5 沼の淵
「待てって。おい、コラ!」
夜の屋敷の廊下を、男はずかずかと大股で、先を走ってゆく女を追いかけている。
女の足は、思った以上に速い。長いドレスの裾が舞い上がり、ふわふわと薄暗い灯火の明かりの中、濃い影を揺らしながら駆け去ってゆく。
磨き上げられた廊下の上に、女の靴のかかとがたてる硬質な音が響いていた。
(ちっ……。しょうがねえな)
女がなぜあの場に居たたまれなくなって逃げ出したのか、その理由はわかっていた。
分かってはいるけれども、だからと言って自分は別に、それを餌にこの女と話をしようとは思わない。
なんのかんの言って、この女はその実、隙だらけだ。わざわざそんな話を振って、隙を窺う必要もないぐらいには。
確かにその魔力は凄まじいし、本気で殺しにかかられたら、たとえ自分でもひとたまりもないことだろう。しかし。
(中身はてーんで、餓鬼みてえでやがるからな――)
さきほど、かつてレオンの乳母だったという老女の口から語られた、クレメンスという男。王の側近だったというその人物が、要はこの女の父親なのだろう。
そしてその男は、あまりにも王に近い側近であったがために、あの事件の後、当主だった祖父ともども、早々にムスタファ一派に捕らえられ、ろくな裁判もされずに命を奪われたはずだった。
そのあたりのごたごたについては、当時はファルコもまだほんの子供だったことと、すぐに国外へ逃亡せねばならなかったこととであまり詳しくはない。
ただ彼女の生家であるアイブリンガー家の残された家族たちは、当然、悲惨な状況に追い込まれたはずだった。まだ若かっただろう奥方、つまりこの女の母親だとて、ムスタファ一派の貴族の誰ぞかの愛妾にでもされたのではないのだろうか。
そしてもし、この女もその母と一緒に、色ぼけしたひひ爺いに囲われていたのだとしたら――。
そこまできた自分の思考を舌打ちによって追い払い、ファルコは前を行く影に向かって大声を出した。
「待てっつうの! おいって……!」
ごくわずかなものではあるが、ここでひとつの希望だと思えるのは、この女が今、その魔力を使ってまで自分から逃げようとはしていないことだ。
この女が本気で逃げるつもりなら、只人の自分なぞ、例の「跳躍」の魔法を使っていとも簡単に撒けることは実証済みだ。だからこれは、「追いかけて来い」と言われているのに等しい。
本当に追われたくないのなら、逃げるにしろ殺すにしろ、それこそこの女の指先一本で好きにできる状況なのだ。
……だから。
これは、単なる児戯だ。
と、ミカエラが自分の部屋の扉を乱暴に開いて、きっとこちらを睨んだ。
「おい、かけて……こないでよっ……!」
息があがって、言葉が途切れとぎれになっている。
「って。本気で逃げてもねえくせに」
つい、思っていたことをそのまま口に乗せながら、ファルコは構わず、ぐいぐいと大股に女に近づいた。
女は部屋の中に飛び込むと、急いで扉を閉めようとする。
しかし、ファルコの手の方がはるかに早かった。素早く扉の縁に手を掛け、足先を隙間に突っ込む。仕事柄、こういうことは手馴れたものだ。
ミカエラがどんなに押しても引いても、もう扉はぴくりともそこから動かなくなった。取っ手を握り締めたまま、女はぎりっとまたファルコを睨みあげた。
(まーた、そんな表情しやがってよ。)
ファルコはすっと目を細めながら思う。
先日、あのレオンの部屋から飛び出してきて、もろに自分に激突したときも、この女はこんな顔をしていた。
小さな子供がよくやるような、泣き出す寸前のような歪んだ顔。
しかしこの女はもちろん、自分に涙など見せようとはしないけれども。
それが癪なんだか楽しいんだか、自分としてもどうもよく分からないところが問題だが。
ファルコは、ミカエラがそれでも必死に扉を閉めようと四苦八苦しているのを見下ろしながら、平然とそれを阻止しつつ、空いたほうの手でばりばり頭を掻いた。
「……あのよ。別に悪さなんぞはしねえからよ。とりあえず中、入れてくんね?」
「…………」
ミカエラはそれでもたっぷりと時間をかけてファルコを睨みつけていたけれども、とうとう諦めたようにして扉から手を離し、部屋の中へ足早に入っていった。ファルコも惚けた顔のままそれに続く。
部屋の中はすでに燭台の灯りがともされていたが、だれもいなかった。
先日、彼女が葡萄酒に見せかけた飲み物を飲んでいた、あの部屋である。
ミカエラは不機嫌な顔のまま、つかつかと部屋の奥へゆき、先日と同様、そこにあるソファに座り込んだ。
「なんですの? 話があるなら、さっさと終わらせてくださらない?」
そっぽを向いたまま、苛々と告げられる。
「あ〜。うん。ま、話っつうほどの話じゃねえけどよ。さっきのおばちゃんが言ってた『クレメンス』っつうのが、要するにあんたの親父さん、ってことでいいんだよな?」
「…………」
ミカエラは一瞬、ぴくりと眉を不快げにひそめたが、諦めたような顔で軽く頷いた。ソファに沈み込んだまま足を組み、テーブルに肘をついて窓の外を眺める風である。
「んで、親父さんはあの事件のあと、早々に死罪になって処刑された。爺様もそうなんだよな?」
女は無言で、やっぱり窓の外を見ている。
ファルコは構わず先を続けた。
「で、そのあとはどうなったのよ? 赤ん坊のあんた抱えて、おふくろさんはどうなった」
「…………」
ミカエラは嫌そうに、菫色の瞳をほんのちょっと動かしてこちらを見たが、また視線を窓の外に戻した。どうやら話す気はないらしい。
「ま、『推して知るべし』だっつうのは分かってるけどよ。けど俺は、あんたの口からちゃんと聞いておきてえのよ」
「…………」
「もちろん、あの野郎には話さねえ。約束するからよ」
「あの野郎」というのはもちろん、レオンのことだ。
ミカエラはややこちらを訝しむような目でじっと見返してきた。ファルコは軽く肩をすくめる。
「もし俺が約束を破ったら、そん時ゃ殺るなりなんなり、好きにすりゃあいい。そんなもん、お手のもんだろ?」
大いに皮肉をまぶした声音でそう言って、にやりと笑ってやったら、ミカエラはさらに機嫌が悪くなったようだった。
「どうして、わざわざ……」
どうしてわざわざ、そんな話を聞きたがるのか。
いや、どうしてわざわざ、そんな話をお前にする必要があるのか。
その言葉には、両方の意味が含まれているようにも思えた。
「さてなあ……」
ファルコはちょっとまた首のあたりをさするようにすると、ミカエラからは少し離れた長椅子にどかりと腰を掛けた。
「なんで聞きたいと思うのか、そのへんは俺にもよくわかんねえ。……けど、あんたは今まで、そいつを誰にも話さなかった。違うか?」
「…………」
その沈黙は、答えが肯定であることの証だろう。
「孤児になった俺のことを育ててくれた、土竜の山師の親父が、よく言ってたぜ。ああいう仕事をする人間は、そんなに人と話をしねえ。そうすっとよ、だんだん、それが当たり前になっちまう。んで、気がついたら心の中のいろんな、いろんなもんが固まって、ほんとは流しちまわなきゃなんねえようなことまで凝り固まってよ。そのうち、心が松脂みてえなもんで、びっしり覆われちまうんだってな――」
「……何がいいたいの」
いらついたようにこちらを見た女に向かって、ファルコは「まあ聞けよ」とばかり、無造作に片手を上げた。
「そうなっちまうと、ほんとは人間のはずなのに、山の動物やなんかと大して変わんねえもんになっちまう。それで、いつか自分が人間だってことすら忘れちまう。ま、それでもなんかの恨みつらみがあるんじゃなく、自分からそうしたくてしてるんならいいんだがよ。森の木や水とおんなじような者になって生きる、まあ世の中にゃあそういう修行だってあるぐらいだし。山奥の寺院なんかにゃ、そんな爺さんがたがいたりもするしよ。だから、それはそれでいいだろうけどな」
「…………」
ファルコはそこで、こちらをひたと見据えている女の目をまっすぐに見て言った。
「けど……あんたの場合は、そうじゃねえだろ」
親を殺され、汚されて、自分自身も相当のことをされて生きてきたこの女。
その過去の恨みは、さぞや深いものだろう。
その過去があるからこそ、この女はここまで歪んでしまった。
そもそもは、あの老女が語ったように、明るく爽やかな父と母に愛されてなに不自由なく健やかに育つはずの娘だったこの女が。
「ま、今すぐ話せとかは言わねえが。べつに、相手は俺でなくっても構わねえだろうし。けど、いつかは話したほうがいいぜ。んで、どっかにそいつを放してやんだよ。いつまでも身体ん中、そんなもんで腐らせていねえでな。もしあんたがいつか、そいつを話してみてえと思うんなら、俺で良けりゃあ聞いてやるぐらいはできっからよ」
「…………」
それでも、ミカエラの焦眉は開かない。
そんなことはファルコとても百も承知の上だった。
だが、この際、これだけは言っておこうと思ったのだ。
「こう言っちゃなんだが、あの野郎にゃきっと、受け止めきれねえよ? クソ真面目すぎんだよ、あの野郎は。良くも、悪くもな。んだから、それ聞いちまったが最後、今よりもっと、あんたを『愛さなきゃ』とか、『大事にしてやんなきゃ』とか、大真面目に考えちまうわ。分かるよな? そのっくれえは、あんたにも――」
「…………」
「……でも、あんたが欲しいのはそんな、つまんねえもんじゃねえだろ」
ミカエラがきゅっと、きつく唇を噛み締めたようだった。
それは、そうに決まっている。
「義務」やら「義理」やらで与えられるそれぐらい、虚しいものはないからだ。
この女はあの男を、飢えた獣さながらに求めながら生きてきた。
けれども、飢えるように求めてきたそれが、実は自分の求めていたものを決して与えてくれないという事実に気づいてしまったら?
そしてこの先何十年も、まがいもののそれを抱いて、生きていかねばならないのだとしたら……?
(そんなもんは……地獄だろうよ。)
それはきっと、この女にとって、単にそれを支えに生きていた頃よりもはるかに悪い事態を招くに違いない。
そしていま、この女はその淵に立っているのだ。
底なしの絶望の沼の淵で、かろうじてまだ岸に立って、危うくふらふらしながらも、どうにかそのどろどろの泥濘に足を踏み入れずに立ち尽くしている。
「……そこで、踏みとどまれるかどうか。そこがあんたの殺所だぜ」
「…………」
「もちろんここまでだって、大概、踏み外してるたあ思うがな。随分と関係ねえ奴、手に掛けても来たんだろうし」
皮肉のこもったファルコの言葉を、ミカエラはじっと、暗鬱な瞳で見返しながら聞いている。
「あの野郎には、そんなアンタを懐に入れるまでのことはできても、その先はねえと思うぜ? ってえかそもそも、『その先』にはもう、住んでるお方がいらっしゃるしな――」
「……!」
途端、ミカエラがかっと目を見開いた。
一瞬、その中にあの竜の虹彩が金色の光を帯びてぱくりと口を開けたのが分かった。
しかしそれも、ファルコのごく落ち着いた瞳と目が合うと、急にしぼんで、もとの菫色に戻っていった。
「…………」
ミカエラは、何も言わなかった。
最前と同様に、至極不機嫌そうな顔のままソファに座り込み、ファルコなどそこにいないかのような顔で窓の外を眺めているばかりである。
かちかちかち、と、またその爪に悪い癖をぶつけながら。
ファルコもそろそろ頃合いかと見切りをつけて、長椅子から立ち上がった。
「ま、そんなこった。悪かったな、長々と」
半身になって「そんじゃな」とだけ声をかけ、来た時と同様、さっさと部屋を後にする。もう振り向くこともしなかった。
レオンたちのいる部屋へまたぐいぐいと大股に戻りながら、ファルコは指先でちょっと頬のあたりを掻きつつ、少し肩を竦めていた。
(な〜んか、似合わねえことしちまったな――)
自然に湧きあがってくるのはそんな、自嘲気味の思いばかりだ。
自分自身、こんな風にのんびりと女の部屋でおしゃべりなぞする人間だとは思わなかった。
「だ〜っ! ったく、調子狂いっぱなしだぜ――」
鳩尾のあたりがむずむずして、ファルコはまたがしがし頭を掻いた。
どうも自分は、あの女の前だといつもの調子が出ないようだ。
本気でモノにする気があるなら、いつもの自分ならもっと、今の何倍も積極的に行く。しかし今回、事態が事態なだけにそうもいかない。
というかいつもの自分だったらとっくに「ああもうめんどくせえ」の一言で、あんな女のひとりやふたり、思考の外に放り出しているだろうに。
それをしない、出来ないということが、すでにその答えを出しているということか。
「あ〜っ。やっぱ、めんどっくせえ……」
ファルコは廊下の真ん中で立ち止まり、腰に手を当てて一度天を仰ぐようにしてから息をついた。そして、首をぐるっと回してごきごき音を立て、また大股にずしずしと廊下を真っ直ぐに歩いていった。





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