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7 蛇の溝




 結局、その「親睦の宴」は、最初の書簡が王宮に届けられてから半年後になって、ようやく実現の運びとなった。

 クヴェルレーゲンからその宴へと参加することになったアルベルティーナの弟は第三王子のエーリッヒで、当時はまだ八歳だった。アルベルティーナは十五歳になっている。


 弟はまだほんの子供で、優しい父母と離れて長旅をせねばならないことを嫌がり、当初は随分ぐずぐずと塞ぎこんでいた。しかしそれでも、姉のアルベルティーナがずっと同行してくれることと、これまで宮殿にいるだけでは見ることもできなかった景色に沢山ふれることで、相当に気がまぎれてくれたのは幸いだった。

 クヴェルレーゲンの誇る大きな港に集まった錚々(そうそう)たる商船や軍船の威容は、弟のみならずアルベルティーナでさえ目を瞠るほどの見事ものだった。

 夏の陽光に照らされた青い海も、遠く蒼穹にもくもくとわきたつ白い雲の帯も、王宮暮らしの彼女たちにとって目に楽しく、心の浮き立つものだった。


 王女アルベルティーナと幼い弟王子の護衛のため、王国軍から精鋭の兵らによる警護隊が組織され、道中の彼らの安全を見届けることとなった。その中には嬉しいことに、あの少年下級士官、レオンの凛々しい姿もあった。

 まだ若く、新参者である彼がそこに選ばれたのは、彼の年に似合わぬ人柄と、剣の腕を買われたからということらしかったが、それを聞いたとき、密かにアルベルティーナの胸は躍った。


(もしかして、道中、少しぐらいお話もできるかも――)


 しかし、残念ながら彼は、古参の士官らのように彼女らの側近くに仕えることはなかったので、話らしい話などほとんどできなかった。それはまあ、当然といえば当然の話だったのだけれど。



◆◆◆



「みてみて、姉上! もうあんなに、()()()が遠くなりました……」


 エーリッヒが船端に置かれた樽に乗り、そこから少し身を乗り出すようにしながら、小さな手で船尾側の海の彼方を指差す。アルベルティーナは後ろからその身体を支えてやりながら、彼の指差す先をじっと見つめた。

 クヴェルレーゲン王家の持ち物である、豪華かつ巨大な帆船である。人だけでなく、兵らの使う馬も共に乗せる必要があるため、ほかに二隻の帆船がついてきている。

 自分たちの世話のために召し使いや女官らも十数名ばかりついてきているし、他にも馬の世話をする者ら、水夫らなどを合わせれば、これで結構な大所帯だ。

 三本の太い帆柱に何枚も張られた大きな生成り色の帆が、風を孕んでぱんぱんに膨らみ、ぐんぐんとこの大きな船を東へと運んでいるのが身体でわかった。


 アルベルティーナが海に出るのは、ごく幼い頃に父に連れてきてもらって以来のことだった。普段はあまり嗅ぎなれない潮の匂いは、彼女を少なからず奔放な気持ちにさせた。


「ほんと! 綺麗ね、エーリッヒ。さあ、お父様とお母様に手を振りましょうか」


 微笑みながらそう言って、アルベルティーナはもう海原の向こうに薄ぼんやりとかすみ始めた故国の姿を、目を細めて眺めやった。

 自分たちの周囲、甲板の上には、王族の娘と小さな王子を守るように、警護兵らが立っている。

 その列の端に、ごく目立たない様子でかの黒髪の少年がいることに、アルベルティーナはとうに気付いていた。とは言え、どう考えてもこんな中、王女から下級士官にいきなり話しかけるというのは不自然なことだった。


 クヴェルレーゲンから隣国ドンナーシュラークの王都へは、通常、船と馬車を乗り継いで、三週間ばかりの旅になる。あちらの陸地に着けば、雷竜国からの迎えの兵らや馬車が待っているはずだった。

 国土に多くの渓谷や湖を擁するばかりでなく、ほとんど三方を海に囲まれた国であるクヴェルレーゲンは、歴史的に水運の技術には明るい国だ。国内には多くの商船ばかりでなく、立派な軍船も数多い。

 各地によく整備された港も多数存在し、そこから海路、他国への交易も熱心に行なわれている。


 わが国の東側、ドンナーシュラークとの間には「蛇の溝(シュランゲ・リレ)」と呼ばれる細長く底の深い大きな海峡が横たわっており、その蛇の尻尾にあたる部分が丁度、クヴェルレーゲンとニーダーブレンネン、そしてドンナーシュラークの三国の国境が接している地域なのだ。

 一般的に「蛇の尾」と呼ばれるその地域はもちろん、歴史的、政治的に、長らく難しい地域となっている。


 火竜の国ニーダーブレンネンは、この場所を長年欲してきた。

 かの国には、南側の穏やかな海へ出るための航路が乏しい。巨大な火山を擁する国でありながら、緯度の高いかの国は、冬場は海岸線が雪と氷に閉ざされる。そのため、年中使える港には限りがあるのだ。

 他国との交易のためにいちいち中つ国ドンナーシュラークを通る手間を思えば、ここの港をおさえて商港としてのみならず軍港にもしたいという火竜の国の気持ちは、まだ小娘に過ぎないアルベルティーナにでさえよくわかる。

 ドンナーシュラークはその地の利を生かし、交易のため自国の街道を利用する他国に対して通行税を支払わせているからだ。


 竜の魔力によってある程度国境の位置は決まってしまうのだが、それでも微妙な領土の増減は、ここ数百年の間にいずれの国の間でも繰り返されている。

 魔力が同等であるならば、あとは人間の武力と知力、つまりは権謀術数の出番なのだ。それに何も、国力は領土を広げることだけが肝ではない。資源と財力、そして豊かな人材も、国を富ませる礎になるものだ。


 国土を大きく広げられないのには、やはり五竜の魔力の均衡ということが何より大きい。

 国により、これはもう自然の流れとして、水竜の国では水竜の魔法、雷竜の国では雷竜の魔法の利用を最も得意としている。理由として、材料となる稀少な「竜の結晶」がその土地でなければ手に入りにくいことと、当然ながらそれを使用する魔術師たちの経験の多寡の問題を伴うからだ。


 ちなみに、竜の魔力は戦争の際、巨大な属性魔法攻撃という形でも利用されるのだが、それを他国で使おうとすれば、自国内で発動するよりもはるかに破壊力を減じてしまう。

 例えば、火竜の国が火竜の魔力をもって雷竜の国で攻撃を仕掛けても、その破壊力は本来の三分の一にも満たなくなる。同じ量の「竜の結晶」を用いてそれでは、すぐに兵站へいたんの問題に行き当たってしまうわけだ。戦争とはつまるところ、その背後を支える物量、つまりは金の問題なのだから。


 このような状況では、他国へ大きく攻め込んでその領土を奪うなどという思い切った作戦を仕掛けることは、いずれの国にとっても難しくなる。わずかばかりの領土を広げるために、その後、国内経済がいちいち大いに疲弊するのでは意味がないということだ。

 逆に、そこまで苦労をして奪い取った新しい領土も、それを維持するのは相当の骨になる。得意の自国の魔法は使いにくい上、相手側からすればいともたやすく奪還できる条件が揃っていることになるからだ。割りに合わないこと、この上もない。


(とは言っても……戦争は、できるだけすべきではないのだから。これはこれで、神竜さまがたのご加護といってもよいのかも)


 はるか北方、その「蛇の尾」のあたりを見やりながら、アルベルティーナは考えている。


(せめて火竜の国の王が、もう少し平和を愛する人であればよかったのに――)


 かの国は国内でさえ、王族同士で何度も血で血を洗うがごとき戦をしてきたという、酸鼻極まる歴史をもつ。今もなお、その血筋である王家がかの国を支配しているのだ。

 すぐ目と鼻の先にそんな恐るべき国があるという事実は、長年、水竜の国の王家や国民くにたみにとって大いに脅威であり続けてきた。

 ここしばらくは平穏が保たれているとはいえ、また近頃では次なる王位を巡ってなにかきな臭いことが起こっているという噂もちらほらと聞こえてくる。


 これから「親睦の宴」にやってくるかの国の王子がどんな人物なのかは知らないが、アルベルティーナは心密かに、なるべくならその為人ひととなりをこの目でしっかりと見定められないかと考えていた。

 そうすれば、今後、父や王位を継ぐ長兄のために、少しばかりの助けにもなれようというものだから。


「姉上……? どうされましたか」

 可愛らしい声が下から聞こえて、アルベルティーナははっとした。

 つい、陽光を跳ね返してきらきらと輝いている水面を見つめながら、物思いに耽ってしまっていたようだった。

「あ、ごめんなさいね、エーリッヒ。そろそろ船室に戻りましょうか――」

 にこりと笑って可愛い弟の手を取ったとき、ふと、甲板の隅に直立不動の姿勢で立つかの少年と、一瞬だけ目が合った……ような、気がした。

 しかし、彼は途端に目線をそらして、いつもと同様、足元のやや少し向こうを見つめる姿に戻っただけだった。


「…………」


 アルベルティーナは、ちょっとがっかりする。

 せっかく珍しく目が合ったのだから、なにか少しでも話しかけるきっかけになるかと思ったのに。

 とはいえ、彼のその生真面目で寡黙な性格で、気軽にこちらと話などしてくれるとは到底思えなかったけれども。


 と、小さく吐息をついたところを、また可愛い弟に見咎められてしまった。

「姉上。ごきぶんでも、おわるいのですか?」

 心配そうな大きな瞳がじっと自分を見つめてきて、アルベルティーナは慌てて笑顔を作り直した。

「いいえ。船は久しぶりですから、ちょっとふらつく気はするけれど。大丈夫よ、エーリッヒ。あなたも、足もとにはよく気をつけてね。ロープがあちこちにあって、うっかりするとつまずいてしまうから」

「はい、姉上」


 両側を陸に囲まれた内海の波は、ごく穏やかだ。

 結局、その後もレオンと話すような機会は持てず、アルベルティーナの心中とは裏腹に、好天に恵まれたその船の旅は、ごく平穏のうちに終わりを告げたのであった。




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