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1 竜たちの夜




 その夜、クルトは雷竜国ドンナーシュラーク宮の離宮の一室で、寝台の中にもぐりこみ、ぐっすりと眠っていた。

 と、その頬をそっと何度かつつくものを感じて目を開けた。


《起きてください、クルトさん》


 それは、いつもの夜の大きさになった白い竜のニーナだった。

 クルトは目をこすりながら身を起こした。


「え? なに、ニーナさん……」


 いま、竜としての力を操るようになったニーナには、こうして普通の人間であるクルトとも意志を通じることが可能になっている。前はレオンとしか話すことがかなわなかったのだったが、こうなってもらえたことは幸いだった。


《レオンが、わたくしを呼んでいます。風竜神さまが、わたくしをお招きになっていると……。風竜国フリュスターンで、今から何かが始まるようなのです――》


 それは思念による言葉だったけれども、それでも十分に彼女の緊張が伝わってきた。

 まだ半分寝ぼけていたクルトの頭が、驚くべきことを告げられたことを理解するに従ってはっきりしてきた。


「え、じゃあ、今から風竜国に行くの? ちょ、ちょっと待っててよ、ニーナさん! 準備するから!」


 頷いた竜を見て、クルトは慌てて飛び起きた。

 もちろん、ついて行くつもりだった。クルトは大急ぎで夜着を脱ぎ捨て、いつもの服を身につけ始める。足首までの革製の短靴を握り、それを履きかけながらももどかしくて、跳びはねるようにしながら扉をとびだす。そうして、隣の部屋で寝ているはずのカールを叩き起こしに走った。

 そうして、いつもの肩から掛ける頭陀袋の中身を素早く確認し、急いで旅支度をととのえた。

 カールもそこはさすが軍人らしく、身支度は手馴れたものだ。すぐにいつもの軍服姿になって長剣を手挟たばさむと、背嚢をしょって現れた。ただし、癖のある赤毛はいつもにも増してもしゃもしゃのままだったが。

 彼は側付きになってくれている召し使いたちに事情を話し、雷竜王エドヴァルトへその旨の伝言を頼んでくれた。


 準備を終えて飛び出て行った離宮の中庭では、すでにニーナがいつものように、大きな姿に変化へんげして待っていた。

 煌々と明るい月に、白銀の鱗がきらめいている。濡れたような蒼瑪瑙色あおめのういろの瞳はいつものように優しく、まことに優美な姿だった。


 カールとクルトを背に乗せると、ニーナはふわりと宙へ舞い上がった。

 いつものように、ほとんど衝撃を感じない飛翔だった。クルトとカールの周りには魔力による空気の壁が作られている。

 そうして、あっというまにニーナは雷竜宮をあとにした。




◆◆◆




 レオンハルトとゲルハルト、王族二人の姿が岩山の陰に隠れて見えなくなってから、縛り上げたムスタファと刺客の男を囲むようにして、残された一同はそこで彼らの帰りを待っていた。

 ミカエラは相変わらず、凄まじい怨念のこもった瞳でじっとムスタファを睨みつけていたけれども、ファルコはずっとその傍らに立ち、女の様子を観察していた。


 と、急にずずずず、と足許から何かがせりあがってくるような轟音がし始めた。

 眼下に見える森の中から、眠っていたはずの鳥たちがざあっと、まるで黒い雲霞のごとくに飛び立ったのが見えた。かと思うと、「竜眠る山」の頂あたりを覆っているもやがぐるぐるとゆっくりした渦をまき、その面積を広げ始めた。


(なんっだ、ありゃあ……!)


 ファルコはその鷹の目をかっと見開いて空を睨んだ。

 先ほどまでそこにあったもやとは違う、もっと真っ黒くて濃い煙のような雲がどんどんと湧き上がり始めている。その雲の織りなす巨大なうねりの中にばちばちと音を立てて閃いているのは、まぎれもない稲妻だった。

 周囲の空気が、焦げたようにきな臭いものになる。

 白や黄色、薄紫に光るその不気味な光は、水の中にインクを落としたようにして広がってゆく黒雲のなかのあちらこちらで閃いて、嫌でも周囲の皆を不穏な予感に落とし込むようだった。


 と、突然、耳の中にレオンの声がした。


《跳べ、ミカエラ。みなを連れて、ここから離れろ!》


 本能的に、その場にいた皆がミカエラを見た。どうやら、皆の頭の中に同じ声が響き渡ったらしかった。

 ミカエラも今は驚いた顔で、困惑した目でファルコの顔をちらっと見た。

 彼女は明らかに、どうすべきかを迷っている様子だった。

 レオンの方でも、そうと見て取ったらしかった。


《今は躊躇するな。風竜神さまが降臨される。『祈願の儀式』だ。その場にいては、みな死ぬぞ!》


 レオンのその声と、山頂で何かが爆発したかのような轟音が轟いたのとは同時だった。足許を揺るがす鳴動がどんどん激しさを増してゆく。

 そこで初めて、ファルコはぐいと女の傍らに近づいた。


「ああ言ってんぜ。今はそうしたほうがいいだろうよ」


 ミカエラはこちらを見上げて、ちょっと不快げに眉を顰めた。

 彼女にしてみれば、恨み骨髄であるはずのムスタファやその一味の者まで、命を助けてやる義理などないのだろう。彼女の顔からその内心を見て取って、ファルコはちょっと肩を竦めた。


「この爺さんたちにゃあ、まだやってもらわなきゃなんねえことがある。ここはこらえな。ここで死なれちゃ、あとあとかえって面倒なことにならあ」

 ミカエラはほんの少し沈黙し、縛り上げられたムスタファや暗殺者の男をじろりと見たが、やがて面倒くさそうに頷いた。

「……分かったわよ」

 そう言うと、女はさっと片手を上げた。


 次の瞬間、彼らはテオフィルスやヤーコブ翁、そのお付きだった士官らもともどもに、ひとり残らずその場から姿を消していた。



 ぐらぐらと、少し吐き気のするような感覚をひきずりながら次に目を開けると、ファルコは先ほど一緒にいた人々と共に、もといた会談の場、あの草原の草地に降り立っていた。

 そこに残してきていた各国の兵士たちも、がたがたと揺れる地面の様子や「竜眠る山」の不穏な姿に、みな天幕の中から出てきてそちらを見上げているところだった。


 山のはるか上方では、先ほどの巨大な雲の渦がもくもくとまだ成長を続けている。空に輝いていた星々が、その影に覆われてどんどん見えなくなってゆくのがわかった。

 空の雲と山との間に、幾すじもの稲妻が稲光りとともに突き刺さっては、ちかちか、ぴかぴかと点滅していた。

 そのたびに、ごおん、どおんと心臓を破るような爆音が聞こえている。耳をおさえていなければ、鼓膜をやられそうなほどだった。


 ふと傍らを見れば、さすがのミカエラも少し色を失ったような顔で、呆然とその様子を見つめていた。細い肩を両手で抱きしめるようにしながら、じっとあの山を見つめている。

 その瞳の中にあるのは、ただ恐れと、あの男の身を案ずる色だけのようだった。

 それはなんだか、こんな場面とはとても場違いな、ただの普通の女としての表情のようにも見えた。


 ファルコはひょいと腕を伸ばして、女の肩を抱き寄せた。

 それは、ごく無意識のことだったと思う。

 ミカエラもそれには抵抗しないまま、ファルコの胸に頭をつけるようにして、じっと山のほうを見つめていた。


 と。

 兵らの誰かが、突然、叫んだ。


「なんだ、あれは……!」


 男の指差す先、空の上。

 黒雲の間に、稲妻が閃きたっている、その中に。

 

(ありゃあ……)


 ファルコも、見た。


 うねうねと、なにかまことに巨大な巨大な、

 鱗につつまれた長い縄のようなものが、

 その滾々(こんこん)と湧き上がる黒雲のなかを、

 ごくゆっくりと流れてゆくのを。




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