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4 翠(みどり)の女




「やめて……!」


 ニーナの叫びは、虚しかった。

 大剣を持たない今のレオンにとって、武器をもった手練てだれの男らのましらのごとき攻撃をかわすべなどほとんどなかった。

 一人があっという間に馬の腱を切り裂き、もう一人が首もとを深々と抉るのを、クルトは呆然とただ見ていた。


「レオンっ……!」

「おっさ……」


 ぶしゅっと嫌な音がして、馬の首から鮮血が迸る。

 そうして、腱の切られた足が蹈鞴を踏んで、馬はどうっとその場に横倒しに倒れてしまった。それでも立ち上がろうともがくのだったが、口から血の色の泡を吹き、どうしても立ち上がれないで足掻いている。


「レオン……!」


 叫びながら、その前にニーナが飛び出してきて、更に馬に剣戟を加えようとする男らに立ち向かった。

 ぎいんっ、ぎゃりり、と鋼のせめぎあう音がする。

 ニーナは自分の倍はありそうな太さの腕をした男らにも押し負けず、彼らと何合も斬り結んだ。その碧い瞳は怒りに燃え上がっている。

 彼女の動きは非常に身軽なもので、こんな場面でなければ、なにか剣舞でも見ているかのように華麗に見えた。それはさながら、物語に出てくる戦姫のようだった。

 しかし男らは、自分たちと切り結んでいる相手の力量にやや驚いたように、やがて後ずさり、剣を引いた。彼らにとっても、ニーナのこの反撃は意外なものであったらしい。

 そこからは間合いを取って、決して自分たちからはニーナへ斬りかかろうとはせず、円を描くようにしてじりじりとニーナと馬の周囲を回るようにし始めた。


 そうこうするうちにも、馬の首からはどんどん出血が続いている。

 明らかに、こちらの旗色が悪かった。

 ニーナの瞳に、悔しげな苦渋の色が浮かんでいる。

 彼女はやがて、一度ぎゅっと目を閉じ、静かに息を吐き出して剣を下ろした。このままでは、レオンが危ないと判断したようだった。


「……わたくしが、けばよいのでしょう。彼らにこれ以上の手出しは許しません」


 ニーナが全身から放っているは、それでも相変わらず凄まじいものだった。

 まさに相手をそれだけで灼き尽くさんというような眼光で、彼女はひたと眼前の男らを見据えている。


「それとも――」


 そしてニーナは、ぴたりと、ごく無造作に自分の剣を自分の喉もとにあてがった。

 男らが、無言のままにもはっと息を飲んだのが分かった。


「あなた方の()()()に、わたくしのむくろを捧げ持って帰りますか。……どうなのです」


 場には重苦しい沈黙が下り、吹きぬけた一陣の風にあおられて、乾いた落ち葉がかさこそと音を立てた。

 

 しかし。

 両者の睨み合いは、さほど長くはもたなかった。

 男らはすぐに諦めたように剣を引き、ニーナに武装を解くことを要求した。


 クルトの身体を恐るべき膂力で封じていた男は、クルトを無造作に地面に放り出し、ニーナが後ろ手に荒縄で拘束され終わるまで、その体の上に足を乗せて動けなくしていた。悔しいことに、体重を乗せてただそうされているだけで、クルトに出来ることは何もなかった。

 ニーナは表情も変えないで男らにされるがままになり、やがて男の一人にこう言った。


「わたくしの腰の革袋を、その子に」


 そうして、先ほどの恐ろしい目などまるで嘘だったかのような、ひどく優しい瞳に戻って、クルトに微笑みかけた。


「お願いです。それをどうか、……レオンに」


 男の一人が、やや逡巡したように仲間の二人とほんの僅か目と目で会話したらしかった。しかし、「心配いりません。ただの薬です」というニーナの言葉を聞いて、慎重に革袋の中味を確認してから、やがてそれをクルトの目の前に放って寄越した。

 見れば、それはいつもニーナが食事の代わりにときどき口に入れていた、あの不思議な木の実のようなものが入った袋だった。

 どうやら男らは幸いにも、その「飼い主」からこれについての知識は与えられていなかったらしい。


「彼の、口と傷に……。お願いします」


 ニーナはそう言って、高貴な人らしからぬしおらしい仕草でそっとクルトに頭を下げた。それは明らかに、「あなたを巻き込んでごめんなさい」という意味であるようだった。

 それから、ひどく悲しげな目で足もとに倒れた黒馬を見下ろした。

 黒馬は荒い息をつき、躍起になって立ち上がろうともがいていたが、そうすればするだけ、首からの出血がひどくなっているようだった。


「……参りましょう」


 まるで、自分が一行の主ででもあるかのように、ニーナは男らにそう言って、自分から先頭に立つようにして歩き出した。

 唇を引き結び、きりりと頭を上げて、あとは一切、後ろを振り向くこともしなかった。



 木立の向こうに彼らの姿が見えなくなって、クルトは目の前に落ちていた革袋をつかみ、這うようにして黒馬の方へと近づいた。

 黒馬は相変わらず呼吸が早く、血走った隻眼をぎょろつかせていたが、先ほどまでのようにはもう動かなくなっていた。見れば、全身に滝のように汗をかいている。そこから森の冷気の中に湯気が立ちのぼっているのが分かった。


「おっさん、口、開けてくれよ……」


 重い身体をひきずって、クルトはどうにか馬に近寄り、袋からあの木の実のようなものをとりだして、一粒、馬の口に入れた。そうして、ニーナに言われた通り、首と、足や胸の傷のところにも一粒ずつ入れてみた。

 馬は血の混じった桃色の泡を吹きながら、浅く呼吸を繰り返している。

 その目を見ているうちに、クルトは次第に、ぞうっと背筋に、発熱によるのではない寒気を覚えはじめた。

 その瞳孔が、明らかに開きつつある。


 馬はもはや、死の淵にいるのだった。


「おっさん……」


 そう言ったつもりだったが、クルトの声は掠れきっていて、木枯らしの音みたいにしか聞こえなかった。


 いやだ。

 まさか。

 馬が、男が死んでしまうなんて。

 

 こんなことで。

 こんなにも、呆気なく――。


「やだ……よ、おっさ……レ、レオン……!」


 クルトは汗びっしょりの黒馬の身体にとりすがって、それを揺すった。

 馬はもう、殆どなんの反応もしない。

 慌てて胸のあたりに耳をつけてみたら、心臓の音がことん、と鳴って、以降聞こえなくなってしまった。


(う、そだ……!)


 馬の瞳孔は、どんどん開いてゆく。

 それと同時に、その身体が不思議な光に包まれ始めた。

 驚いて見ている間にも、馬の身体は発光しながら収縮してゆき、やがてそれが人の形を成し始めた。


 馬の身体が、もとの人間としての姿を取り戻しつつあるのだとわかって、クルトは愕然とした。

 それはつまり、彼の命が尽きようとしているという意味だと思った。


「やだ……! ばっきゃろ、なに死んでんだよっ……!」


 クルトは人の姿に戻ったその身体にかじりついて、そんなことを喚き散らしながら、彼の身体を滅茶苦茶に揺すり続けた。

 それでも男は、うんともすんとも言わない。首もとと足には無残な傷がそのままで、その顔には全く血の気がなかった。


「そん、な……。そん……」


 彼を死なせてしまったら、彼女にどう顔向けすればいいというのか。

 彼女はこんな自分を信じて、彼のことを任せてくれたのに違いないのに。


「ニーナさん、どうすんだよっ……! 助けに行かなきゃだめじゃんかっ……!」


 この男が行かないで、だれが彼女を救うのか。

 言いながらもう、前が見えなくなってゆく。

 気がつけば、クルトは仰向けに倒れた男の胸にすがって、わあわあ大声を上げて泣き喚いていた。

 「バカ」とか「根性なし」とか、とにかくありとあらゆる悪態を投げつけながら、森にこだまするぐらいの大声で。



「うるさいわね。ちょっと静かにしてくれないかしら」


 と、突然、頭の上から澄んだ冷たい声がして、クルトは心底、驚いた。

 目を上げると、今の今までだれもいなかったはずの場所に、一人の女が立っていた。


(え……?) 


 ぎょっとしてその場に固まり、クルトはレオンの身体にとりすがったまま、女の姿を凝視してしまう。

 昼日中ひるひなかだと言うのに、気がつけば何故か森の中が夕刻のように薄暗くなっていた。そして何か、気温も夜のように低くなっているような気がした。


 女は、あのニーナとはまた違うが、非常に美しい顔立ちをしていた。

 長くて緩やかに波打った豊かな黒髪と、陶器を思わせるようなつややかな白い肌。瞳は不思議な青紫色ヴィオレットで、その中心に、ニーナが竜の姿のときのような、縦に細長い金色の虹彩を浮かべている。

 体つきは、細身のニーナよりもずっと肉感的なもので、やや背は低いかも知れなかった。その目つきも真っ赤な唇も、ニーナよりもかなり妖艶な色を湛えていて、濡れたように甘い、妖しげなものを匂わせている。

 女は、レオンの瞳の色とよく似たような、みどりの長いドレスを身に纏っていた。肩からはフードのついた黒いマントを流している。

 ぱっと見た感じだが、その姿はなんとなく、全体的にレオンのそれに似ている気がした。


 女は雲の上でも歩くかのような足取りで、無造作にこちらに近づいてくると、クルトを突き飛ばすようにして、レオンの身体の脇に膝をついた。


「……ほんと、苛々させられるわね。だから言ったのよ、レオンハルト。あんな女に懸想しても無駄だって」


 その言葉は冷ややかだったが、男を見つめるその目は対照的に、ひどく熱いものを漂わせていた。

 クルトはただ、黙って震えながら女を見ているしかできなかった。不思議なことに、身体が金縛りにでもあったかのように、いっさい動かせなくなっているのだ。

 女はまるで、近くにクルトがいることなど歯牙にも掛けない様子で、倒れたレオンの身体にしなだれかかった。ふくよかな胸を、彼のそこに押し当てている。

 女がそのまま、固く目を閉じたままのレオンの唇に、そっと自分の柔らかくて真っ赤なそれを押し当てた。それをただ、クルトは呆然と眺めていた。


 それは、竜の姿をしたニーナが同じことをした場面とは雲泥の差だった。あの時は、非常に気恥ずかしいながら、クルトは温かみだとか、優しさだとか、胸の痛くなるようなせつなさだとか、そういったものを嫌と言うほど感じたのだけれども。

 ここにあるのは、それとは別の、熱いけれどもねっとりとした、なにか厭わしいものだった。

 少年の身のクルトには、それを表現する語彙はない。

 しかし、肌で覚える感覚として、それは嫌悪すべき何かに違いなかった。


「……さあ。もう分かったでしょう? あの女のことなんて忘れるの。もう故郷くににもどりましょうよ」


 女は、目覚めないままのレオンの耳もとで、夢見るような表情を浮かべてそんなことを囁いている。赤く塗られた爪に彩られた細い指先が、さもいとおしげに彼の頬を撫でていた。


「あなたは、あんな女の下に仕えるような身分じゃないのよ? いつまでこんな茶番を続けるつもりなの――」


 女の声はひどく甘い響きを帯びている。それは聞く者の耳朶に蜂蜜のように流れ込み、相手をとろかすような類いのものだった。

 まるでそれは、森に棲む悪戯好きの妖精や小人たちが旅人を惑わせる、昔話かなにかを目の前に見せられているようだった。

 いや、彼女は正しく「魔女」と言うべきだったかも知れない。


「や、……めろ」


 とうとう、クルトはいう事を聞かない自分の喉を叱咤して、それを振り絞って声を出した。それはやっぱり、掠れてがらがらとひどく聞き苦しいものだった。

 女がちらりと、目だけでこちらを見たようだった。


「は……なれろ。レオンから、はなれろよ……!」


 「触るな」、と思った。

 何故だか知らないが、とにかくクルトは、レオンの身体にニーナ以外の女が触れるそのことに、我慢ならないものを感じていた。


「うるさい小蝿ね。先に始末しておくべきだったかしら」


 女の柳眉がぴくりと跳ね上がり、真っ赤な唇が気味の悪い三日月の形を作った。

 色とりどりの紅玉ルービン蒼玉ザフィーヤの嵌まった豪奢な腕輪をした華奢な腕が、すうっとクルトに向かって上げられた、次の瞬間。


「ぐっ……は!」


 凄まじい力でその喉を絞り上げられる感覚があって、クルトは息も出来なくなった。

 女の手は喉に届いていないにも関わらず、ぎりぎりとそこを幾重にも荒縄で縛りあげられたような、強烈な締め付けが加えられていた。

 目の前がちかちかしたと思ったら、あっという間に真っ暗になってゆく。クルトは必死で、虚しく自分の喉を掻きむしった。


 ……死ぬ。

 殺される。


 いやだ。

 いや、だ――。


 そう思いながらも次第に、クルトの意識は遠のいていった。




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