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第4話(1):終点の、灰色ホームでさよなら

 ホームのベンチに腰掛けて、少女は一人。

 長い髪が、思い出したように風に揺らめく。


「……」


 嘆息。

 それは微笑。


「もうすぐ、なのね」


 囁き。

 少女は目を閉じる。


「もうすぐ、来るのね」


 夜の色に染まるホーム。

 少女はじっと待っている。

 電車はまだ、来ない。


** **


 わたしと遥君は、電車に乗っている。

 とても一日とは思えないほど長かった一日のあと。

 本拠地(遥君の、曾お祖父ちゃんの家のことだけど。)に戻って一息ついて、そのあと身の回りのものを調べた。


 そこで、切符に印字がされていたのを遥君が発見したのだ。

 世々璃が残した、無印の切符。

 それに今、町の名前が表示されている。


 何か意味があるのだろう。

 世々璃が居るのかもしれない。

 そういうわけで、わたしたちは電車に乗ったのだった。


「……ちぎょ? ちぎょ町……って、聞いたことないなあ」


「稚魚って書いて、わくな」


「え、そうなの? 読めない……」


「当て字らしいから、無理もないと思う。俺も最初読めなかった」


「へぇー」


「この辺、彼岸に来るだろ。親戚の集まりって暇でさ、昔、あの家にあったこの辺の路線図暇つぶしに眺めてたんだ。そんとき見つけたんだよ」


「そうなんだ。……えへへ」


「……何笑ってんだよ」


 照れ隠しなのか、ちょっと不機嫌そうに遥君が問う。

 わたしは、ついつい頬が緩んでしまうのを抑えきれない。


 ねえ、だって。

 遥君がこんなにお喋りしてくれるなんて、小学校以来なんだよ。


「嬉しいんだもん」


「……何が」


「遥君が、そうやって答えてくれるの。

 うん、静かな遥君でもさ、一緒にいて楽しいけど。

 やっぱり、会話があったほうがいいもんね」


「…………」


「あれー? 黙っちゃうの?」


「……顎が疲れた。自分の声が、頭の中に響く……」


 そう言ってげんなりする。その様子がおかしくて、わたしはまた笑ってしまう。

 そうだ、遥君て、こんな子だった。


「あー、喉渇いた……」


「あ、飲み物あるよ。飲む?」


 鞄から行きがけに買った缶を取り出す。フタがついてるボトルの缶。

 中身はつぶつぶ果実のオレンジジュース。

 差し出されたそれを見て、遥君が目をすがめた。


「飲みかけじゃん……」


「不満? あげない」


「乗り換えのときに買う」


「そうしてください」


「……なに」


「なにが?」


「機嫌悪い?」


「……べつに、何でもないです」


 不機嫌にもなる。

 だって遥君ってば、自分の飲みかけは平気でわたしに差し出すっていうのに。

 ……なんて不機嫌っぽく言ってみるけど、そんなことない。


 楽しい。

 遥君と言葉のやりとりができること。

 もうずっと、わたしたちの間から欠けていたこと。

 取り戻すことができて、嬉しい。


 僅かでも、前よりたくさん、遥君とお話しをした。

 目的の駅はまだ先。窓の向こうは夏の夕暮れ。

 まばゆさに目を細める。

 窓の向こうの夕日は街の低い建物を黒く塗りつぶす。


 なんだかもう随分と、地元の町が懐かしい。

 こうして見ている夕焼けもきれいだけれど、蛙乃の川で眺める夕空はとても綺麗だった。

 だから、世々璃と、遥君と、よく三人で見上げていた。

 




 川がまっすぐ伸びる先を見つめると、夕焼けが落ちる様が見える。

 水が夕日を反射して、きらきら、まるで魚の鱗みたい。


「きれい」


「うん」


「夕暮れは好き」


「わたしも」


「道の先が見えない。どこまでも続いているみたいね」


 目を細めて、世々璃が囁く。

 水の流れる微かな音。


 風が世々璃の髪を揺らして過ぎる。

 世々璃の長い髪が好き。

 真っ黒で、真っ直ぐで、とても綺麗だから。

 わたしが伸ばしても、こうはならない。ぐねぐねになっちゃう。

 気になってしまって、わたしは自分の髪の毛先をいじった。


「みらい」


「な、なに?」


 みとがめられた気がして、ちょっとうろたえてしまう。


「ね。道が、ずぅっと。どこまでも。永遠に続くみたいに見えるの」


「うん、眩しくて。本当だ、終わりが見えない」


「遠く、遠くまで……どこまでも」


 本当に、どこか遠くを見るように、世々璃の瞳は深い。

 遥君はずっと無口で、水の流れを眺めている。

 時折、世々璃の言葉に反応したように夕日を見た。


「永遠なんて、まっぴらだけど」


「永遠? 永遠の愛とか?」


「あはは。そうそう、そういうもの。あると思う人のところには、きっとある」


 なびく髪を片手でそっと抑える。

 世々璃の瞳がいっそう遠くを眺めた。


「永遠、なんて」


「世々璃は、あると思うの?」


「言ったとおり。誰かがあると思えば、そこにはあるの」


「……なんかずるい答え」


「ずるいの。私はね」


「意地悪だなー」


 可愛らしく、楽しそうに、世々璃は笑っている。

 夕暮れが、ぐんぐん、ぐんぐん、低くなっていく。

 暗くなり出すと早い。もう、眺めているうちに辺りは夜。

 夕焼けの暖かい色は消えて、夜空に星が輝きはじめている。

 夏の夜空は冬に比べて、どこか星がくぐもっているような気がした。


「死んだら、みんな永遠だわ」


 消えていく太陽に呟くみたいに言った、その言葉にふと遥君が顔を上げる。


「失われればなんだって、永遠」


「後ろ向きだねえ」


「だって、前向きな永遠なんてみんな、不可能の例えじゃなければ、嘘っぽいだけなんだもの」


 永遠の愛。永遠の友情。永遠の幸福。永遠の平和。

 永遠の約束たちは、確かにどれも、綺麗。

 綺麗だけれど、TVとかで世界一の宝石なんかを見ている気分になる。

 手の届かない遠くにある、直接自分とは関係のない物のよう。

 それが前向きな永遠。

 永遠の眠りと言えばそれはつまり死ぬってことで、それはたしかに実在するから、認めることができるけど。


「永遠なんて」


 そう、世々璃は小さく吐き捨てた。

 夕暮れは沈んでしまっていて、もう、完全な夜。

 でもこの夜は永遠なんかじゃなく、あと何時間かすればまた太陽が訪れる。

 わたしたちの日々は、一個も永遠には関わりなく、律儀に前へ進んでいく。


 永遠なんて。

 そう言った世々璃の横顔は、なにを見ていたのだろう。

 夕暮れの朱?

 夜の藍?

 建物の黒?


 ねえ、世々璃。

 何色が見えたの。

 あなたのその黒い瞳には、何色が見えたの?


** **


 夕日が完全に沈んだ頃。

 わたしと遥君はその駅についた。


 稚魚町。


 わたしたちの地元と似た雰囲気を感じる。

 いかにも「ここには何もありませんよ」という顔をしているホーム。

 律儀に通勤や通学する人しか乗せないような電車。

 ホームの蛍光灯はちゃんとついているけれど、夜だからって理由だけじゃなくて、なんだか暗いかんじ。

 活気なんてとっくに忘れ去っている。


「蛙乃とおんなじだ」


 呟くと、うん、と言葉はないけど遥君が頷いた。


「ここに居るのかな、世々璃」


「わからない」


 駅のホームを見渡していた遥君は、わたしを一度見つめる。


「端まで行ってみよう」


「……うん」


 少しだけ間を置いた返事をきいてから、遥君は歩き出した。


 ……うん。

 なんだか、びっくり。

 こういう瞬間に改めて、思う。

 遥君って、無口だったなあ。

 だけど今は、ちゃんと喋ってくれる。


 少し前なら――

 あの学校へ行くまでは、遥君は何も言わずに歩き出していたはずだから。


 やっぱり、嬉しいよ。

 ちゃんと伝えてくれるのは嬉しい。


「何」


「何って?」


「みらい。ニヤニヤしてる」


 勘弁してって言いたそうに遥君は言った。

 そういう反応もわたしには嬉しいばかりだ。


「べつにー? なんでもないない」


「……そうですか」


 照れてる照れてる。






 ホームの端まで歩ききって、今度は反対側を目指す。

 向いのホームも確認しているけれど、今のところ誰もいない。

 電車はわたしたちを乗せてきたもの以降、一本も通らなかった。


 夜のホーム。

 夏の、濃いような空気。

 蝉はここでも鳴いている。

 昼のあいだアスファルトが浴びた日の光が、足の裏をじわじわ焼いているみたい。

 蒸し暑い。

 前を歩く遥君のジーンズがやけに暑そうに見える。


「誰か、居る」


「えっ?」


 立ち止まったジーンズに気付いて顔を挙げる。

 同時に遥君の声が聞こえた。


 誰か居る?

 わたしは目を凝らす。


 ホームの先のほう。

 三人掛けのベンチ。


 誰か、居る。


 電車が来ると電子音が告げた。ベルが鳴り響く。

 線路の向こうから振動音。

 ライトがホームを照らした。光りに助けられ、わたしはそれを見る。


「…………せ――」


 三人掛けベンチの一番奥に腰掛けた誰か。

 なまぬるい夏の風が、不意にふわりと吹いていく。


 なびく、長い髪。

 夜の色に沈まない黒。

 夜と同色の、紺色の制服姿。


 ――世界は、終わりに向かっている。

 それをわたしに教えてくれたのは、彼女だった。 

 こちらを見た。

 少女は、微笑む。


「世々璃!」


 叫びと同時、到着した電車のドアが開いて、大勢の人が一斉に出てきた。

 ニュースで観る東京のラッシュよりももっとたくさん、もっともっともっとたくさんの人!


 あっと思ったときには、わたしは人に飲まれていた。

 大勢の、まるで意思のないひとつの塊のように移動する人の群れ。

 その群れの流れに逆らえず、流されてしまう。


「せせりっ! 世々璃――! 遥君っ……」


 手を伸ばして、必死にもがく。

 それでもまだ、人は電車から溢れてきた。

 わたしは恐怖に駆られる。

 大勢の人から成るひとつの怪物に食べられてしまう。


「やっ、世々璃、待って……」


 もう足が地面を踏んでいない。

 人間の体温がわたしの体に密着して、息苦しい。

 波に飲まれる感覚。でも、海の波のほうがよほど柔らかい。

 人間の洪水にわたしはぐんぐん流されていく。遥君の姿が見えない。

 遠くで世々璃が、ベンチを立つのが見えた。この電車に乗るみたいだ。


《ドアが閉まります――ご注意ください――ドアが閉まります》


 無機質な声が告げている。

 だけどまだ、人は溢れてくる。

 色んな人が居た。サラリーマンも、学生も、遊び帰りみたいな若者も。

 この町の人全員がこの電車に乗っていたんだよ、と言われても信じてしまうほど。

 わたしはどうすることもできない。

 抗えない。


「みらいっ!」


 近くで声がした。わたしはすこし、ほっとする。

 ぐい、と腕を掴まれ、引っ張られた。意外に力強い手だった。

 面白いくらいあっさり、わたしは人の波から逃れる。

 反動で前のめりになったところを遥君に支えてもらった。


「電車が出る! 走って!」


「うんっ」


《ご注意ください――ドアが閉まります――ご注意ください》


 ようやく人の波も去った電車はからっぽで、世々璃はとっくに乗り込んでしまったようだ。

 足の速い遥君には追いつけない。

 電車のドアが閉まるのを横目に観た。

 遥君がその一つ前のドアで乗り込むのが見えて、すこし安心する。

 遥君だけでも、おねがい、世々璃に追いついて。

 本当に置いていかれるかも、と思ったとき、遥君が閉まりかけたドアから手を差し伸べた。


「みらい! 手っ!」


「うん!」


 その手を、わたしは掴む。

 さっきと同じ、意外に力強い腕が、わたしを車内へ引き入れる。 

 気付かなかったけれど、遥君って、頼れる男の子だったんだ。

 ううん、遥君はいつだって、頼りたいとき応えてくれる『男の子』だった。


「……大丈夫?」


 車内の床に座り込んで荒い呼吸を整えるわたしへ、遥君が心配そうに問う。

 呼吸が苦しくてとても喋ることなんてできなくて、わたしは頷いた。

 酸欠気味なのかちょっと頭がくらくらする。


 でも大丈夫。大丈夫だよ。

 だってようやく、世々璃を見つけられたのだから。

 少なくとも、同じ電車に乗っている。

 大丈夫――うん、大丈夫。

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