第2話(3):甘い蜂蜜色の、永遠の在り処
行ける範囲内を歩き回って、外へ出る方法が見つからないまま腕時計が夕刻を示した。
廊下の窓は変わらず蜂蜜色のままで時間感覚が狂いそうになる。
空腹は感じないが、これもいつまでもつか。
長岡と安藤が食料に困っている様子はないが、どこかで調達しているのだろうか。
給食室へは行けないし、行けたとしてもまさか給食が用意されているわけではないだろう。
早く脱出方法を見つけて外へ出たいが、そもそも何故出られないのか。
怪奇現象もいいところだ、青葉にだってこんな真似出来るはずない――いや、出来るのか?
青葉世々璃には、可能なのか?
だとすれば、この学校に何か意味があるのか。
図書室へ戻って長岡と安藤は絵の続きを始め、みらいは書棚を物色している。
俺はすることも思いつかずただ思考する。
「遥君、見て見てっ。これ、なつかしー」
元気を取り戻した調子でみらいが机の上に本を広げる。
大判の絵本だ。俺の隣に腰掛け、みらいはページを捲った。
「覚えてる? 小学校のとき、ちょっと流行ったよね。世々璃は知ってるかなぁ。
……ありゃ。ページ破けてる」
がっかりして呟くと、みらいは本を閉じた。
「ね、遥君はお腹すかない? わたしは大丈夫なんだけど、遥君男の子だし、どうかなって」
問われ、正直に俺は首を横に振る。
「そっか。なら良かった」
みらいはそれ以上追求せず本を書棚へ戻しに席を立った。
みらいは、そう、追求しない。
他の、クラスメートなんかは今の場合気を使って問いを重ねてくる。
みらいや青葉は、それをしない。それはすごく心地が良かった。
会話が嫌いだ。
言葉が嫌いだ。
無口に、寡黙になりたかった。
俺が口を開くと失言ばっかりだった。
だからなるべく喋らないようにした。
誤解されるのも、無神経な言葉で傷つけるのも沢山だ。
一番大事なことだけ言葉で伝えらればいい。
そうじゃない意思疎通は言葉でなくても出来る。
寡黙な者の特権だ、といつだか青葉は言った。
『言葉で伝えなくちゃ、大事なことは理解できない、なんていうのは寡黙な者だけの特権よ』
――それは冬の朝早く。
氷が張っているのを見たい、と青葉に誘われて俺は蛙乃の川へ向かった。
始業までは一時間ほど余裕がある。
秘密基地にいたのは意外にも青葉一人だけだった。
「みらい? 眠いって、誘いに乗らなかったのよ」
くすくす、青葉の笑いは白く吐き出される。
深い藍色のマフラーのせいか彼女の顔色は少し青白い。
問うまでもなく答えられた内容がいかにもみらいらしいと思った。
朝が苦手なんだ、あいつは。
「冬って、糸偏つけたら、終わりって字になるね」
唐突に言って、青葉は微笑む。確かにそうだ、と字を思い浮かべて頷いた。
冬。
終わり。
終わりの季節。
四季の終わり?
「遥。残念だけど、氷張ってない。やっぱり川の流れのせいかな。踏み割りたかったのになぁ」
「……」
「帰って二度寝するには半端だし、ねぇ、あったかい飲み物買ってきてちょっとお話しない?」
青葉の言葉に怯んだ。
会話が嫌いだ。きっと余計なことを言う。
相手に分るように自分の気持ちを伝えられない。
誤解される。誤解されるのは、怖い。
無責任なことを言ってしまうかもしれない。傷つけるのは、怖い。
だけど、相手は青葉だ。
青葉世々璃。
この少女が俺ごときの言葉で傷つくなんて、俺ごときの言葉を理解できないなんて、ありえない。
僅かに体に入った力を抜いて、頷く。
コンビニへ熱いコーヒーを買いに行って、また秘密基地へ戻った。
「コーヒー、しかも無糖なんて。遥らしいね。ストイックだ」
「……」
ストイックって。
目で訴えると、青葉は小首を傾げて笑った。
その動作で、マフラーに飲み込まれた長い髪が少し垂れる。
「遥が何を考えてるのか知りたくなることが、時々あるよ」
彼女の意外な言葉に驚いて、俺は真意を探るように青葉を見つめた。
見つめ返してくる少女の瞳の黒い色。それに心を見透かされた気分になることは多い。
それなのに、分らないのか。
当然といえば当然。彼女は超能力者でもなんでもないのだから。
普通の高校生、なのだから。
俺は喋らない、意思の疎通を放棄している部分が確かにある。
考えていることといえばこんな益体もないことばかり。
それを、青葉は。知りたいだって?
「遥の意識は深そうだ。無言の奥に無数の思考が隠れてる。渦みたいな言葉たち。ちょっと心地良さそう」
吐息するように笑って、どう? と問うように見上げてくる。
何と返せば良いのか。
肯定? 否定? 何故、と問う?
何が返答として相応しいか選べないから俺は沈黙する。
「遥はとても、心地良い。遥の無言は心地良い。遥の思考は心地良い。遥の隣は、心地良い。ずぅっと、傍に居たくなるなぁ……」
それは。さすがに、どう受け止めれば良いのか戸惑う。
どういう言葉を返せばいいのか決められない。
まるで恋心を打ち明けるような口調。
だけど青葉は蝶だ。人間の俺はつがいにはなれないだろうし、そんな自信もない。
『青葉は蝶』なんて言っているのがその良い証拠だ。
「動揺してる」
言い当て、くす、と笑う。
青葉。アオバセセリ。少女。蝶々。
「なにか、言いたい?」
問われ、さらに動揺する。
だから俺は、会話ができない。
以前のように何も考えずに言葉が出た頃とは違う。
思えばどうして何も考えず会話ができたのか。
言葉にすれば思考が薄れ、思考すれば言葉が薄れる。
何故両立できないのだろう。不器用な自分に嫌気が差す。
「なんでもないことなら、遥はヘタに口にしないほうがいいかもね。
もうずっと無口だから、ちょっとした一言が重要に思えちゃう。
言葉で伝えなくちゃ、大事なことは理解できない、なんていうのは寡黙な者だけの特権よ。そして遥は、その特権を持っている」
無理に喋らなくて良いという青葉の気遣いだと分って俺は頷いた。
それでも何故か、何か言いたくて。
何か、感情を声で表したくて、俺は言葉を探す。
今、この気持ちに相応しい言葉を。
青葉に肯定されて嬉しい気持ち。だけど同時に戸惑う気持ち。
気遣いの言葉への感謝。
――感謝。
彼女に対する感情。
「ありがとう」
たったの一言、これだけではどの言葉に対する感謝なのかも分らないだろう。
それでも、青葉は頷いた。マフラーと一緒に長い髪を揺らして。
「遥、ありがとう」
オウム返し、だったけどそれは多分、「ありがとう」に返すには「どういたしまして」よりも強い言葉。会話をしようと誘われて結局俺が喋ったのは一語だけだったけど、それでも青葉は満足したらしい。
そろそろ学校へ行こう、と俺の手を引いた。
あの冬が、今は遠い。