7 春の宴
その翌日から、春の宴はクヴェルレーゲン宮において賑々しく催されることになった。
宴は三日三晩つづけられることになっており、招かれた貴族らやその子女らはその間、大いに親交を深めたり、旧交を温めあったりする。
場合によっては勿論、この場はあまりおおっぴらにはできない陰謀の温床にもなるようなことも往々にしてあるわけなのだったが、こと、この水竜国にあっては、さほどの貴族らの暗躍というようなことは見られなかった。
それもこれも、この国本来の国土の豊かさと、王ミロスラフの善政のなせる業だろう。
この国がもし、土地が痩せ、思うように作物も資源も取れない国土であったなら、貴族らも自分の領地の多寡のことでいがみ合い、もっと諍いを大きくしていたことだろうからだ。
この宴の間じゅう、大広間ではずっと弦楽隊による踊りのための演奏が続けられる。広間は薄絹や生花でかざりつけられ、夜中でも燭台と篝火とで煌々と照らされて、まるで真昼のような明るさだった。
その広間の中にいっぱいに、招待された貴族らがひしめいて、大いに食べたり飲んだり、話に花を咲かせている。
とはいえ王の御前であるため、酒のために正体をなくしたり、あまり無様な様子になる者や、下品に大声を張り上げたりする者はいなかった。長い宴のあいだに疲れたり、眠くなったりすれば、それぞれの客に割り当てられた寝所へと召し使いらが誘導することになっている。
色とりどりにめかしこんだ貴族の少女らは、きゃあきゃあと楽しげにおしゃべりに花を咲かせ、周囲の若い貴族の子弟らの品定めに忙しい様子だった。
「アルベルティーナ姫殿下、つぎは是非とも、わが愚息と――」
たぷたぷと肉のついた頬に満面の笑みを浮かべて、ちょっと青白い顔をした自分の息子を面前に押し出すようにしてくる貴族の中年男に微笑み返して見せながら、アルベルティーナはその実、ずっと「心ここにあらず」状態だった。
背後の雛壇の上、王座に座っておられる父のほうをちらりと見やり、父が微笑んで頷き返してくれるのを確認してから、「ええ、喜んで」と返事をする。そうして、そのなんとかいう名前の貴族の子弟の手の上に軽く手を乗せ、踊りの輪の中へと進んでゆく。
しかし、どんな貴族の某の子弟と踊っていても、アルベルティーナの視線はいつもちらちらと、大広間の脇に林立している太い円柱の陰に立つ、紺色の軍服姿を追っていた。
つぎつぎと目の前に現れる貴族の青年らが、たとえどんな美丈夫であろうが話し上手であろうが、口を極めて今日の彼女のドレスや髪飾りを褒めちぎろうが、今のアルベルティーナにはほとんど意味をなさなかった。
彼らは彼らなりに、どうにかして彼女の歓心を買い、彼らの父親を喜ばそうと頑張っていることを思えば、それは気の毒なぐらいではあった。彼らも必死に、ある目的を持ってその衣装に贅をこらし、めかしこんで、アルベルティーナに掛ける言葉も事前に吟味し、準備して来ているに違いなかったのだから。
アルベルティーナに他国との縁談の話がない以上、貴族たちにしてみれば、もしも一族の男子のだれかに姫のお気持ちが傾いてくれたなら、王家の姫との婚儀を取り結ぶという僥倖が得られるかもしれないわけだ。
王家と縁続きになれれば、さらに家の格も、その勢力も増そうというもの。
それは、だれもが必死になろうというものだった。
アルベルティーナも、一応は王家の娘として、そういう事情は理解している。そして、そこに必死になってしまう、貴族らとその息子たちのすることを軽蔑したり、嫌悪するような気持ちまでは勿論ない。
だからこそ、こうしてどこまでもにこやかに、彼らの子弟の手を取るのだから。
(でも……。)
そこにはこれまで、こんな気持ちは存在しなかった。
少なくとも今、彼に対して感じているような、こんな想いは存在しなかったのだ。
すなわち、気がつけば始終その姿を目で追っており、その姿を目にすれば、今度はきゅうっと胸の苦しくなるような、こんな想いは。
誰を見ても、どんな美貌の青年と踊っても、みな同じ顔にしか見えなかった。
アルベルティーナがいま心から踊りたい人は、この場にたった一人しかいなかったから。
当の彼はと言えば、事前の予定通り、同僚である近衛第三小隊の兵らとともに、この大広間の警備に当たっている。
彼はいつも通り、目線をやや下げた状態で背筋を伸ばし、ごく静かに、単なる警備の一士官として、直立不動の姿勢でそこに立ち続けているだけだった。
『さて、今年のアルベルティーナ姫殿下のお相手は』――。
二日目、三日目と宴が進行してゆくにつれ、招待されている貴族ら、貴婦人らの関心がそれに集中してゆくのを、アルベルティーナは今年はとりわけ、肌で感じるような心地がした。
宴の最後、三日目の最後の踊りの始まるその時、踊りの相手に誰を指名するのか。
それはとりもなおさず、今、この国の貴族のだれがもっとも王の歓心を買っているかを測る目安にもなることだ。
そればかりでなく、今のところ、他国からの縁談なども舞い込んでいない――少なくとも水竜国の貴族らはそう思っている――アルベルティーナ姫の心を、もしも自分の一族の子弟が射止めることができたなら、それは今後の一族の繁栄をも約束されたようなもの。貴族らが目の色を変えるのも致し方のない話だった。
しかし、アルベルティーナの心は決まっている。
勿論、自分が最後の神聖な踊りのときに、誰を指名するのかをだ。
それを心から願っている若い貴族の青年たちにはまことに申し訳ない話だったけれども、それはもう、アルベルティーナの心の中でずっと前から決まっていたことだった。
それに一応、このことは事前に、父と母、それにレオンの肉親であられる王妃ティルデにも了承を得ていることだ。
父と母は、一も二もなく了承してくれたし、ティルデに至ってはそれを聞いた途端、アルベルティーナの手を握り締めて、感極まったような顔をして下さったのである。
「それは素晴らしいことですわ! なんて、なんて素敵なことでしょう……! ありがとう存じます、アルベルティーナ様……!」
ティルデ王妃はそう言って、ほとんど泣き出さんばかりにして喜んで下さった。
(あ、でも……)
実はひとつだけ、アルベルティーナもひっかかりを覚えていることはある。
あの日、ティルデ王妃にそう告げたときの、侍女の少女の反応だった。
ミカエラという名の黒髪のその少女は、アルベルティーナがそのことを告げた途端、菫色をした瞳を瞬時に燃え上がらせたように見えた。その瞳はもう爛々と、ゆらめくように滾った色を湛えて、ほとんどこちらを焼き焦がさんとするようだった。
(あの目は、なんだったのかしら――)
が、不審に思ったアルベルティーナと、そしてティルデが彼女の顔を見つめたとたん、ミカエラはその瞳の色を、強張った笑顔の下にするりと隠してしまったのだった。
なんとも言えない、奇妙な感覚があった。けれども、その後はただ和やかに話が進んで、アルベルティーナはそのままそのことを彼女に問いただす切欠も見出せないまま、ティルデ王妃の滞在する客用の部屋を辞してきてしまったのだった。
◆◆◆
昼夜を分かたず行なわれる「春の宴」の間じゅう、警備兵は間断なく大広間や城周りの警護に立たねばならない。
とはいえ皆、生身の人間ではあることなので、勿論、交代制である。
レオンは基本的に、普段の警護の相棒でもあるカールともう一人の士官を合わせ、三交代での当番となっていた。
今はちょうど、宴も三日目に突入したばかりの頃合いである。
美々しく着飾った貴公子たちが、次々にアルベルティーナ姫へ踊りの申し込みをしにいっては、入れ替わり立ちかわり彼女の手を取る。
姫殿下はどんな青年が申し込みにいっても、普段と変わらぬ優しい笑みを浮かべ、ほとんどそれを断ることはない。
今日の姫殿下は、春らしい浅葱色の爽やかなドレスに身を包み、蜂蜜色のその髪に、水竜国を象徴する青い花飾りを挿している。彼女の足取りは、誰と何度踊っても、若いかもしかの跳ねるように軽やかだった。
ときに、この国に春を呼ぶという女神になぞらえられるその美貌は、今宵はひときわ華やいで、大広間の誰よりも美しく輝いているようだった。
レオンは大広間の片隅、自分の持ち場である大柱の側で直立不動の姿勢のまま、ふと気付けばその姿を目で追っていた。そんな自分に気付いては、何度も己を叱咤する。
畏れ多くも、今の自分は王家を守護するという、大切な役目を頂いている身だ。何かに目を奪われていて、不審な動きをする者を見逃したりしては、それこそ一大事ではないか。
(それにしても……遅いな)
そろそろ、次の交代の刻限であるはずだった。次は、相棒のカールがやってくる手はずなのだったが、あの赤毛の明るい青年の顔は、まだ大広間のどこにも見えない。
周囲のほかの警備兵をちらりと見やると、彼らはすでに交代の兵士らと入れ替わっているようだった。これは、カールに何かがあったと考えるのが自然であるようだ。
と、怪訝に思ううちに、カールではないもう一人の交代兵である青年が足早にこちらにやってくるのを見て、レオンは眉を顰めた。
「すまん、カールが体調を崩したようだ」
やってきた青年兵はそう言って、レオンと持ち場を交代してくれた。
「ちょっと見に行ってやってくれ。どうも、腹を壊したとかなんとか……ちょっと妙なんだが。とにかく、寝床で唸っているんでな」
「了解しました」
こうした警備に当たる場合、警備兵らは口に入れるものにも細心の注意を払う。たとえそれが家族からの差し入れであるとしても、少なくともこの期間中は、王宮で決められた食事以外のものは飲食しないのが原則だ。
それはもちろん、こんな風に不測の事態が起こることを避けるためである。もしも警備兵全員がカールのようなことになったら、それは王宮の警備上、重大な問題になってしまうからだ。
「では、よろしくお願いします」
少し嫌な予感を覚えながら、背後の大広間でまだ貴族の子弟らと踊り続けている姫殿下の涼やかな姿を目の端にちらりと留め、レオンは足早に自分の兵舎にとって返したのだった。





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