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9 少年ヴァイス




 さて。

 話はここで、ほんの少しさかのぼる。


 その少年がアレクシスの目の前に現れたのは、彼が王都に凱旋して、十日ばかり経った頃のことだった。しかし、彼に会ったのは、実はそれが初めてではなかった。

 とは言えそうだと分かったのは、次に彼と自分の寝所で会った時のことである。


 その夜、アレクシスは一日の政務を終えて食事や入浴等を済ませ、いつものように天蓋つきの寝台の設えられた己が寝室に戻った。金糸や銀糸で凝った刺繍の施された長い夜着に、ナイトガウン(ナッハテムト)を羽織った姿である。とはいえ彼は、どんな姿であろうと常に、愛用の長剣だけは手に携えている。

 いつものように数名の女たちが侍っているものと思って部屋を見回してから、アレクシスは眉を顰めた。


「なんだ……? 貴様は」


 それもそのはずだった。

 部屋の隅に立てられたいくつもの燭台の光でぼんやりと橙色に照らされている室内には、今夜はその少年しかいなかった。少年は、ときどき侍らせている少年男娼たちと同様の、ごく軽い薄絹の夜着を羽織っているだけだった。


「一日のご政務、お、お疲れ様にございました、王太子殿下」


 床に平伏して顔も伏せたまま、小柄なその少年はそう言った。言葉遣いがぎこちないのは、物慣れない証であるようだった。

 まだ変声期も経ていないその声は、高くてよく澄んでいた。恐らく、まだせいぜいが十代前半といった年齢だろう。


 ちらりと見れば、まるで雪かと見まごうような白い髪の少年だ。

 いわゆる、白金髪プラティーン・ブロンデなのだろう。それにしても、ここまで輝くように白いものはなかなかあるものではない。ましてこの、黒や茶系の髪色の多い火竜の国で、その色目は大変珍しいものだった。さらに、それは非常につややかで美しく見えた。

 少年はその癖のない絹糸のような髪を長く伸ばしており、それをゆるやかに後ろで編んでいた。それはいかにも、指を通せばさらさらと気持ちが良さそうに見えた。しかし、身体はひどく痩せていて細っこく、いかにも栄養が足りていない様子だった。


「他の者はどうした。なぜ貴様ひとりしかいない」

「……は、それは……」


 少年もちょっと困ったような顔で首を傾げる様子である。少し顔を上げたことで、その瞳の色が知れた。非常に薄い、桃色をしているようだ。これもまた、この地にあってはたいへん稀少な色だと言わざるを得ない。

 顔立ちはとても中性的で、しかもよく整っている。顎が細く、睫毛が長く、唇は桜色で、肌の肌理も陶器のように滑らかに整っていた。それは十分に、いわゆる美少年と呼んでよい姿だった。

 とは言え、アレクシスにはこんな少年に心当たりはまるでなかった。

 したがって、まず先立つのは警戒心のほうだった。

 なんといっても、あの兄どもから王太子の地位を簒奪したにも等しい自分だ。この地位を狙って、「次なるアレクシス」を我が家の家系の者から出そうとばかり、この命を虎視眈々と狙うものは、この王宮に数知れないわけなのだから。


 アレクシスの目がすっと細められ、眼光が険しくなったのを見て、少年は慌てたようだった。

「あの、申しわけございません。殿下のお言いつけ通り、あのあと城内へ入れていただき、湯あみと身づくろいをさせていただいたのですが……」


(『あのあと』……?)


 アレクシスは、まだ怪訝な顔である。

 少年は、さらに焦ったらしかった。


「なぜかその、数日、ね、『閨のお作法』だとか……礼儀作法、言葉遣いなどを指南されておりまして……それで今日、侍従長様から、『今宵はこちらへ侍れ』とのお言いつけで……その……」


 言葉の最後はもごもごと、そんな言いようで終わってしまう。

 どうやら本人も、何故自分がこんな所にこうしているのかがあまりよく分かっていないということらしい。

 しかしその紅潮した顔を見る限り、ここで何をすることを期待されているのかぐらいは理解しているということのようだった。


(いや。それよりも――)


「『俺のいいつけ通り』と言ったか? どういう意味だ」


 アレクシスには、こんな少年にそんなことを言いつけた覚えがまるでなかった。

 こんな目立つ容姿の少年、一度見たら忘れるはずがない。そんな記憶違いをするような年齢でもあるまいし、ひょっとしてあの侍従長の爺いの嫌がらせか、或いは何者かによる陰謀なのではあるまいか。

 アレクシスの眉間の皺がどんどん深くなり、今にも手にした剣のつかに手を掛けんばかりなのを見てとって、少年の顔から次第に血の気が引いていくようだった。

「あ、あのう……」

 その声はますます小さくなってゆき、緊張のためかひどく掠れている。


「で、殿下が王都に凱旋なさいましたおりに、僕……いえ、わたくしが、あまりに小汚かったもので――」


(王都に凱旋したおり……小汚い……?)


 そこでようやく、アレクシスは自分の記憶のその部分に行き当たった。


(ああ。もしや――)


 あの時、「火竜の子アレクシス」として王都へ戻ったおり、王都の民たちは兵士らも交えて歓呼の声をもって彼を迎えた。

 白馬に乗ったアレクシスの周囲は彼を少しでも見ようとする人々で埋め尽くされて、あちらこちらで人々に踏み潰された子供の泣き声やら女の金切り声、男たちの怒号が飛びかっていたものだった。

 そのうちに、それらの人々に押しのけられた拍子にか、アレクシスの目の前に、ぼろをまとった乞食のような少年がよろよろと迷い出てきてしまったのだ。


 言うまでもなく、王族の行く手を遮るような真似は非礼中の非礼である。無礼のかどで、その場で手打ちにされたとしても文句は言えない。周囲の民ははっとして、その少年の処遇がどうなるものかと息を詰め、ことの成り行きを見守った。

 しかし、その少年にとっては幸いなことに、その時のアレクシスは上機嫌だった。あの過酷な「火竜の刑」を生き延びて、その上「火竜の眷属」となる僥倖までも、こうして堂々と王都へ凱旋を果たしたのだ。彼のさしてまだ長くもない人生の中で、これほど晴れがましいことは初めてだった。

 さしものアレクシスでも、このようなみずからの華々しい花道を、乞食の少年ごときの血で汚すつもりにはさらさらならなかったのである。


 そう、ただ、それだけのことだったのだ。


「よい。……気をつけろ」


 それだけ言って、アレクシスはほんのちらりと、震えながら道に平伏してしまった、その垢じみて薄汚れたぼろぼろの少年を見た。そして、塵や埃まみれで元が何色かも分からないようなぼうぼう髪に、ちょっと驚いたものだった。

 実の母親には見向きもされなかったとはいえ、幼い頃から王宮の中で召し使いらの手によって清潔な暮らしをしてきたアレクシスには、人間がどうやったらそこまで汚れきるものか、想像も及ばないことだった。いや別に、敢えて理解しようという気もなかったけれども。


 ともかくも、アレクシスはそれでふと、ただの思いつきでこんなことを言ってしまったのだ。

 「それにしても汚いな、お前。城で少し、小奇麗にしてもらえ」と。



(つまり……)


 アレクシスは脳裏に蘇らせたその回想から瞬時に戻り、改めて目の前の美少年をつくづくと眺めた。


「まさか……あの時の物乞いの子供か? 貴様」

「はっ、はい……!」


 少年はびくっとして、しかし王太子殿下に自分のことを思い出してもらえたことがひどく嬉しいらしく、ぱっと明るい笑顔になった。なんだかその様子が、千切れんばかりに尾を振っている白い子犬かなにかのように見えた。

 アレクシスは少し彼から離れると、その体を上から下までまじまじと眺め回した。彼がふと、その視線を受けて顔を赤くしたようだった。


「……それにしても。風呂に入ったぐらいのことで、ここまで変わるか……?」

 正直、「化けすぎだろう」と思った。

「あ、あの……はい。体じゅう、香油を塗って手入れをしていただきました。髪も少し、切っていて頂いて――」


(ふむ……)


 言葉遣いや礼儀作法も数日かかって教わったとは言っていたが、それにしてはまずまずよどみがない。これは、もとはある程度の出自の者か、或いはかなり頭の回転の早い少年なのかもしれぬとちらりと思った。


「よ、よく分からないのですが、なにか、風呂から出た途端、召し使いの皆さんや侍従長さまが急に慌てだされまして……」


(……なるほどな。)


 アレクシスは心の中だけで溜め息をついた。

 これは、彼らの気の回しすぎというものだろう。

 アレクシスとしてはただ単に、文字通り「風呂に入って身ぎれいにしろ」と言っただけのことだったのを、いざ風呂に入れて磨いてみたら、あの埃まみれのぼろの中からこんな美少年が現れたわけだ。

 「すわ、これは殿下が閨に侍らせるための少年だったか!」と、彼らが勝手に解釈して、慌てふためくのも無理はない。

 あとはまあ、この少年が説明した通りなのだろう。


 勿論アレクシスは、それを鵜呑みにするほど慎重さを軽視するような性質たちではない。そんな風に説明してはいながらも、その実この少年が、どこぞの貴族の息のかかった暗殺者や密偵でないという保証などないからだ。

 そういう訳で、アレクシスは一応、彼にだけ使える火竜の魔法によって少年の言葉に裏がないかどうかを、話をしつつも密かに調べさせて貰っていた。


「……あ」


 その時、きらりと一瞬、金色に光ったのであろうアレクシスの瞳を見て、少年は驚いたようだった。

 「いかん、殺すか」と即座に思って、携えていた長剣の柄にはっと手を掛けたアレクシスだったが、次の言葉を聞いて力が抜けた。


「うわあ……きれいです。殿下のお目の色、とっても……」

 にこにこと、本当に嬉しげに笑っている。

「…………」

 アレクシスはそんな少年を見て、あっさりと腰のものから手を離した。


(何を言ってるんだ、この餓鬼は――)


 はっきり言えば、毒気を抜かれた。

 その言葉にも、瞳にも、そしてやはり「精査」の魔法をもって心の内側を探ってみても、彼の振る舞いに裏らしい裏はありはしなかった。


 アレクシスはその時、ちょっと奇妙な顔になっていたかも知れない。こんな、犬っころのような人間を見たのは生まれて初めてだった。

 いや、自分という立場の人間を、ここまで恐れる風がない者を、というべきか。

 ともかくも、生まれてこの方ずっと、この魑魅魍魎が住まうといっても過言でない王宮暮らしをしてきたアレクシスにとって、その少年は何もかもが異質に見えたのだ。


 それでつい、アレクシスは思ったことをそのまま口から零してしまった。

「……お前。俺が怖くないのか」

「あっ。す、すみません……じゃなくて、申しわけございません――!」

 そんな態度を不敬と取られたと誤解したのか、少年はまた慌ててその場に平伏した。

「ご、ごご、ご無礼を――」

「ここまでの流れについては理解したが。そうだとしても、お前とて、さすがにこの場で何をするのか、わかってここにいるんだろう。……それでいいのか」

「へ? いえ、あの……えーと」


 いや勿論、この火竜の国にあって、平民が王族の求めを拒否する道などないに等しい。ましてや彼は、街の片隅で物乞いをしてはやっと暮らしていたような貧民である。

 普段この寝室に侍らせている他の女たちや少年たちと同様に、日々の衣食に困らずにいい暮らしさえさせてもらえるなら、どんな「奉仕」も嫌がる筋合いなどあるはずがない。

 しかし不思議と、この少年の桃色をした瞳の中には、それら女たちや少年たちの中にある、あの「仕方ない」と何かを諦観したような色がなかった。彼はごくあっけらかんとしていたし、どこからどう見てもこの「勤め」を忌避している風がまるでなかった。

 火竜の魔法で精査してみてもやっぱり、彼の心の中には曇りがなかった。

 要するに、この少年はアレクシスの御前おんまえに出て、こうして奉仕できることが、ただただ嬉しいようにしか見えなかった。

 アレクシスには、それが奇妙に思えたのだ。


(ふむ。……まあ、いいか)


 ともあれもちろん、相手に心を許す気などはなかった。

 だから当然、ごく冷ややかにこう訊いたのだ。


「……小僧。名は、なんと言う」

「あ、はい。えっと……」


 しかし少年は、ちょっと困ったような顔になって黙り込んだ。

「あの、……申し訳ありません。名前らしいものは、ないのです。街ではいつも、『おい』とか『お前』とか……その、あんまり汚いんで『そこのゴミ』、とか――」


(……それはまた――)


 いくら実の母親に生み捨てられた身だとはいえ、自分には名前ぐらいは与えられている。しかし、いま目の前にいるこの少年には、これまでそれすらもつける人がなかったと言うのだろうか。


「……では。俺がつけても構わんか」

 いつもならそんな事、有無を言わさずに「お前はこれこれ」と言い放って終わるはずのところだったのに、何故かそのときアレクシスは、一応、相手の意向を聞いた。

「えっ……!」

 途端、少年の顔がなお一層、ぱあっと明るいものになった。

 その時のその少年の、嬉しそうな顔といったらなかった。

 アレクシスはなんとなく、眩しいものを見たような心地になった。


「……はい! えっ!? うそ! ほ、ほんとうですか……!?」

 なにやら言葉まであっちやこっちへ飛びまくって、主旨が分からなくなっている。

「うわあ! ありがとうございます! うれしいです! ありがとうございます、殿下……!」

 少年はもう、小躍りせんばかりである。


(……なんなんだ、こいつは。)


 アレクシスは苦笑した。

 ふっと、肩から力が抜けたような気がした。


 そして、この子犬のような少年に、ごく簡単な名をつけた。

 すなわち、見たままである。


「では、『ヴァイス』。今後、お前はヴァイスだ。……いいな」


 それはまことに、彼を見たままの、ただそれだけの名前だった。

 それでもその少年は――ヴァイスは、少年でありながら、花も恥じらうような笑顔で笑って、大喜びをしたのだった。


 アレクシスが十八、ヴァイス、十二の春だった。




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