2 君主の指輪
レオンの足もとに膝をつき、彼に深々と頭を下げてしまった魔法研究指南役アネル――いや、いまやあの風竜の国で医術魔法官をしていたエリクだと分かったその男を見つめて、アルベルティーナは呆然としていた。
いや、もちろん、かの雷竜の国での顛末もあって、ある程度の予測と覚悟はしていたのだったけれども、それでも驚きは禁じえない。
(そう……だったのね)
そして、彼を見下ろして立ち尽くしているレオンをそっと見やる。
彼自身「やはりそうか」というほどの様子であって、非常な驚きに満たされているという風には見えなかった。しかし、それでもその顔は蒼白だった。
これはアルベルティーナの穿ちすぎなのかもしれなかったが、彼の肩のあたりがすかすかと、どうにも寂しげに見える気がした。
(レオン……)
いや、寂しくないはずがなかった。
この瞬間、いわば彼は肉親を失ったのだ。
実際には、生まれて間もないころにすでに、叔父の手に掛かって実の両親のお命は奪われていたわけだから、これはもちろん文字通りの意味ではない。
ある程度の覚悟はしていたのだろうとは言え、こうして事実を知らされるまでは、レオンはアネルを我が父だと思って暮らしてきたはずなのだ。それが一転、いまこの時をもってはっきりと、彼が実は父の臣下だった男に過ぎないと分かってしまった。
その心中は、はかり知れない。
レオンの気持ちを思えば、アルベルティーナの胸はただ痛んだ。
いまもこうして、優しい両親に囲まれてこの場にいる自分が、ひどく申し訳ない気持ちにもなった。
「お立ちください。……どうか。父さん」
レオンはそれでもアネルを父と呼ぶことはやめず、彼のそばにまた膝をついてその手をとり、どうにか彼を立たせた。ひたすら頭を上げようとしないアネルに、彼が何度も「どうかもう、ご勘弁を」と言っているのが、どうにも痛々しかった。
優しい母ブリュンヒルデは、そんなレオンを見てアルベルティーナと同様に、ひどく心を動かされているようだった。ふくよかな手でアルベルティーナの肩を抱きながらも、その美しい眉を顰めて、水色の軍服を着た少年士官の背中を見つめている。
やがて、レオンと父とに促されて、アネルはやっとこちらにやって来ると、レオンと共に自分たちとは反対側のソファに座った。レオン自身、はじめのうちはそこに座ることを固辞したのだったが、父ミロスラフが「君も王族であると知れたのだから。それでは私が申し訳ないよ」と穏やかに何度も諭すに至って、遂にそこに座ったのだ。
「さて。では、アネル……いや、もうエリクと呼んだほうがいいのかな。おおよそのことは、義兄上からの書簡でわかってはいるのだけれどね。改めてそなたの口から、ここまでの顛末を私たちにも分かるように説明してもらえないだろうか」
父はごく鷹揚な温かい声で、まだ萎縮したようにじっと身体を固くしているエリクに向かってそう促した。
エリクはレオンの隣に座り、もう観念したかのように項垂れて、ひとつ頷くと、訥々と話を始めたのだった。
◆◆◆
レオンがすでに、雷竜国の王妃ティルデから聞いていた話は、おおむね間違ってはいなかった。
それで、エリクはそれを補足しつつ、さらにもう少し細かい話をすることになった。
風竜の国フリュスターンは、緯度としては火竜の国とさほど変わらない位置にある。しかし、五竜大陸の東側を流れる温かな海流のお陰もあって、まだ比較的温暖な気候の国だと言えた。
風の竜が支配する地域だけに、国は全体に緑豊かな山野に恵まれて、穏やかに吹き続ける風の恩恵により、農耕や牧畜も盛んに行なわれている。またその山中には、金や銀、鉄鉱石といった地下資源も豊富な国だ。
辺境の山間などにある村々には大抵、大きな風車のある石づくりの小屋がいくつも立ち並び、収穫された麦などを粉に引いて、人々は生活を営んでいる。
フリュスターン特有の、そんなのどかな風景は、幼時にそこを離れたレオンには思い出せるはずもないものだ。けれども、フリュスターンの人、エリクにとっては、それらの景色はただもうひたすらに望郷の念を呼び起こす、懐かしい光景に他ならない。
「あの一連の事件、すべての元凶とも言えるのは、とある名のある貴族の宗主、ムスタファという老人だったのです……」
エリクは苦々しげにそう語りだした。
実の兄であった先王を弑虐し、王座についたゲルハルトは、かつてのあの一連の事件において、その老人によって反逆を唆され、担ぎ上げられたのだった。ムスタファ翁は勿論、フリュスターン国内で大きな勢力を持つ大貴族の首魁である。
現在、ムスタファはゲルハルトの下で宰相職を賜るに至っている。
もとは侯爵だったというあのミカエラの父が失脚し、その領地や権益を奪った結果、今ではさらに多くの富と権勢を得て、まさに彼の一族はいま、この世の春を謳歌しているはずだった。
「結局は、ムスタファとその一派が、本来は温順な方であったはずの王弟殿下、ゲルハルト様の耳にあれやこれやとよくないことを吹き込んで、反乱を教唆しもうしあげてしまったのです……」
ヴェルンハルトにしてみれば、わが弟に対してなんの底意もなく発したはずの言葉や下賜した贈り物に、ムスタファは日々、いちいちさりげなく難癖をつけていたらしい。
要は、それらひとつひとつにあれやこれやと疑問を呈し、弟ゲルハルトの耳に日常的に、あまりよろしくない情報を吹き込みつづけていたのである。
曰く、
『斯様なお言葉! 陛下はもしや、殿下を軽んじておられるのではありますまいか』
『このようなものを下賜なさるとは、ほかならぬ弟君に対しては、やや浮薄に思われるようにございまする』
『まさかとは思いまするが、陛下は貴方様を心のどこかで疎んじておられるのでは』
『いずれはあなた様が、ご自分の立場を狙うやもとお疑いであらせられるのではと、臣は愚考いたしまするが……』
はじめのうちこそ、「まさか兄上がそのような。愚かなことを申すな」と老人の言葉を聞き流していたゲルハルトも、年月の経つうちに、次第にその言葉に耳を傾けるようになっていったものだろう。
彼も決して愚かな男ではなかったし、軽々にそんな老人の言葉に踊らされるような心根の歪んだ人物でもなかったはずだったが、しかしそれでも、あの老人が、若者の心につけ入る隙はいくらでもあったのだ。
彼は、先王の側妾の子。どんなに兄王が彼を大切にしてきたとはいっても、周囲の臣下たちは彼を、正妃の子たる長兄ヴェルンハルトよりは一段も二段も下に見ている。そのやるせなさ、肩身の狭さを、背後になんらの翳りもないヴェルンハルトが真に理解することは、残念ながらなかったはずだったから。
次第しだいに、弟の心は兄から離れ、兄ヴェルンハルトが気付いた頃にはもう、べったりと張り付いていたムスタファとその一派の貴族連中の言うことしか耳に入れなくなっていた。
「時、すでに遅し」だったのだ。
その頃にはもう、隣国、雷竜国へ嫁いでいた妹ティルデのとりなしも、ついにゲルハルトの耳には入らなかった。いや、もしかするとその書簡ですら、どこかでムスタファらの手によって握りつぶされていた可能性さえある。
ムスタファの望みは、大変わかりやすいものだった。
臣民らから、その人望ゆえに絶大な人気のあった国王ヴェルンハルトは、この老人が様々に進言することを決して鵜呑みにしなかった。また、この老人の息のかかった貴族の子弟らを優先的に重用するということもいっさいなかった。
要はヴェルンハルトは、この老人に疎まれたのだ。わが主として仰ぐには、多少能力は劣るとしても、煌くような才覚で人心を掌握する兄王よりも、適度に賢くとも扱いやすい弟のほうが、王としてはるかに御しやすしと判断したということだろう。
とは言え、別になにも、ほかと比べてムスタファが取り立てて悪賢くて権力欲の強い、我執にまみれた男だったということではない。むしろ、長年貴族としての地位を保ってきた連中の中にあって、そうした「傾向」はもはや「文化」といってもいいほどに彼らの身体に染み付いているものだと言えた。
あえて言うなら、ヴェルンハルトがあまりにも、高雅で恩愛に溢れた王であって、つまりはもともと薄汚れた王室だの貴族社会だのの中にあっては異質すぎたというだけの話なのだ。
清らかな水の中に棲めない魚が、もともと棲んでいた濁り水を欲するとして、それもまた無理からぬ話なのだということだろう。
ともかくも。
そうして遂に、事件は起きた。
ムスタファの一派はとうとうゲルハルトを丸め込み、恐るべき陰謀に着手したのだ。
彼らは、王家のご一家が生まれて間もないレオンハルト殿下を連れて静養に向かわれた先を狙って、子飼いの暗殺者の一団を放った。
そのとき王家のご一家に同行していたエリクは、国王ヴェルンハルトが奮闘虚しく身体をずたずたにされて惨い死に様を晒された後、暗い山中を赤子を抱いた王妃を連れてしばらく逃げ惑った。
そうして、その逃亡の果て、最後の最後、追手に周囲を囲まれて往くも退くも叶わなくなった暁に、毒をあおって自害すると主張して聞かない王妃フランツィスカから赤子を託され、「どうか王子だけは救って欲しい」と、必死に懇願されたのである。
王妃は隣国、土竜国の人であり、ムスタファの一味はかの国の恨みを買うことを恐れて、彼女については初めから助命することを決めていたらしかった。しかし、フランツィスカ本人は、そんなことは望まなかったのだ。
このままもしも命を永らえ、母国に帰されてしまえば、自分は王族の娘として、またどこかの貴族の男かなにかに有無をいわさず添わされることになろう。夫を殺され、息子を殺された果てのそのような人生はもはや、彼女にとっては地獄以外のなにものでもなかった。
彼女の愛する男は、この世に夫たる風竜王、ヴェルンハルトただ一人。
それに、この場で彼女が死ぬことで、少なくともムスタファらは、父である土竜国王からの不興を買おう。彼女が彼奴らに一矢報いることができるのだとしたら、その時、それを措いてできることはなかったのだ。
だから彼女は、必死に止める青年エリクの言葉を振り切って、持っていた毒をあおる選択をしたのである。
毒は彼女の望みを叶えた。
それはあっという間に彼女の息を止め、殆ど苦しみも与えずに、彼女をその最愛の人のもとへと連れ去ってしまったのだった。
当時、まだ二十代の若さだったエリクは、王太子殿下を抱いたまま、地を叩き、天を仰いで号泣した。
こんなことがあろうか。
このようなことが、許されていいものか。
しかし、敵の一団は包囲の囲みをじりじりと狭めて来ていた。時間はもう、ほとんど無かった。
若いながらも優秀な医術魔法官だったエリクは、なにかあった場合のために、常に風の竜の結晶を携帯していた。そして勿論、それの利用法についても通暁していた。
しかし、ヴェルンハルトが襲われた時には余りの急襲でとてもそれは間に合わず、それは王妃についても同様だった。エリク自身、何度もその力を使ってお二人をどこか別の場所へお逃がししようと進言したのだったが、その時には王妃はすでに、夫の後を追うことを決意されてしまっていたのである。
「この場にわたくしの亡骸がなければ、彼らも納得はしないでしょう」というのが、王妃の主張だったのだ。
ともかくも、彼はその魔力を用いて、レオンハルト殿下を連れ、その場から「跳んだ」のだ。
風の竜の魔力は、空間を越える。
それはまさに、風に乗って竜が天を駆けるに等しい。
ともかくも、使用する結晶の量と使い方さえ誤らなければ、竜の結晶が使い手の望む場所へと、その使用者を運んでくれるのだ。
ただその時、問題がひとつあった。
この場にレオンハルト殿下の遺体がなければ、敵は王子を探し続けよう。フリュスターン王家の正統な血を引く王太子がこの世に存命のままでは、ムスタファの一派はせっかく手に入れた権力の座に安閑としてはおられないはずだからだ。
その話になったとき、さすがにエリクはつらそうな顔になった。
「罪深いことだとは思いました。まさに、人ならざる所業でございました……。ですが、わたくしはまずその時、竜の結晶に願ったのです。『できればこの王太子殿下によく似た赤子、それもつい最近、死んだ赤子のいる場所へ跳びたいのだ』と――」
「…………」
隣に座るレオンも、その前にすわるアルベルティーナと父母も、ただ慄然とし、沈黙して聞いていた。その後のことは察しがついた。
要するに、このエリクは、その亡くなった子の親の目を掠めることに成功し、手に入れた赤子の躯をレオンハルトのおくるみに包んで、再びフランツィスカの亡骸のもとに「跳ばした」のだろう。
そうしてエリクは改めてまことのレオンハルト殿下を胸に抱き、再び竜の結晶によってさらに遠くへと――このクヴェルレーゲンへと、逃亡を果たしたのである。
◆◆◆
「まことに残念なことでございました。ゲルハルト殿下が、とりわけ心のお弱い、心根の卑しいお方だったなどということは決してなかったというのに――」
エリクの口調は、その言葉どおり、悔しげだった。話の最後にそう言って、エリクは胸元からいつもさげていた小さな革袋をひっぱりだした。
「レオンハルト殿下。……こちらを」
その袋は随分と古ぼけてしまっていたが、彼はとても大切そうにそれを開くと、中から取り出したものをレオンの掌の上に静かに乗せた。
「あの時、母君さまが父君さまより託された、フリュスターン王家に代々伝わる『君主の指輪』にございます。いずれ貴方様のご身分を証明するためにと、フランツィスカ様がわたくしに預けてくださった品です。ただいまを持ちまして、本来の所有者であられる殿下の、そのお手にお返し申し上げます……」
「…………」
レオンは沈黙したまま、手に乗せられたそれをじっと見つめた。
ミロスラフをはじめ、アルベルティーナとブリュンヒルデも、黙ってそれを見守っていた。
それは精緻な金細工の台座に、風竜の結晶を思わせる緑柱石の嵌まった、とても品のある品だった。台座にはまるで生きているかのように空を駆ける風竜の姿が彫られており、これが確かに風竜国の王族の持ち物であることを主張している。
レオンはそれを黙って握りこむと、今まで父と思って育ってきたその人の顔を、正面からじっと見つめた。
指輪に嵌められた緑柱石のような翠の瞳に、ほんの一瞬、きらりと光るものがあったように思ったのは、アルベルティーナの見間違いであったのかも知れない。
レオンはそのまま、眉間に皺を刻んだ厳しい顔で、静かにエリクの肩に額をつけるようにして目を閉じると、こちら側からは見えないように、さりげなく自分の顔を隠した。
アルベルティーナは、自分のほうが涙してしまいそうになるのを必死に堪えていた。
それで、隣に座る母の手をぎゅっと握り締め、ただ自分の膝を見つめて、だまって項垂れていたのだった。





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