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4 碧き水源 ※

※R15相当の残酷表現ありです。




 「碧き水源ブラオ・クヴェルレーゲン」は、水竜国の中央部に横たわる、広大な高山地帯の中心に位置する。

 それは非常に深く蒼い水を湛えた、小さな街ならまるごとひとつ分、ひと息に飲み込めるかというほどの巨大な湖である。

 周囲は浩然の気に溢れ、深閑とした針葉樹の森に覆われて、山頂に雪を冠した山々の頂がそのしずかにさざなみをたてる青い水面みなもに落ち込むようにして映りこんでいる。

 その湖の水の色味が、まるで見る者の心を溶かし込むように深い。ただ眺めているだけで、不思議に夢心地へといざなわれるような景色だった。

 夏の盛りの午後であるというのに、やや高度のある山中ということもあり、周囲の空気はひんやりとして心地よいほどである。



「話には聞いていましたけれど。まことに、美しい湖ですね」


 アルベルティーナ姫は、今、その湖のほとりにある、小高い丘の上にたたずんでいる。

 先日、行方をくらました彼女の母君は、護衛の者らとともに間違いなくここへ来ているはずだとの父王の言葉を受けて、彼女は父王に頼み込み、自分の近衛隊を引き連れて、みずからこの地へ母を捜しに来たのだった。

 もちろん、ここには彼ら近衛隊だけでなく、アルベルティーナの身の回りを世話する者や人馬のための輜重しちょうを引いてくる必要などもあり、総勢、一個中隊程度の一団となっている。

 長兄たる王太子ディートリヒや次兄の王子殿下も是非とも来たいと仰せであったのだったが、それはミロスラフも、アルベルティーナもうけがわなかった。理由はもちろん、あの雷竜国へ出向かせなかったことと同じである。王の血筋を守るため、彼らにはともかく、生きていてもらうことが大前提だからだ。


 旅装の彼女は、いつものドレス姿ではなく、女性用の軍装に身を包み、腰に愛用の長剣をいて、肩から碧いマントを流している。

 剣の心得のある人らしく、その姿は堂にっていて、なおかつひどく麗しかった。


「……は。まことに」


 彼女付きの近衛隊士官であるレオンは当然、同僚の近衛士官らと共に彼女のもとに従っている。レオンはいま、彼女の乗ってきた白馬のものと、自分の栗毛の馬の手綱を握って、その背後に控えていた。


 太古の昔より、この場所にはこの国の守護竜、つまり水竜神が住まうのだと言い伝えられてきた。

 その湖は、その名のとおり周囲の山や平原、そして村落や町を潤し、農作物を育ませ、文字通り彼らの命の源ともなっている。もちろんそこは、魚や水草など、水辺の生き物の棲みかともなっているが、周辺の村民らがここで漁や釣りなどをおこなうことはまずないという。

 その根底に水竜信仰があることはもちろんなのだが、その理由となったとある事実、不吉な歴史が、この湖にはつきまとっているからである。


 何かの拍子に大事なものを落としたりしてその湖に泳ぎ入った者の多くが、水に潜ったまま戻らない。

 青々としたその水の底は、どこまで続くかもわからないほどに深いもので、ひとたび沈んだが最後、行方知れずになった者の体は、二度と浮かび上がってくることはないのだという。まさに死の淵、あの世への扉のごとき水辺なのだ。

 そんな凶事が続いた挙げ句、その湖は神域として、百年以上もの昔から周辺住民らによって聖なる禁足地となってきたのである。


 神の領域に、人は無闇に近寄るべきではない。

 それは、他国の竜の神域についても概ね同様であるはずだった。

 たとえば隣国、火竜の国なら、その神域はかの巨大な火の山ということになろう。



 王妃ブリュンヒルデは、ここでとある儀式を行なおうとしているという話だった。しかし、一般の士官らには、その詳しい背後関係の話までは行なわれていない。

 それも無理からぬことだった。何故なら、ことはそのまま王女アルベルティーナの婚儀の一件と結びついている上に、王家の者だけが知る、秘密の儀式に関わる内容だったからだ。

 と、そこへ、近隣の探索に出ていた数名の士官らが戻ってきて、姫にその結果を報告した。


「王妃さまご一行の姿は、どうも近場には見あたりません。どうやら、早くから我らの追跡を見越して動いておられるご様子――」

「……そうでしょうね」


 姫はそれを聞いてひとつ溜め息をつき、柳眉を顰めてその士官らを下がらせた。

 王妃は今回、兵士らのみならず数名の魔法官をも同行させている。ということは、彼らは竜の結晶を用いてある程度の魔法を行使できるということだ。水竜の魔法の中には、人の目を欺くたぐいの魔法も多い。

 たとえ近くに潜んでおられるとしても、ただの人間にすぎない士官らの目に、王妃らの姿は見えないようにされている可能性が高かった。

 その可能性も見越して、こちらもレオンの養父アネルをはじめ、数名の魔法官らを連れてきてはいるのだったが、彼らの魔法を使用しても、王妃たちの姿を見つけ出す事は不可能だったということだった。


「お母様……」


 姫殿下は、やや青ざめた顔色で、じっと湖面の水を見つめるようだった。その声にも瞳にも、焦慮の色が濃い。

 それも、無理はなかった。

 

 あの後、王宮で、レオンはアルベルティーナ王女と共に、王ミロスラフからこの「儀式」についての概要を説明された。もちろん、他の兵らに対しては極秘にせよとの厳しいお達しがあった上でのことである。


 五大竜王国の王家にはそれぞれ、もはや秘蹟といってもよい魔術の儀式が伝わっている。

 それは、多くの「竜の結晶」と共に、祈りびとにとって()()()()()()()()()と引き換えにすることによって捧げられる、守護竜への祈りの儀式なのだという。


 竜は本来、人の領域には関わらない。

 それは事実なのだったが、こと、王家の血を引く祈りびとが、定められたその手順に従い、必要なものを揃えて魂魄こんぱくをこめた祈りを捧げるその時にだけ、まさに数十年、あるいは数百年に一度、その祈りを聞き届けていただけるというのである。

 これは、それほどに稀有な儀式なのだった。


 もともとは雷竜国の人であるブリュンヒルデの祈りに、果たして水竜神がお応えくださるものかどうか、そのあたりは疑問だったけれども、ともかくも、ミロスラフ王はそう言って、娘の姫にこう告げたのだ。


『母上は、これ以上の火竜による暴挙を抑えるため、つまりこの国のため、そしてそなたのためにこの<儀式>を完遂しようとお考えなのだよ。もしも万が一、火竜の王太子にそなたを無理にも奪われるような仕儀となったとき、そなたがその身を守りきれるように、あるいは逃げ切れるようにと――』


『恐らくその時、母上の命は失われよう。それと引き換えに、この国とそなたに水竜神の大いなる加護があるようにと、お願い申し上げるのだろうと思われる。だが、そのようなことまでする必要はないのだ』


 常は冷静かつ泰然としておられるミロスラフ王が、このときばかりは厳しくまなじりを決しておられた。


『どうか、急いでおくれ、アルベルティーナ。決して母上に、そのような<儀式>を行なわせてはならぬ……!』



 レオンの耳に、噛み締めた歯の間から姫が洩らした小さな声がとどいた。

「そんな、ことっ……」

 周囲の兵らには、聞こえていない。それは、それほど小さな声だった。


(……無理もない。)


 暗澹たる気持ちで、レオンもそう思う。

 いくら普段から「王族たるもの、いざというときのための覚悟をもて」と言い聞かせてその子らをお育てになってきているとはいっても、ブリュンヒルデ殿下には、あのエーリッヒ殿下をはじめ、まだ年端のいかない王子たちが何人もいらっしゃるのだ。

 そんなお年で弟君らがその母君を亡くされるなど、姉であるアルベルティーナ殿下でなくとも胸の痛みを禁じえないような話である。


 しかし、あの聡明にして胆力に優れた王妃殿下がそこまでのことをご決意されるからには、事態は思った以上に深刻なのだと思われた。

 あのアレクシスが「火竜の眷属」になったというその事実は、それほどに周辺国を揺るがす大事なのだ。ましてや今、かのミカエラも「風竜の眷属」としてこの地に顕現してしまっている。


 実はレオンの中には、とある嫌な予感がずっと渦巻いて離れない。

 あの「蛇の尾」侵攻の際、火竜国軍は、本来なら広い平野の彼方から現れるはずのその姿を、いきなり友軍の目の前に現したと聞いている。


(それがもし、竜の魔術によることであるなら――)


 二個師団もの将兵を、軍馬もろともあっというまに移動させ、目の前に出現させる魔法といったら、風の属性以外にはありえないのではないのだろうか。

 レオン自身、そのことを疑問に思って養父アネルに訊ねてみたところ、父も苦渋の顔をして、「その可能性は非常に高いと思います」と、答えてくれたのである。


(もしや……あの、ミカエラが――)


 もしもあの女が、自分と王女との仲に嫉妬するあまりに、かの王太子アレクシスのもとへ走っていたら。

 それは、今ここで考えうる限り、最悪の事態を招きかねない。

 アルベルティーナの母君、ブリュンヒルデが、ご自分の命すらも顧みずにこのような<儀式>に臨もうとされるのも、恐らくはその可能性を視野に入れておられるからに違いない。


 もし本当に、あの恐るべき二竜の眷属が手を携えたとなれば、水竜国がアレクシスの要求を退けきることは非常に難しいはずだ。

 このままではアルベルティーナ姫は、遅かれ早かれかの王太子の手に落ちる。

 そして水竜国の安寧も、あのアレクシスが生きている限り、冒され続けるに違いなかった。


 事実、あの「蛇の港」で捕虜とされた将兵千二百余名は、こうしている間にも一日に一名ずつ、むごい処刑によって命を奪われ続けているに相違なかった。

 まして、もともとあの場に生活していた民らに至っては、もはや何をか言わんやであろう。多くの民は、その時、船に乗れるだけは乗せて南へ逃がしたはずだったが、逃げ遅れた老人や女こどものその後は、恐らく悲惨なものでしかないはずだった。


 相手は音に聞こえた残虐無比の火竜兵なのだ。

 ひといきに殺されるなら、まだましというものだろう。

 想像するのもおぞましい話だが、人々は犯され、殺され、奪われて、暴虐の限りを尽くされていることは間違いなかった。そうして若い女や子どもらは、その上で火竜国内の奴隷商人どもの格好の()()にされていることだろう。

 その末路は、ただただ地獄としか言いようがない。

 

 彼女の母君、ブリュンヒルデは、それをただ手を拱いて見ていることを善しとはされなかったのだ。つまり、それらをどうにか回避せんものと、この「儀式」に御身を捧げる決意をなさったということだろう。


 と、レオンがそう考えた時だった。

 急に周囲の兵らがざわつきはじめ、やがてその一人が前方を指差して、アルベルティーナに向かって叫んだのだ。


「姫殿下! み、湖が……!」


 レオンも姫とともに、はっと面前を見つめた。

 夏場の夕刻だというのに、周りが重だるい冷気に包まれ始めたような感覚があった。

 と、見る間にも、湖を取り巻く黒々とした森の木々の間から、染み出るようにして白いもやが滑りおりてきた。


(これは――)


 と思う間に、靄はどんどんとその厚みを増してゆき、あっという間に湖の表面を覆って、その水面を見えなくしてしまったのだった。

 アルベルティーナが一歩さがり、後ろに立つレオンの側で立ち尽くした。

 彼女も明らかに、これが自然の現象ではないと見切っているらしかった。

 靄はまるで、ここに人が立ち入ることを拒むかのようにしてとろりとそこにたゆたい、湖の姿を人々の目から隠し始めている。


「戻りましょう。このままここに居たのでは、帰り道を見失うわ」


 アルベルティーナが悔しげな声でそう言い、近衛兵一同は騎乗して、辿ってきた森の道を戻り始めた。

 暗くなる前に、野営場所へ戻らねばならなかった。

 もし今後も森に入ろうと思うなら、それなりの目印をつけながら慎重に探索する必要がありそうだった。


 日は、ゆるゆると沈もうとしている。

 夜が来ようとしているのだ。


 その、夜が。




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