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影の王の婚姻  作者: 天海りく
ふたりの王(初出2014.3.15/ビーズログ文庫)
7/12

幕間~3章

.幕間

「フィグネリア、こっちへ来い」

 ディシベリア帝国皇帝、エドゥアルトは五つになる娘へ笑顔で両手を伸べる。聞き分けのいいフィグネリアはうなずいて言う通りにしてきて、軽い体を抱き上げる。

 娘の横顔は、はっとするほど母親の面影が見える。彼女と娘の表情が時々重なる度に、胸に苦いものがこみあげてくる。

「父上?」

 古傷と言うにはまだ新しい傷に自ら爪を立てていたエドゥアルトは、娘を自分の腕に腰掛けさせるような体勢へと、抱き方を変える。

「帝都がどこか分かるか?」

 地図を見せると、四つの頃には広大で煩雑に入り組んだ全てを覚えきったフィグネリアは躊躇わずに一点を示す。

「父上、地名が書いているので見れば分かります」

 こましゃくれた物言いをする娘に、エドゥアルトは喉を鳴らして笑う。

「それなら、マシュケの銀を帝都まで運ぶのに使う最短の運路とその理由は?」

 娘はすぐさま目で帝都の遙か東のマシュケを見つけ出し、見た目では同じ距離に見える三つ道筋からひとつを選び出す。迷いはほとんど見られなかった。

「サール街道からマルッダ街道をけえゆして通ります。平地が多く、整備がもっとも行き届いているから、です」

 経由を上手く言えなかったり、たどたどしいところもあったが、正解だった。

「よし。よく覚えているな」

 エドゥアルトは娘を褒めて、満足げに笑む。

 健康であれば有能とまでいかなくてもいいと思っていたフィグネリアは、期待以上の出来だ。教えたものはあますことなく覚えていく。

 まだ自分が望むものは全部手に入ると思っていた頃に、思い描いていた夢の欠片が今、この腕にある。

「俺は、変えてみせる。理想を理想で終わらせはしない。そのために必要なことをお前には全て教える。フィグネリア、お前になら俺と同じものが見えるはずだ。俺が思い描いたものが必ず」

 まだ五つの娘はきょとんとした顔を最初にしていたが、それからすぐに頬を紅潮させて瞳を輝かせる。

「はい! 私も父上のようになりたいです」

 フィグネリアが無邪気に望んでいた言葉をくれて、エドゥアルトは安堵する。

 理想の君主としての姿を見せ続ければきっといつかこの娘が自分の望みを叶えてくれる。

 そのために自分が得た知識や手段を全部与え、いずれ帝位につかせるのだ。

「エドゥアルト様、フィグを迎えに来ました」

 そう言って部屋に入ってきたのはオリガで、彼女の後ろでは息子のイーゴルが末娘のリリアを抱いて立っていた。

 そういえば今日は皆で裏の森に遊びに行くと言っていたと思いだし、エドゥアルトは自分より頭一つ半背の高いイーゴルに、フィグネリアを渡す。

「父上、では行って参ります!」

 すっかり逞しくなった息子は馴れた仕草で軽々と妹ふたりを抱えて、楽しげに言った。娘ふたりとも兄に抱かれてうきうきとした顔でいる。

 嫡男であるイーゴルは、自分に全く似ず武人としての素養を持っているが、オリガとよく似た純粋さと素直さでは君主として不利すぎる。

 この息子の武人としての才を生かせる道も作ってやらねば。

(父上のようにはなるものか)

 先帝である父は、剣も弓も人並み程度で賢しいばかりの自分のことを嫌っていた。そして、自分も九公にいいように扱われる父を軽蔑していた。

 分が悪いとみて最後まで向き合うことなく玉座を降りた父の死にに覚えたのは虚無感。 自分で手を下していたらまた違ったのか、それとも死なせなければよかったのか、答を知る術がもうない。

「おとうさま、いってきます!」

「いってまいります」

 娘ふたりが兄を真似て声を揃え、エドゥアルトは楽しんでこいと微笑む。末の娘は病がちだったが、この頃はすっかり元気になってきてほっとしている。

「エドゥアルト様は本当にご一緒できないのですか?」

 オリガが息子達を先に行かせて、あどけない表情で問うてくる。

「俺は、政務があるからな。子供らと一緒に楽しんでくるといい」

「……エドゥアルト様、お疲れではありませんか? このところ毎日遅くまでお仕事をされていますし、お休みをとられた方が」

 エドゥアルトは純粋無垢を絵に描いたような妻の頭を軽く撫でる。十六年前、自分は彼女との婚姻は望んでいなかった。

 三十を越えた今でも十五の少女の時と変わらず頬を染めるオリガに、当時覚えたのは同情だった。

 それは年を重ねて緩やかに愛情に変わっていったけれど、彼女が望んでいた類の甘いものではないだろう。

「オリガ」

「はい?」

「今、幸せか?」

 オリガは戸惑いをみせた後に、ふわりと微笑んだ。

「……エドゥアルト様と子供達が幸せならわたくしは幸せです」

 偽りなくそんな言葉を告げられて、エドゥアルトはもう一度彼女の頭を撫でる。

 それならきっと、今彼女は不幸だ。

 これだけ愛おしいものがあまりありながら、自分はまだ満たされていなかった。

 なくしてしまったものへの執着が捨てきれない。

「そうか。夕餉は一緒にとる。あとで土産話を楽しみにしておく」

「ええ。イーゴルが狩りもするから、お話し以外にもお土産ができますわ」

 オリガがいってきますと背伸びをして、頬に口づけを残し部屋を出て行く。

「……すまない」

 閉じた扉を見つめて、エドゥアルトはそう零した。


.1

 フィグネリアは政務の書類をぱらぱらとめくって概要だけ確認していく。

 内乱騒動の報告と謝罪を兼ねてアドロフ公家に来て、さあ帰ろうかとしたところで神殿内での銃の暴発事故に巻き込まれて早四日。

 神殿の騒動は潜んでいた密偵が同じく潜んでいた密偵に事故を装って殺害されたもので、帝都への帰省予定も大幅に遅れている。

 そして今日、事件の担当官となるザハールが必要な資料の他に、不在の間の政務も持ち込んできた。

「……そう面倒なものもないか」

 一通り目を通して、フィグネリアはペンを取る。

 ペンを走らす手を止めることなく、次々と記名を入れあるいは別紙に指示を書きと彼女の手は止まらない。

 頭の中に蓄えられた知識と刻まれた経験が、自然と手を動かしてくれる。

 その間は感情的な思考など皆無だ。

 インクが掠れて、ふっと空白が産まれる。

 そこに滑り込んでくるのは、現アドロフ公であるパーヴェルに言われて胸に抱いた不安だった。

 このまま、クロードと同じ関係でいられるのか。

 政務になると私情を切り離す自分と、全部が感情的になりやすいクロードとの間でずれが出てくることが恐い。

 誰よりも自分が彼を傷つけることにならないだろうか。

 フィグネリアはゆるりと頭を振って、自分に大丈夫だと言い聞かせて再びペンを走らせ始めていた。


***


 政務を終えた後、フィグネリアは広間へ戻ってクロードとニカ、ザハールと合流する。

 クロードが落ち着かない様子で視線を向けてきて戸惑った。たぶんもう彼は自分が何かを隠そうとしていることにきづいている。

(嘘が下手になったのか、クロードの察しがよくなったのか)

 どっちだろうかと考えつつ、フィグネリアは今は事件の方へ意識を持っていく。

「現状報告はすんだな。頼んだものは全て揃えられたか?」

 ザハールに問うと、彼はうなずいて資料を示す。

「まず、密偵の死亡の原因となった銃ですが皇女殿下の推測通り、旧式で銃身に多量の火薬を詰め込まれていたことが銃の爆発を引き起こしたと思われます」

 報告書と図解をざっと見てからフィグネリアは銃の出所を確認する。

「旧式銃三丁は回収済みとあったが、実際は一丁は破損し現地で廃棄したことになっていたのか。そうなると銃は一丁のみでもうなく、見つからなかった火薬も使い切ったということでよさそうだな」

 強行に出られなかった大きな理由のひとつである銃の有無が分かって、フィグネリアはひと安心する。

 これで対応が少しはしやすくなった。

「それで、ルスラン大神官長様からのお返事は?」

 そしてもうひとつの憂いはそれだった。

 神殿への介入は政府が大神官長から同意を得ねばできない。ルスラン大神官長に関しては比較的協力的だが、彼の一存で全てが決められるわけではない。

 多くの神官達は俗世の欲の絡む政府に神殿へと踏み込まれたくはない。

 フィグネリアはあまり期待せずに書簡を開く。

「駄目、ですか?」

 妻の表情の険しさに、クロードが不安そうに首を傾げる。

「審議中、ということだ。まだ情報が少なすぎて判断できないということだ。……だが、このままであれば神殿内で処理するということになりそうだがな」

 フィグネリアは頬杖をついて表情を曇らせる。

「薔薇の件が厄介だな……」

 同じように思案顔でザハールがつぶやく。

 第一の真実の女神リルエーカが力を貸り、咲き続ける薔薇達。彼らは皇太后でありアドロフ家の息女であるオリガを待っている。

「ああ、そうだ。薔薇達は母上の祈りが叶うのを待っているらしい。ここへ戻ってくる途中、リルエーカ様と遭遇した。アドロフ公にも母が何かを望んでいたかと問われたから、アドロフ公もリルエーカ様と接触されたのかもしれん」

 フィグネリアはそれを話すのを忘れていたと思い出す。

「祈り……ああ、そうか。あの感覚はそれなんだ」

 クロードが思い当たる節があるらしく首を縦に振る。

「皇太后様の祈りとはなんですか?」

 ニカが問うのにフィグネリアは分からないと答えて口を引き結ぶ。

 あの人が望むものなど、自分には見えない。

 ゆらゆらと不安定になりそうな感情を、フィグネリアは瞬きの間に鎮めておく。

「どちらにしろ、薔薇には散ってもらっては困るわけですが、もう大半が散ってしまっているのですよね」

 現在、神殿より先の薔薇は全て散って実を膨らませ始めていて、神殿からアドロフ家までの薔薇は半分以上散っている。

 花びらをまったく散らさないのは、この城のみだ。

「ええっと、薔薇と密偵の件は今の所無関係ですけど、密偵が死んだ時と、薔薇が力尽きて散り始めた時期が重なっちゃってるのがまずいんですよね。密偵がいたから薔薇は実をつけなくてって周りが思い込んでる……」

 クロードが少し考える間を置く。

「それで、今は神官長様を中心に銃を暴発させた密偵を隠してる……だから、薔薇が散ってしまったら、神殿側は完全にもうひとりの密偵の味方になってしまうから駄目……?」

 クロードがたどたどしく言うのにフィグネリアはうなずく。

 死亡した密偵が領民に薬を処方する役目についていたことが判明し、領民から証言をとるさいのことだった。神官長が意図的に、密偵ふたりが同じ役目についていたことを隠そうとした。

 現状神殿側は密偵は死んだひとりだけだと思わせたがっている。

「それで皇女殿下、神官長が密偵を匿う理由は、密偵に脅されているか、神殿側の意思かどちらだとお考えですか? 前者ならばまだ入り込める猶予があると思うのですが」

 ザハールの問いかけにフィグネリアは顎に手を当てて考え、銃に関する資料を眺めた。

 おそらく彼もすでに同じ結論に達していて、意見が一致するかの確認のための質問だろう。

「……後者の可能性が高いと見ている」

「根拠は?」

「隠蔽の杜撰さだ。死んだ神官が密偵であることを隠さず、他に密偵がいないと見せかけるにしても、情報の出し方が下手だ。エリシン、密偵の手記を」

 フィグネリアはニカから死亡した密偵のものとみられる手記をもらい、ザハールが持ってきた資料を見比べつつ先に銃に関しての見解に移る。

「銃に関しては、隠すべきものとみせるべきものも分からないので、あるもの全部出している様相だった。細工をした者が指示したのなら、火薬はいくらか残しておいて、火薬を押し込んだ形跡が残らないようにする。いくらこちらに銃の知識がほとんどないと思っているとはいえ、これが事故とばれては元も子もない」

 最も慎重に隠すべき場所が隠されていない。

「そして手記だが、記録の始まりの日付は四年前だが、資料と付き合わせると一年足りない。他にも所々いくらか足りないな……どうした。もう少し仔細が必要か?」

 クロードとニカが目を丸くしてきょとんとしているのが見えて、フィグネリアは首を傾げる。

「フィグ、今、手記の方はほとんど見てなかったですよね」

「別に適当に見たわけではないぞ。手記の方の内容は一字一句覚えている。資料も時系列にまとめられているからそう確認に手間取ることもない」

 手記は別に見る必要はなかったが念のためだ。

「……先帝陛下が早々に皇女殿下に期待をかけたのはそれでしょうね。記憶力だけでなく、必要な時に記憶したものを即時引き出せる能力。僕も話していてたまに驚かされる」

 珍しくザハールの口から褒め言葉を聞いて、フィグネリアは曖昧な表情をする。

 父は様々なことを自分に教えた。年を重ねるごとにその量はどんどん増えていって、期待に応えるためにも、居場所を護るためにも必死に飲み込んだ。そして父の要求することは際限なく大きくなっていった。

 冷静になって考えれば、父は己の持つ全てを注ぎこまんとしていたのかもしれない。

 フィグネリアはパーヴェルから先帝が帝位をイーゴルではなく、自分に継がせる気だったのではと言われたことを思い出しかけてやめる。

 今の本題は、密偵についてだ。両親については関係ない。

「……それより、だ。帝都に提出された資料と、密偵の手記が噛み合わないのも気になる。全てが計画通りならば、こんなすぐにばれる偽装はしない。密偵死亡後の全ての隠蔽にもうひとりの密偵が関わった形跡がまるで見られないのはなぜだろうな」

 話を戻すと、ザハールが手記など証拠の数々を見直しておもむろに口を開く。

「被疑者が準備したのは銃の暴発の仕掛けのみ、といったところでしょうか。密偵の存在を明らかにすることと、仲間を殺すことだけが目的だった」

「ああ。その目的をなした後の行動の痕跡が途絶えている。神殿側は密偵死亡の事態に対処しきれていないところを見ると、計画が実行されることは知らなかったのは確実だ。銃の仕掛けについて知っていたのか否かはどちらとも言えんな。しかし、被疑者について隠そうとしている。逃亡したのならここまで面倒なことをする必要もなさそうだが。とにかく、隠蔽の指示ができる者がいないところをみると、密偵の数はふたりで確定してよさそうだな」

「そうですね。それで被疑者も指示ができない状態なのかもしれません。死亡した密偵と同じく神殿側で罰を与える内に誤って死なせてしまったか、それならばどうにか細工をして遺体を出せばすむ話か」

 フィグネリアとザハールはお互いの思考を、一繋ぎにするように間を置くことなく言葉を連ねていく。

「神殿側が手を下したことを隠せない死に方だった可能性もあるが、神殿の法には絶対不可侵である以上は、隠し立てができないこともないからな。結局、意図が掴めん。なぜ殺害する必要があったのか。神殿からの資料に不審な所もないから、密偵として潜んでいることを知られたくないわけでもなく、内乱騒動の今頃になってとなると急だな」

「資料の提出が契機かも知れません。どうしても、口を塞がなければならない事態になった」

「神殿側も被疑者が知っていることを外に漏らしたくない可能性もあるか。被疑者と神殿に共通する隠し事、そしてどうあっても表に出せないとなると……」

 フィグネリアはクロードとニカが口を挟む隙もなく固まっているのに気づき、そこで一度言葉を止める。

「君達、ちゃんとついてきているか?」

 ザハールの挑発的な質問に、主従がこくこくとうなずいた。

「どうにかついて行ってますけど、フィグもザハールも喋るの早いです」

「お互い何を考えてるか分かってらっしゃるんですね……」

 ニカが感嘆した後に、気まずそうに主君であるクロードを見る。

「大丈夫、同じことができないのはよく分かってるから」

 クロードの言い方は卑屈なものでなく、自分の力量をきちんと把握したものだった。

「密偵を殺した人……被疑者は事態の隠蔽に関わってなさそうってことですよね。それなら、被疑者は今、何をしているのか、神殿側からどう扱われてるのかっていうのがよく分からない……えっと、でも被疑者に指示されてないなら、神官様達が人質にとられる可能性は低いってことでしょうか」

 クロードが聞いた話をまとめた上で、自分の考えを自信なさそうに述べる。

「君にしては上出来だ。銃はなく、神官方は被疑者の支配下にない。これで面倒事がいくらか排除された。皇女殿下、どうしますか。ルスラン大神官長様からの介入の許諾はまだ得られていませんが、それを待っている猶予もないとないかと」

「クロード、薔薇もそう長くは保たないのだろう」

 フィグネリアが問うと、クロードも悲しげな顔で肯定する。

「もう、かなり無理してますから。リルエーカ様の力添えでもたぶん二、三日中には全部散ってしまうと思います」

 あと二日中にはなんとかせねばならないようだと、あまりにも短すぎる期間に部屋の空気は重たくなる。

「……許諾なしで動くしかないな。ここで逃すわけにはいかん」

 フィグネリアはそこで一度口を噤んでため息をひとつ零す。

「我々は、神々に萎縮してばかりだな。なにか異変があると不興を買ったかもしれないと、憶測だけで不安になる」

 自分とて薔薇の件が無関係だという確証を得ていなければ、二の足をふんでいただろうと思うとやるせない。

 一年の半分を雪に閉ざされ厳しい環境に置かれるディシベリア帝国は、気まぐれな神霊の恩恵への依存が強い。そして神や妖精が近しい故、人々は自分達で知恵を絞ることもなく、ただ与えられるものを受け入れるだけだ。

 そのせいで技術力は南隣のロートム王国から遙かに遅れ、このままではディシベリアは衰退していく。

 この現状を変えるには神を畏れるばかりではいけないと分かっているのに、一歩踏み出すのが難しい。

「この件を上手く運べるかどうかですね。強行をよく思わない人間も多くいるでしょうが、事が上手くいけば神々を意識しすぎずに動くことに対して、少しは考える余地が産まれる」

 フィグネリアと同じく技術革新を望むザハールが真摯な表情で言う。

「ああ。今は考えることすらしない者が大半だ。ここを動かさねば改革は進まん」

 凪いだ水面に一石を投じる絶好の機会であることは、フィグネリア自身も考えている。

「…………どうするんですか? 神官長様と直接話し合って、被疑者を隠してる理由を聞くのは無理ですよね」

 クロードが悩みながらも答が出せずに、小首を傾げた。

「密偵がまだ他に潜んでいることを神官長に告げて動向を探る。糾弾するのでなく、ザハールの到着によりもうひとり密偵が潜んでいることが判明したので注意してほしいと言うだけだ」

 フィグネリアが言うのにザハールが悪くないといった顔でうなずく。

「これだけ隠蔽に手間取っているなら、何かは出てくるでしょう。時間もないのですぐさま書簡を届けたほうがいいですね。名代は皇女殿下よりマラット殿の方がよいでしょうか」

「そうだな。そちらの方がもっともらしい。問題はご協力いたけるかだが……もうマラット殿へは挨拶はすませたか?」

「滞りなく。本当にご挨拶のみなので、機嫌のほどは不明ですが。そういえば、アドロフ公と皇女殿下が話していることは知らない様子でしたね」

 ということは今頃にはパーヴェルと話したことは伝わっていて、事後報告にへそを曲げている可能性がおおいにある。

「どちらにせよ動くのに報告はしておかねばならんからな。行くぞ」

 フィグネリアは行動は迅速な方がいいと、気が進まないながらも立ち上がった。 


***

 

 予想通りマラットは話を始める前から不機嫌そうだった。

 クロードはフィグネリアとザハールが今後の策を話すのを聞きながら、そろそろくるだろうと身構える。

「神殿を謀るつもりかっ!!」

 そして予測通り怒声が響いた。マラットの反応は分かりやすいものの、今の所できる対処は動じないことぐらいしかない。

「しかしながら、このままでは我々は手出しができなくなってしまいます。密偵をこのまま神殿に留め置くことだけはできません」

 フィグネリアの言うことに、マラットが眉を顰める。

「薔薇が散らなかった原因が分かるまで待て。下手に動いてリルエーカ様の機嫌をこれ以上損ねるわけにもいかん!」

「薔薇が散らない原因が本当にリルエーカ様の不興からくるものと、判明したわけではありません。仮にそうだとしても、密偵を捕えることに関わりはありません。いくら神殿が庇い立てようと、諜報活動をしあまつさえ仲間を殺害した危険人物を野放しにすることだけはしてはならないのです」

 間髪入れずに返すと、マラットがぐっと押し黙る。

 彼とて今言ったことは分かっているはずだ。だがその思考に神殿への、ひいては神霊への畏れが歯止めをかけている。

「私も、こればかりは皇女殿下と同意見です。神殿への政府の強行的な介入はできるだけ避けるべき事態でしょう。ですが、それは我々の信仰に基づいた思考です。密偵は薔薇の実を発芽出来る状態で他へ持ち出すという禁忌を、いとも容易く行える異なる信仰の者です。我々の信仰を乱す者を、神殿に置いておくというのは非常に危ういことかと」

 ザハールの加勢にマラットの表情はますます険しくなる。そして返答が来る前にフィグネリアが口を開く。

「神霊方のお考えは私達には予測できるものではありません。畏敬の念を忘れることはなりませんが、勝手な憶測を元に国家の危機を見逃すというのは愚かです。ここで動かねば、神霊方を疎かにするロートムにつけいる隙を与えるばかりになります」

 理論武装するふたりの静かな波状攻撃に、クロードはひっそり戦々恐々としつつザハールを見る。

(打ち合わせとかほとんどしてなかったのに、いいなあ)

 フィグネリアとザハールはそれぞれこれまで集めた資料を確認して、最低限のやりとりしかしていない。

 それだけでザハールは己がなすべきことも、フィグネリアがしようとしていることも把握して動いている。

 あの位置につけるまでに自分はいったいあとどれぐらいかかるのだろう。

(うー、今は協議に集中、集中)

 果てしなく遠そうな未来に気が向き始めていたクロードは、協議の方へ意識を戻す。

 今はとにかくふたりを見て学ばないと、望むものは遠ざかるだけだ。

「皇家、そして九公家筆頭たるアドロフ家が動くことに意義があるのです。ご協力をお願いいたします」

 フィグネリアがぐいぐいと攻め込むが、マラットの表情は渋いままだ。

「……これが失策でないと言い切れるか」

「己が信じられない策は講じません」

 短いながらも強く響くフィグネリアの声の後沈黙が産まれる。

 ただ聞いているだけのクロードだったが、張り詰めた緊張感に息が詰まりそうだった。

 そして渋面のまま、マラットが腕を解く。

「お前に同調する気はないが、密偵を放置しておけんのは事実だ。すぐに書簡を神殿に送る」

 そして同意が得られて、クロードは思わず安堵のため息を零しそうになる。

 だがフィグネリアとザハールが態度を崩さないのを見て、どうにか気を抜くのをこらえる。

「フィグネリア、ひとつ聞くが父上と何を話した。ザハールが到着するより先に、話し合うことなどあったのか」

 マラットの問いかけに、クロードは少し不安な心持ちでフィグネリアを見る。

 自分もまだ詳しくは聞かされていなくて、アドロフ公の元から戻って来たフィグネリアの様子が少しおかしかった理由が気になっていた。

「……私に帝位を継ぐ意思があるか否かを」

 先ほどまでとは違いフィグネリアの返答は歯切れの悪いものだった。

「父上はお前を次期皇帝に認める気か!」

「いいえ。そういったことではありませんでした。ただ私の覚悟を知りたいというだけです。マラット殿に先に相談する必要もないほど、取るに足らないことでしょう」

「お前は、帝位を継ぐ気か」

「現在、帝位の継承権を持つのは私ひとりです。その時がきたならば引き継ぐ心づもりはありますが、どうあっても帝位につくという意思はありません」

 フィグネリアがそう答えて、マラットは不審そうにしながらも協議は終わった。

(それだけ、じゃないんだろうな)

 クロードは妻を見ながら眉宇を曇らせる。

 彼女が現皇帝である兄のイーゴルやその嫡子と争って、玉座を手に入れるなどありえない。今さらそんなことを確認されたぐらいで揺らぐはずがないのだ。

(終わって、後のことをまとめて最後、だな)

 きっと彼女はふたりきりになるまでは話してくれないだろうから、確認できるのはまだ先だ。

 クロードは始終、そわそわとしながら協議の終わりを待った。

 だが、その日の内にはフィグネリアからは何も聞き出せなかった。少し、自分の中で整理してから話したいが、今は事件に集中したいので全てが終わったらということだった。


***


「ニカ、おはよう」

 翌日、クロードは眠い目をこすりながら、すでにしゃっきりと身支度をすませている侍従に挨拶する。

 昨夜はフィグネリアのことが気になってよく眠れなかった。

「おはようございます。皇女殿下はどうされたのですか?」

 いつもは一緒にいるはずのフィグネリアがおらず、ニカが首を傾げる。

「ザハールと今日のこととかで話してる……俺はふたりがくるまでニカと待機でいいって」

 それに関してはフィグネリアが自分とふたりきりになりたくないため口実なのだろうが。しかしなんだろうとこの寝惚けた頭では、ふたりのやりとりについていける自信はない。

 考えてクロードはため息を落とす。

「……話し合う事ってなんでしょうか」

「ううん、どれだけ神殿に強く出られるかとかそういうんじゃないのかな。……神殿が隠したいことってなんだろうな」

 密偵と神殿が共謀する理由はいくら頭を捻っても出てこない。

「神官方のお考えは自分には図りかねます。ですが薔薇の種を持ち出すことをする上に、神子様に銃口を向ける者と神官方が共謀するというのは、自分にはとても思えません」

「この国の人達にとって、神官様って絶対に悪いことはしないって認識でいいんだよな」

「ええ。絶対的に正しいのが神官様です。俗世の事柄には常に傍観者であり、だからこそ自分達はどんなことでも神官様にお話しすることができるのです」

 ニカが以前フィグネリアから聞かされたのと同じことを言うのに、クロードはますます分からなくなってくる。

「ナルフィス教だと悪いことしてる司祭様とか普通だけどな……。やたら人が多かったり、聖堂の装飾が凝ってたり派手だと、何か裏があるんじゃないかって侍女が噂してるの聞いたことがある」

「……我々の認識ではそういった神殿ほど神官方がご立派なんだということになります。あとは装飾に関しては神霊様のお好みというのもあるので」

「本当に真逆だよな。俺はここの信仰のそういう所好きだけど……でもそれなら神官様にとって悪いことじゃなくて、密偵に都合のいいことってなんだろう。あ、なんか混乱してきた」

 どう頑張って考えたって、両者の意見が一致する事柄など見当たらない。

「やっぱり、神官様も悪いことしてるってことはないのかな? 薔薇を持ち出したり情報を渡す協力をする代わりに見返りを貰った、とか」

 ひとまずナルフィス教寄りに考えを持っていくと、ニカが渋い顔をした。

「見返り、と仰っても、神官方は私欲を持たないものです。それに神霊様の機嫌を損ねることをなさることも、まずあり得ないことです」

 つきつめていくとやはり信仰の違いで躓いて、クロードは行き詰まってしまう。

「じゃあ、神官様達にとっていいことってなんだろう……」

 密偵だった神官がひとり殺され、実行犯も消息不明。

 これでやましいことがないと考えるのは不自然だろうと思うのだが。

「……分からないことだらけだな。俺、今自分がすっごく頭悪い気がしてきた。うん、元々からっていうのもあるけど」

 昨日からいろいろ悩んではいるものの何ひとつ答が出ない上に、フィグネリアやザハールとの差を感じるばかりで気が滅入る。

「学び初めて一年足らずで何を仰っているんですか。無茶を言って、勝手に落ち込まないで下さい」

「……ごめん。とにかく、密偵のことだけでも先に早く片付いてくれないと……」

「他に何か気がかりなことでもあるのですか?」

 ニカが訊ねてくるのに、クロードは言葉を濁す。

「ちょっと、フィグのことで心配事が一個。……フィグのこと、たくさん分かってるつもりでもまだちゃんと分からないことも多いから」

 ずっと一緒にいて微妙な変化に気づくことまではできても、なかなかその奥を見透かすことは難しい。

 自分とフィグネリアもまた真逆だ。

 クロードはまたため息をついて、運ばれて来た朝食をニカと一緒にとる。そうしている間にフィグネリアとザハールもやってくる。

「君達はずいぶんのんびりしてるな」

「殿下と自分も事件について話していたんです」

 ザハールが肩をすくめるのに、ニカが反論して同意を求めてくる。

 それに応答しながら、クロードはフィグネリアの様子を見る。もう普段と通だったが、視線が合うとふたりの空気はどこかぎこちないものになってしまっていた。


***


 神殿に向かう馬車の中、クロードはまだ眠気はしつこく残っていあくびをしてしまう。

 そしてフィグネリアの気遣わしげな視線が一瞬向けられて、すぐに逸らされる。

 そんなふたりの微妙な空気に、一緒にいるニカとザハールも朝からのふたりの雰囲気に居心地悪そうで、だだでさ狭い空間がなおさら窮屈だ。

 そして神殿にたどり着いて外へ出ると四人同時にほっとした顔になる。

「……お待ちしておりました。お話したいことがあるのでこちらへ」

 礼拝堂に入ると神官長に硬い表情で出迎えられた。他にいる神官達もどこか緊張気味だった。

(書簡の効果はあったのかな。向こうから話してくれて穏便にすむといいんだけどな)

 クロードはフィグネリアの横顔をなんとなしに確認しつつ、神官長の後についていく。通された応接室には控えている神官もなく、樫のしっかりとしたテーブルの上に置かれた一枚の折りたたまれた紙が気になった。

「これは?」

 ソファーに腰を下ろしたところで、フィグネリアへその紙が差し出される。

「あなた方がお探しの神官の遺書です」

 フィグネリアが怪訝そうな顔で遺書を開いて確認し、クロード達へとそれを見せる。

「……薔薇が、散らないからって。暴発を仕組んだ密偵は改宗してたんですか?」

 文面を読み取ったクロードはきつく眉根を寄せる。

 もうひとりの密偵は薔薇が実をつけないのは、リルエーカの不興を買う真実を持ち込んだ自分達の責任として、死をもって償うとのことだった。政府への対応も後に書かれている。神殿側は何も知らなかった、と主張できるようにだ。

(お礼と謝罪の言葉もいっぱいだ…………)

 迷惑をかけることへの詫びと、受け入れてくれた神殿への礼が文書のあちこちに散見されて、文書につくりものめいたところが見られない。

(こういうのは、嫌だな)

 胸の中がぐじゃぐじゃして落ち着かなくなる。

「この遺書を残した密偵は死亡したのですか?」

 フィグネリアが淡々と尋ねるのに、神官長がうつむく。

「二日前に……。自害を図ったものの、その場に神子様がいたので一命はとりとめていたのですが、残念ながら」

「遺体は?」

「すでに埋葬しました。どうか、これでおさめていただけないでしょうか。彼は一神官として地母神様の元へと行ったのです」

 いつも穏やかで落ち着いた雰囲気の神官長の声は切羽詰まっていて、罪悪感めいたものをおぼえてしまう。

 クロードはもう一度遺書に目をやって、それから自分と同じ居心地の悪さを感じているニカと視線が合う。

 ザハールは神官長を見ながら、何か考えている様子だった。

「自決に及ぶまでの詳しい経緯をご説明頂けるでしょうか」

 フィグネリアの問いに、神官長が首を縦に振る。

「内乱騒動の後、大神殿より俗世と繋がりを持つ者が入り込んでいるので細心の注意をし、俗世へと戻すようにとの御触れがありました。我々は困りました。改宗した者と、改宗していない者。片方を俗世に戻せばもう片方も必然と戻さなければならなくなるのです。それで、先に身罷った神官、薬品庫二十六番を修練させることになりました」

 修練というのが罰のことだろう。しかしながら、ずいぶん前から神殿側は密偵のことを知っていたらしかった。

 フィグネリアは一度最後まで聞くのか、何も問わない。

「そのうち、大神殿から奉納の記録を提出するよう御触れがありどうするべきかと迷っていましたが、結局出さないわけにもいかずにその時点で、改宗した神官……薬品庫十八番は還俗すると言いましたが、我々もできるだけ彼を留めてやりたい思いで説得していました。その矢先に薔薇が散らなくなり、神子様が妖精の異変に気づいて思い詰めたあげくにあんなことに……」

 神官長が言葉を詰まらせて、深々とため息をつく。

「被疑者……薬品庫十八番の神官様が改宗した時期はいつですか?」

「彼がこちらへ来て一年近くほどですから、四年前です。彼は自ら密偵として入信したことを告白し改宗しました。元より祖国の信仰に疑念を抱いていたそうです。ちょうどその頃に薬品庫二十六番が当神殿にきました。薬品庫十八番より、その旨を伝えられましたが、そのことは見て見ぬふりをすることに決めました」

「四年も前から知っていて放置されていたのですか」

 フィグネリアの言葉は責め立てるようなものではなく、落胆するものだった。

 神官長は視線を遺書に向けて、悲しげに目を細める。

「まことに申し訳ありません。大神殿へも事実を報告し、私は然るべき処罰を受けるつもりでございます。どうか、彼を一神官として終わらせてやってはくれませんか。彼はまだ二十三という若い身空でこれほど追い詰められるほどに、敬虔な若者でした」

 必死に懇願する神官長に対して、フィグネリアもザハールも厳しい表情でクロードは遺書に目を向ける。

 全部真実ならばそれでおさめてしまえないのだろうか。

 今得た情報の中では、被疑者は十分に責めを負い神官長もこれから厳しい処分が下ることになる。

「少し、考えさせていただけないでしょうか」

 フィグネリアがそう言って、神官長は弱々しくうなずいた。

 その様子が見ていて傷ましく思えて、クロードは目を伏せた。

「……楽士様、神子様がお話をしたいとのことで、奉納の後に来て頂けるでしょうか」

 ふと呼ばれて顔を上げ、フィグネリアに目配せしてどうするか問う。そして特に問題はなさそうで同意する。

「私も同行してもかまわないでしょうか?」

 そして、フィグネリアがそうつけ加えて神官長が困り顔になる。

「神子様も楽士様とならとのことで……」

「そうですか。ならば侍従は同行させてよろしいでしょうか? この者の役目は夫の側に控えることですので、できるだけ共に行動させたいのですが」

 あっさり引き下がったフィグネリアが視線を向けたニカに、神官長は緊張と戸惑いをみせる純朴そうな少年を確認して、渋々といった様子で認めた。

(神子様に聞かなきゃならないことがあるんだろうな。ニカも一緒なのは安心するけど)

 クロードは神子と話すことを決めた時のやる気を萎ませながら、フィグネリア達と一度礼拝堂に戻ることになった。神官長は先に神子の所に行くらしく、別の廊下を進んでいく。

「フィグ、これからどうするんですか? 遺書自体は偽物に見えなかったんですけど」

「本物だと私も思う。だが殺害した理由がない」

 フィグネリアの返答に、クロードはそれはと考えて目を丸くする。

「そっか、密偵だって知らせたいならわざわざ殺さなくたって方法は他にもあったはずですよね。拘束されてたりしてないなら、自分で神殿を出て知らせることだってできたはずだし」

「……自決の印象が強すぎるのと、遺書の真偽を図るのに気を取られすぎて頭が回りませんでした」

 そう言うニカと、クロードも似たような状態だった。遺書を読んだ後はどう受け止めていいか心の整理をつけるのに精一杯だった。

「クロード殿下はともかく、エリシン君もか。なぜ口を封じる必要があったか、昨日話をしたばかりだろう。そこを念頭に置いておかないと話を聞く意味がない」

 ザハールの厳しい指摘に、すっかりそのことが頭から飛んでしまっていた主従が揃って縮こまる。

「次から気をつけます……。じゃあ、まだ神官長様は何か隠してるってことでしょうか。でも、被疑者がもう亡くなってるんじゃ」

「どうだろうな。生きている可能性はまだある」

 フィグネリアがきっぱりと言い切って、三人は一斉に彼女を見る。

「あるんですか……?」

 どことなくほっとしながら、クロードは首を傾げる。

「神官長様が亡くなったのは二日前、と言っていたが疑わしい。それより前に神殿の様子が変わっていた。アドロフ公がお倒れになった日、神官長様や神官方はずいぶん落ち着いた雰囲気だった。被疑者の容態が安定したのかもしれん」

 クロードはその日のことを思い出してみるが、神殿の雰囲気までは覚えていなくてニカとも顔を見合わせるが、彼も同じく記憶してないらしい。

 ザハールがその傍らでわざとらしくため息を吐く。

「もう少し彼らに先に必要なことを教えておいた方がいいですよ。……それは後にしておくとして、死んだのならわざわざ日付を誤魔化す必要はありませんね。生きていてもらわないとこちらとしても不都合だから、皇女殿下のお考えが正しければよいのですが」

「そこは神子様と接触して探るしかないな。神官長様も側にいるだろうから、被疑者についてもっと聞きだしてくれ。それと密偵殺害の時の仔細も頼む」

 フィグネリアに言われて、クロードは二度うなずく。

「神官長と神子様の話で矛盾がないかですね。あとは被疑者についてはナルフィス教徒で信仰に馴染めなかったっていうあたりから入っていけば大丈夫ですか?」

「ああ。神官長も話しやすいだろう。ただ、向こうもお前に共感を得てもらおうとするだろうから、流されないように十分に気をつけろ。エリシンも、クロードを頼む」

 ニカが硬い表情で御意と返答して、クロードは心強く思う。

 だが気が進まないのは変わらなかった。これ以上は立ち入らない方がいい所へ、無理矢理入り込んでしまう気がするのだ。

(ああ、もう流されちゃってる。駄目だな)

 いけないと分かっていても、あの遺書の文面の謝罪と礼ばかりが胸に重く残っていて、上手く冷静に話を聞き出せる自信がまるで湧いてこなかった。


***


 笛の奉納が済み、クロードとニカが迎えに来た神官長と共に神子の元へ向かうのを見送ったフィグネリアは長椅子の上で腕組みする。

 礼拝堂の中にすでに人はまばらでフィグネリアのいる辺りは誰もいない。

「あのふたりだけで大丈夫でしょうかね」

 隣にいるザハールが小さな声で言うのに、フィグネリアは返答を渋る。

「……仕方ない。私やお前ではどうしても警戒される。クロードが聞き出すのが適任だ」

「適任といえば、適任ですが、すでに向こうに同情気味になっていましたよ。上手く言いくるめられなけれいいのですけれどね」

 話を聞いている間ずっと湿っぽい雰囲気だったクロードを思い出すと、不安になってくる。

「良くも悪くも共感しやすいからな。だからこそ、本質を見極めることができる。エリシンがある程度はとどめておいてくれるだろう」

 クロードのあの特性は人を惹きつける面もあれば、逆に取り入られる危険もある。

 自分自身で上手く気持ちを制御しきれていないのが、裏目にでなければいいのだが。

(昨日、はぐらかしてしまったのもまずかったか。集中しきれないかもしれない)

 アドロフ公との会話の内容を聞かれ、後回しにした時のクロードの困ったような寂しそうなような顔が思い出されて、フィグネリアは眉根を寄せる。

 どこから何を話すべきか自分でも整理がついていなかったのも、今は密偵の件について意識を集中させていたいのは本音だ。

 自分は全部後回しにしてしまえるが、クロードはまだそれができない。

 やるべきことも、気になることも多すぎて彼はいろいろと持て余し気味だ。

「皇女殿下、それで被疑者は生きていたとして簡単に神殿が引き渡してくれると思いますか?」

「理由に寄るだろうな。改宗したのが事実となると神官方も結束して匿うだろうな。やったことはともかく、殉教者扱いだろう」

「殉教する意思が真実だとしたら面倒ですね。ただの美談ですんだら、民衆に危機感も与えられない。神霊様の意思を勝手に憶測し、凶悪な密偵を取り逃す寸前だったという方がいい。技術革新への足がかりを得るのにこれ以上ない機会を逃すのは惜しい」

 本当に煩わしそうなザハールに、フィグネリアは表情を陰らす。

「そうだな。それに、政府が介入する余地を作れる前例も欲しい。人の領分と、神霊様の領分の境界も定めなければな」

 以前の内乱騒動では神霊が黒幕だったあげく大神官長交代で、なし崩しで神殿の意向を優先することになった。そして事後対応にも大幅に遅れが出た。

 だが他国に神殿の特異性を利用されるようになった今、状況に合わせた対処をとれる規律を定めなければまずい。

「密偵と神殿が揃って隠そうとしていることが判明すれば、交渉の材料になるでしょう。クロード殿下が上手く引き出してくれればいいのですが、あまり期待はできないか」

 ザハールの口調は飄々としているものの、その表情は険しいままだ。

「なんにせよ、まずは密偵の生死を探りあててもらわねばな」

「どちらの可能性が高いと思いますか? 私は生きていると思うのですが」

「私も期待含めて生きている方だな。神殿側が口を封じておきたいだけなら、さっさと遺書と遺体を見せればすんだ話だ。必死に取り繕う理由はない。交渉の余地があるのも薔薇が散るまでか」

 事情がなんだろうと密偵を差し出させて、こちらに都合のいい状況を作り出さなければならない。

(クロードは、どう考えるだろうな)

 フィグネリアは心なしかうつむき気味になって、膝の上で両手を祈るように組み合わせる。

 そして自然とリルエーカ像に目を向けてしまい、苦々しい思いで瞳を伏せた。 


***


「あの、神官長様。えっと、薬品庫十八番の神官様ってどんな方だったんですか? 俺と同じでナルフィス教には馴染んでなかったんですよね」

 フィグネリアに見送られて礼拝堂から廊下へと出たクロードは、神官長の背中にたどたどしく問う。

「ええ。彼は生い立ちがずいぶん複雑だと話していました。産まれた時にはすでに父親がなく、母親は彼の叔父……つまり実父の弟と再婚しそのうち父親の違う弟ができると家での居場所がなくなっていったそうです」

 神官長はわずかばかり躊躇いに似た間を置いて、再び語り始める。

「彼の実父は元は司祭だったのですが、家の事情で還俗し妻を取った後に亡くなったということです。元より彼の母親は家名と結婚しただけで、彼の実父に対して特別思い入れもなく、彼を護るよりも再婚した新しい夫の機嫌を取ることを優先したと。それから心の拠り所は教会でしかなく、しかしその教会の教えでも彼の心は救われなかったと言っていました」

 とつとつと語られる内容に、クロードはどんな表情でいていいか分からなかった。

 悪い密偵を捕まえるつもりだったのに、どうしてこんな話を聞くことになってしまったのだろう。

 クロードは一歩後ろにいるニカをちらりと振り返る。

 彼は気まずそうな顔で小さく首を横に振って、入り込みすぎるなと目で訴えてきた。

(別に、全部鵜呑みにしてるわけじゃないけど……)

 それでも神官長の言葉には胸に迫るだけのものがあった。話していて声に悪意や敵意も見つけられなければ、人を騙そうとする意思の嫌なかんじもまったくしない。

「……彼は神に縋りたいのではなく、司祭だった実父を求めていたのだろうと言いました」

 一瞬、神官長の声が詰まったようになる。彼は失礼しましたと咳払いして、続きを言葉にする。

「そして、養父に密偵として神殿へ潜り込むように命じられ、この国に来たそうです」

「……そんな扱いでも、その神官様は密偵としての行動をしてたんですか?」

 厄介払いでしかないのに、それでも忠実に国に従っていたのか疑問だ。

「ええ。しばらくは密偵として俗世の情報を集め、薬の製法や効能なども調べていました。しかし、彼にとってはこの神殿の方が故国よりよほど居心地がよく、そうして信仰のあるべき姿も見いだせたそうです。あちらの教会というのは俗世と密接していて、神は人の都合のいいものでしかなくなってしまっていると」

 そこで神官長が振り返る。

「彼はここに自分の居場所を見つけたそうです。それは、あなた様の方がお分かりになるのでは?」

 クロードは小さな声でそうですね、と答える。

(生きてるんだろうな)

 それと同時に確信も得てきていた。神官長の話すことに切実さはあっても、悲嘆には暮れていない。

 相手の思惑を図る一方で、気持ち的にすっきりしなくて気分ががもぞもぞする。

(フィグなら、こういう時は自分の気持ちはきっちり区別できるんだよなあ)

 一旦政務につけば、フィグネリアは一切感情的にならず常に冷静でいる。淡々と正確にものごとをこなしていく姿をずっと見てきているが、まだまだあんな風にはいかない。

(でも、その分危なっかしいところもあるけど)

 フィグネリアは驚くほど自分自身の感情に鈍感で不器用な時がある。大抵そういうときはとても疲れていたり、傷ついていたりしていて、彼女が自分自信で気がつけない分はちゃんと見ていないといけない。

(結局、アドロフ公と何話したんだろう…………また他のこと考えてる)

 自分の思考が現状と関係ない方向へ行きかけて、クロードは床に向いていた視線を神官長へと戻す。

 そしてたどりついたのは中庭へと続く扉だった。

 扉が開かれると同時にそよぐ芳香に、クロードは目を瞬かせる。

「散ってない……」

 神殿の中庭の薔薇達は全てが満開に見える。神殿周囲はほとんど散ってしまっているのに対して異様な光景だった。

「神子様、楽士様をお連れしました」

 中央にある四阿へには黒髪の三十前後の女性がいた。クロードが彼女の側に寄ると、ニカが膝をついて控える。 

 神子は目を惹くような派手さはないが、よく見れば目鼻立ちの整った人だった。

「お忙しいのに無理を言ってごめんなさい。どうしても、あなたにお目にかかりたくて」

 初めて聞く女性の柔らかい声音はなぜか懐かしいものがあって、クロードは引き込まれた。

「……初めまして。あの、俺にお話しって?」

 問うと、神子はなぜだか困った顔で微笑んだ。

(母上だ……)

 神子の笑い方の印象が母と重なって、クロードは目を瞬かせる。顔立ちはそれほど似ていないはずだが、醸し出される雰囲気がよく似ている。

「話したいことは思いつきませんでした。ただ一目、お姿を拝見したかったのです。今は感慨ばかりで……」

 クロードはうっすらと瞳に涙まで浮かべる神子に動揺しながらも不思議な感覚がしていた。内側の妖精達が揺れ動いて、周囲の妖精もつられて揺らめく。

 風が柔らかくそよいで薔薇の香りも一層強くなる。

「妖精達が」

 神子が目を丸くして周囲を見渡す。

 これは少しどころでなくまずい。

「あ、あの! どんな風に妖精の存在を感じているんですか……? いや、信じてないわけじゃなくて、純粋に興味があって」

 クロードはどうにか妖精達を抑え込んで、その場を誤魔化そうとする。

「そうですね……言葉にして説明するのは難しいですが、五感の一部を共有しているというのでしょうか。蜘蛛の糸に触れたことはありますか? 目には見えないけれど、指先にまとわりつく感覚はあるのです」

「すごく、分かりやすいです……」

 感じ方はほとんど一緒で、彼女はじぶんと同じ妖精の存在を感じられる人間なのだと今さら共感が湧いてきた。

 大神殿の大神子はあくまで神を降ろすための器で、妖精を感知する能力は低いらしい。彼女の身の周りを世話する神子達もだ。

 なので妖精の存在が分かる人間とまともに会話できるのは、今回が初めてだった。

「妖精が喜んでいたり、悲しんでいたりとかは?」

「私達と同じような感情、というのが妖精にあるのかまでは分かりません。いい揺らぎか、悪い揺らぎなのかをぼんやりと知るだけです」

 喜び、怒り、悲しみ、言葉は交わせずとも感情的なものはが分かる自分とはその辺りは違うらしい。

 だが感じているものは本当にとても近い。

(俺の遠い血縁)

 ふっと頭に浮かんだことに心臓が早鐘を打つ。再びざわざわと動き始める妖精達を宥めながら、クロードは質問を重ねる。

「子供の頃から分かっていたんですか? その感覚の正体が妖精だって、どうして分かったんですか?」

「……雪が降ることや、薔薇の開花。そんなことが事前に気づくのです。それは妖精を感じているからだと周りから教わるのです。私は五つの時からここに住んでいます」

 異端視される要素をごく自然に周囲が受け入れて教えることに、クロードは改めてこの国が妖精や神霊と共存していることを実感する。

(どうしよう。こっちもすごく気になるけど、今は事件のこと優先させた方がいいかな)

 自分が知らないこの力についての手がかりが掴めそうだが、どうするべきかとクロードは迷う。

「楽士様、妖精達の様子をもう一度確認したいので、よろしければほんの少しでいいので、また笛をお聞かせ願いたいのですが」

 そして考えている内に先に神子に頼まれてクロードは躊躇いつつも、笛を取り出して組み立てる。

「あの、何か……?」

 ふとクロードは神子の視線が気になって小首を傾げる。彼女はとても

「いえ。知りませんが、何も感じないのです。妖精は万物に宿っています。音楽を好むこともあって、楽器などには強く妖精を感じるのですが、そこだけ無なのです」

「え?」

 クロードは改めて笛を見る。そして意識を向けるまでもなく、笛になんの妖精もまとわりついていないこと初めて気づいた。

(すっごい、盲点だった)

 今の今まで笛に妖精がいるなど考えもしなかった。だいたい笛を吹いている時は妖精達が近寄ってくるので、そちらにばかり気を取られていた。

 ひんやりした笛の感触はなおさら冷たく感じる。

「妖精がいないって、どういうことでしょう」

「笛を、貸していただけますか?」

 クロードは素直に笛を渡してみる。そして神子が笛に触れた瞬間だった。

 ちりりと頭の中で鈴の音が鳴り響く。澄んだその音はありふれたもののようで違った。


『クロード、今日からこれはあなたのものよ』


 ふっと母の言葉が記憶に上ってくる。

 母からみっつに連なった銀の鈴を手渡されたのはいつだったか。あれはいつの間にかどこかへなくして、母に泣いて謝ってから気がついたら手元に笛があって。

「これ、あれ?」

 笛を見て、クロードは呆然とつぶやく。

 鈴がなんで笛になるのだろうか。まったく意味が分からない。

「楽士様?」

 笛を持ったままのクロードは、慌ててぱっと笛から手を離す。神子は訝しげにしながらも、両手に笛を乗せて瞳を閉じ、視覚以外で何かを感じようとする。

「私の気のせい、というわけではありませんね……。ここだけ妖精の気配が完全に消えています。こんなものが存在するなんて。でもなぜかしら、この笛のことを知らないのに、知っている気がします」

 不可解そうに言って神子がクロードに笛を返す。

 一族の繋がりの名残なのかもしれないと思いつつ、戻って来た笛を改めて眺めてみる。

「ここだけ、妖精がいない」

 口にするとぞわぞわとして落ち着かないものがあった。試しにそっと風の妖精を動かして、笛に近寄らせてみるが彼らは笛自体には一切興味を示さない。

(な、何、これ?)

 物心つく前から持っていた笛が途端に得体の知れないものになって、クロードは目を瞬かせる。

「えっと、ひとまず吹いてみますね」

 実際音を出すとどうなるかも、確認したいのでクロードは笛に口をつける。

 笛に意識を集中させると、妖精の気配が宿るのが分かる。

(妖精。だけれど、風でも雪でもない。知らない妖精だ。お前、誰だ?)

 気配はそこにあるだけで何の反応も示さない。音が膨らむと一緒に膨らみ、跳ねるとあわせて躍動する。

(音楽に、妖精はいないよな。音は、風の妖精達が作るんだ)

 では、なんなのだろうか。音を奏でていくうちに、煌めきを感じるようになってくる。

(金色、これは俺の瞳の色……? この妖精は、俺自身……)

 ふっと浮かんだ思考に、クロードは音を乱す。甲高い音を旋回させて口を離すと、神子の見開かれた目と視線がぶつかる。

「……あ、すいません。ちょっと、緊張しちゃって」

 笑って誤魔化そうとしてみるが、神子は深刻な雰囲気でどうにかなりそうにない。

「楽士様、その笛はどこで手に入れられたのですか」

「えっと、母の形見です。俺の遠い祖先はこの国にいたそうです」

「そうなのですか。あなたは異国より巡り巡ってここへ帰ってきんですね。私の祖先も渡りの楽士をしていて、そのうちここの近くの村に居着いたらしいです。どこかで楽士同士、巡り会っていたのかもしれないと思うと、不思議ですね」

 神子が小さく笑って、クロードはつられて笑う。

「神子様、もうよろしいでしょうか」

 少し離れた所でいた神官長が落ち着かない様子で、神子に問いかける。

「待ってください。あの、どうしても思い出したくないならいいんですけど、神官様が亡くなった時の様子を教えて、もらえません、か?」

 言っている間に神子の顔色がどんどん失われていって。クロードの声も萎んでいく。

「神子様、ご無理は……」

「いいえ。大丈夫です。あの朝、薔薇達が騒いでいたんです。それで様子を見に庭へ降りてきたのです」

 神子が小さく頭を振った後に、周囲の薔薇へと視線を向ける。

「ここに来る途中に大きな音がして、庭に出た時にはすでにひとりの方があそこで亡くなっていました。そして、彼はあの辺りで自刃しようとしていました」

 神子が最初に指差す所が遺体のあったとされる場所で、自害の場所は初めて中庭へ来た時に、蔓についた血痕を見つけた場所だった。

「神子様が短刀を取り上げようとして、即死は避けられたのですが残念ながら……」

 神官長が神子が口を開く前に説明する。神子は肯定も否定もせずに微かに傷ましげに眉根を寄せた。

 ただふたりともやはり、悲しんではいないかに見える。

「神官様が中庭を選んだのは音を外に響かせやすいからだと思うんですけど、自刃までには間が空いていますよね」

 神子が音を聞いて駆けつけるまでには少し時間が合ったはずだが、もうひとりの密偵は何をしていたのか疑問に思った。

「薔薇と別れを告げていたんだと思います。彼の国には薔薇に話しかけると、花が喜んでより美しく咲くという言い伝えがあるそうです。それで、彼は毎日薔薇に語りかけていました」

 皇太后とそれは同じだと思って、クロードは周囲の薔薇を見渡す。

 遺書の中には中庭を血で穢すことへの詫びもあった。

(もしかしたら、ここの薔薇はその密偵を待ってるのかな)

 密偵が死んだ日、薔薇の妖精が騒いだのは神子を呼んで助けてもらうためで、今も咲いているのは彼が再び声をかけてくれるのを待っているのからだろうか。

 ここの薔薇達はオリガの願いが叶うことだけでなく、彼に再び声をかけてもらえるのを待っていて散らないのかもしれない。

 実際に繋がってみたいがそれは無理そうだと思い、クロードはひとつ疑問を持つ。

(どうして薔薇が喜んでくれるって話ができたんだろう)

 薔薇の妖精が話しかけられるのが好きだというのは、妖精の感情を感じ取れる妖精王ぐらいなはずだ。

 そんな言い伝えは故国のハンライダでは聞いたことがなかった。

「あの、それ具体的にどんな言い伝えなんですか?」

 クロードが訊ねると、神子は詳しくは知らないと答える。

「あなた様は聞いたことはありませんか? 彼が言うには、異教の教義が元になっているそうです」

 代わりに答えたのは、神官長だった。

「ナルフィス教の? すいません、本当に合わなくて基本的なことしか知らなくて……」

 心底驚いた顔で神官長は目を瞬かせる。

「学ぶのも厭うほど、ですか。だからこそあなた様はすぐにこの国の信仰に馴染んだのですね」

「……そんなところです。神官長様は詳しい事を聞いたんですか?」

 ナルフィス教を学ばなかったことび関しては適当な返事をして、クロードは神官長を見上げる。彼は少し迷う素振りを見せたが、伝え聞きですがと最初に断っておもむろに口を開いた。

「妖精はけして見るべからず。語りかけるべからず。その存在を認めなければ人に害悪を与える力も弱る。だが妖精はそこに存在する。完全否定はすなわち唯一神の否定」

 神官長の声音と抑揚が変わる。

「妖精は否定しなければならないが、しかし神の存在を信じるためには否定してはいけないというのは難しい話ですね。これは己にとって唯一神とはなんであるかを考えるための、ものです。答はそれぞれ違うでしょう。しかしただひとつだけ同じことを最後に思うはずです。我々にとって神は絶対であると」

 クロードは神官長の語る言葉に息を呑む。

 礼拝堂で講説する神官長の自然と聴き入ってしまう語り口に覚えた、既視感の正体が見え始めていた。

「ディシベリアの信仰に似ているところも見られますね。人が神を望むのは国が違おうと変わりません。しかしながら、彼の国の神とは人にとって絶対的な味方でなければない」

 何かを考え込む顔をして、神官長が苦笑する。

「……すみません。話が逸れましたね。そして旧い昔にひとりの司祭が薔薇をひとつ例に出してみたそうです。今目の前にあるのは薔薇である。声をかけてみよと。その時自分は何を見ているか。その時に薔薇を褒め称えていたひとりの旅人の青年が、薔薇が喜んでいるのが見えると答えたそうです」

 それは何世代か前の妖精王かもしれない。ディシベリアに限らず各地を放浪していたらしいのでありうる話だ。

「彼は目の前にあるのは薔薇以外のなにものでもないと答えて、去っていたそうです。そしてその翌年に薔薇はより美しく咲き、それから薔薇に話しかけるといいという言い伝えができたそうです。そして旅人は唯一神の使いではとも言い伝えられているそうです」

 伝え聞きとは思えないほど滑らかに語り終えた神官長にありがとうございます、とクロードは小さく答える。

「あの、本当に神子様も辛いことを思い出させてしまってすみません。ご協力、ありがとうございました。帰りはひとりでも大丈夫ですから」

 クロードはそれを言って、ニカと共に中庭を去る。

「殿下、大丈夫ですか?」

 そして、扉が閉まってニカが青ざめたクロードの顔を覗き込む。

「ちょっといろいろありすぎて、頭がごちゃごちゃしてる。笛のこととか俺の血縁とかちょっと分かったし……」

「血縁というのはやはり神子様、ですか」

「たぶんそうだと思う。後でフィグ達にも報告するからその時、詳しく話す。それから……」

 クロードはそこで言い淀んで、口を引き結ぶ。

 予想はたぶん当たっている。だけれどその後のことを考えると、言葉がつっかえてしまう。

「殿下?」

 ニカに呼ばれて、クロードは後ろを振り返る。

「……神官長様もこの国の人じゃないと思う」

 そして、本当に小さな小さな声だったがやっとその答を口に出せた。


.2

 フィグネリアはアドロフ公家の離れに戻り、クロードが話すのを硬い表情で聞いていた。

「思わぬ所で、笛のことが分かったのか。それと、神子様が血縁とはな。だが納得いくといえばそうだな」

 妖精の気配を感じられる神子と、妖精を従える妖精王。

 どちらも妖精と接することができる人間だ。どこかで繋がっていても不思議ではない。

「各地を放浪して、後を継ぐことのない人がその地に残って、ときどきその中から神子様になれる人が出てくるんじゃないかと思います。それと、笛、もとは鈴でした。このあたりはまだよくは思い出せてないんですけど、妖精がいないこととかやっぱり特別な笛みたいです」

「まあ、元は鈴だった時点で明らかに普通ではないが」

 フィグネリアは言いながらも、いまひとつ信じ切れない思いでいた。しかしクロードがそう言うなら信じるより他ない。

「冬籠もりの祭事の時、鈴を鳴らす習慣があるがそこからきているのかもしれないな」

 ザハールが言ったことを、ちょうどフィグネリアも思い出していた所だった。

 神霊をその身に降ろす大神子が年に一度大神殿から出てくる冬の祭事で、祭場へ向かう渡りに合わせて民衆が鈴を鳴らすのだ。

 他にも神事で鈴が鳴らされることもある。

「笛ではなく、鈴について調べた方が何か出てきそうですね」

 ニカがそう言ってから一瞬気遣わしげにクロードへと目を向ける。

 何か困ったことでもあるのだろうかと、フィグネリアは夫の表情を見る。表情が先ほどより強張っている。

「君のその笛についてはひとまずこれでおいておいて、肝心の密偵の方はどうだったんだ?」

 ザハールが問うと、クロードがしばし迷ってから口をおもむろに開いた。

 とつとつと被疑者の生い立ち、死亡時の様子や神殿の中庭の薔薇が咲いていたことなどを話していく。

(だいぶ、引込まれているな)

 フィグネリアはクロードの悲しげな表情や重たげな口調に、胸が軋んで苦しくなってくる。

 夫につられて被疑者に同情しているわけではない。

 これから自分がなそうとすることで、さらにクロードが気落ちすることを考えると辛い。

「それで、他には?」

 フィグネリアは表情は崩さないまま、もたついてきているクロードを急かす。

 彼が自分達がまだ知り得ない何か気づいていることがあるのだろう。ニカは先に聞いているのか始終心配そうだ。

「時間がないんだ。早くしてくれ」

 ザハールがきつく言うと、クロードは下げていた視線をあげる。救いを求めるような琥珀の瞳と視線がぶつかる。

「神官長様もロートムの人だと思います。講説の時の話し方が、司祭様と一緒なんです。ナルフィス教の教義の話し方も、最初に聖典の一説を出してそれから教義を始めるっていうやり方と、独特の口調が一緒だから元は司祭様だったかもしれません」

 クロードがひと思いに喋って、フィグネリアは唖然とした。

 さすがにそれは想定外だった。どう見ても神官長はどこにでもいる模範的な神官で、なんの違和感もなかった。

「……自決した密偵の実父は元司祭だったか」

 驚きながらもフィグネリアは冷静に先にクロードから聞いた話と結びつける。

 繋がらなかったものがこれで一気に整然とする。

「赤の他人というには、できた偶然だな。君の憶測が正しいとして、これなら不明な点もつじつまが合うわけだ。皇女殿下、神官長の素性は?」

「マラット殿に簡単なことは聞いているが、十年前に大神殿からこちらへ派遣されて神官長になったぐらいしかな。神官方の経歴はご本人にしか分からん。密偵の実父の死因は聞いていないだろう」

 フィグネリアはクロードがうなずくのを確認して続ける。

「密偵が二十三、神官長様が五十前後で年は合うな。銃に対処しきれなかったのも、二十年以上前にロートムを出ているなら、分からなくて当然か。過去の密偵の動向の情報も得られるかもしれんな」

 捕えた密偵から神殿へと潜りこむ計画が始まったのは五年前だという情報は得ている。過去に遡っては同じ計画があったかは実害も確認されていないので今は調べようがない。しかし、神官長がその過去の事例だとするならこれ以上ない手がかりだ。

「……殺された密偵が気づいたのなら、口を塞がれる理由はできる」

「神官長が密偵を引き渡さないのも、保身と息子を護るためか。他の神官方は知っているのか。君が見た限り保身と、我が子可愛さどっちが強いと思う?」

 ザハールの問いかけに、クロードはしばし悩む。

「保身っていうのはあんまり感じなかったです。一生懸命、息子さんのこと話してたし、大神殿側からの処罰も受けるつもりでしたし」

 憶測の域をすぎない返答だが、クロードはこの辺りの機微には敏い。

 フィグネリアはやりやすいといえばやりやすかいかと、考える。

「皇女殿下、そのあたりから追い込んでいけそうですが、どうしますか?」

「追い詰めすぎると死なれそうだからな。……息子の方の身の安全を強調する方向で行くか。保身の意思が薄いなら容易だろう」

「後はもう少し、神官長がロートムの人間である確証があればいいのですが。ある程度はったりでどうにかなるでしょうか」

「現状で相当焦っているからな。クロード相手だったからというのもあっただろうが、自分の素性に繋がる話をしてまっているしな。そこはお前は任せる」

「まあ、皇女殿下がやるより私がした方が効果的でしょうね」

 ザハールとある程度方策を決めた所で、フィグネリアは物言いたげなクロードに目を向ける。

「……何か疑問はあるか?」

「結局、神官長様も密偵も捕まえるんですか? 情報だけもらって、あとはもうそのままにしておいても十分じゃないですか?」

 疑問というより願望めいた口調でクロードが言うのに、フィグネリアは首を横に振る。

 そして全部言っておくべきかどうか、逡巡する。

 しかしどうせ後で分かることなのだと隠し立ては諦める。

「神官長様は、密偵側の人質にするので神殿に留め置く。密偵は捕え、保身のために同胞を殺害し神子様を人質にとって神殿を従わせていたとする」

「でも、悪いことしようとしたわけじゃないのに……」

 クロードが目を見開いて動揺した様子でいてフィグネリアは、声を穏やかにする。

「私達の目的は密偵から情報を得るだけでなく、先のための前例作りもある。そして後者の目的の方が大きい。神霊様を過剰に恐れることに対しての問題提起、そして今回のような事案の時に神殿の法と政府の法の境界を定めるための前例。先延ばしにはできないし、手段は選んでいられない」

 神殿に両者を残しておける手立てはあるが、今回はそれは選択できない。

「他に、何か方法とかは……ないんですよね」

 クロードが言い募りながらも、無理に呑み込んでうつむく。

「君は可哀相な密偵親子の身の上話ばかりに気が行っているが、両者ともディシベリアに損害を与えたことを忘れるな。密偵の活動記録は一年だけだとしても確かにあった。そして、神官長は密偵の存在を隠した。仲間を殺したのも、父親を護るためと言えば聞こえはいいが、所詮は自己満足にすぎない。君はディシベリア国民としてはもちろんだが、それ以上に皇族として、国益を第一に考えるんだな」

 ザハールの容赦ない言葉に、フィグネリアは静かに彼をねめつける。

 そこまで言わずともクロード自身もよく分かっているはずだ。

「…………ちょっと、外で頭冷やしてきます」

 クロードがひどく悩んだ様子でふらりと席を立つ。

 フィグネリアはその袖を引いて止めようとするが、上げかけた手を止める。今は自分が側にいても彼をさらに悩ませるばかりだ。

「あの、自分は殿下に外套を届けに行ってきます」

 ずっと落ち着かない様子だったニカが立ち上がって許可求めてきて、フィグネリアは首を縦に振る。

「ああ、頼んだ」

 ニカは言われるなりすぐに自分とクロードの分の外套を手にして、急いで追い駆けて行った。

「まったくお前は余計なことを」

 フィグネリアが半ば八つ当たり気味にザハールに文句をつける。

「皇族として考える、ということができていないのは事実でしょう。あなたはもう少しその辺り含めて教えておいた方がいい」

「まだ一年足らずだ。学ぶだけではなく、実務をこなす内に自ずと身についてくるものだろう」

「彼の場合は十七年もあのお気楽な価値観で過ごしてきたのだから、最初に矯正しておくべきだったのでは」

 フィグネリアとザハールは急にふたり同時に黙り込む。

「……なぜ、あなたとこんな子供の教育方針について揉める夫婦のような会話をしなければならないのでしょうか」

「不毛だな。まったくもって不毛だ。それより、マラット殿の所に報告に行くぞ」

 お互いやれやれといった顔で重い腰を上げる。

(エリシンがいるから問題ない)

 このままクロードの様子を見に行きたい衝動にかられてフィグネリアは頭を振る。

 それでも外に出ると近くにクロードがいないかつい探してしまう。

「皇女殿下、行きますよ」

 つい足が鈍っていたフィグネリアはザハールに急かされて、歩調を早める。そして結局一度だけ振り向いてしまっていた。


***


「……頭冷やすっていっても、寒すぎた」

 離れの裏手近くまで歩いてきたクロードは、じわじわと体にしみ込んでくる冷気に身をすくめる。追い駆けてきたニカが持ってきてくれた外套を着ていてもまだ寒い。

「殿下、中へ戻りましょうか?」

「もうちょっとだけいる。……皇族としての自覚が足りないのは俺でも分かってるし」

 そしてザハールに言われたことを思いだしてむくれる。

 そんなこと自分が一番分かっている。

 目の前のことでいっぱいいっぱいになって、先のことについて考えが足らないことも、そのせいでフィグネリアを困らせているのも、全部分かっている。

「自分はそれで殿下に救われたので、必ずしも悪いとは思いませんが。なにより殿下は皇女殿下のことを一番に思っています。それは国のためになるのではありませんか?」

「うん。俺はフィグの味方だし、フィグのためにできることはなんだってしたい。……気持ちはありがたいけど、寒い」

 クロードは離れの壁にもたれかかる。すると風の妖精達が寄り添ってきて頬や鼻の頭が痛くなる。

「でも、難しい。頭ではまだちゃんと理解出来るのに、気持ちがついてかない」

 フィグネリアがなそうとしていることも、それがどれだけこの国の将来のために重要なことかは飲み込める。

 だけれど密偵のこともなとかしてあげたいと思う自分がいる。

「ニカは、こういうときどうする?」

「自分もあまり、私情を分けるというのは得意ではありません。結局、考えないとしか。殿下もいずれはある程度は切り替えられるようになると思いますよ」

 いずれはいつ来るのだろうと、クロードは白い吐息を零す。

「ザハールにも聞いた方がいいのかな」

「イサエフ二等官はあれはあれで特殊な部類では。……皇女殿下に直接相談はされないんですよね」

「うん。フィグに相談する以外の解決方法も見つけないと。そうやって積み重ねていったら、フィグにもっと、頼ってもらえるだろうし。それに状況に合わせた相談相手とか見つけて、本当にフィグと相談しなきゃならないことの判別もつけられるようになると思う」

 全部が全部フィグネリア頼りだと、彼女に負担もかけるし心配もさせることになる。

 ふたりでないと解決しないことはたくさんあるだろうけど、自分自身でも解決しなければならないことはもっとあるはずだ。

「……今の所相談相手って、ニカかザハールしかいないけど」

 ザハールもなんのかのと言いつつ、質問にはまともに答えてくれる。嫌味の棘付きのことも多いが。

 なかなか信頼できそうな相手というのも見つけられない。

「できるだけ自分が侍従としてお手伝いさせて頂きます。イサエフ二等官に悪影響を及ばされるのは全力で阻止したく思います」

「大丈夫。俺、絶対にああはなれないから……」

 ザハールの能力に追いつきたい気持ちはあるが、あの性格にはなりたくないしなれもしないだろう。

「だから寒いから」

 また風の妖精達がまとわりついてきてクロードは、彼らを宥める。

「今日は風の妖精の様子が違いますね。いつもはもっと騒がしく書類を飛ばしたりしているのに……」

 風の妖精のいたずらを普段目の当たりにしているニカが首を傾げる。

「ん。そうだな。今日はちょっと大人しいっていうか行儀いいな。ああ、そうだ。神霊様の前だとこんなだったかな」

 冬の祭事の時を思い出して、クロードは妖精達の気配に意識を向ける。雪の妖精達もいつもより品がよく、あまり自己主張していない。

 感じる妖精達全てが、そんな風だ。

「妖精達にとって殿下が従うべき相手ではあるのなら、普通だとは思うのですが」

「そういえば俺って一応妖精達の王様だったよな。……ああ、俺っていうかあの金色の妖精がそうなのかも」

「笛に宿った妖精ですか?」

「うん。今まで全然気づかなかったけど……神子様と会ったから、気づけたんだな」

 クロードは自分と遠い血縁だろう神子の母と似た笑みを思い出す。

 肉親の縁に薄い自分にとっては、どれだけ血の繋がりが薄かろうが妖精の話が少しでもできたことが嬉しい。

「不思議だな。俺にとって縁もゆかりもない国だと思ってたのに、ちゃんと繋がってるものがあるなんて」

 話や書物で見聞きしてきた時でも驚いたが、実際に血縁となる人と出会うとやはり違う。目の前にある確かなものに感動と高揚を覚えて、気づいたあの瞬間を思い出すと胸が熱くなる。

「殿下は戻るべき所に、戻ってこられたんでしょうね」

 ニカが感慨深そうに言うのに、クロードは力強くうなずく。

「きっかけはなんでも、ここに来られたのはよかったな。大事なものもも好きなものもいっぱいできたし。この笛とあの金色の妖精のことがもっと分かればいんだけど」

 後ほんの少しで、妖精王としての秘密に手が届きそうなのにもどかしい。

「神霊方はその妖精については何も仰らなかったのですか?」

「それが不思議だよな。神子様は妖精がいないってすぐに気づいたのに、神霊様から笛のことはなんにも言われたことがないんだ。あんな妖精がいるなら何か言ってくれていそうだけどな」

 なににも属さない妖精。神霊ならばすぐに正体を見抜いて、妖精王の力のことも察していそうなものだが。

「神霊方にも分からない妖精というものがいるのでしょうか」

「うーん。なんだかなあ。神霊様がよく知らないっていうのも何か変だよな。普通はさ、妖精を同じように操るなら、お互いもっと話し合っててもいいと思うんだ。神霊様達とご先祖様、まったく接点がなかったわけでもないのに」

 神霊達は祖先と会ったことがある口ぶりだったし、少なくともラウキルに追い駆け回されたときに地母神に協力してもらって国外に逃げたのだ。

 ある程度は話ができる間柄にあったはずなのだが。

「ギリルア様、はうーん。あれだけど、アトゥス様あたりはある程度までは分かってた。あえて話さなかったならなんだろう」

「ルーロッカ様も、殿下を味方に引き入れようとなさっていましたし、妖精に対しての影響力は殿下の方がお強いのでしょうか。一応は殿下が勝たれましたし」

 ニカが自分が巻き込まれた件を思い出して唸る。

 確かにルーロッカはリスという合わない器で思うように力を振るえていなかったものの、自分は打ち勝って妖精達を自分のものとした。

「神霊様と俺とじゃ妖精の使い方が違うんだよな。神霊様は本当に命令して従わせるだけど、俺の場合は一体化して俺自身が妖精の一部になるようなものだから。……やっぱりあの金色の妖精が全部の答を知ってるんだろうな」

 妖精王の瞳と同じ色の印象をもたらす妖精。

 自分が王たる所以はきっとそこにあるはずだ。

「でも、俺全然王様らしくないよな。一応王族産まれなのに」

「殿下が自らをらしくないと思うのは王というものがなんなのか分かっているからでしょう。それならば自分が王としてなすべきことができるはずだと、自分は信じています」

 ニカに力強く励まされて、クロードはうつむき気味だった顔を上げる。

「できるといいな。できたらもっとフィグのためになれるし……」

 クロードはそう言ってくしゃみをする。どうしてこういう時に自分は格好がつけられないのだろうと、少々情けない。

「……殿下、中に入りましょうか」

 侍従が苦笑するのに、指先がすっかり冷え切っていたクロードは今度は素直にうなずいて、離れへと戻っていった。


***


 マラットの執務室へと行くと、長椅子にパーヴェルが座っているのを見つけてフィグネリアは必要以上に体に力を入れようとしてしまう。隣にいるザハールも珍しく緊張を見せて挨拶をしていた。

 フィグネリアも挨拶をした後、パーヴェルの顔色を窺う。

「アドロフ公、お体は……」

 しゃんと背を伸ばしているパーヴェルの顔色はそれほど悪くないが、そう見せていないだけかもしれない。

「問題ない。ことは進みそうか」

 パーヴェルの問いかけに答えつつ、マラットに憮然と席を勧められるままにフィグネリア達も長椅子に腰を下ろす。

 そして神殿でのことを報告する。

 パーヴェルの無言の圧力の元、マラットが声を荒げることもなく淡々と話し合いは進んでいく。

「明確な確証がない。状況証拠だけで神官長様を糾弾するつもりか。知らないと言い切られたならどうする」

 ひととおり聞き終えたパーヴェルの質問にフィグネリアは応答する。

「言い切ることはできないと思います。隠蔽工作をした上、遺書を出してさらに情に訴えと密偵を庇う意思があるのは明白です」

「殉教者として扱われる者を罪人に貶めることは、神殿の神聖を穢さぬ行為だと考えるか?」

「神聖を保つためでもあります。これを殉教とするにはいささか私情が克ちすぎるかと考えます。それに、殺害自体は私情以外の何物でもありません」

「それを国の利益に利用するのは、俗世の欲を神殿に持ち込むことにはならないのか」

 パーヴェルの切り返しに、フィグネリアは沈黙する。

「ならば、アドロフ公は人と神の領分をどこで分けるべきとお考えですか?」

 両者の静かな睨み合いに、場の空気は緊張しきっていた。

「それは人が決めるべき区分ではない。神々にとって人の作った境界など無意味だ。どれほど人がそこまでと定めようが、神々は踏み越えてくる」

「ええ。それでも、人は定めなければなりません。人が人としてなせることをなすために」

 神々を畏れ本来ならばできるはずのことまでしないままではいけない。

 そして神霊達は人のためにはうごいてくれるものではない。

 彼らが人に関わるとき、悪意はもちろん善意すらない。

 大神官長のそんな言葉を思い出して、フィグネリアはふと今降りてきているリルエーカのことを思う。

 ならば、かの女神はどうなのだろう。

「フィグネリア」

 パーヴェルに名前を呼ばれて思考を逸らしかけたフィグネリアは意識を戻す。

「お前が見定めた境界に迷いはないな」

「ありません」

 そこでパーヴェルが少し身を引く。

「……お前の婿も異論はないのだな」

 痛いところを突かれてフィグネリアは押し黙る。

「伴侶ひとり納得させられずに民に己の意思を押し通せるものなら、してみるがいい」

 パーヴェルにさらに追い打ちをかけられて、返す言葉は何もでてこなかった。

 目の前で迷うクロードに何も声をかけられなかったのに、まともに言い返せるはずがなかった。

 そしてそのまま退出することになってしまった。

「思わぬ所で足を引っ張られてしまいましたね」

 ザハールの軽い口調にフィグネリアはきつく眉根を寄せる。

「……クロードのせいではない」

「十二分に弱みになっていると思いますが、あなたはかといってこれで引く気もないでしょう」

「ああ。決めたことはやる」

 多少揺るがされたぐらいでは引かない。決断したなら、けしてひいてはならないというのが父の教えだ。

 そして覆せない決断がどれほど重いものか、思い知らされている。

「クロードには、このことは言うな」

「しませんよ。これ以上じめじめと鬱陶しくなられても困りますからね。ですがご夫婦で一度は話し合った方がよいかと思いますよ」

 ザハールが言うのに、フィグネリアは分かっていると小さく答えた。


***


「父上、フィグネリアの策は危険では?」

 フィグネリアとザハールが立ち去った後、パーヴェルは不服そうなマラットにそう訊かれた。

「お前は他に良策をもっているのか?」

「……判断としては悪くはないとは思いますが、あれの神殿に対するやりかたは危うすぎる。神々に支えられたこの国の根底を壊しかねません」

 マラットが苦々しく言う。

「ならば戦え。お前のあれに対する敵意は芯が定まっていない。アドロフ家の血統を重んじるのはいい。だがそれだけでは足りん。あの娘はお前より遙かに狡猾だ。多くの者を自らに従えるだけのものがなければ、容易には潰せんぞ」

 すでに先帝によって血統至上主義は崩壊を始めている。さらにフィグネリアが帝位につけば、それは加速するだろう。

「父上は俺がフィグネリアに劣るというのですか!!」

 マラットが青筋を立てて、窓硝子がびりびりするほどの声を轟かせる。

 馬鹿でかい産声を聞いて五十二年。今さらこの程度の声で怯むことはないパーヴェルは動じることなく半眼を伏せる。

「お前はフィグネリアにどう対抗するつもりだ」

「まだ軍はイーゴルが掌握しています。血統と武力によって築かれるディシベリアを取り戻すのはフィグネリアがまだ小娘である内にやるしかないのです! リリアの所から養子を取れば、例えイーゴルに嫡子がなかろうとアドロフ家の血統は護れる。賛同する者は他にも多くいます」

 そこでマラットはじっと睨んでくる。

「父上、家督をお譲りください。政務も滞りなく行い、一族の統率もなせるのになぜですか」

 先ほどとは打って変わった静かな物言いだった。

 確かに政務も一族の統率も二十年も前に代替わりしていてもいいほどには、こなせている。

 だがこの直情的な所は直らず、血の気の多い根っからの軍人気質の者はよく従えさせられるが、とても先帝と対抗できるほどの冷静さがなかった。

 九公家の他の当主に対しても、渡り合えるかといえば怪しい。

「……そう急かずとも近いうちに家督はお前の手に渡る」

 老いて骨と皮ばかりの手を見ながら、パーヴェルは静かに告げる。

 この手で築いたものは息子に全て譲り渡すつもりだが、どうしても気質が違いすぎて全ては与えられない。

 我が子に全てを残してやれた先帝が時折妬ましく思える。

(なぜ、それがオリガの子ではなかった)

 パーヴェルは杖を支えに立ち上がり、無言で部屋を出る。

 我が子ではない赤子を抱いて、愛おしげにその頬を撫でて幸福そうに微笑んでいた娘の姿が眼裏にある。


『恋は叶わなかったけれど、愛していただけたからそれで幸せなの。あの子のお母様になりたいと陛下にお願いしたのもわたくしなのよ』


 ふわふわと夢の中で生きていた娘は、いつまでたっても愛することが全てのようだった。

 イーゴルも、リリアも娘と似すぎているぐらい似ている。

 パーヴェルは目の前でじっと自分を見ている侍女に目を止める。

 彼女が神霊をその身に降ろしているのはとうに気づいていた。声を待つが、神霊は何も言わずにそのまま横を通り過ぎた。


***


 その夜、クロードはニカと一緒にザハールの部屋を訪ねた。

「お邪魔します」

 自分とフィグネリアの部屋より少し狭いだけの部屋のベッドの上で、ザハールは明日のための資料を見返していた。

「本当に邪魔だな」

 資料から顔も上げないザハールにすげなく返されて、クロードはすごすごと帰りたくなる。

「どうしても、邪魔ならいいですけど……」

 実際仕事中なら仕方ないという思いもあってそう言うと、ザハールはサイドテーブルに資料を置いた。

 面倒くさそうにため息を吐いているが、どうやらいてもいいらしい。

「それで、ふたり揃って僕になんの用だ? それと扉は早く閉める」

 ザハールがベッドを降りて、いつまでも戸口で外の冷気を入れる主従をテーブルセットの方へ促す。

「明日のことでいろいろです」

 クロードはニカと並んでちょこんと席について、ザハールと向き合う。

「皇女殿下に訊けばいいだろう。納得いかないから僕にどうにか説得してくれとか言うつもりじゃないだろうな」

「納得、は全部しきれてないです。でも、フィグが決めたことならちゃんと自分なりに納得したいと思って……今すぐは無理かもしれないですけど」

 今から明日までに全部を理解して気を落ち着かせられるとは思っていない。だけれども、ほんのちょっとでいいからこの苦しい気持ちから抜け出すものが欲しい。

「君なりに考えていることは考えているのか。皇女殿下本人とは話し合わないのか?」

 少し態度を和らげてザハールが首を傾げるのに、クロードはこくりとうなずく。

「フィグを困らせたくはないんです。それに、これは自分で解決しなきゃならないものだと思うんです」

「と、言いつつ君は侍従付きで僕の所に来ているわけだが」

「う。いろんな人の意見を聞くのも手段のひとつです。ザハールはフィグと考え方にてるけど、ちょっと違うと思うから何か参考が欲しいです」

 怯みがちになりながらも、クロードは真剣な眼差しをザハールに向ける。

 至極嫌そうな顔をしつつも、ザハールが椅子に深くもたれかかった。そして深い藍色の瞳で見返してくる。

「それで君が納得いかないのは一体どの部分なんだ? 密偵を捕えること自体か、密偵を悪人に仕立てることについてか。それとも両方か?」

 クロードはうん、と考える。

「両方、だと思います。密偵を捕えること自体には、納得はしてます。それについては、助けられる人が目の前にいたら助けたいって後先考えてない自分に、なんだかもやもやします」

 感情的にはなっていけない。ひとりの動きから、誰がどう動くかを考える。

 マラットとの最初の会談でフィグネリアにそう教えられた。

 このことも同じで、目の前で起こっていることが後にどんな影響を及ぼすのか考えなくてはならないのに、感情ばかりが先走る。

「君は感情的な分、他人の感情にも敏感だからな。自覚があるなら問題ない」

「ないんですか……?」

 いいのだろうかとクロードは半信半疑で首を横に傾ける。

「いい結果も悪い結果も産むが、そこに侍従がいるんだから悪い方向に行きそうなら手綱は握ってもらっておけばいい。自覚があるならそのうち自分で踏みとどまれる……なんだ、その目は」

「うう、なんか、ザハールがまともだと変です。な」

 隣で静かに聞いているニカに同意を求めると、彼も首を二回も縦に振る。

「失礼だな。僕はいつでもまともだ。エリシン君も、自分の侍従としての役目は分かっているだろう」

「はい。クロード殿下をお護りすることです。身の危険はもちろん、誤った道を歩むときもまた同じく。いかなる時も、主君が我が命と心得ています」

 ニカがはきはきと答えるのに、クロードは唖然とする。

「…………ニカ、重い」

 そしてぽつりと零すと、侍従にじっと見据えられる。

「このディシベリアで膝を折り、忠誠を宣言するというのはそういうことなのです。自分はけして安易に殿下の侍従となったわけではありません。殿下のために命を捨てる覚悟もあります」

「いや、捨てなくていいから。そういうのは将来の大事な人にな。……やっぱり恋人のひとりぐらい作っても誰も文句は言わないと思うけどな。ほら、侍女の」

「人が真剣に話してるのにそっちの方向へ持っていかないでください!」

 ニカが誤魔化し半分、怒り半分で赤くなって怒るのでクロードはひとまずそこまでにしておく。

「……君達、本題はどこへ行ったんだ」

 ザハールが冷めた声で言うのに、クロードは居住まいを正して頭を下げる。

「すいません。ニカは頼りになるんですけど、俺、踏みとどまれるようになるんですか?」

「ならなければ、学習能力のない馬鹿だ。自分がそこまで馬鹿だと思うなら、皇女殿下と離縁すればいい。僕が遠慮なく次期皇帝の夫の座はもらってあげるから」

 それだけは絶対に嫌だとクロードはぶんぶんと首を横に振る。

「そこまで馬鹿になりません! フィグの旦那様は俺だけです。……だから、俺が一番頼れる人にならないと駄目なんです」

 言っているうちに意気消沈していく。

 フィグネリアが困ったときに、一番最初に目を向けてもらえる相手になりたい。だけれど思い描く理想はまだ遠すぎる。

 一歩進むのがあまりにも緩やかな自分が情けなくて、苛立たしくなってくる。自分自身に腹が立った時どこにぶつけていいか分からなくて、なおさら苛々する。

「君は本当に浮き沈みが激しいな。それで、密偵を悪役に仕立てるのにも納得がいっていないんだろう」

 ザハールのどこまでも冷淡な声に、冷や水を浴びせられた気分でクロードはうなずく。

「…………ザハールは、後ろめたさはないんですか?」

「ない。ディシベリアにわずかでも損害を与えたのなら、それ相応の報いは受けてもらうのが道理だ。命は取らずに穏便にすますのだから、むしろ向こうには温情感謝してもらいたいくらいだ」

 傲岸不遜な返答に、クロードはニカと目を合わせて微妙な顔をする。

 この考え方はたぶん自分には一生できないだろう。

「でも、嘘なんですよ。その密偵の気持ちとか、全部なかったことにしちゃうんですよ」

 それはすごく、悲しい気持ちになるのだ。

「君はどうして、まだきわめて確証に近いとはいえ、本人から直接確認したわけでもないのにそこまで感情移入できるんだ。僕にはそこが全く理解できない」

 ここはお互い絶対にわかり合えない領分らしい。

「……ずっとどこにも居場所がなくて、ようやく自分が居たいって思える場所を見つけられた気持ちはよく分かるから、他人事の気がしないんです。神官長様が話した密偵の話は、嘘に思えなかったし」

 上手く説明はできないけれど嫌な人間は分かる。子供の頃から争いごとを避けるのに必死だったので、敵意や悪意には人一倍敏感だ。

「そこは僕も皇女殿下も、策に踏み切るための重要な情報として扱うぐらいには信頼しているがな。君はもっと区分しなければならない」

「それが上手くできないから、訊いてるんじゃないんですか」

 感情をもっと分けなければならないのは、分かっているのだ。どうやって仕切りをしたらいいのだろうか。

「あいにく、そういうことを考えたこともないからな。それこそ、君が自分で見つけるしかないんじゃないのか?」

 ザハールが面倒くさそうな顔になって、クロードは考え込む。

 答は自分の中に。

 そしてフィグネリアに言われていた言葉を思い出す。

(見つけられるかな。違う。見つけないといけないんだ)

 クロードはそう考えて、ならばと明日の策についての細かなことをザハールに訊ねる。

 彼はわざとらしく眉をひそめつつも、そのままいろいろ教えてくれた。

 当然の如くたっぷりと棘と毒も含まれていたものだったが。


***


 クロードはどぎついザハールの講義をニカと一緒に受けた後、精神的に疲れ切って寝室に戻る。

 ずいぶん遅くなったし、フィグネリアはもう寝ているだろうと思ったが、彼女の姿は暖炉前のソファーにあった。

「フィグ、ただいま……」

 声をかけている途中で微動だにしない妻に気づいて、側に寄ってみると彼女は座ったまま眠っていた。

「待ってたのかな?」

 ガウンを着て膝掛けもありで防寒はできているが、このままの体勢で眠るのは疲れも取れないだろう。

 クロードはそう考えて、フィグネリアの寝顔とベッドを交互に見る。

「…………筋力欲しい」

 できれば起こさずにベッドに運びたいのだが、あいにくフィグネリアを抱えて歩けるだけの力はない。

 大柄なディシベリア帝国民の体型に合わせて作られたソファーは、この国の女の子としては小さめのフィグネリアにはベッドぐらいの大きさはある。そっと横たえて、毛布を掛けるのが無難だろう。

「えっと、どうすればいいかな」

 それはそれで大変だとクロードはフィグネリアの掌を、ひとまず自分の掌に乗せる。次の動作をどうするか決めかねて、指先まで綺麗な彼女の掌をぼんやり見つめた。

 それから無防備な寝顔へと目を向ける。

 暖炉の灯を受ける伏せた長い銀の睫は艶やかで美しく、わずかに開いた桜桃色の唇から漏れる寝息はあどけない。

 そんな彼女が無性に愛おしくなって、重ねた手を軽く握ってクロードは目を細める。

 起きているときもこんな風に穏やかで居させてあげられたらいいのに。

 欲張りすぎだと自分でも思うほど、この頃はやりたいこともなりたい自分もたくさんある。

 そしてその全部が行き着く先にあるのは、フィグネリアだ。

 自分が得たもので彼女を支えられるといい。

「ん……、戻ったのか」

 クロードが手を離して横たえようとした時、フィグネリアは目覚めてしまった。

「ごめんなさい。起こしちゃいましたね」

「いや、いい。ザハールに意地の悪いことは言われなかったか?」

 まだ寝惚け眼で目をこすりながらそんなことを言うフィグネリアに、クロードは苦笑する。

「大丈夫ですよ。俺、フィグに心配させてばっかりですね」

 フィグネリアが目を瞬かせて首を横に振る。

「そんなことはないぞ。やはり、ザハールに何か言われただろう」

「言われてません。寝るならベッドの方行きましょう。一緒に寝られるし」

 クロードは眠たげなフィグネリアの手を引いて立たせて、そのまま手を繋いだままベッドへ向かう。

「ああ。そうだな。お前が帰ってくるのを待っていたのだが、ついうとうとしてそのまま寝てしまった」

 言いながらフィグネリアがあくびをかみ殺す。

「フィグ」

 クロードはベッドのすぐ側で立ち止まって、眠たげなフィグネリアを見下ろす。

「明日、密偵と話すことになったら、それ俺に任せてもらえませんか?」

「大丈夫か?」

 また心配そうな顔を向けてくるフィグネリアに、クロードは微笑む。

 彼女を抱えることはできないけれど、こうして並んで歩めるぐらいになるには必要なことだ。

「大丈夫です。よし、それじゃ明日のことはこれで終わりですっと!」

 まだ物言いたげなフィグネリアの細腰を抱いて、クロードはそのまま仰向けに倒れ込む。

「何をやっているんだお前は。だから、ザハールと一体何を話してきたんだ」

 クロードの胸の上に乗った状態のフィグネリアが、軽く上体を上げてまだ文句を言いたげにする。

「ベッドじゃ仕事の話は終わりです」

 不満げな頬を撫でると、フィグネリアはくすぐったそうにして肩口に顔を埋めてくる。

 彼女はそれから何も言わずにじっとしているだけだった。

 沈黙は居心地悪いものでもなく、クロードは滑らかな銀の髪を指先で梳く。

 体にのしかかる重みと温度が夢のような幸福に現実味を与えてくれる。何気なく彼女の手を取って指先に口づけてみる。

「……クロード」

 フィグネリアが顔は上げずに名前を呼んでくる。

「なんですか?」

「いや、うん。もう寝るか」

 たぶん、言いたいことは別だろうが追求はせずにクロードはフィグネリアを自分の体から降ろす。

 それから毛布を引っ張り寄せてフィグネリアと自分にかける。

「おやすみなさい」

 囁きと一緒に頬に口づけを落として、クロードも眠りについた。






.3

 翌日、クロード達は狭い部屋で神官長と向き合っていた。

「私にお話とはなんでしょうか」

 クロードは神官長が縮こまって言う姿を見つつ、ザハールへと目を移す。

「神官長様、こちらですでにあなたについても密かに調べを進めてきました。そして昨日、クロード殿下により確証が得られました。あなたは、ロートムの出身ではありませんか?」

 八割ぐらいが嘘だというのに、ザハールの態度はまるで嘘に見えない。

 そして静かに問いかけながらも、否定の言葉は一切受け付けない異様な圧迫感があった。

(ニカが恐いって言ってたの、これか)

 以前ザハールから取り調べを受けたニカが反射的に肩をすくめるのが見える。確かに狭い部屋で、このザハールとふたりきりなら軽く心の傷になりそうだ。

「……はい。もう知られていましたか」

 神官長は無気力にそう答えた。思ったよりもずっと簡単に認めたのは、保身の意図は欠片もないからだろう。

 今しばらくはザハールに任せるらしく、フィグネリアはじっと神官長を見ている。

「二十四年近く前にこちらへ来たでよろしいですか?」

「はい。密偵をしろと命を受けサムルの神殿に潜り込みました。最初こそは国の命を果たそうと思いましたが、半年ほどで考えが変わりました。私は、元はナルフィス教の司祭を務めていましたが、以前より教会の在り方に疑念を持っていました。クロード殿下なら知っておいででしょう、教会の腐敗を」

 それほどナルフィス教とは深くは関わっていないにも関わらず、司祭の不祥事は度々耳にしたことあるクロードは首を縦に振る。

「政争に荷担したり、無駄なお金稼ぎしてたりですよね」

「そうです。私は中流貴族の次男に産まれました。教会に入ったのも自分の意思ではなく、派閥争いで優位に立つために父に命じられたからです。清貧を説き、慈悲の心を尊べと言いながら、俗世のありとあらゆる汚濁に自ら染まっていくのを見て育ち、やがて兄が急逝すると家を継ぐために呼び戻されました」

 神官長がとつとつとここにくるまでのいきさつを語り始める。

 家に戻ったはいいが、父親が政争で負け側になってそのうち密偵としての命を受けたということらしい。そして妾腹だった下の弟が引き取られと、とにかくごたごたと厄介な状況らしかった。

「神殿に入って私は真の清貧と慈悲の心を知りました。信仰のあるべき姿をここに見つけたのです。そしてそのままここへ来て半年で故郷を捨てました」

 それから神官としての勤めを黙々とこなす内に大神殿へ修練に呼ばれ、十年前にはこの神殿へ神官長として派遣されたということだ。

「私を罰したいというのならかまいません。還俗して望むままに」

 粛々とそう言う神官長の言葉には安堵が滲んでいる。

 もうひとりの密偵のことから話題が逸れたからかもしれないと、クロードはついうつむきそうになる。

(感情的に、ならない)

 今は冷静にフィグネリアとザハールを見ていなければならないと、どうにか前を向いたままでいる。

「神官長様にはこの神殿でいて頂きたく思います。代わりに、ご子息を引き渡してくださいませんか?」

 ザハールがさらりと言って、神官長の表情が強張る。

「あなたが自決したと言った密偵は、ご子息ですね。わざわざもうひとりを殺害したのもあなたの正体が知られることがないようにするためでは」

「まさか、そんな。知らないはずです。彼には私のことなど一言も教えてはいません」

 神官長は愕然とした後にに沈黙し、そんなともう一度つぶやいて両の掌で顔を覆った。

 彼もまた自決という結果に意識をとられて、もうひとりのの殺害については考えてもうなかったのだろう。

 神官長が今何を思っているか考えるとまた気持ちがぐらついてくる。

 クロードは表情ひとつ変えずにいるフィグネリアを見て、ゆらゆらとあまりにもおぼつかない感情を抑える。

「ならばなおさら、神官長様はここに残るべきでしょう」

 長いような短いような沈黙の中、そう口を開いたのはフィグネリアの方だった。

 ザハールと比べて柔らかい口調だ。

「私は息子を差し出してまで立場を護るなどはしません」

 もはやすでに死亡したという嘘を通せていないと気づいていないほど、思考がまともに回っていない神官長が顔を上げるとザハールが彼を見据える。

「我々には神官長様と密偵、ふたりとも拘束できます。大神殿への通達もすでにすんでいます。お二方ともこちらで裁定の後、ロートムに送り返して向こうで処罰してもらうことも考えています。あなたなら、その先がどうなのかお分かりでしょう。ご自分の築き上げた地位、信頼、命、そしてご子息の命。全て失う」

 ザハールは冷ややかに、最悪の結果を示す。

 ロートムは密偵のことなど知らないと言い張りつつ、同胞を殺し命に背いた国家反逆罪としてふたりを密やかに処分するだろう。

「神官長様」

 苦痛に耐えるかのような顔をする神官長を、フィグネリアが穏やかな声で呼ぶ。

「ご子息が命をかけて護ろうとしたものは、あなたです。私どもとしても、あなた様が異教の方だったとは思えないほどに俗世を捨て、正しく神々に仕えてきたのは分かっております。あなたさえここに残り、私どもの言うことを聞き届けて下さったのなら、ご子息は政府で裁定の後、数年はかかるでしょうが、大神殿へと預けたいと考えます」

 そして一呼吸をおいた後、フィグネリアが真摯に大神官長へと訴えかける。

「どうかご子息の思いを護るよいご決断を。私達はしばし礼拝堂にいますので、その間に返答をお決め下さい」

 フィグネリアが席をたち、クロードは神官長をちらりと見る。

 苦悩と、後悔と、迷い。

 背を丸めうっすらと涙を滲ませている彼から感じ取れるものは、そんなものばかりだ。

「……後少しで終わりですね」

 クロードは部屋を出た後、フィグネリアの横顔を見下ろす。

「ああ。思った以上に手間が掛らなかったな」

「そうですね。もう少し粘ってくれた方がやりがいはあったのですがね」

 実につまらなさそうにザハールが所感を述べる。

 やり方としてはザハールが叩き落として、フィグネリアが妥協案を穏やかに進言するという手を取ると聞いていたのだが。

(ザハールの方が嫌な役回りと思ってたけど、本人は全然そんなことなさそうだな。むしろフィグの方がそうかな)

 クロードはもう一度落ち着いた雰囲気の妻に視線を向ける。打算しかない優しさを口にする時、彼女は何を考えていたのだろうか。

(ううん、フィグなら段取りのことしか考えないか。神官長様の様子を見て、頃合を見計らって……)

 そんなところだろうかと考えていると、フィグネリアと視線がかち合う。

「……本当に密偵と話をするつもりか?」

 問われてこくりとクロードはうなずく。

「俺、相手の感情に目を瞑るより全部知っておきたいんです。それからじゃないとたぶんいろいろ考えられないと思うんです。すごく、回り道だけど、今の俺にはこういうやり方しかできないと思うんです」

 区分だとか自制だとか言われても、あれこれ考え込むばかりで答えにはたどりつけない。

 目を逸らすことをしてはいけないしできないなら、全てを見ているしかないのだ。

「そう危険もなく、彼が対応方法を学ぶにはちょうどよい相手でしょう。エリシン君も控えさせておけばいい」

 ザハールが珍しく後押しをしてくれて、クロードは感謝の意を伝えようと顔を向けて表情を引きつらせる。

 深い藍色の瞳は何かやらしたら分かっているかと静かに脅してきていた。

(ちょっとでもへまやったら後が恐い)

 クロードはぎこちない表情のまま気を引き締める。

「……ということで、頑張ります。話をさせてもらえればいいんですけど、神子様の時みたいに渋られないといいんですけど」

「話ができる状態かどうかによるな。神官長様の様子からそれぐらいは回復していそうだが」

 フィグネリアがそう言う頃に礼拝堂にたどりつく。

 リルエーカ像の近くで四人は腰を下ろしてじっと待つ。周囲では神官達と領民達のごくごく普通のやりとりが繰り広げられている。

 たわいない天候の話、色づき始めた薔薇の実の話、体調に関する相談。すでに彼らは穏やかな日常に戻りつつある。

(今、何が起こっているのか正確に知っているのはほんの一握りだけなんだ)

 何も知らないふりをして口を噤んでいればこの穏やかな時間はそのままだったはずだ。

 そしてこの平穏を揺り動かすものは真実でない。

(だけど、この嘘の先にフィグがやりたことがあるんだよな)

 クロードはリルエーカ像を見上げて思わずため息をついてしまう。フィグネリアがそれに気づいて気遣わしげな顔になる。

 大丈夫と、苦笑すると彼女もリルエーカ像へと向き直った。

 やがて神官がひとり来て、神官長が呼んでいるとやってくる。

 彼からの返答はフィグネリアの望むものだった。


***

 

 クロードは神官に案内された部屋の前に、ニカと共に立っていた。

 神官長は改めてフィグネリアとザハールと共に今後について、話し合いをしている。

「こちらです。安定しているとはいえ、重傷を負っていたのであまり無理はさせないようにお願いします」

 神官はひどく心配そうにしていて、クロードはもちろんとうなずく。

 そうして扉を開いて小さな部屋に入る。暖炉の側に置かれたベッドの上にひとりの青年が上体を起こしているのが見える。

「あの、初めまして。少しだけお話しをさせてもらいます。体が辛いならすぐに言って下さい。そこですぐにやめますから」

 クロードはニカを扉の側に控えさせ、密偵の側に置かれている椅子に腰を下ろす。

「……大変、ご迷惑をおかけしました」

 そう言う神官の青年は透明で儚げな印象だった。

 元からそんな雰囲気だったのだろうが、まだ全快とはいえない彼の肌は抜けるように白く、窶れて細った体がなおさら痛々しく見える。

 これといって特徴のない面立ちだが、意識してみればどことなく神官長と似ている

「いいえ。もう訊いていると思うんですけど、俺はあなたをここから出して、悪い人になってもらわないといけないんです」

 クロードはそう前置きして、ここまでの状況を説明する。神官は黙々とうなずいて全てを受け入れている様子だった。

「アラン・マーレイ、というのが私の俗世での名です。この神殿へは別の偽名で入りましたが、そちらはもう忘れてしまいました。名を預けなかった私は、元より俗世とは切れていなかったのです」

 アラン、と名乗った青年は淡く自嘲する。

「でもアランさんは立派な神官さんだと思います。あの、どうして名を預けなかったんですか?」

「神官長様がそれでいいと。……ここへ来た時は復讐心がありました。父を奪った邪教徒に一矢報いると。そんな決意がなければ、異国へ追いやられることに耐えられなかったからかも知れません」

 ですが、とアランは続ける。

「役目をもらい、それを黙々とこなす日々はとても穏やかなものでした。真実の清貧と慈悲に邪教と呼ばれるのはナルフィス教の方ではないかと、考えが揺れていました。その時に神官長様に密偵としての役目が見つかりました」

「その時はまだ、父親だって気づいてなかったんですか?」

「はい。その後にはまだ。ただ長く話す内に司祭様と話している気になって、それで少しだけ神官長様が父が派遣された神殿にいたと聞いて、もしやと思いました。それで私の生家の話をしたとき、ひどく動揺されたのを見て確信しました」

 そこまで話しきって、アランが深呼吸をひとつして胸に手を当てる。傷口は心臓近くと聞いていたので痛むのかもしれない。

「無理はしなくていいですよ。誰か、呼びましょうか?」

 クロードがニカに人を呼ぶようにしてもらおうかと考えていると、アランはゆっくりと首を横に振った。

「ご心配なく。こんなに長く話すのは久しぶりで、少し息が切れただけです。……父がこの国に派遣されたとき、母が懐妊していることは知らなかったんです。だから、とても驚いたでしょうね。私は、問い詰めることもしませんでした。司祭だった父が信仰を変えて家を捨てた気持ちが分かりましたから。気づかないふりをして、このまま自分も国を捨てここで父と神に仕え生涯をまっとうすると決めました」

 思い出に幸せそうに微笑むアランに、クロードは表情を取り繕えず動揺する。

 望んでいた幸福をようやくここで見つけことを、本人の口から聞くと想像以上に同調してしまう。

「ですがそれからすぐにロートムより密偵がまた送り込まれて来ました。私は俗世との繋がりが絶てなくなってしまったのです。私はこの平穏を保つためには、いつか彼を殺さねばならないと無意識の内に考えたのでしょう。旧式銃の回収命令が来た時、とっさに破棄したと返答しました」

 淡々とした口調ながらも、アランの手は膝にかけられた上掛けをきつく握りしめていた。

「それから半年前の騒動です。すでに国との連絡を切っていた私は、計画を全く知らされておらずに驚きました。薬品庫二十六番……密偵も私が裏切っていることは気づいていたので、何も言いませんでした。大神殿から密偵についての伝達があったとき、神官長様をはじめ他の神官方は私を匿ってくれると言って下さいました」

 そしてアランは迷いつつも、神官長の決定に従うことにしたらしい。そしてもうひとりの密偵は薬を盛って眠らせ、その間に地下牢へと移したということだ。

「……その密偵は、神官長様がロートムの人間だっていつから気づいていたんですか?」

「一年ほど前です。やはり私と同じく、神官長様の講説が司祭様の教義に似ていると気づいて調べていたそうです。牢に入れたとき、神官長様も密偵だと彼は言いましたが、誰も信じませんでした。大神殿の通達ではここ五年の内に神官になった者、というものでしたから。二十年以上前の密偵については、ロートムでも当時突発的な計画で記録がまともに残っていない状態で、幸い親子であることまでは知られませんでした」

 それでも恐怖だっただろうとクロードは思う。

 調べが進めばいずれ明るみに出るかも知れないのだ。そして殺害の計画を練るまでに追い詰められていったのは想像できた。

「それで奉納の記録の提出と、薔薇が散らないことがきっかけで実行してしまったんですね」

 問うと、アランはええ、とうなずく。

 彼は牢からもうひとりの密偵を助けてやると中庭まで誘い出し、中庭に隠してあった銃を持って彼に向け、わざと隙をみせて銃を奪い取らせて考える暇なく引き金を引かせたということだった。

「このままでは父の身が危ういと思いました。そして薔薇が散らなくなったんです。神の怒りを目の当たりにして、私はやらねばならないと決心しました。なのに、生き延びてしまったのです」

 後悔と自責の声が苦しい。

 この国の人間と同じように神霊や妖精の存在を信じていることが分かるだけに、なおさらやりきれない。

「正直なところ、俺、まだ迷ってるんです。あなたが、神官長様を護ろうとした方法はいけないことだと思います。だけどその気持ちまで、なかったことにしてしまうのはなんだかすごく嫌で……」

 胸にわだかまっているものを吐き出すと、アランが顔を上げて目を瞬かせる。

「あなたは私を見逃したいのですか?」

 問われてクロードは答えに詰まる。

「……できるならしたいかって聞かれたら、そうしたいって我が儘言っちゃうと思います。というかもう言って、フィグ……奥さん困らせました」

 昨日のことを思い出して、クロードはうなだれる。

「奥方は、皇女殿下ですね」

「はい。だから大変なんです。俺じゃなくて奥さんの方がです。今、起こってることも、これから先のこともいろんなこと考えなくちゃならなくて。俺はちょっとでも助けにならなくちゃいけないはず、なんですけど…………すいません」

 話を聞くつもりがなぜ当の本人に相談しているのだろうと気づいて、クロードはしょぼくれる。

「私は父が護られるだけで十分です。それ以上は望みません。あなたが、この思いを大事にしてくださるというのなら、とても嬉しく思います」

 柔らかく微笑むアランに、クロードは情けない表情のまま顔を上げる。

「それでいいんですか?」

「私は罪を犯し、罰せられる。それは当然のことなのです。あなたが悩むことも迷うこともないのです」

 そうは言われても、ますます考え込んでしまう。

 実際に話してみれば手紙の印象よりずっと穏やかで優しい人で、罪悪感ばかりが増してくる。

「……死んだ彼には私と違って、帰りたい故郷がありました。待つ人もいました。私は彼の望みも、故郷で彼の帰りを待つ人の希望も全て奪ったのです。残忍ともいえるやり方で。彼の遺体は確認しましたか?」

 静かにアランが告げることに、クロードは息を呑む。

 密偵の遺体はまともに直視できなかった。それでも血と焼け焦げた匂いと共にまざまざと思い出せる。吐き気を覚える程に。

 青ざめたクロードに、アランが目を伏せる。

「あなたは他国からいらしたのでしたね。奥方を大事にされて、とても幸福そうに見えます」

「……はい。とても。だから、アランさんの気持ちは」

 よく分かると言いかけて言葉を止める。

 共感しやすい方がたまたま彼だった。そちらにばかり意識が向いて、殺された密偵のことについてはほとんど何も考えなかった。

「罪は罪なのです。どんな理由があろうと、生き残った私は罰せられなければならない。罪が罪たる理由をお考えになれば、あなたの苦痛は和らぐのでは?」

 アランに諭されて、クロードはどうだろうと考える。

「痛いのも苦しいのもあんまり変わらないと思います。それでもアランさんのこと、どうにかならないかって気持ちはあるし」

 自分の胸に手を当ててその中の靄を手探りしてみても、相変わらずいろいろなものがはっきりしない。

 クロードは扉の側で心許なさそうな顔で見守ってくれているニカに目を向ける。救いたいと思って、なんとか彼の道を開くことはできた。

 少しは誰かのために自分にできることがあるのを知った以上、何かしたいと考えるのは思い上がりだろうか。

「あなたは神官に向いていそうですね。最も俗世の汚濁が凝る場所にいるのは辛いでしょう」

 アランが苦笑する。暗に皇族として生きるには向いていないと言われた気がした。

「でも、そこが俺がいたい場所なんです。何があってもフィグの側にいたいんです」

 どんなに苦しくて辛くてもフィグネリアが隣にいて、穏やかに微笑んでくれれば耐えられる。

 そしてどんなことからも逃げないで、目を逸らさないで、彼女が笑顔でいられる時間をたくさん作れるようにならないといけない。なのに目に前の現実に迷うばかりで、フィグネリアを困らせている。

「ならば私のことは気にかけないで下さい。私はあなたの護るべきものを壊しかねないのです」

 アランの声は相変わらず優しく穏やかだった。

「少し、疲れました。休ませていただいていいでしょうか」

 そして退出を促されクロードは部屋を後にする。

「殿下……」

 ニカに声をかけられて、クロードはうんと声を返す。

「見えてなかったものが、ちょっと見えたと思う。答は簡単に出ないけど、俺は平気だから心配しなくていい」

 また気分は沈んでしまったけれど、自分の気持ちを整理する手がかりは得られた気がする。

 クロードはうつむかずに前を向いて緩やかに礼拝堂への道を進んでいった。


***


 礼拝堂にクロードが入ってきたのを見つけたフィグネリアは、隣にいるザハールを置いてひとり席をたつ。

 自分の元まで戻ってくるまで待っていられなかった。

「話はできたか?」

 ニカが一礼してザハールの所へ行って、フィグネリアはクロードへと声をかける。

「はい。神官長様が護られるのならそれでいいって言ってました。……話できてよかったです」

 夫はまだ考え込んでいる様子だったが、あまり暗いものを感じずにフィグネリアはほっとする

「クロード、アドロフ家に一時身柄を預けることになったが、明日にでも移送できそうな状態だったか?」

 神官長との話し合いの中で帝都まで行けるほど怪我が癒えるまでは、アドロフ家で拘束することに決定した。傷を理由にいつまでも引き渡されなくなると困るので、ある程度回復しているなら後の治療はアドロフ家の薬師が診ることになった。

「まだ顔色は悪かったですけど、長く話せるぐらいには回復してるみたいです。神官長様との話し合いも上手く行きました?」

「ああ。他の神官方の説得もして下さるそうだ。後は、薔薇か」

 フィグネリアはリルエーカ像を見上げてため息をつく。

「神殿の中庭の薔薇は、アランさんに最後のお別れをさせてあげたらすぐに散ると思います。他も、明日にはたぶん……」

 クロードが声をすぼませて、明日、とフィグネリアは唇だけを動かす。

 薔薇が散ってしまうのはもう問題ない。

(だが、母上の祈りはまだ見つけられていない)

 見つけられる気もしなくて、フィグネリアは表情を曇らせる。

 いつもふわふわとした雰囲気で微笑んでいた母の姿ばかりが脳裏に蘇って、それ以上は何も見えてこなかった。

「フィグ、今日だけは皇太后様のこと考えませんか? 一段落ついたし、俺が……」

 クロードが何か言いかけて、ザハールの方をちらりと見る。

「いや、俺は大して事件の後始末は手伝えないけど、ザハール居るし」

 自分で言いながら落ち込んでいるクロードに、フィグネリアは苦笑してああとうなずく。

「後で、少し考えてみる。あれは……?」

 ふとフィグネリアはリルエーカ像の前に立っている人物に目を止める。降ろした黒髪と平服にすぐに気づかなかったが、リルエーカの器となっている侍女ではないだろうか。

「今、どっちでしょう」

 クロードが話しかけてみるかどうか目で問うてくる。行くだけ行ってみるとか、フィグネリアは彼と共に侍女へと歩み寄る。

「私はこんな顔でしょうか?」

 神妙な雰囲気でいた侍女は像を見上げて小首を傾げた。

「…………あくまで想像上のものですから」

 何かとても深いことを考えているように見えたのに、肩すかしを食らったフィグネリアはしばし絶句しつつなんとかそう返す。

「えっと、初めまして。リルエーカ様? どうしてここに?」

 クロードがおずおずと挨拶すると、リルエーカはにこりと微笑んだ。

「ここへ来たのはこの器の意思ですが、私が降りてきたのはあなた方が近くにいたので。もう薔薇達も耐えきれない」

「それは、クロードも気づいています。母の祈りとはなんなのですか? なぜ今頃になって……」

 リルエーカが透明な瞳でじっと見つめ返してくる。

「最後だから。薔薇が花を咲かせて彼と過ごせるのはこれが最後」

 告げられた言葉に一瞬、頭の中が真っ白になる。意味をきちんと自分の中で咀嚼するのにいくらか時間がかった。

「それはアドロフ公がもう、一年と保たないということですか」

 ディシベリアの柱がまたひとつ折れてしまう。

 国政を建て直した父が死に、九公家の安定を司るパーヴェルが倒れたならもはや確固たるディシベリアの支柱はなくなる。

 そう遠くないうちにその時来るとは分かっていてある程度は考えていたが、あまりにも早過ぎる。

「ええ。明確な時は分かりかねますが、彼の命は尽きかけています」

 リルエーカの口からはっきりと宣告されて、いずれが目の前に迫ってきていると重くのしかかってくる。

 現状はやっと九公家派と反九公家派の対立に落ち着きが見え始めたところだ。表面上はまとまっているが、少しのことですぐに大波が立つ。

 パーヴェル亡きの後の九公家の制御に着手できる余裕まではない。

「神霊様や妖精達は、人の生死が見えるんですか?」

 クロードがフィグネリアの手を握り問うのに、リルエーカは曖昧に視線を動かす。

「……人も花が枯れかけていれば分かるでしょう。それと同じことです。そろそろ私も戻ります。あまりいるとこの人間の命を削ってしまう」

 そう言って、リルエーカが瞳を一度閉ざす。

 その後にはきょとんとした少女の表情が現れた。

「こ、皇女殿下!? え、あれ、あたしいつの間にさっきまで座ってお祈りしてたのに……」

 混乱した侍女の肩を叩いて、フィグネリアは疲れているのだろうと適当なことを言って、その場を誤魔化す。

 侍女はまだ困惑したまま丁寧にお辞儀をして近くの席に着く。

「フィグ……」

 クロードが強く手を握りしめてきて、フィグネリアは縋るように握り返しそうになったが、そのまま大丈夫だと小さくつぶやいて、指を解いてしまった。



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