第2話(4):甘い蜂蜜色の、永遠の在り処
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世々璃曰く、遥君は「癒し系」なのだそうだ。
なんとなく思い出して、わたしは首を傾げた。
たしかに、口数のなさがちょっと動物っぽいかも。
いつもぼうっとしてるし、パンダとか、近い気もする。
今まさにぼうっとしている遥君を、安藤君がじっと見ていた。
不思議に思って、わたしは安藤君を観察する。
教室に入り込む蜂蜜色の光りに照らされた彼。
身長は少し低くて、わたしと同じくらいかな。
机の上のスケッチブックを広げて腿に立てる。
大きなスケッチブックだ。
図書室のドアにはまってるガラスと同じくらいの大きさかも。
そして、鉛筆でそこに線を書き始めた。
すぐ後ろで永子が興味深そうにその様子を眺めている。
気になったからわたしも近づいて、スケッチブックを覗き込んだ。
「わぁ」
線が足されるたび、白い紙の上に人物が浮かび上がっていく。
それはあやふやな人の形から、段々【遥君】へと近づいていった。
「すごい」
思わず呟くと、
「でっしょー!」
隣で、永子が答えた。
「遠也はこの学校唯一の美術部員だったの。校内あちこちにこの子の絵が飾られてる。何度もナントカ賞とかに入選するし、学校の誇りだったんだよ」
「へー、すごいねぇ」
永子が誇らしげに言うのをどう思ったのか、安藤君は唇を結んだ。
何が起きているのかやっと気付いて顔をこちらへ向けた遥君へ、
「悪い、ちょっと顔戻して」
一言だけ投げかけ、遥君はぱっと首を戻す。
剣幕に圧されているみたいで、ちょっと面白い。
あっという間に紙の中に遥君を収めてしまうと、気が済んだように安藤君はスケッチブックを閉じた。
遥君がこっそり不服そうな顔をしてるけど、二人とも気付かない。
「どうしたの、急に」
「なんか、首が良い形してたから」
「あ、そ」
「てことで、急にごめん」
「ごめんね、川橋君」
永子と遠也の二人から謝られ、流石に遥君も表情を繕った。
無関心そうに、一度だけ頷く。
「ねぇ、よく見せてもらっても良い?」
わたしは大きなスケッチブックに手を伸ばした。
表紙をめくって、遥君の描かれているページを探す。
「あ、それ、多分、無理」
「えっ?」
尋ね返しながら、ページを捲る。
捲る。捲る。捲る。
遥君は出てこない。
さっき描いていた永子の絵も見当たらない。
とうとう、スケッチブックに白紙以外のページは見つからなかった。
唖然としているわたしへ、なんでもないように安藤君は言う。
「ずっとそう。こうなってから、ずっと、俺が描いた絵は残らない。
スケッチブックを閉じたら消えるし、放置していてもすぐに消える。
絵だけじゃなくて、字とかも同じ。
このスケッチブックは、ずっと白紙のまま、表紙だけ古くなってく」
「そんな……」
わたしは改めてスケッチブックを見た。
確かに、四隅が擦れて角が潰れている。
使い込んでいるというのが一目で分かるのに、何も描かれていない。
矛盾している表紙と中身。
それじゃあ、さっきのスケッチには、どんな意味があったのだろう。
「それでも、遠也は絵を描くんだよ。残らなくても」
「永子はあんまり喋るなよ……」
「いいじゃない。遠也は自分のこと言わないんだから」
「よくねーよ。言うときは自分で言うよ」
「ふーん? あ、そ」
永子に小さく舌打ちして、決まり悪そうにわたしの手からスケッチブックを取り返した。
「……ばかみたいか?」
見上げて、問う。
「ちょっと不毛かもって思った」
正直に答えてから、ちょっと後悔した。
安藤君は何も言わない。
多分わたしの言葉に落ち込んだわけじゃないだろうけど、考え込むように項垂れる。
「あと、ちょっと残念。もっと見たかった」
ほんの僅かに、彼の頭が動いた。
だけど俯いたまま、安藤君は言った。
「じゃあ、また描くよ」
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残らない絵に何の意味があるんだ?
何も生まれない行為にどんな価値があるんだ?
隣の机を囲む三人の会話を聞きながら、疑問に思った。
描いた絵を残さないスケッチブック。
ページは消費されないまま、表紙だけ古びていく。
残らないと分りながら安藤は絵を描いた。
何がしたいんだ、一体。不可解だ。
大体絵や文を書くのが趣味、と言っているやつの心境が理解できない。
それって、意味あるのか。
表現する、何かを伝える行為、というのはきっと喋ることに似ている。
自分の意見を伝えることに、似ている。
少なくとも、思いが込められているのだろう。
受け入れられず、理解されず、無駄に終わるかもしれない行為に何故彼らは励むのか。
理解されなければ傷つくだけだ。
否定されればもっと傷つく。
それなのに何故、そうまでして表現しようとする?
喋ることだって難しい俺にはとうてい真似できないし、不可解だ。
馬鹿らしく思えるし、羨ましくも思える。
彼らの蛮勇を尊敬もするし、軽蔑もする。
安藤遠也。きっと俺とは相容れない。
だけど、少し。少し、気になった。
あのスケッチブックに俺はどういうふうに描かれたのだろう。
俺は、他人から見てどういう姿かたちをしていて、どういう印象を抱かせるのだろう。
青葉にはどういうふうに見えているのだろう。
青葉にとって俺はどんな存在なのだろう――。
図書室の窓にはいつまでも夜が訪れず、黄昏のままだ。
時間の流れがおかしい。
まるで写真がはまっているかのように、窓の景色は変わらない。
安藤と長岡は慣れきっているのだろう、この状態に驚かないのも分る。
いつの間にか、みらいも何の疑問も抱いていないように二人と談笑している。
その一種落ち着き払ったような態度に苛立った。
みらいのことだから、きっと二人のことに興味が行ってそれ以外の異変に気付くことができないのだろう。
それにしたって本来俺たちは青葉世々璃を探しに来たのに、何の進展もない。
行動を起さなければいつまでも停滞したままだ。
まるでこの図書室のように。この二人のように。
出られない学校。絵の残らないスケッチブック。停滞。
停滞した図書室と、停滞した二人。
ここは、一体どういう空間なんだ?
いい加減同じ考えばかりが廻るようになったので、ふと顔を上げてみらいを見た。
みらいは俺の視線に気付かない。俺は席を立って、ドアへ向かった。
「あっ、遥君、どこか行くの?」
ようやく気付いたみらいの問いに更に苛立つ。
どこへ行くか?
青葉を探しに行くに決まっているじゃないか。
もう忘れたのか、みらいは。
そんなこと当然口に出せるはずなくて、俺は小さく呟いた。
「体育館」
「わたしも行くっ」
頷いて、みらいが来るのを待つ。みらいは安藤と長岡をかえりみた。
「二人はどうする?」
「永子、どうする?」
「んー、あたしは、待ってる。もし外に出られそうだったら教えてよ」
「わかった。待ってて」
気楽すぎる。長岡の言葉を聞いて呆れた。
この二人はどうも積極的に外へ出ようとは思っていないみたいだ。
それとも長い間閉じ込められて、もう諦めきっているのかもしれない。
「なんか、余裕だねぇ。あの二人」
みらいも同じことを感じていたのか、廊下を進む途中でぽつりと言った。
「卒業式って言ったら三月の始めでしょ。もう夏休みだよ。
五ヶ月も閉じ込められてて、辛くないのかなぁ。仲いい同士だから苦じゃないのかな?」
そんなことないだろう、と思ったが反論はしない。
「五ヶ月かぁ……」
想像するようにみらいは呟いた。
五ヶ月。こんなわけのわからない校舎内に閉じ込められた身なら永遠にも感じられる長さだろう。
二人を捜索する者はこの学校に来なかったのだろうか。
来たとしたら、何故、彼らはこうして囚われず、俺とみらいだけ二人のように囚われたのか――。
(永遠)
(終わりの気配に、囚われた)
「……」
引っかかって、俺は走って体育館へ向かった。
仲の良い二人。卒業式の朝。終わりの気配。蜂蜜色。
それは、予感だった。
俺は体育館に辿り付く。卒業式の準備がされたままの体育館。
幕が貼られている。
平成十二年度卒業式。
平成十二年は、七年前。
七年前は、一九九九年だ。
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かりかり、しゃ、しゃ、と。
鉛筆が紙をなぞる音。
向き合う、少女と少年。
「一瞬が永遠で、永遠が一瞬なら――ねえ、遠也」
「何」
少女は描かれ、少年は描く。少女の模像が白紙に浮かぶ。
「この一瞬が永遠で、この永遠が一瞬なら、きっと何も残らないね」
「……」
「だけど、この永遠があたしは好きだよ」
「……」
それきり、言葉はない。
一瞬で永遠の停滞の中。鉛筆の走る音だけが満ちる。
模像の少女が生まれる音だけが、響く。
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一九九九年は、終わりの年だった。
わたしは、それを知っている。
それは、特別な年だった。
何かが起こるはずの年だった。
わたしは眠っていたせいで、その狭間を目にすることはできなかったけど――。
その間に、きっと世界は少し、変わってしまったのだ。
遥君は段上の壁に貼られた幕を見たまま動かない。
平成十二年度。
数えて、それが一九九九年ってやっとわかった。
「遥君、ここは……」
遥君は頷く。
「二人の終わりの世界、なんだね」
遥君は頷く。
「二人の永遠の在り処、なんだね」
遥君は、頷く。
わたしたちは、世界の終わりにたどり着いた。
ただこの世界は、わたしたちにとっての終わるべき場所じゃ、ないんだ。




