10 取引き
「そんな穢れきった女を、貴方はそれでも愛せるの……?」
不思議なことに、くっきりと真ん中に竜の虹彩を浮かべた女の瞳からは、まるで何かに挑みかかるような、強い光が放たれていた。
その目の光だけでも、目の前に立っているレオンの瞳を射抜かんばかりである。
言葉を継ぎ足してゆくたびに、その声には熱がこもって、ミカエラはどんどんレオンに詰め寄るようにしていた。いまやもう、彼のすぐ前に立っている。
そうして、何度も繰り返し「あの女をまだ愛せるのか」と訊きながら、何か彼女は、まるで別のことをレオンに尋ねているようにも見えた。
それが一体なんなのか、レオンには皆目、分からなかったけれども。
だが、だからといって答えることに変わりが生じるわけもなかった。
いや、そうあってはならないと思った。
「……それがどうした」
もはや地の底から聞こえるほどの低い声で、レオンはそう言い放った。
そして、目の前の女の胸元を、いきなりぐいと掴み上げた。
ミカエラの顔にぐっと自分の顔を寄せ、その瞳をまっすぐに睨み返す。
「クルトを餌にされていてもなお、姫殿下が奴に屈しなかったとしたら、それこそ俺はかの方を軽蔑するかもしれんがな。……そうでないなら、答えは何も変わらんぞ」
「…………」
さすがのミカエラも、レオンの凄まじい眼光と殺気をまともに浴びせられて、ちょっと気を飲まれたようになって黙り込んだ。
レオンはぎりぎりと噛み締めた奥歯の間から、声を絞り出すようにして言った。
「あまり、俺を舐めるな。……次に同じことをほざいたら、いくら女でも手加減せんぞ」
そう言うなり、ぱっと手を離してミカエラの体を自分から突き放した。
ミカエラはそれでも、不思議に不快げな顔はしていなかった。
そうして何故か、きらきらと瞳をきらめかせて、しばらく黙ってレオンを見ていた。
「そう……。そうなの」
それは、独り言のような声だった。
その頬に、じわじわと奇妙な笑みがのぼってきて、それが見る見る満足げな微笑みに変わった。
(なんなんだ……? この女)
レオンは完全な渋面になって女を見返した。
まったく、訳がわからない。
が、脇に立っていたファルコが「しょうがねえなあ」といった風情で少し呆れたように顎など掻いているのが、何となく癪に障った。恐らくこの男には、いまこの女の中で起こっている何事かについて、ある程度見当がついているのに違いない。
悔しいが、それは「経験の差」とでもいったものだろう。
それも特に、女という生き物に対する経験だ。
ミカエラは嬉しげに笑った顔のまま、少し乱れた髪やドレスをちょっと直して、再びレオンに向き直った。
「……まあ、あとは貴方の気持ち次第よ」
「なに……?」
「もしも貴方が、今後、風竜国の王位に就く気があるなら、わたくしは協力を惜しまないわ。あのムスタファだってゲルハルトだって、わたくしの力があれば、あっというまに殺してあげることだってできる。それも、なんの証拠も残さずにね……?」
嬉しそうに引き上げられた真っ赤な唇は、まことに得意げにぺらぺらとよく動いた。
「…………」
「実はもう色々と、下準備だって進めているの。もちろん、その暁にはわたくしを、あなたの正妃にしてくださらなければいけないけれど――」
(なにを勝手に――)
レオンはもう、あきれ返って言葉も出ない。
「もし、あなたがそう約束してくださるのなら、わたくしはあの女を助け出すために協力してあげるのも吝かではなくってよ?」
「…………」
つまりこの女は、まずは敢えてアレクシスに協力し、姫殿下とクルトを攫わせておきながら、今度は奴を裏切って姫らを助けることに協力する代わり、レオンが風竜国の王になることと、自分をその正妃に据えることとをこちらに要求してきているわけだ。
盗っ人猛々しいとは、このことだろう。
「この『風竜の眷属』の力、欲しくはないかしら。……どう? 皆様は」
ミカエラはそう言って両手を広げ、今まで完全に視野の外に置いていたはずの、アネルやカール、ファルコのほうを見回した。
アネルとカールは驚きを隠せないまま、あきれ果てた様子で互いの目を見交わし、ファルコはファルコで「へっ」といった顔で苦笑して、肩を竦めただけだった。
「お話っていうのは、まあそういうことよ。ようく考えて答えを出して。ご決断が早ければ早いほど、お姫様は少しは綺麗な体で帰ってこられるかもしれなくてよ? レオンハルト殿下」
口許に華奢な手を添えて、くすくすとさも楽しげな含み笑いをする。
「まあ、それでも貴方の正妃になることは諦めていただくしかないわけだけれど。ああ、もちろん、はした女の一人として、風竜国の王宮に入れるのもおやめくださいませね? いくら出自がよくったって、わたくし達の王宮に、火竜の王太子に犯されたような女は不要ですもの……」
うふふふ、とまた含み笑い。
「…………」
レオンの眉間の皺が、一段と深くなった。
と、唐突に、ひゅんひゅんとミカエラの周りに、またあの不思議な風が巻き起こり始めた。
「では、そろそろお暇するわ。今日のお話はそれだけよ。夜にあまり動き回ると、次の日のお化粧の乗りが悪くなっていけないんですもの――」
その、心底そうなることを憂うような台詞を聞いて、男らは全員、ややうんざりした顔になった。
この女も、どこまでが本気なのやら怪しいものだ。
ミカエラは鼻先で立てた人差し指の先に、緑色に光る小さな鉱石を作り出し、軽くその指先を振った。鉱石が宙をすいっと飛んで、アネルの手許にぽとりと落ちる。
「えっ……」
アネルが驚いて目を上げた。女はにっこりと、中年の魔法官に微笑みかけた。
「それを使えば、直接にわたくしと話ができますわ。その気になったら、ご連絡をくださいな」
そんな事を言ったかと思ったら、彼女を取り巻いている風が急に強さを増して、次にはもう、ミカエラの姿はその場所からかき消えていた。
あとには窓の隙間から入る僅かな月の光に照らされた、暗い宿の部屋があるだけである。
ファルコが真っ先に動いて、蝋燭に火をともし、ぼそっと独り言のように呟いた。
「な〜んだ。結局、べった惚れかよ。可愛いったらありゃしねえ。さっすが王太子殿下、もてますなあ――」
なんだか特に後半が、わざとらしいほど平板な声になっている。
「待て、おっさん。あれの、どこをどう見たらそうなるんだよ……!」
突っ込んだのは、勿論カールだ。
だが、その声にはいつもの元気はまったくなかった。彼はもうへなへなと、全身の力が抜けたようになって寝台に座り込んでいる。
アネルも似たようなもので、まだ体を硬くして、手の上に「風竜の結晶」を乗せたまま、寝台の上で凍り付いていた。
「はあ? なに言ってんだ、どこもかしこもだろ?」
ファルコはそんな一同を見て、軽く鼻を鳴らしてせせら笑った。
「こうなったらもう、とことん協力して貰おうぜ。んで、お望み通り嫁サンにでもなんでもしてやりゃあいいじゃねえかよ、めんどくせえ。王位奪還のお膳立てだってしてくれるっつうんだし、あんだけなりたがってんだからよー」
頭の後ろで腕を組み、半眼のままそう揶揄されて、さすがのレオンも脱力した。
「……冗談でも勘弁しろ」
唸るようにそう言ったレオンを、ファルコは意外にも、ぎらりと鋭い眼光で睨み返した。
「はあ? 冗談なもんかよ」
そしていきなり、がっとレオンの胸倉を掴み上げた。
「お、おい……!」
「うるせえ、すっこんでろ」
カールが気色ばんでこちらに詰め寄るのを、ファルコはもう片方の手で邪険に突き飛ばした。アネルは呆気に取られて、呆然と三人を見上げている。
ファルコはその巨大な拳でさらにレオンを持ち上げるようにして、額をつけんばかりに顔を寄せてきた。
野獣のようなその顔が、すぐ目のまえにくる。
爛々と光るその両眼は、やっぱり猛禽のそれのようだ。
「てめえ、舐めてんのか? 相手はあの火竜の王太子なんだろうがよ。そいつは、今の女とおんなじ、『竜の眷属』だっつってたよなあ?」
「……ああ」
ファルコはレオンのその返事を聞いて、更に虫の居所が悪くなったように見えた。
「しれっと『ああ』、とか言ってんじゃねえわ。それともあれか? てめえはその姫さん、軽く見捨てようとか思ってんのかよ。そりゃまあ俺は、何の関わりがあるじゃなし、水竜の姫さんのひとりやふたり、どうなろうが構やしねえけどよ」
「おい……!」
「な、なんということを……!」
それはさすがに、カールもアネルも聞き捨てならなかったらしかった。
レオンも口をへの字に曲げて男の顔を睨みあげた。
「……それこそ冗談にならんぞ、貴様」
巨躯の男はそれを見て、へっ、と口をひん曲げた。
「あんたのこった。どうせ、『命を懸けてもお助けしよう』とかなんとか、思ってんだろ。けど、分かってんのか? 向こうは火竜の本拠地なんだぜ。そんじょそこらの武器だけじゃ、そもそも姫さん捕まってる所までたどり着くことも覚束ねえわ」
「…………」
「ましてやあんた、半端の身だ。昼間はただの馬になっちまうような使えねえ野郎が、どうやって『火竜の眷属』なんぞに挑むっつうのよ? ちったあ現実的に考えやがれ」
レオンを含め、皆は一言もなく黙り込んだ。
その通りだった。
そもそも、どこにニーナとクルトが囚われているものか、現時点ではそのことすらも分からない。当然ながら、闇雲に探し回っているような時間はないのだ。
たとえそこに辿りついたとしても、あちらはそれこそ「火竜の本拠地」。あのアレクシスが己が魔力を最大限に発揮できる場所なのである。
アネルを除けば、大した魔力があるわけでもないレオンたちに太刀打ちできる道理がなかった。まさに丸腰で、巨竜にあたるような暴挙である。
あの「火竜の眷属」アレクシスに対して、そんな無為無策であたることなど、無謀というにも余りある話だった。
眉間に皺をきざんで黙り込んだレオンの顔を、ファルコは奥の奥まで貫き通すような目でしばらく睨みつけていたが、やがて低くこう言った。
「……諦めな。王太子殿下」
「なに……?」
目を上げれば、きらきらと光る鷹のような眼が、じっとレオンを見つめていた。
「分かんだろ? 無理なのよ。その姫さん助けてえなら、どうしたってあの女の協力が要る。場所を教えて貰うにしろ、そこへ飛ばしてもらうにしろな。間違いねえ。動かせねえ事実、ってやつよ」
それは決して、事態を面白がっている目ではなかった。むしろ、どこかずっと奥の方では、一種の哀れみがたゆたっているようにすら思われた。
「だが、手を借りた以上はこっちだって、ある程度の誠意を見せなきゃなるめえ。まあ、利用した挙げ句に消すとかなんとかってえ外道な真似があんたに出来るっつうなら、俺はそれでも構わねえがよ――」
と、耳などほじりながらちらりとファルコはレオンを見やり、口端をくいとゆがめた。
「……ま、無理そうだし。ってか、そもそも俺らにあの女が殺せるかどうかもわかんねえしな。てこたあ、向こうの条件、飲むしかねえ。だろ?」
「…………」
レオンがじわじわと目を見開いた。ぐっと両の拳を握り締めている。
ファルコがゆっくりと、低い声で言った。
「……だから、諦めな」
その声はまるで、噛んで含めるようである。
「簡単なこったろう? どっちにしたって、姫さんはあんたの元には戻れねえ。だったら、生きてて頂いたほうがいいのかそうじゃねえのか――たとえ生きてるにしたって、その火竜のクソ王太子に好き放題されながらのほうがいいのか、キレイな体でいていただくのかって、つまりはそういう話だろうが。そのぐらい、ちょっと考えりゃ分かんだろ? ガキじゃあるめえし」
「そ……んな! 無茶いうな――!」
カールが遂に堪忍袋の緒が切れたらしく、憤激してファルコに掴みかかってきた。しかし、ファルコはやっぱり腕一本で、彼の体をぐいと跳ねのけた。
そうして、掴み上げていたレオンの胸倉をふいと放して、一歩下がった。
厳しい顔になって立ち尽くしたままのレオンをちょっと見下ろして、やがてファルコはぼそっと言った。
「風竜王になんな。レオンハルト」
「…………!」
アネルとカールが、はっと息を飲んだのが分かった。
「もうここらで、覚悟決めろや」
ファルコがそう言い放ち、どかりともうひとつの寝台に座り込む。安物の寝台は、男が座るとぎしりと嫌そうな悲鳴を上げた。
「それともアレか? 『叔父殺し』が怖えかよ?」
皮肉げに、にやりと口端を上げたファルコを見やって、レオンはぎゅっと目線を上げた。
「……いや」
「へえ。そりゃ良かった」
ファルコはにかりと笑ったままだ。
「なら、問題ねえじゃねえか。あんたは、もともとあんたのもんだった、風竜国の王座を取り戻す。そんで、あの女をあんたの正妃にしてやる。本気で姫さん助けたいなら、いま選べるのはそれしかねえ。……だろ?」
「…………」
「責任、とるしかあるめえよ。……男ならな」
そんなことを言いながらも、やっぱり「俺は関係ねえけどな」といった態度満載で、ファルコは頬など掻きながら、すっ呆けた顔でにやついているばかりだった。
なんとも知れない重苦しい沈黙が、安宿の一室を支配する。
レオンは唇を引き結んだまま、鷹の目をした巨躯の男を、いつまでもじっと見つめていた。





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