺が住んでいるのは栃木の辺境に位置する小さな町。近所には数件の民家と町工場しかなく、分かりやすく言えばド田舎だ。ここ数年で町どうしの合併が進み多少住みやすくはなったものの、それでも最低20分は自転車をこがないと床屋の一つ見当たらない。
床屋に着くと俺は自転車から降り、さっさと店の中に入った。ドアを開けた途端、垂れ下がった風鈴が涼し気に鳴り、寒いくらいの冷房が湿ったシャツを一気に冷やす。ぞっとしながら店内に目を走らせると、そこはいかにも個人でやっている理容室という感じだった。カット台が二つ置かれ、今は両方空いている。
「えっと、ご予約のお客さん?」
「はい。11時から予約の、、です」
無精ひげを生やしたガタイのいい店主に迎えられ、俺は応答する。元々が人見知りという事もあって、声がか細くなってしまった。
本当は昔から通っている慣れた床屋に行きたいのだが、一年前の事件の影響もあり、今までの繋がりに会うのは、何となく気まずくなってしまった。顔を合わせる度に気を使われ、心が休まらないのだ。
事件自体メディアに取り上げられなかったものの、田舎の横のつながり強さ故、俺の実情と事件の全貌は町全体に知れ渡っている。
故に、俺はたまに外出する時、自分を知る者のいない場所へ出向くしかないのだ。
店主に促され、指示された椅子に腰を据えると、
「今日はどれくらい切ります?」
「結構バッサリでお願いします。しばらく切らなくてもいいくらいに……」
希望を口にしながら、そういえば髪を切るのは一年ぶりくらいだなと、伸びた髪を横目で見ながら、変な感慨に耽ったりした。
「ハイハイ」
店主は素っ気なく言うと、さっそく鋏を取り、櫛で髪をすいた。
初めてで少し不安だったが、俺は安堵してホット胸を撫で下ろす。店主は不愛想だが、あまり話してこないのが逆にありがたい。いかにもなビジネストークを繰り広げてこないので、変に気を使わないで助かるのだ。
少しすると見る見るうちに髪が整えられていき、目の前の鏡に映る俺の顔も多少マシになってきた。肌の血色は悪く吊り上がった目の下に分厚い隈があるので、未だ引きこもりの感じは抜けないのだが。
カットが終わりシャンプーを終える。頭皮にすっと冷気が触れて、とても心地よかった。後はドライヤーを済ませるだけ。さっさとお題を払い、家に帰ろう。
そんな事を考えているとテレビでニュース番組が始まり、俺は顔を顰めた。心が黒塗りされていくような気がして、きゅっと唇を強く噛んだ。
〈都内の男子高校生が屋上から飛び降り自殺。クラスメイトからのいじめが原因か?〉
ニュースの内容はこのようなもの。
闇の深淵に叩きおとれたような気分になり、なんだか息苦しささえ感じてきた。すると、今までずっと厳しい表情を浮かべていた店主が、ふと投げやりの言葉を述べる。
「全く、最近の若いのはすぐに自殺するねえ」
どっと分厚い沈黙が押し寄せ、鼓動を早くする。
俺はすぐにでもこの場を退きたくなっていた。この後店主の続ける言葉が、イヤでも予想出来てしまうからだ。
出来る事なら耳に蓋をしたい。だが、俺のそんな切な思いは灰となり、店主はただ淡々と口を動かす。
「自殺する奴ってのは人生なめてるんだよな。ああいうやつは早かれ遅かれ自殺する。社会人になれば若い頃以上につらいことの連続だからな」
俺は返答できない。『そうですね』と軽口を叩けば済む事なのに、俺の精神が、過去の過ちが、怠惰が、それをさせてはくれなかった。
俺は頑なに静止を貫くが、尚も店主は止まらない。
「自殺できる勇気があるんなら何でもできるだろ。下らねえ。生んでくれた親御さんに申し訳ないと――」
その刹那、俺は呼び動作なしに立ち上があり、店主の顔面に拳をめり込ませた。
店主はそのまま後方に臀部を突く姿勢で倒れ、目を丸くしながら俺を見る。一体何が起きたのか、理解が追いつかないようだった。
俺の視界には今、何もうつっていない。聞こえるのはどこまでも追いかけてきそうな無慈悲な耳鳴り。呼吸が荒々しくなり、顔が熱い。怒りが留まらず湧き出てきて、思考回路は正常に働かなかった。
「いってぇ……何すんだてめえ」
少しして状況を理解した店主が、俺の胸倉をぐっとつかんだ。鬼のような形相で睨みを利かせ、そのままの勢いで俺を壁に押し付ける。元々の巨躯と顔面のいかつさ故、俺はその迫力に、一瞬たじろいっでしまった。
それでも、焦りや動揺を凌駕する感情のほうが、今はずっと大きくて、
「訂正しろ……」
「は?」
「訂正しろって言ったんだ」
大声を荒げ、相手の身体を突き放す。今度はこっちが店主の胸倉を掴み、腕に渾身の力を込めると、
「てめえ訂正しろよ! そんな簡単なもんじゃねえぞ。自殺した人間を簡単にひとくくりで考えやがって!」
俺の激高に、店主はただただ眼をきょとんとさせていた。
自分は今、社会的にも人間的にも間違った事をしている。それが分かっていながらも、俺は自分を止めることが出来なかった。
俺は尚も腕に力を入れ、
「てめぇみたいになんでも『人生所詮こんなもんだ』って割り切れる奴はいい。けどな、そう単純に考えられない奴だって世の中にはたくさんいる。少し長く生きてるくらいで、何でもわかったような口きくんじゃねえよ!」
言い終えた途端肩が大きく上下しているのに気づき、それでやっと自分が興奮していることを悟った。
自分の愚行を悔やみ殴られる覚悟を決めるが、店主は呆れたような口調で「出ていけ」と一言。これ以上面倒事にしたくない一心での対応だったのだろう。
俺はお題をレジ前に置き、逃げるように店を出る。今更になって拳に痛烈な感覚が帯び始め、眉に皺が寄る。
自転車をこぐ元気などもはやなかった。灼熱に肌を焼かれ溶けて消えてしまえばどれだけ楽なのだろうと、そんな事を考えたりもした。
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妙な体の浮遊感。徐々にはっきりしてくるぼやけた視界。胸の奥の方に生まれる、乾ききった焦燥。
俺はそんな現実味のない感覚に、深く溜息。
――またこの夢か。
今俺の目に映っているのは、6畳ほどの広さを誇る家のリビング。床は畳造りで、壁にはその部屋の歴史を感じさせるが如くネズミ色の染みが所狭しと浮かんでいる。
そんな一室にいるのは、儚げな顔つきで参考書に目を通す矮躯な少女。艶やかな黒髪を肩上まで垂らし、机に頬杖を突く彼女は、なんだかとても疲れ切っている様子だ。それでも、彼女から溢れ出る気品は本物で、実の兄である俺も、自然と彼女に目を奪われてしまう。
そう、目の前で体を折り勉強をしている彼女こそ、俺の死んだ妹――桐谷柚葉本人だ。
当時14歳とは思えない大人びた容姿は、慎まやかな色気さえ感じさせる壮麗さだ。
肌は初雪のような純白。目はぱっちりとした二重で、そこに生えるまつ毛はつんと上を向いている。柚葉はゆったりとした部屋着に身を包んでいるものの、それでも、彼女のしなやかな体のラインは誰の目からも明らかだ。
身内がこんな事を言うのは可笑しいのかもしれないが、まさに絶世の美女。
有体な表現だが、これ以上的確に彼女の事を表現できる言葉を、俺は持ち合わせていない。
このままずっと彼女に見入っていられたのならば、俺はどれだけ幸だろう。
しかし、心地よい時間など長くは続かない。俺はこの後ここで何が起こるのかを、寸分の狂いなく語ることが出来るのだ。
複雑な気持ちが交錯する中、リビングの扉が開き一人の少年が部屋に入ってきた。
無論、その少年は柚葉の兄である俺。桐谷たくみ本人だ。彼はとてもイライラしているようで、柚葉を詰めたい視線で一瞥し、無造作に手提げかばんを畳に放る。
「お兄ちゃんお帰り……」
参考書から目線を上げると、柚葉は俺に注目し、少し擦れた高い声で言った。夏の風鈴を思わせる、清涼な声音だった。
ここでただいまと言うもが当たり前の反応だが、目の前の俺は舌打ちを一つ。柚葉をちらりとも見ず、テレビのリモコンを手に取る。
今流れているのは静寂。どんな喧騒も打ち消してしまう程分厚い、無限のような静寂だ。
俺は座椅子に腰を下ろし、何も宿らない瞳をより一層黒くすると、
「勉強なら自分の部屋でしろよ。ここは茶の間なんだから」
何事にも関心を抱いていない冷酷な声が、このまま一生続くように思われた沈黙を、一瞬で遠ざけた。彼の視界に柚葉の姿はなく、しかし柚葉の視界には、俺の体躯がすっぽりとおさまりきっている。
柚葉は一瞬口の端を噛み、
「でも、自分の部屋じゃなんだか集中できなくて……。もう終わるから、もう少しだけここでやっちゃダメ?」
申し訳なさそうな口調で事情を述べる。
すると彼は自分の指示に従わない妹に苛立ちを覚え、眉間に皺を寄せた。そのままうんざりと舌打ちを一つ。
「ダメに決まってんだろ。つーかさ、ここにいられると目障りなんだよ。さっさと自分の部屋いけや」
何物も寄せ付けないであろう物言いは、この空間の全てを凍てつかせた。
兄と妹。若々しい二つの体温が、刹那の間に奪われていく。そんな一部始終を見ていた俺は急に息苦しくなり、胸中で無音の絶叫を飛ばした。
早く覚めてくれ――。
だが俺の願いも虚しく、一秒一秒確実に、目の前の景色は変わっていく。
柚葉は目を曇らせたが、すぐに表情をぱっと明るくし、
「うん。そうだよね。分かった。私自分の部屋に行くね」
明らかに無理を決め込んでいる彼女は筆記用具と参考書を手に取り、そそくさと立ち上がった。目の前の俺はテレビに注目し、それ以上は何の反応も示さない。
音をたてないよう気を使い、ゆっくりと引き戸を開け廊下に出る柚葉。目の前の俺はその柚葉の悲し気な顔を、一瞬たりとも見ていない。気にかけていない。興味すら持っていない。
見ているのは、今の俺の方で、無論後悔しているのも、今の俺だ。
今更になってだ――。
俺は当時、なんでも器用にこなしてしまう妹の存在が恨めしくて仕方なかった。
元々勉強も運動も苦手な俺は、自分に無い物を多く持つ妹に対し、強く当たっていたのだ。
自分は親に期待されていない。その分余計に期待されている妹が憎い。そんな事を、日々飽きもせず思っていた。
しかし実際は、妹は何でもできてしまうその才能に、毎日のように悩まされていたのだ。どんな難題でもこなせてしまうが故の期待。何かを成すたび現れる壁の連続に、心身共に参っていたのだと思う。
そんな心の叫びに気づくことなく、愚かな俺は自分可愛さ故柚葉をいじめる。
親父には兄弟二人分の期待をかけられ、実の兄からは侮蔑の目を向けられる妹。
まさに板挟み状態。逃げ場や心休める場所を失った彼女が選んだのは、首を吊って死ぬという最悪という表現さえ生ぬるい結末だった。
俺はあの日以来、定期的に今の夢を見る。
そう、本当は俺も、柚葉を殺した加害者の一人なのだ。本来は彼女を守る役割の俺が、自分可愛さゆえに妹をいじめ、そして殺した。
なのにその忌々しい事実から目を背け、全てを父親のせいにし、怠惰をむさぼる引きこもり生活に牛耳ている。
ここで問題なのは、そんな現実を突きつけられて尚変わらない俺自身。
この瞬間、死んだ柚葉は一体何を思い、そして何を望んでるのだろう?
ここまで読んでいただきましてありがとうございます。
出来るだけ更新しますので、よろしくお願いいたします。




