プロローグ~3章
プロローグ
枕元で物音がして、パーヴェル・アドロフは夢から覚める。
重たげに首をそちらへ向けて見えた銀髪の少女の後ろ姿は見覚えのあるものだった。それにこれは夢の続きなのだろうかと考える。
彼女はサイドテーブルに飾られた橙色の薔薇の一輪挿しを見つめているらしい。
「……オリガ」
名前を呼ぶと少女は目を丸くした後に寂しげに目を細めた。
「わたくしはお母様じゃなくてリリアよ、お爺様」
お父様、という返事を待っていたパーヴェルはああ、と声なき声をもらす。
ディシベリア帝国第二皇女で、現在は降嫁しバラノフ伯爵夫人である孫娘は見る度に母親に似てくる。違いといえば、勝ち気さが覗くところだろうか。
「マラットがお前を呼んだのか。余計なことを」
「伯父様もお爺様のことが心配なのよ。可愛い孫娘の顔を見たら回復も早くなるわ」
明るく笑うリリアは、やはり三年前に身罷った娘のオリガによく似ていた。
「……神殿からいただいた薬を飲んで寝ていればすぐによくなる。子供らはどうした」
「ごめんなさい。今日は置いてきたわ。あら、孫娘よりひ孫の方がよかったかしら?」
「そうではない。母親はできるだけ子供の側にいなさい」
十七の孫娘はすでに五人の子がいる。一番下の双子はまだ赤子で、上の三つ子とてまだふたつで母親がなくてはならない存在だ。
「はい。すぐに戻ります。だけどもう少しだけ、お爺様の側にいさせて」
傍らの椅子に座るリリアの柔らかな声があまりにも娘に似ていて、パーヴェルは口を閉ざした。
嫡男のマラットもこの頃はしきりにリリアはオリガに似ていると言う。妹を懐かしがっているだけではなく、浅はかな魂胆が見え透いていた。だからこそ老いさらばえながらも、家督を譲れないのだと息子は理解しようとしない。
「今年は薔薇が咲くのが遅かったのね。庭の薔薇園もまだ満開で綺麗だったわ」
花瓶に目をやってリリアが言う。
「散らないのだ。その薔薇も五日はそこにある」
瑞々しく八重の花弁を広げるこの薔薇は二日もすれば散ってしまうものだ。それなのに領内の薔薇たちは咲き続けていた。
眼裏に焼き付いた記憶が鮮やかな色を湛えているように。
(だから、余計に思い出すのか……)
リリアをオリガと見間違ったのは、似ているだけでなく、先ほど夢に見たからだった。この頃娘は夢のよく現れる。
「散らないのは困るわね……」
パーヴェルはリリアの不安げな声を聞きながら再び微睡んでいく。
夢と現の境目は薔薇の芳香に曖昧にぼやけていった。
1
北の大帝国ディシベリアの王宮。皇族の居住区には死者のための部屋がある。
第一皇女フィグネリアは久しぶりにそこに訪れていた。
毎日侍女達が二度は手入れをする部屋は、寝台以外の調度品が並び全て白で統一されている。暖炉にも絶えず火が灯されていて、仄かに薔薇の香りが漂う。
そうして壁には先代の皇帝夫妻の肖像画が掛かっている。
五年前にここに掛かっていた先々帝夫妻の肖像画は、歴代の皇帝の肖像画が収められる奥の間に移された。変わりに父の絵が飾られて、三年前には夫妻ふたりの絵に変わった。
「……母上」
フィグネリアは父の傍らでふんわりと微笑む少女に目を向ける。嫁いできたばかりの頃の絵だから、皇太后のオリガはまだ十五ぐらいだろう。
緩くうねる銀髪に瑠璃色の瞳の母は、ひとつ年下の妹のリリアに似ている。瓜ふたつと言っていい。
そうして自分は彼女と髪色こそは同じだが、面立ちや雰囲気は似ても似つかない。
それは当然だった。自分と彼女は血の繋がりがないからだ。十年上の兄で現皇帝のイーゴルが政務に向いておらず、父がその補佐となる子を望んだが、オリガはなかなか第二子に恵まれず、側室を迎えて産まれたのが自分だ。
しかし、実母は産まれてすぐに亡くなったので、フィグネリアにとって母というのはオリガだけだった。
「何をしに来たんだろうな、私は」
フィグネリアは自嘲して側にある椅子に座る。なんとなしに来てしまったけれど、とりわけて用があるわけでもなかった。
「フィグ」
じっと両親を見つめていると扉を叩く音と愛称を呼ぶ声がして、フィグネリアは笑顔の種類を明るいものに変える。
部屋に入ってきたのは銅色の髪と琥珀の瞳の青年、夫のクロードだった。
「フィグがここにいるのって珍しいですね」
クロードが傍らに立ってフィグネリアの顔を覗き込む。
「そうだな。うん。お前の母君の話を聞いていると、私も母上が懐かしくなってな」
ひと月と少し前、リスに降りてしまった第二の真実を司る神霊ルーロッカが、王宮内で騒動を起こした。ルーロッカによってクロードは辛さのあまりに記憶の奥底に封じ込めていた、臨月間近の母親を失った前後のことを思い出さされた。
彼がその頃のことぽつぽつと話すのに感化されて、フィグネリアも皇太后のことを思い起こす機会が増えていた。
「それに、そろそろアドロフ公から母上に贈り物が届く頃だから、ああ、ただ会いに来たかっただけだろうか」
自分自身がここに来た理由を見つけ、フィグネリアは柑橘類に似た爽やかさを含む独特な薔薇の香りを吸い込む。
「そういえば、ここの薔薇の香りって皇太后様のご実家のアドロフ公領で作られる薔薇の香水でしたね。亡くなってからもずっと、香水と薔薇果茶を贈ってきてるんでしたっけ」
「ああ。いつも、直筆の手紙と一緒に。香水はリリアが子供の頃よくつけたがっていたな」
「フィグは?」
肘掛けに置かれたフィグネリアの手に、クロードが自分の手を重ねる。
「私にはこういう香りは合わないだろう」
それに、自分にはその資格もない。皇帝に次ぐ権威を持つ九公家の中核であるアドロフ公の娘である皇太后が生母の兄や妹と、出自が平民である側室が生母の自分は本来ならもっと区分をつけられるべきだったのだ。
香水をつけるどころか、アドロフ公から贈られた薔薇果茶に母達と同じ席で口をつけることにすら躊躇いを覚えた。
『……そういう所はお母様似ね』
少し寂しげに母がつぶやいたのはよく覚えている。ここに実母の絵姿がないのは、彼女自身が肖像画を描かれることを拒んだためらしかった。
「こういう香りもフィグに似合うと思うな。でも、なにもつけてなくてもフィグはいつもいい香りがしますよね」
「こら、くすぐったい」
後ろからクロードが首元に顔を寄せて来て、フィグネリアは耳元や首筋に掛かる吐息のにくすくすと笑う。
夫の表情を見ると、彼も同じように微笑んでいた。
「……それにしてもフィグは本当に先帝陛下に似てますよね。肖像画を見るまで先帝陛下は義兄上そっくりなのかなって思ってたけど」
クロードが先帝の姿に目を向ける。
若干二十で、国を傾ける先々帝を玉座から引きずり落とし、再建と同時に九公家中心の体制を変えていった賢帝エドゥアルト。
彼はイーゴルほど大柄でなく、むしろ細身のクロードの体格に近い。整った面立ちと涼やかな目元がフィグネリアとよく似ていた。
「フィグは先帝陛下に似てて、リリアさんが皇太后様に似てて、義兄上は雰囲気がふたりに似てますよね。優しそうな感じと強そうな感じ」
「義兄上のお姿はアドロフ家の血が強いからな。前にも言ったが、アドロフ公の御嫡男に会えばすぐに分かる」
「あともう少しですね……。義兄上達はすんごく叱られたみたいだし、俺もすごく怒られそうです」
「私はともかく、お前はお叱りを受けることはないと思うがな」
すでに気が引けているクロードにフィグネリアは苦笑する。
四月前の九公家派対反九公家派の内乱騒動の報告のため、双方の会談の準備がやっと整った半月前にイーゴルとその妻のサンドラはアドロフ家へと訪問していた。揃ってみっちりと絞られたらしく、帰ってきたときはふたりとも疲れきっていた。
そして今度は自分達の番だった。
一緒に行きたかったのだが、内乱騒動に加えルーロッカを強く惹きつける一因になった、大規模な不正事件の事後処理もあり、王宮に皇族が不在というわけにもいかずで日程を別に組むことにしたのだ。
「まあ、向こうもそう会いたくはないだろうな」
フィグネリアは自分と同じ薄水色の瞳の父と目を合わせる。
アドロフ公は自分に並びうると先帝を認めて帝位につくのを後押しし、以前から婚約だけしていた末子で長女のオリガを嫁がせることを決めた。
しかしながら九公中心の内政を変えんとした父と、旧い体制を重んじるアドロフ公とは上手く行かずにずっと睨み合ってきた。
そんな父に容姿も政策も似ていて側室の娘であるため、自分はアドロフ家から嫌われている。皇帝である兄に変わり、内政を統括することになってからは一層不興を買うことになった。
「だけどお互い会わなきゃならないって大変ですね……」
「公人としての立場がある以上仕方ない。そういえば、今日はエリシンと出かけるのではなかったのか?」
「あ、そうだ。ニカ、待たせたままだ。フィグ、じゃあ行ってきます」
「ああ。あまり遅くならないようにな」
クロードが部屋の外にまで行くのについていって、フィグネリアは夫を見送る。
広い廊下の隅では鳶色の髪の少年が膝をついて控えているのが見える。不正事件で神霊ルーロッカに目をつけられ紆余曲折を経て、クロードの侍従となったニカ・エリシンだ。
ニカはクロードの侍従を務める傍ら、実家のエリシン男爵家の当主である父親と密に連絡を取り合い、傾いている財政の再建にも注力しと、よく働いている。
「ニカ、遅くなってごめん」
「いえ。まだ約束の時間まで余裕があるので問題ありません。殿下が皇女殿下のお側からなかなか離れられないのは予定に織り込み済みです」
「……うん。いろいろいろ理解してくれてありがとう」
主従のやりとりを微笑ましく思いながら、フィグネリアは夫の姿を見つめる。
婿に来たばかりの頃は読み書きができるぐらいだったクロードは、政務の手伝いが出来るまでになり、そうして過去を乗り越え自分の目標とよき侍従を得た。
この頃は目標とする官吏の登用制度の改革のため、人脈や見識を広げようとニカの伝手で官吏の集まりに顔を出したりしている。
「……私は書類の確認でもしながら帰りを待つか」
ふたりを見送った後に、フィグネリアは夫の成長を喜ぶ傍らにこっそりある寂しさをはぐらかし、寝室へと行くことにする。
部屋を後にする時、フィグネリアは一度肖像画に向き直り両親に一礼して退出した。
***
フィグネリアが政務を行う小宮では、いつも聞こえる笛の音とは少し違う音色が流れていた。
応接室でクロードが吹いているのは、いつもの銀の横笛でなく木製の細い横笛だった。
笛を持った感触をそのまま旋律に乗せ、クロードはしっとりとした雰囲気の演奏を終える。
「どうだ? 聞いている分にはいつもどおり素晴らしいものだが」
ニカに笛を渡しながら、クロードはフィグネリアの問いに自分の胸の辺りを押さえる。
「ううん。いつもと違う笛だから違和感があるのは当然だけど、周りの妖精達は喜んでるからそんなに差があるとは思えないな……内側の方はどうなんだろう」
万物には妖精が宿っている。彼らを従え動かすのは、地母神ギリルアを始めとして、彼女が産み落としたとされる数多の神霊達である。
だが自分は人間でありながら妖精達を従えることができる妖精王と呼ばれる者だ。
どうやら自分の一族の間では初代の妖精王の魂が引き継がれ、そこには笛に惹きつけられ数多の妖精が取り込まれていて、金の瞳を持つ者が新たな妖精王としての力を発露するということらしい。
「どうしてこの笛なんだろう。母上に教えてもらった記憶はないしなあ」
クロードはいつもの先祖代々引き継いでいるという銀の横笛を、ニカから受け取って考え込む。
自分のためでなくこの先自分の血を引き継ぐ未来のためにも、この妖精王としての力について知るためにまずはこの笛から取りかかることにした。
この頃は思い出すままに母のことを口にして、その中に自然と笛のことが紛れ込んでいないか確認してみるものの、今の所はまだ見つけられていない。
「大神殿にあった神の楽士の伝承についても、笛のことは一切なかったからな……。だからこそ重要なのだろうが」
妖精王、というのは周知されているものではない。一般的には神の楽士という伝承でしか伝わっていない。
ルーロッカの騒動で、大神官長ルスランにこの力を明かし神殿にある資料を閲覧させてもらえることになったが、神の楽士の伝承はいくつもの種類があったものの、楽の音で妖精を従えるとしか記録はなかった。
「この間の集まりでもやはり具体的な楽器よりも、一族で楽団を組んでいた印象があるという話が多かったですよね。自分も同じ印象でした」
ニカが言うのにクロードもうなずく。
「うん。いろんな所の出身の人がいて、微妙に話は違うけどそこだけはみんな同じだったよな」
神の楽士というと、本当に子供の頃から誰でも知っている話らしくそれだけで驚きだった。そしてあちこちで妖精を鎮めただの、一緒に騒いでいただのという話が残っている。
それなりに目立ちながらも、神霊をその身に降ろす大神子と違い神殿で崇め奉られることもなく、各地を流浪していたのは不思議だ。
「そちらの方も探っていたのか」
「あんまり聞き回ると怪しまれるから、この間の一回だけですよ。それと、この笛も珍しいみたいで俺の国にしかないものみたいに思われてました。似たのがあればそこから何か分かると思ったんですけど……」
この国のどこかに自分の起源はあるはずなのだが、世代を重ねるごとに失われたいったことの片鱗も見えずにクロードは肩を落とす。
そしてふと、フィグネリアが黙り込んでいることに気づいて不安になる。
勝手すぎる行動だったのだろうか。
「あの、これって報告しないとまずかったですか? ある程度結果が出てからフィグに報告するつもりだったんですけど……」
フィグネリアの手助けなしに何かひとつぐらいはやってみせて、安心してもらったり頼りがいを感じてもらったりしたかった。
それと少し驚かせてもみせたかったのだが、これは悪い方に驚かせたのかもしれない。
「……いや。別に逐一報告する必要もない。よくやっていると感心していただけだ」
引っかかる間を置いて、フィグネリアがそう言う。
沈黙の意味が気にはなったものの、不機嫌というわけでもなさそうなので、クロードは言葉を素直に受け取って口元を緩める。
「まだ成果は出せてはいないですけどね。ニカにも場を作ってもらって、いっぱい手伝ってもらってるし」
とはいえひとりではまず無理で、フィグネリアが持ち得ない人脈をニカの伝手でどうにか広げていこうとはしてみている。まだまだ、『胡散臭くて頼りない皇女殿下の婿』という評価は胡散臭いの部分が薄れてきたぐらいだが。
「主君に尽くすのは当然の勤めです」
ニカが生真面目に言うのにも正直なところまだ慣れない。
これまでは公子だから、或いは皇女の婿だからと形式的敬われるだけだったのだ。自分自身に忠を尽くされるというのは、むずむずとして落ち着かない。
「あ、それでですね、ナルフィス教関係の本って手に入りますか? 書庫は見たんですけど、さすがになくて……」
クロードは気を取り直してフィグネリアに問う。
「それならお前の方が詳しいだろう」
「俺が知ってるのって、使徒様と悪魔の話、それと基本的な教義だけなんです。ディシベリアのあっちこちに俺のご先祖達の話が残ってるなら、神霊様みたいに形を変えて記録がないかなと思って」
式典などで必要な最低限のことを頭で覚えるだけで、深くは学んでいない。
ナルフィス教はロートムの国教だが、祖国のハンライダもロートム寄りで信仰は同じだ。
この国の信仰とは真逆で神はひとりしかいないとされている。そして神霊と呼ぶものは災厄をもたらす妖精達を諫め払う使徒と、妖精達を操り人に害をなす悪魔のふたつに分けられる。
幼い頃から妖精に慣れ親しむ自分は、この教義が好きではなかった。
だからと言って学ばないのは愚かだったと、今さら後悔しても遅い。なんだろうと知識はあった方がいいと、このところよく思う。
「そちらから考えるのも悪くなさそうだが、ナルフィス教については、外交の時に信仰の違いで問題が起きないために、基本的な教義を学ぶぐらいだからな。お前が知っている以上のものはないと思う」
「そうですか……お客さん?」
そう言って肩を落とした時、侍女から来客の知らせがあった。訪ねてきた人物の名にクロードはニカと一緒に身構える。
「ご歓談中失礼します。……君達はそろそろ僕に慣れてくれないかな」
やってきたのは金糸の髪と深い藍色の瞳をした、優美な面立ちの青年だった。やたら尊大な雰囲気が漂う彼は、ザハール・イサエフ。
九公家のひとつであるガルシン公の甥であり、法を司る律事の二等官を勤める官吏だ。そうしてルーロッカの騒動に巻き込まれ、自分の力を知り理解する人物でもある。
理解してくれるのはいいが、クロードは彼が苦手だった。
「だって、いっつも意地悪してくるじゃないですか」
ザハールは不正事件の間に技術革新などの改革の方針について、フィグネリアと意見が一致し、協力関係を結ぶことになった。
そちらの話や他にも不正事件の事後処理や再発防止策の相談で、彼は小宮に度々顔を見せに来る。その合間にフィグネリアだけでなく自分とニカにもちょっかいをだしてくるのだ。
「僕は的確に君達主従の欠点を指摘して、能力の向上に貢献してあげているだけだ。変に悪く取らないでくれ」
確かにその通りなわけだが、もうちょっと物には言い方があるのではと思う。
「イサエフ二等官、自分はよいのですが、クロード殿下にはもう少し敬意というものを持っていただけませんか」
主君を庇いニカが前に出る。
「残念ながら、イサエフ家の三分の二の領地しかもたない弱小国の第六公子で、おまけに大した能力すらない彼に払う敬意はない」
「うう。そのうち絶対、一個ぐらいは勝ちます!」
ザハールに気圧されながらも、どうにか踏みとどまってクロードは反論する。
「そのうち、というのはいくらでも結果を先延ばしできる言い方だ。もっと、明確に目標を定めてひとつずつ確実にこなさなければ僕をこすことはできないぞ。まずはこの前言っていた、登用制度の基礎知識がどれぐらい頭に入っているか確認させてもらおうか」
「それは、ニカといっぱい勉強したから入ってますよ。そうだよな」
「はい。成り立ちから、先帝陛下の改革による変化まできちんと学びました」
とにかく口では絶対に勝てそうにないので、今はひたすら必要な知識を詰め込んでいって文句をつけられないようにするしかない。
(悔しいけど、こういうの思ったより楽しいんだなあ)
最初はフィグネリアに褒めてもらえたり、喜んでもらえたりするのが嬉しかった学習も、この頃は自分自身の目標や対抗心なども含んできて、少し変わってきた気がする。
「ザハール、ナルフィス教について何か独自に資料を持っていたりはしないか?」
不意にフィグネリアがザハールにそう尋ねた。
技術革新に注力しているザハールは、ロートムとディシベリアの信仰の違いについても注目している。
彼ならそれなりに調べているのかもしれないと、クロードは期待してみる。
「残念ながら、そういうものはありませんね。あれは司祭の教えと教本が一緒でないとあまり意味がないでしょう。司祭のための教本はさすがに手に入れるのは難しいので。そもそも、そこに教義を受けた人間がいるでしょう」
ザハールに視線を向けられたクロードは、資料が欲しい理由を告げる。
「なるほど。君自身もそう詳しくない訳か。その笛を継承する基準は知りたいな。一族、というには多くの血縁で固まっていただろうに、誰の子孫が新たな王の親となると分かったんだろうな。それに、引き継がなかった血族はどうなるか。興味はつきないな」
「ああ、そうですよね。俺の遠い血縁ってこの国にいたりする可能性があるんですよね。会ってみたいな……」
クロードは笛に自分の姿を映してつぶやく。この国のどこかに遠くとも母と繋がる人がいるなら、ひと目でも見てみたい気がする。
「お前の母君は、特に血縁については話さなかったのだったな」
「はい。俺のおばあさまにあたる人が引き継いでたってことしか聞いたことないですね。母上が侍女になって王宮に上がるまでのことも聞いたことがないし、俺は自分が知ってる母上しか知らないんです」
故郷という言葉を母から聞いたことはなかったはずだ。それどころか家族の話もしなかった。かろうじて祖母の話を聞いたことだけ覚えている。
だからディシベリア帝国と自分に繋がりがあることも、まったく知らずにいたのだ。
「君の話を聞く限りだと、王以外は女性が受け継ぐように思えるが二代だけだから、判断は仕切れないか」
「結局まだ確かなことはなんにも分からないんですよね」
結論としてはそれで、クロードはため息をひとつ零して笛を胸ポケットへしまう。
「それで、お前の用件はなんなんだ?」
フィグネリアが首を傾げて、クロードもニカと共にザハールを見上げる。
「今年は薔薇の実の収穫が遅れていることについて、神殿から相談というのは?」
「収穫が去年より遅れているのは知っているが、これぐらいのずれならば珍しいことでもない」
だから今はまだ朝議でも重大な問題として取り上げられてはいないと、クロードは簡易報告のみだった一昨日の朝議を思い出す。
「通常二日で散る薔薇が開花したままだと、今日報告があったらしく、産事で話題になっていました。五日ほどという報告だから、まだ咲いているとしたら今日で七日ですね。報告は午後の朝議のつもりなのかもしれません」
ザハールに告げられたことに、クロードは目を瞬かせる。
「もしかしなくても神霊様っぽいですね……」
神霊は本来ならば大神殿にいる大神子に降りてくるのだが、現在は自分の存在によって神界と人間界の境界が歪み、その限りではなくなっている。
ルーロッカのように騒動を起こしたがる神霊も多くいるので、あまりよい事態ではない
「そういうことはすぐにでも報告してもらわねば困る……しかし、それはこちらの領分ではないからか」
フィグネリアが頬杖をついて、目元に長い睫で物憂げな影を作った。
報告されたからと言っても、実がつかないこと事態への対処はできない。できるのは国外でも広く好まれている、薔薇の実から作る茶などの出荷の遅れによる経済的な問題への対処だけだ。
「アドロフ公領の薔薇って起源は神霊様が関わってましたよね。それで薔薇の実って、神殿で薬の材料にも使われてるんでしたっけ」
ディシベリア帝国内で医療を行うのは神殿だ。薬師もいるが、それもまた神殿で学び許可を得なければならない。そして特に効能の高い薬の材料は神殿からしか手に入らないという。
「薬効が高く、アドロフ公領でしかとれない貴重なものだから神殿もお困りだろうな」
「ですよね。こういうことがあったら大神殿に相談があるはずだし、神霊様が関わっているなら、妖精の様子もおかしいだろうから、ルスラン大神官長様から相談がありそうですけど……大神子様に神霊様が降りてて解決はしそうなのかな」
気ままで人間の都合には絶対に合わせてくれない神霊が多く、神殿側も大変だろうがどうにか話ができてきたのかもしれない。
「そうだといいが、書簡を出しておいたほうがいいな。ザハール、知らせてくれて助かった。留守の間のことも、頼んだ」
「皇女殿下が不在の隙を狙ってよからぬことを画策する者がいないか、皇帝陛下の身の周りには注意しますが、私も忙しいので目が行き届かないこともあるかと思いますよ」
「あれ、律事が担当してる面倒な事って今ありましたっけ?」
げんなりした様子のザハールに、クロードは考えながら問う。
「君、密偵が銃以外に密輸していたものがないかの調査のための、神殿側の書類が一昨日届いただろう」
内乱騒動には敵対国であるロートムも絡んでいて、その密偵が神殿に神官としていて潜りこんでいた。そして神殿に運ばれる荷物に検閲がかからないことを利用し、銃が大量に密輸されていたのだ。
調査をするにも神殿からの協力が必要で、その手続きに時間がかかっていた。
「ああ。そういえば、そういうのもありましたね。すごい量だって聞きましたけど、そんなに大変なんですか?」
内乱騒動の時に『検閲されない荷物』として、王宮から神殿へと拉致されたクロードが尋ねる。
「律事、外事、産事総員でとりかかっているよ。全く関係ないものまで一緒くたにされているから、その選別だけで重労働だ。密偵も自分が関わったもの以外は分からないらしいし、これ以外方法がないんだ」
「希少性が高く、ロートムでも活用が可能と思われそうなものから調べるようにはしているが、それでも膨大だからな。帰ってくる頃までに、何かひとつぐらい出ればいいが」
なんにせよ、内乱騒動の実質の収束がつくのは、まだまだ先だろう。
「いろいろやらなきゃいけないことあるけど、俺達はまずアドロフ公にお騒がせして申し訳ありませんって言いにいかないとですね……ニカもアドロフ公には会ったことないんだよな」
「遠目に一度お姿を拝見しただけです。自分は場違いではないだろうかと、いまだに思うのですが」
とはいえニカも侍従として、そして初対面の緊張を共にする友人として一緒にいてもらわないと困る。
「滞在は二日程度だ。お前達はそこまで気負うこともない」
クロードは苦笑しているフィグネリアを見つめ、そういうわけにもいかないと思う。
自分は彼女の夫なのだ。妻に恥を欠かせないために、しゃんとして情けないところを見せないように心がけていないといけない。
「君達は黙って皇女殿下に従っていれば問題ないだろう。皇女殿下のおまけにすぎない弱小国の公子と、没落しかけの男爵家嫡男は視界にも入れないはずだから安心していい」
「それはそれで嫌ですよ……」
ザハールの辛辣な言葉にクロードはむくれてそう言う。だがその可能性は高いと思うと声に力は入らなかった。
(だって、フィグの方がずっと凄いんだもんなあ)
官吏らの集まりに行くと、やはりフィグネリアに対する期待の声は大きかった。そしてその裏には偉大な先帝の影がある。
クロードは肖像画の先帝と同じ、フィグネリアの英明な薄青の瞳に目を向ける。
誰もが先帝の遺志を引き継ぎ実現させるのは、彼女だと硬く信じて同じ夢を見ている。
「なんだ?」
見つめられて戸惑いをみせるフィグネリアは、まだ幼い雰囲気が垣間見えた。
「……フィグはやっぱり可愛いなあ、と改めて思って」
「お前は真面目に緊張していたかと思えば、まったく……」
相当な不意打ちだったらしく、フィグネリアが白い頬を染めて珍しく動揺を見せた。
こんな可愛い人に、あんなにたくさんの期待がかかっている。だから自分はもっときちんと、支えにならないといけない。
「君はアドロフ公の前でもその調子で皇女殿下を困らせないように。エリシン君もしっかり主君の面倒を見ておくことだ」
ザハールの呆れた声に、クロードはニカと目配せする。
お互いいろいろな意味で不安そうだった。
(アドロフ公か……)
すでにたくさんの人から先帝と拮抗して対立できた唯一の人物として聞いているが、まだ具体的な姿などは知らない。
クロードは緊張と畏れに、気持ちがまた逃げ腰になってくる。
そしてそんな自分を奮い立たせるために、可愛い妻の横顔を盗み見るのだった。
***
その日の午後、朝議で数日王宮を離れることの間のことの最終調整を行い、フィグネリアはクロードと共に居住区の一室へと向かっていた。
「大臣達は不安そうでしたね。文句言ってる人もやっぱりフィグがいた方がいいって思ってるんでしょうね」
いよいよやってくる長期のフィグネリア不在に、表情を曇らせる大臣達を思いだしてクロードが嬉しそうに笑う。
「そう思ってもらえているならいいがな。まあ、お前も多少は朝議で発言ができるようになったし、書記官の役目はエリシンにでも譲ってもいいか」
「記録取る仕事がなくなったら、俺、今より朝議で喋らなきゃならなく気がするんですけど……」
「大丈夫だろう。大臣達もお前の話は聞いているしな」
黙々と自分の横で朝議の記録をとるばかりだったクロードも、じわじわと話し合いの場に入れてきている。その言葉はどれも的を外すこともなく、大臣達も無視せずに耳に入れていた。
「でも、まだやっぱりちょっと恐いです。あ、ありがとうございます。フィグ、神殿から返事ですよ。あとリリアさんからも」
目的の部屋にちょうどたどりついた時、使用人が急ぎの書簡を届けにきてクロードが受け取った。フィグネリアは神殿からの薄い封筒に嫌な予感がしつつ、席についてから開封する。
「薔薇については神殿側でも不明か」
神殿側で事情を説明してくれる神霊が降りてくるのを、もう少し待つつもりだったらしい。しかしちょうど行く用事があるなら、実際クロードに見てもらった方が助かるとのことだ。
神霊が降りてきているのなら、ルスラン大神官長が後は上手く誤魔化してくれるらしい。
「でも、俺達も二日ぐらいしか向こうにいられないですよね」
「実質一日ないぐらいだからな。余計な厄介事に首を突っ込むこともない。神霊様が関わっているかどうかの判別をして、後は大神官長様にお任せした方がいいだろう。お前は理由を探る程度でいい」
二日かけてアドロフ公家へ向かい、到着したその日に会談をして翌日の朝には岐路につく予定だった。
王宮を長く空けるわけにもいかず、向こうも長居はして欲しくないだろうと考慮した上で、慌ただしいそんな日程になった。
「会談はそれほど役に立てそうにないけど、そっちでは頑張ります……と、義兄上達来ましたね」
すでにこの件に関しては諦観した様子でクロードがそう言い、地響きに似た大きな足音に姿勢を正す。それからすぐにイーゴルとサンドラがやってきた。
「待たせたな。お爺様の所に行く件についてはもう準備は滞りないか。俺達の方がお前のいない間上手く立ち回れるか不安もあるが」
「フィグがいないのって初めてなのよね……。あたしもちょっと今から恐いわ」
帝位について五年。フィグネリアの助言なしで政務を執り行ったことのないふたりは、少々どころでなく自信なさげだった。
「それほど面倒な案件も今はありませんし、必要なことは書面にまとめてありますので、これまでと同じく、それを元に政務を進めていただければ問題ありません」
兄達に政務の内容をかみ砕いて説明し理解してもらい、朝議の方向性の助言をするというやり方で、五年間だましだましながらもやってこられたのだ。
五日程度ならそこまで心配はしていない。今は自分も多少は大臣に釘を刺せているし、ザハールも引き受けた以上は周囲に目を光らせてくれるのも心強い。
「ただ私達の方が、もうひとつ面倒なことがあって……」
フィグネリアが薔薇について話すと、ふたりとも心配そうに表情を曇らせた。
「心配しなくてもなにかあった時は俺が頑張ります」
クロードが義兄夫婦の不安を解消しようと、いつもより強い口調で念を押す。ふたりはまだ心配げだったものの、なにやら視線だけで相談し始める。
「……あの、神霊様も大変だけど、ね。えっと、イーゴルがマラット様と大喧嘩しちゃったりしてるから、そっちもちょっと大変かも」
そして気まずそうにサンドラが次期アドロフ公の名前を出し、フィグネリアは兄を見る。
「あれは伯父上が悪いのだ。相談もなく、フィグネリアに婿を取ったことは逸りすぎたと認めるが、クロードは俺がフィグネリアに贈った誕生祝いのなかでも、一番のものだったと自負している。それにフィグネリアに政務を任せても問題ないというのに、お前のことを悪く言うから」
思い出しついでに不機嫌になっていくイーゴルにフィグネリアはああ、と納得する。
アドロフ家の嫡男でイーゴルとリリアの伯父にあたるマラットは、とにかく血の気の多く血統を重んじる、典型的なディシベリアの男だ。
昔からマラットには特に直接暴言を吐かれることもあった。その度に母が諫め、兄が怒るのだ。
「ああ、ごめん。やっぱり早めに言っとくべきだったわよね。ただでさえ緊張してるのに追い打ちかけちゃって本当にごめん」
「クロード、すまん」
表情が固まってしまったクロードにサンドラが勢いよく謝り倒して、イーゴルもおろおろと謝罪する。
「大丈夫です。フィグの旦那様ならこれぐらい、平気じゃないと駄目だし。……マラット様ってそんなに恐いんですか?」
クロードが強張った笑顔で問うてきて、フィグネリアはそっと目を逸らす。
「よく怒鳴る程度なので、慣れればたいしたことはない」
「そうそう。声の大きさはイーゴルぐらいだし、すぐに慣れるわよ。それに、あたしと違って一国の公子様だからそこまで言われることはないと思うわよ」
名ばかり貴族のサンドラが賢明にクロードを励ます。
彼女の生家は森の番人を務めていた経緯で爵位をもらったに過ぎず、領地は広大な森のみで領民は二十人足らず。領主というより猟師のまとめ役にすぎない。
熊を獲りに行ってなぜか嫁を見つけてきたイーゴルに対して、マラットも当時散々文句を言っていた。
「いや、俺も大した身分じゃないですよ。気持ちとしては義姉上と変わらないです。こんな大きな国の皇族のところにお婿に行くなんてありえなかったんですから」
「ありえないっていうのはあたしも今でも思うことあるわ……」
思いがけない縁によって、下位から大帝国の皇族の伴侶となってしまったふたりは、お互い顔を見合わせてしみじみとうなずきあう。
「それにしても、伯父上の血統主義もいきすぎるきらいがあるからな……フィグネリアのこともいつまでたっても毛嫌いする」
そんなふたりを見つつ、イーゴルが憤然と腕を組む。
「あたしがこんなのは怒られても仕方ないけど、フィグはなんにも責められる所がないわよね。そろそろ、あの人もフィグのこと可愛いって思ってくれたらいいのに」
「そうだな。お爺様もあいまりよい顔をしてくれん。……やはり、俺が一緒行くかリリアの都合のつく日がよかったのではないか?」
「いえ。それはご心配なく。そうだ、リリアからも手紙が届いています」
フィグネリアはイーゴルの言葉でリリアから手紙を開封していないことを思い出し、仄かに薔薇の香りがする封筒を開ける。
中身はアドロフ公の体調不良と散らない薔薇についてだった。
「お爺様はまたお倒れになったのか……。俺達が訪問したときは以前より体調がよさげだったのだがな」
「そうよね。あたしらすんごく怒られたし。というか、そのせいで気力使い果たしちゃったとかだったらどうしよう……」
手紙を揃って読んでいた兄夫婦が、パーヴェルが倒れてリリアが見舞った所のあたりで落ち込む。
「アドロフ公も御年七十二で、以前から体調はあまりよくありませんでしたから。年齢によるものでしょう」
表沙汰にはされていないが、パーヴェルは二年ほど前から幾度か寝ついている。起き上がれていても、健康と呼べる状態ではない。
政務のほとんどはマラットが行い、パーヴェルがそれを監督している状況になっている。代替わりもそう遠くないだろう。
「……とはいえ、お爺様をあまり心配をかけたくはないがな、会談の延期もされるつもりはないようだな」
「ええ。マラット殿がその分取り仕切るのかも知れませんが……」
まだパーヴェルはまともに会話ができるが、相手がマラットのみとなるとこじれるかもしれない。
「あれ、御嫡男ひとりだけの方が大変……?」
話を聞いていたクロードが琥珀の瞳を心許なさげに震わせる。
「ああ。マラット殿に私は全く好かれていないからな。この分だと私の夫というだけで、必要以上に難癖をつけられるかもしれんが、こらえてくれ」
「…………むしろフィグを護れるぐらいに頑張りたいです」
そう言い切る夫には不安の色も怯えもなく、珍しく頼もしく見えた。
実際マラットと会えばやはり体格差にめげそうだが、とフィグネリアは背格好のよく似ているイーゴルをちらりと見る。
「クロード、頼んだぞ。お前は本当にいい義弟だ!」
「はい、頼まれます!」
イーゴルに期待の目を向けられて、クロードがさらに意気込む。
正直な気持ちを言えば、自分もパーヴェルに会うのが恐い。
父の政務を引き次いで五年。その間顔を合せたのもたった三度で、最後にあったのは母の葬儀で三年も前だ。
怯んだのを見透かされ、口を利く前に自分はパーヴェルに優位に立たれた。向き合う前に、すでに負けていた。
父の政務を引き継ぐ上で最も重要な、九公家の中核であるアドロフ公と今度こそは上手く渡り合わなければならない。
フィグネリアは重圧に気を重くしながら、なにやら気合いの入れ方で盛り上がっている夫と兄に、ふっと肩の力を抜く。
仲のいい義理兄弟の姿をみていると少しぐらいは気持ちが和らいだ。
2
ぱたぱたと軽やかな足音がする。
目を閉じているパーヴェルにはその音が現実なのか夢なのか分からない。
「お父様」
もうこの世界のどこにもいない明るい少女の声が聞こえてきて、現実ではないことを知る。
だが薔薇の香りが絡みつく夢は、あまりにも現実めいている。
薄緑のレースで飾られた淡い桃色のドレスを纏った、十三の頃のオリガは手を伸ばせば容易く触れられる場所で記憶のまま佇んでいる。
「皇太子殿下がもうすぐお見えになるのでしょう」
期待と不安を織り交ぜた表情を浮かべる瑠璃の瞳。そこには老いた自分ではなく、まだ白髪が銀髪だった頃の姿が映っている。
「ああ。そう遠くないうちに嫁ぐ相手だ。顔ぐらいは知っておかねばならんだろう」
「ええ。早くお目にかかりたいわ。どんな方なのか、お父様は知っておいででしょう。好きな色は何かしら。ドレスの色を早く決めたいの。どんなお話をすれば喜んでくださるかしら。……わたくしのことは気にいってくださるかしら」
ふわふわとして夢の中で生きているような娘だった。
自分が求めるのはもう少し聡い子だったのだが、その在り方は好ましくもあった。
「あまり、期待はせずにいなさい」
「でも、お父様が選んでくださった方だもの。素敵な方なのでしょう」
どこまでも無邪気に問いかけてくる姿に、自分が何を答えたか、思い出せなかった。
***
王宮を出立して予定通り二日後。フィグネリア達はアドロフ公領の城下街にたどり着いていた。
「やっとだな」
「はい。これってもう街中ですよね……」
クロードが馬車の窓から煉瓦の街並みを見つめながら聞いてくる。
丘陵地に煉瓦造りの家々が所狭しと並んでいるのだが、小さな馬車の窓からは全体像がよく見えない。
「サンガルン大戦で敵を苦戦させた要塞の街っていっても、帝都とあんまり変わらないな」
「実際に降りてみないと分からないみたいですね。殿下、たぶんあれが例の塔ですよ」
今日は予定の確認のために同じ馬車に乗っているニカが、窓の外を指し示す。
「あ、あの窓から弓を使うんだよな。一定間隔にあるから……次のもあった」
なにやらアドロフ公領の中心都市について、主従は歴史と建築とそれぞれ興味津々らしく代わり映えのない景色でも楽しそうだ。
(史学好きがよく分からん方向へ向かいだしたな。退屈しないのはいいが)
道中も夫がかつての大戦の決戦の場となった雪原を目を輝かせて眺めていたのを思い出して、フィグネリアは苦笑する。
「もうすぐ城に着くぞ」
一番広い通りを進んでいけば家並みは少しずつ眼下へと下がっていく。やがて丘を登り切ったところで、小山にも見えるどっしりとした赤茶色の石造りの城が見えてくる。
その段階になると、クロードにも緊張の色が見えた。
一度馬車が止まり、門扉が開かれて一行は城内へ通された。城の入り口までの道の両脇には、白く細い柱が林立していて薔薇が絡みついている。
どれも真白い景色の中に鮮やかな橙の色彩を咲かせている。
「散っていないな……」
昨日宿で聞いた話でまだ花弁一枚として落とさないと聞いてはいた。しかし今日になれば、と僅かながらも希望を抱いていたのでフィグネリアは落胆する。
「クロード、何か感じるか?」
「違和感は、あります。でもラウキル様とかルーロッカ様の時とちょっと違うかな。薔薇に近づいてみればもっとよく分かると思います」
「違うのですか……」
ニカが不思議そうにつぶやくのに、クロードは首を横に傾ける。
「妖精達が全部支配されてるわけじゃなくて、なんだろう。もっと穏やかなんだ」
「感覚的すぎてよく分からんが、悪戯の類ではなさそうなのか」
「はい。あとでちゃんと繋がってみます」
クロードがそう言ったところでちょうど馬車がまた止まった。城の玄関までたどり着いたらしく、扉が開かれて中に冷気が吹き込んでくる。
「大きい……それにかっこいい!」
「はい。立派な要塞です……!」
馬車から降りて外に出た主従が揃って城を見上げて感嘆した。帝都の王宮は外観の美しさにも重点を置いているが、この城は無骨で本来の砦としての役目のみで無駄がない。
放っておくといつまでもその場にいそうな二人を促し、城の大広間へと進むと使用人達が揃って膝を折り三人を出迎える。
フィグネリアが夫の様子をちらりと見ると一斉に傅かれたことに、戸惑い緊張しているのが分かった。
そしてそれからすぐに、馴染み深い地響き似た足音にクロードが目を瞬かせる。
「クロード、マラット殿がおいでになる」
小声でフィグネリアが言うのにクロードが身を堅くし、三歩後ろにいるニカが膝をついて待機する。
「フィグネリア! やっと謝罪にきたか!」
大広間に耳の奥が痛むほどの声が轟いて、この城を思わせるがっちりとした体格の大柄な壮年の男が肩を怒らせてやってくる。
白髪交じりの銀髪の男、マラットの姿にクロードが唖然としているのが分かる。
「直接にてのお詫びが遅くなり、誠に申し訳ありません。隣にいるのが先頃ハンライダ公国より婿に迎えたクロードです」
「い、以後お見知りおきを……」
フィグネリアが頭を垂れると、クロードもそれに倣って慌てて頭を下げる。
「貧弱そうなこれがか。本当に、イーゴルが選んだのだな」
マラットが鼻に皺を寄せて高みからクロードを見下ろして憤然とする。
「ええ。兄上がお選びくださりました。アドロフ公にもご挨拶をしたいのですが……」
さらりと嘘をつきながら、フィグネリアは話題を別へ逸らす。
「父上はお休みになっておられる。どうせリリアから聞いているのだろう」
「ええ。お加減が悪いとは聞いております。会談の延期もなかったので快方に向かわれているのかと」
「あらかたは書簡とイーゴルの報告で分かっている。お前側の弁明をきくだけで俺ひとりでも問題はない。さっさとついていこい!」
これはひたすらどやさられて終わりだろうと、フィグネリアは先に歩き始めたマラットの後を追う。
「遅い! もっと早く着いてこい!」
そしてどんどん先に進んでいたマラットが振り返って叱咤し、三人も歩幅を広げる。
「フィグ、話通じなさそうなんですけど……」
「黙って大人しく聞いていればいい」
フィグネリアはクロードと話しつつ、そのまま奥へと通されて先の内乱騒動の件について会談を行うことになった。
通された部屋はさほど広くなく、岩を削りだして出来たテーブルと椅子が中央に置かれている。
フィグネリアはマラットと向かい会う形で座らされる。
そして内乱騒動の件をフィグネリアが粛々と詫び、時折マラットの罵声が轟くばかりだった。
「なぜお前が政務の統括を行う!」
「軍務と政務を分割して統括することで体制の立て直しと強化を図ることとなりました。陛下は軍務に秀でておいでなので、私は政務を預かることとなった次第です。全ての決定は陛下のご意志によるものであり、私は一臣下としてご命令に従ったまでです」
おそらくイーゴルが『自分は軍務しかできないので政務はフィグネリアに任せることにした』ですませたことを、フィグネリアは回りくどく説明する。
「お前がイーゴルを唆したのだろう。例え内乱に関わっていなかったにしてもだ! そもそも、お前のような血統の卑しい側妃の子が、正妃の嫡子を差し置いて政を行うなど、本来ならばあってはならんことだ!」
露骨なマラットの中傷に、クロードが眉を顰めるのが見えた。夫が口を開く前にフィグネリアは大丈夫だと、テーブルの下で彼の指先に触れる。
「私には過ぎた役目ということは承知しております。しかしこれは皇帝陛下の決定であり、それと同時に先帝陛下のご遺志でもあります。私が先帝陛下より政の術を教えていただいたのは、ディシベリア建国の要である武力の強化のためでもあります。皇帝陛下が軍務にできるだけ専念されるには、政務の負担を減らすべきではとお考えでした」
嘘八百を真顔で堂々と並べ立てる妻を、クロードが何とも言いがたい表情をして横目で見る。
「しかしながら、私が必要以上に陛下の影に隠れすぎたために意図が正しく伝わりづらく、混乱を招く事態を多く生みました。この状況を改善し、なおかつ皇帝陛下が軍務に専念されるには、私が政務を統括するのが最善というのが陛下の判断です。全ては軍事力強化のためとなります。どうか、ご理解ください」
マラットに口を挟ませることなく、フィグネリアは最後まで言い切った。
「……軍務に介入する心づもりは一切ないな」
強い語調で迫られてもちろんとうなずく。
「私の方から余計な口を出すことはいたしません。ただしひとつだけ、陛下がロートムの銃に関心を持たれているのでそちらの協力だけさせていただいています」
マラットが不機嫌そうながらも、先ほどよりかは幾分かは軟化した態度でうなずく。
「それはかまわん。イーゴルが実際攻撃を受けて脅威と思うなら、それは事実だろう。ただしそちらもある程度実用の準備が整ったなら、関わるな」
「ええ。実用できるようになれば、私よりも陛下の方が上手く扱われるでしょうので、全て任せます」
ようやく先の話に移れたことに一息ついて、フィグネリアは今後の体制についての仔細や、不正事件で関わった九公家縁者の処理について話を進めていく。
その間にもやはり何度も話が逸れては怒鳴り声が響きはしたものの、どうにか日が暮れるまでには会談を無事に終えることができた。
そうして、最後までアドロフ家当主のパーヴェルが姿を見せることもなかった。
***
会談後、クロードは案内された城の裏庭に建つ来客用の離れを見上げて、ここも大きいと感嘆する。
離れといっても煉瓦造りで二階建ての建物は、城下で見た民家三つ分はあるのではないだろうかという大きさだ。ニカの、当たり前だけど実家より立派だという悲しいつぶやきが聞こえる。
「これで来客用って……」
クロードは開いた口が塞がらない状態だった。
先に荷ほどきなどをしていた同行の侍女達に迎えられた入った中は、さらに萎縮してしまいそうなものだった。
見るからに高級そうな絨毯、タペストリーなどの調度品が並び、どれも手入れがされて埃ひとつ見えない。来客のためだけとは思えない手のかけようだ。
「クロード、私達は皇族だからな」
「あ、そうですよね。最上級のおもてなしをされる立場なんだ……」
クロードはこういう所だ駄目なのだとひっそり落ち込む。これが当然という立場だとまだ思えないのは、皇女の婿としての自覚が足りないからだろう。
暖炉に火が灯され暖められている広間に案内されて、やっと落ち着ける状態になった。
「ニカも座っていいからな。ずっと立ちっぱなしで辛かっただろうし」
クロードは律儀に会談の時と同じく扉の前で控えていようとするニカを、ソファーの自分の隣へと座らせる。
「ふたりとも、よくやった。あとは帰るだけだ。疲れただろうから、ゆっくり休むといい」
向かいに座ってそう言うフィグネリアが、一番疲れていそうだった。
自分は発言はできずにほぼ挨拶のみで終了してしまい、会談ではフィグネリアひとりがマラットと話し合っていた。
「一番頑張ってたのフィグですけどね……マラット様は義兄上に似てるのに、全然似てなくて、フィグのこと全然分かってないし。俺は見てるしかできないし」
マラットの罵声は大抵が理不尽で、血筋に関することは不快なものでしかない。文句のひとつでもつけたかったのに、フィグネリアに制止されて我慢するしかなかった。
外見から声の大きさまでイーゴルと似ているのに、あそこまで真逆だとは驚いた。
「こちらも感情的になっていては、いつまでたっても話し合いは終わらん。マラット殿に対しては徹底的に自分を下に置いて、冷静に話をすることが重要だ。それとできるだけ軍事方面に重点をおいて持っていくことだな。そこを抑えておけば話を前へ進められる」
フィグネリアの説明に、クロードは会談のやりとりを思い出す。ただやはりマラットのあの罵声ばかりに気が行きすぎて、正確には記憶できていない。
まさしく感情に気を取られて、大事なことを把握し切れていなかった。
「交渉は感情的になったら確実に負ける。常に相手の特性を見極めて進めなければならん。朝議でも同じだな。大臣全員をまとめて相手にするのでなく、ひとりずつに注目していく。各大臣の特性や、自分が話しやすい相手は書記をしている内に分かってきただろう」
発言はしない代わりに、朝議の内容や各大臣の反応の様子も記録していたクロードは、こくりと首を縦に振る。
「みんなすごく優秀だけど、すぐに怒る人とか、優柔不断なところもある人とかいろいろいますよね。あと反九公家派の大臣はだいたい話は聞いてくれます。九公家派の人ははじめから相手にしてくれない人もいるけど、話題によっては聞いてくれる人もいます」
さすがに三月以上やっているとそれぐらいは覚えられていた。とはいえ、実際朝議で発言を始めたのはひと月ぐらいで、まだ緊張やら不安やらで上手くは喋れない。
「そうだ。誰がどの話題を重視するかは把握しておくことは大切だ。糸口が見えたなら、そのひとりが動いた次に他の誰がどういう動きをするかも考える」
「えっと、吏事大臣と設事大臣はよく対立するとか、外事大臣の意見は比較的みんな聞くとかですか」
余り自信がなかったが、こういうことだろうかとおずおず言うと、フィグネリアはうなずいてくれた。
「そういうことだ。個人の特性と繋がりを把握すれば、全体を掌握することができる」
「できるって言われても、難しいです」
「きちんと観察できているのだし、お前ならそのうちできる。ただ私がきちんと手本にならねばないが。今、どうにか朝議をまとめられているのも、父上の頃からほとんど大臣の顔ぶれが変わっていないからだからな。私も、父上が朝議をなされている姿を見て学んだ」
フィグネリアが懐かしそうに目を細めた。
「……やはり先帝陛下の賢才は皇女殿下の中で生きているのですね」
クロードの傍らで、ニカにやたら熱い眼差しをフィグネリアに向ける。
「生かせていればいいのだがな」
「自分のような下等官は先帝陛下が崩御された時に希望を失わずにいられたのは、先帝陛下のご遺志を継ぐ皇女殿下がおられたからこそです!」
そこまで力説してニカがはっと我に返り、赤面して差し出がましいことをともごもご言ってうつむいた。
「いや、いい。父上が残されたものを引き継げていると思ってくれるのは嬉しい。その思いも無為にしないようにせねばな」
表情を和らげるフィグネリアに、クロードはふと今さらながらに気づく。
(先帝陛下から学んだことを、今、俺にも分けてくれてるんだよな)
どれほど辛くて苦しくても、彼女が大事にしてきたものなのだ。
与えられているものの重みに、クロードは表情を引き締める。
(いつか、フィグみたいになれるのかな)
そんな自分は想像もつかなかった。
「しかし、アドロフ公との対面が適わなかったは、会う気がないのか、本当にご容態が悪いのか、どちらだろうな」
フィグネリアの声は重苦しく、どちらにせよいい事態ではなかったらしい。
「嫌なことは早くすませたかったんですけどね」
一番の緊張の元であるアドロフ公との対面が果たせなかったことを思い出すと。今さらながら脱力感が襲ってくる。
「明日にはご挨拶ぐらいはできるかもしれん。とにかくこれで会談は終わりだな。後は明日出立前に挨拶をする程度だから、今日の所は気を抜いていろ」
フィグネリアがソファーに体を埋めて、クロードは会談中たったひとつだけどうしても腑に落ちなかったことを問うべきか迷う。
イーゴル達ともそのことについては事前に話し合ったし、一度は自分も納得した。
しかし、マラットの態度を見ているとやはりうやむやにするのは嫌だと思った。
「フィグのこれまでの暗殺のこと、なんにも言及しなくてよかったんですか? ずっとフィグが謝りっぱなしなのは、納得いかないです」
フィグネリアは先帝崩御の十三の時からずっと、毒を盛られたり刺客を差し向けられたりしてきた。自分も婿に来て早々、フィグネリアが狙われたのを見ている。
首謀者は、先帝の政策を継ぐフィグネリアが気に食わない九公家派だった。直に九公の誰かが指示していたものもあっただろう。
九公家のまとめ役であるアドロフ公に一言ぐらいは、文句がつけられるはずだ。なのにマラットはあれで、当主は顔すら見せない。
「それは十分話し合っただろう。誰が関わっているか掘り返せば混乱も大きくなる上に、今はそれより優先すべきことが多い。いずれだ。お前を巻き込んだのはすまないとは思っているが、こらえてくれ」
「俺のことはいいんです。今まで国のために頑張ってたのはフィグで、それを邪魔してきたのは九公家なのに、内乱騒動の責任が全部あるみたいな言い方……」
いずれと言いつつ、フィグネリアが先帝崩御後の暗殺未遂諸々は放っておく気だろう。彼女ならそんなことに人手や時間を割く余裕があるなら、他へ回した方がいいと考えるはずだ。
そんなフィグネリアひとりに責任が押しつけられるのは悔しい。
「私の役目は、兄上の影となり政務をささえることにあった。どんな情勢であろうと、内政を乱さぬように振る舞わなければならなかった。できなかった以上、責められるのは当然のことだ」
毅然と言い放つフィグネリアは凛として美しい。
だけれどいつもより距離を感じて、どことなく寂しく思えた。一応王族の端くれとして産まれたのに、なんの責任も負わずに生きてきた自分には、妻のこういう所をまだ理解しきれない。
「……俺、日が暮れない内に薔薇見てきますね」
クロードはフィグネリアを困らせていることに気づいて、ひとまず今自分ができることをすることにした。
「ああ。そうか、まだそちらがあったな」
言われて始めて思い出したといった顔をして、フィグネリアが腰を浮かす。
用件を忘れるなど見た目以上に疲れているのだろうと、クロードは彼女を制止した。
「フィグは一杯喋って疲れてるだろうから、休んでていいですよ。俺とニカだけで様子見てきます。ニカごめん、もうちょっとつきあって」
「殿下、謝罪はいりません。そこはついてこいと一言ご命じになればいいのです」
「あ、そうか。でも、そういうの苦手だからな、俺」
クロードが落ち着かない気分で言うと、仕方ないといった顔でニカが苦笑した。
「……私も行く」
そしてふたりで外へ行こうかとした時、フィグネリアがそう言って立ち上がった。
「本当に休んでても大丈夫ですよ」
「そこまでひ弱ではない」
フィグネリアが素っ気なく切り返した後、はたと何かに気づいてなぜか考え込み始めてしまった。
「フィグ? やっぱり疲れてるんじゃ……」
「あ、いや。そういうわけではない。私も薔薇の様子を見ておきたい」
どうにもフィグネリアの様子に違和感を覚える。
(最近、こういうの時々ある気がするな……)
怒っているわけでもなければ、いつも政務について考えている時とも違う。戸惑いに近いだろうか。
「ほら、早くすませるぞ」
訊ねようかと考えていたクロードはフィグネリアにせっつかれて、機を逃してしまったのだった。
***
離れの周囲は人の腕ほどの細い柱でぐるりと取り囲まれていて、その柱一本一本に薔薇が絡みついていた。
そしてちょうど目の高さ辺りに、フリルのような華やかな橙色の八重の花弁を広げ、甘いながらもすっきりとした爽やかさを含む芳香をそよがせている。
フィグネリアは薔薇も気になるものの、それより傍らのクロードの横顔に目が行く。
(気づかってくれたのに、あの言い方は違っただろうと思うのだが)
クロードが休んでていいと言ったのに対しての、自分の言葉が胸につっかかっていた。
確かに会談で疲れていて、腕を持ち上げてティーカップに腕を伸ばすことすら億劫なぐらいだった。
ただひとり慣れない場所で取り残されるのも寂しかった。馴染んだものが傍らにないと、休むに休めない。
(……いや、ならば。連れてきた侍女でも側に置いていれば)
結論を出すと結局はと、フィグネリアは夫の姿を見る。
こういう時にどんな言葉が相応しいのか分からない。
「観賞用でもないのに本当に綺麗ですね。俺の国で実をとるための薔薇ってもうちょっと控えめなかんじなんですよ。しかも冬にだけ咲くって珍しいし。アドロフ家のご先祖の祈りを、第一の真実を司る女神、リルエーカ様が叶えたんですよね」
先ほどまでのことは不快にも思っていなさそうなクロードが、明るい橙の花びらを撫でながら微笑みかけてくる。
「そうだ。かつてこの一帯が流行病に冒された時、アドロフ家の息女が神殿に収まりきらない患者を城に受け入れ、神官方や薬師と共に診ながら、神に救いを求めた。彼女自信もやがて病に冒されたが、それでも病を押して祈り続けた。そしてその死の間際、リルエーカ様がアドロフ家の祖先の少女に種を授けた。薬効の高い実をつけ、そして長く雪に覆われる冬にささやかな心の安らぎをという彼女の願いをリルエーカ様は聞き届けたんだ」
この国の歴史と神話は常に一体だ。旧ければ旧いほど、神々の存在は色濃くなる。実りの少ない極寒の大地で、自分達は気まぐれな神々の恩恵に生かされている。
「リルエーカ様は以前降りてきてらした、ルーロッカ様と対をなす神霊様ですね。第一の真実は善意と希望。そんな方が降りてきていらっしゃるのでしょうか」
ルーロッカに体を乗っ取りかけられたニカが言うのに、フィグネリアは首を傾げる。
「花を好む神霊様は多くいる。この土地に由来している神霊様とも限らないかもしれないな。そもそもリルエーカ様は薔薇を見たくて、種を授けられたのではなかった。病に苦しむ領民達のために身を細らせながら祈った、アドロフ家のご令嬢に心動かされたという話だからな」
珍しく人のために動いてくれた神霊が関わっているとは思いづらい。
「……うん。でも、その人はもういないんだ。待ってても、帰ってはこないんだ」
いつの間にか薔薇の妖精と繋がっていたクロードが切なそうに囁いて、困り顔をフィグネリアに向ける。
「神霊様が、関わっているのは間違ってはいません。ただ、妖精達も咲き続けるのを望んでいるんです。それに神霊様が力を貸してるんです。……薔薇たちの記憶が見えたんですけど、皇太后様が帰ってくるのを待ってるんだと思います」
冷たい風が動いて、薔薇たちがさわさわと揺れ動く。
フィグネリアは声をなくし、身を寄せ合い震える薔薇達の音を聞く。そうして、母に抱きしめられたときの匂いが強く香って、鼻の奥がつんとする。
「……なぜ、今になってそんなことが。亡くなってもう三年だ。それに、あの方がここに戻ってこれなくなって七年にはなるんだ」
母のオリガは亡くなる四年も前から、生家に戻ってこられないほど体が弱っていた。
それでも薔薇が咲く頃になると、そわそわとしていたのを覚えている。そして贈られてくる香水や茶を見て、嬉しそうにしながらも、花を見られずに寂しげだった。
薔薇達も、母を待っていたのだろうか。
「寒いし、考えるのは中に入ってからにしましょう」
クロードに肩を抱かれて、感傷と戸惑いに立ち尽くすフィグネリアは彼にそっと身を寄せる。
それからまた離れに戻ったが、結局いくら考えても今頃になってこんなことが起こる理由は見つけられなかった。
そしてそのまま夜は更けてしまい、それぞれ寝室へと移った。
「今頃どうしてだろうな……」
寝室の広いベッドの上でフィグネリアはまだ眠れずにいた。クロードは妻のことを気にかけてさっきまでは起きていたが、旅疲れと気疲れに負けたらしく熟睡している。
自分ももう寝ようと燭台の火を消すため、フィグネリアはサイドテーブルへと目を移す。そこに飾られた薔薇が燭台の光に淡く輝いている。
「待っていても、戻ってこないんだ」
返事をしない薔薇に語りかけて、フィグネリアはふっと燭台の炎を吹き消す。
訪れた暗闇の中、眼裏ではまだ薔薇は鮮やかに咲いていた。
優しく微笑む母の姿と共に。
***
「フィグ」
ベッドでひとり丸まっていると、扉の向こうで母の声が聞こえた。皇太后付きの侍女達が近づいてはならないと慌てている。
「また、眠っていると言っておいてくれ」
十三のフィグネリアは酷い熱と何度も吐き戻して痛んだ喉で、薬を持ってきていた侍女に告げる。見舞いにくる兄達にそうしてもらったように。
「……ええ。ですが皇女殿下、本当にただの風邪ということにしておいてよろしいのですか?」
「いい。余計なことは言うな」
会話をしていると、扉が開いてしまう。悲鳴じみた声で皇太后様と呼ぶ声も一緒に聞こえた。
「母上、なりません。風邪がうつります」
病弱な母のオリガは風邪ひとつで命に関わることになりかねない。侍女達悲壮な表情は仕方ないだろう。
実際は毒を盛られただけなのでうつりはしないが、伏せっている姿を見られて勘づかれるのが嫌だった。
「酷い声だわ。もう三日でしょう。こんなに長く寝付くなんて本当に大丈夫なの?」
四十近くになるのにいまだ少女めいた雰囲気を残すオリガが、泣き出しそうに声を震わせる。
「じきに、よくなります。そうしたらまた兄上のお手伝いに戻ります」
「無理はしなくていいのよ。わたくしからお父様にお手伝いをお願いするわ。そうしましょう。あなたのためにも、イーゴルのためにもそれがいいわ」
「……父上は、先帝陛下はそのご判断はなさらないと思います」
今、アドロフ公から恩を受けてはならない。十三の小娘の自分など、たちまち立場をなくす。志半ばで崩御した父の遺志を、無為にするわけにはいかない。
それに、毒を盛ったのはアドロフ公に繋がる者の可能性すらある。
「ごめんなさい。わたくし、また考えなしなことを……」
しゅんとする母が、急な父の崩御で十分な準備もなく国政を担わねばならない兄や自分のために精一杯できることを考えてくれているのは分かる。
ただ、その背後にはアドロフ公がいて、安易に頼るわけにもいかない。
「母上がご心配することはありません。もう、お部屋にお戻りください。私のことより、母上のお体の方が大事です」
皇太后付きの侍女達がそわそわと心配そうに見守っているのを示すと、母は渋々と離れていく。
本当はもっと側にいて欲しかった。
三日の間、ひとりきりでたまらなく心細かったのだ。このまま目を閉じると二度と目覚めないかもしれないと思うと恐くて、誰かにしがみつきたくなる。
その誰かは母だった。
部屋を出る前にもう一度振り返る姿に、待って、と声を上げたくなる。
それでも荒れた喉と理性が声を押しとどめて、フィグネリアは微かに残る母の香りに意識を傾けるだけでこらえた。
***
翌朝フィグネリアは目覚めたとき、何気なく体を動かして側に触れるものがなく目を見開いた。
「クロード」
名前を呼びながら半身を起こすと、すでに身支度を調えている夫がいるのが見えた。珍しく彼の方が先に起きていたらしい。
「おはようございます。フィグがこんなに遅いなんて珍しいですね」
「寝過ごしてしまったかのか」
逆に夫に珍しがられて刻限を問うと、起床予定ぎりぎりでほっとする。
「昨日、ちゃんと寝ましたか? 俺、結局先に寝ちゃったし……俺が寝坊しちゃったことにして、もうちょっとゆっくり休んでから出ますか?」
「いや、問題ない。お前が寝てすぐに私も寝た。疲れもそうない」
灯を消してベッドに横になった後の記憶は全くなく、熟睡はできたはずだった。
フィグネリアはサイドテーブルに飾られている薔薇を見る。夢の残り香がした。
「ただ、夢見が悪かったんだ」
ベッドに腰掛けるクロードにどんな夢かと聞かれて、フィグネリアは覚えていないと答える。
ただ感情だけは胸に残っている。甘く優しいけれど、ひとりで置き去りにされてしまいそうな心細さ。
子供の頃の夢かもしれない。母や兄妹の優しさに幸福を感じながら、漠然と不安を抱いていたあの頃だ。
「フィグ、本当に大丈夫ですか?」
「ああ。もう支度をする」
客用のベッドは広くてすぐに手が届く距離にクロードがいない。衝動的に彼の胸に顔を埋めたくても、そうできない内に早く身支度をしなければと頭が冷静さを取り戻す。
だけれど感情はそのままで、理性と感情が大きくずれる。
ベッドから降りようとした時に差し伸べられた手を取ると、そのまま抱き寄せられた。ふんわりと包み込まれているだけなのに、きつく抱きしめられるよりも離れがたかった。
このまま夢の名残が消えてしまうまで、こうしていたいとさえ思う。
「……薔薇のこと、気になりますか?」
「気にならないこともないが、私達の関わることでもない」
理性を優先して、フィグネリアはクロードから身を離す。見上げると彼は琥珀色の瞳を不思議そうに丸くしていた。
「神霊様はルーロッカ様の時と違って行方知れずというわけでもないだろう。これだけ広範囲に力を及ぼせるのなら、降りてきていたとしても普通の人間に降りてきているのだろうし、神殿に相談すればいずれの神霊様かが対処にあたられる」
神霊が降りてくる人間に目立った特徴はない。『波長』があって、かつ人間という器に神霊が入り込めるだけの余裕があれば降りて来られるということだ。
ルーロッカの時は彼が合わないリスの体に降りてきたため、神界からも行方が掴めずに妖精の動きをたどれるクロードが協力せざるをえなかった。
「今度は半分は薔薇の妖精の意思だから、俺にも居場所は掴めないですけど。できることがあるなら、役に立ちたいです。器になっちゃってる人のことも気になるし……」
神霊に器にされた人間にも影響が出る。ニカも器にされかけてしばらくは要安静の身となったが、あれはあれで特殊な例だった。
「合った器でお前がたどれないほどの力しか使っていないのなら、そう焦ることもないだろう」
「確かに無理に入られてるってわけじゃなさそうですけど……。フィグはあんまり神霊様と関わりたくないですか?」
「出来る限り、神霊方に深入りしない方がいい。まともに力を使えなかったルーロッカ様でさえあれだ。関わらないですむなら、その方がいい」
そうして、対峙してしまった場合、クロードひとりに任せるしかない状況になるのが何よりも不安だ。
非力な人間でしかない自分は、見守るしかできない。
「……でも、皇太后様が関係してるみたいだし、いいんですか?」
フィグネリアは少しだけ考えて首を縦に振る。
「いい。考えたところで答がでることもない。戻って神殿に報告して、終わりだ」
後ろ髪を引かれる思いはあれど、ここに留まる理由もなければ神霊にも自分達からでき関わっていくべきではないだろう。
フィグネリアは困った顔をしているクロードに微笑みかける。
「さあ。もう遅くなる。出立前に挨拶もしなければならんからな。それに街で馬車を止めている時間もなくなる」
「何か用事があるんですか?」
「街を見たがってただろう。早めに出れば帰りは多少の物見遊山をする余裕はある。気になる場所があるなら、事前に言ってくれればいい」
このまま天候がよく問題がなければ、多少寄り道をしても予定通り明後日には帝都に戻れる。どこもかしこも雪景色で代わり映えはしないが、遠出することなど滅多にないからいい機会だろう。
「それならいっぱいあるから、優先順位つけとかないと駄目ですね」
まだ薔薇のことに引っかかりを覚えている風だったものの、クロードは楽しげに応える。
その笑顔を見ていると、夢の名残に曇る心に陽が差してきてフィグネリアも自然と笑みを浮かべた。
「よし。私もすぐに支度をする。朝食はまだだろう。先に広間で待っていてくれ」
そしてフィグネリアはクロードを部屋から出して身支度をすませ、広間へと向かう。その途中、アドロフ家の侍女が忙しなくやってくる。
「申し訳ありません。マラット様が急な用件で外へと出ているため、ご挨拶はできないとのことです」
「こんな朝早くから、何かあったのか?」
侍女に問うてみるが、彼女も今し方のことで詳しくは知らないらしい。次期当主自らが出る用件とは大事だとは思うが。
フィグネリアが黙して考えていると、不興を買ったと誤解したのか侍女がか細い声で申し訳ありませんと謝罪する。
「分からないのならいい。手間を取らせてすまなかった」
そう告げると侍女はお辞儀をして去って行った。
「……まったく、帰りたいのに帰りづらいとは困ったものだな」
これから帰るというのに気持ち半分はまだここに置いたままになりそうで、フィグネリアはそっとため息をついた。
***
朝食を終えて挨拶代わりの礼状をアドロフ家の使用人に託した後、フィグネリア達は予定通り城を出た。
街に入って馬車を降りたフィグネリアは、雲ひとつない薄水色の空を背にしてそびえる城を見上げる。
「フィグ、気になるなら戻りますか?」
「……なにかあるなら、帰り着く頃には報告があるだろう。さあ、人通りが増える前に見て回るぞ」
九公家領内は何か問題があってもそれぞれの領主の采配でことを治める傾向が他より強い。アドロフ家がアドロフ家で動き出したのなら、皇族といえどもそう簡単に介入はできない。
「見て回るって言っても見た目だけは普通の街ですよね。えっと、あ、上から見ると幅が違うのに下から見ると同じに見える」
まだ朝早く人通りが少ない通りをクロードが行ったり来たりしてみて、声を弾ませた。
「騙し絵になっている街だからな。城へ向けて上っていると惑わされる。エリシンが詳しいのだから話を聞きながらの方がよくないか?」
フィグネリアは少し離れたところで護衛の兵士と一緒にいるニカに目を向ける。実際来たことはないものの、ニカは建築についての知識が多く、道中あれこれクロードに教えていた。
「せっかく気をきかせてふたりにしてくれてるんだから、呼ぶのも悪いですよ。と、あそこから狙い撃ちにしたのかー」
クロードが間近にそびえる塔を見上げてすっかり街を見物するのに没頭し始める。書物の中の戦記と実際の街の様子を重ね合わせているらしい。
時々足を止めてあの戦場はこのあたりと確認しては、幼子のように瞳を輝かせて魅入っている。
そんな彼の姿を見ていると満ち足りた心地になる。
(何が楽しいのかはまったく分からんがな)
雪を被る煉瓦造りの街は帝都とさして光景は変わらない。傾斜があるぐらいしか違いはないぐらいで、仕掛けや歴史の知識はあってもそれだけのものである。
「距離感とか、坂の傾斜とか見たまま鵜呑みにすると本当に大変ですね……攻め込んでもお城までなかなかたどり着けないって本当なんだな」
クロードが鼻の頭が赤いのは寒さのせいだろうが、頬が赤いのはそればかりでもなさそうだ。
「だから、あまり歩き回りすぎると必要以上に疲れるぞ」
フィグネリアは苦笑しながら、クロードの後を緩やかについていく。
幾たびの戦で勝者となってきたアドロフ公の築いた城までの道を阻む街は、巧妙に人の感覚を狂わしていく。長年の住民達はどんな場所に行くにしても最短の道を知っているが、余所者には石のごとく硬く口を閉ざす。
防衛に限らず攻めに回ってもアドロフ公爵家は手強い。マラットやイーゴルのように体格も武芸も抜きん出た、優れた武人を血族の中から多く輩出している。
実際、ここまで敵に攻め入れられたのも三度だけである。
今の当主のパーヴェルはどちらかといえば護りの方を得意とする性質だが、武力以外での攻撃は鋭い。
(……アドロフ公とはあまりやりあいたくないが、ここで一度お話しはしておきたかったな)
薔薇に、アドロフ公に、今朝の不穏な様子。
気にかかるものばかりだとフィグネリアは数歩先を行くクロードの姿を目で追いつつ、もう一度城を仰ぎ見る。
「……フィグ、俺ばっかり楽しんでる気がするんですけど、何か見たいものってないですか?」
急な坂を上って少し息切れし始めているクロードが、我に返った様子で戻ってくる。
「特にはないな。お前が楽しんでいるのを見ているだけで楽しいので問題ない」
気遣いでも何でもなく正直に言うと、夫はなぜか複雑そうな表情をした。
「駄目です。それは俺が言わなきゃならない台詞です」
「……別に私が言ってもいいと思うが」
後ろでそっと夫婦を見守る護衛が後ろでこっそりクロードに賛同していることも知らず、フィグネリアは首を傾げた。そして夫の背の向こうに馬で駆けてくるアドロフ家の兵の姿を見つて、視線を鋭くする。
敵意は見られないが、急いで来たらしく馬の息も荒く白い湯気が立っている。
「皇女殿下、これより神殿までご同行願いたい」
フィグネリアは一度クロードと顔を見合わせ、神殿に向かうことを決めた。
3
クロードはゆるゆると流れる窓の外のただ白いばかりの雪景色を眺めながら、ため息をつく。
あれからフィグネリア達は街から城へと戻り、侍女らを待機させた後に裏手側の門から神殿へ向けて馬車を走らせていた。
追ってきた兵が急いでいたのは、単にフィグネリア達に追いつくためだったらしく、神殿までは急がず来て欲しいとのことだった。
「帰り、遅くなりそうですね」
「ああ。のんびりできると思ったのだが、その余裕はなさそうだ」
フィグネリアが残念そうに言って、クロードもうなずく。
街や史跡を見て回れないのもそうだが、フィグネリアも一緒に楽しませられないか考えていた所だったのに、何も思いつかない内にこうなってしまった。
(で、城下じゃ、俺がひとりで夢中になりすぎたし……)
一緒にいて楽しいと思ってくれているのは嘘ではないと分かっているものの、もっと計画的にしたい。
「そう落ち込むな。春になったら日帰りできる範囲で、遠駆けに行く暇ぐらいは見繕う」
「暇ができるくらい仕事ができるようになります……それにしても仔細は神殿って、なんでしょうね。神霊様絡みじゃないといいんですけど」
神殿と聞いて真っ先に思いつく揉め事に、クロードは表情を曇らせる。
「マラット様が皇女殿下をお呼びするほどの用件ですから、大変なことなのでしょうが」
クロードの向かいに座るニカも不安そうだった。
「妖精に異変などをは感じないか?」
「今のところは分かりやすい変化はないですけど…………」
クロードは妖精達の気配を近くに感じて窓の外に目を向けて言葉を失う。
馬車の窓の外は一面、細く白い石柱が並び全てに薔薇が絡んでいた。雪に覆われた大地が照り返す陽光で、橙色の薔薇は黄昏時の太陽のごとく鮮やかに輝いている。
そんな薔薇で出来た森は左右の窓、どちらを向いても果てが見えない。
夢のように美しい景色はまさしく神の慈悲だ。この国の人々が神霊を崇め奉る意味を心で感じられる。
「あ、大神殿ほどじゃないけどここの神殿も大きいですね」
馬車が右に曲がり神殿の姿が見え始めて、クロードはやっと言葉を取り戻す。
神殿は城壁こそはないが、どこか要塞めいた造りの神殿はアドロフ家の城とよく似ていた。しかしながら真白い色と静謐な雰囲気が神聖さを醸し出している。
神殿にたどりつくと、そわそわと落ち着かない様子の神官や領民がうろうろしていた。
三人が馬車から降りて、神官がお待ちしていましたと彼らを迎え入れた。
分厚く重たい大扉から屋内へ入るとすぐに礼拝堂だった。三百人ほどが収容できる広い堂の奥には腕に薔薇を絡めたリルエーカの像が立っている。
「何かが破裂した音……?」
フィグネリアが領民達の声に耳を傾けて、眉根を寄せる。
朝、大きな音がした。それが彼らが口にしていることの共通点だった。
「フィグ、みんなが言ってる音って銃声じゃないですか?」
思い当たるものはそれしかなかった。
「ああ。そうかもしれん。だが銃があるはずがないが……」
フィグネリアの言うように、密輸された銃の追跡は徹底的に行って全て回収したはずだった。
何が起こったのかと案内の神官に問うが、答えてもらえずに神殿奥深くへと案内される。
「神官長様! 皇女殿下のご一行が」
窓がなく松明の明かりに照らされる廊下のつきあたりに五十ほどの男がいた。これといって特徴のない彼はずいぶん憔悴しきっていた。
「私が当神殿の一切を任されている者です。今からご覧に入れるものは領民にはしばし内密にお願いします」
そう言って扉が開かれてさらにもう一枚扉があった。それが開かれて、鉄錆びた血の匂いと肉の焦げた匂い、それからかすかな火薬の匂いが鼻先に触れる。
クロードは思わず呼吸を止めるが、次に息をする時にかえって思い切り空気を吸い込んでしまい、むせ込みそうになる。
(血の臭い、気持ち悪い……。できたら見たくないけど)
部屋の中にはマラットがいて彼の背しか見えず、心の準備をする前につい見てしまうことがないのは幸いだった。
「……一体、何があったというのですか」
先頭を行くフィグネリアが声を上擦らせてマラットへと問いかける。彼は大声をあげることもなく、静かに体を脇に寄せて、大きな台の上にの乗るものを示す。
「今朝、大音声がして何事かと思い庭に出たらこうなっていたらしい」
フィグネリアがまず台に近寄り、クロードはその後ろから意を決して台の上を怖々と覗き込む。
「う、うわあ」
銃弾で撃ち抜かれた遺体かと思ったが、そんな綺麗な状態ではなかった。
クロードはすぐに見たものから目を逸らして口元を覆う。匂いだけならまだ耐えられたが、実際目にして朝食が喉元近くまでせり上がってきそうだった。
「無理に見なくてもいいぞ」
「うう、大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけです……」
「本当にこれは慣れなくてもいいものだからな。後ろを向いてそこに立っていろ」
蒼白なクロードは横目でちらりと遺体を見た後に、大人しくフィグネリアの言う通りにした。
このまま直視しているとたぶん吐く。
「ニカ、見ない方がいいかもしれないっていうか、見た?」
クロードはニカが静かに硬直しているのに気づいて首を傾げる。
「いえ、俺は血は実家の家畜で見慣れているので大丈夫です。狩りもしますし」
と気丈に言っているもののニカにも動揺が見られて、フィグネリアにふたりとも後ろを向いておけと言われてしまった。
「主従揃って軟弱な……」
マラットの呆れ声に主従は反論できずに縮こまって、フィグネリアがそれよりと、話を遺体に戻す。
「死亡の原因は銃がなんらかの原因によって爆発したものと見受けられますが……」
「その通りらしい。今朝、薔薇の様子を見るのに神殿の中庭にいた神子様がこの神官様と遭遇して銃を突きつけられ、こうなったらしい。神子様には怪我はないそうだが、あまりの惨事にお倒れになったそうだ」
鉄の筒を向けられて困惑している内に大音声と共に神官がこうなってしまったら、精神的な衝撃は計り知れないだろう。
クロードは神子の心境におおいに共感して同情する。
「俺には銃は分からんから、お前を呼んだ。神官長様、あれをお持ちください」
不本意そうなマラットが神官長に言うと、奥にいる神官が布に包まれたものを持ってくる。布にも血が染みていて、フィグネリアが中を開く。
クロードは遺体の損傷部分が視界に入らないよう、マラットの後ろにこっそり移動する。そしてそろりと台の方へ向き直ると、破裂した銃身が目に入った。
「他に銃弾……これぐらいの鉛玉の類が他にありませんでしたか? それとこれぐらいの棒状のものは?」
フィグネリアが足りないものを示すと、神官長は困惑した顔でじっと彼女の顔を見る。
「皇女殿下はこれがいったいなんであるかお詳しいのですか?」
「少し囓った程度でそれほど詳しいわけではありませんが……。これは隣国の弓に変わる武器ですので、本来ここにあるはずのものではありません。この神官様はここ五年の内にこちらへ?」
神官長が大きくうなずいた。
「ええ。真面目な神官でした……」
動揺のためか、答える神官長もどこか落ち着きなく見える。
「神官様の部屋などを見てもよろしいでしょうか? それと、神官様が亡くなられた場所も見せていただけたらと思います」
「足りないものでしたら私どもが探しておきます。他に必要なものがあればお申し付けください。中庭の方ですが、今清めている途中ですので……」
「清める前に見ておきたいのですが」
神官長に渋られてフィグネリアは悩んでいる様子だった。
「そのことについては、他の神官と相談させていただけますか? それまで礼拝堂でお待ちください」
神官長の返答にフィグネリアが銃を再び布にくるむ。近くに控える神官が血を隠すのに上から新しく布を巻くというので銃は彼に預けられた。
「それにしても痩せているな……」
フィグネリアのつぶやきに、クロードは損傷はない遺体の下半身を見る。
血で赤黒く染まった神官服ごしでも膨らみから脚が骨だけかと思うほど細いのが分かる。
(フィグ、何見てるんだろ……足?)
クロードはフィグネリアの横顔の先が、遺体から覗く足に向けられていることに気づく。
靴は運び込まれる際に脱がされたのか素足だった。
(ああ、でも元から裸足だったのかな)
足裏はずいぶん汚れていて全体にわたりあかぎれが目だち、長期にわたって裸足で過ごしていたかに見える。
視線を床に向けて他の神官達の足下を確認してみるが、彼らはきちんと靴を履いている。
「少し、体調を崩して食事をあまりとっていなかったものですから」
神官長は奥歯に物が挟まったような言い方をして遺体から目を背けた。
「では、神官長様中庭の件についてお願いします」
フィグネリアが裸足については問わず、クロードはあれと思うがそのまま退出することになった。
「フィグ、あれってロートムの密偵でしょうか」
クロードが声を潜めて尋ねると、おそらくとフィグネリアの返答がやはり小声であった。
「銃は全て押収したのではなかったのか?」
側を歩くマラットが不服そうな顔でフィグネリアを睨む。
「ええ。そのはずですが、こちらの調査に不備があった模様です。申し訳ありません。神殿内で詳しいことはやぶさかですので後ほど……」
これ以上の話はできないと思ったのか、マラットはそれを訊いてひとり先に礼拝堂まで歩いていってしまう。
「フィグ、あの、神官様の足……」
そしてクロードは一番気になっていたことを訊いてみるが、フィグネリアが無言で首を横に振った。
ここでは言うなということらしい。
(なんだろう。ただの暴発事故じゃないのかな)
フィグネリアの表情の険しさに、クロードは不安な面持ちでまだむかむかとする胃を撫でる。
それからかつんと響く軍靴の音に不自然さを覚えた。
冷たい廊下によく音を響かせるのは、さらに冷たい石の床だ。この上を裸足で日頃歩いていたら確かにああなるだろう。
クロードはすれ違う神官の足下をちらちらと見る。誰もが底を厚くし綿も詰まっているだろう布靴を履いて、音を立てずに歩いている。
それに、視線をあげたところでさすがにふくよかな神官はいないものの、これといって細すぎる者もいない。
(あの死んだ神官様だけが、他の人と違う扱いを受けてた……?)
その考えが頭に上ったとき、一様に同じ格好で似た表情で歩く神官達が異様に不気味に思えた。
***
厄介な事になったものだ。
礼拝堂のリルエーカ像に腰を下ろしたフィグネリアは腕を組み、眉根を寄せる。それから様々な要因で顔色の悪いクロードを見る。
「大丈夫か?」
「……ちょっと、まだ気持ち悪いかもしれないですけど、なんとか。ニカはもう大丈夫か?」
「自分は落ち着きましたが……神官様に診ていただきましょうか?」
ニカがおろおろとした様子で主君の顔を覗き込む。
「しばらくしたら、俺もたぶん大丈夫。それより笛、吹いた方が落ち着きそう。いいですよね? ご挨拶代わりにもなるし」
クロードが銀の笛を取り出して、礼拝堂にちらほらといる領民らが期待の目を向けてくる。
「婿は腕のいい楽士だったか。いい。領民達もこのままでは落ち着かんだろうから吹け」
フィグネリアが返答をする前に、近くにいたマラットがぞんざいに許可を出した。
(そういえば、クロードの楽士としての腕は知られているのか)
冬籠もりの祭事で第一皇女の婿が楽士を勤め、気まぐれな西風の女神アトゥスに気にいられて第一皇女がその女神と婿を取り合った話は、各地に伝わっている。
(というか、アトゥス様とのあれも知られているのだったな……)
クロードの楽士としての才はともかく、自分とアトゥスとのやりとりが伝わっているということを思い出して、フィグネリアはいたたまれない気持ちになった。
妻が心の内で帰りたいと思っていることなど露知らず、クロードが笛に口をつける。
礼拝堂内はそういう造りになっているのか、最初の一音から広い部屋の隅々まで濁りなくよく音が響いた。
反響を利用して巧みに音程と速さを変えながら、笛は優美な旋律をゆっくりと広げていく。
固い蕾が艶やかに八重の花びらを開くように。
音の花が満開になる頃には、礼拝堂に最初の倍以上の人が集まっていた。ちょうど神殿を訪れてきた人達の他に、神官達も複数様子を見に来ている。
「……あれ、人、集まっちゃってる?」
笛から口を離して、クロードが目を丸くして辺りを見回す。
「それは、集まるだろうが。思ったより目立つことになったな」
何度聞いても新鮮な感動を覚える音色にすっかり聴き入っていたフィグネリアも、これだけ人集りができたことに驚いた。
領民達がこれで実がついてくれれば、と口にするのが耳に入ってくる。どの声も切羽詰まり真剣だった。この辺りの住人と言うことは、薔薇を育てることを生業としているのだろう。
「……笛の腕は確かなようだな」
マラットも認めたらしく、無愛想ながらも言葉に感嘆を隠し切れていなかった。
「やはりあなた様でしたか……」
それからすぐに神官長が目を丸くしながらやってきた。
「あ、はい。すいません、勝手に笛を吹いちゃって」
「いえ、いえ。なんとも素晴らしい演奏でした。これほどに心奪われる音は初めてでございます。祭事での演奏の評判は届いておりましたが、よいものを聞かせていただきました」
神官長が今にも拝みかねない勢いでクロードの笛を褒め称える。
「あの、神官長様、それで中庭の件ですが」
「ああ。申し訳ありません。ほとんど清めがすんでしまっていました。それでよろしければどうぞ」
フィグネリアは少し悩んだものの、見るだけ見ておくかと腰を上げる。
そしてたどり着いた中庭は、整然としていた。
中央に四阿が建つ真四角の庭園にも、細い支柱が何本もあってやはり薔薇は咲き乱れている。
「……ああ。本当に綺麗にしてしまっているな」
フィグネリアは一滴の泥も血痕も見当たらない真っ白い地面に目をやって腕を組む。
「神官様が亡くなったのってあのあたりですか?」
だいぶ顔色がよくなったクロードが、不自然なまでに平らで足跡ひとつついていない場所を示すと、作業を終えてあたりを確認している神官がそうですとうなずく。
よほど大変だったらしく彼は汗だくだった。
「何も残っていませんね」
ニカが辺りを見回してひっそりとつぶやく。
「そうだな。せっかく入れていただいたがこれではもう何も見つけられそうにないな。しかしなぜこの場所だったのだろう。神子様はまだご無理でしょうが、他の神官方からお話しをききたいのですが」
「ええ。ご協力はしたいのですが、まだ皆落ち着いていませんので明日以降にならば」
神官長がそう答えるのに仕方なしとフィグネリアはうなずき、ふと視界の端でクロードが薔薇が巻き付いている柱の側に寄っていっているのを見つけた。
「クロード、何をしている」
「ここ、血がついてます。蔓のところ……」
クロードが指し示す柱の下方には確かに血がついていた。
「ああ、まだ残っていましたか。薔薇に穢れを残すなど……」
神官が慌ててそれをぬぐいとるのを見ながら、やけに範囲が広いとフィグネリアは眉を顰める。
あちこちに血やら何やら飛び散ったのだろうが、それにしても念入りすぎるほどに広範囲に雪がならされている。
「……神聖な場所に足を踏み入れさせていただきありがとうございました。おそらく事故だと思うのですが、神官様の人となりについても知りたいので明日改めて伺います。今日は銃を持ち帰りたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい。後で何かお渡しすべきものがないか私どもの方で彼の私室も調べておきます」
神官長の協力的な態度に、フィグネリアは助かりますと返す。自分達で調べられないことは残念だが、あまり立ち入りすぎるわけにもいかないので仕方がない
「殿下、よく見つけられましたね」
再び礼拝堂で待つように促され中庭から屋内に戻る途中、ニカがこっそりとクロードに聞いていた。
「んっと、勘というかそういうの。うん」
どうやら妖精の反応であれを見つけたらしかった。マラットは怪訝そうにクロードを一瞥して、フィグネリアへと目を向ける。
「……フィグネリア、後の処理を手伝え。もう一晩離れを貸す」
「ええ。そうしていただくと助かります」
一晩どころではなくしばらくは戻れそうにないと、フィグネリアは周囲の神官達の様子を注視する。
(まだ他にも密偵はいるはずだ)
そして胸の内で確信を持ってつぶやいたのだった。
***
アドロフ家の城に戻ってすぐに、フィグネリア達は前日会談を行った部屋へと通された。
「そもそも、銃はどこから手に入れたんだ! お前達の報告では密輸された銃は全て回収したとあったぞ」
「……それに関しては、不手際をお詫びします。この旧式銃は試験的な目的で少数密輸され、その後暴発の危険性の少ない新式に入れ替えられたことが判明しています。入れ替える予定だった銃は大神殿に保管されたままでしたので回収済みです。どこかで情報の見落としがあったかと思われます」
フィグネリアは落ち度を認めて謝罪する。
「状況は、密偵が神子様を撃とうとして自滅したということか」
怒り冷めやらぬマラットがそう確認するのに、フィグネリアはいいえと否定する。
「神殿内では申し上げられませんでしたが、事故ではなく意図的なものと思われます。この銃は旧式で暴発しやすいものですが、ここまでになるには、意図的に火薬でも詰め込まなければなりません」
フィグネリアがテーブルに置かれている銃の大きく破裂した銃身を示す。
遺体を見たときには、自分も事故だと思っていた。だが銃を見せられて考えは変わった。
「自殺ってことですか……? でも、なんでわざわざそんなまどろっこしい。あ」
クロードが銃を見つつ、答を見つける。
「細工をした者がいるということか」
同じく気づいたマラットがクロードより先にそう言った。
「そうです。銃を知っている人間はロートムの密偵以外はいません。人数は不明ですが他にも潜んでいるはずです。細工した者が偽装が失敗したことを知った場合、どんな行動をとるか予測が付きませんので口外は控えて密やかに捜索すべきかと」
「騒動から四月以上経っているのだぞ! なぜまだ密偵が潜んでいることを調べ上げられていなかったのだ!」
マラットの怒声が張り詰めた室内の空気を揺るがす。
「……九公家領内の神殿に密偵が潜んでいるかどうかの調べは最初にいたしました。ですが捕えた密偵からの情報は乏しく、神殿側からご協力を得るのにも時間がかかりましたので」
とにかく、得られた情報が少なかったのだ。大神官長が定まり神殿内が落ち着くのにも時間がかかった。これ以上俗世との繋がりを深めたくない神殿への対応は大神官長に任せるしかなく、こちらからは大きく動けなかった。
「神官長様も密偵を普通の神官様だって言ってたし、外からいくら言っても神殿側が怪しい神官様はいないって言ったらこっちも信じるしかないですよね」
クロードがそう付け足して、マラットにねめつけられる。
「その件は後ほど。今は事故を装った理由、なぜ神子様を襲ったのか、そして何が原因でこの事態を引き起こしたかの三点が大きな疑問点を解明していきたいと思います」
フィグネリアは矢継ぎ早に言葉を重ねて、マラットの注意を引く。
「……密偵が潜り込んだ目的は分かっているのか」
「神官方のお役目は人々の悩みを聞くことにあります。そこからの情報収集が最大の目的だと思われます。それともうひとつ、薔薇の実も目当てだったのかもしれません」
その言葉にはクロードが反応を示す。
「銃以外に密輸されたもの、ですね。ロートムにない希少な薔薇だから狙われてもおかしくないですよね」
「持ち出したところでたかがしれている。大量に運び出せばすぐに足が付くだろう」
マラットの反論に、フィグネリアはこの考えは仕方ないと思う。
「持ち出すのは少量で十分です。向こうの人間は繁殖させようと考えるでしょう」
「まさか発芽出来る状態で持ち出したというのか!? そんなことはあり得ん!」
部屋に轟くマラットの声に、クロードが目を丸くする。
「かなり管理は厳しいんですね」
そしてこっそり話しかけてくる夫に、フィグネリアはうなずく。
「薔薇の種は発芽出来る状態で国外どころか領内でもこの薔薇園以外に持ち出しも禁止だ。理由は分かるか?」
「ええっと。アドロフ公領のもので、希少性が薄れるとか、あとは神霊様がくれたものでここでしか育たないからとかですか? あれ、でもそれにしても限定されすぎてるか」
会話が聞こえているマラットがクロードを奇怪なものでも見るように凝視した。
「ここでしか育たないかどうかは誰も試したことがない。他の地に種を植えたり、そのつもりがなくても種を落としてしまったりすると、その地に慈悲を与えたり、気に入りの場所にしたりしている神霊様に失礼にあたるからだ。実際、神霊様同士で兄弟喧嘩になったり、ご機嫌を損ねるという事例も古い時代にあった」
フィグネリアの解説をクロードが、驚きと感心の入り交じった顔で聞く。
「……それってどれぐらい前ですか?」
「一番最近の事例で三百六十年ほど前だ」
そう返すと、クロードはきょとんとしてもはや言葉も出ないほどになっていた。
「……夫はこちらの信仰に馴染んでいますがまだこの通りです。まるきり神霊様や妖精の存在を信じないロートムの者なら、我々の禁忌とすることは意味を持ちません。現に死んだ密偵は神子様に銃口を向けました」
フィグネリアはマラットへと視線を戻す。
「……薔薇が実をつけんのもこのせいか。奴らめ、神殿に悪意を持ち込んでリルエーカ様の不興を買いおって!」
テーブルを叩き割らん勢いでマラットが拳を打ちつけて、フィグネリアは口を引き結ぶ。横目で見たクロードも困った顔をしている。
今の所薔薇が散らない理由は別なのだが、説明するわけにもいかない。
ひとまずそこから話をそらさなければとフィグネリアが口を開きかけたとき、部屋の両開きの扉が軋みながら開かれた。
次に石の床をこつりと叩く音が聞こえる。
フィグネリアとマラットがほぼ同時に立ち上がって、クロードが遅れてふたりに倣う。
(ずいぶんお痩せになった……)
現れた杖をつく白髪の老人を見て、フィグネリアは三年の月日の流れを実感する。
上背はあるものの、背は以前より折れて一回りほど細くなっていた。
パーヴェル・アドロフ。アドロフ家当主として九公家の中心として立つ彼は、それでも威厳を欠片たりとも失っていない。
彼が歩くだけで並々ならぬ緊張感を強いられるのは、今も昔も同じだ。杖が床を叩く度に、鼓動が跳ね上がる。
「久しいな」
強い光を宿す瞳を向けられて、足が竦みそうになったが怯んではいけないと顎を引く。
隣にはクロードもいる。彼に見せるべき姿は毅然とした態度でなければならない。
「本当に、長い間ご無沙汰をしておりました。皇太后様のご葬儀以来、書簡でのご挨拶のみと不義理ばかりで申し訳ありません。先日は私が至らぬばかりに、皇帝陛下の御身を危険に晒し、国家の安寧を乱したこと、深くお詫びいたしします」
フィグネリアは深く頭を下げて皇族から臣下へするものとして最大の敬意を示す。その横でクロードがおたおたとお辞儀した。
「……これまでのことはマラットから報告を受けているのでかまわん。神殿で死人が出たことについてだ」
クロードには視線も向けずにパーヴェルが一番奥の席に座る。
それから立ち上がっていた三人は着席して、マラットが仔細を報告しフィグネリアが時折言葉をつけ加えた。
「他に密偵がいることに間違いはないな。お前はまだここに残るつもりか」
パーヴェルの静かな問いかけに、フィグネリアはできればと返答する。
「少なくとも状況の仔細が判明するまでは留まりたいと思います。まだ銃がある可能性もありますので……ご迷惑でなければ帝都から必要な資料が届くまでは置いていただければと思います」
「銃についてはこちらに知識がない。マラットと共にことの収束に尽力しろ。くれぐれも領民に余計な不安を抱かせず、神殿に失礼にならぬように動け」
マラットは不服そうな顔でいるものの、ひとまずパーヴェルの許可が下りてフィグネリアはほっとする。
「ありがとうございます。取り急ぎ帝都へ書簡を送ります。銃も、軍の方で普及に努める者が詳しいので爆発の原因を調べるのに一緒に運びたいと思いますがよろしいでしょうか」
異論はなくフィグネリアは次へと話を進める。
「それと、領内の問題でなく国の介入すべき事案ですので、律事第二等官ザハール・イサエフを本件の担当官としての任に就かせます」
「ガルシン公の甥御か。まさかあれを手懐けたのか、お前は」
決定事項として告げたことに、マラットが当惑する。クロードはなんとも言いがたい顔でその反応を見ていた。
「ロートムの技術に対して知識があり律事官としても有能なので、イサエフ二等官が適任かと」
フィグネリアはマラットの言葉に対する返答をぼかして、パーヴェルと向き合う。
「それはそちらの好きにしていい。必要なものが揃うまでの対処はどうするつもりだ」
「今しばらく、事故と処理することとして死亡した密偵についての情報を集めるつもりです。できるだけ少人数で当たった方が向こうにも警戒されないかと思われます」
それとひとつ気になることがあって、フィグネリアはつけ加える。
「死亡した密偵はすでに神殿の方で埋葬されましたが、遺体に気になる点がありました」
「痩せていると、言っていたなお前は。確かに窶れていたが、それがどうした」
フィグネリアのつぶやきを覚えていたマラットが訝しげにする。
「痩せていたのもそうですが、裸足で長く過ごしていたのかもしれません」
遺体を見て気づいたことを告げると、しばし全員が沈黙した。
「やっぱり、あれ何かの罰とかでしょうか。痩せてたのも体調不良じゃなくて、食事をとらさせてもらえなかったとか」
クロードが言いにくいことをさらりと口にして、室内の空気が重たくなる。
神殿は多くの恵みと災厄をもたらす神々と人とを繋ぐ唯一の場だ。だからこそ、私欲や権力闘争に利用されぬように政に関わらず、同時に政府も出来うる限り踏み込まない。
そのために独自の規律を設けているので、神殿の中で取り決められたことに政府側が立ち入るとなると難しいのだ。
密偵の捜索や神殿への奉納の目録などの書類を集めるのにも難航したのも、これが大きな原因だった。
とにかく神殿側は政府の介入を拒む。神殿が神霊や妖精との繋がりを持つ以上、権力が無理に入り込むことに民衆に不審がられるので政府も強くは出られない。
ルスラン大神官長も理解はあるが、あまり政府側に融通を利かせていると神殿内での立場が危うくなるだろう。
「……神官方はなんらかの理由で密偵に苦行をさせていたのかもしれません。このことも念頭に置いた上で、そこには触れずに聴取した方がよいとは思うのですが」
下手に隠し事を暴こうとすると、頑なになって得られるものも得られなくなる。そうなると事態が完全に膠着してしまって困る。
「お前は、どこまで踏み込む気だ」
厳かにパーヴェルが質問を投げかけてきて、フィグネリアは身を硬くする。
そして呼吸ひとつして緩やかに口を開く。
「神殿と俗世の境界は、密偵によって揺らいでいます。踏み込めるところまで、踏み込みます」
一文字目を声に出す瞬間まであった迷いをおくびにも出さずに、フィグネリアは断言する。
「馬鹿なことを! それでは絶対不可侵の不文律などないものとすることだ!!」
マラットが今日一番の大声を上げて、クロードがその勢いにびくりとする。
「お前は、踏みとどまるべき所をけして誤らないと言い切れるか」
息子の怒りなどまるきり気に止めないパーヴェルは、フィグネリアだけを見る。
わずかな隙も許されないその視線に、気圧される。父が生涯かけて戦い続けた相手だ。自分ごときが相手になるとは思わない。かたいって立ち向かわずに、引けなどしない。
「けして誤りはしません」
フィグネリアは簡潔に返答する。
それ以外の言葉は自信のなさを誤魔化すだけのものにしかならない気がした。
「父上!!」
「マラット、お前はお前で、境界を見定めているのだろう。意に沿わんならばそこを踏み越えぬように見張っておけ」
パーヴェルがそう言い放って、額に青筋を浮かべながらもマラットは口を閉ざした。
それから淡々と話は進んでいく。さすがに当主であるパーヴェルがいる間は、マラットも声を荒げる回数が少なく滞りなく協議は終了した。
***
離れに戻りクロードはフィグネリアが帝都への書簡を認めている間、同行の侍女や兵士に滞在が延びたことの連絡をした後、一体何度目かも忘れたため息をつく。
「殿下、五回目です。いい加減鬱陶しいです」
隣を歩いてるニカがさっくりと言って、クロードは背を丸くする。へこたれている時にこの侍従はやたら厳しい。
「だって、アドロフ公にはまったく相手にされなかったし。フィグがまだ仕事してるのに、俺はもうやることないし」
手持ち無沙汰で余計に気が滅入る。
「ですが、殿下の今できることは以上です」
「まあ、そうだけどな。そういえばザハールも来るんだよな」
「ええ。後五日はかかるでしょうが……」
広間に入りながら、ふたりしてなんとなく沈黙する。
「……でもフィグはザハールきたらたぶん楽になるよな」
「ええ。律事官ですので、対処にも馴れていらっしゃるでしょうし、有能な方でもありますから」
「そこだけは認めるけど……俺ももっといろいろできるようになりたい。そうだ、書簡って何が必要か考えてるか」
広間のソファーに腰を下ろし、クロードはニカにひとつ提案する。
公式な文書の作成はフィグネリアに習っているが、こういう緊急事態で何が必要かは分からない。
余裕があればフィグネリアも教えてくれるだろうが、今は先に考えておいて後で答え合わせをすればいい。
たくさん正解できていたらこれから任せてもらえる仕事も増えるかもしれない。
「まずは、義兄上宛。っていうかこういう場合は皇帝陛下宛か。帰りが遅くなること、事態の説明と、それから必要な物や遅れる分の政務についてもだな」
「おそらく皇女殿下は大臣方へする指示の仔細を書かれているでしょう」
ニカの補足にクロードが確かにフィグネリアなら、そう簡単に連絡が取り合えない距離だからこそ、事細かに指示を明記するだろう。
「律事、産事、外事が主だよな。後は軍の方に銃を調べることもだな。……薔薇の密輸の記録以外は具体的なことは思いつかないな」
そこは知識と経験が足らないところで、後で教えてもらうとして、クロードは次に移る。
「ザハールにも、出すよな。それから最後に大神官長様か……」
クロードは一度そこで言葉を止めて、ニカに視線を向ける。
「これは、神殿の件に政府が介入してもいいですかっていう許可をもらうためだよな。今の所、神霊様が関わっているわけでもなさそうだしな」
密偵の死亡と神霊の繋がりは見当たらないので、今は脇に置いておいていいだろう。
神殿の法と、政府の法。ここはまだ学びが浅く、政府と教会が密接に関わり合うナルフィス教の中で育った自分には馴染みが薄い。
「今回の場合は、異例ですね。本来ならば地方の神殿で問題が起これば、神殿から大神殿へと連絡が行きますが、密偵に知られるわけにはいかないのでこちらから送ることになりました。普通なら政府には知らされずに、神殿内だけでことが収まります。神殿内でことが事態の収拾ができないことがあれば、政府側に協力願いが出されることもある、と思います……」
ニカの声が段々と自信がなくなっていて、曖昧になる。
「神殿に政府が介入したのは内乱騒動の時が最初なので、他には例がない以上自分もどうなるのか分かりません」
「あれが最初なんだ。でも銃撃犯が立て籠もっていて、政府側が助けに入ったっていうだけだったな」
表向きはそれで通されたあの騒動は、神殿側に非がなかったとして終わった。大神官長自身が神霊に唆されていたため、介入の手続きもなかった。
「今、神殿の中に密偵がいて、それを捕まえますってだけならそこまで問題にはならないんだよな」
「ええ。ですが密偵が密偵を殺害しました。しかし神殿側から見れば神官同士の諍いです。それに神殿が独自に死んだ密偵を罰している可能性があり、そこにも触れる必要があることが、問題です。密偵を捕え情報を引き出すには、絶対不可侵の神殿の法に政府が踏み入らなくてはならないのです」
「神殿と政府じゃ神殿が立場が上でいいんだっけ?」
クロードがそう訊くと、ニカが微妙そうに首を捻る。
「上、というより政府が神殿に無理強いができてはいけないんです。大神殿には大神子様がいらっしゃって、神霊方が降りてくるんです。災いも恵みももたらす神霊様に誰彼となく接触できる状況だけは作ってはいけないんです」
「なんだか、神殿って神霊様を外に出さないための檻って気もするな。大きい力が大変なのはよく知ってるけど……」
クロードは自分の胸ポケットの笛に触れる。人の範疇を超えた力を前に、あれだけの騒動が起きたのだ。神殿と俗世を切り離すことは分かる。
そうなると、自分の祖先達はむしろ閉じ込められるのが嫌で逃げ回っていたのだろうかとふと思う。
「あまりそのような言い方は、人前ではされない方がよろしいですよ」
ニカが困り顔で言って、クロードはうんと曖昧な返事をした。
「……薔薇についても何かしたいな。フィグも気になってたし」
できることは少ないけれど、今はやれることを少しでもやっておこうとクロードは思った。
***
離れに戻ってフィグネリアはすぐさま帝都への書簡の準備にあたり、寝室でひとりペンを走らせる。
最後の署名を終えると乾燥させるため文書に砂をかけて、フィグネリアはまだ緊張感が残る体を硬い椅子の背に預ける。
「上手くいったとは、いいきれないか」
パーヴェルとの対面は自分としては満足のいくものではなかった。どうしても、恐れてしまう。
父と最後まで拮抗した相手。そうして、母にとっては大切な父親。
父のようになれない自分と、母への罪悪感で胸の内が捻れる。
フィグネリアは文書の砂を胸の内のわだかまりごと容器に捨てて、みっつの封筒に収めて蝋で止める。最後に印璽を押して、部屋の外に控える侍女へと渡した。
それから広間へ行くと、クロードはニカと何か話し込んでいた。
「待たせたな。侍女達への連絡はすんだか?」
「はい。終わりました。これから俺達はどうするんですか? ザハールが来るまで最低五日はかかるんですよね」
クロードが言うように、必要なものを揃えるのに一日ですんだとしてもそれだけかかる。
密輸の可能性があるものとして、アドロフ公領の薔薇の実も調べることにしていたものの、資料の仕分けの進行度合いによってはさらに時間を取るだろう。
「明日は神官方からお話しを聞きにいく。留意点は協議で話した通り、こちらが事故でないと気づいていることを知られてはならないことが大事だ。死亡した密偵の日頃の勤めや様子、とにかく徹底的に密偵の身辺について調べ上げることに専念する」
「行動から密偵の目的を明確にして、関係性から他の密偵を絞り込むためですね」
「そうだ。聴取は不正事件の時やったから大丈夫だろう。ただ、前回と違ってじっくり時間をかけてではなく、簡易でいい。相手が返答を躊躇ったら深追いせずにひけ。エリシンも、以上を心得て聴取にあたれ」
クロードの後ろで真剣に話を聞いていたニカが、御意と返事をする。
「ニカ、頑張ろうな」
「はい。お役に立てるよう、鋭意努力します。本日はこのままここで待機でしょうか」
ニカがクロードと目を見合わせて互いに意気込みを確認したところで、フィグネリアへと訊ねる。
「神殿に行く以外はしばらくそうなる。手が空いている内は、薔薇についても少し考えておくか。兄上にルスラン大神官長様へ書簡を出していただくが、神霊様が何に気を引かれるか分かったものではないからな」
イーゴルへの書簡の中には大神官長に当てたものも含んでいる。神霊についてはともかく、神殿内で起こっていることへ介入する旨は、皇帝の同意なしで勝手に送るわけにもいかない。
(私が下手をすれば、兄上の責任も問われる)
フィグネリアは思案する表情で頬杖をつく。間違うつもりはないが自分への枷だ。
(容易く私にことを任せたのもそのためだろう)
そしてわずかな判断の過ちもパーヴェルは見過ごさない。政務統括官の立ち位置から自分を外す機会だと、マラットを一歩後ろへ下がらせて突き落とす隙を狙っている。
「フィグ……」
クロードの心配そう声に、フィグネリアは頬杖を外して疲れの残る笑みを無理矢理浮かべる。
「さすがにアドロフ公のお考えは読み切れんな」
「俺はご挨拶して一言もらえただけでしたけど、すごく緊張しました。ずっと交渉してたフィグは大変ですよね……。早く俺もちゃんと対応できるようになりたいです」
挨拶をどうにかこなしたものの、全くパーヴェルに気にかけてもらえなかったクロードがうなだれる。
「順に覚えていけばいい。それにあの場で私ひとりきりより、お前が横にいてくれるだけで心強い」
「……はい。フィグを見守って、学んでいきます」
不満そうなクロードに、フィグネリアは少し寂しい思いで苦笑する。
これまで自分が与えたものをこなすだけで満足していたクロードは、彼自身で目標を見つけ出しているのか、この頃は素直に喜ばないことがたまにある。
世界を広げていっているのは嬉しいけれど、成長を全部見ていられないのは残念だ。
(私はもっとこらえないとな)
ふと昨日、クロードについていってしまったことを思い出して、フィグネリアは自戒する。
「よし、神霊様のことも気にかかるが、先に昼食にするか。私も腹が空いた」
食欲はまるでなかったが、時刻は昼食の頃合を過ぎてしまっていた。食べ盛りのふたりは、もうとっくに空腹だろう。
フィグネリアは自分がふたりとはひとつしか違わないことを、半分ほど忘れて部屋の外に控える侍女に昼食の準備を命じる。
「あ、肉はない方がいいです……」
「……自分も同じく」
神殿で見たものを思い出して少々顔色を悪くする主従に、侍女が不思議そうな顔をしながら食事の用意に向かった。
「せめて神霊様が誰に降りてきてるか分かればいいんですけどね……」
昼食を待つ間にクロードがぼやく。
「この辺り一帯にいることは間違いないだろうが、見つける目印は一切ないからな」
神霊の器となる者に性別も年齢も関係なければ、身体的に特徴が現れることもない。知り合いならともかく、見知らぬ誰かに降りてきていたら神霊だと気づけない。
「妖精には変化がないのですよね」
「それが唯一の手がかりなのにな……。後でまた妖精達と繋がってみますね」
クロードがもう決めたこととして話すのに、フィグネリアは少々不安になる。
「そう頻繁に繋がって本当に問題はないのか?」
「妖精を動かしたりすると、疲れるけど後は特になにもですね。元から感覚を共有してるところもあるから平気ですよ」
こればかりは理屈で分かるわけでもなく、クロードに任せるより他ないもののやはり不安の種は残る。
「それならいいがな」
「あ、それとですね。時間があるなら、書簡の内容教えてください。さっき、ニカとこういうときにどういう対処を取るかって、話してたんです」
「ああ。今日は他にすることもない。今後の対応含めて、いろいろ教える。……その前に、食事を先に済ませてからにするか」
どうやらすでに昼食は用意されていたらしく、侍女が早々に盆を持ってくる。
そしてその日は神霊についてすらなにひとつ進展しなかったものの、いつもの政務をしながらよりも充実した抗議をすることができた。
***
パーヴェルは自室で神殿での騒動についてと、しばらくフィグネリアを預かるという内容の皇帝宛の書簡を認めペンを置き、執務室の扉が開かれる音に振り返る。
「……お父様、今、お忙しいですか?」
扉の向こうでもじもじとしているオリガがいて目を細めた。
ここ最近はこうしてごく自然と過去が混ざり込んでくる。最初こそ驚きはしたが、もはや慣れたものだった。
「どうした」
過去の自分が声を発するのにも、違和感を覚えない。
「あの、皇太子殿下にお手紙を出したいんです。結婚までにわたくしのこと、知っていただきたくて。それに、殿下のことも知りたいんです。でも、お忙しい方だからご迷惑にならないか、お父様なら分かるかと思って……」
これは先帝と見合わせた後の記憶らしいと、パーヴェルは頭の片隅で思う。
「手紙の一通ぐらいは目を通せるだろう」
アドロフ公家からの手紙は、誰であろうと無下にできないはずだ。
「ありがとう、お父様。お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
娘は嬉しそうに笑顔を咲かせて、自室に急いで戻っていく。その姿が消えても扉の前に人影があった。
十五ほどの黒髪をひっつめた侍女は紛れもない現実だ。パーヴェルは彼女に書簡を渡す。
「帝都への急ぎのものだ。フィグネリアの書簡と共に送れ」
侍女は四角い盆に書簡を恭しく乗せて命じられたまま部屋を出て行く。彼女が去る瞬間薔薇の香りがふわりと漂った気がしたが、それは本当に一瞬のことだった。
パーヴェルはベッドの側の薔薇に目をやり、侍女が動いて風の流れができたせいかもしれないと、違和感に理由をつけて椅子に深くもたれかかる。
「同じ年か」
そうして、目を伏せて三年ぶりに合ったフィグネリアの姿を思い起こす。
娘のオリガと見合わせたとき、先帝は今のフィグネリアと同じ十八だった。元より父親似だった彼女は、ますます似てきていた。
話し方や時折見せる挑む表情は瓜ふたつだ。
だがまるきり同じではないことに、苛立ちに似たものも覚える。
パーヴェルは杖を支えに立ち上がって窓辺に立つ。そこから見下ろす庭には薔薇が咲いている。
その場所で先帝から返事を待ってため息をつき、返信が届くとまた物憂げにため息をついていたオリガの姿を思い起こす。
当たり障りのない内容しかない返事だったらしいが、娘はひと月に一通は手紙を送って、返信を大事にしまっていた。
見える全ては過去にすぎない。
「私だけが生き残っている」
パーヴェルはつぶやいて、体を休めるためにベッドへと向かった。