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Mana

「Mana」外伝 風の休日

作者: 福島真琴

「あーん」

 ヒナみたい……

 マナはその様子を見つめながら、冷ややかにそう思った。手にしているリンゴの皮が、赤いヘビのように皿の上でとぐろを巻いている。目の前にいる黒髪、黒目の美形と言ってしまってもいいんじゃないかと、百歩譲ってそこだけは認めてやろうと、やっと最近思えるようになったその男、ジーンは、〝美〟とはかけ離れた嬉しそうな顔つきで、白いベッドという巣の中でそれこそヒナのように口を開けている。

 要するに、マナが剥いたリンゴがほしいと要求しているのだ。〝自分で食べろ!〟と言いたいのが本心だが、これでもこの男は怪我人なのだ。脇腹を斬られるという深手を負っている。

 今でこそここまで回復したが、最初はどうなることかとマナも本気で心配した。うっかりその心配も涙も見られてしまったものだから、相手はこの態度なのだろう。

 そう思うと、主導権を握られているみたいで、訳もなく苛立ってくる。しかも少しでも苛立つと、〝イタタタタ……〟といかにも芝居がかった声で怪我人アピールしてくるから、尚のこと腹立たしい。しかもそのたんびに、こちらの様子を窺うようにちらちら見てくる。これらに対して苛立たずにいられるのは、神職者か聖人くらいであろう。

 生憎、私はそこまでの修行を積んでいない。そんな己の未熟さを自覚しつつも、マナは必死でジーンの見えないところで拳を握りしめるのだった。未だ口を開け続けているその男は、きっとマナが剥いたリンゴをその口に収めてやるまで開け続けていることだろう。顎関節症にでもなってしまえばいいのに……、と腹の中で思いつつも、マナはフォークでリンゴを一つ掬うと、お望み通りジーンの口元に持っていってやった。我ながら己の人の良さに涙が出る、と思っていた矢先、思いもよらないことが起きた。

「ちょっと……」

 そんな抗議の声を上げる側でジーンは、リンゴを頬張りながらしょりしょりという小気味よい音を出している。そして、〝何?〟と言いたげな顔で、マナを見つめてきた。それがまた小憎たらしい。わかっているくせに、わからないといった顔をするからだ。

「ねぇ、自分で食べれるでしょう?」

 もう一声そう言うと、〝あぁ、そのことか〟といった表情でジーンは口を開いた。

「いやぁ、それがさ。ほんのちょっとした距離なんだけど、そこまで手を伸ばすと脇腹が引っ張られちゃってさ。そのたびに、痛いんだよね」

「痛いのは、私の手のほうなんだけど……」

 マナがそう指摘すると、〝あぁ、そっちのほうか〟といった表情で事もなげにこう言った。

「あぁ、ごめんごめん」

 言いながらも、ジーンは一向に離す気がないらしい。というのも、ジーンはさっきからフォークを握るマナの手を、ずっと握りしめているのである。〝離してくれませんか?〟と目で訴えると、ジーンの目は束の間、きらりと光ったような気がした。その瞬間、急速に視界は加速した。

「!!」

 手を握られたまま、そのまま勢いよく引っ張られたのだ。当然マナは、ジーンに抱きつくような形になってしまっている。慌てたようにじたばたともがくマナの視界の隅で、うっすらと笑んでいる彼の表情を目にしてしまい、マナの顔に熱が上がった。

「ちょっと!!」

 思わずそう叫んだのは、ジーン自身に対してと、彼のその表情に艶っぽさを感じてしまった自分自身に対してだった。それを勘付かれないようにマナは、僅かにジーンから顔を背けた。自身の顔の死角を作るためだ。そしてそのままマナは叫んだ。

「こんなことしてたら、傷口がまた開くでしょう!?」

「いやぁ、それがさぁ、治っちゃったみたいで……」

「どこが治ってるの!? 血がまだ滲んでるじゃない!!」

「あぁ、これ? もう固まってるから大丈夫。縫ってあるし。それにしても……」

 そこまで言うと、ジーンはにんまりと笑った。

「マナってば、結構積極的」

 確実に語尾にはハートマークがついていた。というのも、傷口を見るためにジーンのシャツをめくり上げたからだ。この状況を知らない人が突然この場に出くわしたら、マナがジーンにのしかかり、シャツを脱がせようとしているように映ることだろう。

 その意図を察したマナは、片方の口の端を持ち上げて苛立ちを露わにした。明らかな怒りの表情を眉間に浮かべ、〝とっちめる〟という実力行使に出ようとしたそのときだった。ジーンの背後にゆらりと人影がスタンバイしたのを、マナは見た。あっと言う間もなく、その人物はジーンの首に片腕を回し、そのまま締め上げる。

「ぐわぁっ!! ちょっ……ぐるじ……!!」

 色男も形無しの憐れな叫びを発しながら、ジーンは締め上げる男の腕を叩いた。

「ずみま゛せんってば……ゲイロン先゛生!!」

「俺は、ゲイじゃねぇ!!」

 〝いや、そこ、つっこむところじゃない……〟とマナは腹の中で冷静に思いつつも、ジーンから解放されたことに内心ほっとした。いろんな意味で、自身の焦りを見抜かれたくなかったのだ。

「ロ゛ン先゛生! 入っでるがら!!」

 ギブとばかりに、ケイロン(そこはかとなく〝ゲイ〟と言わないように心掛けたのは、殊勝な判断だったようだ)の腕をバシバシ叩くジーン。このへんにしておくかとばかりに、ジーンを解放したケイロンは、もう片方の手に持っていた食事のトレイを机の上にどさっと置いた。

「……まったく。絶対安静と言われていただろうが。それなのに、何やってんだ、お前は!野獣か!?」

 野獣は野獣でも、どこかの大食漢よりも性質の悪い知能的野獣であることは間違いない。呆れた感情で満杯になったマナは、それを吐き出すようにため息を吐いた。

「そもそもここは、あのイリーナ先生のお膝元なんだぞ。あの先生の命に背いたら、なにされるかわかったもんじゃな……」

「聞いていますけども……」

 囁き声で話していたケイロンは、哀れなほどに肩を思い切りびくつかせて、声のしたほうを恐る恐る振り返った。何気に最後の〝も〟にアクセントが置かれている時点で、苛立ちを隠そうとしているような、していないような、そんなナイフをちらつかせる怖ろしさを感じる。

 つかつかとその問題の〝先生〟は、ジーンの側に行くと、体温計を無言で手渡した。見下ろすその視線は、相変わらずの刺すような視線だったが、ジーンはふと気になり、思わずその疑問が口を突いて出てしまっていた。

「あれ? 先生、煙草お吸いになられるんですか?」

 その質問にイリーナは、明らかな動揺を示した。具体的に答えるでもなく、淡々とジーンの傷の状態と血圧をチェックしてゆく。それでも質問に答えないイリーナを、ジーンはじっと見つめていた。イリーナはイリーナで、体温を測ろうとしないジーンを脅すように、こう言った。

「……それとも、直腸で測ってほしいわけ?」

 さっきの悪ふざけの余韻もあってなのか、すこぶるイリーナ先生はご機嫌がよろしくない。その目の光り方に異様な恐怖を感じ取ったジーンは、ベッドの中で小さく震えながらこう答えた。

「だ……、大丈夫です……」

 と。

 そして検温チェックも終わり、イリーナは入室してきたときと同じ、つかつかとした歩みで帰っていった。一気にあたりが、重荷を下したような空気になる。

 特に一番ほっとした空気になったのが、ケイロンだった。

「お前……、爆弾落とすなよ……」

 壁にもたれかかりながら、半眼で呻くようにそう言ってくる。

「爆弾? 何のこと?」

 ジーンはそう言ってすっとぼけているけれど、マナの目からすると、どうにも怪しく映った。そしてその予感は的中したようで、ケイロンはジーンの側近くまでやってくると、ジーンのその鼻をひねるようにつまんだ。

「残さず全部食えよ!」

 そう言いながら去り際、つまんだジーンの鼻を素早く引き抜くように引っ張った。

「イテッ!!」

 まるでこれでは悪巧みを叱られる、子供そのものである。だがジーンはケイロンのその様子を見て、確信したようににんまりとした。

「何? なんなの?」

 自分一人が蚊帳の外でわかっていないマナは、小さな苛立ちと共にジーンにとりあえず問うてみた。ちゃんとした答えは、期待していなかったけれど。

「ケイロンの弱点、みつけたなーと思って」

 そう言うと、頭の後ろで腕を組んだ。明らかにその表情は、頭の上に音符が散らばっている。

 どうでもいいけれど、また性質の悪い悪巧みを考えていなければいいのだけれど……。マナは心底呆れながらも、自分で剥いたリンゴを一つ齧った。


 ◆  ◆  ◆


 ケイロンもイリーナもいなくなった室内は、急激に静寂に包まれた。そもそもこの室内の本来の空気は、こんな感じだったんだということを、改めて確認させられる。あれだけ甘えてきていたジーンも、今は静かにベッドに身を預けて窓の外を眺めていた。いや、開いている窓にかかっている、カーテンの翻る様を見ているのかもしれない。

 どっちでもいいのだろうけれど、マナはジーンがどちらを眺めているのか、妙に気になってしまった。もしかしたら、本当はどちらも見ていないのかもしれない。その心の中では。

「もう、この街を出たほうがいいな」

 ぼそりとジーンは呟いた。マナもそれに頷いた。ジーンに傷を負わせた男は未だ、捕まっていない。だけど何となく、どういった者たちなのかは、ジーンの中では見当がついていた。きっと研究所からの刺客だろう。となると、長いことこの街に留まって迷惑をかけたくない。マナも、ジーンのその意図を感じ取っていた。

 だけどジーンは、それとは正反対のことを言った。

「でも久しぶりだよ。こんなにのんびりと何もせず時間を過ごすの。いつもせわしなく、旅ばかりしてたから」

 その横顔を、この街の風が撫でてゆく。ここまで辿り着いたことを祝福してくれているのだろうか。そして、その風に交じる雑踏の香りはなぜか、マナを安心させた。それがジーンにも伝染ったのか、珍しく彼はするすると自分のことを話し始めた。

「ひとところに長く留まったりってことはしなかったな。だから、そのうちに自分が何なのかよくわからなくなったりして」

 そこでジーンは、少しだけためらった。何か自分の気持ちにしっくりくる言葉を探しているかのように、立ち止まっている。そんな姿は珍しかった。いつも水が流れるように、何かを説明することが得意な人なのに。自分のこととなると……

 そしてジーンは、困ったように小さく笑った。

「おかしいよな。自分には途方もなく合理的な部分があって、そんな部分は数字だとか論理だとか、そういう目に見える確固たるものを、強く信じてる。お金とかね。それなのに、目には見えない自分自身の心を気にして〝わからなくなる〟だなんてね」

 窓へと向けられていたジーンの目は、再びマナへと戻ってきた。そうして、微笑みと苦笑いの混じった笑みを、その目元に浮かべながらまた話し始める。

「でも、最近ではそれでもいいかなと思っているんだ。だってマナは俺とは正反対で、たまにすごくあやふやな存在に感じられるときがある。でもなんだろう。最近は不思議と、そういう見えない流れみたいなそういうものに、流されてもいいかなって思う自分がいるんだ」

 そこまで言うと、ジーンはほうっと息を吐きだした。それは疲れたときに出るそれではなく、冬の寒い日に手を暖めるときに出るそれのように、温かさと熱を感じた。

「うまく……言えないんだけどさ」

 あれだけ理路整然と人に語ったり、教えたりすることが大得意で大好きな人が、自分のこととなるとしゅんとなって、言葉にすることさえためらっているみたいに見える。それがマナには、不思議で不思議で仕方がなかった。

「よーし、じゃあ私が占ってあげよう!」

「へ? 占い!?」

 それはジーンとは対極の世界のものであろう。だけどマナは敢えて、ぶつけてみることにした。

「この人はね、馬鹿な人よ。でも、馬鹿やってても仮面被ってても、もう一人のすごく冷静な自分がそれを淡々と見てるの。そんな人。だから、とても頭がいい。でも、そんな二面的な自分を気味悪く思ってる。本当は。居心地の悪さを感じるときは、そんなとき。そんな密かな葛藤、私が知らないとでも思った?」

 本当にマナは、占い師口調でそんなことを言い始める。と同時にそれは、ジーンに挑むような、そんな雰囲気さえ醸し出されていた。いつも大事なところで自身の尻尾をすっと消してしまうような、そんな部分をジーンに感じていたマナは、ここぞとばかりに捕まえようとしているかのようだった。尚もマナの言葉は続く。

「でもね、私から見たら、たしかにそんなときもあるけど、冷静な自分なんて掻き消えちゃうような、そんなとんでもない行動に出るときがある。だってそうでしょう? じゃあ、なんで私を助けたの? あなたにメリットなんて何一つなかったのに。ただただ、一〇〇〇〇〇プレ失っただけじゃない」

 一気にそこまでまくしたてられて、ジーンもただただ困ったような、歯がゆいような、そんな表情で静かに聞いている。どこかでは少し嬉しそうにしているようにも見える。

 そんなジーンの表情には気づくことなく、マナは話を続けた。

「それでも、私よりもすごく血が通ってると思う。私は……、なんだかよくわからない。境界線がないように感じるときがある。自分の中でもそうだし、自分と外とでもそう感じるときがある……。だから、ジーンといるとほっとする……というか……。その点、ジーンはくっきりしてるから……」

 しんとした空気があたりを覆っていた。やけに空調の音を大きく感じる。そのときになってやっと、マナははっとした。顔を上げると、居心地悪そうにベッドの中で身を縮めているジーンがいた。だがこの場合の〝居心地の悪さ〟は、さっきマナが喋っていたようなものではなく、ただの照れ隠しからくるもののようだ。その証拠とばかりに、

「そこまで見てくれているとは、思わなかった……」

 と呟いた。そしてこれも照れ隠しからなのか、こんなことを言い出した。

「それにしても、よくそんなに自分のことも含めて喋れるね。俺は苦手だよ、こういうの」

 〝ジーンの意外な弱点、見ぃつけた〟

 マナは心の中で、そう思った。その自分は少しだけ、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。

「あらぁ、随分と自分に自信がないのね」

 わざとらしくお姉さん口調でそう言うと、ジーンは少しだけひねくれたような表情を浮かべた。

「悪かったね。俺はマナほど、能天気じゃあないものでね」

 必ず一言二言、憎まれ口が返ってくる。マナは少々イラッとしつつも、そのほうが彼らしいといえば彼らしいのだから、まぁよしとするかと自分を諫めた。

 そのとき、一際大きな風が室内に吹き込んだ。窓が揺れる音と、カーテンが大きくはためく音が唱和する。

「閉めてくるね」

 マナは席を立って、窓の側へ歩き出した。その残り香が風に乗って、ジーンのところにまで運ばれる。その心に蛍の光のような、淡い光を灯す。それは小さくて、ぼんやりとしていて、霞んでいて――

 思わずジーンは、口を開いていた。

「これからも、いてくれるよね?」

 マナは半分だけ窓を閉めて、振り返った。その顔には、不思議なものを見つめるときの表情が浮かんでいた。その間にも、風は必死で室内に割り込もうとするかのように、吹き付けてくる。

「あ……、いや、深い意味じゃなくて……」

 思わず、沈黙に耐えきれなくなったジーンは、そう呟いた。

「これからの旅も、来てくれるよね? ってことを聞きたかったわけで……」

 それでもマナは、しばらくきょとんとしている。やがて、合点がいったように、一つ頷いた。そしてこうも付け加えた。

「そりゃあ。だって、行くとこないし」

 その答えを聞いて、ジーンは密かに心の中で項垂れた。だけどもう一方の心では、ほっとしていた。マナらしい答えが聞けたことに、ほっとしたのだ。

 〝これからも、マナはマナとして、いてほしい〟

 本当はそう言いたかった。だけど言葉には、なれなかった。だけど今は、そう言えなくてもいいやと思う自分がいた。目の前のマナを見つめながら、ジーンはそう思った。


 室内の風は、完全に止んだ。今この空間にあるのは、無機質な空調の音と、時折聞こえる人々の息遣い、自身の鼓動の香り――

「リンゴもう一個剥いてあげようか?」

「いいよ、もうお腹いっぱい」

 そう言っているのに、その耳は飾りであるかのように、マナは自分勝手に剥き始めた。

「ちょっと、何勝手に剥いてんの!?」

「リンゴはお腹にいいんだから、もう一個食べたほうがいいよ。それに唯一、包丁をうまく使える食材だから」

「そんなん、そっちの勝手でしょ? それにこれ以上食べたら、逆に腹壊す!!」

 何気ない会話。他愛のないやり取り。そんなことがひどく大事なことのように思っている自分が、ジーンの中にいた。きっとそう感じているのは、今自分が感じている予感や不安が、本当のことになってしまうような、そんな気がしているからなのかもしれない。

 確実に忍び寄ってくる黒い影のようなものを、ジーンはその背にひたひたと感じ取っていた。それは、自分を目指してなのか、マナを目指してなのか、はたまたこの風の街ウインドミルを目指してなのか、それはわからない。

 窓を打ちつける風が、また止んだ。その隙間を縫うように鋭い誰かの視線が、入り込んでくる。その視線に殺気立つ自分を感じながら、ジーンはマナの柔らかい手を見つめていた。



 完

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