5 擾乱(じょうらん)
その驚くべき隣国の状況がクヴェルレーゲン宮に知らされたのは、あの地鳴りが起こってから数ヶ月も経ってからのことだった。
「あのアレクシスが? 王太子に、ですか……!?」
アルベルティーナはその時、思わず、父に向かって問い返していた。
隣に立っていた彼女の兄、王太子ディートリヒも、彼女と似たような顔だった。
ここは、父の普段使っている執務室である。重要な話であるため、今は父の重用する宰相の老人すら退室させて、王家の一同がいるばかりだ。
本来、政務に口をだす立場ではない母ブリュンヒルデとアルベルティーナがここに呼ばれているのには、どうやら訳がありそうだった。
そもそも火竜の国、ニーダーブレンネンには、あの第三王子アレクシスの上に、王太子と、第二王子とがいたはずだった。しかし、かの国に忍ばせている密偵からの報告によれば、その兄二人がこの短期間に、相次いでこの世を去ったというのである。
王太子は病死、第二王子は事故死だとのことだった。
確か、その王太子と第二王子については、正妃の子であったはずである。第三王子アレクシスは、もとは身分の卑しいどこぞの側妾腹の子だという話だった。つまり上の二人が存命である限り、彼の手中に王権の落ちてくる目などまずなかったことだろう。
逆に言うなら、そんな立場の王子であるからこそ、あの雷竜国の「親睦の宴」へも、ああもたやすく出向くことができたわけだ。
その辺りからも、かの王家の中でのあの少年に対する扱いが、透けて見えるというものだった。
(それが……)
さらに驚くべきことには、かの国の太守、アレクシスの父であるゴットフリートが謎の奇病に罹患して、いまや床を離れられぬ体になっているのであるらしい。病状の程度までは不明だが、病床から細かく政務について命令が出せるほどのものであるかどうかも、よくわからないとのことだった。
「なんとも、恐ろしい……。身の毛もよだちますわ」
父の隣でソファに座った母、ブリュンヒルデが、焦眉の顔でそう言った。
「ということは、つまり……今、かの国の実質の宗主は、あのアレクシスになったということなのですね? お父様」
アルベルティーナがそう訊ねると、ミロスラフは困ったような笑顔のまま頷いた。
「そういうことになるね。これはいかにも、不穏なことだ――」
そうだった。
あの苛烈な気性の王子のことだ。あんな王子が、しかもあの若さで、これで実質、火竜国の采配を振るう立場になったとなると。
隣国であるわが国が、それに無関係でいられる道理がなかった。
(いったい、何があったの――)
この、あまりの急展開。
まだ若い王子二人が次々に死に、まだ壮年の域であり、特に健康上の問題があるとの情報もなかった国王ゴットフリートが、急に重い病の床に伏せるとは。
これらはとても、自然にそうなったのだとは考えられない。生き残ったのがあのアレクシスであるということからして、考えられる理由はひとつしかないように思われた。
いや正直、考えたくもなかったけれども。
つまり、あの恐るべき王子によって、かの王家では何か、禍々しい陰謀が巡らされ、実際に着手されたということだ。
「問題は、それだけではないんだよ。アルベルティーナ」
ミロスラフはそう言うと、手元にあった火竜国の封蠟の捺された封書を、アルベルティーナに差し出した。封はすでに切られている。彼女はそれを、隣に座る母とともに開いて、中身を改めた。
(こ、……れは……!)
一読して、呼吸が止まった。
それは一応、火竜王ゴットフリートによる書簡の形式になっていた。
内容は、簡明である。
『このたび、わが国において新たなる王太子を擁したことを機に、両国の誼をさらに強固なものといたしたく。ついては、貴国のご息女アルベルティーナ姫を、正式に我が子アレクシスの王太子妃として迎えたい。ミロスラフ王のご意向やいかに――』
云々、かんぬん。
書簡は、そう語っていた。
母、ブリュンヒルデがもう少し気の弱い王妃であれば、その場で卒倒したかもしれなかった。しかし、母は血相を変えて沈黙はしたものの、決してそのような無様な様子は見せなかった。
さすが、あの雷竜王エドヴァルトの妹である。表面上は穏やかでありながら、その実なかなかの胆力の持ち主であるところは、この母もあの兄に似ているのかも知れなかった。
「なんと、いうこと……」
ただ、それでもそう言ったきり、彼女もしばし絶句した。
それはアルベルティーナも同様である。
(王太子妃……? あの男の、妃ですって……?)
あの王子の、冷笑を貼り付けたようなどす黒い笑みを思い出す。
真っ黒に歪んだ、熱く狂ったようなあの笑顔。
あのとき、あの王子は雷竜国の離宮へ武装した兵どもを連れて乗り込んできて、無理にも自分を我がものとしようとした。さらにその後は、その事実を作った上で、弟のエーリッヒともども、火竜国へ連れ去ろうとまで画策していたはずである。
これまでは、あれは単純にあの王子の短慮な暴挙にすぎないのかと思っていたが、後に聞いたところによれば、王子は帰途の換え馬や糧食などの手配も事前に怠りなく差配していたようであるし、あれで意外に、事前に周到に計画していたことだったのかもしれない。
あの王子、クヴェルレーゲンの王子と王女を手に入れて、それを手土産に、故国で何を狙おうとしていたのだろう。
(冗談じゃないわ……!)
アルベルティーナは唇を噛み締め、思わずその書簡を握りつぶしていた。
あんな男のもとに嫁ぐぐらいなら、いっそ死ぬまでだと思うほどだ。
ミロスラフは、そんな妻と娘の様子を静かな碧い瞳で見つめていたが、やがてくしゃくしゃになってしまったその書簡をアルベルティーナの手からそっと取り上げた。
「よく分かった。そなたたちをここへ呼んだは、その気持ちを、一応確かめようと思ったからなだけなのだよ」
「お父様……」
そう言って父を見上げたアルベルティーナの顔には、おそらく血の気はなかっただろう。ミロスラフはそんな娘を宥めるように、「心配せずともよい」と優しく微笑んでくれた。
「本来であれば、火竜の国は隣国でもあり、できることなら仲良くしたい相手なのだがね。かの王太子の為人がこうまではっきりと知れている状況では、とてものこと、ひとり娘を輿入れさせる気にはならないよ」
母も黙って、そんな父の穏やかな相貌を見つめている。
「まして、その彼が王太子になった顛末が、あまりにも不穏に過ぎる。どのような血なまぐさい王室であることか、それだけでも想像できようというものだ。『君子、危うきに近寄らず』さ。アルベルティーナを輿入れさせても、こちらには今のところ、なんの利もないことだしね」
「しかし、父上。それであちらは引き下がるのでしょうか」
言葉を挟んだのは、アルベルティーナの四つ上の兄である王太子、ディートリヒだった。
兄、ディートリヒは、父によく似た青い目に、銀色の髪をした細身の青年である。どちらかといえば文官向きの性質で、武術一般は不得手だったが、座学については非常に優秀なものを持つ人だった。
「『それが駄目ならば』とばかり、今度は他のことを求めてくる……と、そういう懸念はないのでしょうか?」
そんな息子の冷静かつ聡明な言葉を受けて、ミロスラフは満足げに頷き返した。
「そうだね、ディートリヒ。私もそう思う。つまりあちらとしても、アルベルティーナとの婚儀の話は単なる『足がかり』にしている可能性がある。いやむしろ、恐らくはそちらの方が主眼だろう。かの王太子が我々に何を求めるつもりかは、まあ予想はつくのだが――」
(つまり、……領土か権益、ということね。)
そう思ってアルベルティーナが父の顔をそっと見やると、父はやっぱり優しい笑顔のまま頷き返してくれた。
普段、彼が女性を政務に関わらせないのは、彼女たちに過度の負担を掛けまいとしての話であって、ミロスラフは決して、妻や娘がそこに意見を差し挟むことを拒まない。他国の王らにあってはあまり一般的なことではないけれども、ことこの王に関しては例外だった。
むしろ彼は、「女人には女人なりの目の付け所、勘所がある。男の見落としを見つけるのは常に女性だ。物事は常に、多角的に見なくては見誤りやすくなるものだからね」と言うのであった。
だからこそ、彼に心酔する多くの優秀な臣下たちが、彼のもとに集まることにもなる。貴族であれ、平民であれ、能力のある者は引き上げようとするところは、この父も雷竜王と同じだといえた。
「ともかくも。今後、この件は一度会議にも掛けるとしよう。ヒルデもティーナも、今日は足労を掛けたね。ありがとう」
父は最後にそう言って、母とアルベルティーナにさりげなく退室を促したのだった。
◆◆◆
「さあさあ。あなたのような美しい娘が、そのように暗い顔ばかりしていてはいけないわ。今からは、楽しいことを考えましょう」
廊下に出て、外で待っていた侍女たちと共に歩きだしたとき、ブリュンヒルデは殊更に明るい声でそう言った。
「そう言えば、そろそろ『春の宴』の時期ではないの。今年のティーナは、いったいどんなドレスを着て踊るのかしらね……?」
アルベルティーナは、母のそんな華やいだ笑顔を見上げて、ちょっと黙った。
(何をおっしゃってるの? お母様――)
いや、確かに毎年、水竜国の各地や隣国の貴族らを招いて行なわれる「春の宴」は、この王室の恒例行事だ。
この国ばかりのことでなく、毎年、神竜に向かって今年の収穫を祈るこの祭りは、五大竜王国のいずれでも行なわれていることである。もちろん秋には、その収穫を感謝する祭りも行なわれる。
王宮には各地から着飾った貴族の子女らが招かれて、大いに酒宴と舞踏の会も催されることになっている。王家と貴族らにとっての社交の場としては、最も規模の大きなものだといえるだろう。
王家の皆のみならず、貴族たちの間でも、親同士は親睦を深め、若い者らは互いを知り合い、結婚相手を探す場ともなっている。
(いいえ。だって、こんな時に――)
普段であればアルベルティーナだとて、この時期には今年の装いのことで心躍らせていたはずだったけれども。今はとても、そんな気分にはならなかった。
「お母様。いまは、そのように浮かれている場合では――」
「いいえ」
突然、ブリュンヒルデは立ち止まって、きっと娘の顔を見据えるようにした。アルベルティーナは虚を衝かれて、一緒に立ち止まった。
「時というものは、二度と巻き戻ることはないのよ、ティーナ。わたくしだって、あなたのように若い娘だったころには決して、こんなことは思わなかった」
母の瞳は、どこか遠くを見るようにしてその視線を彷徨わせた。
「けれどね、時というものは、はっと気付けば随分と、先へ進んでしまっているものなのよ。……そう、本当に、思わぬほどにね――」
母の声は温かいながら、なにか毅然としたものを含んでいるようだった。
ブリュンヒルデは、そのふくよかな手をそっとアルベルティーナの肩に回して囁いた。
「雷竜国には、昔からこんな言葉があるの。『すべてのことには、時がある』――」
そうして、その言葉を教えてくれた。
『すべてのことには、時がある』。
『嘆き悲しむのに時があり、喜び笑うのに時がある』。
『愛するのに時があり、戦うのに時がある』。
『生きるのに時があり、泉下に降りるのに、時がある』……。
「人の命は、短く儚いものなのです。だからこそ、平和なこの国にあり、穏やかでいられる今という時には誰よりも感謝せねばなりません。あなたは王族の娘。そういう身分であるからこそ、こうして衣食にも豊かに、恙無く暮らしていられるわけだけれど。でも、だからこそ、その身に負わねばならない責任もある……」
(責任……)
母の言葉の意味の重さに、アルベルティーナは目を瞠った。
母が自分に言いたいことを、彼女はすぐに察したのだ。
父も母も、決してそれを望むわけではない。だが、万が一、どうあってもかの国との交渉がうまくいかなくなった暁には、彼女がその身をもってこの国を守らねばならなくなることだろう。
今の段階ではそこまで考える必要はないのだとしても、そういう局面が絶対にないとは言いきれないのだ。
なにしろ相手は、あの王太子なのだから。
だから、母は、言っているのだ。
「覚悟をなさい」と。
「だからこそ言うのですよ。今をしっかりと楽しむことも、あなたには必要なの。いま、この時、あなたのこの人生のひと時を、十分に生きなければなりませんよ」
柔らかな声のまま、ブリュンヒルデは言い続けている。
「……はい。お母様……」
アルベルティーナはドレスの端をぎゅっと握り締めるようにしてそう答えた。母はそんな娘の表情をじっと見つめ、自分の言いたいことを娘が汲み取ったことを見て取ると、ふと朗らかな笑みに戻ってこう言った。
「本当に楽しみね。今年の宴では、いったい何人の貴族の子弟が、あなたに踊りを申し込んでくるのかしら……?」
「…………」
アルベルティーナは暗い顔で俯いたまま、無言だった。唇を噛み締めて、廊下の床を見つめて立ち尽くすばかりである。
ブリュンヒルデは、娘のそんな様子には敢えて気付かぬ振りで、さらに言った。
「あ、そうそう。今年はあの、近衛隊の彼にも、是非とも参加してもらいなさいな」
「……え?」
思わず変な声を出して、母を見上げる。
(近衛隊の、彼って――)
レオンと?
あのレオンと自分が、踊りを踊る……?
どうしても想像がつかなくて、アルベルティーナは頬のあたりがかあっとなるのを自覚しつつも、次の瞬間にはぶんぶん首を横に振っていた。
「む、むむ無理ですわ、お母様……! レオンがそんな、お、踊りだなんて――」
気がついたらアルベルティーナは、もう叫ぶようにしてそう言っていた。
あのレオンが、踊りを踊る。
そんな光景は、逆立ちしたって想像がつかなかった。
剣を使って舞う演武のようなものならともかく、あの彼が、人々の面前で、大広間で軽やかに女性と踊るなど。
ありえない。
というかもう、それはレオンという人ではない。
と、母がちょっとくつくつと、悪戯っぽい声で笑ったようだった。
「あら。わたくしがいつ、その『近衛の彼』が『レオン』だなんて言ったのかしら?」
(……!)
アルベルティーナは、今度こそ、遂に耳まで真っ赤になった。
「お、お……お母様ったら――!」
これは完全に、「語るに落ちる」というものだ。
母は嫣然と飾り扇で顔を隠すようにすると、それをひらひらさせながらにっこりと微笑んだ。
「まあ、お相手はあなたの好きな方にすればいいことだけれど。踊りの最後に、あなたからお誘いすればいいことよ。それでしたら、誰も否やは言えないでしょう」
「う……」
確かにそうだった。
通常なら、そうした踊りの宴の席では、男性から女性を誘うのが一般的なマナーである。けれども、こと、あの「春の宴」の踊りの最後だけは、その王国の王妃や王女が、自分から好きな男性を誘うことが許されるのだ。
そして相手は、それを断ってはならない。
その最後の踊りこそ、その年の収穫を祈念する、神竜へ捧げられる聖なる踊りになるからだ。
……そのためには、自分が彼を誘わねば。
「む……、無理ですわ! そんなの無理、絶対無理なの! お母様っ……!」
「あらあら。本当に、楽しみだこと――」
おほほほ、とさも楽しげに笑いながら廊下をゆく母を追って、アルベルティーナが必死に小走りでついてゆく。
楽しげなその母と娘の歩く姿を、王宮仕えの召し使いや文官、武官らが、微笑ましげな目をして見送っていた。
雷竜国に昔から伝わるという言葉についてですが、
地球におけるとある聖なる書物にも、大変よく似た言葉があります。(ちょっと違いますが・笑)
とはいえ本作品は、実存するどのような宗教とも関わりはありません。
悪しからずご了承くださいませ。





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