第3話(3):群青の深海、きっと声の届く時
安藤遠也。二十二歳。大学生。
寂れた公園の古びたベンチに並んで据わって、彼は簡潔に自己紹介をした。
蝉はけたたましく鳴き続ける。
夕暮れは次第に夜に変わり、それでも夏の暑さが潜まることはない。
手の中にあるウーロン茶の缶は冷やりとして皮膚の下の熱を奪っていく。
「……川橋、遥。十七」
「川橋君、か。んで、改めて、何? はじめまして、だよね?」
訝しげにこちらを覗き込んで知己にいないか顔を確認している。
「……」
否定も肯定も示さずに居る俺の隣で「川橋なんて知り合い居たかなあ」と呟く。
どうやら俺との面識はないらしい。
つまり、校舎に閉じ込められた記憶または事実が存在しないことになる。
突然質問に入っていいものか悩んで、と言うよりやはり、喋ることができなくて、俺はもどかしい気持ちで缶を握った。
――なんてことないはずだ。
暴言を吐いて彼を怒らせるつもりは全くないのだし、変な奴だと思われても良い。
行動を起さなければいつまでも停滞したまま、ならば俺は動き出そう。
「あの、っ」
「はい?」
咄嗟に疑問系で返事をして、安藤は言葉を待った。
ウーロン茶を一口含んで飲み下し、息を吐いて、そうしてようやく俺は尋ねる。
「美大、?」
ですか、と言うこともできず中途半端に礼儀足らずな問いになってしまう。
ああ、ほら、これだ……駄目だ。
言葉がどうして、滑らかに出てこないのか。
「あ、これ? 違う違う。これは趣味。大学は、文学部」
とくに憤慨もしなかったらしい安藤が、スケッチブックの入った手提げを指し示しながら言った。絵と対極に思える学部名を聞いて、驚きが顔に出ていたのか、彼は微かに笑んだ。
「文学部だけど絵が好きなんだよ」
「……、大学で、学ぼうとは」
「思ったけど、うん、思ったけどね。まあ、全く無関係ではないし」
そこでまた疑問符を浮かべた俺へ、彼は手元のスケッチブックを開いて見せた。
画材は恐らく鉛筆のみで、描かれているのは写実的なものばかり。
人物画が多かった。
「教師の資格が取れるんだよ。美術の先生」
なるほど、そういうことか。
見ると彼の横顔に浮かんでいるのは、なんとも言い難い表情だった。
満足と不満と、その両方を併せ持っている。
「あのさ、川橋君。失礼とは思うけど描かせてもらっても? 君、首の形、なんかいいね」
「……いや、どうぞ」
失礼なのは間違いなく俺だ。
それでも安藤は気にしていないのか、広げた白紙に鉛筆を構え、身体の向きを斜めにこちらへ向けた。
そういえば、校舎でも同じことを言われたか。それだけで同一人物と決め付けていいものか解らないが。
「用事、なんですが」
「ああ、うん。ていうか、本当、どこで知ったの? 誰かの知り合いとか?」
「似たようなもの、で」
「似……? まあいいや。心当たりないけど、何?」
「卒業式の日、どうしていましたか?」
「卒業式ぃ? えーと、どうしてたっけな、もう四年近く前だから曖昧だな……」
「や、高校じゃなくて、中学」
「中学っ? なんでまたそんな……わっかんねぇなあ」
「変な質問とは、俺も、思うんですけど、その。失礼も承知で。お願いします」
どもる。その度に情けなくて、恥ずかしくて、少しずつウーロン茶を飲み下す。
俺が動いても気にせずスケッチを続けていた安藤だったが、思案しているのかふと動きを止めた。
「中学かぁ……」
「校舎に、閉じ込められたり、とか。……図書室でなにか、とか」
「えっ、いや、ないけど。人違いじゃないか? てか、中学って、ここの?」
頷くと、彼は首を傾げる。
「なにか、印象的な出来事。ないですか」
「いや……印象的……て言ってもなぁ」
原因は安藤にはないのか。
あの異様な空間が生まれたのは、だとすれば原因は長岡のほうにあるのか?
それとも、もっと別の何か?
「図書室……」
呟きが聞こえた。
「……で、俺、告白されたかな、そういや」
そういえばと言って思い出したわけではないだろう。
安藤は言い難そうにしている。
「……長岡さん、ですか」
「いや! いや、いや……! え、きみさ、本当に、何で? 永子の知り合い?」
取り乱しまぎれに問い、自らの言葉にはっとなったように、彼は口を閉ざす。
「はは、懐かしいな。高校別れてそれっきり付き合い薄くなったし、あいつ、今どうしてんだろう」
その口ぶりからして、男女としての付き合いはなかったらしい。
スケッチブックをぱたんと閉じて、安藤は夕日を、もうほとんど夜に染まった空を、見つめた。
「あー、なんか、なつかしい。なんだかな。本当に、何の用だ誰からの使いだお前。そろそろバラせよ」
「いや、なんとも、説明が難しくて」
過去の貴方が今も中学校校舎に閉じ込められています、長岡永子も一緒です。
などと言って、信じてもらえるだろうか。
俺の頭がおかしい可能性をまず疑わなくなるだろう。
俺だって突然そんなこと言われたら信じない。
面識もない奴にそんなこと。
面識がある奴に言われたって無理だ。
――じゃあ、誰に言われたら信じる?
「安藤、さん。あの、少し、話しをしてもらいたい人が、居る……んですが」
「お、おう、誰?」
怖気づく彼へ、俺はもうなり振り構えない、手を差し出して言った。
「申し訳ないんですが、携帯電話、貸してください」
** **
「はあ、だめだ……」
溜め息。
また一通り校舎を点検して、図書室へ帰る途中。
遥君は見つからないし、出口もない。
屋上まで出てみた。
さっきの公衆電話の着信はたぶん、ううん、絶対遥君。
だからきっと、無事ではいるんだろうけど……。
飛び降りるなんて。
思い切りすぎだよ……。
「……わたしには、できないよ……」
はぁ、ともう一回。溜め息。
もしかして、もうずっとこのままなのかな。
外に出られない。遥君とも離ればなれで、世々璃も見つけられない。
「そんなの、いやだ」
だけど、わたしになにができるんだろう。
落胆するわたしの上着のポケットで、携帯電話が振動した。
「わ、えっ」
今のところ、知り合いは全部着信音なしにしている。
公衆電話だ! 咄嗟にそう思ってディスプレイを見る。
表示されているのは、知らない番号だった。
「遥君っ?」
きっとそうだと思った。
『…………みらい?』
ほら、やっぱり。
わたしは少し泣きそうになって、だけどうんうん頷いた。
「無事? 怪我ない? 大丈夫? 遥君、遥君っ」
『ごめん、無事。ごめん、みらい……』
ぎょっとしたような声が慌てて言う。
ずいぶん久しぶりな気がする。
遥君。なんだか、初めてお喋りする人みたい。
声変わりした後、遥君はほとんど喋らなかったから。
……遥君って、こういう声、してたんだ。
『みらい。少し試したいことがあるんだ。協力頼む。今どこに?』
「うん。今は、廊下。あ、でも図書室すぐ。何?」
『じゃあ、図書室に行って。安藤に電話代わってくれ』
「わかった! ちょっと待って!」
** **
「安藤?」
と、安藤が不思議そうに尋ねた。
「俺の親類か?」
「……限りなく近い」
言いながら、俺はみらいの行動を待つ。
『遥君? ついたよ。安藤君に代わるね』
「頼む」
遠くで「え、俺?」と安藤の呟きが聞こえた。
不可解そうな声で、『代わったけど、何? お前、外出られたんだろ。どうやったんだよ』安藤が尋ねる。
「安藤遠也。今二十二歳のお前と一緒に居る。今代わるから確認は本人にしてくれ」
向こうとこちら、まったく同じタイミングで。
「『は?』」
――無理もないだろう。
『えっ、何……二十二? え?』
「言ってなかった。俺とみらいは二〇〇六年にその校舎に入ったんだ。お前等はそこで七年、そうしてる」
『七? 七年? はぁ?』
「それで、二〇〇六年のお前に電話を代わる。わかったな?」
『わかんねえよ! お前何言ってんの?』
「……代わる」
断って、俺は電話を持ち主へ返した。
なんとも言い難い微妙な表情で安藤は俺を見ている。
目が「正気?」と問うていた。
俺だって正気かと自分に尋ねたい。
「……電話、代わりました」
恐る恐る、警戒心を込めて、安藤は電話を取る。
「安藤遠也です」
向こうの安藤はどういう反応をしたのだろう。想像に難くない。




