プロローグ
山々を覆いつくす針葉樹の森が、まだゆらゆらと眠っている。
その尖った濃い緑の絨毯を金色に染めて、日の光が山の端を黒々と照り映えさせる頃合だった。
男は山の斜面、朽ちた山小屋の跡の崩れかけた低い石垣に腰を掛け、その日の出を暗い瞳で見つめていた。
黒い蓬髪。暗く、考え深げな翠の瞳。
だがその瞳は、なぜか片方しか開いてはいなかった。もう片方の瞳には、無粋な黒い革製の帯が、眼帯のように巻かれている。
尖った横顔には疲労と焦燥の色が濃かったが、その瞳の奥には、まだぎらつく何事かを秘めているようにも思われた。
と、静かな翼の音がして、男の肩に白い鳥が舞い降りた。
……いや、違う。
それは、鳥ではなかった。
その体に、羽毛は生えていなかった。
代わりにあるのは、きらきらと艶めくような、精緻な職人の細工を思わせる白銀の鱗だった。薄い皮膜に包まれた翼を折り畳み、迷う気配もなく、男の頭上に下りてくる。
その瞳は、深い碧瑪瑙の色をしていたが、奇妙なことに、不思議な叡智の色を灯していた。光の当たり具合によって、時折りそれが黄金色にきろりと輝く。
どうやら、その生き物は夜じゅう森を飛び回っていたものらしかった。
生き物はそのいかつい爪で、古びた鋲つきの革鎧を纏った男の肩をがしりと掴んで翼を休め、ときおり首を傾げるようにしながら、ちらちらと周囲を眺める様子に見えた。
男の肩から流れている黒いマントも、その長旅を物語るように埃にまみれ、あちこち擦り切れて薄汚れている。
「お戻りですね、姫殿下」
自分の肩にとまったその生き物をふと見やってそう言った男の瞳は、先ほどまでとは一転して、ひどく優しい光を湛えていた。その声も、やや疲れを含んでいながらも優しく、深い。
男が話しかけた小さな相手も、碧瑪瑙色の瞳でじっとそちらを見つめるようにしてから、彼の黒髪にすこし、頭を擦り付けるような仕草をした。
男が僅かに、口の端をあげる。
「今宵は、愉しゅうございましたか」
男がそう言った、その刹那。
遠い山の端から、ぴかりと朝の曙光が差した。
その光が、男の体に当たったかと思われたその途端、黒々とそこにあったはずの男の姿は、朝の空気に溶けいるように消えうせた。
肩の上にいたはずの、小さな生き物の姿も、どこにもない。
その代わり。
そこには何故か、蜂蜜色の麗しい髪を後ろで三つ編みにまとめ、白銀の金属鎧を纏った女剣士が立っていた。背には濃紺のマントを流している。
気高くも凛としたその立ち姿は、彼女が明らかに一介の剣士風情でないことを物語っていた。その相貌はあでやかで、薄絹のドレスに身を包めばさぞやと思わせるほどの、女性としての咲き誇った色香を漂わせている。
しかし、その碧い瞳には、やはり哀惜の色が濃い。
その傍らに、全身を漆黒の闇に包んだかのような、精悍な黒馬が佇んでいた。真っ黒に濡れ光ったようなその大きな瞳は、その奥に翠のきらめきを宿しながらも、やはり悲しげに沈んで見えた。そうしてなぜか、右側の目にだけ黒い遮眼革が着けられていた。
「……参りましょうか、レオン」
朝の空気に透きとおるような声で女剣士がそう言って、鞍をつけた黒馬の首元に額をそっと押し当てた。馬のほうでも、その沈んだような深い瞳で女をじっと見つめている。
やがて女が鞍に跨ると、黒馬は静かに常歩で、石のごろつく丘の斜面をゆっくりと下っていった。