4~幕間
4
翌日、フィグネリア達は数人の兵と共に神殿を訪ねた。礼拝堂には昨日より多くの領民が集まっている。
領民へは昨日の爆発音は神殿に潜り込んでいた密偵が、持ち込んだ兵器を誤って操作して死亡したと、ほぼ事実を夕刻に神殿から告げている。
下手に多くを隠して不安を煽るより、危険はもうないと安心させた方がいい、というパーヴェルの裁量だ。
「今の所、大きな混乱はなさそうだな」
フィグネリアは領民達の様子と同時に神官達も見渡す。彼らもさして動揺や緊張は見られない。
ただ彼らはフィグネリアの傍らにいるクロードを気にかけている様子だった。
「……なんでしょう、これ」
「ひとつぐらいしか心当たりはないがな」
フィグネリアはそう言いつつ、リルエーカ像の前にいる神官長に先に挨拶に行く。
「お待ちしておりました。一日経って神殿内も少し落ち着いてきましたので、お約束通り協力させていただきます。それと、後ほどでよいのですが、笛の奉納をしていただけませんか? 彼らもそれを待っていまして」
クロードがその言葉に安心して表情を明るくする。
「笛ぐらいならいくらでも大丈夫ですよ、帰り際に吹いていきますね。いいですよね、フィグ」
安請け合いしすぎだが、これといって問題もないのでフィグネリアはうなずく。
「クロード殿下は他国よりいらしたと聞いていたので、その……こちらの信仰はあまり好まれないかと思われますがお願いいたします」
「それは気にしないで下さい。ナルフィス教は縛りがきつくて、あんまり合わなかったんです。こっちの信仰はおおらかでとても気にいっています」
クロードがそう答えると、神官長は感銘を受けた顔をした。
「そうですか。あなた様のような方がおいで下さって、助かります」
フィグネリアは奉納の話はひとまず後にしてと、聴取の方へと話を戻していく。
「別個の部屋でひとりずつとお話ししたいのですが、よろしいでしょうか」
「ええ。それならば六部屋必要ですね。個別の瞑想室がありますのでそちらを利用しましょうか」
やたらと協力的な神官長が近くにいる神官を先に奥へと向かわせる。少し進むと十字路にさしかかって案内役が止まり、一同も立ち止まった。
「私は神官長様とお話しする。各自もくれぐれも神官方に失礼のなく勤めるように。全て終わったら礼拝堂で待機していてくれ」
フィグネリアの言葉にクロードとニカが素直に返事をして、アドロフ家の私兵は仕方なしに従うといった様子だった。
そうしてフィグネリアは神官長と共にクロード達とは別の道を進んでいく。
「ご協力いただき、本当に感謝いたします」
「私共も突然ことで混乱しておりまして、お手を貸していただけて助かります。他国の密偵と言われましても、俗世のことは対処しきれませんので……」
一歩前を歩く神官長は表情が見えずに、低く穏やかな声しかその内心を探る術はない。
「あの神官様はこちらに来てどれぐらい経つのですか?」
「彼は四年前にここに来ました。私は通例通り彼の俗世の名を預かり、役目と番号を授けただけです」
この神官へとなる儀礼の簡易さが厄介なのだ。神官長が名を預かると言っても、どこに書き留めるわけでもなく、本名かどうかも確認しないので密偵が潜り込みやすい。
そして神官となってしまえば、大神官長以外は名前はもたないので識別が難しい。
「皇女殿下はただそれだけのことでとお思いでしょうが、名を捨てるということはとても重大なことです。人は生きていく内に様々な役目を背負います。例えば『フィグネリア』様という名を聞くだけで、人はあなたが先帝陛下のご息女であり、皇帝陛下の妹君であり、次期皇帝と様々な役目を思い浮かべるでしょう。これが俗世との繋がりというものです」
どんどんと狭まっていく廊下を進みながら、神官長が蕩々と語っていく。
「地母神様の御許に行った彼は、薬品庫二十六番とここでは呼ばれていました。薬品庫を管理する二十六番目の神官というそのままの意味です」
「その者が負う役目を俗世とは関係のないものだけにしてしまわれるのですね」
「そうです。始めこそは違和感を覚えます。私もそうでした。しかしその名で過ごす内に、慣れてきます。自らが与えられた役目以外の何者でもなくなるのです。役目が変わることも無論あります。その時には自分の元の役目と番号を誰かが引き継いで、己が神殿の機能のひとつでしかないと、知っていくのです」
フィグネリアはその感覚は理解できなくはないと思う。
物心つく頃から父から言われた兄の影という役目が、自分であるとずっと思い込んで生きてきた。
与えられた役目ひとつに縛られて、自分は視野を狭めてしまった。
俗世との繋がりを捨てるためならば、確かに手段としてはよいのかもしれない。
「……亡くなった神官様は、それでも別の役目を抱えたままでいたのですか?」
暖炉もない小部屋に通されて、フィグネリアは促されるままに古びた椅子に座る。
「ロートムの密偵という役目を負った名を、どうやら彼はもちつづけていたようです」
神官長が机に置かれている紙の束を、フィグネリアに差し出す。
中を見てみればここ四年に渡る覚え書きらしく、神殿内の様子や帝国の情勢、薬についてなどが散漫に書かれている。
ところどころに、密偵同士を呼び合う暗号めいたものも残っていた。
「薔薇のことについても多いですね。種を持ち出そうとしたのでしょうか」
「そうであれば本当に残念なことです」
神官長はうっすらと隈がある目元の影を深くする。この事態で昨日から休む間もないのだろう。
「これは私室のどこかに隠されていたものですか?」
「いえ。彼の私室の引き出しの中に置かれていました」
まず見つかることはないと思ったのか、ずいぶん雑だとフィグネリアは呆れる。そして神官長が差し出した小箱の中には、銃弾もあった。それと弾や火薬を押し込むための棒も机に置かれる。
しかし火薬がない。
「これで全てでしょうか」
「ええ。これ以外に神官としての生活に必要なさそうなものはありませんでした。何か足らないものでも……?」
フィグネリアは死んだ神官が密偵である証拠の数々を眺め、銃のことはこのままよく分からないふりをしていた方がいいと首を横に振る。
「いいえ。十分です。こちらはお預かりします」
揃いすぎているようで、妙に足りない気もするが確認するのは後だ。
フィグネリアはそれから予定通り聴取を進めて行く。神官長は常に落ち着いた様子で受け答えて不審なところは見られなかった。
***
「終わった、おなかすいた……」
夕刻近くになってやっと神官からの聞き取りが終わったクロードは、礼拝堂へ向かいながら背を伸ばす。
手の空いている神官から順に話を聞いていったわけだが、こちらは昼食を取ることもままならずに緊張し通しで、終わった途端に空腹と疲労が一気に押し寄せてきてへとへとだった。
「殿下」
後ろからニカに呼ばれて、クロードは足を止める。
「ニカ、どうだった?」
「……ええ、それがその神官方の仰ることはほとんど同じで」
声を潜めて、ニカが自分が持っている紙束を見下ろす。
「俺の方もそんなかんじだった。みんな密偵は真面目で寡黙だけど領民からも好かれる神官様しか言わないし、お役目と番号が名前代わりだから、なんか聞いててどれが誰の話だったか混乱してくる」
皆同じ格好に似た口調で話す内容もほぼ変わらずとなると、延々と同じことを繰り返している気がしてくる。
せめて名前があればもう少し違っただろうが、あいにくそれもないので記憶はまぜこぜだ。記録を見直しても、顔を思い出せる自信がない。
「そうですね。自分達が最後ではないですね」
礼拝堂についてニカがアドロフ家の兵がいることを確認して、フィグネリアの姿が見えないことに気づく。
「フィグはもう一回神官長様の所に行ってるのかな。……笛吹くのはフィグと神官長様が来てからがいいよな」
クロードは領民達の期待の目に緊張しつつ、空いている長椅子へとニカと一緒に腰を下ろす。近くにはアドロフ家の兵もいて、こちらに意味ありげに視線を向けた後に仲間内でなにやら話している。
「うう。あんまりいい雰囲気じゃない……」
アドロフ家の兵達はパーヴェルの命に従って動いているのであって、その場の指揮を取るフィグネリアには不満げだった。
「なんとなく疎外感がありますね」
「仲がよくないから仕方ないんだろうけど。ここは王宮みたいに義兄上達がいたり、味方してくれる人がいるわけじゃないから、フィグも大変なんだよな」
クロードは言いながら眉尻を下げる。
フィグネリアは密偵の死亡についての対応策を練り、敵対するアドロフ家の人間と交渉し、さらに神官長への応対なども全部ひとりでこなしている。
「俺はどれもできないから、やれることってフィグの味方でいることだけだな……」
日常の政務ならそれなりにこなせるようにはなってきたが、こういう緊急時の対応や敵対する人間との交渉はまだ難しい。
フィグネリアからの昨日の講義も学ぶことは多かったが、知識と先を読めるだけの経験が不足していることも痛感させられた。
いつも以上に隙がなく、厳しい顔でいるフィグネリアの横顔を思い出して気持ちは沈んでくる。
「殿下は今はそれでよろしいのでは? なすべきことはきちんとなしています」
「”フィグ”の旦那様としてはさ、まだそれでいいかもしれないけど。でもさ、俺って”次期皇帝”の夫なんだよな。フィグひとりでアドロフ公とマラット様の相手しなくていいようにならないと」
昨日のアドロフ公との挨拶で『そうか』の一言しか返してもらえなかったことも引きずっていた。
見た目は弱そうで協議中もほとんど喋らなかったので、警戒心を持ってもらえないのは仕方ないとは分かってはいるけれど。
「あのお二方の相手を同時にするのは皇女殿下しかできないと思うのですが。自分も、皇女殿下のご勇姿を直に拝見したかったです」
パーヴェルを交えての協議では部屋の外にいたニカが、実に残念そうに言う。
「ニカ、本当にフィグのこと好きだな。でも、俺の奥さんだから駄目だぞ」
「も、もちろんです。俺はあくまで、皇女殿下のご賢才に憧れているだけです」
顔を赤らめてニカが必死に否定する。あまりにも真剣すぎて、ほんの冗談のつもりだったクロードは吹き出す。
「分かってる。好きな女の子に対して、『ご勇姿』なんて言わないよな。だって、何してても全部可愛く見えるし」
「……殿下はそういうところが、大物のように思えます。俺はまだ、お目にかかるだけで緊張します」
「俺の場合、フィグの立場なんて全然知らなかったからなあ。結婚式で見たとき、凄く綺麗なひとで嬉しかった」
顔を見るより僅差で先に胸を確認したことは秘密にしておいて、クロードはリルエーカ像を見上げる。
大神殿の地母神像の前で緊張気味に待っていた時の事は、今でもよく覚えている。
(…………顔はそこそこでいいから、胸が大きいといいですとかお祈りしたな)
思い起こせば、結婚式当日はフィグネリアの夫になることの意味を、まったく真剣に考えていなかった。
たった八ヶ月ぐらい前の自分なのに、ちょっと殴りたい気分になる。
「……ニカ、俺、結婚式からは多少成長したと思う」
「そこまでお戻りにならなくても、日々殿下はしっかり学ばれて成長されていますよ」
ニカの返答はどこまでも真面目なものだった。
「クロード」
不意に妻が自分を呼んで、クロードはびくりと肩を跳ね上げる。声の方へ視線を向けると、神官長と並んで立っているフィグネリアがいた。
いそいそと席を立って移動したものの、なんとなく目をあわしづらい。
「何か問題でもあったか?」
「え、ああ。ちょっと結婚式の時のこと思い出してて。こんな時にすみません」
「それはいいが。結婚式か。最近のことなのに、やけに懐かしいな」
訝しげにしていたフィグネリアが優しく目を細めて微笑む。彼女の優しさが全部詰まった、暖かい笑顔だった。
(やっぱり俺、もっと頑張らないとな)
あんな自分を見限らないでいてくれた妻のそんな表情を見ていると、へこたれそうな心に否が応でも気合いが入る。
「あ、笛を吹きますけど曲調はなんでもいいですか? 決まった曲っていうのは吹けないんですけど」
クロードは夫婦の間に入りづらそうな神官長に気づいて笛を取り出す。
「今日は追悼の意を込めたものをお願いできるでしょうか。密偵とはいえ、神官の勤めも果たしていた者です。彼の魂がリルエーカ様にお許しを頂けるよう、お力添え下さい」
神官長の申し出を聞いてクロードはすぐに笛に口をつける。
周囲の人々の視線が気になるのは音を出すまでだけのことだった。息を吹き込むと、周囲は無になる。
流れ出る音は残された者の悲しみに寄り添うのでなく、純然と死者のためだけの曲は明るいものだった。
クロードは笛を奏でて死者を導いて見送り、音を止める。
礼拝堂は静まりかえっていて、皆敬虔な顔をして彼を見つめていた。
(ううん、こういう反応慣れないなあ……)
神霊や妖精が好む音楽がこの国ではとても神聖なものとされているのは、知っているとはいえむず痒いものがある。
「……よき音をありがとうございます。これで彼も救われるでしょう」
クロードは神官長から礼を言われた後に、席に着いていたフィグネリアの隣へ腰を下ろす。
「いつもながら、お前の笛はすごいな」
「褒められても、自分じゃ音の善し悪しって分からないから不思議です。……なんだかまだ帰れそうにないですね」
神官長がリルエーカ像の前に立って、なにやら話を始めるらしく領民達は静かにそちらへ目線を向けている。
自分達の用は済んだので帰ろうというわけにはいかなそうだ。
「皆様方、昨日神殿内に、俗世と縁を切れずにいた神官がおりました。神官長として、見誤りがあったことを悔います。そして、彼の者が現世で俗世を離れて真に神々に仕える者とならずに地母神様の御許へと旅立ったことをなによりも残念に思います」
神官長の声は礼拝堂によく響いた。大勢を前にしながら、ひとりひとりに語りかけるかのような声は聞き心地がいい。
「もはや死者に偽りはありません。地母神様の御許で彼の者は真実の心をさらけだし、そして己の行いを悔いることでしょう。そうして、リルエーカ様からのお許しを頂けることを信じましょう。そこに素晴らしき楽士様もいらっしゃいます。彼の者と同じ異教の民でありながら、我らが信ずる神々に敬意を持ち、偽りなき澄んだ心で音を奏でてくださる楽士様が」
一同に期待と敬意を含んだ熱い視線を向けられたクロードは苦笑いをしつつ、フィグネリアの耳元に顔を寄せる。
「フィグ、この流れまずくないですか?」
「どうにも、薔薇が実をつけないのは密偵のせいだったということになりそうだな」
フィグネリアが渋面で応える。
薔薇が散らないのは神霊の影響があるのは確かだが、このままでは密偵が死んだことが事態の好転と思われてしまう。
「楽士様への感謝の気持ちと神霊様への祈りをそれぞれ心に抱きましょう。必要なのは真実の心です。偽りなき善意と希望。それを忘れなければ必ずや、リルエーカ様が我々に恵みを与えてくださいます。悲観と不安が大きくなるのなら、花を愛でてください。薔薇の美しさにのみ心を向けるのです」
それにしてもとクロードは神官長に目を向ける。
第一印象はこれといって特徴のない穏やかそうな人だったが、いざ講説を始めると自然とその声に吸い寄せられて聴き入ってしまう。
普段の喋り声とは明らかに抑揚や音の高さが違うので、意図的に作っているものだろう。
(……既視感あるけどなんだろう)
ふっと記憶に引っかかりを覚えて、クロードは首を傾げる。
「どうした?」
「え、いや何か思い出しかけてたんですけど忘れました」
考えているとフィグネリアに声をかけられて、あやふやな記憶が霧散してしまい、掴みようがなくなってしまった。
そして話を聞き終えて神殿から出るとき、見送りの神官長に呼び止められる。
「できれば、ご滞在の間中は笛の奉納をしていただきたいのですが……」
「大丈夫ですよね、フィグ」
神殿の様子を見るのに好都合ではないかと、クロードはフィグネリアに訊ねると、明日の午前中にまた訊ねてくることが決まった。そうしてクロードはフィグネリアとニカと共に馬車に乗り込む。
「あとは戻って調書をまとめてマラット様に報告、ですよね」
「ああ、しかし神官長含めどの神官方も同じことしか言わないな」
苦々しく言うフィグネリアの方も、あまり有益なものが手に入らなかったらしい。
「でも、薔薇はちょっと困りましたね。散らないのは密偵のせいじゃないんだけどな……」
クロードは窓の外の夕日に溶け込む薔薇を眺めて眉根を寄せる。
「皇女殿下、散ってしまったら、どうなるのでしょうか。密偵の行為は正しき行いと認定されてしまうのでしょうか」
「神殿の法と我々の法のどちらが優先されるか。神殿内部のこともまだ掴めない以上は、どうとも言えん」
重苦しく言うフィグネリアの表情は厳しい。
彼女が即答できないということは、自分が考える以上に難しいことなのだろう。
クロードは重苦しい気分で窓を流れる景色を見つめる。真冬の日暮れは早くアドロフ家の城が見える頃には、辺りは闇に包まれて何も見えなくなった。
***
離れに戻って三人がまずしたことは、神官の役目ごとに調書を分けることだった。向こうの都合に合わせたので、順番も役目もばらばらなのだ。そして今日は神官全員と話せたわけでないので、番号抜けの記録も一緒につけていく。
「しかし、本当に様々な役目があるものだな」
フィグネリアは離れの広間の大きなテーブルが、調書で埋め尽くされているのを眺めて唸る。
「密偵は薬品庫なんですね。ここの人たちが一番詳しいはずです。後は処方の方もそうですね」
クロードがテーブルの中央の束と、右端を指差す。
「処方? クロード、そちらが関係してくる情報があったのか?」
「え、ああ。神官様が領民に好かれてたって言う神官様がいたんです。薬品庫の役目で領民と接する機会があるのかなって訊いたら、前は処方のお役目に就いてたって」
「そのことは聞いていない。その神官様は特に動揺することなく答えてくれたか?」
フィグネリアの問いにクロードは首を縦に振る。
「隠してる雰囲気はなかったです。今は他にそのお役目と番号を引き継いでいる人がいるそうです」
神官長も役目が変わることもあると言っていたものの、密偵が変わったことには触れていなかった。
あの会話の流れで口にしないのも不自然な気もする。
「いつ変わったかは分からないか?」
「すいません、そこまでは訊いてないです……」
申し訳なさそうにクロードが眉尻を下げた。
「それは明日訊いたら分かるだろうからいい。しかし、ここまで口裏を合せてきたなら神殿内で隠したいことがあるのだろうな。領民達にも明日話を聞いてみるか。さすがにここまでは口裏は合わせられんだろう。後は、これからも情報を得ることはできそうにないな」
フィグネリアは神官長からもらった密偵の覚え書きを手に取る。中身はざっと確認したが、最初の予測通り薔薇についてと帝国情勢についてだった。
密偵である証拠となるものではあるが、現状ではまるで有用性がない。
「一日費やしても、あまり収穫がありませんでしたね……」
ニカが疲弊した声でそう言う。
「向こうが隠すと決めたら、こちらはまだ引いていないといけないからな。得た情報を検証して、根気よく有益なものを見つけ出していかねばならん。ひとまず、神官方の証言の比較から始めるか」
フィグネリアは調書の量に嫌気がさしつつも、役目ごとに証言を見直していく。
「といっても格別何もないですよね。ただ処方のお役目の人たちの方が言葉が多いかな。それなりに具体的です。今日、お話しできなかった人の中に密偵がいるんでしょうか」
調書を見直した後にクロードが各役目ごとの抜けた人数を示したものを眺める。
「その中にここ五年で入った者を探すのも、やぶ蛇をつつくことになるか。話していないことが隠したいことだろうが、対人関係をぼかしているの引っかかるな……」
「あの神官様が密偵だってことは知られても問題ないってかんじですよね。銃とか薔薇についてだとか、密偵でしたって証拠は向こうから出してくれてます」
クロードの言う通り、あれが密偵だったと知らない割には必要なものを揃えて提出してきている。
内部にまだ密偵がいるなら混乱に乗じて処分していてもおかしくないはずだ。
「神殿側は内部に密偵がいたことは隠す気はないが、自分達が密偵の存在に気づいていたことは知られたくないといった所か」
まだもやもやとしたものを抱えながらフィグネリアは腕組みをする。
「ですが皇女殿下、それならばもうひとりの密偵の存在も神殿は知っていることになりませんか?」
「ああ。対人関係を明らかにしないことからして、そうかもしれん。いかんせん、まだ情報が少なすぎるな」
フィグネリアは息をひとつはいて、ソファーにもたれる。
考えられる可能性は片手で足りないぐらいあり、今は地道に小さな手がかりを拾い集めていくしかない。
「銃の有無もだな。火薬がないのはありったけ銃身に詰めたのか、取っておいてあるのか。ひとまずここまでを報告してくる。あちらも、薔薇の実の収穫量や神殿への荷運びの詳細の記録を集めてくれているだろう。お前達は先に食事をすませていていい」
「え、俺もついていきますよ」
「いや、簡易の報告なのですぐにすむ。お前についてきてもらうほどでもない」
長い協議になるならクロードにもいてもらって後々のために、流れややりとりを見ていて欲しいが、今話したことをマラットに告げるだけなのでわざわざふたりで行く必要性はない。
「……それなら、フィグが戻ってくるまでもう一度調書を見直しておきます」
クロードは何かをいかけてそれをぐっと堪えた顔をする。ニカはその表情の意味が分かっているのか気遣わしげな顔でいる。
フィグネリアは気になったものの、入り込みにくくてそのまま何も訊かずに部屋を出る。
燭台の灯に闇が揺れ動く廊下は寒々しく、ひとり歩きは物寂しい。大体何をするにしてもクロードが横にいるのが当たり前になっているので、なおさらそう感じてしまう。
(ついてきてもらった方がよかっただろうか)
フィグネリアは自分の思考に子供じゃあるまいしと自嘲する。
別に政務を手伝ってもらうわけでもなく、学んで欲しいことがあるわけでもないのに同行してもらうのはただの甘えだ。
「夜道は暗いのでお供します」
離れから出ようとすると、年若い侍女が手燭を持ってやってくる。まだ十五ぐらいだろうに、黒髪をひっつめた彼女はずいぶん落ち着いた雰囲気だった。
フィグネリアは彼女の先導のもと、城へと向かっていく。
弦月の夜は闇が深すぎてほんの二、三歩先も灯がなければ見えない。ただ薔薇の匂いがいつもより強い気がする。
「今宵は薔薇が香りますね」
侍女が同じことを思ったらしく、そう言う。
「ああ。もう十日近く咲いているのか」
フィグネリアは暗がりの向こうにあるはずの薔薇へと目線を向ける。
薔薇はいつまで咲き続けるのだろうか。散らないのは困るが、まだ密偵についての状況が把握しきれない内はそのままでいてもらわないと困る。
あえて母のことから意識を逸らそうとするが、脳裏では彼女の姿がちらつく。
「永遠には咲き続けていられないでしょう。全てには終わりがあります」
どこか責め立てるような言い方だった。それよりも含みがありすぎる言葉が気にかかる。
「失礼します」
フィグネリアが声をかける前に城にたどり着いて侍女はおざなりにそう言い、すっと暗い廊下の奥へと消えていく。
「すまない。あの侍女は、いつもああなのか?」
フィグネリアは自分と同じく不可解そうな顔をしている、城の入り口の衛兵に問いかける。
「……いえ。少々騒がしい所もありますが、礼節はわきまえている娘です。無礼をいたしました」
儀礼的に謝罪をする衛兵に、そこまでは不快だったわけではないのでとフィグネリアはこのことを口止めしておく。
(神霊様だろうか)
侍女らしかぬ態度以外は落ち着きある少女にしか見えなかったが、普段とは真逆の態度ならそうなのかもしれない。
フィグネリアは神霊を気にかけながらも追い駆けるわけにもいかず、重たい足取りでマラットの執務室へと向かった。
***
「失礼します。お薬をお持ちしました」
侍女の声がかかって、マラットからの報告書を読んでいたパーヴェルは入室の許可を出す。そして静かに侍女は銀の盆をもって入ってくる。
昨日手紙を預かりに来たのと同じ侍女は盆を置いた後に、じっとサイドテーブルに置かれた薔薇を見ている。
「なぜ薔薇は散らないと思いますか?」
「神霊様のご意志なのだろう。我々にはどうすることもできん。もう下がれ」
命じると侍女は一度目を伏せ、じっとパーヴェルを栗色の瞳でとらえる。
(十五の娘の目ではない。いや、人なのだろうか)
透明すぎる双眸はあまりにも澄み切っていて、畏怖すら覚える。
「お前はなんだ」
「……花は祈りです。祈りは叶えば実を結ぶ」
微かだった薔薇の香気が、むせかえりそうなほど強くなる。
目の前の景色が薄暗い部屋から柔らかい冬の陽射しが降り注ぐ庭へと変わる。
乱立する薔薇のための柱の中に娘のオリガが立っている。白い外套を羽織り、風に銀糸を揺らめかせる細い体は、周囲の柱と同化している風にさえ見える。
辺りに花ひらく橙に語りかける娘の瞳に、穏やかな愛情が滲んでいる。
オリガが花の一輪、一輪を愛でて慈しむ姿は嫁いだ後でも見かけた。わずか二日しかない花の時期を逃すことなく、娘は年に一度、帰郷してきていた。
不思議なことに薔薇たちは娘が戻ると一斉に花を開かせるのだ。
「まさか、オリガを待っているのか……」
薔薇に彩られた過去の幻影の中でパーヴェルはありえないと、自分の考えを否定する。
「そして彼女の、祈りが叶うことを」
どこからともなく侍女の声が滲むように響く。
「……オリガはもう死んだ。実を結ぶことはない。枯れるのみだ」
「いいえ。生きているのです。偽りなき心を持つ彼女の祈りはまだ、生きている。祈りの死はあなたの死と同じ」
囁きの後に薔薇の花嵐が起こる。
色鮮やかだった橙の花弁は瞬く間に茶色く変色し、瑞々しさをなくしてかさついた音を立てて舞う。
嵐に娘の姿がかき消され、薄暗い部屋にパーヴェルはひとり取り残された。
***
翌日、フィグネリア達は神殿の裏手で言葉もなく立ち尽くすことになった。
目の前の大地が一面、黄昏色に染まっていた。降り積もった雪の色が見えないほど、薔薇の花びらで埋め尽くされているのだ。
今朝になって神殿の裏手の薔薇が散ったとの報告があって、神殿を訪ねる前に確認に来た。
城から神殿までの間の薔薇は鮮やかに咲き誇っていたのに、神殿を境にこの通り景色が一変した。
「あれはやはり、神霊様だったのか」
フィグネリアは呆然とつぶやく。その足下では微風に花びらがゆらゆら揺れている。
「終わりがあるって言ってたんですよね。このことだったんでしょうか……」
クロードが周囲にいる人々の目を気にしながら、手近にある薔薇の蔓に触れる。ニカがその姿を人目から隠すように動いた。
「……神霊様の力が届ききらないから、力尽きちゃったんだと思います。お城にいるのなら、たぶん離れてたここまでは力を貸せなかったんじゃないでしょうか。大神子様の体に降りてきていても、妖精を動かせる範囲は狭いって聞いたし」
そう言うクロードの瞳から不意に滴がひと粒、ふた粒と転がり落ちて、フィグネリアはぎょっとする。
「クロード、大丈夫か!?」
「え、あ、うわ。すいません。ちょっと一瞬すごく共鳴しちゃって……」
言われて自分の涙に気づいたクロードが、自分自身でもびっくりながら袖口で目元を拭う。特に問題はなさそうでフィグネリアは胸を撫で下ろした。
「薔薇は枯れてしまって辛いのですか?」
ニカが心配そうにクロードを見ながら問う。
「…………母上が亡くなったときの気持ちだなこれ。もう絶対に笑顔が見られなくて、声も聞けなくてそういうの。でも同じようで微妙に違うかもな」
クロードがフィグネリアの硬い表情に気づいて笑む。
「フィグ、俺は大丈夫ですよ。本当に妖精達と共感しすぎただけですから」
「それならば、いいが。しかし薔薇達にとって母上との永遠の別れは、今なのか」
最後の帰郷七年前、没したのが三年前。なぜ今頃になって薔薇達はこうして咲き続けるのか皆目見当がつかなかった。
「他の薔薇もいずれは散ってしまうのか?」
フィグネリアは小波のように揺れる薔薇の花びらを見つめて、息苦しい思いで問う。
「お城の薔薇はまだ元気だったけど、このまま順番に散っていくかもしれません。後で、まだ咲いている薔薇の様子も見てきます」
フィグネリアはそうしてくれと返して、周囲を見る。
領民達はただ純粋に喜んでいる。ほんとんどが薔薇の実で生計を立てていて、薔薇の実がつかないのは死活問題だ。
そうして神霊の不興を買ったのではという最大の不安は和らいでいる。
これで密偵の死亡への動揺は消えるが、神殿への介入は確実に難しくなっていく。
「……神殿へ行くか」
フィグネリアは散った薔薇に背を向ける。
まだ散らないで欲しいと思うのは、なんのためだろうか。
自分自身に投げかけた問いかけの答は見つけられなかった。
***
神殿はへ行くとすでに入り口に人集りができていて、クロードが歓待された。礼拝堂の中もすでに人で溢れかえっていて、身動きもろくにできないほどだった。
昨日と同じくリルエーカ像の前で講説していたらしい神官長が、皆に道を空けるように指示してフィグネリア達はやっと動くことができた。
「本当に、昨日の今日で時期がよすぎたな」
フィグネリアは小声で言って、ため息をつくのを堪える。
「俺の笛も薔薇が散った要因って思われてるのは分かってたけど、本当にすごいな」
「楽士様というのはそれほどの意味がありますが……」
唖然とするクロードに説明するニカもこの事態には驚きを隠せない様子だ。
「お待ちしておりました。リルエーカ様は奉納をお気に召して下さったようです。ありがとうございます」
神官長が深々と頭を下げられたクロードが反応に困りながら、曖昧な笑顔で対応する。
「神官長様、少しお伺いしたいことがあるのですが……」
フィグネリアは神官長の意識を自分に向けさせる。
「はい。なんでございましょうか?」
「亡くなった神官様ですが、以前は処方のお役目を務められていたのですか? 神官様からそう聞いたのですが」
単刀直入に問うと、気のせいかと思うほど微かに神官長の表情が動いた。
「ああ。ええ。そうです。お話ししていませんでしたか。申し訳ありません。私もまだ動揺していたらしく……」
「いえ、あれほどのことがあった後ですので。それで、いつ頃にお役目を変わられたのでしょうか」
「……おそらく、半年かそれよりもう少し最近かと。薬品庫の役目の者が腰を痛めて、別の役目に移ったので変わってもらったのです」
躊躇した後に神官長がそう答える。変わった時期は内乱騒動前後らしいが、おそらく後だろう。
あれだけの大事があった期間のことがあやふやなのは妙だ。
「そうですか。ならば交流があったそうなので今日はこのまま領民と話させていただいていいでしょうか?」
「皆様方は落ち着いてきていますので、あまり混乱をきたさないようにしていただければと」
「ありがとうございます。クロード、今日は先に笛を頼めるか?」
フィグネリアはひとまず領民に一度落ち着いてもらうために、クロードに演奏をしてもらう。
彼も意図を察してくれたらしく流れ出る音は穏やかなものだった。
ざわついた空気が急速に静まり、堂内は小鳥の囀りに似た笛の音で満たされる。演奏が終わっても人々は言葉もなく余韻に浸っていた。
フィグネリアも音を聞き終える頃には張り詰めていたものが緩んでしまっていて、気を取り直す。
「お前の笛は聞く度に上達していくな」
「そうですか? それにしても、これだけ集まってるといろいろ聞けそうですね。えっと、ここ四年の内で定期的に薬の処方をしてもらってる人を絞ればいいのかな」
クロードが首を傾げるのに、フィグネリアはそうだと答えて神官長を見る。
「できれば、その神官様が処方をしていた領民が分かればいいのですが、記録などはありますか?」
「残念ながら、どの方に薬を処方したのかの記録だけで、それを元に手が空いているものが当たっていますので……」
そうなると確実に絞り込めないので、クロードが言った通りに薬を定期的に処方してもらっている領民に残ってもらった。
そしてざっと五十人近くが礼拝堂に残った。ひとまずは自分が処方してもらったことのある神官の番号は知っているかと問うたが、案の条誰ひとりとして知る者はいなかった。
「名前がないってこういうとき大変ですね……」
クロードが領民を見渡して肩を落とす。
「自分達にとって神官様は神官様ですから。誰が誰でという区別はしません」
ニカが苦笑して説明するように、フィグネリアも同じだった。神官の顔を覚えるということをしたことがない。
接する自分達にとっては役目や番号すらなく、『神官様』のひとくくりですんでしまう。
それからは神官長に髪の色や目の色などの特徴を言ってもらい、ここ半年ぐらいで見かけない神官という条件を絞ることにした。
死体しか見ておらず、髪の色はともかく具体的な身体的特徴を知らないので、詳しい特徴を聞くのはフィグネリア達も初めてだった。
情報は少しずつあがっていくが、領民達の記憶は曖昧でどこまでも頼りない。
「……土を、夏に土を小箱に詰めている神官様を見かけました。神官様のなされることのなので、その時はそこまで気にはしませんでした」
しばらくしてやっと代わり映えのある話が出てきて、フィグネリアは詳しく聞いてみる。その神官に井戸水のことや、薔薇の育成について話したことがあるという。
そしてそれを契機に他の領民からもそういえばと、ちらほらと似た話が上がり始める。
「土や水を集めてどうするのでしょうか」
領民達の話を書き留めていたニカがクロードへと訊ねる。
「土や水の違いを調べる学問があった気がする。なんだっただろう、俺、講義なんてほとんど受けてなかったからなー。うう、ロートムの程進んでなくても、少しはこの国にない学問が入ってきてたからちゃんと学んどけばよかったな……」
幼い頃に自分自身の将来を諦めきっていたクロードがため息をつくと、ニカが不思議そうに首を傾げる。
「土や水の違いは、神霊様や妖精の差ではないのですか? ロートムやハンライダは神霊様や妖精の存在を信じていないのですよね」
「うん。だから、神霊様や妖精が全然関係ない学問があるんだ」
クロードの返答に、典型的なディシベリア国民のニカはなんだかよくわらないといった顔だった。
「こういう意識を変えねばならんのは、本当に苦労しそうだな」
ニカに限らず、大抵の国民がこれで、技術革新の弊害になっている。内政の改革にしろ、何にしろ問題は山積みすぎて気が重い。
それからしばらく領民の話を聞いたものの、これといって気になることはなかった。
神官の人となりについても、真面目で気が利く人当たりのいい青年だったとしか出て来ない。ただその人物像に昨日の聞き取りとぶれがあった。
処方の時にいろいろと話しかけてきて体を気づかってくれるなど、神官は積極的に接してくれると、領民達は話す。
だが昨日の聞き取りでは真面目で寡黙だが、人当たりは悪くなく誰にでも好かれるが特に親しい間柄もいないとのことだった。
(内と外では対応が違うだろうが……)
些細な言い方の差もあるが、それでもフィグネリアは妙にそれが引っかかった。
後は密偵が薔薇について調べていたことぐらいしか分かることはなく、フィグネリア達は昼頃には神殿を辞した。
「表向きは社交的にふるまうけど、本当は人と親しくするのは好きじゃないっていうのはよくありますよね」
城へ帰る途中で場所を止めて降りた薔薇園の中で、フィグネリアはクロード達に気にかかったことを話す。
「ああ。私もそう思うのだが……。昨日の調書の人物像と今日聞いた人物像がどうにもずれている気がしてな」
ひとりの人物の裏表と考えるには、少し納得がいかないところがある。
「……神官長様が言った密偵の特徴って、髪の色と年齢、顔の雰囲気ぐらいで結構曖昧だったな。えっと、例えば俺とニカの髪の色が一緒だとして、他の特徴として身長と年齢だけ伝えられると馴染みのある方を思い浮かべますよね。そんな風にして密偵がふたりいるのを誤魔化そうとしたんでしょうか」
フィグネリアはクロードが首を傾げるのに、背格好の似ている主従を見てうなずく。
「そうだな。それに加えて神官様は名前がない。他の者が自分と別の人物を思い浮かべていても違うと気づきにくい」
「皇女殿下、それならば、神官長様はもうひとりの密偵をこちらに渡したくないことになるのですか」
事態が思った以上に面倒なことになりそうで、ニカの表情は不安そうだった。
「ああ。意図は分からんが、神殿側は他の密偵をかくまっていることになるな。戻ったら、エリシンの取った覚え書きを整理して調書と突き合わせ、分離するか。クロード、薔薇の様子はどうだ?」
ひとまず密偵のことは後に回すとして、フィグネリアは薔薇と触れ合うクロードに問いかける。
「やっぱり元気がないです……。ところどころ花がないのは精油のためですよね」
「実がつきすぎても翌年に響くからな。精油は花を無駄にしないための副産物だから、実よりもさらに希少だ」
その精油からできた香水をアドロフ公は毎年母に当てて送り続けている。
「……いつまで保つかは分かるか?」
フィグネリアが問うと、クロードは静かに首を横に振った。
「そんなに長くはないと思うんですけど、神霊様次第だと思います。降りてきてる所を見つけたら、話してみた方がよくないですか?」
「だが、そこでお怒りに触れることにならなければいいが。本当に、神霊方のお考え分からんな」
昨日会った神霊は不機嫌そうだったが、一体何が勘に触ったのかさっぱりだ。
クロードは薔薇の蔓を撫でながら、瞳を陰らせている。労りと慈愛がその姿には見てとれた。
(薔薇達にすっかり共感してしまっているんだな……)
フィグネリアは優しすぎる夫の側に寄って、空いている彼の手に指を絡める。
そうすると薔薇達の思いや、彼らを思いやるクロードの気持ち、それから自分の中にある母への思いが全部解け合っていく気がした。
5
城に戻ったフィグネリアはまず、大神殿へ薔薇が散り始めたことを報告する書簡を出した。それから昨日の神官の話と、今日の話を合わせて見直してマラットととの協議に入っていた。
「現状、他に潜んでいる密偵はひとり確認できました。ほぼ同時期に薬の処方の勤めについていたようです。目的は薔薇の繁殖と情報収集で間違いないかと」
フィグネリアは先に結論だけ報告する。
「こっち、じゃなくてこちらが昨日の調書のまとめで、これが今日のまとめです」
クロードが緊張気味に書類をマラットに差し出す。今日は黙って座るだけでなく、できるだけ話すことになったのだ。
フィグネリアは横目で夫を見て、やたら力の入った肩や強張った口元につい苦笑しそうになる。
「神官達の証言は統一されているが、領民側はふた通りか。どちらも外見特徴や印象が似ているせいで混同したのか」
「はい。姿を見せなくなった時期も、内乱騒動の後ぐらいみたいです」
クロードがそこまで言って、フィグネリアと続きを交代する。
「以上のことより、神殿側は密偵の存在を把握していたと思われます。領民達に死亡した密偵の外見特徴を説明したのは神官長様でした。意図的に外見で似通っている部分だけ話した可能性がおおいにあります」
とつとつと告げると、マラットが眉根を寄せて睨みつけてくる。
「口を謹め! 神官長様に対してその疑心は神殿への不敬だ!」
「ですが、事実のみを見ていけばそうなります」
フィグネリアは厳かにマラットを一蹴する。
「えっと、神官長様は内乱騒動後に密偵の役目を変えて密偵を領民達とは触れ合わない役目に変えて、少なくとも片方には何らかの罰を与えているはずです。それが神官長様の意思か、密偵の意思かが、大事だと思います」
クロードが最後で少しつっかえつつ最後まで言い切る。
「密偵が神官長様を動かしているのか! ならばなぜ救援を求めない。あげくに銃など使って密偵がいると自ら吹聴しているようなものではないか!」
「ええ。そこが私達も引っかかっているのです。始末するなら、外の人間に知られない方法がいくらでもあったはずです。引き続き、神殿内部の調査に努めたいと思います」
銃の暴発という手が込んでいて派手なやり方と、周到さの足りない隠蔽がまだ噛み合わない。
「今の所、俺が楽士として受け入れられているので、神子様ともお話ができないか交渉するつもりです」
最大限に緊張しているものの、かろうじて逃げの姿勢に入らずにクロードが明言した。
フィグネリアはひとまず、これを正面切って言えたことへ安心してマラットの反応を伺う。
自分が喋る以上にそわそわとして、落ち着かない気分だ。
夫婦揃って固唾を飲んでいると、マラットは眉根を寄せて口を開く。
「やるならしくじるな。無理を通そうとは絶対にするな、いいな!」
「はい!」
そしてマラットからも承諾を得て、クロードが背を伸ばして負けない勢いで返答した。
「フィグネリア、婿の目付け、くれづれも怠るな。それとだ、今宵は楽士をもてなす晩餐をすることになった。詳しいことは後で使用人を寄越す」
心底不本意そうな顔でマラットが言ったことに、クロードはもちろんフィグネリアも少し驚いた。
「お、俺だけですか。というか、そういうのは別にいいんですけど」
「ならん! 神殿へ音楽を奉納する楽士に領主は一度は礼を尽くすものだ。現に薔薇も散り始めた以上、もてなしはことさらせねばならん。フィグネリアも同席しろ!」
フィグネリアへの敵意と、伝統と礼節を重んじなければならない思いの間での葛藤がありありと分かる表情で、マラットが乱暴に命じて席を立つ。
いつも以上に激しく床が踏まれる音を聞きながら、フィグネリアはクロードと顔を見合わせる。
「なんか、もてなされるみたいですね、俺。あ、それよりちゃんと喋れてましたか!?」
「最初としては上出来だが、もう少し自信を持て。迷えば味方には不安を与え、敵には隙を見せることになる。どんな相手であろうと、最初が肝心だ」
クロードは自分自身を大きく見せることが苦手だ。それは彼の優しすぎる気質や、これまでひたすら自分への期待をすてきたせいもあるので、まだ多く経験が必要だろう。
「はい。精進します。フィグ、晩餐って普通に食事するだけでいいんですか?」
「後は主賓として気を張らずに余裕を持って対応だな。私は添え物なので黙って夫に付き従うだけだ」
フィグネリアはすでに硬くなってきているクロードの頬を、指先でつつくようにして撫でる。
「楽士として歓待されるんだ。そう難しい話題もない。ダリヤ様……マラット殿の奥方もいるだろうからそこまで硬い席にはならんだろう。さて、お前はそれで正装になるが、私は身支度をせねばな」
「フィグ、着替えるんですか? もしかしてドレス?」
緊張やら何やらで沈みがちだったクロードの表情が明るさを取り戻す。
「ああ。こういう席では女は軍装というわけにはいかん。面倒なことだ」
うなずくと同時に夫の顔からは暗い影は消え去った。
「結婚式以来のドレスですね!」
「ん、ああ。そうだったな。そういえばお前が来たのは夏も終わる頃だから、これまで式典の類が一切なかったからな。……それよりなぜそうも喜ぶ」
「え、だって。滅多に見れないし、可愛くて綺麗なフィグがもっと綺麗になるんですよ。楽しみです!」
期待で琥珀の瞳を輝かせるクロードに、フィグネリアは言葉に詰まる。
「……普段と大して変わらんだろう。それに春先から夏の初めにかけては他国を招いての式典や宴が月に一、二度ある。日に三度着替えることもあるぐらいだから、すぐに見慣れる」
異様な期待感にフィグネリアは釘を刺すが、クロードはまったく聞いてはいないようだった。
***
フィグネリアがドレスを着ると聞いて、喜んだのはクロードだけではなかった。
滞在が延びて退屈そうだった同行の侍女達は、身支度の手伝いを命じた途端に生き生きし始めていた。
「皇女殿下、ドレスはイサエフ様からお預かりしているものがあるので、そちらにいたしませんか? 新しい製法で織った布を使ったものらしくて、着る機会があれば是非試着していただきたいそうです」
ザハールの名に、フィグネリアはいつの間に侍女を丸め込んでいたのかと呆れる。
イサエフ候家は織物で大きな財をなしている。神霊より授かった鉱石で染めた糸で織られた布地は、他に類を見ない美しい浅葱色となる。
色合いとしては派手すぎずにいいだろうと、フィグネリアはそれに決めて着替える。
「皇女殿下、よくお似合いです。ドレスがお美しさを引き立てていて、イサエフ候家の浅葱染めは本当にいつも素晴らしいですわ」
「ああ、相変わらずよい品だ。だが寒い」
うっとりとした様子でフィグネリアを見ていた若い侍女が、年嵩の侍女に長手袋を用意するよう言われて側を離れる。
「姫様、御髪は結い上げた方がよろしいですね。もう少し長ければ、下ろしてもよいのですけれど、お小さい頃の時ほどお伸ばしにはなりませんか?」
そしてその年嵩の侍女はフィグネリアの髪を整えながらそう問う。
「自分ですぐに身支度できる方がいいから、このままだ」
幼い頃から付き従ってくれている侍女は、少し寂しげに微笑んだ。
「昔はお着替えのお世話から、髪を結うまでさせていただいていたのに楽しみが減ってしまいました」
「すまない。だが着替えも髪も自分でできる軍装に慣れると、どうしても煩わしくてな」
父が没するまでは、ドレスが日常着で髪も背中まであった。政務で忙しく身支度に時間が掛るドレスから、軍装に変えると何をするにも楽ですっかり馴染んでしまった。
お揃いのドレスを着るのが好きだったリリアはつまらなさそうだったが、自分は軍装が一番いい。
「義姉上がひとりで着替えができない服は窮屈だと言っている意味がよく分かるようになったな」
フィグネリアは未だにドレスを着るときに、嫌そうな顔をするサンドラを思い出して苦笑する。たった五年で自分がこれなのだから、子供の頃から狩装束で過ごしていた彼女はもっとだろう。
「……皇后様も姫様もお飾りにならないので、私どもは仕事の楽しみの半分がありません」
フィグネリアは鏡の中で結い上げられていく髪に、だけれどと思う。
(母上と同じなのはこれだけだった)
髪は刺客と争う内に一部をざっくり切ってしまい、それを誤魔化すのに短くしてしまった。
銀色の髪は母と同じ色だ。だから自分の髪はとても好きだった。
それにまっすぐな髪質はリリアとも一緒で、揃いのドレスを着て並んだ後ろ姿は双子のようだとよく言われた。
(だけれど違う)
面立ちを始めとして様々なものが母や妹とは全く逆だった。その中で、この髪はふたりとちゃんと繋がっているかに思えて大切だった。
切ることになった時は悲しくてたまらなかった。泣きはしなかったが、変わりにリリアがなぜか大泣きして拗ねたのをよく覚えている。
『フィグはどんな姿でも素敵ね』
だけれど、そんな短い一言と偽りのない笑顔に、リリアは機嫌を直して自分も短い髪も気にいった。
「姫様、ピアスはどうされますか? この頃は琥珀がお気に入りですが、今日は真珠の方がドレスにお似合いかと」
侍女が訊ねてきて、喉がひきつりかけていたフィグネリアは息をひとつ吸って真珠を選んだ。
全て終えて立ち上がると、侍女達は満足そうだった。
「さあ、仕上げはクロード殿下にお見せすることですね。ずいぶん楽しみにされていましたし、お喜びになりますよ」
若い侍女たちがきゃっきゃとはしゃぐのに、そういえばとフィグネリアは固まる。
そして姿見で自分を確認し、さらに侍女達を見る。
「……本当にちゃんと似合っているか?」
別になんとも思っていなかった自分の格好が、ドレスの裾から後れ毛のひとつまで全部気になって仕方なくなる。
これでいい気もすれば、全部駄目な気もする。
(クロードが期待しすぎるからだ)
とてもお似合いですよと言う侍女達の言葉にも、どうにも安心できない。
フィグネリアは鏡でもう一度自分の姿を確認して、クロードが待つ部屋へと移動する。
一歩進むごとに心臓は大きな音を立てて、とても穏やかな気分になれなかった。
***
上着だけ新しいものに変えて髪を梳かれたクロードは、部屋をうろうろしながらフィグネリアを待っていた。
「どうしようニカ、結婚式の時よりどきどきする!」
マラットととの協議の出来の微妙さに落ち込んだものの、気分は上がり調子だった。
落ち込むときは落ち込むが、こういう切り替えのはやさは自分の長所だと思いたい。
「殿下、とても馬鹿そうに見えるので落ち着いて下さい」
容赦ないニカの冷めた声に、クロードは上がっていた気分を落とされる。それでもまだ平常心までは下がらない。
「綺麗なんだろうなあ、フィグ……」
結婚式のドレス姿は可愛らしさと綺麗さがほどよく調和して、一目惚れした。またあんな姿が見られると思うと、口元は自然と緩んでしまう。
そして扉が開かれて、侍女が先に入ってきて次にフィグネリアが入ってくる。
その姿に綺麗だとか可愛いだとか月並みな言葉は全部飛んで、クロードは相応しい言葉を見つけられずに言葉を失った。
フィグネリアが纏うドレスはワンショルダーで、フリルもレースもなく裾にドレープがあるだけの簡素なものだった。
腕につけている手の甲までを覆う長手袋も中指を引っかける環が、繊細な模様の入った銀のリングになっている以外は飾り気がない。
「だから、あまり期待するなと言っただろう」
クロードの反応にフィグネリアが頬を染めてうつむく。
「期待以上で、なんて言ったらいいか分からないです。綺麗なんて一言で表すのはもったいないし…」
クロードはフィグネリアの頬にそっと手を当てて、彼女の顔をあげさせる。葡萄の房ののように連ねられた耳元の小粒な真珠達が、しゃらりと音を立てる。
「世辞はいいぞ」
「本当によく似合ってます。俺が嘘が下手なこと、フィグが一番知っているでしょう」
フィグネリアは本当に綺麗だった。
豊かな胸元から細いくびれ、腰へと続く曲線を独特な生地の織目が引き立て、艶めいていながらも浅葱の落ち着いた風合いで上品に纏まっている。
繊細なレースや華やかなフリルで飾り立てる必要なく、布地たった一枚で彼女の美しさが全て引き出されていた。
「……気にいったならいい」
さらに頬を染めてフィグネリアが視線を逸らす。あまりの愛らしさに口づけてしまうのは、自然の流れだった。
「こら、人目がある所で何をしているんだ!」
周りの視線にフィグネリアが抗議するものの、可愛いものでしかない。体面を保つためのふくれっ面がいつもより幼い印象でいい。
「そういえば、これってザハールの所の生地ですよね」
そしてクロードはひとしきりフィグネリアのドレス姿を堪能した後、やっと気づいた。
「ああ。ザハールがいつの間にか侍女に持たせていた。クロード、マラット殿の奥方の生家は?」
突然の質問にクロードは戸惑うものの、答を導き出す。
「ええっと、チャイカ侯爵家。ここは特産がない代わりに縫製技術で栄えたんですよね。あえて自分の所じゃ布を織らずに、国内各地から選りすぐりの生地を集めてる。今じゃ国の紡績、染織関連の特産をもつたくさんの領主と関わりがある。で、マラット様の奥方は嫁いだとはいえ目がよくて、今でもいいものがあればご実家へ薦めてる……うわあ」
ザハールの目的に気づいてクロードは口を半開きにする。
「……なんて用意周到な」
視線のやり場に困って赤くなっていたニカも呻く。
「春以降の式典で諸外国に披露する前に、反応をみてもらえればと思ったのだろうな。まあ、滞在も一日しかないのであの男のことだから運試しぐらいの気持ちかもしれん」
フィグネリアの言うとおりだろうとクロードは思う。有能だがなぜか変に遊んで楽しむ癖がザハールにはある。
「ドレスひとつにも政治とか経済とかの意味があるんですね……」
「皇族が身につけるものは全てだな。特に、他国の女性は装飾品ひとつひとつまで見ている。欲しいと思わせられたら、ひとまずは成功。そこから実際買い付けてもらって、その国で流行れば外貨が稼げる。このドレスの生地も当たれば大きい……っ!?」
すっかりいつもの表情に戻ってしまったフィグネリアの解説を、クロードは唇を塞いで止める。
「だから、お前はここでそういうことはするなと」
「せっかく綺麗な格好してるんだから、難しい話はなしにしましょう。ニカ、俺、並んでても変じゃないか?」
クロードは照れなど一切みせずに、ニカへと問う。
フィグネリアは申し分なく綺麗で、急に自分が横にいるのは不釣り合いではないだろうかと不安になる。
「大丈夫です。殿下は見た目だけなら十分に皇女殿下と釣り合いがとれています」
「…………中身も釣り合いがとれるように頑張る。でも、ドレスはそれで綺麗ですけど、寒くないですか?」
部屋の中ならまだしも一度外へ出ないといけないし廊下も寒いので、剥き出しの肩や手袋だけの腕は辛そうだ。
「寒いな。一応同じ生地のショールがあるからそれを羽織って我慢するしかない」
「女の子って大変ですね。見てる分にはすっごく幸せなんですけどね」
そう言っている内に侍女がやってきて、フィグネリアが渡されたショールを羽織る。
クロードは手を繋ごうとしたが、少し考えて腕を出す。
「できるだけくっついてた方が暖かいですよね」
「今日は私が暖をとらせてもらうのか」
フィグネリアが楽しげに微笑んで、腕を組んでくる。ぴったりとくっつくと暖かく、ついでに柔らかい感触も同時にあった。
手を繋ぐのも好きだが、これも悪くない
「じゃあ、行きましょうか」
***
晩餐の席は急ごしらえとは思えないほど豪勢なものだった。乾し肉や燻製肉をあえたサラダが幾種類も並び、他にチーズや肉と野菜の具材を詰めたパンもある。
フィグネリアは使用人にショールを預けてクロードと共に席についた。パーヴェルの姿はなく、マラットとその夫人のダリヤだけだった。
「せっかくの晩餐なのに私達ふたりでしかお迎えできなくてごめんなさい。息子達も領内に散らばっていて、娘もみんな嫁いでしまってこの通りですの」
白髪の混じる髪を綺麗に結い、黒に近い紫のドレスを纏って実に上品な風情のダリヤが微笑む。
「あ、いいえ。急なことなのにこんなによくしていただいてありがとうございます。お料理も美味しそうです」
主賓であるクロードがそわそわと落ち着かない様子で答えた。
フィグネリアはこの場ではあくまで楽士として招かれたクロードの妻として、粛々と夫を見守る。
「よかったわ。フィグネリア様もご遠慮なさらずどうぞ。今日のドレスはイサエフ候の所の浅葱染めかしら……」
席に着く前から興味を引かれていたらしいダリヤに問われて、フィグネリアは笑顔で肯定する。
「新しい製法で織ったもので、市場に出す前に試しに身につけてもらいたいと、イサエフ候の御嫡男からいただきました。同じ生地のショールがありますので、ご興味があるのなら後でご覧に入れますが」
「まあ本当に? 是非見せてください。本当にイサエフ候はこの頃は目新しいものをお作りになられて、面白いわ」
にこにこと上機嫌なダリヤの横でマラットはむすっとした顔で黙々と、料理と酒を口に運んでいる。
「……婿、飲まんのか」
酒には手につけずにサラダやチーズをつまんでいるいるクロードに気づいて、マラットがそう問うた。
「この国の料理とかは気にいってるんですけど、お酒だけは強すぎて口に合わなくて。せっかく出していただいているのにすみません……」
この国で広く飲まれる強い火酒は一口飲んだだけで駄目だったクロードが、笑顔をひきつらせる。
「他国からいらっしゃる人は皆そう仰いますわね。気がつかなくてごめんなさい。クロード殿下に林檎酒をお出ししてあげて」
ダリヤの命で侍女が子供でも飲める林檎の発泡酒を運ばせる。その間にクロードがフィグネリアへと酒杯を譲った。
「これなら飲めますありがとうございます。……あの、皇太后様のお小さい頃のことを少し伺いたいんですけど」
そして、クロードが甘めの林檎酒で口を湿らせて本題へと移るのを、フィグネリアは渡された火酒を飲み干しながら聞く。
薔薇の妖精がなぜここまでするのか、手がかりが欲しいとクロードからここに来るまでに相談があった。場の空気を乱してしまいそうならやめるという彼に、フィグネリアは好きにしていいと返答した。
「なぜそんなことを知りたがる」
「えっと、フィグに皇太后様は薔薇達とすごく仲がよかったって聞いたので、笛の奉納はお小さい頃の皇太后様を思い出すような雰囲気の曲がいいかな、と思って……」
フィグネリアはクロードと共に、マラットの様子を窺う。不機嫌そうな様子は変わらなかったが、話してくれる気はありそうだった。
「年中庭の薔薇の世話を手伝ったり、話しかけたりしていた。今思えば、同じ年頃の遊び相手がいなかったせいかもしれん。薔薇と一緒にいなければ、詩や物語を読んで、とにかくふわふわと現実味のない娘だった」
七つ年下の妹のことを思い起こすマラットの瞳には優しいものがあった。
「可愛らしい方でしたわね。初めてお目にかかった時、まるで薔薇の妖精が人の姿をとったようだと思ったわ」
自分の思い出の中の母と、幼い頃の母はさして変わらないらしい。
「長じてもさして子供の頃と変わらなかった。……先帝が側妃を迎えるまではな」
思ったよりも深いところに話が転がっていって、場の空気が凍り付く。
「あなた。この場ではそんな話はおやめになって。私達が今、お迎えしているのは楽士様とその奥方様です」
マラットがそこで押し黙って、ダリヤが困り顔でフィグネリアを見る。
「ごめんなさい。この人ったらいつもこうで。もう少し落ち着いてくれたら思うのだけれど、いつまでたっても子供ね」
五十を超える夫を捕まえてそんなことを言うダリヤにマラットが顔を紅潮させる。
「……人をいくつだと思っているんだ、お前は!」
「まあ。いくつになってもあなたが私より年下であることには変わりありませんわ。フィグネリア様、年下の夫を持つとこうして怒鳴られてもね、この人は自分よりも幼いから仕方ないわって可愛らしく思えて、それほど腹は立たなくなるものよ」
悪戯っぽく微笑むダリヤに、フィグネリアはあいかわらず立ち回りが上手い人だと感心する。
「だけれど、クロード様はこの人と違って、お優しそうだから腹が立つことなんてなさそうですわね。よい旦那様を迎えられたわ」
「ええ。夫を贈ってくれた皇帝陛下には感謝しきれません」
本音を交えて微笑み返すと、その場の空気にようやく温度が戻った。
それから温かいスープが運ばれて来たのだが、給仕を手伝っているのは神霊の器となっているらしき侍女だった。
フィグネリアはテーブルの下でクロードの袖を引き、視線を夫から侍女へと映す。
事前に外見の特徴は伝えていたので、それだけで通じた。
「お注ぎしましょうか?」
クロードの空になった酒杯を見てそう言う侍女は、年相応の幼さのある声だった。
動く様子や表情からも、とくに不調が見られるわけでもなく彼女はごくごく健康そうに見えた。
フィグネリアはクロードと一度目配せをして晩餐の間はずっとその侍女を気にかけることとなった。
***
「結局あの侍女の子、普通でしたね」
晩餐が終わり離れに戻る途中、フィグネリアはクロードにそう声をかけられる。
「ああ。神霊様は自由に降りたり戻ったりしているのだろうか」
「器になれる条件を産まれ持ってる子みたいだし、そうかもしれませんね。無理に器にされて消耗してないようでよかったです」
神霊の器になると大きすぎる力が負荷になるが、もとから魂に受け入れられるだけの余裕があって、常に体を使われている状態でなければ影響は少ないらしかった。
「そうだな。母上が薔薇に気にいられていた理由は分かったか?」
「それは分かりました。薔薇に限らず、花の妖精って人間に話しかけてもらうのすごく好きなんですよ。特に綺麗だとかとかそういう褒め言葉の類。ただし、上っ面だけじゃ駄目で、本心からの言葉を好むんです」
「母上は話しかけている内に、すっかりお気に入りになってしまっていたわけか。……帰郷した時も薔薇に話しかけていたな」
「お気に入りってだけじゃなくて、たくさん語りかけてもらえるから仲間意識みたいなのが、芽生えちゃってると思います。そうでないと、開花を待ったりしないと思います」
偽りのない真実の心。それはきっと善意と希望で満たされていたはずだ。
「リルエーカ様だろうか……」
フィグネリアは腕を組むクロードに身を寄せて、首を横に傾ける。
名前が分かったからいってどうにかなるものでもなさそうだが、かの女神ならばこれ以上大きな騒ぎは起こさないだろう。
「やっぱりご本人に聞くのが一番ですね。また降りてきたところに会えたら話してみましょう」
それしか手立てがないのなら仕方ないとフィグネリアは、これ以上の神霊や妖精の話題は諦める。
「晩餐は滞りなくすんでよかったな。ダリヤ様もショールを気にいって下さったしな」
晩餐が終わってショールを渡すとダリヤはまじまじと見つめて、面白いと感心していた。彼女があれだけ気にいったら、上手くいくだろう。
「奥方様はいい人でしたね」
「それが、あの方の勤めだからな。マラット殿はあまり社交向きの方ではないが、そこは奥方が政務には一切口出さない変わりに、家政を取り仕切り他家との関係をとりもつ役目を買っている。ご実家の方も九公家派、反九公家派どちらとも関わりがある。アドロフ公がお決めになったことだ」
ダリヤは実家の人脈もあれば、マラットより年上であの人柄だ。使用人への采配も行き届いている。いい相手を見繕ったものだ。
「立場ある人の結婚って本当はそういうものですよね。人脈、財力を補ったり強化したり」
「私はお前に強化してもらえればだな」
「フィグは大体足りちゃってますからね。そういえば、俺が本当に刺客とか密偵とかだったらどうするつもりだったんですか?」
クロードが素朴な疑問を口にして妻を見下ろす。
「煩わしい求婚や降嫁する必要がなくなる利点があるので婚姻関係は維持したな。後は必要な情報を引き出したら一生飼い殺しだ。跡継ぎが必要となれば、リリアの所から養子をとる選択もあったので、私が結婚する必要は特になかった」
「…………そんな愛のない結婚生活嫌です。なんにも命じられなくてよかった」
本気で安心しているクロードに、自分もそれでよかったとフィグネリアは思う。
後は出された料理や晩餐の席でのことをとりとめなく話ながら、ふたりは城の出入り口で待っていたニカと合流して離れへと戻る。
「フィグ、もう着替えちゃうんですか?」
そしてクロードから身を離して、広間とは別の部屋へ行こうとすると残念そうにつぶやかれた。
「ああ。いつまでもこんな格好はしていられんからな。寒いんだ」
寒いのは確かだったが、それ以上にクロードの視線が面はゆくて仕方ない。
着るものひとつでここまで夫の視線が変わると思わなかった。いつもより言葉は少ないくせに、琥珀の瞳が熱心に見つめるのにうなじのあたりがちりちりする。
「だったら、せめて着替え手伝わせて下さい」
「侍女がいるから必要ない」
「なら手袋だけでも脱がさせて下さい」
廊下を行き交う侍女やら、傍らで控えるニカなどが微妙な表情で立ち止まる。廊下の沈黙は重かった。
「何か楽しいのか、それは」
「意外と楽しいはずです。俺が」
「…………お前もさっさと着替えて明日に備えろ」
なんだかよく分からないがひとまず夫の頼みは却下して、フィグネリアは侍女達と一緒に着替えのための部屋へ入った。
***
クロードは寝室でいつもの体の線が出ない簡素な上下に着替えてしまっているフィグネリアの姿を見て、眉尻を下げる。
「もうちょっと、見てたかったなあ……」
結婚式以来の艶やかな姿なのにもったいない。胸はもちろんだが、腰回りの辺りがなんともいえない色っぽさで、思い出すと押し倒したくなる。
場所と現状を考えて自重する理性はあるが、手袋は返す返す惜しい。
「春先になったらいくらでも見られると言っただろう。まったく、浮つきすぎだ」
「だって、すごく綺麗でしたし」
クロードは広いベッドの上に上がって、そっぽを向いて座っているフィグネリアの腰に手を回し抱き寄せた。
洗い立ての髪からはかすかに薔薇の香りがする。
「二回目だから物珍しいだけだ。すぐに見慣れるようになる」
なぜか必死に褒め言葉を否定する妻が可愛らしくて、クロードは笑い声をかみ殺しながら深く抱きすくめる。
「フィグは着飾っているのを褒められるの嫌いですか?」
「嫌じゃないが、落ち着かない。もういいから寝るぞ。明日は神子様とお話ができるかどうかの大事な所だ」
仕事の話へと話題を移して、フィグネリアがクロードの腕から逃げようと身を捩る。
「はい。会わせてもらえるといいんですけどね……」
クロードは腕を緩めるだけで留めて、表情を真面目なものにする。
密偵の死の瞬間までにどんな行動をしていたのか知っているのは神子だけだ。最後にどんなことを言って、脅してきたのか、どんな様子だったのか。
ひとつでも知れれば手がかりになる。
「神官長様が取り次ぎをして下さるかだな」
「……フィグ、仕事の話はこれぐらいでやめましょう。約束違反です」
普段、政務が立て込むと寝室に戻ってからも書類を睨んだり話し合ったりするので、ベッドに上がったら仕事の話題は出さないというのが夫婦の約束だった。
「ここは家の寝室ではないから適用外だろう」
「どこでも適用です。むしろ外だから、何も考えない時間が必要だと思いますよ」
ここへ来てずっとフィグネリアは気を張りっぱなしだ。自分がそこまで彼女に頑張らせずに手伝えるのが一番だが、今できるのはきちんと休ませることぐらいしかない。
「……そうだな。だが起きているとどうしても考えてしまう。寝るか」
フィグネリアが体を横たえる気になったので、クロードは腕を解いて彼女に寄り添って自分も横になる。
本当に疲れていたのか、フィグネリアが眠りにつくのは早かった。クロードはその穏やかな寝息に目を細め、自分も眠りにつく。
「……?」
しかし眠りに入る直前、クロードはふと違和感を覚えて目を開く。その正体は、ベッドサイドに飾られている薔薇からだった。
「こら、俺の奥さんに悪戯するなっていうか、何してるんだ?」
薔薇の妖精の気配はヴェールのようにフィグネリアにかかっていた。
クロードはそっと妖精の気配に触れる。自分の内側で呼応しているのは、同じ種類の薔薇の妖精。自分の祖先はどうやらここの薔薇の妖精も魂に取り込んでいるらしかった。
「夢……に干渉してるのかな」
内と外の妖精を繋げ合うと朧気に何かが見えてきて、クロードは一旦繋がりを解いて少し考え込む。
「フィグがどんな夢見てるか、分かるってことだよな。うう、これはいいのかなあ」
夢を覗くというのは、勝手に日記を盗み見るような罪悪感を覚える。だが薔薇が見せているのなら、オリガに関することだろう。
クロードは眠気もすっかり忘れて思い悩む。
初めてここに泊まったときも、自分は先に眠ってしまって気づかなかっただけで、同じことを薔薇がしていたのかもしれない。
フィグネリアは翌朝夢を覚えていなかったし、今見ている夢もまた忘れてしまうかもしれない。
「見ておいた方がいいかもな……」
クロードはやっと結論を出して目を閉じる。
内と外の妖精を繋がりそこに眠気が絡んでいって、やがて暗闇はじわりと色を持つ。最初はただの滲みだった様々な色は、徐々に色合いや輪郭を鮮明にしていく。
「居住区の廊下……家に帰ってきた気になるなあ」
目の前に広がるのは、見慣れた王宮の廊下だった。クロードはこれが夢であることを忘れそうになりながら廊下を進む。
廊下の向こうを静々と歩く十歳ぐらいの少女の後ろ姿が見えた。背の半ばまである銀糸の髪に、淡い紫色のふんわりしたドレス。腰のあたりにあるレースで縁取られたリボンがゆらゆら揺れている。
「リリアさんっぽいけど、もしかしてフィグ?」
クロードは彼女を追いかけて早足になった。角を曲がる時に少女の横顔が見えて、フィグネリアだと確信する。
意思が強く前を真っ直ぐ見据える瞳は、全く変わらないらしい。
「これは、フィグの子供の頃の夢……」
クロードがつぶやくと同時にさっとカーテンを開くように景色が変わる。真正面にフィグネリアがいた。
「か、可愛い……」
クロードは思わずそう零す。
ほんのり赤みの差す白い頬はとても柔らかそうだ。面立ちは今と同じく均整がとれていて、桜桃色の唇が愛らしい雰囲気を作っている。その反面大きな薄青の大きな瞳は理知的で、大人びて見える。
矛盾するふたつの要素は不思議な魅力を醸し出していた。
「ちっちゃいフィグも可愛いなあ……」
と、いろいろ思うもののクロードはぜんぶひっくるめて可愛いの一言にまとめてしまう。
「やっぱり女の子はひとりは欲しいよな」
自分達の娘はこんな感じだろうかと、クロードは少しばかり目的を忘れて口元を緩める。
そして、はたとこれではただの怪しいお兄さんだと気づいて、フィグネリアの反応をうかがう。どうやら彼女に自分の姿は見えていないらしく、別の方向を見ていた。
ひとつの扉のむこうへと彼女は向かう。
「失礼します」
そう一言断ってフィグネリアが入った部屋は、オリガの部屋だった。
「いらっしゃい。ほら、座って。リリアももうすぐ来るわ」
柔らかい声でオリガがフィグネリアをソファーに招く。
「リリアはどこへ行ったのですか?」
「バラノフ様のところへ新しいドレスを見せに行っているのよ。一番最初に褒めていただきたいんですって」
「お忙しい方なのであまりご迷惑になっていなければよいのですが……」
そのバラノフ様がリリアの将来の夫になることをまだ知らない母娘は微笑み合う。
「フィグはドレスを見せたい方はいるのかしら?」
オリガがうずうずした様子で尋ねているのに、クロードも一緒になって緊張する。
「いいえ。いません。私は、父上が決められた方を婿に取るつもりなので……」
実際は兄が誕生日祝いに持ってくるとは露とも思っていないフィグネリアが、曖昧に微笑む。
(これ、どっちだろう。いるのか、いないのか……。ううん、いや、というよりなんでこんな夢をみさせてるんだろう)
過去の母娘の会話を壁際で眺めつつ、クロードは首を傾げる。
「そうね。エドゥアルト様ならきっと、素敵な人を見つけてくれるわね」
話題が尽きたのか母と娘の間に沈黙が落ちる。なんとなしに落ち着かない雰囲気だ。
「この頃、フィグはエドゥアルト様のお手伝いをしているのよね。大変じゃないかしら……。夜も遅くまでずっと、一緒にお仕事をしていると聞いたけれど、ちゃんと眠れている?」
意を決した顔でオリガが先にフィグネリアに声をかけた。
「それは、大丈夫です。私の方から最後までお付き合いさせて欲しいとお願いしているので」
フィグネリアの返答にそう、とオリガが落ち込んだ顔をした後、何かを言いたそうにしつつも彼女は言葉を止める。
(フィグは子供の頃からフィグなんだなあ……)
オリガが本当に欲しいのはそういう優等生な返事でないのに。
クロードは母娘をもどかしく思いながら苦笑する。
ふたりの会話にまた微妙な間ができる頃、リリアが部屋に入ってくる。すぐに彼女はオリガに抱きついて、ドレスを褒めてもらったと喜んでいた。
その様子を、フィグネリアは幸せそうに見つめていた。
「フィグに伝えたいことあるんだろうけど、うーん、なんだろうなあ」
ぼやいていると、辺りの景色が再び滲み出してくる。
クロードは薔薇の妖精達が離れていこうとするので、繋がりを解いていく。その後は自分の眠りの中に沈んでいった。
「……ド、クロード」
名前を呼ぶ声と体を揺らされる振動に目を開くと、フィグネリアの姿が見えた。十八歳の彼女と夢の中の幼い彼女が変に混じって、思考がこんがらがる。
「……おはようございます? フィグは何歳でも可愛いですよね」
「何を寝惚けているんだ。朝だぞ」
怪訝そうなフィグネリアに、なんでもないですと答えてクロードは体をのろのろと起こしていく。酷い倦怠感があるのは、妖精と繋がりすぎたせいかもしれない。
「フィグ、昨日、夢を見ました?」
「いや、覚えていない。見たのか、見てないのか……」
クロードは迷いながらも、フィグネリアの夢を覗いたことを告白する。
「夢、というよりそれは子供の頃の記憶だな。朧気ながら母上とそんなことを話した記憶はある。何の意味があるんだ?」
「それが分からないんですよね。伝えたいことがあるからでしょうけど」
健気に薔薇を咲かせ続ける妖精達の力にはなりたいが、言葉を交わせないのでどうしようもないのだ。
「本当に、神霊方も妖精も理解しがたいものだな」
クロードはフィグネリアと顔を見合わせて、ふたりで同時にため息をついた。
***
予定通り神殿へと向かうと、すでに神殿周辺の薔薇は散り始めていた。フィグネリア達は神殿より少し前で馬車を降りて辺りを見回す。
「昨日のように一気に落ちたわけではないな」
花はまばらに散っていて、地面も雪が覗いて見える。フィグネリアは視界の端で薔薇が音もなく散るのに憂う。
一体どれほどの速度で城の分まで散ってしまうのだろうか。
領民達が薔薇が散るのに喜ぶ中で、憂鬱な顔でフィグネリア達は礼拝堂へと向かう。
堂内は昨日以上に領民達がひしめいていて、長椅子に座れずに部屋の隅で立っている者までいた。
暖炉もなく冷たいはずの礼拝堂は、人々の体温で凍えるほどでもなくなっている。
「フィグ、すごいことになっちゃってるんですけど……」
クロードが引きつった笑顔で振り返る。
「まあ、当然と言えば当然だが……」
あまりの人の多さにフィグネリアも驚いていた。
「今日は神官方も総出でですね」
ニカが礼拝堂の左右の扉の方に丸くした目を向ける。そこには神官の姿も多い。これでもまだ人がやってきているらしく、神殿の入り口の扉は開け放たれることになった。
そして寒さにも関わらず入り口辺りにも人集りがあっという間にできて、クロードがリルエーカ像まで連れて行かれた。
「殿下、昨日より緊張されてますね……」
すっかり人垣に埋もれてしまっているニカが爪先立ちになって、人の隙間からクロードの様子を窺う。
「しかし、吹き始めたら集中してしまうから大丈夫だろう」
ニカより背の低いフィグネリアは、どうやっても人の背中しか見えなかった。
初めて神殿に行った時や、祭事の時もクロードは始めこそ緊張していたが、笛に口をつけた途端に周りのことなど目に入らなくなっていたので、心配することもない。
「……始まりますよ」
クロードの演奏が始まる直前、一斉に辺りが静かになる。
丸みのある音がこぼれ落ちてきて、それは囁きのような不思議な旋律を作る。ひとつひとつの音が柔らかく、優しい。
(本当に、母上を想起させる曲を吹くつもりか)
フィグネリアは昨日クロードが言っていたことを思い出し、感嘆する。
普通に聞けば穏やかな冬の陽光に似た音色だろうが、オリガを知る者ならば彼女の優しい声を思い出すだろう。
そして高めの音は自分が知っているよりも少し幼い印象も覚える。
笛の演奏というより、少女のおしゃべりを聞いている気がして耳を傾けている内にいつの間にか音は止んだ。
しばらくは誰もが静かに余韻にひたり、年嵩のいった人がお城のお嬢様を思い出したと言っているのが聞こえる。
「皇女殿下」
すっかり演奏に半分過去に浸っていたフィグネリアは、控えめなニカの呼びかけにうつむき気味だった顔を上げる。
クロードの元へと行こうと思ったが、今日も講説が始まってそれが終わるまで待つことになった。
「フィグ、神子様とはまだ駄目だそうです」
クロードとやっと合流すると、先に話を通したのか彼が自分達を手招いてそう言った。
「神子様も、楽士様にお目に掛りたいとのことですがまだ少し休養が必要でして……」
フィグネリアは本当に申し訳なさそうに言う神官長の顔に、ふと疑問を持つ。
昨日までに比べて顔色もよく隈も薄れている。やっと休めるだけ神殿が落ち着いたのかもしれない。神官達もどこか安堵した顔つきでいる。
正確な真実を知らない領民も、薔薇が散り始めて憂いが見えず密偵の件はまるで全て解決したかのような雰囲気だ。
「そうですか。では、処方のお役目をなさっている神官様方ともう一度お話させていただいてよいでしょうか」
しかしまだ終わっていないことを知るフィグネリアは、神官長にそう訊ねる。
「……私どもは知る限りのことをお話しました。これ以上は何もないと思うのですが」
遠慮がちな言葉の裏に、これ以上は詮索するなという本音が透けて見える。
密偵は死んだ。そして神殿は密偵など知らず、薔薇もそれを契機に散り始めている。
こうなると、もはや手を出せない。
フィグネリアは苦々しい思いを隠して、その日はそのまま神殿を去ることになった。
「マラット様にやりますって言たのに……」
張り切っていたクロードが馬車の中でがっくり肩を落とす。
「仕方ない。今は強行して密偵にこちらの動きに気づかれるわけにもいかん。今日の所は、城で待機して、資料の整理だな。……散っていっているな」
フィグネリアは窓の外に見える薔薇の数が明らかに減っていっているのに眉宇を曇らせる。
「このままなら今日の内に全て散ってしまいそうですが……」
ニカがよいことなのか悪いことなのか戸惑った声で言う。
「まだ、全部は散らないと思う。花を減らしてできるだけ長く咲き続けられるようにしてるんだ」
窓にもたれかかってクロードが傷ましげに目を細める。そして彼はおもむろに笛を取り出して、音を奏で始める。
神殿で吹いていたのと音程や旋律は似ているが、湛える感情は哀切なものだ。
フィグネリアは音に身を浸しながら目を伏せる。
眼裏に浮かんだのは、父の姿を遠くから見つめる母の姿だった。
6
クロードはニカとふたりだけでアドロフ家の庭先にいた。
神殿で神子との話はできずじまいで、せっかく役に立てそうだと思ったのに拍子抜けしてしまった。
だが、まだやれることもある。
「フィグはちゃんと休んでるかな」
クロードはここ数日忙しかったフィグネリアを、今日ぐらいはゆっくり休ませるつもりだった。
「皇女殿下もお疲れですし、殿下があれだけ言い含められていたのですから、大丈夫でしょう」
「だといいんだけどな……。それにしても、城、かっこいいよな」
背面から見る石造りの城も堅牢で隙がなくまさしく戦うためのものといった風情が、少年心を沸き立たせるものがある。
「はい。殿下、建築様式や石材についても解説したく思うのですが、先に薔薇を……」
「分かってる。どこもかしこも薔薇でいっぱいだな」
飾り気も何もない城の中だからこそ、いっそう薔薇達は華美に見える。しかしどこまでも美しく咲き誇っていながら、胸に触れてくる感情はひどく切ない。
クロードはそっと薔薇に触れる。
触れなくとも繋がってはいられるが、こうした方が気持ち的にやりやすいのだ。
「まだ、元気だな。なあ、どうしたいんだ? 皇太后様はもう帰って来られないのは分かってるのか? 俺もお前達が散るまでに手助けしたいんだけどな」
クロードは薔薇に語りかけてみるが、言葉が交わせるわけでもないので感情ばかりが共鳴しあうばかりだった。
「ん、なんだ?」
不意に妖精達の気配が揺らめいて、クロードは小首を傾げる。
「そこで何をしている」
低く、重圧感を覚える声にぎょっとする。振り返ればパーヴェルがそこに険しい顔で立っていた。
「う、あ、えっと、薔薇を見てました」
クロードは答えながらおろおろとニカに救いを求めるが、すでにニカは侍従らしく跪いて控えていた。
(これは、俺ひとりで対応しないといけないのか)
突然の事態に頭が真っ白になりながら、クロードはアドロフ公の様子を窺う。
「フィグネリアはどうした」
「今は離れにいます。アドロフ公はなぜこちらに?」
「自分の家の庭を歩くのに理由などいらん」
それはそうだとクロードはここで返答に詰まった。
「お前は薔薇に話しかけていたのか?」
わずかな沈黙の後に、そう尋ねられて困り果ててしまう。
「すいません。子供の頃から話し相手って花とか木とかしかなかったものでつい……」
何か誤魔化そうと思ったものの、思いつかずについ正直にクロードは答えてしまっていた。
「言葉を返さないものに声をかけて意味があるのか?」
薔薇に目をやりながら、パーヴェルが問うてくる。
「意味……。声に出さないと、駄目なときがあるから、でしょうか。自分の中にだけ置いておけないけど、どこに出していいか分からないものは全部、見えない相手に喋っちゃうんだと思います」
子供の頃から妖精の存在を感じて、言いたいことは全部彼らに向けてきた。
その時の気持ちまではよくは思い出せない。
「お前を婿に取ると決めたのは、フィグネリアではなかったな」
質問が飛んで、クロードは何か疑われているのかと不安になりながらうなずく。
「義兄上……皇帝陛下がお選びになりました」
正確に言うとあれこれ違うわけだが、表向きはそれなのでクロードはそう返した。
「お前自身は、この婚姻に異論はなかったか?」
「なかったというか、深く考えずに言われるままお婿に来たので……。でも、フィグと結婚できてよかったと思います」
もはや取り繕うのは諦めて本心だけで言葉を連ねていく。
「……いずれ、誰かを恨むときがくるとは思わないか」
「どうしてですか?」
本気で分からずに、クロードは首を傾げる。
「フィグネリアと共にあるならば、いずれは否応なしに苦境を強いられる。その時に何も知らない自分をそこへ放り込んだ人間を責めずにいられるか?」
パーヴェルの視線は相変わらず薔薇に向かったままだった。
だけれど、もっと遠くを見ている気がする。
「……誰かを恨んだり、責めることがあるならきっと、自分自身に対してです。フィグが辛いとき、なにもできることがない自分を責めることはあると思います」
今だって過去の自分をたくさん悔やむこともある。
「だけれど、俺はそうならないつもりで、フィグに追いつくつもりです」
パーヴェルの返答はなかったが、その顔が苦痛に歪むのが見えた。
「……アドロフ公!?」
杖を支えにしながらも、老体が崩れ落ちる。クロードは慌ててその体を支えるがパーヴェルは倒れてしまう。
「ニカ、誰か呼んできて! アドロフ公!」
クロードが必死に呼びかけるが、パーヴェルの意識はすでに途切れていた。
薔薇の妖精達の嘆きが膨らむのを感じた。
***
やることがないと、フィグネリアはソファーに横たわる。
できれば調書の見直しをしたいものの、クロードが気づかって休息をとらせてくれるのにも無下にできない。
侍女達はせっかくだから持ってきた他のドレスも着てみないかと、楽しげに進言してきたが、却下させてもらった。
いつ何が起こっても対処できる状態でいなければならないし、余計に疲れそうだった。
「昼寝というのも馴れないな。ひとりでゆっくり過ごすが分からん」
クロードは昼寝したりぼんやりしたりしているといいと、さも簡単なことのように言っていた。
しかしながら自分はそういうのが苦手だ。
「何も考えないよりは……」
無性に物寂しくなって、フィグネリアは唇を尖らせる。
「早く帰ってこい」
声に出してしまって、こらえると決めたのに我慢し切れていない自分に本当に駄目だなと呆れる。
時計を見るとクロードが出てからそれなりに時間が過ぎていた。ふと不安になって、フィグネリアはソファーから降りる。
探しに行こうとした時、侍女からクロードが戻って来たと報告があって安堵する。
「クロード、どうした?」
ただ帰ってきた夫の表情は珍しく深刻なものだった。
「アドロフ公が倒れました。俺、直前まで話してたんですけど、妖精達が騒いでいました」
それだけはまったく状況が理解出来ず、フィグネリアはクロードを座らせて事情を問う。
「ご容態は?」
「熱があるみたいで、休養が必要らしいです」
重篤というわけではないらしく、フィグネリアは胸を撫で下ろす。
「アドロフ公がお倒れになって、妖精が騒いだのか?」
「はい。なんだかすごく動揺してる雰囲気でした……」
薔薇が散らないことと、アドロフ公に何か繋がりがあるのだろうか。
フィグネリアは思案するが、答はでなかった。
「アドロフ公とは何を話したんだ?」
そしてフィグネリアは話題を変えると、クロードが少し迷いがちにする。それを見た扉の側で控えていたニカが静かに退室した。
「フィグとの結婚、あとで誰かを恨むことにならないかって。でも、なんだか俺に訊いてるって言うより、皇太后様のこと、話してる気がしました」
部屋にはふたりきりになって、やっとクロードはそう話した。
「……アドロフ公は、母上に恨まれていると思っているのか? そんな方ではないと、一番ご存じだろうに」
母は何より父を愛していたし、そんなことで誰かを責める性格でもなかった。
ありのままを全て受け入れてたゆまず愛を注ぐのが母だった。
「……アドロフ公自身が悔やんでるから、そう思ったのかも知れません」
「母上は、ずっとお幸せそうだった」
フィグネリアは思い起こす母はいつも笑顔でいた。だけれど、時々父を見る姿は寂しげだっただろうか。
幸せそうな顔ばかりしか、はっきりとは覚えていない。
「お前は、誰かを恨む日が来ると思うか?」
「ないです! ちゃんとアドロフ公にもそれは伝えました。俺は、フィグと出会えない自分なんてもう、考えられないし」
即答する夫にフィグネリアは微笑む。
「そうか。それならばよかった。私も、お前以外は考えられないからな」
望まなかったはずの結婚は、自分にとっては最良のものだった。
母にとってはどうだったのか。父が側室をもうけたことは、幸福に嵐が吹き荒れただろう。
それでも、自分を愛してくれた。
フィグネリアは最後の母の笑顔を思い出して、目頭が熱くなる、
「フィグ……」
クロードに肩を抱かれて息をひとつ吸う。ぬくもりと馴染んだ香りが心地いい。
「ああ、大丈夫だ。……薔薇と、母上と、アドロフ公。繋がりそうで、繋がらないな」
フィグネリアはクロードにもたれかかったまま目を閉じる。
これならば、休息は問題なくできそうだと思った。
***
さらに翌日、密偵死亡から四日目。アドロフ家の庭の薔薇はまだ満開だったが、神殿から城の側までの薔薇は半減していた。
そうしてその日もまた、神子との対面はできずに終わってしまい、これで二日続けて進展のないままになった。
パーヴェルの容態は快方に向かっているということで、それだけは安心する。
「すっかり、散ってしまったな」
フィグネリアは馬車の窓の向こうに見えるまばらな薔薇に、ため息をつく。
「あと少しですね……。今日は調書の見直しをしてましょうか」
クロードも隣で肩を落として、ニカも残念そうにしている。
「イサエフ二等官は早ければ明日には到着するんですよね」
「ああ。できるだけ早くついてくれればいいのだがな。大神官長様から返事も気になる」
神殿への介入の許諾が降りるかどうかが一番の問題だ。なければないで、手を講じなければならない。
フィグネリアは視線を鋭くして、口を引き結ぶ。
やがて馬車がアドロフ家の城につくと幾人かのアドロフ家の私兵が出迎えにきた。厳かな雰囲気にフィグネリア達は緊張感に身を強張らせる。
「アドロフ公が皇女殿下をお呼びです」
「ご用件は?」
フィグネリアが問うと、それは訊いていないとのことだった。
「あの、フィグだけですか?」
「案ずるな、ただ話をするだけだ。待っていてくれ」
不安そうなクロードに、フィグネリアは穏やかな微笑みを向けて兵達へと城へと向かった。
***
昼でも薄暗い部屋へと通されたフィグネリアは、パーヴェルがベッドにいることに驚く。
彼ならばけしてこんな老いて弱った姿を見せないと思っていた。
「私は老いた。それはまぎれもない事実だ」
フィグネリアの内心を読み取って、パーヴェルが答える。
「お加減はいかがですか?」
「よくはない。そう、長くはないだろうな。お前には喜ばしいことか……」
「……アドロフ公にはご健在でいて頂かなければなりません」
それは本心だった。九公家を抑えるにはまだパーヴェルの力がいる。
「お前は、父親によく似ているな」
面白くなさげにパーヴェルが言って、それからしばし沈黙して、サイドテーブルに飾られている薔薇に視線を向ける。
テーブルの上には、花びらが一枚だけ落ちていた。
「……オリガのことを聞きたい」
息が詰まる静寂の中、パーヴェルが告げた言葉にフィグネリアは一瞬動揺した。
「なぜ皇太后様についてお知りになりたいのですか」
「老い先短くなって、こんな年寄りよりも先に身罷った娘が気にかかるだけのことだ。オリガは、何かを望んでいたか?」
「……分かりません。あの方は、ご自分の望みというのはあまり口にされる方ではなく、常に誰かを思いやってでおいでました。それは、アドロフ公の方がご存知なのでは」
「あれは、昔からそういう娘だった。自身の都合よりも他人を優先する。だから、お前のような娘でさえ我が子とした」
言外に母と自分は全くの繋がりがないと強調されて、フィグネリアはうつむく。
もう何度も様々な者に聞かされたが、いつも心苦しい。
「お優しい方でした」
短く返すと、しんと部屋が静まりかえる。
「ならば、先帝はお前を跡継ぎにと望んだか」
「……あくまで、兄の補佐をとお望みになりました」
一瞬の躊躇の後にフィグネリアは答える。
「お前ならばどうする。政に向かない子と、己の知識を全て引き継げる子と、どちらに跡を託す」
「ふたりの子が同腹ならば、後者を取るでしょう。ただ、私は違います。あくまで、補佐のために産まれたのです」
そのために自分の母は平民の出自であり、天涯孤独の身の上だった。だからこそ、自分には後ろ盾がない。それと同時に父が存命の間は、後継者問題は起こらなかった。
「それに、その気があったのならとうに私や皇帝陛下にお話しがあったはずです。今際の際にすら……」
言いかけて、フィグネリアは口を噤む。父が前大神官長に薬と偽られて毒を盛られて倒れ、駆けつけた時にはすでにその意識はなかった。だが一度だけ、目を開いて自分を呼び寄せた。
『後のことは任せた』
それが最後の言葉だった。これから帝位に即く兄を支えよということだろうと判断した。そのはずだが、改めて問われるとどうとでもとれる言葉だ。
「私が生きている間は言えまいか。盟約があったのすら、聞いてはいないか」
フィグネリアは、知りませんと声にならない声を紡ぐ。
「あの男を即位させるのに、ふたつの条件を出した。即位後半年の内にオリガを娶ることと、嫡子を帝位につけること。それさえ呑めば手を貸そうと」
「それは父の施策です!」
思わず大きな声を出してしまっていた。
アドロフ公を説き伏せ、かねてより婚約していた息女との婚姻を早め、そして嫡子を次期皇帝と定めて九公家との関係の均衡を取ることを決めたのは先帝のはずだった。
結果としては同じだが、パーヴェルが言う経緯が事実ならばアドロフ公と先帝の立場は逆転する。
先帝は九公家中心の内政を変えるつもりでいながら、アドロフ公に屈してその血脈に繋がる者を次期皇帝として据えることに承諾したことになる。
「あの男はオリガとの婚約を破棄するつもりだった。最後に私に、婚約の無効を言わせるつもりだったのだろうが、先に私が盟約を持ち出した」
「なぜ今になってそんなことを……」
冷静さを取り戻そうとしても、声は震えてしまう。
「お互いに盟約のことは黙するという取り決めだった。そして確かにイーゴルが帝位につき盟約は果たされた。だが、嫡子がなく実質はお前が帝位に即いているのと変わりない」
「私は現在政務を統括していますが、最終的な決定権は皇帝陛下にあります。私は、陛下に忠を誓う臣下でもあります」
イーゴルが兄であると同時に、主君であることを忘れたことなどない。
「……お前のそれは本当に忠心か。イーゴルがもし兄でなく、真に主君ならば膝を折る気になれたか。忠を誓うということは、主君を己の命とし誇りとすることだ。己より遙かに執政能力の劣る主君を誇りとできるか。命をかけられるか」
フィグネリアはパーヴェルの問いかけに、答えられなかった。
兄と、主君というふたつは今さら切り離して考えることができない。両方だからとしか言いようがなかった。
「陛下は、政務は不慣れですが、軍人としては優秀です」
「武でもって戦に勝つことが全てだった二百年も前ならそれで通っただろう。あれは産まれてくる時代を間違ったな。マラットもか……。アドロフ家の武人としての才は、今の時代裏目にしかでん」
投げやりな物言いには、息子と孫への不満と先を案じる響きが混ざっていた。
「もう一度お前に聞く。九公家の血を汲まず、己の分身がごとくできた子がいる。そうして、先に跡継ぎと決めた子は己の分を理解し、その伴侶は有力な後ろ盾がない。しかし盟約がゆえに己の分身である子は帝位につけられない。ただし、盟約を知るのは己と老い先短いであろう年寄りのみ。どうする」
待つだろうと、フィグネリアは思う。
この老人が死して、他の誰も事実を知らなくなれば障害は消える。それまでは自分の胸の内だけにしまい、跡継ぎとする子に全てを注ぐ。
「だが、あなたならばイーゴル殿下が即位するまでに、御嫡男に教えていたはずでしょう」
「そのつもりだった。私はあの男より先に死ぬものだと思っていたからな。だが、その前に向こうが先に崩御した」
父は四十半ばにもならずに没した。大神官長に毒殺されるなど本人も、予測の範疇外だっただろう。
「マラットがあの通りで、アドロフ家の九公家中核としての立ち位置を確実にするためだったのだが、イーゴルがあそこまで政の才がないのは誤算だった」
パーヴェルがまったくとぼやいて、フィグネリアを見る。
「予測外だったのはお前についてもだ。いくら教育を受けたとはいえ、十三の小娘などさしたことはできまいとあなどっていた。だが、一度の先帝の負けをお前なら覆せる可能性があった。そうなれば、もはや盟約など無意味だ。……オリガが十三の時は自分の婚約の意味さえ分からずにいたのにな」
娘の名を呼ぶときだけ、パーヴェルの声は和らいでいた。
「それは、皇太后様は政務に関わることなどはあまり学ばれていなかったのでは……」
「一通りは学ばせたが実にはならなかった。だが、私にとって十三の娘といえば娘ぐらいしかよくは知らない。その娘のこともよくは知りはしないが。先帝がお前に帝位を譲るつもりだと、オリガが知っていたと思うか?」
「いいえ。先帝陛下ならば言わないでしょう」
オリガならば、黙していただろうがあまり嘘が得意な人ではなかった。万一でも漏れる可能性を考えれば言わない。同じようにイーゴルにもだ。
それに、いくら言葉を濁したとしても、妻の父親の死を待ち望んでいることなど知られたくはないだろう。
「お前は、帝位が欲しいか?」
「先帝陛下のご遺志を果たすために必要ならば望みます。しかし今は、皇帝陛下もご尽力くださるので不要です。このまま皇帝陛下にお世継ぎがなければ、継ぐ覚悟もあります」
間を置かずにフィグネリアは返す。これはいずれ問われると予測していた。
「お前は先帝によく似ているが、足らんな」
しかし、パーヴェルの返しは予測外のものっだった。
「……私は先帝陛下ほどの能力はありません」
「そうではない。お前には戦って勝ち抜き、是が非でも頂点に君臨する意思がない。あの男にはあった」
パーヴェルが視線を遠くに向ける。
「皇家と九公家の戦は建国以前より続いている。常に力を誇示し、競い他を圧倒する者しか我らは主君と認めん。王が愚者ならば戦いその座を奪うまでだ。建国よりしばらくは、そうやって内乱を繰り返し皇家は勝ってきた」
「もはやその頃とは時代が違います」
戦の傷跡は各地に残れど、どれも遠い昔のものに変わっている。
「そうだ。だが争うのを止めたわけではない。戦の仕方が変わったのだ。武力を全てとし、兵をぶつけ合い戦うことより、謀略を巡らし武器を持たずして戦うことへとな」
フィグネリアが反論なく押し黙る。
「あの男は戦の変化を決定的にし、かつ自分が有利になる形に変えていった。必ずしも己が勝者となれる戦場を築き、そこへ相手を引きずり込んで絶対的な支配者になる。……今のお前と同じ、十八であの男はそれだけのものを築き上げていた」
パーヴェルの言葉からは微かに畏れと、高揚感が感じられた。
いまだに父に夢を抱く者達のように、この人も一度は父に魅せられたのかもしれない。
「私は、先帝に勝った。それでも、奴はどこまでも諦め悪く足掻いていた。イーゴルにつける有能な側近を育てなかったのはなぜだと思う」
「皇帝陛下はあまりにも、人を信じ過ぎるからです」
「そして、それ以上に先帝は側近を信用してはいなかった」
フィグネリアはまるで自分のことを言われた気がして、口を引き結んだ。
「戦って勝ち抜いてこそのディシベリアの王だ。周りを敵と見なすのはいい。だが、対立するだけではならん。勝たねばならんのだ。あの男は自らの力でもって勝ち、従えた。お前はむやみに敵を増やしすぎ、自らを窮地に追い込んだにすぎん」
そして、あの内乱騒動が起こってしまった。合ってはいるが、フィグネリアの考えとは少し違う。
「戦うことをお前に教えずイーゴルを、追い落として自ら覇権を握る野望を抱かせずに育てたのは、あの男の最大の過ちだ。お前は従順すぎる」
「違います。先帝陛下に何を言われようが私は、皇帝陛下とは戦いません。あの方がいくら政ができずとも、私の愛する兄です。私は家族とはけして争いません。戦うとするなら、家族を護るためだけです」
フィグネリアは感情的になっている自分に気づいて、そこで言葉を止める。
パーヴェルは一言も返さずに沈黙していた。
「……アドロフ公、私は父と同じことはできません。至らない点も多くあります。信頼できる者に補ってもらうつもりです」
静かに返すと、パーヴェルは目を細めた。
「それで、お前は本当にディシベリアの王となれると思うか。全ての臣民の命となり、誇りとなれるか」
なれるとは答えられなかった。そんな自信はどこにもなかった。
「オリガはお前を帝位につける方がいいのではと言っていた。イーゴルにはもっと生きやすい場があるのに無理に帝位に即けるは可哀相だと。先帝に似たお前を補佐で留めておくのも、もったいないとな。盟約のことどころか、自分の婚姻の意味さえよく分からなかった娘のことだ。それほど深い考えなど、なかったのだろうがな」
そういう人だったと、フィグネリアは思い出す。
複雑に絡んだ利害関係はあまりよく分かっていない人だった。だからこそ、しがらみにも囚われずに、ただ相手のことだけを思いやるばかりで、そういうところは兄がよく似ている。
「お前は自分の婿が本当に次期皇帝の伴侶となる意味を解していると思うか?」
クロードへと話題が移って、フィグネリアはうつむく。
「……分かっていると、思います。気が優しいのでおそらく呑み込みきれないことも多くあるでしょうが、理屈は解する男です」
クロードが暗殺の件を責め立てなかったことに納得がいっていないことを、ふっと思い返す。
彼の優しさゆえのものは、無理に全部理解して同意しろというつもりはなかった。
「先々帝……お前の祖父にあたるあの暗君の死を、先帝が予期していたことは分かっているな」
先々帝は公式には病死とされている。父の即位にあたり帝都近くの離宮へと追いやられた祖父は退位からわずか一年半後、崩御した。
「九公家派がいつまた担ぎ出してくるか分からない以上、排除を考えた者がいたはずです。父が直接手を下さずとも、悪政への恨みと新帝への忠誠心で誰かが動くのは予期できたでしょう」
そして父は対策は取らなかった。
「オリガやイーゴルは素直に病死と信じているだろうな。だがお前は自分の父親が祖父を見殺しにできることを、平然と考えられる」
言われてフィグネリアはぞくりとした。
もし自分が父の立場なら、確実にそんなことは家族には教えない。病死だった、残念だと白々しく言える。
「お前の婿はオリガと似ていて、あれより聡い。本当に、次期皇帝の伴侶としてやっていけると考えられるか」
畳みかけられて、フィグネリアは今度は返答できなかった。
クロードに対しても、きっと同じことをする。父が母に見せたくないものは見せなかったように。
そして彼はけして察しが悪いわけではなく、事実にうっすらと気づいてしまう。
そこで本当にずれが生じないことがあるだろうか。
急速に不安が胸に染み出してくる。
「……オリガも偽りがどこかにあるとは気づいていたようだが、どう思っていたのだろうな」
パーヴェルはか細い声でつぶやいて、傍らの薄闇の中でもくすむことなく黄昏の色を湛えている薔薇へと目を移す。
薔薇は音もなく花びらを一枚、また落とした。
***
パーヴェルの部屋を辞した後に、フィグネリアは離れへ戻る道をひとり行く。
その途中に神霊の器となっている侍女の姿が見えた。彼女の表情は冷たく、おそらく神霊だろうと思う。
「……リルエーカ様ですか?」
名を問うと、彼女は返答代わりなのかすっと薔薇を差し出してきた。
「あなたは今、絶望していますか?」
質問に質問で返されて、フィグネリアは神霊らしい勝手さだと苦笑する。
「分かりません。私が得たのはあなた様が好まれる真実ではないのは確かです」
父が完璧な王であったことは虚構だとは思わない。当人以外にとってはもはや真実だ。確かに父は偉業をなした賢君だったのだ。
それよりも母が本当に幸せだったのか、自信がなくなってくる。
そして未来に自分が、果たしてクロードとこのままの関係でい続けられるのか。
「薔薇は何を待っているのですか? あなたが望まれる真実がここにはあるというのですか?」
フィグネリアは憔悴した声で、リルエーカに問いかける。
「ええ。あります。だけれど、それも、直に消え失せてしまうでしょう。希望というのは絶望の裏に隠れているものです」
手渡された薔薇が花びら一枚だけ残して散る。
「早く見つけなさい、彼女の祈りを」
リルエーカはそれだけを言い残して、廊下の奥へと消え去っていた。
その場に取り残されたフィグネリアは、花びら一枚だけの薔薇を手にしてその場に佇む。
そしてのろりと歩き出す。
パーヴェルと話したことを、クロードに包み隠さず全て言える気はしなかった。彼が大丈夫だと言い理解するふりをすることは予測がついた。
フィグネリアは薔薇の蔓の部分を指先で弄びながら、目を伏せる。
そして離れに帰り着く頃には、自然と平静な表情を取り繕っていた。
***
クロードは軍靴の音が広間の外から聞こえて来て、ソファーから立ち上がる。
「フィグ! って、違う」
彼女のものにしては重く、どことなく聞き覚えのある歩調だった。
「あ、やっぱりフィグじゃない」
扉が開かれて、クロードはがっかりとした顔で来訪者を出迎えた。
「人が馬を乗りついでろくに寝ずにここまできたのに、酷い出迎えだな」
横柄な物言いで苛立たしげにそう言った来訪者はザハールだった。
「イサエフ二等官、お疲れ様です。しかし、本当に早かったですね」
ニカが主君の変わりに敬礼して、ザハールがまったくと乱暴にソファーに腰を下ろした。
「資料の仕分けがほとんどすんでいて、夜に王宮に報告が来たと同時に皇帝陛下が官吏をかき集めた。それと、皇女殿下の指示が詳細で明確だったので、いらない手間がかからなかったからだ。それで皇女殿下は?」
アドロフ公と話しているとクロードが説明すると、ザハールは怪訝そうにしながら腕組みする。
「たぶんもうすぐフィグは帰ってきますよ。そうだ、ドレス、ありがとうございます」
クロードは晩餐のことを思い出して素直に礼を述べる。あのフィグネリアは本当に綺麗だった。
「着てもらったのか。どうだった?」
「すごく綺麗でした!」
「ドレスを着た女性には褒め言葉をしか言ってはいけない男の意見はどうでもいい。ましてや君なんて尚更だ。僕が訊きたいのはダリヤ様の反応だ」
「そっちも良好です。でも、フィグ本当に綺麗でしたよ」
あの姿を見せてみれば、ザハールだって本心から見蕩れるに違いない。だけれどむやみに他の誰かに見せたくはないのも本音だ。
「皇女殿下の容姿は一級だから強調しなくても分かっている。皇族なのも加味して、ものが三割増しでよく見えるから、毎年どこも自分の所のドレスや装飾品をつけてもらうのに躍起になる」
「そういえばザハール、フィグのドレス姿毎年見てますよね……」
律事二等官で九公家の近親であるザハールなら、当然式典の類に出席しているだろう。自分が知らないフィグネリアをザハールが知っているのは、悔しい気持ちがある。
「君はどうせこれから好きなだけ真横で見られるからいいだろう」
「そうですけどね。早く春が来ないかな」
馴れてきたとはいえ、寒さが苦手であることには違いないクロードは、暖かい季節を待ち焦がれる。
「君は頭の中が年中春だがな。それで薔薇は散り始めているらしいが、神霊様は片付いたのか?」
クロードはニカと一緒に気まずい顔で説明する。
「なるほど、厄介だな。先に事件の方も現状報告してくれ。皇女殿下には事件以外にもやってもらわなければならないことがあるから、どの道先に君たちに訊いておかないとならない」
ザハールが抱えている書類の束をテーブルに置いて、半分を分ける。
「イサエフ二等官、こちらは事件に関する資料でしょうが、片方は?」
事件関連より微妙に分厚い書類の束にニカが首を傾げる。
「皇女殿下のご政務だ。まともに指示を与えて最終決定を下せる者がいないと王宮も活動が鈍る。僕が急いで来たのは、皇女殿下にできるだけ早く戻っていただくためでもある」
クロードは書類を手に取ってぱらぱらとめくってみた。どんな解答が必要か分かるものもあれば、分からないものもある。多いのは圧倒的に後者で、まだまだだなと思う。
「本当に大変だよな……さ、三分の一ぐらいはできる気がする」
「君ができても、皇女殿下の署名以外は無効だがな」
ザハールがそう言って、クロードは唇を尖らせる。
「分かってますよ。俺の署名がなんの効力もないのは」
政務統括官であるフィグネリアの変わりにいくらか書類の処理はできても、最終的にはフィグネリアの署名がいる。
それだけの責任は自分に持たされていないのは、周囲からの評価と信用がまだまだ低いからだ。
「あ、今度こそフィグだ」
クロードはさっきより軽く、歯切れのよい軍靴の音に顔を綻ばせる。予想通り、帰ってきたのはフィグネリアだった。
「お帰りなさい。フィグ、アドロフ公とのお話しは……?」
「ん、ああ。後で話す。それよりザハール、早かったな」
今、はぐらかされた気がするのは気のせいだろうか。
クロードはザハールから政務の書類を受け取るフィグネリアの疲れた横顔を、じっと見つめる。
「どうした?」
視線に気づいたフィグネリアが首を傾げる。
「え、あ。ザハールに現状報告は俺とニカとでやって、一緒に書類なんかも目を通しておくんで……」
「そうか。助かる。では、頼んだぞ」
フィグネリアが微笑んで、寝室へと政務を片付けに行く。
(やっぱり、変だ……。皇太后様のことなのかな)
クロードは笑顔の裏に隠れているものに気づいて、きっとふたりきりの時に訊いたら話してくれるだろうと考える。
ただやけに不安な感情が胸の内に残って、クロードはそれを取り払うように首を横に振ったのだった。
幕間
神殿の中庭の四阿で、黒髪の三十前後の女性が咲き乱れる薔薇達に目を細める。目を惹く派手さはないが、よく見れば目鼻立ちの整った彼女は神子だ。
神殿周囲の薔薇は全て散ってしまったというのに、この中庭の薔薇は花びらを一枚たりとも落とさない。
まるで自分達の偽りを知っているかのようだと神子は思う。
「神官長様、楽士様にはお目にかかれないのですか?」
隣に立って同じく薔薇を見ている神官長が困り顔で首を横に振る。
「楽士様は皇女殿下の婿君です。接触されるのは……」
「これほど、妖精達が騒ぐ楽士様は初めてなので、お話しを聞いてみたいのですが」
ここ数日礼拝堂の方角から聞こえてくる笛の音に、妖精達が大きく動く気配を感じた。薔薇だけでなく、風や土、ありとあらゆる妖精達が激しく律動して五感が狂いそうなほどだった。
そして自分の心にも何かを呼び起こすものがあった。
目を閉じると、金の光が滲み出してきて眩い。ちりりと鈴の音が遠くでこだまする。
思い出すだけで郷愁に似た感情に胸が締め付けられて、会いたいと切実に思う。
「私は真実を喋りはしません。どうか、ひと目だけでも。そうです。喋れないということにしていただければ、神官長様が憂うこともありません」
神官長はそれでもまだ迷いを見せた。
「全ての真実が明かされなければ、薔薇は実をつけないのでしょうか」
そして彼は虚ろな声で言う。
「何がリルエーカ様のご意志なのか私どもには分かりません。ただ、我々の、『彼』の行いに善意も希望もないなどとは思いたくはありません」
リルエーカが愛でる真実は、確かにここにあると信じたい。
そうでなければあまりにも、報われないのだ。『彼』の願いも、神官達の思いも。
「……神子様、明日にでも楽士様とお目にかかれるよう手配いたします。お声をかける以外は、お好きにしてくださればと思います」
神官長が四阿から離れながら、淡々とそう告げる。彼は彼で、この状態の理由を早く知りたいだろう。
「明日……」
神子は両手を組んで、口元に当てる。
自分はどうするべきか、考えなければならない。だがあの楽士と相まみえられるかと思うと、思考が飛ぶほど胸が高まる。
自分の気持ちに呼応でもしているのか、妖精達がさざめく気配がする。
神子はふわりと身を翻して、屋内へと戻っていく。
「会えるのね……」
そしてもう一度高揚を口にして、今日という一日が早く過ぎることを祈った。