1 馬術指南
「えっ? 俺のこと、連れてってくれんの……?」
翌朝、未明。
男の方からそう言い出したことに、クルトは最初、びっくりした。
こんなに迷惑を掛けてしまって、体調まで崩したのだ。その上レオンは、これからほかの何を措いてもニーナを追わねばならない身である。
自分のような足手纏いの子供など、てっきりどこかに置いてゆかれるものと覚悟していたというのに。
しかし、レオンに言わせると、それも妥当な理由があってのことらしかった。
「考えてもみろ」
と、レオンは言った。
「乗り手もいない馬だけが街道を踏破するというのは、あまりにも不自然、かつ危険だ。たとえそれが子供でも、乗っていないよりは遥かにましというものだろう」
「……あ、そっか……」
考えてみれば、確かにそれは無理がある。
たとえ馬のレオンが単独で追うとしても、迂回路をとって山道や森を抜ければ、追跡そのものは不可能ではないだろう。しかし、それでは時間が掛かりすぎるのだ。相手は恐らく街道を使って、真っ直ぐに故国に戻ろうとしているのだから。
これまでとは攻守所を変えた今、それではいかにも迂遠にすぎる。
「それだけじゃない。下手をしてそこらの人間に、迷い馬だとでも思われてみろ。さらに面倒なことになる」
「……う。な、なるほど……」
クルトは思わず、唸ってしまった。
レオンの言う通りだ。
夜になって人に戻ればすぐに逃げられるとはいえ、レオンも昼間、周囲の庶民に見咎められては「迷い馬か、これ幸い」とばかりにいちいち彼らの持ち物にされたり、競売に掛けられたのではかなわないと、つまりはそういう事なのだ。
勿論、相手を蹴り飛ばして逃げる方法もあるだろうが、それはそれで周囲の村落や王国軍から「危険馬」として駆除対象にされ、要らぬ奇禍を招くことになる。
「け、蹴り飛ばして逃げ……だめだめ、ぜったいそれ、ダメだって……!」
クルトはちょっと真っ青になって両手を振り回し、ぶんぶん顔を横に振って、そう説明したレオンの言葉を遮った。
レオンはそんなクルトを見て、そっと口端を引き上げたようだった。なぜかその翠色をした鋭い瞳が、ふと楽しげな色を湛えたようにも見えた。
「なら、契約成立だ。俺たちに迷惑を掛けた分、お前にはここからたっぷりと、身体で支払ってもらうとしよう」
「…………」
(なんか、言いかたが変だぞ、おっさん。)
どこがどうとは言えなかったが、なんとなく胡散臭い言い回しに、ちょっと半眼になったクルトだった。
それは多分、あんまり子供に言っていい冗談ではないような気がする。ここにニーナがいたら絶対、速攻で叱られているのではないだろうか、この男。
いやそれよりも何よりも、クルトにとっては「冗談なんて言えたのか、この男」という、そっちの驚きのほうが大きかった。
まあともかくもそんな理由で、クルトは晴れて正式に、ここから「レオンの旅のお供」という立場を手に入れたというわけだった。
◆◆◆
そして、早朝。
幸いすっかり体調も戻ったクルトは、暗いうちに宿を出て、日が昇って黒馬の姿になったレオンと共にその村を後にした。
目指すのはもちろん、ニーナを連れ去った人攫いどもだ。当面は、彼女が連れ去られたと思しき火竜の国、ニーダーブレンネン王国へと至る街道を辿る予定だった。
クルトの故郷である土竜の国ザイスミッシュからそこまでは、途中の雷竜の国ドンナーシュラークを抜ける必要がある。全行程で馬を使ったとしても、優にひと月半は掛かるような道のりだ。
とはいえもちろん、そこに至るまでに人攫いどもを確保できるに越したことはない。
「あちらは姫殿下を連れて、恐らくは馬車の旅。こちらは身軽な騎馬一騎だ。しかもこちらは、昼夜を分かたず移動できる。やつらが火竜の国に辿りつくまでに追いつける目は大いにあるぞ」
それが、レオンの意見だった。
聞けば、レオンにはまともな睡眠というのは殆ど必要ないらしい。
昼間、馬の姿でクルトを乗せてなるべく走り、夜は眠ったクルトを担いででも、徒歩でなるべく進むのだと言う。口で言うのは簡単だが、凄まじい強行軍だ。そんなことをこの男は、まるでこともなげに言うのだった。
クルトにはとても人間業とは思えないが、本人は「別にどうということもない」とばかり、至って涼しい顔だった。
これまで自分一人では馬に乗ったこともないクルトだったが、こうなってはそうも言っていられず、レオンの手ほどきで実地にそれを教わりながらの行程となった。
とはいえ、基本、もとが人間のレオンである。実際にクルトが馬術の腕を向上させねば走れないといった場面はほとんどなかった。
ともかく、彼が速歩や駆歩になってもバランスよく、手綱を握って舌を噛まずに鞍の上に収まっていられれば、とりあえずは問題ない。
「おおむね、筋は悪くない。目線は必ず遠くに置け。怖がって前屈みにはなるな。姿勢には気をつけろ」
レオンはそんなことを言いつつ、夜の限られた時間を使い、結構丁寧にクルトに乗馬の指南をしてくれた。
また、一応、野盗などに襲われた場合の対策として、クルトは子供でも扱いやすいような小さな弓と矢、それに矢筒も購入させてもらった。短剣は、あの山賊から掠め取ったものを今もそのまま使っている。
「え〜っと……これは? 安いけどだめ? んじゃ、こっちは?」
立ち寄った村の市場や武器を扱う商店などに入っては、クルトはあれこれと弓などを物色した。
訊ねているのは、もちろん、連れている黒馬にである。
あとは、行き交う人々に一見して子供だと悟られないよう、やや長めのフードつきマントも吟味した。よく考えると、なんだかんだと、ここまでこの男の世話になりっぱなしである。
レオンは「身体で払わせる」とか何とか言っていたようだったが、ここまでのところ、クルトは一方的に彼の世話になっているだけのようなものだった。
「え? 俺の背たけだったら、こっちのが使い勝手がいいって? 軽くて丈夫……へ〜、そうなの? んじゃ、これにしとくかなあ……」
そんな調子で、連れている馬とあれやこれや話をしながら商品を吟味する少年を、立ち寄った店のおやじ連中は大抵妙な顔をして――というか明らかに「気の毒にな、この坊主」という憐れみの目で――見つめていた。
とはいえ、クルトは大真面目である。
もちろん、クルトはニーナのようには馬のレオンとの意思の疎通ができない。そのため、事前に二人である程度の合図などを決めたのだ。
つまり、馬のレオンのちょっとした目や耳の動きでもって、「否」か「応」かを判断するというようなことである。
そんなに込み入った話まではできないけれども、それでも何度かあれこれやっているうちに、クルトも次第に馬の気持ちというか、馬のレオンの意図することが少しずつ分かるようになってきたのだ。
というか、実はここだけの話、人間の時のレオンより、馬である彼と話をするほうがクルトにとってはよっぽど手間がかからなかった。
馬は人間のときのような厳しいことは言わない、いや言えないし、無愛想にするといっても限度がある。もちろん面と向かってそんな事を言えば、またこの男を激怒させるに決まっていたが。
ともかくもそんな調子で、クルトは馬のレオンをつれて立ち寄る先々の村の市場や店を回り、自分に合うような弓矢やマントを、馬の助言を聞きながら、最終的には商店の旦那相手に丁々発止の値段交渉までやり遂げて、どうにか入手できたのだった。
弓矢を手に入れてから後は、レオンは夜の時間に少しずつ、弓術と剣術についても指南してくれるようになった。
彼は寡黙で一見怖そうには見えるけれども、決して短慮なわけでも勘気がきついわけでもなかった。むしろ、その控えめで余計な口を利かず、我慢強い性格は、意外にも人にものを教えるのに最適のように思われた。
ニーナを救うための追跡行であるというのに、クルトはなんだか申しわけないぐらいに、この男から日々、色々なことを教わるのが楽しくて仕方なかった。
◆◆◆
さて、そのニーナ。
彼女を攫った一行は、レオンの予想した通り、雷竜の国への国境を抜け、その街道をひたすらに北西をめざして進んでいる。
ニーナ自身はその男らの駆る特製の馬車の中に閉じ込められて外に出されることも叶わないため、周囲の様子を目で確認することはできない。けれども、この八年間の経験から、ただ物音を聞くだけでも、それを察することはできた。
竜の魔力の加護があるとはいえ、あの「水竜の命の実」のない今の状況では、白い竜としての魔力を保持しつづけるのは難しい。
その証拠に、ニーナの肩から下がっていた濃紺のマントはもはや、見る影もなくぼろぼろになり、やがて空気に溶けるようにして見えなくなってしまった。
その次にやってきたのは、その身を包んだ鎧の腐蝕だった。
美しかった白銀の金属鎧は、あちこちに錆びのようなものが浮きはじめ、どす黒く変色して厚さを失い、明らかに強度が弱く、脆くなり始めていた。
それは、竜としての鱗への魔力の侵食が進んだことを意味している。
強力な火竜の魔力が、白き竜の魔力を大いに凌駕したことで、ついにその鱗や皮膚に被害が及び始めたのだ。
このままあの火竜の国の王太子の前に引き出されるのだとして、その頃には一体自分は、どんな惨めな姿になっているというのだろう。
そう考えるとき、この誇り高いニーナですら、少しも空恐ろしくないと言えば嘘になる。それはそのまま、自分の王女として、また女としての矜持にも関わることだった。
しかし、だからといって自分を取り篭めたこの男らに、どんな弱った顔も涙も、ましてや怯懦に震える姿も、決して見せるつもりはなかった。
ニーナはただ凛として、与えられた座席に座り、前をまっすぐに見ているだけだ。時に目を閉じ、静かにものを思うだけ。
祈るのはただ、彼らの無事と、「決して自分を助けに来るな」という、たったひとつのことのみである。
(レオン。どうか、わたくしを追わないで――)
もう二度と、あのような悲劇を起こさないために。
「姫殿下。まことに、ご不自由などはございませんか」
火竜の結晶を練りこまれた、豪華で残酷な監獄の外から、男の低い控えめな声がそっと自分に問いかける。
彼らは決して、扉を開けない。
そこを開けたが最後、自分はここから飛び出して、白き竜として残された最後の力を振り絞り、空へ羽ばたいて逃げることが可能だからだ。
男らは、それをよく知っている。
実のところ、自分はなにも、夜でなければ竜になれないわけではない。
ただしそれには、非常な魔力の消耗を伴う。
ついでに言えば、そこにはかなりの理性の消失という危険をも伴うのだ。
そのために犯してしまった過去の大きな失態を思えば、無闇に昼間に竜化をするべきではなかった。
体調を崩してしまったあのクルト少年には申しわけなかったが、やはり昼間に竜になることは、ニーナとしてもできるだけ避けたい思いがあったのだ。
外から聞こえた男の言葉に、ニーナは静かに返事をした。
「いいえ。わたくしには構わないで結構です」
幸い、竜の魔力の加護は、最小限ではあるがまだ効果を発揮している。
この身体は幸いにも、普通の人間のように衣食住そのほかの必要をあまり感じない。
したがって、こんな「監獄」に何日もただ閉じ込められているとしても、食事そのほかの必要を覚えなくて済むのである。
もしも自分がいま生身の女であったら、それこそこの男らに、様々なことを無様にも懇願せねばならない事態がいくらでもあったことだろう。
高貴な生まれである自分にとって、それは想像するだに、怖気をふるうほどに忌まわしい話だった。
そう思えばニーナにとって、こんな事態でも感謝すべきことは山ほどあった。
だから彼女は、必要以上に自分を憐れむことはしていない。
レオンさえ無事であるなら、あの火竜の国の王太子がたとえ自分になにをしようが、必ず耐え抜いて見せようと思うからだ。
(……ですから、レオン――)
決して、自分を追ってはならない。
彼があの男とまた、真正面からやりあうことなど、望まない。
恐らくあの男は、八年前のあの日よりもはるかに多くの魔力をその手に溜め込んでいるに違いないのだから。
しかし、祈っても祈っても、それは火竜の結晶による魔力に跳ね返されて、決して空には届かない。
それでもきっと、レオンは分かってくれている。
けれど、わかっていてなお、彼は自分を追うことをやめないだろう。
そして恐らく、いまこの時も、彼は自分を追って来ているに違いなかった。
それを嬉しいと思ってはならないことは分かっている。
それでも、ただ申し訳ない思いの傍らで、胸内に震えるような、そして燃えるような、その想いだけはどうしようもないのだった。
(……会いたい)
いま、もし子供のように叫ぶことが許されるなら。
あのクルト少年のように、素直にまっすぐに言えるなら。
自分はただ、それだけを叫び続けることだろう。
しかしそれは、いまの自分の立場と矜持が許すことではないのだった。
(会いたい……レオン)
十年前、初めて出会ったときの、まだ初々しかった彼の面影を思い出す。
少年が青年に変化する、瞬くようなほんのひととき。
靡く黒髪に、優しく精悍なあの笑顔。
今ではほとんど見ることもできなくなった彼のあの表情を、自分はどんなにもう一度、目にしたいと願ったことか。
「レオン、ハルト……」
その小さな小さな呟きも、無情な紅い壁が冷たく跳ね返すのみだった。
ニーナはまた、そっと膝の上で両手を握って目を閉じると、がたつく「監獄」の不快な揺れを身に感じながら、ふたたび孤独なその祈りを心の中で繰り返し始めたのだった。





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