2 疑惑
ドンナーシュラークの王都へは、各国から移動するのにある程度の時間差がある。
今回、最も近場だったのはアルベルティーナたちクヴェルレーゲンの一行だったため、「親睦の宴」が始まるまで、皆は数日、広大で緑豊かなドンナーシュラーク宮でゆったりと過ごすことができた。
とくにアルベルティーナたちは王の血縁者でもあることから、王宮の中を比較的自由に歩き回らせて貰えたのだ。
レオンたち警護の武官を数人伴って、アルベルティーナはクヴェルレーゲンでは見ることのできない珍しい水鳥や花々に溢れた見事な庭園を、弟のエーリッヒと共にあちらこちらと歩いてみた。しかし、どこを見ても、本当にこの国の豊かさに目を瞠ることばかりだった。
先日、この国の王であり自分たちの伯父でもあるあのちょっと風変わりな男、エドヴァルトと対面して、ある程度の予想はついていたのだったが、それにしてもこの王宮の広い敷地の中には、各国さまざまの文物が溢れるように置かれていて、みなは驚かされるばかりだった。
城内にある絵画や彫刻をはじめとする美術品、見るからに手のこんだタペストリーや敷物の類いは、どれも見ていると時間を忘れそうなほどに素晴らしかった。
また、王宮内の巨大な書庫には床から天井までびっしりと頑丈な書庫が作りつけられ、その中に唸るように各種の歴史書、地誌や地理、天文や魔法学に関する書物や神話、さらに物語などが、これでもかと詰め込まれていた。
どれもこれも、歴代の王が商談をするついでなどに各地から求めてきた各種文明の縁とでもいうべきものだという。
中でもアルベルティーナが目を留めたのは、そこを利用する人々の多様性だった。通常、このような貴重な資料にあたれるのは、どこの王国であっても大抵、王宮に仕えている文官たちや貴族らなど、上流階級の中でも限られた者が中心になるものだ。
しかし、この王宮ではそうではない。
書庫の閲覧室では、明らかに服装からしてもっとずっと身分の低い、ごく若い青年や少年といってもいいような年齢の者たちが、その目を輝かせるようにして多くの書物を脇に積み上げ、熱心に読みふけっていたのである。
何より驚くのは、そこに確かに貧しい身なりをした女性や少女たちの姿もあることだった。
クヴェルレーゲン宮であっても、女性たちに学問への門戸は開かれているし、王家としてもなるべくそれを身につけるようにと推奨してもいるのだが、さすがに王宮内の書庫にここまで階級の低い女子が大勢いるということはない。
(伯父様は、教育の大切さをわかっていらっしゃるのね……)
それらはそのまま、この国の国力と、王自身の寛容さ、そして見識の広さを物語っているようだった。
聞けばかの王は、やる気と能力がありさえするなら、どんな出自の少年少女でも、いや老若男女を問わずにどんどん登用し、才を見抜けば重用しさえするという。こういう場所で乾いた土が水を吸い込むようにして得た知識と学問で、彼らはいずれ、かような大恩を受けた王を全力をもってお支えしようと志すのに違いなかった。
それはそのまま、国力というものだろう。
彼らは間違いなく、この国の未来を支える者らのはずだから。
あんなふうに飄々としていながら、かの王はしっかりと己が地盤を固めることにも余念がないのだ。
やはり中つ国、ドンナーシュラークを治める王として、あの伯父も見た目どおりの人ではないのだろう。実は意外と、なかなかに喰えない人なのかもしれないと思った。
「……姫殿下。いかがなさいましたか」
ちょっと考え込んで足を止めていたアルベルティーナに、背後から控えめな声がそっとそう訊ねてきた。振り向かなくとも分かる。レオンである。
こういう静かな場所なので、今回連れてきた武官は彼ともう一人だけだった。
「いえ、なんでもないの。さあ、そろそろ参りましょうか、エーリッヒ」
書棚の中から見つけた、絵入りの物語の本のページを大喜びでめくっていた弟に声を掛け、アルベルティーナは一同を促してその場を後にした。
今回、自分たちはこの王宮の一角に、宿泊のため建物を一棟まるごと与えられている。白亜の壁に囲まれたすがすがしい外観をした離宮で、目の前に美しい池が設えられており、アルベルティーナたちはちょっとした旅行気分を味わえた。
こちらに入って以降、故国から伴ってきている者ら以外に、こちらの王宮で特別に選ばれた召し使いや女官たちが自分たちのために色々と細やかに気遣いをしてくれている。部屋にはいつも瑞々しい果物や菓子、美しい花などが溢れるように置かれていて、滞在中、何の不自由もしないようにとの王の配慮が窺えた。
離宮に戻ってしばらくしたところで、王の側近のあの老人、ヤーコブがやってきた。
「先ほど、火竜の国の王子殿下がようやくご到着された由にござりまする。これにて五カ国すべての若君がおそろいにござりますれば、いよいよ明日、『親睦の宴』を催す運びとなりましてござりまする――」
深々と頭を下げてそう述べるこの老人も、聞けばもとは市井で果物売りをしていた男なのだとか。
その心延えと頭の回転、面倒見のよさと商才に恵まれていること等々を王に見出され、いきなり街の市場で微行中の王から「我がもとに仕えんか」と声を掛けられたのが始まりで、結局、今に至るのだそうだ。
周囲に仕えるだれかれに尋ねてみても、大抵は似たような経歴の者ばかりである。「いえ、私は何某の貴族の子弟で……」などと平然と虎の威を借るような、うすぼんやりした坊ちゃんなど一人もいない。
周囲に有能かつ忠実な人材がいる、これもかの王の強みにほかならないだろう。
アルベルティーナの思うに、あの王はあんな調子でひどく危なっかしく見えるものだから、それで周囲の皆は余計に「このお方にはわたくしが傍にいて差し上げねば」と、より責任感というのか、保護欲をそそられてしまうのではないのだろうか。
あれをもし意識的にやっているのだとすれば、相当性格の悪い男ということになるのかもしれないが、アルベルティーナの見たところ、あの伯父に関してはまったくそういう風ではない。あの男はもとから真に、ああいう質の男なのだ。
「そうですか。わざわざのお知らせ、痛み入ります。では、明日はどうぞよろしくお願い申し上げます」
そう言ってしとやかに腰をおとして礼を返すと、老人は必死で両手を振った。
「いえいえ、姫君様! わたくしごときに頭など下げていただいては困りまする……!」
老人はもう真っ赤になって恐縮している。が、やがて何か思い出したように、何故かふとレオンのほうを見て言った。
「あ、それとですな。そちらの若い士官殿のことなのでござりまするが……」
「は?」
ヤーコブの視線がレオンの上にあることに気づいて、アルベルティーナは首を傾げた。
「レオンが、どうかなさいましたでしょうか」
「あ、いえ……はい。レオン様とおっしゃるのですな。あの後、陛下から少しお達しがござりまして。失礼ながらそちらの方のお名前と、ご出自をお尋ねしてまいれと――」
「…………」
(レオンの……?)
アルベルティーナは驚いた。
あんな、怒涛の旋風のような訪問をしていながら、あのどさくさの間にあの伯父は、その実しっかりレオンのことまで観察していたというのだろうか。
やっぱり油断のならない男だ。
しかし一体、彼の何に引っかかったというのだろう。
「もしや、なにかご無礼なことでも――」
まさか彼に限ってとは思ったけれども、一応ちらりとレオンの顔を見やると、彼も無言のうちに「心当たりはない」とばかり、かぶりを振ってそう伝えてきていた。
が、なぜかその実、少し表情が厳しく、暗く変わっているような気がした。
(いったい、なんなの……?)
アルベルティーナの表情にその内面を読み取ったらしく、「ああ、いえいえ、大したことではござりませぬが」と、老人は慌てて言葉を足した。
「なにか陛下はそちらの方に、非常な慕わしさを覚えられたご様子でござりまして……。確かに、言われてみればその面差しが、王妃さまによう似ておいでのようでござりまするもので。この爺に、一度確かめてまいれと、そのように……」
(王妃様……? ティルデ様に?)
まだお会いしたことはないのだが、エドヴァルト王の正妃である王妃ティルデは、風竜の国、フリュスターンからこちらへ輿入れしてきた人だ。それからすでに十数年は経つはずだったが。
そんなお方とこのレオンの相貌に似通ったところがあるというのは、いったいどういうことなのか。
老人は言葉を続けている。
「はい、左様にござりまする。その癖のない黒いお髪、それに翠の色の目……。そればかりではござりませぬ。全体の雰囲気とでも申しましょうか、とにかく……はい。明日、皆様が王妃様にお目にかかられれば一目瞭然のことにはござりましょうが――」
「…………」
老人の言葉が進むにつれて、レオンの表情がどんどん厳しいものに変わり、その眉間にも深い皺が刻まれてゆくことに気づいて、アルベルティーナはなんともいえない胸さわぎを覚えた。
なにか、よくは分からないが、非常に嫌な予感がした。
しかし、こうまで言われて「いや答えられぬ」と言うわけには行かないだろう。アルベルティーナは少し慎重に考えてから、レオンに問うた。
「レオン。特に問題はないのですよね? こちらの方に、あなたのことをお話ししてさしあげても」
「……ええ、はい」
やはり苦悶の色を浮かべたような瞳で、ちょっとアルベルティーナを見てから一礼し、レオンはそう答えた。
「では、どうぞあなたからお話しを」
「はい。……では、恐れながら――」
そして彼は、改めて老人のほうに向き直った。
「父は、現在クヴェルレーゲン宮にお仕えしている医師でございます。名をアネルと申します。母はかなり以前に亡くなったとのことで、自分は顔も覚えておりません。以前はどこか、母とともに他国に住んでいたと聞いたことはあるのですが、生憎、どこだったかまでは聞いておりません。申し訳ございません――」
一気にそう説明して、レオンはあとはただ押し黙った。
「ほうほう。そういうことでござりまするか……。いや、お手数をお掛けいたしました。申し訳もござりませぬ。陛下にはこの爺いから、そのようにお伝えさせていただきまする。それでは、明日の宴の件、もろもろどうぞよろしゅうお願い奉ります」
老人は底意のない笑顔でもってにっこりすると、また深々と丁寧に礼をして、部屋を辞していった。
「…………」
奇妙な沈黙が、あとに残った。
レオンは勿論、自分の足許を厳しい表情で睨むようにして立ち尽くしているばかりだったし、他の武官らもなにか不審げな顔で彼を眺めやっていた。
そしてアルベルティーナも、なにか言いようのない胸騒ぎを覚えて、柄にもなくわが身体を抱きしめるようにしながら、レオンを見つめてそこに佇んでいたのだった。





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