1 紅き女 ※
※R15相当の描写があります。
アレクシスに関する章は全編、ダークな展開続きとなりますので、苦手な方はご注意ください。
「おほ。こりゃまた、凄い得物だねえ。いったい、誰の持ち物なんだい――」
土竜国の辺境、小さな町の片隅で、炭と汗に顔を真っ黒にした鍛冶屋の老人が、ニーナを見上げてにやっと笑った。
彼の目の前にあるものは、今は黒馬の姿になった、とある男の両手剣である。
「大切な人からの預かりものなのです。わたくしの剣も、よかったら一緒にお願いできないかと」
にこやかにそんなことを言いながら、ニーナはその老人と、剣の手入れを頼むに当たって謝礼の交渉を始めている。
黒馬の手綱を握って、少し離れた木陰からそれを見ていた少年は、隣でいつものように「我関せず」といった様子の黒馬の首もとをちょっと小突いた。
「いや〜もう。やってられねーなあ……あんたらの話」
片目の馬はぴょいぴょいと尻尾を振って、寄ってくる小虫を払っている。こういうところは、まったく普通の馬と変わらない。
「俺みたいなガキでも、『もーちょっとどうにかならねえの?』って思うよ、ほんと。不器用っていうの? 聞いててもう、こっちが恥ずかしくなるっていうか……」
馬は眠たそうな顔をしたまま、完全に明後日のほうを向いている。
クルトはもうそんなのには慣れっこだ。だから勝手に、いつものように話を続ける。
「そんで結局、ニーナさん泣かすとかさあ……。くそ真面目もたいがいにしとけよ、あんた――」
と、言いかけた途端。
黒馬がぶん、と顔を振りたてるようにしてクルトの軽い身体を跳ね飛ばした。少年の小さな体は、それだけでころんと地面にすっ転がされる。
「ってえ! あにすんだ、このおっさん馬ァ!」
がばっと跳ね起きて歯をむきだし、拳を振り回すが、馬は忌々しいほどに涼しい顔で、「は? いま何かありましたか」と言わんばかりである。
「……なにをなさっているのです、クルトさん」
振り向けば、ニーナがもう戻ってきていた。小さな体で仁王立ちになって片目の黒馬をぎりぎりと睨みつけているクルトを見やって、ちょっと苦笑している。
「本当に、仲良くなったものですね? 二人とも」
「べつに、仲良くなんてなってねーし! これっぽっちもなってねーし!」
クルトは憤慨してそう叫び、馬は馬で、ふんと鼻をひとつ鳴らしてそっぽを向いた。
「さて。そろそろ、あちらの国のお話をせねばならないのでしょうね……」
剣の手入れの間、この小さな町に逗留することになったニーナは、近くに宿をとることにした。そうして宿の者に案内された古ぼけた部屋に入り、改めてまた昔話を始めてくれる様子だった。
馬は勿論、宿の厩舎へつながれている。
夜になると、人の姿に戻った男はそっとそこから抜け出してどこかへ行っているらしいのだったが、少年にはその行き先までは分からなかった。
こういう宿に泊まった場合、当然ながら夜の間じゅう、クルトが竜になった彼女とともに部屋にこもって過ごすことになる。
「え? あっちの国って……もしかして、火竜の国のこと? そっちのことって、ニーナさんたちにわかるもんなの?」
当然の疑問を覚えて、クルトはそう訊ねた。
ニーナはクルトと共に宿の寝台に腰掛けて、そっと困ったような笑みを浮かべた。
「ええ……つまり、なんと言うか……」
ニーナの弁によれば、こうだった。
彼女が夜、竜の身になるようになってから、自分に向けて発せられるかの王太子や、ミカエラの声が心に届くようになってしまったのだ。それはもちろん、夜の間だけのことだったけれども。
それですべてが分かるわけではなかったけれども、少なくとも彼らの来し方やその心に思うところについては、この八年の間にそのほかの断片的な情報をも繋ぎ合わせて、概ねのところは分かるようになってきたのだという。
「ですから、ここで話すことがすべてなわけではないのですが。一応、分かることだけお話ししておきますね――」
そう言って、彼女は話を始めたのだった。
◆◆◆
火竜国の王子アレクシスは、もともと、側妾に生まれた第三王子である。
二人の兄は正妃の子であり、当然、長兄が王太子となって、父王のあとを継ぐことが決まっていた。
女の地位の低い火竜の国で、側妾ともなればそれは周囲の扱いは酷いものだったらしい。父のそばには、アレクシスの母のほか、多くの側妃や側妾が幾人も侍っており、それら女たちの争いはまことに熾烈なものだった。
彼女らは、表面上はもちろん穏やかに暮らしている様子だったが、どうにかして父から子種をもらえないかと努力の限りを尽くし、他の女が身ごもったと聞きでもすれば、今度はどうにかしてその女から子種を流してやれないか、命を奪ってしまえないかと画策するのだ。
日常的にそんな有様で、水面下ではまことに筆舌に尽くしがたい争いと、足の引っ張り合いが行なわれているのが実情だった。それはまあ、どこのどんな王家でも似たようなものには違いなかったのだろうが。
少なくとも、物心つくまでのアレクシスには、それは日常茶飯事だった。
口に運ぶものは、どんな些細なものでも常に必ず毒見され、アレクシスのもとに届けられる頃にはすっかり冷えきったり、乾ききったものばかりだった。側仕えの人間も、十分に裏を取り、出自の明らかな者以外は侍らせない。
そのあたりの自己防衛に関しては、母の後ろ盾にもなっている貴族の家で、様々に手を尽くしていたものらしい。もしも上の王子二人に何かがあれば、王権はアレクシスの手に転がり込んでくる。その機会を虎視眈々と狙うという意味では、彼らはまことに慎重かつ熱心だった。
母親は、どこぞの遊郭からその容色を買われて貴族の目に留まり、形ばかり養女にされて王の褥に侍るに至った女である。
似たような流れで父の手のついた側妾も沢山いたし、それら女たちの中にも自分の子を愛情を持って育てる者もいたのだったが、残念ながらアレクシスの母はそういう類の女ではなかった。
姿だけは、まるで物語の中から抜け出てきたかのように美しい母だったが、その中味はと言えば、すでに彼女の人生のどこかで歪に壊れてしまい、いずこかに置き去られてきたかのようだった。
父王は初めから、女に人格的な内容やら意味、ましてや高潔さなど求めてすらいないような男だった。欲望のままに抱き、飽きれば捨てる。子供を産めばその後の生活についてそれなりの手当てはしてやるが、子をなせないままに飽きたり、年をとった女については、家臣に下賜するなどは日常的に行なわれていた。
燃えるような紅い髪と、ゆらめくような赤褐色の瞳をした母は、火竜を崇めるこの地では「幻の色彩を持つ女」として、それだけでも珍重される「生き物」だった。その上、白くつややかな肌と彫刻のように整った美貌、気だるく物憂げに見えるその艶麗な姿はもう、遊郭にあってもさぞや男たちにとって羨望の的、かつ高嶺の花であったことだろう。
母は、生まれたアレクシスに対して、特に優しくも厳しくもなかった。
いや、敢えて言うなら、なんの関心もなかったというのが正しいだろう。
王の子である男子を産んだことで、彼女のその後の人生は保証されることになったのだったが、逆に言えば彼女にとって大切だったのは、恐らくそれだけだった。生まれてきた息子はただ、彼女の豪奢な生活を守るために、生きてさえいてくれればいいだけの存在だった。
後々、乳母だった女から聞かされたところによれば、母は子を産んだことで自分の身体の形が崩れることを、何よりも心配していたのだという。そのこと以外で彼女の口から、自分の産んだ子のことが語られることもまったく無かった。
要は、彼女にとってはあの父王の子など、自分にとって不要で不潔な「肉」を産み捨てた、それぐらいの認識にすぎなかったのだ。
アレクシスに「寂しい」という気持ちは理解できない。
ほかの側妾の子供らが、その母親やら乳母やらに甘えている姿は折々に目にしたけれども、「だからどうした」と思うだけのことだった。
母親の違う王の子同士は、それぞれ与えられた離宮にいて住む場所も隔てられていたために、普段はろくな交渉もなかったけれども、それでもたまに、他の側妾の子などを見かけるようなこともある。
そんな時、たとえば転んだりした幼い王子や王女が泣き出して、母親や乳母らしい女からあれやこれやと甘ったるい声を掛けられ、宥められているのを見ると、アレクシスは心の底から虫唾が走ったものだった。
できることならそのくそ餓鬼のところへ駆けつけて、内臓ごとその身体を踏み潰してやりたい衝動に駆られたものだ。
(ぎゃあぎゃあわめくな。気分の悪い――)
その頃の自分には、何に苛立っていたのかもよく分かっていなかった。
しかしその感情は確実に、アレクシスの中身を次第に腐らせていったのだ。
そんな風に腐食して、腐臭をはなつ燃え立つような苛立ちは、自分に仕える下働きの者らを苛め抜くことで癒すしかなかった。
ほんのちょっとした粗相をしでかした召使いの少年などを裸に剥いて、茨の棘のついた鞭で半死半生になるまでいたぶり抜いたようなことも、実際、一度や二度ではない。
たとえ側妾の子だとはいっても、王の子は王の子だ。そのぐらいの無茶は、普通に目をつぶってもらえたし、母はそもそも、息子が何をしようが目にも入っていない様子だった。
傷つけた少年らの中には、その傷がもとで寝たきりになったり、命を失うような者もいたようだったが、そんな顛末をわざわざ自分に報告に来る者もいなかった。ただ侍従を務める老年の男が「あの者はお勤めに支障が出るようになりましたので」とかなんとか言って、また新しい少年を連れてくるだけの話だった。
そしてまた、苛立つような何かがあれば、その少年の悲鳴と、許しを懇願する声を聞いて無聊を慰め、ひと夜を過ごす。
ただそれだけのことなのだった。
もう少し年を重ねてからは、勿論そこに性的な嗜虐も加わるようになった。
相手は少年のこともあれば、少女のこともあった。大抵は親のいない、それこそ遊郭などで産み落とされたり、貧しい村民らから売りに出されたような身寄りの無い者らばかりだ。
闇から闇、その体と命をどのようにされようが、誰も文句を言わない存在。
美しい見た目の者の場合は、気が向けば自分で犯すこともあったが、多くは自分の手下の男どもに、目の前で犯させた。
彼らがあがき、呻き、泣き叫ぶその声だけが、自分の中にある虚ろな何かを満たしてくれた。
それ以外で、自分を満たしてくれるものなど何もなかった。
それは、自分とよく似た「生き物」だった。
その、目の前で涙を流し、悲鳴を上げて許しを乞うていた裸の子供らは。
そうだったのだと、今ならそんな風にも思える。
しかし、まだ年端もいかなかったその頃に、そこまでのことを考えたはずもなかった。
◇
火竜の支配する国、ニーダーブレンネンの王家は、古来より武門の誉れも高いことで有名である。しかしながら、実際は、臣民らが噂で知るところからは随分とかけ離れているというのが実情だった。
長兄はそれなりに、いずれは王座に就くという将来のこともあるために、ある程度厳しくしつけられ、文武についても高い教育をされてはいたが、それであってもせいぜいが、凡人の域を少し出るぐらいのことだった。
次兄に至ってはさらに酷く、母である正妃に甘やかされ、もはや何をかいわんやといった状況だった。要するに、「箸にも棒にも」というやつである。
だからという事でもなかったのだが、アレクシスは自分なりに、学べること、知っておかねばならぬことについてはがむしゃらなほどに学び、吸収しようと努めていた。
武術一般についても同様で、自ら良き師を探し出し、「俺が王族だからといって、傷つけることを恐れるな、決して手加減などするな」と言い含め、厳しく鍛錬することを怠らなかった。
長兄にしろ次兄にしろ、高名な武術の師範についてはいても、稽古中にほんの掠り傷を作られたといっては大騒ぎをし、泣きわめいて、その師範に目の前で己が腹をかっさばかせるなどは当然のようにやっていた。
そんな生ぬるいやり方で、一体なんの技術が習得できるものか。
それは彼ら自身が奴らの存在そのもので、すでに証明しているようなものだった。二人の兄は二人ともが、父王そっくりにぶくぶくと醜く肥え太り、生っちろい顔にいつも淫猥な色を浮かべて、側仕えの女たちの尻を追い掛け回してばかりいた。
◇
その噂を聞いたのは、アレクシスが十四になった頃だった。
正妃の子である長兄が王座に就くことは決定事項だったとはいえ、一応は王の子である自分も、自分なりに他国の情勢については様々に密偵を放ってその情報を掴むことはやっていた。
隣国、水竜の国の王家は、随分とこちらの国とは様相が違うらしい。それは、そうした情報収集をするうちに、アレクシスもかなり早い段階で知っていた。
水竜王ミロスラフは、隣国から娶った妃ただひとりだけを愛し、その妃との間に幾人もの王子を儲け、さらにそこに一人、美しい姫がいるのだという。
アルベルティーナという名のその王女は、春の女神にも喩えられるような美貌を持ちながらも、剣術や馬術を学び、いまやそれなりの腕にまでなっているらしい。
要は、非常に美しい「じゃじゃ馬姫」なのだという話だった。
(……ふん。女ごときが――)
その時はアレクシスにも、そんな見下した思いしかありはしなかった。
これまでいたぶり続けてきた中で、少年にしろ少女にしろ、閨でどんな無様を晒すものか、アレクシスは重々知り尽くしていた。
その、蝶よ花よとばかりに大切に育てられている隣国の姫だって、一皮剥けば、そして犯せば、豚のように鳴くだけの雌に過ぎない。
自分の今の立場でその姫に手が届くはずもなかったけれども、もしもそんな機会が訪れるなら、是非とも一度、その姫の顔ぐらいは拝んでみたいものだ。そしてもし、叶うことなら、その高慢ちきな顔を汚して貶めてやりたいものだと、心密かに考えていた。
そんな風に思ううち、やがてその二年後に、思わぬことからその望みは叶えられることになる。
あの雷竜国の王、エドヴァルトから、かの国で催すという「親睦の宴」のために火竜の国の王子をだれか一人寄越せという、人を食ったような誘いの書簡が届いたのだ。





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