1 侵攻 ※
※R15残酷表現ありです。
「なに!? まさか……!」
その日、そこに常駐していた魔法官らと将兵らにとっては、まさに目を疑うような事態が出来した。
水竜、火竜、雷竜の三国が国境を接する通称「蛇の尾」である。
ここは、水竜国と雷竜国に挟まれた「蛇の溝」と呼ばれる細長い海峡の、ちょうど尾にあたる地点に存在する。
そこは数百年の昔から、この三国間にあって政治上の重要拠点であり続けてきた。
現在、水竜国の領土となっているその地点は、常に北方の火竜国から虎視眈々と狙われているために、常の防衛が欠かせない。国境はもちろん、警備隊によっていつも厳重に監視されている。
「蛇の港」と呼ばれるその大きな街は、「蛇の尾」の南端に存在し、経済の中心かつ軍港でもある場所だ。その周囲にはぐるりと堅牢な防壁が巡らされ、街の入り口はいつも衛兵によって人の出入りが制限されている。
火竜国側の防壁上にある屯所や物見櫓には、いつも優秀な魔法官が五名ばかり常駐し、そこから程近い兵舎には、五千名ほどのクヴェルレーゲンの将兵が起居している。それはもはや、ちょっとした城塞の様相を呈しているのだ。
それなのに。
「ありえぬ! 水竜の盾が、これほど易々と――」
だが、それは紛れもない事実だった。
敵は国境警備隊を強力な炎熱魔法によって焼き払い、あっというまに踏み潰して、そこからの数十マエルを雲霞のごとき軍勢でもって踏破して見せたのだ。
その初撃からして、後から聞いた報告によれば色々と奇妙な点が多かった。
水竜と火竜との国境は、山脈や高地から遠く、開けた平原上にある。
これまでの経験上、非常に見通しのよい平原の彼方からそれら敵の軍勢が現れるのは、見張り台に立つ兵がもっとずっと早くに発見し、報告をあげてくるはずのところだった。
しかし、それが何故か今回は、彼らが気付いたときにはもう、敵軍は目の前にびっしりと隊列を敷いた後だったというのである。
敵は、そんな大軍でありながらも、早朝の朝靄の中からいきなりうわっと姿を現したように見えたらしい。
「まことに、そんな感じだったのです……」
と、後々、負傷した警備兵らは口々に語った。
聞けば聞くほど、いかにも胡散臭い行軍だった。
ともかくも。
今、敵軍に囲まれた城塞都市「蛇の港」は、まさに風前の灯となっている。
(わからん……。いったい、何が起こった――!)
この城塞都市の守備を拝命している壮年の将軍が見たところ、敵は徒歩と騎馬を合わせてざっと三万ほどの軍勢だった。その先頭には、明らかに魔法職らしい、フードつきのマントを身に纏った男らの姿がある。
本来であれば、竜の魔力の均衡があるために、あちらがいかに強力な火属性の魔法攻撃を仕掛けてきても、こちらにいる手勢で十分に対処できるはずであった。
そもそも、火の属性と水の属性とでは、たとえ同等の魔力である場合にも、水の属性のほうが優勢であるというのが常識である。
しかし。
「どういうことだ! この、火竜づれどもの魔撃の威力は……!」
魔法官らの目は、驚愕に見開かれた。
それは、ここに常駐する将兵らを指揮する、将軍や将校らも同様だった。
火竜の得意とする炎熱攻撃の前に、友軍の将兵らはあっけなく黒焦げにされ、酷い者はあまりの熱のために一瞬のうちにその体を蒸発させ、地面に人の形をした影をやきつけて絶命した。
「落ち着け! 慌てるな! まずは水竜の盾をしっかりと街の周囲へ引き回せ! 将兵らは隊列を組みなおし、各個に守備を――」
喉も裂けよと怒号を発した将軍の声も、やがてその水竜の分厚い盾を貫いて届いた猛烈な劫火に焼き尽くされた。
兵らの命はその断末魔の呻きとともに、黒い煙となって天へのぼっていったのだった。
◆◆◆
竜国暦、1030年、夏。
火竜国による第三次水竜国侵攻は、こうして火蓋を切った。
その攻撃は、苛烈を極めた。
通常であれば、常駐している魔法官らの水竜魔法による盾によって凌ぎきれるはずのところが、この年は敵方の火竜の魔法官らによる攻撃魔法の凄まじさに、一気に破られたことが大きかった。
知らせを受けたアルベルティーナの父、水竜王ミロスラフは、すぐさま周辺の城塞から援軍を走らせ、王都からも軍を発したのだったが、それら師団が到着したころにはもう、戦いの趨勢はおおかたが決してしまった後だった。
火竜国は、水竜国との国境線を優に三十マエル(約四十八キロメートル)もこちら側へと押し込んで、すでにそこに新たな防衛線を築き始めていた。
困ったことに、そこにはあの交通と防衛の要害である「蛇の尾」地域が含まれてしまっていた。
「これは、かの国との魔力の分限に大いなる変動があったと見るのが正しいだろうね」
ミロスラフ王はそう見て取って、すでに連絡を取り合っていた雷竜王エドヴァルトとも共闘することを確認しあい、それをアルベルティーナらに教えてくれた。エドヴァルトのほうでもすぐに彼の兵を動かして、水竜国に加勢するべく、二国の国境へと兵を進めたらしい。
「蛇の尾」にあって、突出した火竜国の軍勢は、これによって水竜国軍と雷竜国軍によって挟撃される形になった。連携する両国は、軍船も出して海側からの遠隔攻撃も行なっていたわけなので、実際にはニーダーブレンネンは三方から囲まれたような形になっての応戦だった。
本来であればこんなもの、到底、火竜に勝算などあるはずもなかったのだが、やはり火竜の魔力が強化されていることは思った以上に戦況を左右した。つまり、両国とも、なかなかその場に居座る火竜兵らを立ち退かせるには至らなかったのである。
水竜国の魔法官らの発する、氷と水の奔流による属性攻撃も、雷竜国による電撃魔法攻撃も、火竜の炎熱の盾を突き通すことができなかった。
それどころか、その炎の盾を突き破るようにして仕掛けられる劫火のごとき火炎攻撃によって、こちら側の将兵の損耗はじりじりと増大するばかりだった。空からはまるでこの世の終わりを告げるかのような火の玉が降り注ぎ、数千もの兵らが身を守るはずの盾ごと溶かされ、燃やされ、蒸発させられていった。
ここへきて、ミロスラフとエドヴァルトははっきりと同じ結論に達した。
先日のあの地鳴りのことといい、今回のこの魔力均衡の崩れようといい、これは遂に、あの伝説の「竜の眷属」が、こともあろうにあの火竜の国に顕現したのに違いないと。
そしてそれは、そもそも王族にのみ許されることと、ここしばらくでゴットフリート王の息子二人が相次いで他界し、王本人も長く病床に就いているとの情報から、それが第三王子アレクシスその人の身に起こったのではないかと推論した。
過日、あのミカエラが風竜国の者としてその「竜の眷属」となったらしいことは両国ともに把握している。ちなみに彼女の消息は、あれ以来、杳として知れなかった。
しかし、これが事実だとすると、数百年に一度現れるといわれるその稀有な存在が、いまこの地には、なんと同時に二名も降誕したということなのか。
「まさに、焦眉の事実だね」
ミロスラフ王は、その言葉とは裏腹に、こんな事態にあっても泰然自若とした態を崩さなかった。そして、ごく冷静にこれらの状況を判断しているようだった。
火竜国に放っている間諜らからは、ここしばらくあまり詳しい報告が上がってこなくなっている。それどころか、そのうちの多くの者との連絡がつかなくもなっていた。
それはすなわち、彼らが敵に正体を悟られ、すでに捕縛されて、消されたことを意味しているのだと思われた。実はこの数ヶ月というもの、こうした事例がじわじわと数を増してきているというのだった。
「火竜の王太子には、どうやらそうした者を見分ける目すら備わった……ということのようだ。厄介至極。頭が痛いよ」
父は淡々とそう言ったが、それがどんなに恐ろしいことであるかは、王家の皆も重々理解していた。
とりわけ、王妃ブリュンヒルデの心配は尋常ではなかった。とはいっても、この胆力に優れた王妃は子供たちの前で取り乱すことはしなかった。
「さあさあ。みんな、そんなお顔をしていてはいけません。わたくしたちは、お父様にご心配を掛けないよう、いま自分に出来ることをするほかはないのだから」
顔色はよくないながら、この王妃はそれでも幼い王子たちや王女アルベルティーナの前ではごく優しく、こんな風に穏やかな声でものを言うだけだった。
そんな落ち着いたわが妻を見て、ミロスラフもゆったりと微笑んだ。
「心配は要らぬ。そうは言っても、わが国から水竜神さまのご加護がなくなったわけではないのだ。飽くまでも、火竜の力が一時的に強化されたというだけのこと。かの国の王太子アレクシスが身罷られれば、この均衡ももとの状態を取り戻すことは必至――」
つまり、こんな力の不均衡も、結局は「火竜の眷属」となった者の命が尽きるまでのこと。それが何年先になるかは分からぬが、その間、じっと我慢さえしていれば、いずれかの土地はまた、こちらの国に取り戻すことが叶うはずだった。
これまでに放った間諜たちの運命のことを思えば、かの王太子の身辺においそれと暗殺者を忍び込ませるなどは無謀なことと思われた。逆に、もしも万が一その者が捕まって、裏の事情をしゃべらされてしまったりなどすれば、こちらの立場はますます悪くなるばかりである。
だからともかくも、時間を掛ける。
そうこうするうちにも、事態を打開する何事かが起こる可能性はあったからだ。
ミロスラフ王とエドヴァルト王は、血気に逸る若造の王太子が、いずれ見せるであろう若さゆえの隙を突くため、年の功でもってそのように判断したわけである。つまり、時をおいて次なる反撃のための力を蓄えつつ、じっくりと彼の動向を静観することにしたのだ。
しかし。
やがて、王妃ブリュンヒルデと王女アルベルティーナが心密かにも最も恐れていた書簡が、水竜国王家へ届けられることになる。
それはもちろん、かの火竜の国の王からのものだった。
とは言えその実、それが長く病床に臥せっている父王の意向というよりは、息子アレクシスによるものなのは明白だった。
曰く、
『このたび貴国よりお譲り頂いた土地、権益のいくらかを、速やかにお返し申し上げる用意がある。ついてはそれと引き換えに、貴国の王女アルベルティーナ姫を、わが子アレクシスの正妃として迎えたいが、ミロスラフ王のご意向やいかに』
云々、かんぬん。
「冗談ではありませんわ――」
その書簡について、王の執務室に呼ばれて説明を受けたとき、母ブリュンヒルデは一言のもとにそれを一蹴した。
その声はもはや、怒りなどとうに通り越してしまった挙げ句、非常に低くて、むしろ異様に落ち着いて聞こえるほどのものだった。
一緒にその場に呼ばれていたアルベルティーナは、ただ真っ青になってその場に立ち尽くしていた。
(とうとう、来たのね――)
そう思った。
あの王太子が自分に向ける異常な執着については、あの雷竜国での顛末で、身をもって理解していた。
とは言っても、いざこういう事態になって、あの男がまさか貴重な国の権益そのほかを王族とはいえ女ひとりの身柄と天秤に掛けるかどうか、とは思ったのだったが。
残念ながら、やはりあの男がアルベルティーナを欲する思いは、どうやら相当に重みのあることであるらしい。
(そうまでして、たかが女ひとりが欲しいのかしら――)
アルベルティーナは呆れる思いを禁じえない。
と言うよりも、事実上、やっと王国の実権を握るに至ったあの若者の臣下たちは、そんなことを望んでいるのだろうか。
火竜の奪った領土とそれに付随する農地や鉱脈といった権益そのものは、いずれ水竜に奪い返されることは間違いがない。だとすれば、当然、今はそこから吸い上げられる利をなるべく吸い上げておきたいというのが、かの国の貴族連中の考えることなのでは。
あるいはこれはもしかすると、アルベルティーナにアレクシスの子を生ませ、その子を利用して水竜国にまで支配の手を伸ばすための布石に過ぎないということなのか。
ミロスラフ王が王太子である兄ディートリヒ、王妃ブリュンヒルデらとそうした話をしている間、アルベルティーナも黙ってそれを聞きながら様々に考えていた。
今さら、自分の身ひとつのことを惜しもうとは思わない。
あの男のものになるというのは、身の毛もよだつほどに嫌悪を禁じえないけれども、以前にも母から言われたとおり、王族の娘である以上は、果たすべき責任というものがあるからだ。
しかし、父はこう言った。
「いや、アルベルティーナ。心配には及ばないよ」
母ブリュンヒルデもその父と目を見交わして、ソファにいるアルベルティーナの隣に座り、彼女の肩を抱いてくれた。
父は静かに言葉を続けている。
「先ほども言ったとおりだ。火竜が好きにできるのも、かのアレクシスが存命の間だけ。その間の雌伏を耐えれば、あとはまた『蛇の尾』そのほかを取り戻せることは間違いがない。ましてや我らには、かの雷竜王、エドヴァルト公のご協力もあることだ。今はそれを耐え忍ぼう」
「そうですよ、アルベルティーナ。何もあなたが、その身をあのような獣のごとき王太子に差し出す必要などないことだわ。兄上も、決してそのようなこと、お許しにはなりませんよ」
ブリュンヒルデも、温かくも毅然とした声でそう言った。彼女の言う「兄上」というのは勿論、隣国、雷竜国王エドヴァルトのことである。
ちなみに、かの王の正妃にしてレオンの叔母でもあるティルデについては、あの恐るべきミカエラ変貌の事件の後、大いに心を乱されてはいたものの、今はもちろん、雷竜国に戻っておられる。
彼女自身はあのあと、あまりの申し訳なさにお倒れにならんばかりで、レオンのこともあって非常にここを去りがたいご様子であられた。しかし勿論、いつまでもそうはしておられず、一刻も早く母国にお戻りいただくべく、ミロスラフ王が手を尽くしたのである。
「はい、お父様、お母様……」
ソファに座り、膝の上で両の拳をにぎりしめるようにして、アルベルティーナはそう言った。
(でも……。それで、済むのかしら)
唇を噛み締めてそう思った。
しかし、彼女のその感覚は、間もなくそのまま現実のものとなる。
程なく、王太子アレクシスとの婚儀について丁重にお断りの返答をしたミロスラフ王のもとに、次にはこんな書簡が届けられたからだ。
『近頃では、夏場のおり、<蛇の港>に常駐していたそちらの将兵らの間に奇妙な疫病が流行しているとの由。ただいまこちらにて千二百名ほどの貴国兵をお預かり申し上げているものの、毎日、一人ずつが命を落としているやに聞き及ぶ。まことにもって残念至極』
この書簡には、さすがのミロスラフ王も絶句したようだった。
その書簡の行間には、かの王太子のせせら笑う顔が仄見えるようだった。
『姫と王太子との婚儀によって二神竜への疫病退散の祈念ともいたし、婚儀の成った暁には、お預かりした兵らの帰国をもってこの災厄を退けんものと愚考するが、水竜王陛下のご意向やいかに』
それは明らかに、単なる「疫病」などではありえなかった。かの国は間違いなく、捕虜とした水竜国軍の兵士らを毎日ひとりずつ処刑しているのだろう。
そしてそれを、「姫を差し出すまで続けるぞ」とほのめかしていたのである。





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