第1話(5):青い青い空の、向こうに約束
終わりの気配の漂う町は社会的にほとんど黄昏もいい所だった。
まず交通機関が整ってない。店の数が絶望的に少ない。
一応事前に調達していた食料で、俺たちは朝食を済ませた。
「世々璃の夢を見たよ」
嬉々として、みらいが言う。
「はじめて会ったときの夢だった」
みらいは十七にしては少し幼すぎるような調子で楽しげに報告する。
「ね、ちょっと外歩いてみようよ。アイス食べたい。それから電車に乗ろ」
首肯。
あの無地の切符は今も手元にある。改札口に回収されずにそのまま出てきた。
きっとここがこの切符の行き先ではないからだろう。
「遥君、この町初めてじゃないんだよね?」
首肯。
曽祖父の家を出て、俺たちは誰も居ない道路を歩いている。
廃墟や閉鎖された建物、潰れた店が目立つ中、古ぼけた布団を干す家や窓を全開にしている家も見える。
「あ」
ふいに、先を歩いていたみらいが足を止めた。交番の前だ。
「すごい、なんか、多いね。怖い」
みらいが指で示したのは掲示板だった。
そこを注視すると、尋ね人の張り紙が張ってある。
二十もないだろうが、そこまで行方不明者が居るというのが薄ら寒いものがある。
「若い子で六歳――わ、上は八十五だよ。遥君、すごいね、こんな田舎でこんなにたくさん」
首肯。
みらいは興味深そうに張り紙の一枚一枚の眺める。
夏の暑い日ざしの中、何故か二人してじっと掲示板に見入った。
こんなに大勢が行方不明になって、よく世間は騒がないものだ。
「なんか、さ」
みらいがふいに呟いた。
「ここ、すごく、するね。終わりの気配」
俺は、頷いて同意した。
「世々璃が好きそう」
首肯。
「なんか、気になるな」
無反応。
「……なんで」
「わかんない、けど。世々璃に近いような気がする」
みらいを見る。
みらいは妙な感覚を抱いているような表情をしていた。もやもやとした何か。
ふいにこっちを見上げた。同意を求める顔。
「ちょっと、調べてみたい」
首肯。俺はみらいの考えに同意した。
「すいません」
大胆にも交番に立ち入ってみらいは巡査に声をかけた。
もう随分年をとった巡査が、人懐っこそうな顔で返事をする。
「なんかあった?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……聞きたいことが」
「あー、道? わかんない?」
「えと、掲示板の張り紙、えと、尋ね人のことなんですけど」
「あー……」
巡査の老人は少し苦い顔になる。
「多いでしょ。なんでかね。若い子とかはね、黙って都会に行っちゃうみたいよ」
「あの、同年代の子、多くてびっくりしちゃって。あ、私たち夏休みの旅行にここに来たんですけど。親戚のおうちがあって。それで、今ちょっと散歩してたら掲示板が目に入って。あの、居なくなっちゃった子――っていうか、この辺の子供たちって、この辺の学校に行ってるんですか?」
「学校? あったけど、何年か前、閉校しちゃったよ」
「それって、どこにありますか?」
内心ひやひやしながらみらいと巡査の会話を聞いていた。
下手すれば追い返されかねない妙な質問なのに、巡査は人恋しいようで快く答えてくれた。
礼を言って交番を出る。よく答えさせたものだ、あんな妙な会話で。
みらいのもつ雰囲気も後押ししたのかもしれない。感心して、みらいを見た。
「へへ、学校行ってみよっ」
得意げにピースサインをする。
巡査が書いた簡単な地図を片手に持って、俺たちは歩き始めた。
** **
途中で、やっとコンビニを見つけて、わたしたちはアイスを食べながら歩いた。
一番安い、ソーダアイスキャンディ。
喉につまる甘ったるさ。歯に響く冷たさ。
心地いい、夏。
夏の日差しにアスファルトが焼ける。
その上をわたしたちは歩く。
この町の建物はみんな低い。まばらに立っていて、空間が広い。
途中で大きな神社を通り過ぎた。古びた公園もあった。
褪せた看板の服屋さん。シャッターの閉まった電気屋さん。
そういうものを通り越して、ようやく、もう一つのお店を見つけた。
大きさはコンビニくらいだけど、店構えはすごく古い。
ちょっとした日用品や食品を売っているみたい。
その向こうに学校があった。
「あった!」
喜ぶわたしの隣で、遥君は無言だ。
学校自体、そんなに古くない。
聞いた話では、生徒の数が少なくて、他の学校と合併したせいでここは廃校になってしまったらしい。
「入れる……かな」
校門の前で、わたしたちは学校内を見渡した。
平均的な学校。校舎が三つあって、そのうちの一つだけすごく古い。
奥の奥にプールが見える。
グラウンドが、古い一つとそうじゃない校舎の間にある。
校門のすぐそばに取り残された二宮金次郎。
まだ普通の夏休みみたいな様子。
このまま九月になれば、また生徒が集まってくるような雰囲気。
終わってない、と言っているような空気。
学校としてまだ機能しているつもりのよう。
世々璃は、
世々璃ならなんと言うだろう。
「みらい、何」
ふいに遥君が尋ねた。
「えっと、この中、調べてみたいと思って」
閉ざされた校門の格子に手をかけて、答える。
「世々璃の、手がかりが、あるような気がして」
終わらない空気を持つ、終わってしまった学校。
世々璃が迎える世界の終わり。
気になる。
気になるんだ。
わたしは遥君を見る。遥君もわたしを見ていた。
やがて、
「行こう」
遥君が呟いた。
「うん」
わたしは、頷いた。
それから校門をよじ登って飛び越えた。
二宮金次郎の後ろには立派な池があって、でも中はすごく濁っていて濃い水の匂いがした。
一番近くの校舎に近寄って、窓から教室の中を覗いてみる。
何の張り紙もない壁が寂しい。椅子がまばらに並んでいた。
この寂しさに、覚えがある。
あの夏に崩れてしまった旧校舎。
わたしと世々璃の思い出の場所。
壊れることのない記憶。
ふと、視界を蝶が過ぎった、気がした。
** **
「まだ」
がたん、がたん、と。
車体が風を受けてきしむ。
目前を電車が通り過ぎた。
蜂蜜色に染まるホーム。
少女は、電車を見つめている。
電車は停車せずに通り過ぎた。
ベンチに座ったままそれを目で追う。
「まだ、来ない」
** **
「なぜ」
と世々璃は言った。
チョコレートアイスを半分くらい食べたときだった。
世々璃はアイスキャンディーより、チョコレートのアイスが好き。
白い肌に汗を浮かばせた腕を伸ばして、黒いまっすぐな髪をかきあげる。
「何故かな。
どうして、大人とか子供とか、そういうふうに分けられているんだろう」
「うーん?」
「子供とか、大人とかってね、言葉を分けてしまうのって、便利よね」
「そうだね」
「でもそれってとても不自然な気がするの」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
暑い、あの夏。
秘密基地の中で、わたしたちはアイスに生かされていた。
暗くて、少しだけ涼しい日陰の下で、ぽつぽつと会話を交わした。
秘密基地に居るとき、不思議とわたしたちの言葉は少なかった。
かといって気まずい沈黙ではなくて。
とても心地いい無言の居場所がそこにあった。
思えばあの秘密基地は、幸せな場所だった。
わたしたちの、ひそかな隠れ家。
小学生のときも、わたしは何人かの男の子と一緒に秘密基地を作った。
もっと漠然とした秘密基地。高架下の楽園。
電車の音に、時々びっくりする。
あの時は、毎日のように集まって、いかに良い秘密基地にするか、画策していた。
近所の駄菓子屋でお菓子を買ってから秘密基地で食べた。
すぐそこを流れる川で、水浴びをした。
子供だけのルールの中で、大人の気配なんてなくて。
そこはネバーランド、だった。
そのときわたしはその秘密基地に集まらなくなる日のことなんて想像もつかなかった。
高学年になった途端に、みんな塾で忙しくなっちゃって、最後は自然消滅。
「どうして、かなあ」
わたしはふいに過去へ飛ばした意識を引き戻して、呟いた。
「便利だから?」
「わからないね」
「わからない」
「もう、世界は決まっちゃってる。私達が生まれたときにはとっくに。
目新しくない世界の中を、なめらかに滑るみたい。疑問を、持っちゃダメみたい。
私達は、完成した世界を、決められた柵の中を、ただただ回りつづけている。
そう感じたことは、ない?」
チョコレートアイスが、溶けてしたたる。
世々璃の白い指が、パステルブラウンで汚れた。
それをぺろっと舐める世々璃の仕草にどきっとする。
「わかんなかった……多分漠然とはずっと思ってきた。
うん、多分、世々璃と同じだ、わたし」
「うん……」
「なんか、ね、狭いよね」
「窮屈で」
「閉塞的」
「柵だらけで」
「出口がなくて」
「延々と」
「決められた世界の中で」
「金魚鉢の中の金魚みたいに」
「鳥篭の中の鳥みたいに」
「わたしたちは」
「私達は」
「巡るの」
「限られた時間を」
「たった一度の人生を」
「疑問のない世界で」
「全能の天界みたい」
「用意されたメニューから選ばされる」
「選択させられる」
「自由にそっくりなものを与えられて」
「わたしたちは」
「私達は」
「生きてるんだわ」
「生きてるんだ」
わたしたちは、笑った。
声を上げて、笑い合う。
アイスがこの上なく美味しかったから、木の棒まで噛んだ。
折れてささくれた木の棒は、血の味がした。
疑問を持っちゃいけない世界を大人しく受け入れる。
わたしたちは自由にそっくりなものに〈自由〉と名前をつけて満足する。
きっと本当の自由を手に入れたところで持て余してしまうから。
検閲済みの未来を目指して羽ばたいていく。
わたしたちは。
そうやって子供から大人になる。
作られた境目を越えて、成長を勘違いする。
節目というものの境目で、ほっと息をつく。
成長したつもりになって。
不毛に、日々を重ねる。
ああ――投げ出したい。
あの時食べたアイスの美味しさが舌に蘇る。
血の味のする焦燥感を噛み締める。
青く溶けてしまいたい。
あの秘密基地でわたしと世々璃は手をつないだ。
橋に上がって、見ていられないくらいまぶしい夏の空を仰いだ。
つないだ手を、いっぱいに伸ばす。上へ、上へ。
もしこの青い青い空の向こうに。
真っ白な世界があるとしたら。
わたしたちが作り上げられる世界があるとしたら。
きっと、満足のいくものは作れない。
けれど、わたしたちは、わたしたちの味覚は、きっと血の味を知ることはない。
「ねえ、みらい。私は感じるの。世界の終わりはすぐそこよ。すぐ、そこ」
「うん」
「行こうね、みらい。一緒に、向こうに」
「うん」
「約束だよ」
この青い空の向こうに、誓って。