6 漣(さざなみ)
もとヴェルンハルト派の貴族らとの初会合がお開きとなり、名残り惜しげに皆々が去ることになって、レオンとアネルは彼らを見送りに表へ出た。
ファルコはさりげなく一同の輪からひょいと外れて、屋敷の奥のほうにあるその部屋へ顔を出した。
そこに誂えられた長椅子に、濃い赤紫色の豪奢なドレスを着た女がゆったりと座っている。手には飾り扇を揺らし、傍に置かれた卓の上から、赤葡萄でつくった酒を口に運んでいた。
ファルコが「ごめんよ」と入室すると、酌などをしていた召使いたちが黙って引き下がっていった。
彼女付きの召使いの女たちは、彼女を違う名前で呼んでいる。
どうやらそれは、彼女が手に入れた今の立場である、とある貴族の未亡人の名なのだった。
「なんの用?」
女は面倒くさそうにそう言って、巨躯の男をちらりと見た。
「いんや、別に?」
相手は人間ではないどころか、凄まじいまでの竜の魔力さえ持つ女なのだが、それでもファルコは、どうもこの女を恐ろしいとは思えないのだった。
とは言え実はこの女、男の会合に顔は出さないものの、なされている話についてはその魔法によって、すべてちゃんと聞いているのだ。
「用がないなら、出て行ってくださる?」
女は少しの苛立ちをその声に乗せてそう言った。
「ん〜。ま、そう慌てなさんな」
ぽりぽり頭を掻きながら、ファルコは口端を歪めてちょっと笑った。
「ちょいと聞いとこうかと思ってよ。……いいだろ?」
女がさも不快げな顔になってこちらを睨んだ。
あんな手を使って、とうとう思い通りにレオンを手中にしたくせに、なぜかこの女はあれ以来、虫の居所がよろしくない。大満足というには、程遠い顔をしている。
それどころか、日を追うごとに、次第に機嫌が悪くなっている風にさえ見えるのだ。
まあ、それも無理はなかった。
確かにレオンはあの時「風竜王になる」と言い、「この者を妻にする」と、あのニーナに断言したが。
(それで『ハイそうですか』って、胸ん中まで変えられるわけじゃねえんだしよ――)
あの美しい水竜の姫に心底惚れ抜いているあのレオンが、ちょっと脅されたぐらいのことでその気持ちを忘れてしまうなど、あるはずがない。そもそも、そう思うこと自体が愚かだった。
そしてファルコは、そんな風にしか人の気持ちを想像することのできないこの女を、なんとなく哀れにも思った。
先ほど、あの貴族連中が話していた「親族の女たちの不遇」の話は、この女にだって無関係ではなかったはずだ。
年齢からして、ヴェルンハルト公暗殺事件の時にはほんの赤子だったのだろうけれども、それでもこの美貌である。長じて後、そろそろ女として使い物になりそうな年頃になってからは、その身の上に、どんな胸糞の悪いことがあったとしても不思議ではなかった。
ファルコには唾棄すべき趣味としか思われないが、世の中にはまだちゃんと女になってもいないような幼い少女を弄んで楽しむような、そんな外道がわんさかいるのだ。
だからこの女にも、恐らくは幼いころから、女としての相当の苦労があったことは想像に難くない。
そのことは、恐らくあのレオンもある程度は勘付いているだろう。
ただ、それを知って、あの男はこの女を哀れまずにいられるだろうか。
そしてこの女は、哀れみによって与えられる男の「愛」なんぞに、果たして満足などするのだろうか。
(……なわけ、ねえだろうがよ。)
そこにもし絶望し、この女の理性が破綻するようなことになったら。
この風竜国も、あのレオンも、ただでは済まなくなるのではないのだろうか。
事態は、単に恋に破れた振られ女の八つ当たりなどという、可愛いものでは済まないはずだ。なにしろこの女は、「風竜の眷属」なのだから。
考えてみれば、あのレオンがあのまんま、この女からずっと離れた場所にい続けていてくれることこそ有難かった。
この女は、レオンのことしか見ていない。だからあの男が今までどおり、ニーナという水竜の姫様と一緒にこの女から遠く離れ、関わりを避け続けていてくれたなら、問題は彼らの中だけで完結していたに違いないのだから。
しかし、こうしてレオンが風竜の王権を奪還することになり、表舞台に出てきてしまった以上、ことはこの国と、隣国である土竜、雷竜をも巻き込む事態になりかねないのだ。
こういう女が八つ当たりを始めたら、誰にも止められない惨事を招く。そうした方面の経験だけは無駄にあれこれと積んできているファルコにとって、それは火を見るよりも明らかだった。
「なあに? 早くおっしゃいな」
いつまでも黙っているばかりのファルコをきゅっと睨んで、遂にじれたようにミカエラがそう言った。
ファルコはにやりと笑って見せて、ちょっと無精髭のはえた顎など撫でながら、どうということもない口調でこう訊いた。
「あんた、こんなんで満足してんの?」
「……なんですって?」
女の眉が、ぴくりと跳ね上がる。
「本当にこんなんで、満足してんのかって訊いてんだよ。まさかたぁ思うが、こんなんでほんとにあのレオンが手に入ったとか、思ってんじゃねえよなあ?」
「……どういう意味かしら」
ファルコはわざとらしく半眼をつくって肩をすくめ、溜め息をついて見せた。
「あ〜あ。女にしちゃあ、なかなか賢いなと思ってたんだがよ。結局、あんたもアホな女の一人かよ」
途端、すうと女の瞼が下がった。
「……死にたいのかしら、あなた。ご希望には、すぐに応えて差し上げてよ」
ぐっと女の手が上がりかけて、ファルコはぱっと両手を上げた。
「おおっと。俺、殺ると、あとあといろいろ面倒よ? 一応、裏にゃ土竜王様がついてんの、忘れねえでくれよな」
ち、と軽い舌打ちが女の口から漏れる。
今のところ、土竜王バルトローメウスはレオンの祖父ということもあって、今後の作戦上、こちらの陣営にとって大きな後ろ盾にもなりうるお方だ。そうそう、無碍にできる相手でないのは、この女も同じのはずだった。
ファルコはあのレオンについてあちこちの国を旅しながら、行商人や旅行中の貴族の付き人などをつかまえて結構な額の金を渡し、折々に土竜国への連絡も欠かしていない。彼からの連絡が途絶えれば、当然、土竜からいらぬ疑念を抱かれよう。
「出ていってちょうだい。あなたなんかに用はないわ」
苛立ちを押し隠すようにして、ミカエラがふいと視線を外し、窓の外を見上げた。
無意識なのか、きちきちと親指の爪を噛んでいる。
(こりゃあ……。やっぱ、夜のほうはお断りされてんな――)
ファルコは、ほぼ確信する。
レオンは恐らく、この女に指一本ふれてはいない。
まあ本来、王侯貴族の中にあっては、いわゆる婚儀が成立しなければ、そうした夜の営みなどはなされないのが普通ではあるのだが。
レオンは恐らくそれを盾に、あれ以来ずっと、この女とそういう関係を持とうとはしていないのだろう。
ミカエラにしてみれば、それこそ苛立ちの原因の最たるものか。
いくら相手から忌避され、疎まれてきた仲だとはいえ、ひとたび体の関係になってしまえば、女には色々な手練手管というものがある。
肌を合わせてしまうということは、そこに情の生まれる土壌を作るのと同じことだ。
まして、相手はあのレオン。
あれは肌を許してきた女をそこまで無体に扱えるような、冷酷非道な男ではない。
(そ、俺とは違ってな。)
そんな皮肉な思考に浸っていたら、女はさらに不快げな顔になった。
「……なにをにやにやしているの。気持ちの悪い――」
どうやら思考が顔に出ていたらしい。ファルコは「お、すまねえ」とその顔を引き締め、軽く咳払いをした。
「ま〜、訊きたかったのはそんだけよ。そんじゃま、お邪魔しましたっつーことで」
ファルコはそう言ってあっさりと引き下がり、女にひらひらと片手を振って見せると、無造作に踵を返してその部屋を後にしかけた。
が、すぐにぴたりと足を止めた。
「……あ。そうそう」
肩越しに振り返ると、女が不快げな顔でこちらを睨んだ。
「まだ何かあるのかしら」
「さっきの話、聞いてたよな? 俺、ちょっくら土竜に行ってこようと思うんだがよ――」
「それが何なの」
ファルコはにやっと、意味ありげな笑みを浮かべて見せた。
「……ちょいと、付き合わねえ? 『風竜の魔女』さんもよ」
「は? どうしてわたくしが」
ミカエラは眉も動かさずに言下に言い放った。「馬鹿いわないで」という気持ちがありありと伝わってくる。
「そりゃまあ、てめえの足で行ったって、あのアネルのおっさんに頼んだっていいんだけどよ。それじゃあ時間と金を喰うだろうがよ。別に悪いことするんじゃなきゃあ、あんたがあっちに行ったって、土竜の守護竜は別に怒りゃしねえと思うのよ。だろ?」
「…………」
「それにあんただって、土竜の宰相やら、その配下の貴族どもやらのこたあ気になってんだろ? ほっとくと、レオンの足許、掬いに来ねえとも限んねえぜ〜? あのおっさん連中はよ」
「…………」
何を言っても、ただ菫色のきつい瞳で睨み返してくるだけのミカエラに向かい、ファルコはその辺の女にするのとなんら変わらない仕草で、ちょっと片目をつぶって見せた。
「……ま、考えといてくれや。『風竜の魔女』さんよ」
再びひらひらと手を振りながらそう言って、ファルコはさっさと部屋をあとにした。
背中に凄まじい眼光が突き刺さってきているのには気づいていたが、ちょっと痒いぐらいにしか感じなかった。
(ほ〜んと、可愛いったらありゃしねえ――)
ところどころに掛けられた灯火の間をゆったりとした足取りで抜けてゆきながら、ひとりごちる。
容姿は申し分ないとしても、その正体を知ったが最後、百人の男が百人とも、「あんな女は願い下げだ」と言うのは間違いのない話だろうが。
どうも自分は、そういう風には思えない。
故国である風竜国のことも、恩義のある土竜国のことも気にはなっているし、あの女がもしもこの先、何かのことで暴発し、両国を害するようなことがあるならば、それは何を措いても止めねばならないことも分かっている。
そう、たとえその命をこの手で奪うことになってもだ。
(けどなあ……。)
ここにどうも、「そうはしたくねえなあ」と思う自分もいるので、始末が悪い。
別にあのレオンが翻意して、「この女でもまあいいか」と思えるのなら大団円。それはそれで構わないし、なんの文句もありはしない。
しかし、どうやらそうは問屋が卸さないようなので、ファルコもあれこれ考えてしまうわけである。
ミカエラの過去がどんなものかは、まあおよその想像はつく。
だからあの女には、あのレオンのような堅物のクソ真面目男なんぞより、「それがどうした、知らねえわ」と豪快に笑えるような、その上で腕に掻い込めるような、そんな男のほうが相応しかろうに。
そう、たとえば――。
と、それに続いた己が思考に驚いて、ファルコはぶるりと顔を振った。
べちべちと、大きな両の手のひらで頬をたたく。
(なに考えてんだ、俺。いくらなんでも、ちょっと『化けもん』は勘弁だろうよ――)
自分に向かって、そんな自分でも意味のわからない言い訳をしながら、ファルコはばりばり頭を掻くと、のしのしと屋敷の廊下を歩いて行ったのだった。





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