4 赦し
雷鳴の閃く膨大な雲の渦の中で、レオンとゲルハルトはともにひとつの不思議な<風の玉>のようなものの中に包まれて空中を飛翔していた。
この中にいるぶんには何の痛みも衝撃も感じないで済んでいるが、外界は恐らく凄まじい環境であると思われた。生身の人間の姿では、とても無事ではいられまい。目の前に、何度も縦横に稲妻がひらめいて、空気さえ焦がしているように思われた。
姿は見えなかったけれども、その黒雲のなか、すぐそばに、あの風竜神の息吹を感じた。
《土の朋輩め、なにやら眠いと吐かしておるが。心配いらぬ》
竜の思念は、常に頭の中で鳴り響き、レオンたちを導いている。
風竜は喉奥でくつくつと笑うかのように楽しげな声音だった。
それはどこか、こなれた好々爺の風情をまとって、レオンが風竜国の王族であるからなのか、不思議な親近感を覚えるものだった。
やがてレオンとゲルハルトは、眼下に広大な密林の広がる場所にやってきたのを感じた。空は雲に覆われているために、それらを照らすのはもはや雷光ばかりである。
ぴかっとそれが輝くたびに、南方に特有の植層でできあがった深い森と、その中をうねうねと伸びている大河の面が一瞬だけ白く浮かび上がるのだった。
「おお……。あれがもしや、土竜神さまの?」
ゲルハルトが呟くようにそう言って指差した先。
そこもすでに、通常とは異なる様相になっていた。
密林の中に、ぼかりと巨大な底なしの穴が開いている。
その名もまさしくそのままの、「竜眠る穴」と呼ばれる土竜神のための神域であろうと思われた。
いまやその中から、ぐるぐると竜巻が湧き起こり、天の雲から下りてきた竜巻の足とつながって、さらにその太さを増しているところだった。
巨大な竜巻の引き起こす暴風が、周囲の密林を嵐の海のようにかきまわし、荒れ狂わせている。
やがて。
その巨大な竜巻の中心を、何かの恐ろしく大きな影が、凄まじい速さで駆け上がってゆくのが見えた。
それは頭上の風竜のいる黒雲の中へと自らも姿を隠して、周囲の空間をびりびり、ばちばちと震撼させた。
(土竜……!)
いや、姿は見えない。
しかし、レオンは確信していた。
いま、自分たちの頭上には、この五竜大陸に眠る竜のうちの東の二竜が雁首をそろえているのだということを。
それが証拠に、ごくわずか、その黒雲の隙間から、山そのもの、いや大陸そのものが蠢いているのではないかと思うほどに巨大な何かが、ちらり、ちらりと姿を見せている。ときおり稲妻に照らされるそれをよくよく見れば、それはみっしりとした鱗に包まれた巨体の一部なのだった。
ひとつは、黒光りする鋼の鱗。
またひとつは、ちょうどあの「風竜の指輪」の石のような、翠に光る宝玉の鱗に見えた。
隣にいるゲルハルトは、もう声もなく、ただ目の前の信じられない光景に見入っているばかりである。
やがて、あの風竜神の声がふたたび二人の頭に響いた。
《土の朋輩の了承を得た。……いざ、子らよ。覚悟はよいか》
「はい。勿論のことにございます」
「……!」
途端、はっとしてレオンは隣を見た。
ゲルハルトはやや青ざめてはいながらも、これまで一度も見せなかったようなきりりとした表情で、暴風と暗雲が轟くようなうなりをあげている空をじっと見つめるようにしていた。
思わず手を伸ばそうとしたレオンに、ゲルハルトは手だけでそれを制して、少し笑った。
「……ようやくこれで、長年の醜きしがらみと、この命に終止符を打てるな。礼を言うぞ、レオンハルト」
「…………」
レオンが沈黙したまま視線を少しさまよわせると、ゲルハルトは改めて居住まいを正して、真っ直ぐにこちらを見た。
「……レオンハルトよ」
「は……」
「このようなわたしに、斯様に華々しい贖罪の機会を与えてくれたこと……心より、礼を言う」
「は……、いえ――」
言いかけたレオンの言葉を、ゲルハルトは再び手だけで制した。
「どうかくれぐれも、心弱くも不甲斐ない、この叔父の轍を踏まぬようにな。王たる者であるというのは、決して楽なことではなかろうけれども……臣民のため、そしてそなた自身のためにも、兄上のような善き王となってくれ」
そして、わずかに口角を引きあげ、力のない笑みを浮かべた。
「無論、かようなこと、わたしが言うべくもないのは百も承知ではあるのだが……。どうか、どうかこの通り、お頼み申し上げる」
言って、また深々と頭を下げられる。
レオンはただ、黙って唇をかみしめたまま首を横にふった。
「わたしは無論、兄上のもとになどは参れぬ身。だから……いつか、そなたがそこへ行く時には、兄上にお伝えして貰いたい。愚かな弟が、心よりの悔悟とともに、兄上に謝意を申し上げておりましたと」
レオンは痛いほどに拳を握り締め、じっと睨むようにして叔父を見据えた。
「奸臣の讒言を易々と容れ、兄上の温かくも真摯なお心を疑い奉り、果ては弑逆し奉るに至った愚弟のことを、どうぞお許しくださいませと……。ゲルハルトがそう申しておったと。……どうか」
「…………」
レオンはぎりっと、奥歯を軋らせた。
(……どうしてだ。)
この土壇場で、このような台詞。
卑怯ではないか。
もはや何もかも覚悟して、己の犯した罪を清算しようと、むしろ清々しいような顔をして。
もっとただ、単純に憎ませてくれればよかったものを。
親を殺された「可哀想な王太子」として、ただ恨み骨髄のまま、その頭上に鉄槌を振り下ろさせてくれたなら、どんなにか――。
まこと、償う気持ちがあるのなら、死ぬより生きるべきではないか。
その一生を使い、命を使って、贖罪のために生きればいいのだ。
こんな風に「格好良く」、竜に命を捧げて散ろうなど。
まこと、本人の言った通りだ。
なんでこんな「罪人」に、こんな華々しい贖罪の場を用意してやらねばならぬのか。
自分の胸中にさまざまに渦巻くものを、レオンは咀嚼しきれないまま、ただ厳しく眦を決していた。
それでも顔をそむけて言ったのは、声を押し殺したこんな言葉だけだった。
「……どうか、ご勘弁を」
ゲルハルトはそんな甥の苦渋に満ちた顔をじっと見て、困ったように微笑んだ。
「うん。……済まなかった」
と、二人の会話が途切れたのを見計らったかのように、再び風竜の声がした。
《よいか。……はじめるぞ》
はっとして視線を戻せば、頭上に非常に大きな生命体の気のようなものが二つ、うねうねと飛んでいるのがはっきりとわかった。
ゲルハルトはその場に跪くような姿勢になって、「はい、いつでもどうぞ」と声に答えた。
途端、ゲルハルトの全身がぼうっと光を纏い始め、次第にその向こうの景色が透けて見えるようになった。
「叔父上……!」
すでに半分ほど実体を失いかけているゲルハルトの姿に向かって、レオンは思わず叫んだ。
ゲルハルトがそっとこちらを見返って、少し微笑んだようだった。
レオンは一瞬、言葉に詰まったが、両の拳を握り、搾り出すようにして言った。
「もっと……お聞きしとうございました。父のことを……もっと」
「なんの」
さらに輝きを増していきながら、ゲルハルトはふわりと笑った。
もはや憎たらしいほどの、清々しい笑顔で。
「わたし如きが、兄上の何を語れようか」
それはやっと肩の荷がおろせると、ほっとした人の顔だった。
「案ずるな。兄上は確かに、そなたの中におられるよ。そなたのそばには見たところ、かたき忠義と誠に守られたよき者らも大勢おる。迷うとき、悩むとき……まずはそなたの、その心に問いかけよ。臣下の衷心よりの諫言には、いかに耳が痛くとも、是非とも、へりくだって耳を傾けよ――」
「叔父上……!」
(いやだ。)
こんな形で、この男と別れたくない。
こんな去り方をさせるために、ここまで来たのではないのだから。
そんな風に思ううちにも、どんどんゲルハルトの姿は周囲の景色との境をあいまいにしてゆく。もう恐らく、手を伸ばしても触れられないのは確かだった。
「叔父上――」
だから。
その言葉を叫んだのは、
もしかしたら、
レオン自身ではなかったかもしれなかった。
「赦す……!」
その声はなぜか、
自分の知らない、しかしとてもよく知っている、
とある男の声のようにも聞こえた。
「赦します……叔父上」
ゲルハルトが、もうすっかり色味の薄くなったその顔で、はっとしたのがようよう見えた。
食いしばった歯の間から、レオンは搾り出すように言った。
「ですから、どうか……お心、安らかに――」
「レオ――」
その瞬間、ゲルハルトの顔がぐしゃっと歪んだ。
泣き出しそうなあまりに笑ったような顔になった叔父は、何度も、何度も、レオンに向かって頷いた。
そして、ふっとその場から、男の姿は消え去った。





夏休みのオトモ企画 検索ページ