7 加護
水面から浮き上がったその光球は、まるで熱を感じさせない青白い輝きを湛えて、音もなく宙をのぼってゆき、水面から二十ヤルド(約二十メートル)ばかりのところでぴたりと止まった。
いまや、この「碧き水源」全体が、その光の球によって煌々と照らし出され、まるで真昼のような明るさだった。
ブリュンヒルデは、しばらくこちらのアルベルティーナ姫の顔をじっと見つめるようにしていたが、愛娘の最後の声を受け取ってくださったのか、優しい微笑みを湛えたままひとつ頷くと、その光球の方へ目を向けた。
そうして、すうっとまたそちらへ両腕を差し出される。
それは、夢かうつつかと思えるほどに、幻想的な光景に見えた。
いや、アルベルティーナ姫の心中を思えば、それはもはや、皮肉なほどの美しさだった。
やがて。
王妃ブリュンヒルデが音もなく、小舟の舷から水中へと身を投げた。
彼女の体は足先から、とぷりと水に呑み込まれ、まるで飛沫もあがらなかった。
ひくりと、腕の中の姫の体が強張った。
「い、や……、おかあ、さまっ……」
そして次の瞬間には、その喉から、絶望的な悲鳴があがった。
「おかあ、さま……いやああああ――――っ!!」
レオンは顔を覆って絶叫する姫の体を、力いっぱい抱き締めた。
自分の胸で身も世もなく号泣している姫をただ、そうして差し上げるほか、出来ることなど何もなかった。
と、その場にあの声が響き渡った。
《祈願は、成った》
低く静かな、叡智に満ちた水竜神の声である。
《雷の朋輩が娘よ。その清げなる祈りに准じ、以降、この国と、その者らへの加護を与うるものとする――》
竜のその声が終わった途端、頭上に輝いていた光球がまた一段と輝きを増し、くるくると回転を始め、やがてそこを二、三度周回したかと思うと、急にこちらへ向かって突進してきた。
それは真っ直ぐに、レオンとアルベルティーナを目指していた。
(………!)
あまりの速さ、そして大きさだ。とても避けきれるものではなかった。
「姫殿下――!」
レオンは思わず、姫の体を庇うようにして湖に背を向け、姫の頭を抱え込むようにして抱きこんだ。
次にやってきたのは、凄まじい衝撃だった。
きゅばば、ばりばりと、全身の細胞を破壊しつくされるのではないかと思うほどの圧倒的な力が叩き込まれてきたのを感じた。
非常な熱さが体全体を覆い、燃え立つような感覚があった。
しかし不思議と、痛みはなかった。
レオンは姫を抱きしめたまま、奥歯を噛み締めてその衝撃に耐えた。
やがて、永久に続くかのように思われたその衝撃が去ると、その場は嘘のように、もとの静けさを取り戻していた。
あの光球は消え、ただいつものように、ぼかりと浮かんだ月が森と湖とを照らしている。
湖の真ん中には、ひとりだけ乗った人を失った小舟が所在なさげに浮かんでいるばかりだった。舷から、主人の消えていった湖面を見つめて、魔法官ら数名がうなだれている。
レオンが酷い頭痛と吐き気に見舞われながら腕の中を見ると、姫はもう、涙を流した頬はそのままに、とうに意識をなくしておられた。あとでアネルに聞いたところによると、その時のレオンたちは、まるで血の気を失って、死人のような顔色になっていたのだそうだ。
レオンはよろめきながらも姫の体を抱え上げ、水辺からのろのろと上がった。
体が、鉛のように重かった。
養父アネルと周囲の武官らが、はっとして近寄ってきて、すぐに手を貸してくれた。彼らの腕の中に倒れこむようにしながらも、どうにかこうにか岸に上がったところで、レオンも遂に、自分の意識を手放した。
◆◆◆
「は! 大きく出たな、水竜の人たらしめ――」
水竜国からの返書である羊皮紙をぐしゃりと握りつぶし、火竜の王太子は口角を歪めてにやりと笑った。
しかし、その表情は明らかに、事態を喜んでいるものではなかった。
書簡を運んできた文官の中年男は、王太子の不気味な目の色をちらりと見ただけで「ひいっ」と情けない声をあげ、逃げるようにして彼の執務室を辞していった。
側付きの召使いやら侍従やらは、基本的にこちらから呼ばないかぎり部屋の中には侍らせない。
先日手に入れた優秀な白金髪の少年について言うならば、今は部屋にこもりきりになり、教師どもに扱かれて、連日、公文書の読み書きやら、火竜国の歴史や地誌、法律や貴族どもの系譜等々を覚えることに忙しい。
教師らの弁を信ずるなら、あれは思った以上の「逸材」だったらしく、教える事はとにかく凄まじい勢いで覚え、諳んじ、理解してゆくものらしい。
彼を傍に置いて十分に使えるようになるのも、さほど遠い未来ではないようだった。
火竜の王太子は、人目のないのをいいことに、握りつぶしていた羊皮紙をひょいと空中に放り投げ、そこへ人差し指をかざすような仕草をした。
その途端、宙に浮いた塊は、ぽっと小さな音をたてて燃え上がり、灰も残さずに消えうせた。
白手袋をしたその指先で、さらりと薄い唇を撫でてひとりごちる。
「まったく、『賢王』が笑わせる――」
どうやら、千名やそこいらの将兵の命なぞ、かの王にとっては羽毛ほどの重みもないらしい。水竜の捕虜どもには気の毒至極な話だが、まあ、それならこちらも存分に、望みどおりに一人ずつ、いたぶり殺してやるまでのこと。
くくく、と喉奥で低い笑みを洩らすと、不意に部屋の隅から甲高い声がした。
「あら。また悪い顔をしておいでなのですね、アレクシス様」
暗がりから聞こえたその声に、アレクシスは途端に眉根を寄せた。
ち、と軽く舌打ちをする。
「……お前か」
忌々しげに鼻を鳴らし、目だけでじろりとそちらを見た。
まったく、神出鬼没とはこのことだ。
この女はこんな調子で、いつでも自在にあちらこちらを移動できる。もちろん、誰の目にも立たずにだ。
とはいえ、火竜の支配するこの国の中であまり派手な魔法を使えば、この女とてあの火竜神にどやされるは必定だ。
だから女は、ここでは基本的に大きな魔法を使わない。
先日の「蛇の尾」侵攻についてはこの女にも大いに手伝わせたのだったが、あれは飽くまでも二国の接する国境線上で行なったこと。
過日、直接あの火竜神にも確認したことなのだが、国境付近での魔法使用については、ぎりぎり、両国の守護竜も文句は言わないことになっているようなのだ。言わばそこは、竜らにとっては互いの「不可侵領域」とでも言うべき場所だということだろう。
まあ、そうでなくてはこちらも動きにくいというものだ。
それにしても。
(敵に回さなくて正解だったな、この女――)
顔にはもちろん出さないが、実はそれが正直なところだった。
こんな女に目をつけられて懸想され、また恨み骨髄になられている、あの「もと風竜の王太子」と水竜の姫が、ちょっと気の毒になるぐらいだ。
よくは知らないが、このミカエラは、結構な頻度で母国である風竜国にも戻っているらしい。彼女は彼女で、己が母国において画策する何事かがあるらしいが、アレクシスは今のところ、敢えて聞き出すことはしていない。
特に興味もないからというのが本音だが、たとえ知りたいと思ったところで、この女を拷問にかけるなどは、土台、無理な相談だったからだ。
風の魔女は、しずしずと高貴な家の生まれらしい足取りでこちらへ近づいてくる。今の彼女は、以前の侍女の服装ではなく、貴族の女の着るような、濃緑色のドレス姿になっている。
「断ってきたのですね。水竜王……」
菫色の瞳の真ん中に、己が目の中にもある金色の細長い虹彩を浮かべて、やや物憂げな声で女が言った。
「まあな。想定のうちではあるが」
面倒くさげな声でそう返すと、魔女が口許に手をあてて、くすくすと気味の悪い声で笑ったようだった。
「まことに、ただ人の分際で身の程知らずなこと。……で、どうなさいます? アレクシス様。水竜兵の虫どもの処刑など、やって面白いことでもありませんでしょうに」
アレクシスは薄い笑みを貼り付けたまま、すうと目を細めた。
「当然だ。くれぬと言うなら、こちらで勝手に掻っ攫いに行くまでのこと」
そうだ。
そしてその後、「ありがたく姫は頂いた」とかなんとか、またぞろ外連まみれの書簡をしたためて、適当に領土の一部返還でもしてやれば話は終わり。
自分はあの姫を手に入れて、どうせくっついてくるのであろう、あの翠の目をした武官の少年をこの女に呉れてやり、あとはこの魔女との袂を分かつまで。
「まあせいぜい、協力しろよ。風の魔女どの――?」
一応、そう確認すれば、女はいつものあの不気味な三日月の形に口をゆがめて、にいっと嬉しそうに笑ったのだった。
◆◆◆
レオンが目を覚ましたのは、その翌日の夕刻だった。
野営場所の自分の兵士用天幕の中で目をひらき、はっとして身を起こそうとしたが、途端にぐらりと体が傾いた。
「うおっと。こら、急に立ち上がるんじゃないって!」
言って、そばからぐっと腕を掴んでくれたのは、ちょうど入り口の天幕布を引き開けて入ってきた、相棒のカールだった。
「やっと目が覚めたか。良かった、良かった――」
にこにこしてはいるが、彼の声音は本当にほっとした色が滲んでいた。どうやら随分と心配を掛けてしまったらしい。
「姫、……殿下は」
訊ねたその声は、自分でも驚くほどに掠れていた。
カールは苦笑して、レオンをもとどおり、地面に直接敷いた敷き布の上に戻すと、側の兵士用の背嚢の上にひょいと腰をおろした。
「姫殿下はまだ、お目覚めになってない。それより、お前のほうは大丈夫かよ? 寝てる間もずっとうなされてたし、ひどい汗だったし。本当にどっか、体に変なとことかないか?」
「ああ、……大丈夫だ」
そうは答えたが、意識を失う直前の、あの体の重さはまだずっしりと全身に残っていた。まるで自分の体ではないように思えるほどだ。
「とにかく、親父さん呼んでくるからな。まだ寝てろよ。いいな!」
そう言って、びしりとこちらの鼻先に指先を突きつけ、カールは一旦外へ出て行った。
すぐにアネルが他の武官らも伴ってやってきて、ひと通りレオンの体を診察した。その結果、今のところ、特に大きな問題はないということだった。
「王妃さまは? 王妃様は、あのあと……」
訊ねるレオンに、すぐに答えてくれる者はいなかった。が、アネルが酷く悲しげな顔で首を横に振っただけで、レオンはその答えを理解した。
王妃様はもう、この世にお戻りになることはない。
(姫、殿下……)
実の母君を目の前で亡くされた、あの王女のお気持ちを思うと堪らなかった。それも、この国と、娘であるご自身を護るためにと、お命を投げ出されたというのだからやりきれない。
ましてブリュンヒルデ様は、あれほど夫たる国王陛下と、お子様がたを愛し慈しまれた王妃殿下なのだ。
直接にお声を掛けていただいたことのある一士官、また一臣民としても、レオンにとってその悲しみは大きかった。
周囲の皆も、気持ちは同じであるのだろう。カールをはじめ、見舞いにきた武官らは、しばし声もなく目線を落とした。
が、やがて天幕の外が急に騒がしくなって、こんな声が聞こえてきた。
それは間違いなく、姫殿下付きの侍女の少女の声だった。
「アネル様! 魔法官のアネル様はいずこに? 姫殿下が、目をお覚ましになられました……!」





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