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2 老女デリア


        


 老女は、いつものように小さな二人の孫をつれて、村の中央部にある広場で井戸から水を汲もうとしていた。

 息子とその妻、つまりこの子たちの両親が野良仕事に出ている間、このきょうだいの面倒を見ながら家周りの仕事をするのが今の彼女の日課である。

 からからと乾いた音を釣瓶つるべに立てさせ、水をくみ上げて、持ってきた大きめのかめや桶に移すと、老女は孫たちにも手伝ってもらいながら、またゆっくりと家路をたどり始めた。少し片足をひきずるようになるのは、かつての古傷のせいである。


 なんということのない、いつもの風景である。

 春先の爽やかな青空を、春を告げる鳥たちが、ぴいよろろと鳴きながら飛びすぎてゆく。


「よいしょ、よいしょ……」


 彼女の孫は、男の子と女の子の二人だ。上の男の子が八歳、下の子は六歳。

 二人は真っ赤な顔をしながら、子供が持つにしては大きな桶の取っ手を二人で持って、ぐらぐらさせながらついて来る。

 甕は自分の頭の上にのせ、桶は孫たちがふたりで力を合わせて、よろよろしながら運んでくれる。


「気をつけるのよ。あまりたくさん、水をこぼさないようにね……」


 目を細めてそんなことを孫たちに言いながら、女は頭上の甕を支えて、ちらりと北方の空に目をやった。


 のどかなこの土竜国の田舎の村へやってきて、もう二十年以上が過ぎた。

 近頃ではもはや、故郷の町を思い出すことも少なくなっている。

 かつて、故郷である隣国の高貴な方々の間で起こった恐ろしい事件のことも、もう記憶の奥底に封じ込めて、ほとんど思い出すこともない。今ではもう、あの悪夢に驚いて夜中に目を覚ますようなこともなくなり、自分はこの安らかな毎日にただ感謝して生きているのだ。


 村はずれにある自分たちの家に通じる、田舎道をゆっくりと戻る。

 片側には広い牧草地が広がって、牛や羊がのんびりと草をんでいる。まだ肌寒い季節ではあるが、北の故郷の国とはちがい、土竜国の春は早いのだ。


 と、道の反対側の木立の中からばらばらっと数名の男らが現れて、老女ははっとした。

 男らは顔の下半分を布で覆って隠しており、それぞれが長剣や短剣、それに鎖のついた大きな分銅のようなものを提げた物々しい出で立ちだった。

 咄嗟に、盗賊や山賊のたぐいかとも思ったけれども、その身のこなしがかつてかの国の王宮でよく見たことのある武人たちのそれに酷似していることに、老女はすぐに気がついた。


「ひいっ……!」


 子供たちが持っていた桶を取り落とし、ばしゃりと地面に水が撒き散らされる。

 男らのうち二人が素早く、子供たちを後ろから羽交い絞めにして、その首元に刃物をあてがった。

 女は驚いた拍子に、自分も頭から甕を落としてしまった。素焼きの甕は地面に激突し、がちゃんと派手な音を立てて散らばった。


「な、何者です! あなたたち……! 子供たちを放して!」


 女が思わずそう叫ぶと、男らの中でひときわ体格のいい者がぎらっとその瞳を光らせたようだった。


「ほう。こんな田舎住まいのご婦人とも思えない言葉遣いでいらっしゃる。実はそれなりの家の出の御方とお見受けするが。名を聞いても構わぬだろうか」

「……!」


 老女はさっと顔色を変えた。

 

(いえ……まさか。)


 そんなはずはない。あの悪夢は、北の国の事件はすでに、二十年以上も前に終わった話だ。今ではかの王の弟殿下が安らかに国を従えておられるはず。

 しかもここは、土竜国。いまさらかの国のやんごとなき御方が、自分ごときの命を狙ってくるなどは考えにくい。


 男はずいと一歩、女のほうに近づいた。

 厚い胸板をしたその男は、彼女より頭二つ分は大きかった。

「素直に答えれば、子供らに手出しはさせん。そなた、かつて風竜国の王宮に仕えたデリアと申す者であろう? いかに」

「…………」

 女は唇を引き結んだ。


(やはり――)


 まさか、自分ごときをこんな年数が経ってから追う者が現れるとは思わなかった。

 女は身体じゅうががくがく震えるのを止められなかった。


「正直に答えれば、子供らは無事に家に帰してやる。まあ、そなたは我らと共に来てもらうことになるがな」

 男は持っていた長剣で無造作に肩のあたりをとんとんと叩きながらそう言った。

 周囲には、男らと自分たち以外にだれもいない。助けを呼ぼうにも、誰にも声など届くはずがなかった。まして自分は、この年である上にこの足だ。とても逃げられるものではなかった。

「では、頷いてくれるだけでもよいぞ。そなた、かつて風竜国の王宮に仕えておった、デリアと申す乳母の女だな。間違いないか」


 どうやら男は、女がひたすら無言でいるのを自分たちに対する恐怖によるものだと勘違いしたようだった。特にこちらに対して恨みや嗜虐の意図があるようではないところからして、これは飽くまでも彼らにとっては仕事であるに過ぎないのだろう。つまり、彼らにこれを命じた者がいるということ。


「お、おばあちゃん……!」


 男につかまっている孫娘がもう、泣き出しそうな顔で真っ青になって震えている。兄である少年は必死に歯を食いしばっているようだったが、それでも恐怖に顔をひきつらせていた。

 女は一度、かれらに「大丈夫」と言うように静かに頷いて微笑んで見せてから、背筋を伸ばしてその大きな男をぐっと見返した。


「……孫たちを、お放しください。おっしゃる通りにいたしますから」

「返事が先だぞ」

 男の声がぐっと低くなり、やや剣呑な色を帯びた。

「そなた、デリアで間違いないか」

 女は頭を上げたまま、毅然とした声で答えた。

「……いかにも、おっしゃる通りにございます。わたくしはデリア。かつて風竜国フリュスターンの王宮にて、王太子殿下の乳母を勤めおりました者にございます」


 それを聞いた途端、男らはそれぞれ、ちらっと互いの目を見交わしたようだった。やがてこの一団の首領であるらしい男がまた言った。

「よし。こちらへ来い。これより、そなたをお召しの御方の元へと連れて参る」

 男がくいと顎をしゃくると、ばらばらっと二人の男がこちらへ駆け寄り、女の身体に手を掛けようとした。


 その風が起こったのは、その瞬間だった。

 ごう、と分厚く黒い風が目の前に湧き起こったかと思うと、周囲にいた男らが「くあっ」と苦しげな声をあげ、急に首を掻き毟るようにし始めたのだ。

 孫たちを捕まえていた男らも苦しみだしたのを見て、デリアは足を引きずりながらも急いで孫たちに駆け寄り、二人を抱き寄せて引き下がった。孫たちが二人とも力いっぱいこちらに抱きついて来る。

 男らはもう、てんでに地面に転がって苦しみつづけていた。


 と、すぐ近くからすっ惚けたような低い男の声がした。

「おーい。殺すなよ」

 驚いて見上げると、先ほどの男よりもさらに一回りは大きな男が、金色の瞳を油断なく周囲に走らせながらも口端をゆがめるようにして笑いながら立っていた。

 くたびれた革鎧。そこからぬっと突き出た腕は、鋼のような筋肉に包まれた丸太のような太さだった。

「あんま、余計な殺生せっしょうすんな。いらん恨みを買うだけだぜ」

「うるさいわね。わかってますわ」

 男の声に答えたのは、甲高い女の声だった。

 見れば、草色の長いマントを羽織り、フードをおろした華奢な姿の女が腕を上げてこちらを見ていた。若いけれども、まあどこにでもいるような、普通の容姿の女である。


(こ、……これは――)


 見ればもう、男らはそこで気を失って、ばたばたと地面に転がっていた。

 デリアは呆然として、足元の男らを見回していた。腕の中の孫たちが、がたがたとまだ震えている。

 巨躯の男は茶色い毬栗頭をちょっと掻きながら、へたりこんでいる三人をぐいと覗き込むようにした。


「あ〜。怖がんなくっていいぜ、おばちゃんも、餓鬼んちょどももな。俺ら、別に()()()じゃねえからよ」

 そう言われたからといって、すぐに信用する馬鹿もないだろうと思うのだったが、巨躯の男はけろっとした顔でただにかにか笑っているのだった。


「けど実は、俺らもおばちゃんに用があんのよ。ちいっと河岸かし変えて、話さしてもらっても構わねえかなあ? おばちゃん」

「え……? いったい何なのですか、いきなり――」


 デリアがそう訊ねている間に、小柄なマントの女がひょいと片手を振った。すると、そこに転がっていた先ほどの男らの姿が一瞬にして、掻き消えるようにして見えなくなった。

 デリアは目をみはった。


(これはまさか……風竜の魔法……?)


 デリアと子供たちが呆然とそれを見ていると、女はフードの下からじろりと一瞬こちらを睨んで、つんと向こうを向いてしまった。

 巨躯の男がそれを見てちょっと苦笑したようだったが、またこちらを見てにかっと笑った。一筋縄でいくような性質たちにも見えないのだが、それでもその笑顔に底意があるという風でもないようなのが不思議だった。


「あの……いったい、あなたがたは――」

「あー、うん。俺ら、レオンハルトって野郎に頼まれておばちゃんのこと探しに来たのよ。要は、レオンの手下だあなあ。おばちゃん、昔あいつの乳母だった、デリアって人なんだろ。それは間違いねえんだよな?」

「えっ? あの、今、なんと……!?」


 いきなり信じがたい名を聞いて、デリアは声を失った。




◆◆◆




「なんだと……!? 目の前で掻っ攫われた……?」


 その日、土竜国宰相ハンネマンは、王宮の自分の執務室で、部下の武官からその報告を受けて激怒していた。

 聞けば、ようやく消息をつかみかかっていた例の老女をもう少しで取り篭められると思われた矢先、何ものかに邪魔をされ、送り出した武官らが気絶した状態で王宮に戻されてきたというのだった。

 それは明らかに、風竜の「跳躍」の魔法によるものだった。

 とはいえ武官らは、相手の顔などを確認する前に倒されてしまっており、相手を特定することもできなかった。


(レオンハルトめ……!)


 風竜の魔法を使ってのこのやりようは、つまりはこれ見よがしに「どうかお手だし無用に」と言ってきたようなもの。

 という事はレオンハルトは、こちらの意図をある程度は予期して動いていたということか。

 土竜王陛下と王太子殿下はレオンハルトの肉親でもあり、彼なりに信用もしているのだろうが、どうやら宰相である自分のことは十分に警戒しているということらしい。

 もう少し甘い若造かと思っていたのだが、どうやら甘く見すぎたようだ。

 とはいえ、肝心の女の身柄を取られてしまったのでは後の祭り。


 聞けばあちらは、女の親族である息子夫婦や孫たちも同時に引き取って行方をくらましてしまったそうだ。


「やむをえんか……」


 ハンネマンは忌々しげに舌打ちをしただけで、報告にきた武官を下がらせた。

 

 どうやらなかなか、あの「王太子殿下」に恩を売りつけるのは難しいらしい。

 となれば、別のところに目を向けたほうが得策というべきか。

 今、レオンハルトはこの土竜、さらに雷竜の王のおぼえめでたく、手厚い助力を得るまでに至っている。彼らの後押しのお陰をもって、あの若造が風竜の王位を奪還するは時間の問題ともいえるだろう。


 そうなって、最もめんどうだと感じているのは一体だれか。

 自分はもしかすると、その者と気脈を通ずるのが正解であるのかもしれぬ……。


 ハンネマンはそこまでを素早く考え合わせると、改めて自分の補佐の文官を呼び、とある書簡をしたためさせはじめたのだった。




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