プロローグ~3章
プロローグ
神霊ルーロッカは雪のちらつく空を見上げ、途方に暮れていた。
「あー、また妙なものに降りて来ちまったなあ……出られねえし」
ぼやいて体を適当に動かしてみるが、どうにも窮屈だ。神界に引き戻そうにも、それもできない。
一瞬だけ波長があったこの体につい意識をとられたのがまずかった。
神界と人間界の境界が不安定なせいで、降りてきたというより落っこちたような状態で人間界に来てしまった。
「しまったなあ。おふくろ……は探してくれねえよな。というかいなくなってのにも、気づいてねえだろうな」
まるで頼りにならない母のことを考え、ルーロッカはふっと遠い目をする。
この世界にいる数多の神々を産み落とした、地母神ギリルア。
人間達は母を崇め奉っているようだが、息子としては理解できない感覚である。
「まあ、兄弟の誰かが気づくだろ」
ルーロッカはどこか寒さをしのげるところで待とうと、木陰へと移動していく。
その途中、何かが心の琴線に触れた。
「人間だ。人間が大勢いる……ああ、それもみんな嘘つきだ」
つぶやいて、ルーロッカは考える。
今、自分が人間界にいることは誰も知らない。そして近くには嘘をついている人間がたくさんいる。
これは楽しいことができそうだ。
ルーロッカは方向を変え、人の気配がひしめく方へと向かう。
周囲に降り積もる雪と同じ色の、巨大な建物。懸命に走っても、そこにはなかなかたどり着けない。
しかしルーロッカは止まらない。
どんどん濃密になっていく人間達の気配に、帰れないことはどうでもよくなってくる。
そうしてルーロッカがすっかり体の窮屈さも忘れ入り込んだのは、北の大帝国ディシベリア王宮だった。
1
ディシベリア帝国王宮内にある暖炉の火が赤々と燃える広間には、二組の軍装の夫婦が向かい合って座り、テーブルの上には本来ならあるはずの夕餉でなく書類がある。
「……本日の報告は以上です。何かご質問は?」
銀糸の髪の女性、第一皇女フィグネリアが丁重に口を開く。幾分幼なさが残る凛とした面差しの中、大人びた印象を作る彼女の伶俐な薄青の瞳は、向かいの席に座る大岩のような男へと向けられている。
他の者の軍服は黒だが、ただひとり群青の軍服を纏う彼はディシベリアの皇帝、イーゴルである。
「いろいろと分からんが、何が分からんのか分からん。とにかく、その不正事件は解決しそうなのか?」
十年上の異母兄が悩むのに、フィグネリアは手元の書面を見ながらうなずく。
ひと月前、地方の橋の補修費用に疑問点があると報告があり、今日はその進展についてが主な話題だった。
「ええ。先に述べた通り、やっていることは橋や道路の工事費を多めに申請して、余剰分を自分の懐に入れているという、それだけのことです。しかし、その数が多くかつ誰が関わっているか、どうやって費用を誤魔化しているか、がまだ分からない状況でした」
フィグネリアは政務がまるで苦手なイーゴルに、もう一度かみ砕いて説明する。
先帝である父が急逝し、兄が帝位について五年。フィグネリアの役目はこうして、兄に政務の内容をできるだけ理解してもらい、対処方法を助言することだった。
「で、二日前に密告があったから誰が関わっているかは分かるのよね」
イーゴルの隣に座る彼の妻のサンドラが、フィグネリアに確認する。
「今日になって密告の信憑性もでてきました。ですが、密告の内容は関わっているひとりのみについてで、匿名です。密告者本人に話を直接聞ければ、進展は早いとは思いますが……」
「むう。それで、解決の目処がたった、というところか?」
イーゴルが言って、フィグネリアは大きくうなずく。
「そうです。今後も、慎重に進めて行くつもりですが……少々遅れていまして」
フィグネリアが弱々しく言うと、サンドラも困った顔をする。
「また今日も喧嘩があったのよねえ」
ここ四日ほど、王宮内では官吏同士の諍いが増えている。口論ばかりで殴り合いにまで発展はしていないが、政務に支障をきたしていて、王宮内の空気も張り詰めている。
「あれから、三月ですからね。忙しいと思う暇ができてきているからでしょう」
今より三月前、ディシベリア帝国は内乱寸前の騒動にあった。
皇帝に次ぐ権威を持つ九公家と相対する反九公家派は、そのふたつの均衡を保っていた先帝の崩御より対立を深めていた。
先帝に代わりふたつの勢力の均衡を取ろうとしていた、平民出身の母を持つフィグネリアは幾度となく九公家派に命を狙われていたさなか、公家中核のアドロフ公の孫であるイーゴルが銃撃された。
フィグネリアを帝位につけんとする反九公家派による凶行と思われたが、敵対国であるロートムが画策したこととと分かって内乱は起こらずにすんだ。その事後処理でいまだに王宮内は慌ただしい。
とはいえ、裏に敵対国がいたというのは表向きのことで実際は大きく違うのだが。
フィグネリアは隣に座る、銅色の髪と琥珀色の瞳のどこかぼんやりした青年を見る。
十八であるフィグネリアより年上に見えるが、実際はひとつ年下である彼は、半年前に兄から誕生祝いとして贈られた婿、クロードである。
「軍の方はそういうのないんですか?」
クロードが現在軍をとりしきっている義兄夫婦に小首を傾げてみせる。
「些細な喧嘩はあるが、軍務に支障をきたしているわけではないな」
「軍の方は鍛錬が仕事の半分だから、喧嘩はそのまま鍛錬の一環ににもちこんじゃうからね」
それで上手く纏まっているのはふたりがきちんと、軍の統率ができているからだろう。
筋肉至上主義というディシベリア建国期の風潮が、最も色濃く残る軍では強いということは敬服の対象になる。
武人としての能力が突出しているイーゴルと、男達に引けを取らない強さのサンドラは、強さと裏表のない人柄で軍では慕われている。
問題は自分だとフィグネリアは表情を沈ませる。
「政務に支障をきたさないようにはしたいのですが、力不足で申し訳ありません」
九公家派と反九公家派、そのふたつを取り纏めることは上手くはいっていない。
「それは気にするな。俺が政務をとりしきっているよりずっとできている」
「そうそう。だって、朝議で揉めたらイーゴルは持ち帰って検討する、で後でフィグに手伝ってもらってたけど、今はフィグがその場で全部、解決できてきてるしね」
三月前の騒動の結果、これまで表には出ずに影でひっそりとイーゴルを支えてきていたフィグネリアは、兄に代わりに朝議に出て政務を統括することになった。
「しかし、表に出た以上はもっと統率をとれねばと思うのです」
「あたしらが全然頼りにならなくて任せちゃってるんだから、そこまで思い詰めなくていいわよ。手伝えることがあるといいんだけど……ないのよねえ」
考え込むサンドラが夫と顔を見合わせる。
「そこは、俺がなんとか頑張らなきゃなんないとこですよね。まだまだですけど」
クロードがため息混じりに言って、フィグネリアは彼に視線を向ける。
「政務はお前の手伝いでずいぶん楽になってはいるぞ」
クロードは婿入り当初は読み書きができる程度だったが、わずか半年で政務を手伝えるまでになっている。
なによりも子供の頃からずっと、兄達の前では常に完璧で何の問題もないと見せかけ、暗殺されかけていたことすら隠していた自分が、こうして兄達と話せるようになったのは彼のおかげだった。
「役に立ってるなら嬉しいです。……ところで、そろそろ夕食にしませんか? おなかすきました」
クロードが面はゆそうに笑って、他の三人が表情を緩める。
「よしよし。育ち盛りに腹を空かさせてはいかんな」
辺りに響く声でイーゴルが女官らを呼び、テーブルの上に夕餉を運ばせる。
前はひとりで食事をすませることが多かったが、この頃は政務の報告の後に一緒にとることが増えた。
「俺、育ち盛りなんですか?」
子供ではないが、かといって同年代に比べては大人になりきっていない、十七のクロードが苦笑する。
「いろいろと育ち盛りだろう。背も伸びているしな」
フィグネリアは結婚当初より目線を合わせにくくなった夫に微笑みかける。
知識、体力、腕力とないものづくしだった彼は日々成長を見せている。
それを見守る毎日が今、何よりも愛おしく幸せだった。
***
翌日の夕刻、ディシベリア帝国の大広間では朝議が行われていた。
広い円卓に七人の大臣が集まり、重要案件がないため空の玉座に最も近い席にはフィグネリアが座っている。
「今日は七件か。また増えたな」
大臣達の報告を聞いたフィグネリアは重々しく零す。
王宮内では官吏同士の諍いは増え続けている。いくら九公家派と反九公家派がいがみ合っているとはいえ、この数は異様だ。
「口論の発端も、揉め事を起こした人間も全く関係ないのか。ただ設事、吏事に偏っているな」
フィグネリアは公共工事を司る設事大臣と人事を司る吏事大臣に目を向ける。
「私に責任があるというのですか。下の者の口論など、逐一気をつけられるものではありませんぞ」
巨漢の設事大臣が不愉快そうに眉根を寄せた。彼にフィグネリアが声を返す前に、細身の吏事大臣がため息をつく。
「責任放棄ですか。まったく、九公家の血族の方はご自分の保身しか考えていない」
多分に嫌味を含む吏事大臣の言葉に、設事大臣が怒り顔を赤らめる。
「責任を放棄したわけではない! そもそも卑屈になって些細なことでつっかかってくる、そちら側の人間が」
「今日の件は、そちらが!」
吏事大臣と設事大臣が怒鳴り合いを始めて、またかと一同は辟易する。
九公家の血を汲む吏事大臣と、反九公家派の設事大臣。元よりそりあわないこのふたりは、立場も相まって議場で口論を始めるのは度々だ。
「双方控えよ!!」
フィグネリアがよく通る声で窘めると、ふたりは口を噤んだ。彼女の声に気圧されたのが半分、十八の少女に怒鳴りつけられて冷静になったのがもう半分、といった様子だ。
吏事大臣のは方は不服そうな表情を隠しもしていない。
自分とてこんな父親ほどの歳の男を叱りつけるのは、不本意だ。そもそもこの国の男共は血の気が多すぎるのだ。
フィグネリアは心の内で愚痴を吐きつつ、各位にも注意喚起を促す。
その後、政務の遅れの調整について話し合い朝議も終わる頃だった。
「ところで皇女殿下、以前から気になっていたのですが、御夫君が書記官の真似事などしているのですか?」
吏事大臣がフィグネリアの隣の席のクロードに目をやって言う。
大臣達の視線が集まり、一言も発言せずに朝議の記録をとっていたクロードが戸惑いつつも愛想笑いを浮かべる。人懐っこそうな笑顔は、緊張感がまるでなく場違いなものだ。
「真似事ではなく、私の書記官だ。何か、問題があるだろうか」
「……書記官ならば、あちらに置くべきではありませんか」
吏事大臣が各大臣付きの書記官達がいる長卓を顎で示す。
「それは、不敬というものです」
「クロード殿下は皇族であらせられるのですぞ」
設事大臣が真っ先に反論し、同じ反九公家派である外交を司る外事大臣もこれに同意した。
「だが、方々もハンライダの公子が皇女殿下の婿になるなど、あまりにも分不相応だと漏らしていたではないか」
そこへ九公家派である財務を司る蔵事大臣が加わり、設事大臣と外事大臣が口ごもる。
揉め事の発端になっているクロードはというと、彼らを見ながらおろおろと妻に視線でどうしようと救いを求めている。
「別にあちらへ置いてもかまわんが、ここからでないと見えないものもあるので少々困る」
夫を一瞥した後、フィグネリアは大臣達の顔をぐるりと見渡し、含みを持った言葉を告げる。
大臣らは胡乱げな眼差しをクロードに向けて、それ以上は何も言わなかった。
「では、朝議は以上とする。各位、政務の遅れを取り戻すことに尽力するように」
フィグネリアが席を立ち、朝議は微妙な空気を残して終えた。
***
「……なんていうか、あの人達恐いです」
朝議の後、馬車が二台は通れそうな広い廊下を歩みながら、クロードがしょぼくれていた。
「気にするな。ただの意趣返しだ。私に窘められたことが気にくわなくて、私情絡みで怒らせてこけにしてみたかっただけだろう」
いちいち腹をたてて感情的になり、こんな小娘に政務の統括など無理だとせせら笑われる気はない。
「大人げないですよね……でも、俺、九公家派の人達どころか、反九公家派の人達にまで不満持たせてるんだな」
さらに落ち込む夫にフィグネリアはやれやれとため息をつく。
「それは仕方ない。大陸でロートム王国と共に一、二を争うディシベリア帝国唯一の後継者の婿が、大陸随一の弱小国の第六公子など、普通はありえん」
あげくに敵対国であるロートム寄りの国の公子だ。周囲からすれば胡散臭い以外のなにものでもないだろう。
「うん。ないですね。ないけど改めて言葉にされると刺さります……ああ、こら、お前らちゃんと笛吹くから、あとちょっとだけ我慢しろって」
朝議の記録を確認していたクロードを取り巻くように風が起こり、彼の手元から書類を攫っていく。
「……表に出ている間は妖精達はどうにかしてもらえたらいいのだがな」
フィグネリアは周りに人がいないことを確認して、ひらひらと飛んでいく書類を追い駆けるクロードの後をついていく。
万物には妖精が宿っている。彼らを従え動かすのは、地母神ギリルアを始めとして、彼女が産み落としたとされる数多の神霊達である。
だがクロードは人間でありながら笛の音で妖精達を惹きつけ、従えることができる妖精王と呼ばれる者だ。
彼がこの国に婿として呼ばれたのは、この力のためだった。クロードを欲する音楽を司る神霊ラウキルが裏で糸を引いいていたのだ。さすがにそれは彼の力含めて表に出すわけにもいかず、家族以外には隠してある。
「あ、すいません。ありがとうございます」
クロードが朝議の行われた大広間の前で立ち止まり、誰かに床に落ちた書類を拾ってもらっていた。
見覚えのある顔にフィグネリアは歩調を早め、クロードの側に寄ろうとすると、彼と話す人物はすぐにその場に跪いた。
「……イサエフ二等官だな。ここに、何の用だ?」
フィグネリアが傅いている金糸の髪の青年の家名を口にすると、クロードが驚いて目を瞬かせる。
「律事大臣に急ぎの用件で参りました」
律事は法を司り不正の調査も担当している。青年、ザハール・イサエフは今回の不正調査の指揮をとっている官吏だ。
「不正の件についてか。立て、礼はかまわん」
フィグネリアが許すと、ザハールが優美な面を上げ、ゆるりと立ち上がった。背丈は緊張しているクロードより頭ひとつぶん近く高い。体躯は細身ではあるが、筋骨隆々たるこの国の平均的な男達に引けをとらない威圧感がある。
彼の深い藍色の瞳は面倒くさげな意思を隠しもしておらず、先ほどまでの態度は形ばかりだと分かる。
「密告者が判明しそうです。他にいくつかありますが、皇女殿下にお伝えするにはまだ確証もないこともあるので、後ほどまとめてご報告いたします。それと、設事でまた口論が起きた模様です」
「……またか。このままでは不正事件の件が遅れるな」
今回の不正には設事の官吏が関わっていることは間違いなく、この口論騒動には参らされる。
「私どもは、迅速に対応しますのでご心配なく。では、失礼いたします」
大広間から律事大臣が出てきてザハールがそちらへ向かった。
「あの人って、九公家のひとつのガルシン公の甥、ですよね。びっくりした」
強張っていた肩の力を抜いて、クロードが律事大臣と近くの部屋へと入って行くザハールを目で追う。
「ああ。イサエフ侯爵家はガルシン公家の血縁の中で要の存在だ。いずれあの男が当主となる。よく顔を覚えておけ。何か話していたが、問題なかったか」
皇族の居住区へと戻りながらフィグネリアはクロードに訊ねる。書類が風もなくひらひら舞っている所を見られたのでなければいいが。
「……俺がちょっと手を滑らせたって、思われたみたいです。えっと、それとまた本当に書記官の真似をしてるんだなって言われました」
気弱な声での返答にフィグネリアは眉根を寄せて息をひとつ吸い込む。
「まったく、誰も彼も馬鹿にして……」
そして衛兵が厳重に護る扉を抜けて皇族の居住区に入ると、フィグネリアはやっとため込んでいた怒りを吐き出した。
「本当にすいません」
びくりと肩を跳ね上げたクロードに、さらにフィグネリアは眉間の皺を深くする。
「お前に非はない。謝るな。書記官の勤めをきちんと果たしているのは自分でも分かっているだろう」
クロードは朝議を記録しながら政務の流れも覚えているし、各大臣の様子も見て議題に対する言葉以外の反応も記録している。
これだけやっていて真似事と言われる筋合いはない。
「いかん、余計に腹が立ってきた」
この半年の自分の労力と、クロードの努力を考えると苛立ちは増すばかりだ。
「フィグが分かってくれてるなら俺はそれでいいですよ」
苦笑するクロードにフィグネリアはむっとした顔をする。
「お前が気にしなくても、私が嫌なんだ。それに、分不相応だの、余計なことばかり言う。客観的に見ればそうかもしれんが、私はまったく不満はないのだからお前は堂々としていれば……なんだ?」
鬱憤をまくし立てていたフィグネリアは急に抱き寄せられて訝しげにする。
「いや、すごく可愛いと思ってつい」
人が怒っているのに、呑気なことを。
そう思いながらも抱きしめられていると怒りは和らいで、そのかわり苛立ちによく似た寂しさが胸の中で主張を始める。
「……お前はもう少し怒ればいいんだ。吏事大臣ほど血の気が多くなれとは言わんが、なんでも受け流しすぎる」
表に出てたくさんの人間の声が耳に直接届くようになってから、成長したと思ったクロードがここへ来たばかりの頃の卑屈さをまだ抱えていることに気づいたのは最近だ。
誰よりも側にいてその努力を認めている自分の言葉が、彼に自信を持たすまでに至ってないと考えると寂しい。
「ううん、自分のこといろいろ言われて腹が立つっていう感覚、よく覚えてないんですよね。ここ来るまでは落ち込むっていうこともほとんどなかったし。馬鹿にされるのは慣れちゃってますからね。それ考えるとちょっとは進歩してる気はします」
「慣れるな、そんなもの」
「じゃあ、馬鹿にされないように頑張りますよ……はい、はい。吹くから邪魔するな。この頃なんか落ち着きないなあ」
二人の間に風が滑り込んできて、クロードが胸ポケットから三つに分解された銀の横笛を取り出し、ぼやきながら慣れた仕草で組み立てる。
妖精王といえどクロードの言うことを妖精達はあまりきかない。
「もう少し、何か分かればいいのだがな」
自力でせめて妖精王について調べてもその存在自体は隠されていて記録はなく、神の楽士というもうひとつの呼び名でも、有益な記録は見つかっていない。
「何か分かるのは神殿かもしれないですけど……」
クロードが気が進まない顔でつぶやく。
神殿には神霊を身に降ろす大神子がいる、神と人を繋ぐ場だ。しかし大神子に降りてきたラウキルに前大神官長は惑わされ、内乱を引き起こそうとした。
「神霊様も神官様も安易に頼れんな」
しかしフィグネリアのそんな悩みも虚しく、大神殿から明朝に来てほしいと連絡が入ってきた。
必ずクロードも同行するようにとの念押しつきは、嫌な予感しかしなかった。
***
赤煉瓦で築き上げられた帝都の街並みは、すっかり雪に埋もれて真っ白になっている。家周りの除雪にあたる兵士達の軍服が白いのはもちろんのこと、彼らが吐く息、汗まで湯気となって白い。
そしてその中で一際目立つのは、七つの尖塔を持つ王冠に似た形をした大神殿である。
もはや凶器とも言えるほど凍てついた空気に、言葉すら出ないでいるクロードを連れてフィグネリアは大神殿へと赴いた。
「……やっとついた。寒いけど痛くない」
中へ入るとクロードが噛み合わない歯でようやく口を開いた。温暖な国で育った彼にとって、ディシベリアの冬は厳しすぎるらしい。
朝も早く少々きついかもしれないがもう慣れただろうと、高をくくって馬で来てしまったが、思った以上に堪えているのを見ると無茶だったらしい。
「帰りは馬車にするか?」
「馬で、大丈夫です。大丈夫になります」
「苦手なものを克服するその気構えはいいが、風邪をひいたら元も子もないからな。どうしても無理なら馬車を呼ぶ」
「そうします……」
クロードが説得された所で神官が現れて、右手側の通路から奥へ行くように促される。
「なんだか初めてここに来た時のこと、思い出しますね」
早朝でまだ人のいない神殿内を歩きながら、クロードが複雑そうに言う。
「そうだな……あれからまだ四月と言うべきか、もうと言うべきか」
フィグネリアは誰もいない前方に、漆黒の長髪の男の幻影を見る。
神霊ラウキルに唆され、内に巣くっていた妄執を実現せんとした前大神官長ロジオン。クロードを伴って来た時は、彼が父である先帝を毒殺したことなど夢にも思っていなかった。
あの男はまだこの大神殿のどこかにいる。地下牢があるらしいので、もしかしたら、自分の足の下かもしれない。
産まれて十八年、無心に信じていた清らかなこの場が、ひどく濁ったものに思えてくる。
「新しい大神官長様ですね。えっと、ルスラン大神官長様」
湾曲していて見通しの悪い回廊の奥に人影が見える頃、クロードが身を固くする。最初から本能的にロジオンに怯えていた彼の様子に、フィグネリアは少し緊張する。
新たな大神官長であるルスランとは一度しか直接会っていない。神殿内に潜んでいたロートムの密偵の処分や、神官の受け入れ方についての見直しについて、仔細に報告してもらった書簡を見る限りは、まっとうそうではあるが見せかけでないといい。
「急にお呼び立てして申し訳ありません」
大神官長のための塔の大広間の入り口に立つ、齢六十のルスランが深みのある穏やかな声で言う。皺の刻まれた表情は柔和だが、瞳には厳格さも持ち合せている。
クロードが彼を見てほっとした顔を見せて、フィグネリアも肩の力を抜いて彼の前で膝をつく。
「いいえ、急ぎの用件とはなんでしょうか」
ルスランはフィグネリアの問いかけに、一拍置いてから話し始める。
「神霊アトゥス様がおふたりに会いたいと仰せになりました」
「アトゥス様って、祭事の時に最初に降りてきた西風の女神様ですよね」
クロードがすっかり気の緩めて胸をなで下ろした。
フィグネリアとしては、冗談とはいえ夫を連れ去ろうとした女神で少々複雑だが、話がまともに通じそうな神霊ではある。
「我々としては、祭事以外で神霊方と俗世の方を会わせるのは極力避けたかったのですが、どうしてもと言ってお聞きにならないので」
疲れた顔でルスランがため息をついた。
「では、私達は上へ行けばよろしいのでしょうか」
フィグネリアは塔の最上階へ続く螺旋階段の入り口に目をやる。
「ええ。しかしその前に少しお話ししたいことがございますので、あちらにおかけ下さい」
ルスランに促されて、ふたりは螺旋階段の反対側にあるソファーへと座る。
「神霊方は悪意というものは持ち合わせてはおられません。ただ、ひたすらに自分の欲求を満たすことを考えておいでなのです。人間に恵みを与えるときも、災厄をもたらすときも、悪意はもちろん、善意もなきものとよく心得ておいて下さい」
「……先のロジオン大神官長とはずいぶんお考えが違うのですね」
フィグネリアは、神霊こそが正しく清きものと信じていたロジオンを思い出す。
「あの子もそれをよく知っているはずでした。赤子の頃よりここで育ち、先々代の大神官長の元で学びなぜあんなことをと、今でも信じられずにいます」
憔悴した顔でルスランがうつむく。
「それを見抜けず、ロジオンを大神官長として認めてしまった私もまた、大神官長としては相応しくはありません。ですがいつまでも神霊方のお相手をする者がいないないというわけもなりませんので、致し方ありません……」
ルスランがさらに声を沈ませた時、螺旋階段から神子が下りてくる。
「あの、アトゥス様がまだかと仰せになっています」
困り果てた顔でそう言う神子に、ルスランが嘆息した。
「すぐに行くと、お伝えしなさい……皇女殿下、神霊様と相対する時はどうか、敬う心だけでなく、人との手には負えぬ力を恐れる心をお忘れなきようお願いします。そうでなければすぐに呑まれてしまいます。特に、貴女様は俗世に多大なる影響を及ぼすお立場。どうかお気をつけ下さい」
深く頭を垂れたルスランに見送られてふたりは上階へ向かった。
***
「ようやっと来たか。待ちくたびれたぞ」
最上階にたどりつくと、艶のある女の声が響いた。
薄暗い部屋の奥、普段が紗が降りて隔てられている場所には、白い髪のと赤い瞳の、十歳程度の少女がいた。神霊を唯一下ろせる、大神子だ。
容姿こそは幼いが、毛皮の敷布の上に座り、傍らの肘掛けにしな垂れかかっている姿からは色香が漂っている。
「お待たせして申し訳ありません」
フィグネリアが膝をついて謝罪すると、大神子に降りてきているアトゥスが小さな手をひらひらと振る。
「相も変わらず、硬い娘よのう。ほれ、ふたりとももっとこちらまで来やれ。こう薄暗くては、クロードの可愛らしい顔がよく見えぬではないか」
声にからかいを含んでいるのは分かっているが、フィグネリアは念のため警戒しながら前に進んで、改めて跪く。
「……私の一歩、後ろにいろ」
クロードにそっと小声で告げた言葉は聞こえてしまったたらしく、アトゥスが細い肩を揺らし笑い声をあげる。
「そう心配するでない。妾はラウキルと違って人のものはとらぬ。しかし、睦まじくやっておっておるようで何よりじゃ。クロード、よい妻をもろうたのう」
「はい。おかげさまで幸せいっぱいです!」
「そうか、そうか。それは実によきことじゃ」
クロードが力強く即答して、アトゥスが微笑んだ。
(もう少し真剣味を帯びてくれないだろうか)
ふたりの様子を見ていると、ひとりで真面目に対応しているのが虚しくなってくる。
「それでアトゥス様、ご用件とはいったい」
それでも態度を崩さずに問うと、アトゥスがほう、と幼い外見には似合わない物憂げなため息をもらす。
「それがのう、ルーロッカ兄様の居所が分からんのじゃ」
その名前を聞いてフィグネリアはクロードと顔を見合わせた。
「第二の真実を司る、男神様ですよね」
この頃神霊達についても学んでいるクロードがフィグネリアに確認する。
「ああ。第二の真実は悪意と失意を生む真実。ルーロッカ様は特に他人に対する悪意ある本心を暴いて、騒動が起きるのを眺めるのを楽しむ方だ」
言いながら心当たりがおおいにあるフィグネリアは、表情を渋くする。
「アトゥス様、今、王宮でいっぱい喧嘩が起こっちゃってるんですけど……もしかして近くに降りてきてるってことないですよね」
往生際悪くクロードが可能性を否定するが、アトゥスは非情にも躊躇いなくうなずいた。
本来ならば神霊は大神子だけにしか降りては来られないが、現在クロードの存在によって神界と人間界の境界が歪んでいてそうとも限らなくなっているらしい。
ただの口論にしては数が多く変に偏っているとは思ったが、まさか神霊絡みとは面倒なことになった。
「そなたの近くにいる所までは掴めたのだが、どうにも合わない器にでも入っておるのか、神界からは接触できぬ。それに妖精達がそなたの周りでは騒がしゅうて、兄様が妖精を動かしているのにも、わかりにくて苦労したわ」
大粒の紅玉の瞳に見つめられて、クロードがそっと目をそらす。
「すいません、あいつらあんまり言うこと聞いてくれなくて……」
「そこを何とかしてもらわねばのう。ルーロッカ兄様を見つけて連れてきてもらわねばならんのじゃから」
「見つけて連れてくるって……俺にそんなこと出来るとは思わないんですけど」
クロードがまごまごとしている横で、フィグネリアは冷静に頭の中のひっかかりを整理する。
「いくつか、質問してもよろしいでしょうか」
「よい。そなたも、面倒な娘よのう。いちいち断りを入れる必要はないのじゃぞ」
アトゥスの柔らかい笑顔と甘い声の裏には傲慢さが覗いている。
フィグネリアはルスランの忠告を思い起こして、話している内にいつの間にか緩んでいた気を引き締める。
「神霊方の器となる条件を教えていただけますか。合わない、と仰りましたが、一度は入れたのなら瞬間的にでも条件に適った、ということなのでしょうか。それが分かれば早くお探しできるかと」
「条件、のう……。ううむ、波長が合うのじゃ。誰かが後ろにいる気がして、振り返ると目が合う、という感覚かのう。じゃが、それだけで降りることはない。普段は気配を感じても間に何枚も紗があって目が合う、ということがないのじゃ」
そこで一度区切って、アトゥスがクロードに視線を向ける。
「今は妖精王によってその紗が一枚程度しかない状態じゃ。その紗は脆く、意識を集中すれば取り除ける」
「その波長が合う器の身体的特徴、性別、年齢、そういった目安となる条件は?」
「ない」
簡潔過ぎる返答にフィグネリアは目眩を覚える。
ということは、王宮内にいる人間ならば誰でも器になり得るのだ。そして国内の誰かにある日突然神霊が降りてくる、ということも十二分に可能性がある。
「そんな顔をするない。人間という器には、あらゆる感情や意思で並々と満たされておる。そう簡単には入り込めぬわ。この器のように感情や意思に対して器が大きい者、或いは何かの理由によって器の中が減っている者にしか降りられん」
つまるところ、波長が合う条件はないが、実際に入るとなると制限があるらしい。そこから絞れるかというと無理だ。
「外から見ただけじゃまったく、分かりませんね」
クロードが残念そうにつぶやいた。
「では、見つけるにはどうすればよろしいのでしょうか」
「それは妖精らの動きをたどるしかあるまい。ルーロッカ兄様の気配が全く掴めん。器が合ってないせいか、神界との繋がりが切れてしまっていてのう、母様でも見つけられんのじゃ」
地母神ですら見つけられないとなると、また厄介な話である。
「あの、合わない器ってなんですか? 入る瞬間までは合ってるんですよね」
フィグネリアが疑問に思ったことを、先にクロードが訊ねる。
「器の中が減っている者の方、じゃな。それがまた満ちてくると器の方の意識とせめぎ合いになる。意識の一部が人間と混じってしまって、神界との繋がりが途切れている、のだと思うのじゃが……」
ふと、アトゥスの言葉が曖昧になって、フィグネリアとクロードは怪訝な顔で彼女を見る。
「我らが人間の方に取り込まれることはありえんのじゃ。普通に入っていても、いくらか器の中身は傷つく。そうならぬために、母様が出来るだけ大きな器を選び、さらに交わらないために器の中に仕切りを作る。母様にも分からぬほど、というのはおかしいのう」
そう言った後にアトゥスが頬杖をついて考え込んでしまう。薄暗い部屋の中での長い沈黙は不安しか育っていかない。
「……見つけてみれば分かるじゃろう。そういうことで頼んだぞ、クロード」
そして彼女は考えるのを諦めて全部投げてきた。
「ちょっと、待って下さい。せめてもうちょっと手がかりとか! そうだ。妖精が使えるだいたいの範囲」
それよりと話題を変えようとするアトゥスを、クロードが慌てて呼び止める。
「そう広くないはずじゃ。器に入っているときは妾とて、この街一帯の妖精らしか動かせぬ。今はこの器がまだ馴染まぬのでこの神殿内とその周辺といったところか。合わぬ器なら尚更じゃ」
そうなると多少は絞れそうな気もするが、それでも容易くは見つからないだろう。
「見つけるまではよいのですが、大人しくここまでご同行願えるかどうか……。お力添えはしていただけないのでしょうか」
見つけたからといってそう簡単についてきてもらえるとは思えない。妖精を使って暴れられた困る。
「できぬから頼んでおるのじゃ。クロードがさっさと妖精の支配権を取ってしまえばよいじゃろう。ただし、ラウキルの時のようにあまり無理に内に取り込みすぎるでないぞ」
「内に取り込むって、なんですか?」
クロードが目を瞬かせて、フィグネリアも同じ顔をする。
「何も知らぬのか」
アトゥスが不意に真摯な声を響かせて、クロードがびくりとする。
「う、あ、はい。自分の力についてはまったく」
「血族の誰かが教えているはずじゃが」
「……唯一俺の力を知っていた母は七歳の時に亡くなってしまって、ほとんど何も」
クロードが寂しげに言うと、他には分かる血族はいないのかとアトゥスが問う。それに彼は首を横に振った。
「そこまで血が絶えておったか。どうりで不安定なわけじゃ。しかし、守がおらずにこれならまだましか……」
不穏な事をつぶやき、アトゥスが瞳を細める。
「我々は妖精らにただ命じるだけじゃ。しかしそなたは違う。笛の音でもって妖精らを引き寄せて従属させ、自らの内側に取り込んでしまう。そして内側と外側の妖精を繋いで使役するみたいじゃのう。何をどうやって制御しているかは我々には分からぬが」
「自らの内側……?」
クロードがきょとんと鸚鵡返しして自分の体を見下ろす。
「詳しいことは我々にも分からん。ただそなたの感情に大いに引きずられるということは、よく覚えておくのじゃぞ。……それにしても、母様は何も忠告せなんだか?」
アトゥスが首を傾げるのに夫婦は考えて見る。
思い返せばさらっとした調子で同じことを言われた覚えがある。あまりの軽さに重要なことであるなどと全く思わなかった。
「なんか、俺が心穏やかであればとかは言ってましたよね」
「ああ。仰っていたな。そうすればあそこまでの騒動は起きないと……」
夫婦の会話にアトゥスが渋面を作る。
「母様は何でもいい加減じゃからのう。まさかここまで何もしらぬとは思うてなかったのやもしれんが。ルーロッカ兄様のこととて最初は、遊び疲れたら帰ってくるんじゃないかしら、などと申しておったし」
その様子はまざまざと声と表情まで想像できて、フィグネリアは信仰心とはなんだろうと真剣に悩みそうになる。
「ギリルア様、なんで気が変わったんですか?」
「自分で見つけられない上に、そなたの近くにいて事態のまずさ気づいたからじゃろう。それでもまだ面倒だの、もうちょっと様子見てからでもなどと往生際悪くしておったのう。結局、自分で説明するのは面倒くさい、この器は動かしづらくて嫌だと仰って妾が来たわけじゃ」
フィグネリアはそのあたりのことは、悩むより聞かなかったことにすると決めた。
「でも、アトゥス様でよかったです。ギリルア様だと、たぶんもっと見つけにくくなってたと思います。ね、フィグ」
「……そうだな」
ギリルアだと本当に訳の分からないまま、ルーロッカを探す羽目になっていたに違いない。
「なんじゃ、可愛らしいことを言うてくれるのう。ほんにそなたらは愛い」
上機嫌になったアトゥスは立ち上がり、フィグネリアとクロードの側まで来る。そして彼女はクロードの顎を指で持ち上げ、蠱惑的に微笑む。
その朱唇と細められた瞳には同性であっても心奪われそうな程に妖しく、美しい。
「アトゥス様!」
かといってそれが夫に向けられているとなると、見蕩れるているわけにもいかず、フィグネリアは腰を浮かした。
「だから人のものはとらぬよ。……そなたに妖精達はすでに従っている。こうしておるとそなたの内に多くの妖精の力を感じる。外の妖精らもやたらまとわりついておるし、本当に加減というものを知らぬのだな。困ったものよのう」
アトゥスがクロードから指を放して笑顔を消す。
「笛を吹かねば、取り込んだ妖精の力が安定を失い神界にまで影響を及ぼす。しかし吹くとまた新たに妖精を取り込んでしまう。笛の音が聞けると思うたのに、これでは下手に吹かせられぬではないか」
悩んでいる点はそこか。
思わず口にしかけた言葉をフィグネリアはかろうじて喉元で止める。
「それを母が知っていたとして、なんで俺に笛を吹かせていたんですか?」
「そうだな。笛を吹かねば、妖精を取り込むことはないはずだな」
そんな危うい力をなぜクロードの一族は引き継ぎ続けたのだろうか。
「それはできん。初代の妖精王の魂が血族の中で引き継がれておる。産まれたときにはすでに内に妖精がいる。じゃから、妖精王の魂を引き継いだ金の瞳の子は新しく取り込みすぎぬように気をつけながら、引き継いだ妖精を安定させなければならぬ」
クロードがそれを聞いて、何かに気づいた顔をした。
「魂の本質が抱える力……。ラウキル様が言ってたのって、このことだったのか。あ、母上にも妖精に構い過ぎちゃ駄目って言われてた。けど亡くなってからは、ずっと笛吹いてたり、妖精と話してたり……」
クロードが過去を振り返り徐々に顔色をなくしていく。
「ど、どうしましょう」
そして、彼はアトゥスに情けない声で救いを求めた。
「それを妾に聞かれても困るのう。妖精の扱い方も、安定のさせ方も血族だけしか知らぬのじゃ。まあ、守役が新たに見つかっただけでもましと思うがよい」
アトゥスの目線が自分に向いてフィグネリアは戸惑う。
「守役、ですか」
「そう難しい事ではない。先にも言うた通り、妖精王の感情に妖精達は引きずられる。特に怒りや悲しみは妖精を暴走させやすい。それを宥めて穏やかな状態を保つには、どうしても守役がいる。最初は母親や兄弟、血族が務めやがては伴侶が引き継ぐ役目じゃ。仲睦まじゅうしておれば問題ないじゃろう」
分かりやすいようで、ずいぶん大雑把である。
「そこは大丈夫ですよね。俺はフィグが一緒にいるだけで毎日幸せですし」
「……そうか」
クロードがにこにこと言うのにフィグネリアは無感情に答える。
「あれ、駄目ですか?」
「いや、こういうことは深く考えることでもないのかと思ってな。言われずとも、お前がひとりで何か抱え込むことをさせるつもりもない」
「それは、俺も同じですけど、むしろフィグの方がいっぱい抱え込みがちだから気をつけて下さいね。フィグが辛いと俺も嫌ですから」
「う……そこは、気をつける」
確かに、感情の起伏が分かりやすいクロードと違って、自分は隠してしまいがちだ。
「ほんに仲睦まじいのう。よいことじゃ」
夫婦のやりとりにアトゥスが感心した様子で首を縦に振った。
「さて、用も済んで帰らねばならんが……ちょっとだけ、笛を聞かせてもらえぬかのう。多少は安定のために必要じゃからな」
それから彼女はこれまでの表情と打って変わって、体に見合った子供っぽい顔で笛をねだってくる。
「俺はいいんですけど、本当に大丈夫なんですか?」
「一曲だけじゃ。それぐらいなら問題なかろう。こんな面倒な役目を引き受けたのはなんのためだと思うておるのじゃ」
行方知れずの兄を探しに来たのではないのだろうか。
フィグネリアはそう思い、大丈夫と無責任に言いながらクロードに笛を吹けとせっつくアトゥスを見る。
ひたすらに自分の欲求を満たすことだけを考える。
ルスランの言う通り、それだけのことなのかもしれない。しかしその対象がクロードに向かうことは、やはり不穏だ。
フィグネリアの不安を他所に、クロードが胸ポケットから銀の横笛を取り出し口をつける。
室内に陽に輝く細氷のようにきらきらとした音色が響き渡り、それが溶けて消えてしまうと、アトゥスはどこか名残惜しげにしながらも、神界へと帰って行った。
***
神殿を出る頃には陽も昇りきって心なしか暖かくなっていたが、ゆっくりふたりで話したいこともあって、車輪はなくそりになっている冬用の馬車を呼んだ。
中には膝掛けや温石もあるので暖がとれていい。しかしそれでもまだ寒いので、クロードはフィグネリアと肩を寄せ合う。
「とにかくやらなきゃいけないことはルーロッカ様ですね。王宮の口論騒動を早く治めるために頑張ります」
自分にできることがあるというのはいいものだ。やりきれる自信はあまりないが。
「かといって、万事解決というわけにもいかんだろうな。ルーロッカ様が明かすのは真実だ。しばらくは、険悪な状態が続くのだろうな」
王宮内での口論は主に反九公家派と九公家派。それぞれが内に抱える不平や不満に、ルーロッカが惹きつけられているのだ。
よく考えてみれば、口論は起こらなくても根本はそのままだ。
「ルーロッカ様って俺の国だと嘘を吐く悪魔なんですよね。人の声を真似して嘘の悪口を言って、それを聞いた人間と声を真似られた人間が喧嘩をするのを愉しむんです」
世界はひとりの神の掌の上に乗せられているものとなっている。そして妖精達は災厄をもたらすものとされ、この国で神霊と呼ぶものは妖精達を諫め払う使徒と、妖精達を操り人に害をなす悪魔のふたつに分けられる。
この国に伝わる神話と似たところもあるが、人間側にも問題があるということはことごとく排除されている。
「お前は国政にまつわることは全く学んでいないのに、それだけはよく知っているな」
「そういう本しか身近になかったですからね。母が読み聞かせてくれてた本には、必ず使徒様か悪魔が出てくるんです」
「母君が妖精王のことを知っていたのなら、何か意味があったのかもしれんな」
思い返せばふた部屋丸々その類の本で埋め尽くされていたのは、異様だったのかもしれない。小さな王宮の中の、さらに小さな塔が世界の全てだった自分には、普通の景色だったので何とも言えない。
「神霊様に聞くより母と何を話したか思い出した方が、俺の力の手がかりはありそうですね」
とはいえ七歳の時に亡くなっているので、記憶はばらばらになったページ数の書かれていない本のように散乱していて、順番はもちろん何が抜けているかも分からない。
クロードは何気なく自分の掌に見つめる。
「……自分の中に妖精の力がって言われてもなあ」
改めて自分の体を見下ろしたり、意識を内側に向けたりしても全く分からない。これまでに妖精の気配を内側に感じたこともない。
「そうだ、祭事の時にはあったかも」
三月前の冬籠もりの祭事で、フィグネリアが刺客に襲われて櫓から落ちそうになって無我夢中で手を伸べて、一緒に落ちてしまったが妖精に助けられた。
あの時、妖精達が一体化してしまいそうなほど近くに感じた。
あれが内と外が繋がった瞬間だったのかもしれない。
「でも、あそこまで切羽詰まらないと強い力は発揮しないってことは、暴走するときもよっぽどですよね。俺、この性格でよかったって始めて思いましたよ」
「その力に関してはいいのだろうが、お前自身にとってはあまりよくない気がするのだがな」
肩にフィグネリアがもたれかかってきて、クロードは彼女の寂しげな表情に眉尻を下げた。
「怒らないことも、悲しまないこともいいことだって母上が教えてくれました。そうすればずっと楽しい気持ちも、幸せな気持ちも続いていくから。俺は、フィグが笑ってくれれば、それだけでいんですよ。だから、そんな顔しないで下さい」
フィグネリアの手を握って微笑みかけると、彼女は視線だけ上げる。
「子供の頃のお前にとって楽しいことと、幸せなことはなんだったんだ?」
「楽しいことは笛を吹いて妖精と遊ぶことで、幸せなことは母上がたくさん愛してくれてたことかな」
「……母君は亡くなってからもずっとお前を護っていたんだな」
「そうですね。顔とか声とかは曖昧になってても、母上からもらった幸せな気持ちはずっと残ってましたから。あ、もうすぐ、家につきますよ」
うっすら曇った硝子窓の向こうが赤と白の斑から、茶色と緑と白の斑に変わって王宮へ続く林道に入ったと分かる。
「ああ、家、だな」
フィグネリアがやっと微笑んで、体がくっついている所だけでなく胸の奥までぽかぽかとしてくる。
思い返せば、この国に婿に来てから母のことはほとんど思い出さない。
勉強することだとか楽しいことが増えたし、毎日新しい幸せもあって過去に幸福を探す必要がないからかもしれない。
こんな毎日が続くならば、妖精王としての力も自分自身のことも、フィグネリアが気を揉むようなことはなさそうだと思えた。
***
ディシベリア王宮の中央宮は巨大だ。
二十一の縦長で屋根が半球状になった、白亜の建物が等間隔に並び、それぞれは廊下で繋がれている。その中央の建物は左右のものより倍高く、奥行きも他よりある。この建物の手前三分の二は浅黄色の絨毯が敷かれた通路だ。
そして一番奥、王宮の右端から左端までの横長で、唯一繋がっている中央の建物と同じ高さがある建物が皇家の居住区になる。
まだ夜が明けてすぐの頃、全ての建物と繋がる中央の建物の通路をひとりの少年が歩いていた。
癖のある鳶色の髪の彼はニカ・エリシン。猫のような釣り目は大きめで、十七という年齢よりも面立ちを幼く見せている。
ニカは等間隔に並ぶ左右への廊下へ繋がるアーチ型の出入り口のうち、自分の持ち場に続く左手側、十五番目のアーチをくぐる。
「……フィグネリア皇女殿下、お綺麗だったな」
まだ陽もほとんど差さしこまず、寒い廊下で白い息を吐いてひとりつぶやく。
辻馬車も出ていない夜明け頃に、帝都の官舎から歩いてここまで来たのだが、途中に神殿へ続く大通りを行くフィグネリア第一皇女とその婿を遠目に見かけた。
王宮で最下位の第五等官である自分が、長らく王宮の奥のさらに奥にある小宮に籠もりきりの彼女の姿を見られるのは希で、遠目とはいえ少し気分が弾んだ。
「しかしなぜ、皇女殿下はあの御夫君を選んだろうな」
フィグネリアの隣で今にも凍え死にしそうなほど、寒そうにしていたクロードを思い出して、ニカは眉根を寄せる。
自分と同い年だという彼は容姿こそは、皇女の隣に並んで見劣りしないものの、あの威厳も緊張感もない雰囲気は似つかわしくない。あげくに、エリシン家の領地より一回り大きい程度の国土しかない弱小国出身だ。
「俺のような者には分からない、深いお考えがあるのだろう」
ニカはそうに違いないと考えながら、足取りを重くする。
あたりは静かだ。暖炉に火をくべ部屋を暖める火付け係をする、新入りの五等官すら出仕してきていない。
こんな早朝にニカがいるのは、上官に呼び出されたからだった。
”あれ”がばれてしまったのかもしれない。
何度目かの思考にすっと内から冷える感覚がして足がすくむ。
「いや、早すぎる」
そしてまた同じ言葉で自分に大丈夫だと言い聞かせて、ニカは部屋に入る。
設事第三政務室はしんと静まりかえっていている。上官の姿はどこにも見えなかった。
「いない……」
ニカが部屋を見渡していた時、部屋の奥で何か物音ががした。
「ジトワ二等官……?」
上官の名を呼んで音の方へと向かっていたニカは、テーブルの足下に転がっているものに言葉を失う。
大きめのインク壷に血がべっとりとついていた。
「ジトワ二等官!!」
そしてテーブルの裏では壮年の筋肉質な男が後頭部から血を流して倒れていた。ニカは駆け寄って上官である彼の肩を軽く揺する。
まだ彼の体は温かく、呼びかけると小さく呻く声が聞こえた。まだ生きている。
しかしこのまま放置していたら彼は確実に死ぬのだろうか。
一瞬よぎった考えを追い払うためにニカは頭を横に振る。
「すぐに人を呼んできます」
聞こえているかよくは分からないが、声をかけてからニカは急いで部屋を出る。そしてはっとして足を止める。
上官を襲った者はまだ近くにいるのかもしれない。
薄暗い廊下は静かで、柱時計の針が動く音が響く。人の気配はどこにもない。
「急がないと……」
かといってじっとしているわけもいかず、ニカは恐怖心を押さえつけて駈け出した。
2
フィグネリアとクロードが帰り着いた頃、早朝から官吏が殺されかけたと王宮内は騒動になっていた。緊急の朝議を終えたふたりは、執務室がある小宮ではなく寝室の方で話し合うことにした。
ベッドを小さくしたかわりに広くしたテーブルに添えられているソファーに腰を下ろし、ふたりは重たいため息をつく。
「負傷したのが設事のジトワ二等官であることがまずいな」
フィグネリアは頬杖をつき、神妙な顔をする。
「不正事件の足がかり、ですよね。たいした怪我じゃなくてよかったですけど」
「ああ。しかしこれでようやく調査が進むかと思ったのだが、厳しいな」
「そうですね。大臣達が言ってたみたいに、他の不正に関わっている人たちが、尻尾出しにくくなりそうだし。誰がやったか分かればいいんですけど……」
「襲われた本人が分からないと言っているのではな……。あんな早朝に王宮になぜいたかも言わない。見つけたエリシン五等官が密告者である可能性が高いとなると、怪しいな」
ニカ・エリシンは今朝の騒動の報告と同時に、密告者として当たりがつけられていることも報告されていた。
早朝に王宮にいた理由はふたりとも、お互いがお互いに呼び出されたと言っているらしく埒があかない。だが、時期が時期なので不正絡みで悶着があったと見られている。
「机の影に鼠か何かがいるのに気づいて、屈んで捕まえようとしていたら殴られたって言っても難しいですよね。エリシン五等官は俺ぐらいの体格で、殴られたジトワ二等官は背丈もあって体格もいい人だから、インク瓶なんて確実性のないもの使わないでしょうし」
「部屋の奥にいて人を待っていたのに、気づかなかったというのもおかしいな」
フィグネリアは腕を組んで考え込む。
「他の不正に関わ っている者たちが逃げ切るまでに急がねばな。……外交関係の事案が三つと、来月の予算組の確認、今月の予算の調整案の確認。三月に一度の市場調査のまとめ。各地の街道の雪崩被害の件……他にも小さな確認作業が多いな」
「フィグ、忙しいですよね」
「ああ。ルーロッカ様に関してはお前と仕事を分担して、合間にと考えていたが、今この状況で不正事件の調査が滞るのはまずい。もたもたしていると逃げられる」
「ええっと、そうなると俺ひとりで探さないとってことですか……?」
クロードが心細そうな顔で小首を傾げる。
「そうしてもらわねばならない。探すだけ探して、見つけたらその場で捕まえずに私に報告するんだぞ」
首を縦には振っているものの、クロードの表情は頼りなく、フィグネリアは不安になる。
神霊はもちろんのことだが、それを捜索しに行く場所が問題だ。
あたりをつけているのは口論が頻発している、中央宮の政務を執り行う場。あそこにひとり放り込むのは、いささか乱暴な気もする。
「……だ、大丈夫です! 俺ひとりでもなんとか見つけます。ひとりって言っても王宮の中だから、自分の家ですよ!」
夫婦揃って心許ない顔をしていると、先にクロードが気を持ち直した。
その自宅内でつい三月前に拉致されたことは忘れているらしい。
「無茶は絶対にしない。いいな」
「大丈夫です! 揉めるより逃げるを選びますから」
「……まあ、今はそれでもかまわんが」
胸を張って言うことではないが、状況によっては正しい判断になる。
そうして、ふたりはそれぞれ自分の仕事に取りかかることにした。
寝室を出ると、クロードが足を止めてフィグネリアの手を引く。彼女はなんだろうかと彼を見上げた。
そのままクロードが額を合わせて来て、視界が彼だけになる。
「大丈夫なんですけど、もう一押し欲しいかな」
これはずるいだろうとフィグネリアは思う。
透明な蜜の色と甘さを宿す瞳はどこまでも純粋でいて、真面目にやれという言葉が出ない。
「……頼りにしているからな」
そしてフィグネリアはそう囁いて、夫に口づけた。
***
クロードは大きく息を吸って大広間から出る。
結婚して半年になるが、ここから先に足を踏み入れるのは初めてだった。普段は居住区とさらに奥の小宮。表まで来るとしても、大広間までだ。
「あったかくて綺麗だなあ……」
遙か遠くに見える半球の天井の両脇に等間隔に並ぶ硝子窓を見上げ、クロードはほうと感心する。
今日はよく晴れているのでたっぷりと陽が差し込んでいて、大理石の壁や柱もほんのり光を纏い、敷かれた浅黄の絨毯も色鮮やかだ。それに他の廊下より暖かくていい。
「ここから先が、政務室が集まってるところか……国の勢力争いがここに凝縮されてるんだっけ」
左右にアーチ状の出入り口が見えてきて、クロードはフィグネリアから習ったことを反芻する。
一定以上の領地を持つ貴族は跡取りを出仕させる義務がある。皇帝への忠誠心を強める意義が半分、人質を取るという意義がもう半分といったところだ。もっとも建国より長い時が経った今、人質としての意義は薄れて出仕義務を課されるのは、有力者として認められたという意味合いが強くなっている。
「九公家同士の派閥争いもすごいっていうし、どんな雰囲気なのかな」
クロードは考えながら知らず内に緊張して肩を強張らせる。
皇帝に次ぐ権威を持つ九公家には出仕義務がない。ただし彼らがまるで関わりがないわけではなく、各有力貴族を取り込んで自らの領地にいながらも深く国政に絡んでいる。
大陸のどこにでもある、盤の上で駒を動かす遊びとよく似たものだ。
九公それぞれが王宮という盤の上に駒を載せ、自らに有益になるようにそれらを動かしている。
そこに加え、反九公家派やら中立派やらも絡んでいるのだ。
「恐いなあ……」
戦場に武器も防具もなしにひとりで飛び込んで行く気分になって、クロードは怖じ気づく。
「た、頼りにされてるんだから頑張らないとな」
しかし、フィグネリアに一押ししてもらったことを思い出して、気合いを入れる。
これで上手くやれば、ひとりで行動するときに、フィグネリアに心配そうな顔をさせないですむ。
「ああ、しまった今何番目だっけ!?」
つらつらと考えていると、騒動が多発している設事と吏事の政務室のある場所近くに繋がるアーチが分からなくなり、クロードは周囲を見渡す。
皆、政務中なのか人通りはない。
「建物の構造的にとりあえず向こうに行ったら大丈夫か」
全ての政務室は廊下で繋がっているのだ。歩いていればたどり着けるだろう。
「妖精達もちょっと違和感あるしな……」
クロードは意識を目に見える部分以外へと持っていく。
いつも周囲にまとわりいる風の妖精達との間に、半透明の膜が張られているような隔たりがある。
「口論起こしてくれた方が手っ取り早いけど」
アーチをくぐり、真っ直ぐ歩いていると十字路に出る。一つの建物の真ん中にも通路が一本合って、その両脇に部屋があるのだ。
地図を書くと綺麗な升目になっていてどこも景色は一緒で、どこから来てどっちに曲がったか忘れると途端に迷ってしまう構造だ。
ここまで来ると廊下に書類を抱えた人が見える。この国は相続に性別は関係ないので、女性の姿も少ないながらもちらほらいる。
「視線が痛いのは気のせい……でもないか。懐かしいって言っていいのか、これ」
故国の王宮で自分に向けられる視線はいつもこんなだった。
母が亡くなってすぐの頃、公子が受ける講義の時間に半年年上の双子の異母兄によく追い出された。
とぼとぼと王宮の隅に帰っていると、行き交う侍女や従者達は冷ややかな目をして自分を見ていた。聞こえよがしに、侍女の子が他の公子を真似て学んだところで無意味だと笑う者もいた。
結局、有力貴族が母である兄達を咎める人間もおらず、三月もせずに自分は講義を受けるのを諦めた。
「やめたって、誰も文句言わなかったな。父上も母上が亡くなってから、俺の存在はほとんど忘れてただろうし」
父は式典で顔をあわせるぐらいだったが、その時も自分はおろか兄達にすらほとんど目もくれていなかった。息子達に関しては一番上が跡継ぎで残りは予備ぐらいの認識だったに違いない。
「お前らがいたから、ひとりでもあんまり辛くはなかったなあ。けど最初の頃はそれなりに腹が立ってたっけ。なあ」
妖精に話しかけていたクロードは、はっとする。周りの視線が別の意味で痛い。
(ひとりで喋るのどうにかしないとな)
子供の頃からの癖で、未だに思考が全部口に出ていることがよくある。
「あ、待て。そっちなのか?」
しかし、設事と吏事がある建物に入ると妖精達が不自然に揺れ始めて、クロードはつい声を上げてしまう。
揺らぎはもっと奥へと続いている。
(なんだろうな―、この感覚。ちょっと気持ち悪い。ラウキル様に会った時に似てるのか?)
妖精達だけに意識を集中して歩いて行くと、ひとつの部屋の扉の前にいる、鳶色の髪の少年にたどりついた。
「小さい……」
クロードは思わずそうつぶやいて、少年が怪訝そうに瞳をこちらに向けてくる。
小さいとは言ってしまったものの、身長は自分とほとんど同じぐらいだろう。しかし、この国の男はみんな自分より頭ひとつ分以上は大きいので、そう言ってしまった。
「クロード、殿下?」
呼ばれて、クロードは何を話しかけたらいいのか戸惑った。
「……ここ、どこだ?」
「律事第五政務室です」
「名前、聞いていいか?」
「設事第五等官、ニカ・エリシンです」
一応会話が成立してほっとしたのも束の間、少年の名前にクロードは硬直する。
そういえば、負傷したジトワ二等官を発見した彼は自分と同じぐらいの体格だった。
(いきなり大当たり? ルーロッカ様入ってる? というか、今、ルーロッカ様?)
ぐるぐるひとりで混乱するクロードは、ニカの周囲の妖精達の動きに注視する。
妖精達は確かにこの周囲で落ち着かない様子でいるが、ニカの中にいるかと言われれば微妙だ。
「あの、もう行ってもかまわないでしょうか」
ニカの方もどことなく迷惑そうに聞いてくる。
「あ、聞きたいことがあるんだ。えっと、ニカって呼んでいいか?」
「構いませんが、ジトワ二等官のことなら律事の方に話したとおり、自分は何もしりません」
「いや、そっちじゃなくて、最近、自分の体が変だなとか、誰もいないのに誰かいる気がするとかないか?」
「…………ありません」
ニカの声がどんどん無感情になっている。
(ああ、絶対、なんなんだこいつって思われてる。どうするんだ、俺)
クロードがこれ以上会話を繋げなくなり困り果て、ニカもまたこの訳のわからない皇女の婿の対処が分からず無言で困惑する。
そして背格好のよく似た少年達はお互い見つめ合ったまま、完全に固まってしまった。
筆舌に尽くしがたい空気に周囲にいる官吏達が固唾を飲む中、ふたりの側の扉が不意に開いた。
「……君達、そこで何をしているんだ」
出てきたのは昨日書類を拾ってもらったザハールだった。
(まずい人出てきちゃったな。一旦出直した方がいいかなあ……)
クロードはニカとザハールを交互に見つつ立ち往生する。
「君は皇女殿下のご命令でここにいるのか?」
どうやってこの場から立ち去ろうかと考えていたクロードは、急に声をかけられてびくりとする。
「あ、はい、まあそんな所です」
「困るな。こちらになんの相談もなしに動かれると仕事に支障が出る」
きつい口調のザハールに、クロードは縮こまって反射的にすいませんと謝ってしまっていた。
「皇女殿下はなぜ、エリシン五等官と接触しろと命じられた?」
「え、いや、えっと、ここで会ったのは偶然です。口論騒動が増えてる吏事と設事のあたりを視察してきて欲しいって言われたんですけど、迷ってしまってニカに道を聞いたんです」
嘘と真実を織り交ぜて答えると、ザハールが疑わしげに見てくる。
「……エリシン五等官、彼を送ってあげてくれ」
ザハールから話を切り上げてくれて、クロードはよかったと胸の内でつぶやく。
とはいえ、ニカとふたりで取り残されてしまってもそれはそれで気まずい。
「なぜ、お咎めにならなかったのですか?」
「え? 何が?」
ザハールが立ち去ってからニカが訊ねるのに、クロードは目を瞬かせる。
「イサエフ二等官のクロード殿下に対する態度です。あんな口の利き方をされて不快ではないのですか?」
「あ、そういえば、すごく偉そうだったな。でも、俺年下だし、あっちは財力と兵力ある侯爵家の嫡男だし、ううん、偉そうにされても気にならないなあ」
どこをどう見ても自分が上に立てる要素がない。
「あなたは、フィグネリア皇女殿下の夫なのですよ。つまりは皇家の人間なんです。侯爵家嫡男とはいえど、許されないことです」
なんだか毛を逆立てて威嚇する猫に似ている。
真剣に憤るニカの姿に、クロードはぼんやりとそんなことを考えていた。
「……でも、そういうの苦手だからなあ」
実のところ殿下という呼び名も落ち着かないし、同い年の彼に敬われるのもむず痒いものがある。
「苦手、と仰いますが、あなたは元は公子でしょう。その頃同じようにふるまえばいいのです」
「ふるまうって言っても、朝と夕方に女官が来る以外ひとりだったし、それ以外の人間に会うことなんてほとんどなかったからなあ」
朝になったら女官が朝食と昼食、果実などがテーブルに置かれ、夕方になったら夕食を置いて、湯浴みの支度をして空になった皿を下げに来る。そしてまた朝には夕方の分が下げられ、の繰り返しである。
女官も手が空いてる人間が来るらしく、顔ぶれは定まらなかった。朝は寝ている間に支度がされているので、実際人間に会うのは一日一度だ。
「……申し訳ありません」
ニカが何か思い詰めた顔で謝罪してくる。
「別に、俺気にしてないからいいいって」
女癖の悪い父が双子の兄ふたりの生母である側妃の侍女を勤めていた母に、気まぐれで手をつけて産まれたのが自分だ。男児を産んだことで母は側妃のひとりとして認められた。
女児を産んで母子共々捨てられた者も多くいる中で、自分の扱いはかなりましな方だ。
「それより、ニカ、さっきの質問なんだけど、そうだな。身の周りで喧嘩が多いってことはないのか?」
自分の子供の頃のことに悩みはほとんどないクロードは、さっさとルーロッカの方へ話を移す。
「設事と吏事の方では多発しています」
先ほどよりはやや柔らかい口調でニカが答えた。
「そうだよな……広い範囲じゃなくてもっと狭い範囲? すぐ隣にいる人が喧嘩し始めたりとか、そういうの」
ニカの茶色い瞳が一瞬、震える。
「ありません。なぜ俺に聞くんですか?」
動揺しているのか、口調も少しばかり砕けてしまっている。
(分かりやすいな。今はルーロッカ様じゃないのは、間違いないか)
しかし妖精達の気配は彼の周りに濃く渦巻いている。だが、何かが違う気もする。
「クロード殿下?」
「いや、だって、設事だしな。また何か気がつくことがあったら教えてくれると助かるんだけど……」
「はい。あの、俺、もう戻らないと。あちらに真っ直ぐに行けば中央に出られるので、失礼します」
ニカはちゃんと頭を下げて戻って行くが、やはり怪しい。
クロードはその後ろ姿を見送ってひとまずフィグネリアに報告しに、戻ることにした。
「動いた……」
建物をひとつ移動した頃に、皮膚の表面を引っ張られるのに似た感覚がする。
風の妖精達がどこか一点に強い力で引き寄せられている。
「駄目だ。静かにこっちに」
声を潜めて彼らを呼んでみるが、引きつけているものの力が強いらしく、磁石に引き寄せられる砂鉄のようにずるずると引っ張られていく。
「さすがにここで笛、吹くわけにもいかないし……」
変に目立つし、まだ妖精を取り込むということがよく分かっていないので、さすがにそれは躊躇われた。
クロードは迷いながらも、妖精達を追っていくことにした。
***
あの人は、何なのだろう。
ニカはついさっき別れたクロードのことを考える。
遠目で見たときと変わらない、ぼんやりとして頼りない雰囲気の皇女の婿。たまに挙動不審になるのも、変だ。
だが確実に何かを知っている。
ニカは立ち止まって、政務室の扉に伸ばす手を迷わせる。中に入るのには気が重い。
それでも戻って上官に報告をしなければならないので、鉄の扉でも開けるかのごとくゆっくりと扉を押す。
「あいつ、帰ってきたぞ。ジトワ二等官やったのあいつじゃないのか?」
「ニカには無理だろ。ジトワ家がなくなったら家、潰れるぞ」
「どっちにしろ、あいつにそんなことできないだろ」
「ああ、そういや。皇女殿下の婿がうここらうろついてたぞ。成り上がり者って、どいつも見た目から小さいんだな」
そして、一気に耳に雪崩れ込んでくる声に逃げ出したくなる。
どこかか聞こえてくるわけではない。いきなり耳の中で声が響くのだ。ここ数日幻聴なのかよく分からない声が、ずっと聞こえている。
(どんどん酷くなってる……)
部屋の中で聞こえてくる声は増えていくばかりで、気が狂いそうだ。いや、もうおかしくなっているのかもしれない。
おかしいからこんな声が聞こえるのだ。
ニカは耳の中で木魂する嘲笑に歯を食いしばりながら上官の下に行く。
「貴様、今、なんと言った!」
すぐ近くで椅子を蹴倒す音と共に、怒声が響く。
この口論もおかしいのは自分だけじゃない気がしてむしろほっとする。
口論は激しくなってきて、他の官吏達が止めにかかる。そこからなぜか新たな口論が始まって乱闘寸前の大騒ぎになる。
自分よりも体格が二回りほど違う男達の間にいると危険なので、ニカは扉の近くまで待避する。
そして、扉が開いて隣の部屋からも騒動を止めようと人が入ってくる。
「え、ちょ、うわあ! えっと、ニカ、でいいよな」
そして男数人に押されてなぜかクロードが転がり込んできた。
「何をなさっているんですか、危ないですよ」
この人はついさっき会ったばかりなのに、もう名前を忘れたのかと思いながら、ニカはクロードの袖を引いて壁際に避難させる。
「ああ、酷いことになってる、どうすんだ、これ。なあ」
「本当に何をしに来たんですか、あなた」
壁際の棚にくっついておろおろしている姿には、呆れるより他ない。
「待て、待て、拡大させるな馬鹿!」
クロードがそう声を上げるとほぼ同時に、止めに来ていたはずの官吏も喧嘩を始める。
(この人、喧嘩が始まるのに気づいたのか?)
ニカは訝しげにクロードを見る。しかしながら、彼に止められそうにはない。
「本当に、やめろって!」
側で、クロードが悲鳴じみた声を上げる。しかし、その声は到底揉めている男達に届くものではなかった。
騒動が激しくなってきたせいか、がたがたと近くの棚が激しく揺れる。あちこちの棚も、机も一様に騒音をたてている。
それにしても激しすぎる揺れ方で、棚の引き出しが半ば飛び出している。
向かい側の棚の引き出しが床に落ちて、インク瓶が派手な音を立てて砕けちった。
「そこにいると危ないですよ!」
ニカは慌てて棚の前にいるクロードを呼ぶ。
「え?」
こちらを向いたクロードの丸くなった瞳を見て、ニカは息を呑んだ。
(金だ……)
琥珀だったはずのその色は、淡い光を纏っていて黄金に変わっている。
一体この人は何なのか。
「殿下!」
我に返ったニカがクロードの頭上に落ちてくる木箱に気づく。
しかしクロードが彼の声に反応して動いたときにはすでに遅かった。
***
夫が乱闘に巻き込まれて負傷したと、報告を受けたフィグネリアは、すぐさま彼がいるという設事の応接室に向かった。
「無事、だな」
軽傷だとは聞いていたものの、長椅子の上で座ってくつろいでいるクロードの姿を見て、忙しなく動いていた心臓がやっと静まった。
「すいません。落ちてきたちっちゃな木箱で額切っちゃっただけです」
ばつが悪そうな顔でクロードが前髪を持ち上げ、左眉の上辺りに軟膏が塗られた布を貼り付けられているのを見せた。
「それだけですんでよかった。深くは切れていないな」
クロードの隣に腰を下ろして、フィグネリアはまじまじと彼の患部を見る。布に血が滲んでいて、痛々しい。
あまりにも見つめすぎたせいか、クロードが苦笑してフィグネリアの頬を撫でた。
「本当に大丈夫ですよ」
「それならいいが……、何があった。ルーロッカ様と対峙したわけではないのだな」
膝がくっつくほどクロードに近づいていたフィグネリアは、わずかばかり身を離して訊ねる。
「はい。妖精が動いて様子を見に行ったんですけど、部屋の中で大騒ぎになっててそのうち、隣の部屋の人が駆けつけてきて、で、扉の近くにいた俺は押されちゃって中に。妖精達を止めようとしたら、混乱しちゃったみたいでそのせいで棚が揺れて、物が落ちてきたんです」
「混乱した……?」
ルーロッカに反撃されたのかと思ったのだが、今ひとつ掴みにくい状況だ。
「近くにルーロッカ様がいて動けって命令してて、そこに俺が逆に動くなって言って、どうしたらいいかわからなくなったってかんじでした」
「だが、お前の言うことはあまり聞かないのだろう」
再三クロードは妖精達を止めていたが、効果ははまるでなかったはずだ。
「そうですよね……目の前でごたごたしてて夢中だったし。あんまり意識してるとかえっていうこときかせられないのかもしれないです」
クロード自身もよく分かっていないらしい。
「それで結局ルーロッカ様の器になっている者の目星はついたのか?」
クロードはそれが、と首を捻る。
「俺、最初、妖精達の気配を追ってたら律事に行っちゃったんですよ。そこで襲われたジトワ二等官を発見した、ニカと会ったんです。ニカの周りは妖精の気配が強かったんですけど、騒動が起きた部屋にいたニカはルーロッカ様じゃなかったんです」
「関係なかったということか?」
「そうでもないと思うんですよね。騒動が起ったのもニカが部屋に戻ってすぐぐらいだろうし、何かを隠してる雰囲気だったし。でも、気は強そうだったけど、神霊様に勝てるほどには見えなかったな。……あ! 律事でザハールと会って、勝手に動かれると困るとか言われました」
面倒だなとフィグネリアは顎に手を当てる。
「エリシン五等官は不正事件どころかルーロッカ様の件に関わっているのか。律事の邪魔になるのは避けたいが」
「どうしましょう」
「神霊様のことは隠して、エリシン五等官のことはお前に任せてもらえるよう話してみるか」
「任せてもらえると思います?」
子供っぽい仕草で小首を傾げるクロードに、フィグネリアは言葉に詰まる。
彼の純真そうな眼差しとふんわりとした雰囲気は、大事を任せるには頼りなく見える。
(……クロードがこうなのは母君の守役としての判断もあったのだろうな)
第一公子と第二公子が相続権を巡り殺し合い、他の残る公子もいがみあうハンライダの王宮で、異母兄達と違い後ろ盾のないクロードの感情を穏やかに保つには、彼に対抗心というものを抱かせないことしかできなかったのは想像に容易い。
陰惨な王宮の辛苦を押し流せるほどの愛情で囲いを作り、立ち向かうよりも内に籠もっている方がいいと思わせる幸福な場所を彼の母親は築いたのだ。
そのかわり、クロードは自分に対しての期待は犠牲になってしまったのだろう。
(思ったよりも、根深いな)
フィグネリアはそっと鼓動に寄り添うようにクロードの胸に顔を埋める。
やる気もあるし成果も上げているのに、彼はまだ囲いから出きっていないのか自分に対する評価は低い。
(というより、私がある意味母君と同じ位置にきてしまっているせいか)
フィグネリアはクロードから身を離して眉根を寄せる。
自分のために頑張ってくれるのはいいけれど、そこにばかりに留まってしまうとたぶんクロードのためにはよくはない気がする。
「フィグ? やっぱり難しい、ですよね」
クロードが声を萎ませて、フィグネリアは首を横に振る。
「いいか。交渉は私がする。お前は一言も喋らなくていい。ただ一点、臆するな」
「うう。難しいけどやってみます」
とはいえ本人には前向きさがあるのだからそこまで、心配はいらないだろう。
「よし。その心構えを忘れるな」
フィグネリアが頬を指先で撫でた後、部屋にまた来客があった。
「クロード! 大丈夫か!?」
部屋に入るなり叫んだのはイーゴルだった。さらにその後ろにはサンドラもいる。
「本当にたいしたことなさそうね。よかったわ」
よかった、よかったと笑うふたりに、何をそんなに驚いているのかクロードは、呆けたままでいる。
「兄上、今日の朝議ですがお聞きのとおり乱闘騒ぎで予定通りには、進まないかと思います」
そんな夫はさておき、フィグネリアがそう告げるとイーゴルが腕を組んで唸る。
「やはり、こちらに兵を何人か置いていた方がいいのではないか?」
「いえ。人が多いとさらに危険だと思います。兵が喧嘩を起こすことになると、怪我人がまた多く出ることになるかと」
今回の乱闘騒ぎで怪我人も数人出た。さらに屈強な兵士まで加わわれば、なおさら危険だ。
「神霊様も何が楽しいのかしらねえ」
サンドラが困り顔でつぶやく。
兄夫婦には今回の事態は仔細に話してあった。三月前の騒動の後にクロードの能力について話したが、あっさり受け入れたふたりは今回も素直に事態を飲み込んでくれた。
「神霊方は私達の理解の範疇外にいますから。しかしあくまで、ルーロッカ様は喧嘩を起こすきっかけを与えるだけなので、人間側が抑えればすむ話なのですが」
「それができたら苦労しないわよねえ」
サンドラが典型的なディシベリアの男の代表であるイーゴルを見て言う。
「ディシベリアの男たるもの、闘争心はわすれてはならん」
イーゴルの言うことに、姉妹は顔を見合わせて苦笑いした。
そうしていくらか現状について話して、イーゴル達が先に部屋を出た。
「後ですぐ会えるなら、来なくてもよかったんですけどね。これぐらいの怪我だし」
ふたりが出て行った後にクロードがぽつりとつぶやいた。
「実際目にするまでは安心できないだろう。私も最初きいたときは、本当に心配したのだからな」
フィグネリアはクロードの手を握って唇を尖らせる。
「う、すいません。でも、そうですね。義兄上達ってそういう方達ですよね」
何か得心がいったらしく、クロードが嬉しそうに微笑んだ。
「そうだ、そういう方達だ。さあ、私達も行くか」
手を繋いだまま部屋を出かけてフィグネリアは迷った。いつもなら公の場ではこういうことは控えているが、もう少し触れていたかった。
しかし、そこはこらえて指を解く。
ちらりと見たクロードは気にせずに扉を開けてどうぞ、と言っている。
いつも公私は分けると口を酸っぱくして言っているものの、これはこれで面白くない。
(面倒くさいな)
そんな自分の心情にフィグネリアはどこまでも冷静にそう思い、ふっと疑念を覚える。
(母君が亡くなられたとき、クロードはどうやって悲しみを抑えたのだろうか)
婿に来てすぐに文書で母親の死は階段からの転落事故になっていたが、状況からしてクロードの異母兄に突き落とされた可能性は高い。そしてその一件で彼が亡くしたのは母親だけではなかった。
クロードの母は臨月間近だった。クロードのことだから、きっと初めての同母の兄弟を心待ちにしていたのに違いないだろうに。
「フィグ?」
立ち止まっていると、クロードがきょとんとした顔をする。
「なんでもない」
フィグネリアはクロードの横に並んで歩く。
そこに踏み込んでいいのかどうかは、まだ分からなかった。
***
翌日、フィグネリアとクロードは大広間近くの部屋にいた。
その部屋には大柄な男でもゆったり座れるひとりがけのソファーが円形に並び、それぞれの傍らにはサイドテーブルがある。大臣達が朝議前に話し合ったり、他に来賓とのごく簡単な会談で使う部屋だ。
フィグネリアはクロードと並んで座り、正面にいる男を見据える。
ザハール・イサエフ。
何度か顔を合せたことはあるが、会話はほとんどしたことがない。藍色の瞳は底が読めず肩に力が入る。
「エリシン五等官について、クロード殿下に任せたいということですが、何の信用も実績もない者に関わらせることに不安があります。皇女殿下、そこはご理解いただけますね」
控えめな口調でありながら、高圧的にザハールが言う。
「ああ。それは十分に分かっている。だがそちらが威圧的に詰問するよりは、クロードの方が話を引き出しやすいだろう。実際、何か話したそうにはしていたらしい」
フィグネリアも怯まず、しかしながらも対抗することなく、足を組みソファーに背をもたれる。
「なるほど。同じ歳で背格好もよく似ていて、雰囲気も話しかけやすい」
ザハールは場の雰囲気に呑まれてすっかり萎縮しているクロードに視線を向けて、ふっと笑む。
「しかし皇女殿下、エリシン五等官は今回の不正について重要なことを知っている人物です。おそらく彼が密告者だとこちらは考えています。下手なことはしたくありません」
「それは分かっている。三日。それだけもらえないか。その間に成果をあげられないのなら、そちらに任せる」
譲歩を見せると、ザハールは少し考える。
「……残念ながら、私はあなたに対する信頼がない。皇女殿下が先帝陛下崩御の後に、内政の均衡を保ったことは評価しています。政務を統括されたこの三月で、以前よりは政務の流れはよくなったこともです」
ただし、とザハールは続ける。
「腹心であり、最大の手駒であるラピナ公の嫡男が独断で簒奪計略を立てていたことに気づかなかった、というのは酷い手落ちかと思われます。皇女殿下が現在の立場を手に入れるために見て見ぬふりをしていた、というならある程度評価はしますが」
痛いところを突かれたフィグネリアは動揺を無表情で隠す。
ラピナ公嫡男、タラスは外から見れば腹心にも見えたかもしれないが、そうではなかった。彼に忠義心がなかったわけではない。自分が彼の忠心を信じていなかったのだ。
「……その落ち度は認める。彼の行状に目が行き届いていなかった私を信頼できないというのも分かる」
ザハールが藍色の瞳を鈍く光らせる。
「皇女殿下の実像は曖昧すぎるのですよ。現皇帝の影であり、それ以上に先帝陛下の影を引きずりすぎてしまっている。先帝陛下の信奉者は影だけ見て、あなたを大きくとらえる」「だが実際は質の悪い模造品だ」
卑屈さは滲まさずにフィグネリアは淡々と言う。
「先帝と比べれば、の話ですよ。けして無能ではないでしょう。過大評価させず、過小評価もさせないためには、あなたの実像をはっきりさせる必要がある。そのためには人脈を築き、正しい評価を世間に浸透させなければならない。それができていないところ見ると、どうにも人を扱うのが不得手のようですね」
「ああ。私は周囲を警戒しすて、信頼関係を築くのを怠った。そんな私の人選は信頼できないのはもっともだな」
「ええ。皇女殿下はなぜ、自覚しながらも、最も重要な婚姻という切り札をふいにされたのですか」
クロードがザハールに視線を向けられて肩をすくめる。
「ふいにしたつもりはない」
「私の目にはそうは見えませんが」
フィグネリアはすっかり気迫負けしている夫を横目で見て、どう返すべきか迷う。
「私の方がよほどあなたの隣に相応しいと思いませんか?」
妙な方向に話が飛んで、さすがにフィグネリアも眉根を寄せた。
「……思わん」
「なぜです。私はあなたに欠けている人脈を持っています。九公家の繋がりだけでなく、中立派の一部も。そして、私自身は伯父上の手駒になる気はない。それにあなたの政策には惹かれている。政策を推し進める上で足りない人脈、財源は私が補える」
「ならば私に仕えればいい。重用する」
そう言い捨てると、ザハールは不敵な笑みを浮かべる。
「これだけのものを持参して、ただの臣下の地位では割に合いませんよ。次期皇帝の夫、それより下では満足いきません」
「その件については交渉決裂、だな。それよりエリシン五等官の件に対しての返答は?」
いつの間にかザハールに会話の主導権を持って行かれていることに気づいて、フィグネリアは自分の方に引き戻す。
「条件をもうひとつ足させてもらえるのならいいでしょう。私としても、皇女殿下とお話しする機会を無駄にするのは惜しいのです。この不正調査の報告は大臣からではなく、私からこうして一対一であなたに報告するというのは? お互い、有益な時間を過ごせるかと思いますよ」
「いいだろう。予定より早くエリシン五等官の件が終わればそこまでだ」
条件を呑むと、ザハールは小さく笑った。
「早く、終わればですか。期限内にどうにかできるとは思いませんがね。君からは僕に何も言うことはないのか?」
ずっと大人しくしていたクロードが水を向けられてまごつく。
「そうやって黙って皇女殿下の影に隠れているだけで、安泰だと思っているのなら、改めた方がいい。君が無能であればあるほど、君を次期皇帝の伴侶という政治的重要な位置に選んだ、皇女殿下の判断能力にますます疑心がもたれる。どれほど皇女殿下が有能でも、それひとつで足を引っ張られかねない。反論は?」
「……俺は、フィグの足を引っ張ったりしません!」
言葉は強いものの、クロードはすっかりザハールに押されて体が引けている。
「言うだけなら簡単だ。財も、能力も、外交的価値もない君が一体何の価値が示せる?」
クロードが完全に沈黙した。フィグネリアはうずうずしながら夫の様子を見守る。
ここで自分が口を挟めば、さらに彼は自分なしでは何もできないと印象づけるだけになってしまう。
とはいえ容赦がなさ過ぎるザハールの言葉には文句が言いたく仕方がない。
「皇女殿下、私は三日であなたの気を変えてみせますよ。そこでただの置物にしかならない彼よりもずっと、あなたのためになると。では、また後ほど」
言いたいだけ言って、ザハールが席を立つ。
扉が閉まってからフィグネリアは体の力を抜いて、ソファーに埋まるようにする。
「……食えん男だな」
「うう。まともに言い返せませんでした……けど、俺が駄目だとフィグまで駄目って言われるなんて考えてませんでした」
気落ちしているクロードの声は湿っぽい。
「気にするな。奴の言う通り私もまだ未熟だ。お前だけのせいでどうにかなるわけではない」
「未熟って、フィグの未熟と俺の未熟じゃ全然意味が違いますよ。それに、あの人、フィグのことよく分かってないみたいですし。だって、朝議でもちゃんとまとめてるじゃないですか」
クロードが不満げにするのに、フィグネリアは苦笑する。
「まとめている、か。それも父上のやり方を踏襲しているにすぎん。あの方は本物の天才だった。今の私と同じ十八で反九公家派と中立派をまとめあげて地盤を築き、先々帝の周囲の者も取り込んで改革を進め、その後わずか二年でアドロフ公を味方につけ帝位についた」
自分がそれだけのことをできるかといえば無理だ。
「父上は自ら動き、広く能力を周囲に示して九公家派もその辣腕に沈黙した。しかし、私はただそのやり方を王宮の中で詰め込まれたにすぎない。それだけでは、人はついてこないだろうな。私は父上の築き上げたものを護りながら、自らのやり方も見つけていかねばならない」
ごく身近にいた人間はまだ自分のことを知ってくれているが、まだ何も広げられていない。
執政に説得力を持たせるには、父の受け売りばかりではどうにもならない。
「先帝とほとんど同じことができるだけでも、俺から見たらすごいことですけどね……」
クロードがソファーの肘掛けに顎を乗せてため息をつく。
「三日しかないのだから、しゃっきりしろ。不正事件と、ルーロッカ様、お前に両方やってもらわねばならない」
フィグネリアが渇を入れると、クロードはびくりと背を伸ばす。
「分かってます。あの人とフィグがふたりっきりの時間をたくさん作らないように、早く解決します」
持ち直したクロードはいつになくやる気だった。その方向性は何か間違っている気もするが。
珍しく対抗心らしきものは持っているようではあるし。
「じゃあ、さっそくニカに会いに行ってきます!」
クロードがそう言って立ち上がり、忙しない様子で出て行った。
「いい機会といえば、いい機会だな」
ひとり部屋に残されたフィグネリアはつぶやく。
側にいると手助けをしているつもりで、自分はクロードに新しい囲いを作ってしまう。
「……義姉上や兄上もこんな気持ちか」
今さらながらに、何もできずに黙って見守るしかできない兄達の心境を痛感させられる。
「いかん、私は私でやるべきことをせねばな」
つい考え込んでしまいそうになったフィグネリアは、ザハールがいた席に目を落とす。尊大な男だったが、けして虚仮威しではない。
「人脈づくりとして手始めにかかるにしては難題だが、私も父上に囚われてばかりはいられないか」
ひとつ深呼吸して、夫が頑張るのだからその分自分も頑張らねばと、フィグネリアは気を引き締めた。
3
空元気をフィグネリアに見破られる前に小会議室から出たクロードは、広い中央の通路に出た頃には足下ばかりを見ていた。
「財力か……」
床に敷かれているこの浅黄の絨毯はイサエフ家が献上したものである。イサエフ家の領地ではこの独特の色で染めあげた糸で、上質の織物を生産している。国内に限らず、国外でも人気が高く高値で取引されている。
「人脈とか」
アーチをくぐって政務室のある方に入ると白い目が向けられる。昨日の乱闘に巻き込まれてしまったことは、大騒ぎになったので皆知っていて、額の方に特に視線を感じる。
「外交的価値。あるはずがないよなな」
祖国は黴びたパン屑。自分はその中でも半ば忘れられた存在。
「それから能力」
まずこれだと自信を持てるものなど何ひとつない。フィグネリアは頑張りを褒めてはくれるけれど、ザハールのように不遜なほどの態度をとれるほどの能力があるとは思えない。
「何があるんだろうなあ。俺」
ニカのいる設事第三政務室の扉の前に立ってクロードはぼやく。
「あ」
そして扉を叩こうと手を伸ばした時、先に開けられてそこからニカがちょうど出てきた。
「クロード殿下……」
目を丸くするニカはどことなく顔色が悪い。目の下にもうっすらと隈ができている。
「話があるんだけど、今、具合が悪いのか?」
「……いえ。ただ昨日の乱闘騒ぎで怪我人や謹慎者が出たので人員不足で忙しいだけです。お怪我は?」
「たいしたことない。それより時間があるなら、ゆっくり話したいんだけど無理か?」
無理と言われても困るのだがと、クロードは不安な顔でニカの表情を窺い、妖精の気配に注視する。やはり昨日と同じで濃くわだかまっている。
彼に一体なぜそんなに引き寄せられているのだろうか。
「大丈夫です。自分は書類の書き損じが増えていてかえって邪魔になるので追い出されたところなので。応接室にご案内します」
ニカが自嘲するわけでもなく淡々と言って、応接室まで先導する。そして品のいい風合いのソファーに腰を下ろして、クロードはニカと向かい合う。
どことなく空気が重たく話を切り出しにい。
「自分に話って何ですか」
戸惑っているとニカから先に口を開いてくれて、助かったとクロードは思う。
「えっと、ジトワ二等官が襲われた朝、どうして呼び出されたか心当たりはない、のかなっていうのを訊きたいんだけど」
ニカが両膝の上に置いてある拳をきつく握りしめる。嘘は得意そうに見えないが、そのかわり頑固そうだ。
「別に、悪いことしたわけじゃないんだろ。むしろいいことして、怒られそうになったとかだろ」
不正の密告のことをぼかして反応を探る。ニカの目は落ち着きなく揺れている。だがその口は固く閉ざされたままだ。
「じゃあ、ジトワ二等官とは仲悪かったわけじゃないよな。確か二代前に、ジトワ伯爵家の推挙でエリシン男爵家は、跡継ぎがいなくなった家の領地を預けられたんだよな。それで仕官するだけの領地を得られたんだよな」
クロードは昨日のうちに学んだことを再確認する。
「……仲がいいとか、悪いとかそういう関係ではありません。ご存じかと思いますが、エリシン家の財政事情はよくありません。ジトワ家の支援を得てやっとの状況です」
確かに資料を読んだ限り赤字すれすれだったのは覚えている。フィグネリアの眉間の皺の厳しさの方が印象に強いが。
「あんまり赤字が続くと、領地没収になるんだっけ?」
厳正な調査と審議が行われた結果、土地の事情よりも領主の采配の酷さが目立てばそうなる決まりがあったはずだ。
「祖父の代で傾いてしまってそれから立て直せないままなんです。父が四等官から五等官に降格されて、俺が仕官する歳になるまでの間に代りに仕官していた叔父も五等官留まりで、財政を補填するだけの俸禄も貰えないままでした」
官吏の等級は世襲され、実力があればさらに上に行けるが、なければ下に落とされる。そして次の世代にそのまま引き継がれる。だから、ニカは五等官なのだ。
「ううんっと、ジトワ家になんかあると、エリシン家はもたないのか。でも、ジトワ家には何の得が……あ」
そこだ。その力関係を利用されて不正の手伝いをさせられている可能性は高い。
「……父が降格され叔父が五等官留まりだったのは、ジトワ家に功績を取られたり、不手際の責任を被せられたりしていたせいです。財政援助を申し出て、返せる当てもなく、ジトワ家は父の頃は三等官だったのですが、今では二等官です」
「それは、完全に行き詰まってるな……」
逼迫して泣きついたはいいが、借金の返済は手柄の譲渡や責任被りで返し、そうすると出世はできずに自力で財政の補填はできず、また借りをつくり負の連鎖が続いてるのだ。
(でもなんで密告なんて。結局自分の立場も危うくなるよなあ)
理由は見えないものの、こうなると口を割らせるのは難しそうだった。
「だから、呼ばれたら行かなくてはならないんです。理由が分からなくても」
それで心当たりがないということに筋は通るが嘘だろう。
「そうか。うーんと、襲った相手とかは見たりしてないんだよなあ」
「自分がジトワ二等官をインク瓶で殴り倒すのはできません」
「それは分かってるけど……俺より腕力あったとしても無理だよな」
クロードはニカの細そうな腕を見る。貴族は所領の大きさ関係なく十歳頃から十五まで帝都の軍に入隊するので、彼もさすがに自分よりは腕力がありそうだが。
「力もそれほど強くありません。本当に何も知らないんです」
もう帰りたそうにしているニカに、クロードは困る。
こんな調子で三日が過ぎてしまうのは避けたい。フィグネリアが自分にできると任せてくれたのだ。それにあの必要以上に偉そうなザハールに、彼女が責められてしまう。
「よし、別の話しよう。話題が尽きて本題話す気になるまでとことん話し合うぞ」
「なんでそうなるんですか」
「だってそれ以外に俺、できないし。ほら、命令したって言う気ないだろ。そもそもフィグとかザハールみたいに、命令口調とか絶対格好つかないし。だからって、諦めるわけにもいからないから、引き延ばし作戦だ」
「……言ってしまったら、作戦にはなりません」
ニカの目は非常に冷たい。
「でも、作戦に乗ってくれないと俺、困るんだけどな……」
語尾を徐々に弱らせながら、クロードはうなだれる。
「…………もう好きにして下さい」
その情けない様子に、ニカがぐったりした声で折れたのだった。
***
「フィグ、何か仕事ないですか?」
中央宮から離れた小宮で政務に追われていたフィグネリアは、戻って来たクロードの言葉が一瞬理解出来なかった。
「……エリシン五等官の件はどうした?」
「えっとですね、いろいろあって。じっくり話そうということになりました。それなら狭い応接室で向き合ってるより、広めの所で何かしながらの方がいいかなと」
クロードが廊下を視線で示す。フィグネリアは席をたってそちらを覗き込むと、ディシベリアの人間としては小柄な少年が廊下で緊張した面持ちで直立している。
「連れてきたのか。まあ、別に構わんが資料整理ぐらいしかさせられないがいいか?」
「大丈夫です。重要な書類は触らせられないのは分かってます。俺、書庫の方にいますから」
クロードがそこで一度言葉を切って、声を潜める。
「それと、中央宮から離れるとニカにまとわりついてた妖精達も一緒に離れていきました」
「どういうことだ?」
「まだ分からないんですけど、ルーロッカ様が妖精達に命令してくっつかせてたのかもしれないです。笛も吹いて様子見してみます。何もない限り、穏やかな曲調で吹いて、何かあったときはそれ以外にします」
「そうか。これから私もザハールと少し話し合うことになった。妖精に関しては気をつけておいてくれ」
ついっさき、先にいくつか相談しておきたいことがあると、ザハールからの伝言があったのだ。
「ここに呼んだんですか?」
クロードは不服そうだった。
「問題はないだろう。いちいち表に出て行くのは煩わしい」
「……何か困ったことがあったら呼んでくださいね」
それを言いたいのは自分の方なのだが。
フィグネリアはそう思いながら、まだ納得いっていない様子で部屋を出て行くクロードを見送り、政務に戻る。
笛の音が聞こえてきたのはそれから少し経ってからだった。
柔らかい音だ。ふわふわとしていて、聞いている内に羽毛の詰め込まれたクッションに埋もれている気分になる。
「皇女殿下」
すっかり音に耳を奪われていたフィグネリアは呼ばれて、いつの間にか扉が開いていたことに気づく。衛兵に挟まれてザハールが立っていた。
「すまない、気づかなかった。すぐに隣に」
「いえ、ここでも結構ですよ。そちらの台に資料を広げてもよろしいですか?」
ザハールが持っている紙筒と紙束をフィグネリアに見せて、部屋の脇にある台を示す。かまわないと返答すると、彼は紙筒を広げてあらかじめ台の上のあった重石をその四隅に乗せる。
「……なるほど。これは、面倒だな」
台の側に移動したフィグネリアは眉根を寄せてつぶやく。
紙筒の中身は不正があったとされる、橋や舗装路の修復などの公共工事が行われた場所に印がされた地図だった。帝国西部のあちこちに印があり、九公家縁者の領地も含まれている。
昨日の報告ではまだ上がっていなかったものだ。
「残念ながらガルシン公家の縁者もいますよ。工費の水増しなどというせせこましいことをやる身内がいて残念です」
「せせこましいが、これは合せると相当な額になるな。……起点はこれだが、枝葉を伸ばしているのはこちらか。東の方も探りを入れた方がよさそうだな」
フィグネリアは各領主の関係と不正事件の順序を頭の中で整理しつつ、さらに関わりがありそうで、ここ近年の内に補修工事が行われた場所を指で示す。
「そうですね。手繰っていけばまだ広がりそうです。しかしこれほど拡大するまでに、気づかなかったということは、監査に多大な問題があるのでしょう」
隣に立っているザハールの言葉には棘があった。
「内でいがみ合うことばかりに目が行きすぎたのだな。そして、私は監査の体制を維持し切れていなかった」
父が築いたものは、その死によっていくつも崩れ始めている。まだ盤石でないのは父自身分かっていた。安定させるのに少なくとも後、十年はかかるだろうと言っていたわずか一年後に、謀殺されてしまった。
「先帝陛下はご自分の死期を見誤られた。そして肝心の嫡男はあの通りで帝位に即かれてからは、ことごとく運に見放されていますね」
そればかりは父にはどうしようもなかったことだ。
大神官長に毒を盛られるなど誰にも予期できない。産まれてくる子供のことなどなおさらだ。
「それは、先帝陛下と皇帝陛下に対する不敬だ。口を慎め」
敬愛する父と兄を侮辱することは許しがたく、フィグネリアは声を厳しくする。
「事実でしょう。皇女殿下を授かったことが唯一の救いでしたね。先帝陛下はいずれ、あなたに帝位を継がせる気だったのでは? アドロフ公もご高齢です。御嫡男は彼の方ほどの傑物でもなく、退位する頃にはアドロフ公も代替わりし九公家も完全に抑えられ、皇太子を帝位につける必要はなくなるとお考えだったと思っていたのですが」
フィグネリアは沈黙する。
そう思わなかったわけではない。アドロフ公の孫である兄は、九公家との均衡を図るための後継者だ。九公家さえ抑えれば何も問題はない。
実際、父が執政の術を直接教えるのは自分にだけだった。
イーゴルには基本的なことだけ教え、後は迷ったときにはまずフィグネリアに相談する、ひとりでけして決断はしない。大臣達や諸侯とフィグネリアで意見が割れることがあれば、妹の裁量を信じろと言い聞かせていた。
実に素直にイーゴルはそれを呑みこんでいた。
そして自分には、常に正しい判断をしなければならない。お前の過ちひとつが国を傾ける結果になり得るといつも言っていた。
だが、自分にはずっと兄の影であれとも言っていた。父の真意がどこにあったかは分からない。
「お心当たりはあるようですね。いずれにせよ、崩御が早すぎた。せめてあなたの縁組みだけでも決めておかればよかったものを」
「またそこに話が戻るのか」
台の上の資料を手に取り、フィグネリアはため息をつく。そして不正事件の詳細がまとめられたものを見て眉間に縦皺を刻んだ。
「ジトワ二等官が関わっているものが三分の一、か。最初の頃にも関わっているのは間違いなさそうだな。本人からの証言はまだとれないのか」
「残念ながら、負傷した頭が痛い、怪我のせいで記憶が混乱していると言い逃れされてましてなんとも」
「呆れた男だな。やはりエリシン五等官から詳細を聞き出すしかないな」
「それもなかなか難しいと思いますよ」
ジトワ家とエリシン家の関係を聞かされたフィグネリアは額を抑える。
「小狡いことばかりしているな、本当に。しかしならばなぜ、密告など」
「さあ。そのあたりはクロード殿下がなんとかしてくださるのでしょう。何か進展はありましたか? 呑気に笛など吹いておられたようですが」
ザハールが小馬鹿にして言って、一歩距離を近づけてくる。
「今、資料整理をしながら書庫で話し合っているところだ。そのうちなにか聞き出すだろう」
フィグネリアは逃げることはせずにザハールを見上げる。挑む視線は難なく受け止められてしまうが、目はそらさない。
口は余計なことを言わないようにしっかり閉じる。
(抑えろ。そのうち、必ずクロードが成果をあげて自分でこの男を黙らせる)
ここ最近溜まりに溜まっている鬱憤は、そろそろ限界にきそうだが忍耐あるのみだ。
「あなたがそこまで自信が持てる理由が分かりませんね。私の方が格段に上手くやれる気がしますよ」
「だが、聞き出せなかったのだろう」
薄く笑うと、もう一歩踏み込まれる。
「できないわけではありませんよ。言ったでしょう。あなたと話し合う時間が欲しいと」
ザハールの視線は地図に移され、ガルシン公家の縁者の領地を長い指で示す。
「もし、エリシン五等官の証言が引き出せなくても、道はすでに幾通りも用意しています。一番楽なのは、身内からですね。昔から面倒事の火種を抱えているし、切り捨てるのにはちょうどいい」
次に、と西の端を示す。
「この石材の産地辺りには伝手があります。資材の動きはイサエフ家で調べた方が早いのですでに手は打っています。明日か明後日には報告が来るはずです。……この件が終わったら今後のために監査役に推挙したいと考えていますが、いかがですか?」
「監査の人選は一度見直すつもりだった。結果と他の身辺の調査に問題がなければ考える」
フィグネリアがそう言うと、ザハールは上辺だけの礼を述べて他の案もいくつか出す。
口を挟めることは何もなかった。
肩がぶつかりそうなほど近くにいたザハールがフィグネリアから身を離す。
しかし彼の視線はフィグネリアに再び合せられる。探るでもなく、挑むでもな、誘い込むような隙をつくっている。
これは一体、何を狙っているのか。
暖炉の薪が爆ぜる音が部屋に大きく響く。
「……噂はまるきりのでたらめですか。残念だ」
しばらくしてがっかりした顔で、ザハールがため息をついた。
「何の噂だ」
嫌なものを感じてフィグネリアは声音を低くする。
「いえ。ラピナ公家派の方々が皇女殿下に若君が誑かされ散々利用したあげくに捨てられたと嘆いているのですよ。そしてかわりにあのよく分からないハンライダの公子を籠絡して、何か企んでいるなどとも。そこから発展して皇女殿下は利用できそうな男がいれば、この人気のない執務室に引き込んで毒牙にかける悪女だという面白い噂が一部で」
あまりにも予測の範疇外過ぎて、頭がついていかない。
そんな根も葉もない噂が出回っているなど、想像もしていなかった。自分の耳にまでは入っていないので、そこまで広まっていないはずだ。はずであってほしい。
石になってしまっているフィグネリアに、ザハールが楽しげに笑い声を漏らす。
「ふたりきりになれば、何か仕掛けてこられるかと思いましたが、そのご様子では無理そうですね。期待していたのですが、実に残念です」
再び近づいてこられてさすがにフィグネリアは後退った。
「く、くだらん噂を真に受けるな!」
うっかり動揺が表に出てしまって、自分への怒りで頬に血が上る。
「そんな噂でも、真に受ける人間は大勢いるのですよ。同僚達の間でも私があなたに誘われると賭けた方が多かったですから。そして多大な声援を受けてここまで来たわけです」
「王宮内で賭け事をする奴があるか」
「この所忙しいですから、それぐらいの楽しみはないと。ちなみに私は誘われない方に賭けました。勝っても負けても損はしない」
嫌味なほど秀麗な笑顔でザハールはしかし、とつけ加える。
「この賭けは負けた方が嬉しかったですね」
完全に面白がられている。
これは何を言ってもただ楽しまれるだけで反撃のしようがなかった。
「こういうときの返し方は、私が思わず揺れてしまうほどに迫るのが常套ですよ」
さらに心情を見透かされて、下がることも進むこともできない。フィグネリアは負けを認めざるをえなかった。
たまらなく悔しい。ここまでやり込められるのは久しぶりで、ふつふつと闘争心がわき上がってくる。
そして意地でも自分の側に引きずり込んでやると決意を固くする。
なんのかんのと言いつつ、ディシベリアの血は濃いフィグネリアだった。
***
狭い小宮の中で最も広い書庫は日当たりが悪く寒い。火を入れたばかりの暖炉の前を陣取り笛を吹いたクロードは、すぐ側のテーブルで唖然としているニカを見る。
彼の周りにはもう妖精の気配はない。むしろ自分の方に集まってきているぐらいだから、問題はなさそうだ。
「ニカ、笛の音に何か違和感とかないか?」
念のために確認してみると、ニカはまだ目を見開いたままで首を横に振る。
「いえ。素晴らしいと思います。人間なにかひとつぐらいは取り柄があるものだと……」
本音がこぼれ落ちているのにも、気づいていないらしい。それはまあいいかと、クロードは暖炉に一番近い席に座る。
「よし、話するか。うーんと、話題、話題……何かないか?」
「だからなぜいちいち自分に聞くんですか、あなたは」
心なしかニカの対応が厳しくなっている気がする。
「よく考えたら、俺、あんまり人間と会話しとことないんだよな。あ、吏事関連はそっちに積んで」
クロードはテーブルの上の書類に手を伸ばし、ニカに指示する。
「その割にはよく喋りますよね。これはこちらでいいですか」
「うん、いい。よく喋るっていうか、考えてること全部口に出してるのが正しいな。フィグにたまに怒られる。でも可愛いって言うのはいいよな。本気で怒ってるフィグは恐いけど、そういう時に怒るフィグは可愛いんだよな」
「……お幸せそうで何よりです。その話題には乗れません」
「ニカはまだそういう相手いないのか? 帝都には貴族のお屋敷もいっぱいあるし、そこに住んでる令嬢とか」
資料を整理しつつ訊ねると、ニカの表情が暗くなる。
「官舎住まいで馬を飼う余裕すらないのに、帝都に屋敷を構えられるほどの家との付き合いなんてもてません」
何か触れてはいけない部分に触れてしまったらしい。
「そっか。なんていうか、大変だよな。うう。すでに話題がない。そうだ、俺に聞きたいこととかないか?」
「ありません」
ニカはてきぱきと資料を分けながら、きっぱりと言った。
「ないのか。ニカは仕事できそうに見えるけど、なんでこの頃、間違いが増えたんだ? というか、今もちゃんとできてるし」
話す方に集中してしまっている自分の手元の書類はさほど減っていないが、ニカの方はあっという間に減っている。
「……資料整理は慣れていますから。政務室は、騒がしくて集中できないんです」
「喧嘩が多いから?」
ニカの手が止まった。
「そうですね。あと三月もすれば昇格試験なのにこんな状態で……」
痛々しいほどに、彼の声には焦燥があった。
「ニカも、試験受けるのか?」
「受ける、つもりでした。そのために、蝋燭代だけは惜しみませんでした。ですが、ジトワ二等官からの推挙がなければ受験資格は得られません」
官吏の昇格は功績が上官に認められ、その上で試験を受けてから昇格が決まる。いろいろとニカは、ジトワ二等官に弱みを握られているらしい。
「もう無理なんです。出仕できなくなったとしても、普通なら軍に行けば帝都に残れるけど、俺はこんな体格だし武術は得意ではないからそれもできません」
断定しながらも、ニカの声にはそんなのは嫌だという強い思いが滲んでいる。
「ニカは、どうして帝都に残りたいんだ?」
クロードも手を止めて訊ねる。
「最初はただ、領地を護って家も建て直したかったんです。でも、たったひとつだけ年上で、でも俺よりずっと小さなフィグネリア皇女殿下が九公家を敵に回しながらも先帝陛下の遺志を引き継いでるって聞いて、家のためだけじゃなくて、できるだけお側近くで仕えたいと思うようになったんです」
ニカの瞳に宿る光が強くなる。
先帝崩御の時、フィグネリアはまだ十三。今よりも背が小さくて、頼りなさげな体でいながら、今と変わらず真っ直ぐに背を伸ばして毅然と前を見ていたんだと、クロードには容易に想像が出来た。
彼女の働きが人を介するうちに装飾も施されれ、同年代には強い憧れをもたらしていたのだろう。
「そっか。なんかいいなあ。俺、子供の時そういのうの全然なかったな」
大きすぎる期待はフィグネリアには負担だと知っている。しかしそれは別として、きらきらとしたものが詰まっている、ニカの言葉や瞳が無性に羨ましくなる。
子供の頃は、今日という一日が楽しければそれだけでよかった。期待なんてしても意味がないし、先のために何かすることは考えたことがなかった。
「クロード殿下は、その、なぜ公子という立場にありながら、軟禁同然の待遇に甘んじられていたのですか? あ、いや、すいません、答えたくない、ですよね」
ニカがしまったという顔で歯切れ悪く言葉を彷徨わせて、クロードは目を細めて表情を和らげる。
「不満がなかったから、かな。今でもなんでそんな悪いことみたいに言われるのか、いまいち理解出来ないんだよな。母上は元々侍女だったから、身の周りには昔から最低限の人しかいなかったし。あの塔の中にいれば、嫌なことなんてなんにもなかった」
塔の外に出なければ誰にも詰られない、兄達にも小突かれたりしない。
妖精達がいつも側にいて、じゃれついてきていたからそんなに寂しくもない。たまに、式典などで外に出て嫌なことがあっても、妖精達に愚痴を言うとそれなりにすっきりした。
「あ、そういえばいつからかな。ずっと昔はそれなりに怒ったりはしたけど、いつの間にか全然気にならなくなったんだよなあ」
フィグネリアに怒れと言われたけれど、難しい。なんであんなに腹が立ったのか、まったく思い出せない。
「……最初は抑えてたのではないですか?」
「ああ、それもあるのか」
嫌なことは耳にも目にも入れず、母のことを思い出したり、妖精達と遊んで気を逸らす。いつの間にか、意識しなくてもいつもその状態でいられるようになった。
「おかげで、毎日楽しかったけどな」
「そういう楽しいはあまりよくないと思います……」
ニカが手元にある最後の書類を所定の場所に置く。
「よくないのか。フィグもそんなこと言ってたな。あ、手が空いたんならこっち頼んでいいか? 俺、同時にふたつのことするの苦手なんだよな」
クロードは自分の書類を半分ニカに渡す。
(フィグのことだといろんな気持ちでぐちゃぐちゃになるけど、それは悪くない気はするか)
落ち込んで、悔しくなって、哀しくなったり、怒りもあってすごく我が儘で。
あまり経験したことのない自分の心の煩雑な色模様に戸惑うけれど、いけないことという感覚はない。
「クロード殿下? 申し訳ありません、やはり余計なことを……」
自分の手元をじっと見つめていたクロードは、ニカに謝られて顔を上げる。
「……ん、気にしてないからいいって言っただろ。ニカは人がいいんだな。こういう俺のためにザハールに腹立ててくれたり、嫌なこと言ってないか気にしてくれたり、話も聞いてくれるし。そうだ。乱闘騒ぎの時も俺のこと助けようとしてくれたよな」
「それだけで人がいいと判断する殿下の方が、人がいいと思いますよ」
ニカが悲しそうに眉尻を下げる。
「それだけのことなのかな。俺はそういう人間はあんまり知らないけど」
「ほとんど人と話したことがないのなら当然でしょう。……あなたは、本来ならもっと敬われるべきお生まれなのです。もっと尊大でもいいと思います」
「でも、身分が高いってだけで、偉そうにしてもなあ。いっぱい努力してるニカの方が俺よりずっと偉いと思うし。別に敬語とかなしで普通に話してくれた方が落ち着く」
ずっと嫌なことからは全部逃げてきた自分は、ニカに対して威張れることはない。
「……自分はそんないい人間ではありません。ただの臆病で卑怯な人間です」
自分自身に苛立ち、蔑むニカの姿は見ていて気が重たくなる。
(なんだかなあ。すごく真面目で思い詰めすぎる性格っぽいし、家同士の関係があっても、悪いことしそうにないんだけどなあ)
不正に関わっていると暗に仄めかしているようでもあるが、クロードはそうではない気がした。
「ニカ、手を貸して欲しいこととかあるんなら聞くだけは聞くから。……実際に、俺ができることってないかもしれないけど」
クロードは不正事件を解決したい気持ちよりも、ニカが苦しんでいるのをどうにかしたくて言ってみたもののすぐに後悔した。
解決できる見込みもないのに話してくれるはずもない。
「……ごめん、詐欺っぽいよな。料金はもらうけど品物は渡せるかどうかわかんない、みたいでさ」
「その例えはどうかと思われますが……」
苦笑するニカはさっきより少しは表情が柔らかい。だが、それからまた沈黙が長引いた。
「助けて欲しいとは思ってはいません。助けられたいわけじゃないんです……」
そしてニカが罪悪感をちらつかせながら、そう言った。
あまり悠長なことは言っていられないものの、無理に聞き出す術も気持ちもないクロードは話題を変えることにする。
「……ニカは、勉強何が得意なんだ? 俺は史学が好きだなあ」
問いかけると、すっかり瞳から生気をなくしているニカが、目を合わしづらそうにしてからぽつりと答える。
「……算術です。史学はあまり得意ではありません」
それからクロードはニカと、時々つっかえながらもとめどなく話す。帝都での暮らしだとか、故郷の馬の話や父親との思い出。他にも政務官としての仕事の話。
一個、一個がニカにとって大事なものだというのは、語るときに瞳に活力が戻る姿で分かる。
(全部、なくすかもしれないのに、不正の密告なんてどうしてしたんだろう。助けて欲しくないってどういう意味かな)
ニカには自分にはないものがたくさんある。それを全部投げ打つだけの理由は思い当たらなかった。
***
日暮れ頃になってニカを中央宮の中央通りへと送り届けた後、クロードは小宮には行かずに寝室に戻る。中ではフィグネリアが先にテーブルについていた。
「今日は口論が起きなかったそうだ。エリシン五等官がルーロッカ様と何らかの関係はありそうだな。不正事件の方はどうだ?」
「そっちはまだ、駄目です。いろいろ話したんですけど、肝心のことは全然喋ってくれなくて」
ほとんど役に立てなくて気落ちしているクロードは、フィグネリアの隣に腰を下ろす。
「でも、フィグが可愛いっていっぱい話せてちょっと楽しかったかも」
「待て、何の話をしていたんだ。これ以上、妙な噂が広がる真似をするな」
クロードは厳しいフィグネリアの声にびくつきながら、小首を傾げる。
「妙な噂ってなんですか?」
フィグネリアは何も答えずに頬を染めて顔を背けた。可愛いのだが、ものすごく気になる反応である。
顔を覗き込むと、彼女はさらに視線を別に持っていってごにょごにょと、ザハールから聞かされた噂を話した。
「なんですか、その無駄に夢と浪漫が詰まった噂は。実際は、執務室じゃ俺にだって何にもさせてくれないのに。というか、変なことされてませんよね」
クロードは真剣にフィグネリアに確認する。
駄目だと言われている自分ですら側にいると触れたくなるのに、そんな噂を聞いたなら躊躇わずにあれこれしたくなるはずだ。
例え髪の一筋だろうと触れたのなら許せない。
「されるか、馬鹿め。だが、下らん噂に動じてしまったことは確かだ。これ以上負けはせん。いいか、何が何でもあの男を引き込むぞ。そのためにはお前の役割はことさら重要だ」
闘志を燃やすフィグネリアは先ほどと打って変わって勇ましいものだった。
「別に、引き込まなくてもいいと思うんですけど。まあ、言われなくても、もちろんやってみせますよ」
そんな妻の勢いに引っ張られて、クロードは力強くうなずく。
「よし、その調子だ。……それで、エリシン五等官に私のことをなんと話したんだ」
「普通に、フィグは可愛いって言っただけですよ。そうだ、ニカはフィグに憧れてるから、王宮で仕官し続けたいって言ってましたよ」
そう言うと、フィグネリアは苦い笑みをこぼした。
「憧れ、か。そう思ってもらえるほど、できたた人間ではないがな。しかし、ならばなおさら密告が腑に落ちないな。ザハールの見当違いでもないだろうが」
「うーん、なんか知ってそうでしたよ。えっと、ジトワ家とエリシン家の関係は?」
クロードの質問にフィグネリアがザハールから聞いたと返答する。
「密告してニカになんの得があるかっていうと、不正に関わってたなら減刑とジトワ家と縁を切ることが目的になりますよね。関わってなかった単純に功績になって、やっぱりジトワ家と縁を切れる」
「だが、エリシン家の財政は補填してもらってあれなら、繋がりが切れた途端に破綻する。昇格できたとしても厳しい。それに、そんな手段でしか財政を維持できないのなら、領地没収もやむをえん」
財政管理については得に手厳しいフィグネリアが断言したということは、エリシン家の財政の立て直しは不可能に近いということだろう。
しかし、割り切れないものがある。
「こういうやりかたで昇格する人は罰したりしないんですか?」
「試験に通れば認める。他家の財政を助けられるほどの余裕があるということは、それだけ財政管理を上手くやっているということだ。実際、ジトワ家の納税額は大きい。こちらとしてはきちんと、納めてくれれば文句は言わん。しかしジトワ家の場合は、工費の水増しで得た利だろうから別だがな」
「うぐ。でも、最初に上官に気にいられないと、試験も受けさせてもらえないんですよね。それを盾に取られたら、嫌なことでも従わないと」
「そういった場合は吏事に訴えればいい。律時と吏事で審議され上官は相応の罰を課せられる。エリシン家の場合は素直に赤字を申請して、領地を縮小すれば立て直しは出来たはずだ」
淡々とフィグネリアが言うのに、クロードは夢を語るニカを思い出す。
「フィグのこと尊敬して憧れて頑張ってるのに……」
彼女の理屈は分かるけれど、心情としては呑み込みきれない。
「そうだな。今の官吏の登用制度はもう古い。領地の大きさに関わらず、能力のある者を登用する仕組みを新たに作らねばならない」
フィグネリアが最後に告げた言葉にクロードは、目も口も開く。
「それ、すごいです。そしたら、ニカもまだ機会があるんですね」
「そう感心するな。これは父上の案だ。昇格の制度の不正を減らす整備に手間取られて、まだそこまでは手をつけられてはいなかった。これから、だったのだがな。それにだ、長年の慣習を壊すのは容易くはない。何年もかかかるだろうな。父上のやり残されたことも、少しずつやっていかねばならないが、難しいな」
そう語るフィグネリアは、たったひとつしか違わないのに、ずいぶん大人に見えた。
「なんだか、今、フィグに憧れるニカの気持ちがよく分かった気がします」
「……お前にも手伝ってもらうからな。とはいえ、私達だけにはどうにもならん。そのためにはザハールを引き入れるのは必須だ」
話題が戻ってきて、クロードはしょうがなくうなずく。
「俺がもうちょっといろいろ持ってたらなあとは思うんですけどね」
フィグネリアのやろうとしていることは自分にとっても魅力的で、できるだけ力になりたい。それなのにやれることは限られていてもどかしい。
「どちらにしろ、全部は手に負いきれない。できることをそれぞれがすればいいと、教えてくれたのはお前だろう」
フィグネリアの声音はとても優しかった。
「……ただ私は、そうだな。少しお前に頼りすぎかもしないな」
「そうですか?」
フィグネリアはいろんなことをひとりでこなしてしまう。
自分ができていることといえば、彼女が抱えているたくさんの荷物を落ちないように片時も目を離さないでいるくらいしかなく、ぐらつきそうになったら支える程度だ。
本当は半分ぐらいは肩代わりしたい。
「ああ。せっかくお前にはお前にしかできないことがもっとたくさんあるだろうに、私ばかりが独占してはもったいない」
「俺は別にそれでもいいんですよ。フィグが全部でいいんです」
フィグネリアが困り顔で微笑んで、クロードは何が駄目なのかと小首を傾げる。
「だが、さっきはエリシン五等官のことも気にかけていただろう。視野が広がった方が得られるものが増えるはずだ」
確かにニカとたくさん話をして、それまで気にならなかったこともちょっと見えた気もする。
「分かりそうで、まだよくは分からないです」
これまで全部、何もできない自分が頑張れたのはフィグネリアのためだからだ。
役に立たない。何も持っていない。分不相応。
いくら外から言われたって、フィグネリアひとりが認めてくれればそれで満足だった。だが、今はそれでは駄目だとザハールに言われてしまっている。
もっといろんな人に認めてもうのに、必要なのはそういうことなのだろうか。
「まあ、その内分かってくれればいい」
よしよしとうなずいて、フィグネリアが微笑んだ後にふと真顔になる。
「……本当は、私だってお前を独占したままでいたいのだがな」
つぶやかれた言葉は思わず漏らしてしまったらしく、フィグネリアは視線のやり場に困っていた。
クロードは手を伸ばしてフィグネリアの頬を両手でそっと包むように挟んで、鼻先が触れそうなほど顔を近づけて、視線の逃げ場を奪う。
「俺がフィグのことひとじめしたくても、義兄上と義姉上やリリアさん夫婦みたいにフィグのこと大事なにしてる人、ニカみたいにフィグを目標にする人、他にもフィグのこと必要としてる人がいっぱいいて無理だけど、俺にはフィグだけだし、独占されちゃってもいいですよ」
「少なくとも、家族はお前のことを大切にしているぞ。これから、他にもお前を必要とする人間は必ずできてくるはずだ。だから、私もお前は独占できん」
少しむくれた口調でフィグネリアが言う。
「……そうですね、義兄上達は俺のこともちゃんと心配してくれてましたね」
大した怪我でもないのに様子を見に来てくれた義兄夫婦を思い出し、胸の奥にまた幸せを見つけた気分になる。
「そうだ。私達はお互いを独占しあうのは駄目だ」
言葉とは裏腹に、今のお互い見つめる先は相手だけだった。
「でも、ちょっとぐらいの間なら許されませんか?」
返事を聞く前に、クロードは桜桃色の唇を啄む。その唇が笑みに変わって、幾度となくふたりは口づけを交わす。
氷に似た薄青の瞳が熱に溶けるのが、綺麗だった。
今この瞬間は、フィグネリアは自分だけを見ている。でも、視線だけでは物足りなくなる。
「愛してます」
クロードは冷たい石のピアスがついた耳朶に唇を寄せて囁き、甘噛みする。
五感全部、ひとりじめできるのは自分だけの特権だ。
そうして、自分も同じように五感全部、彼女で満たされたい。
首筋に唇を移すと、甘すぎない清涼な香りが鼻腔をくすぐり、耳の中に甘い吐息が転がり落ちてきた。
「っ、こら、待て。まだ日も暮れたばかりなのに……」
形ばかりとすぐ分かる弱い抵抗に、少し体を離してもまだ間近にある豊かな胸元の留め具を外しにかかる。
「だから、せめてベッドまでは我慢しろ」
「……ベッドまでですね」
言質を取ったクロードがそう言うと、フィグネリアはむくれる素振りを見せながらも首は縦に振ってくれていた。
***
翌日もニカと書庫で話すことになったクロードは、小宮に繋がる柱廊の途中で足を止めた。
冬になって雪よけのために両脇には、木製の帳が下ろされている日が多いが、今日は解放されて雪景色が楽しめる。奥の森の側には、親子とおぼしきリスが見えた。
「この国のリスってもこもこしてるよなあ。俺の所のリスってもっとこうしゅっとしてて、小さいんだよな」
薄茶色の毛玉のようなリスを眺めるクロードは、ニカに両手を狭い幅を示して上から下に移動させる。
「夏毛の時は細いですよ……あれかな、この間、王宮で見たリスって」
「王宮にリスがいたのか?」
「はい。四日前、五日前だったか、よく覚えてないんですけれど入り込んできてて、外に逃がそうと思ったけど捕まえられなかったんです」
「外より中の方が暖かいからまだいついてるかもな。俺もここすごく寒くて苦手。……それにしても、一回ぐらい触ってみたいな」
うずうずとクロードは触り心地よさげな毛皮を纏ったリスを見つめる。警戒心が強いらしく、近づくとすぐに逃げてしまうのだ。
そんなクロードの視線に反応したのは雪の妖精達だった。風の妖精達みたいに大暴れすることはないが、笛を吹いてくれるの、という期待をひしひしと感じる。
「寒いから、お前ら便乗するな! 後で、後でな」
そして風の妖精達がそこに乗りかかって冷たい風を吹かせて、クロードは身を縮込ませた。
「どうしたんですか?」
端から見ていると明らかに不審なクロードの様子に、ニカが一歩退く。
「ごめん。気にしないでいいから、忘れといてくれ」
「はあ。……あの、幻聴が聞こえるとかそういうのではありませんよね」
「? いや、そういうのじゃない。俺は大丈夫だから。本当に大丈夫」
それならいいがと心底心配そうなニカに、クロードはひっかかりを覚える。
あまりにも真剣すぎるのと、顔色も心なしか悪くなっている気がする。
「君、本当にやる気があるのか?」
考え込んでいるとそんな声がかかった。振り返ってみれば、ザハールが白けた顔で立っていた。
「ありますよ。今から話すんです」
むっとしながら、クロードは返した。
「話す、ね。エリシン五等官、君もこんなことで時間稼ぎしても無駄だと、わかっているんだろう。どう転んでもエリシン男爵家は終わりだ。そろそろ現実を認めて、全てここで言ってしまえばいい」
ザハールに見下ろされたニカが首をすくめる。
「強情だな。まあいい。明日にそこの彼が何も聞き出せないなら、僕と一対一で話し合ってもらう。覚悟しておくように」
「なりません。ニカ、行くぞ。あ、それと俺の奥さんに絶対変なことしないでしないでくださいね」
クロードは目をまん丸くしているニカを呼んで、早足で歩き出す。しかし、すぐにザハールに追いつかれるどころか追い越されてしまう。
「君、足も遅いんだな」
たどりついた小宮の廊下を長い足で優雅に歩きながら、振り返ってザハールが微笑んだ。
「性格悪いなあ……」
清々しいまでに嫌味たっぷりのザハールの後ろ姿に、クロードはそうぼやいて書庫の方へと向かう。
「クロード殿下、今日は珍しいですね」
ニカに言われてクロードは何がだろうと首を傾げる。
「いつもは何も返さずに寛容にされているのに」
「あ、そうだ。今、俺、怒ってる。なんでだろ?」
まだザハールの言葉に対する苛々が胸に残っていて、クロードはその正体を探るかのように自分の胸に触れてみる。
馬鹿にされたからだろうか。それはいつものことなのに、今日に限ってはちょっと違う。
そうだ、とクロードは気づく。
フィグネリアのために頑張っている気持ちを、やる気がないなんて軽く見られたからだ。
「あ、なんか少し分かった気がする。というより思い出した?」
兄達にいじめられて罵られて、自分を否定された時の気持ちが、ぼんやりとながら胸にある。まだはっきりとは掴めないけれど、先へ一歩進んだ気がする。
「何がですか」
怪訝そうなニカに、うんとクロードはうなずく。
「いろんなこと。それはいいから、今日もじっくり話すぞ」
クロードは書庫の扉を開けて、今日はすでに火が入れられている暖炉の前の席までそそくさと移動した。
「ニカ? どうした?」
書庫のから数歩のところでニカは立ち止まっていた。
「クロード殿下、自分は殿下が望まれるようなことを話すつもりはありません」
「話したくないなら別にいいよ、とは言えないから、それは困るなあ」
クロードが椅子に座ったままニカを真っ直ぐに見る。
「申し訳ありません……」
ニカはうつむいて心許なさげに拳をぎゅっと握りしめる。
「俺が役に立てることなんてないかもしれないけど、ニカがどうしてそんなに困ってるか知りたい。それから、できることないか一緒に考える。知らなきゃ考えることだってできないし、でも、解決できる見込みなしだと喋る気にならないか」
そこまで言って、クロードはこれでは昨日と一緒だと気が沈んでくる。
「……あの、明るく言っておきながらそんな顔するのはやめていただけませんか?」
気持ちが顔にでてしまっていたらしく、顔を上げたニカがため息をつく。
「殿下は、自分が駄目だと言う割にはしつこいですよね」
「しつこいのか……」
「だから、いちいち落ち込まないでいただけますか。あなたの前向きさは変です」
変だと言われても、とクロードは考える。
「いや、だって駄目は駄目だけど、やらなきゃフィグが困るし。それは俺は嫌だし、だったら駄目だけどやってみる? 自分が思ってるよりはできること多いけど、あくまで人並み程度にぐらいだろうから、どこまでできるか分かんないけど」
それに、とクロードはつけ加える。
「ニカの大事なものがよく分かんないままなくなっちゃうのはすっきりしないんだ。上手く言えないけど、俺、大事なものってあんまりないからさ、聞いててすごく羨ましかったし、なくなるのは嫌っていうか、仕方ないってこともあるだろうけど、仕方ないの一言ですますのも嫌だし……」
自分でも訳の分からない気持ちをどうにか言葉にしようと、悪戦苦闘してしているうちに、ニカが歩み寄ってきて隣の席に腰を下ろした。
「殿下はおかしいです」
「ニカ、さっきから正直だな。いや、俺が言いたいことは言っちゃえって言ったんだけどな」
ここまで言われるとは思わなかった。というより、本当に聞きたいのはそこではないのだが。
「……自分も、変なんです」
ニカがクロードの方は見ずに、机の上に置いて組んでいる自分の手に目を落とす。それから躊躇い瞳を一度伏せて、彼は一呼吸する。
「幻聴が、聞こえるんです。このところずっと。だから何も集中できなくて」
机に肘をついていたクロードは思わず姿勢を正す。
「いつからだ? 最近って四日とか五日ぐらいで、政務室の方にいるときだけってことはないのか?」
ニカが顔を上げて目を最大限に見開いていた。
「そうです。官舎やここにいる時は何も聞こえないんですけど、あの一体に入ると聞こえてくるんです。いろんな声が。知っている声も、知らない声も」
間違いなくルーロッカだろう。ということは、ニカの近くにはた迷惑な神霊は確実にいるのだ。
「具体的にどんな声だ」
真剣に詰め寄ると、ニカは言いづらそうにする。
「周りが自分をどう思っているか、それより自分が自分をどう思っているか、知らない声が耳の中でずっと喋ってるんです。それで、あんなこと」
勢いづいて言ってしまったらしく、ニカが言葉を戻すかのように息を呑んで口を噤むがもう遅い。
「密告のきっかけはそれなのか?」
クロードが訊ねると、ニカはゆるゆると口を開いた。
「はい。書類を処理しようとしていると、全部嘘だって声が聞こえたんです。それで、確認していて、何枚かはただの書き損じではないことに気づいたんです」
「でも、気づかないふりもできただろ」
そのうちばれることがあっても、放置しておけば発覚は遅れる。ニカの立場ならそのまま廃棄する考えが真っ先に浮かんでもおかしくない。
「していれば、よかったんですよね。自分でも馬鹿だと思います。あのとき、こんなことのために仕官しているわけではないんだと、ただそればかり頭にしかなくて……」
ニカが自嘲する。
彼の家を建て直すために、国のために、フィグネリアのために、そんな思いはその瞬間に全部踏みにじられたのだ。
「でも、律事まで行こうとしたときに我に返ったんです。ある日突然廃棄する書類が不正の証拠になると気づいたなんて言って、誰が信じますか? 俺はこの二年ずっと、ジトワ二等官に書類の廃棄を頼まれていました。一体いつから不正の証拠隠滅に荷担していたなんて、分らないんです」
それに、とニカが声を震わせる。
「叔父や父は直接関わっていたかもしれない」
吐き出して彼がきつく目を閉じる。言葉も仕草も何もかもが痛々しくて、クロードも胸の辺りが苦しくなった。
「それでも、密告はやめなかったのか」
「はい。だけれど万が一父や叔父を裏切ることになるかもしれないと思うと名乗りを上げられませんでした。先々代のジトワ家には恩もあります……」
たくさんのことに板挟みになっても、正義心は捨てきれなかったニカは匿名での密告という方法で折り合いをつけたらしかった。
「そっか。ごめん。そういう事情なら、話せなかったよな。うう、でもザハールにもフィグにもこれ、報告しないとなあ……」
結果的に自分もこれからニカの苦渋の決断を無為にしてしまうのかと思うと気が重い。
「殿下、気になさらないで下さい。自分は、裏切り者になりたくなくて逃げていただけなんです。殿下のお話に付き合っていたのだって、イサエフ二等官の言う通り、時間稼ぎだったんです。本当に申し訳ありません」
「不正を隠さなかっただけでも、偉いと思うけどな。だって、明らかになったニカの仕官し続けたいっていう夢、なくなっちゃうんだろ。ニカは家族のことも好きだし、他にいろんな大事なものもあるのに……」
正しいことをしたのに、ニカは失うしかないなんて悲しいとクロードは思う。
「……ジトワ家との繋がりも絶てず、いずれ時期がくれば領地縮小しなければならないのは分かっていました。エリシン男爵家はもうとっくに駄目だったです、事によっては爵位もなくなる。結局はそれが真実なんです。最初から、叶わなかった夢で、失うはずのものだったんです」
感情の薄い声で喋るニカの瞳には夢を語る輝きはどこにもなかった。
「幻聴もそうです。ジトワ二等官のことで取り調べを受けていたとき、全部言おうとは思ったのです。ただ、周りが自分が不正事件について何か知っている、荷担していると言っている幻聴が聞こえて、なにも言えませんでした。逃げたいから、あんな声が聞こえるんです。最後には俺には何かを変える力はない。そう思ってるんだろうって、いつも語りかけてくるんです」
失望を生む真実。
ルーロッカはニカにそれを容赦なく与えている。酷いことだけれどそれを引き起こしたのは人間側だ。
遅かれ早かれこうなっていたことは変わらない。
(やりきれないな)
クロードはうち沈むニカを見ながら、胸ポケットの笛に意識を向ける。
『けして、誰にも知られないようにしなさい』
いつも穏やかだった母が声を厳しくするのは、自分の力についての時だけだった。
人間にとどまらず神霊までもが、この力を巡って騒動を起こして身を持って母の言葉の重さを知っている。
だけれど、力のことに囚われない人もいるのを自分は知っている。
「……イサエフ二等官に全て話してきます。調査を混乱させる真似をして申し訳ありませんでした」
ニカが立ち上がって、クロードは思わず引き止めてしまう。
「幻聴はニカのせいじゃない。えっと……」
一瞬躊躇ったものの、ニカの重石をひとつぐらいはとりたくて全部話した。力のことも、ルーロッカのこともなにもかも。
自分から話すのは恐かったが、ニカならちゃんと力のことも、正しい判断をしてくれると心の中で信じる気持ちもあった。
言葉を挟む余裕すらなく唖然として話を聞いてたニカが、ゆっくりと深呼吸する。
「……つまり、俺の幻聴や口論は全部ルーロッカ様が起こしていて、あなたは神の楽士で……申し訳ありません、少し頭の中を整理させていただいてもよろしいですか?」
「うん。いきなりこんなこと話しても信じられないよな。俺も話しちゃって落ち着かないし。あ、言い忘れてたけどこれ、秘密だからな」
クロードはいまさらながらに心臓が早鐘を打ってきて、気持ちを静めるために銀の横笛を取り出して握る。
「そういうことは最初に言うものですよ。ですが、幻聴は自分のせいで違いありません。ルーロッカ様は真実しか仰らないのですから。ですが、ルーロッカ様は神界にお帰りいただかないとなりませんね」
思ったよりも冷静なニカの反応にクロードも落ち着きを取り戻していく。
「それにしてもこの国の人って本当に神霊様とか妖精とか当然なんだな。フィグも妖精自体には驚かなかったし」
「自分にとっては異教の方達が神を奉りながらも、存在自体はほとんど信じないという方が不思議ですが」
「そういうもんなんだなあ。それでな、さっきも話した通りニカの近くにいるはずだから協力してほしいんだ。密告は、まずはフィグにニカが何も知らないって話してから、ザハールの所、行こう」
「……皇女殿下は信じて下さるでしょうか」
ニカの気鬱な表情に、クロードは力強くうなずく。
「大丈夫。フィグはちゃんと話をきいてくれるから。い、今から行ってみるか?」
「心の準備が、まだ。皇女殿下と直接お話するというのも……」
話している時点で相当に緊張しているのが見えて、クロードはうんと笛を見る。
「ひとまず落ち着こうか、俺ら」
そしてクロードは笛に口をつける。
流れ出した旋律に暖炉の炎が揺れ、その周りの暖まった風がゆったりと音と共に部屋に満ちていった。
***
その頃、フィグネリアは応接室に兄のイーゴルと共にいた。
「今年は南の方も酷いな」
雪の被害をまとめたものを読んで、どっしりとソファーに座るイーゴルが眉根を寄せる。
「ええ。ロンバ街道まで埋まると思いませんでした。この辺りで物流が滞るのはあまり、よくはありませんね。国境付近常駐の兵を幾人か動かしていただければと思います」
「分かった。国境警備についてだが春には人を増やしたい。サムルとマーハの砦周辺を護りの要とした布陣を組むつもりだ」
頭の中で地図を描きつつ、フィグネリアはうなずく。
敵対国であるロートムとの関係は三月前の騒動から緊張が続いている。今すぐどうこうなるわけではないが、増強することにこしたことはない。
「予算はできるだけとれるようには配慮しますが、雪害がこれでは難しいかもしれません。春まで、遠いですね」
「今年はスノウェン様が一度も降りてこられなかったから、皆覚悟はある程度はできていたがな。そのかわりアトゥス様が恵みを約束して下された。そう気落ちせずに持ちこたえるしかないな」
「そうですね……」
兄妹で神妙な顔で向き合っていると、外から侍女がザハールが来ていると声をかけてくる。
「例のガルシン公の甥御か。俺は軍に戻るか」
「兄上が遠慮することはありません。話が終わるまで待たせておけばよいのです」
せっかくの兄妹水入らずの時間を割いてまで、ザハールに対応する気にはなれない。
「そう重要な話はもうない。後は銃について相談があったが、これも資金がたりんという話だからな。ここで話し合っても解決はできんだろう。卑怯な手で奪われた国の財を取り戻すのが先決だ。それは俺にはできんことだから、全部任せてしまうが、大丈夫か?」
「大丈夫です。クロードもよく働いてくれていますから」
自信を持って微笑むと、イーゴルも嬉しそうに首を縦に振った。
「そうか。俺の力が必要になったら声をかけてくれ」
ぽんと、頭に手を置いてからイーゴルが退出していく。今でもこうやって兄に頭を撫でてもらったりするのは好きで、嬉しくなる。
口元についそんな気持ちを出してしまっていたフィグネリアは、ザハールが部屋にやってきて表情を引き締める。
「扉は閉めてもよろしいですか?」
入って来てそう言うザハールにフィグネリアは静かに是を返す。
「今日はまた一段と隙がないですね。あなたに琥珀はあまり似合わないと思いますが」
飴玉に似た琥珀の玉が乗ったフィグネリアの耳たぶに目を向けて、席についたザハールが肩をすくめる。
「かまわんだろう。好きなのだから」
さらりと返して書類を早く渡せと話題を切り替えると、ザハールが面食らった顔をした。
「これは賭けに勝つのは厳しそうだ」
「……今度は一体何を賭けているんだ」
「いえ、前の賭けの結果はつまらないということで、今度は私が皇女殿下を落とせるか、に変わりました。今度は落とせないが多かったですね。悔しいので落とせるに私は賭けてきました」
はたして律事はこの忙しいときに何をやっているのだろうか。
書類をめくると特に遅れていると感じることはない。とはいえ昨日の今日でそう大きい進展もない。
「話し合うことはあまりなさそうだな」
「この件に関しては、ですね。同僚や部下が優秀なので、仕事は任せて私はあなたの気を引きに」
ザハールの表情や声音に甘さが含まれるが、その藍色の瞳は攻撃的だ。
「私の気を引ける話題があるのか?」
フィグネリアは傲岸に問う。
「技術革新。それについて私は興味があるのです。皇女殿下は銃について今、普及を進めているようですが、軍備以外に手をつけられる気は?」
「ある。なるほど、織機の改良による大量生産が目的か」
ディシベリアの技術は隣国ロートムに大きく遅れをとっている。今のままでは軍事でも財政でも勝てなくなる。しかしながら、人々の意識を変えるのが難しくそちらに予算を割くにも、なかなか同意が得られていない。
「我が領地の浅黄の染織は希少で質がいい、というのが大きな売りです。ただ質がよすぎるため、高価で手を出しづらい。絨毯やタペストリーはそう頻繁に買い換えるものでもありませんし。衣服に使う生地の方はやや値は下がるが、まだ売れます」
「生地を増産したいわけか。希少性は絨毯などの高級品に残し、生地は値を下げ手に取りやすくして収入を安定させたい、か」
「大体はそうですね。実際手に取ってもらって質の良さを知って、高級品の方にも手を伸ばしてくれればと。しかし加減を間違えれば、これまで築いてきたものが全て失われる。危険も多いですが、手を出す価値はあると思うのですよ。そこに投資するだけの財もある」
ですが、とザハールが言葉を切る。
「それをするには職人達の説得がいる。皇女殿下が銃から手をつけるのは、その手間がいらず技術力の向上によって何がもたらされるかを端的に示せるからでは?」
「……銃は戦が起らねば無用の長物だ。ロートムに動きがあるので、必要に迫られているからにすぎない。だが、それが他のことへの足がかりになればいいと思っている」
思ってはいるがなかなか進まない。もたもたしている内に、どんどんロートムに引き離されていくというのにだ。
「しかし、それも資金繰りができなければ技術者の育成も何もできないでしょう。かといって職人達の説得も難しい。堂々巡りです」
ザハールが長い間をとって、ゆるりと口を開く。
「問題の根本には神霊方への信仰がある」
フィグネリアは躊躇いのない明確な声に息を呑んだ。
彼は触れてはいけない領域に踏み込もうとしている。
「およそ四百年前に染料の元となる鉱石の鉱脈を神霊ルマラリ様が授けて下さったのが、我が領地の浅黄の染織の始まりです。さした特産もなく、豊かでもない地がそれで大きな財をなした。職人達にとって糸を紡ぎ染め、機を織ることは神事と同義です。無論、坑夫達にとっても。これは我が領地に限らず、ディシベリアの主要な産業の元を辿れば必ず神霊方にいきつく」
主要どころか、ありとあらゆる場所で聞く話だ。ディシベリア繁栄の影に神霊達はいる。
「我々は一度神霊方とのあり方を見直す時期に来ていると思います。そうでなければ、エリシン家のように潰れてしまう」
「神霊方をジトワ家に置き換えるのは乱暴だぞ」
もちろん、とザハールが珍しく素直にうなずく。
「ただし、ルマラリ様は我々に富をもたらすために、鉱石を与えられた訳ではない。ただ綺麗な浅黄色の大きな絨毯が見たいから、この鉱石を使って作れと仰っただけなのです。そして余った分は好きに使っていいとそれだけです」
「そこが問題だな。そもそも何をもって余りとするのか」
所有権はあくまで神霊達のものであるという前提があるからこそ、やり方を変え量産するという方向に人々の意識を向けるのは難しい。
それに神霊達のものさしというのはよく分からない。今もイサエフ侯爵家は年に一度大神殿に絨毯や織物を献上しているが、神霊からの反応は十数年に一度、今年のは綺麗で気にいったとだけあるだけらしい。
「そうです。ルマラリ様が飽きた、もういらないと思えば鉱脈は自分達で探さねばならなくなる。その手段にはどうにか着手して量産の体制は整え始めていますが、鉱脈は神霊様の物で、神子様が妖精の動きを感じて見つけた鉱脈以外は勝手に掘り起こしてはならないと言って、坑夫達が動かない」
神霊を降ろせるのは大神殿の大神子のみだ。地方の神殿の神子達は妖精達の動きをぼんやりと読んで鉱脈を見つける。それも神霊によって妖精達の動きが大きくなっているからこそ見つけられるのだ。
「あまりにも不確かなものに依存しすぎている現状は、どうにかしなければならないと思いませんか? このままでは私達はひとつの所に留まったままです」
その意見は自分と同じだが、とフィグネリアは腕を組む。
「しかし、どう見直す気だ」
「それが残念ながらまだ見えないのです。しかし、ロートムの信仰するナルフィス教にある使徒や悪魔の名は、神霊方と共通しています。元は我々と信仰は同じだったのでしょう。何らかの理由と方法によって、彼らは神霊方から離れた」
「それでも、ディシベリアと肩を並べる大国であり続けているか。宗旨替えするつもりか?」
「いえ。そこまで変えるつもりはありません。私もあちらの信仰はあまりに神霊方を人の都合のよく伝えていて好きではないので。どこかに、よい落としどころが必ずあるはずです」
「……人の思う通りになるとは考えられんがな」
神霊達の力の脅威は身を持って知っている。下手に怒りに触れれば、人間など指一本動かすこともできずに打ちのめされるだろう。
「だからといってこのままでよいとは思ってはいないでしょう。今は変革の時期に来ているのです。先帝陛下がその種を蒔かれ、あなたが育てている。そしてあなたもまた、新たな種を蒔こうとしている。かといって水も養分もあなたひとりでは賄えない。そのためには、私の持っているものが必要でしょう」
ザハールには財もあれば人脈もある。物事を冷静に見ることもできる。そしてなによりも自分の目指す方向性に理解もある。婚姻という代償だけで手に入るのなら、以前の自分ならば多少は考えたかもしれない。
「必要だな。婚姻を結ぶ以外に条件はないのか?」
すんなり認めてフィグネリアが訊ねると、ザハールが不服げな顔をする。
「なぜあなたは頑なにあの公子にこだわるのですか。あなたは自身の能力についても冷静に判断できている。伯父や父が無理だと一言で捨てた、私の改革案に耳を貸すこともできるというのに、一点だけまともな判断ができていないのが納得がいきません……また、笛ですか」
ふと聞こえて来た笛の音に、フィグネリアは耳を傾ける。優しい音だ。何かに例えるべくもなく、クロードの穏やかで心が安まる笑顔が思い浮かんでくる。
「……祭事の楽士に選ばれただけあって演奏は素晴らしいとは思いますがね。まさか、これで神霊方のご機嫌でも伺うつもりですか?」
冗談めかしてザハールが笑いながらも、笛の音がする方に視線が向いてしまっている。
妖精どころか神霊ですら陶酔させてしまう音色に抗える者はいない。
(世界の影の王、か)
フィグネリアは地母神ギリルアの言っていた、妖精王のもう一つの呼び名を思い起こす。
神界と人間界の境界の調整を図っているかもしれない存在。
地母神ですら全てを把握出来ずにいるという彼が、変革期を迎えるディシベリアにいることに意味があるのだろうか。
フィグネリアは一抹の不安に心を揺らしながらも、やがては笛の音に全てが押し流されていってしまった。
***
「フィグ、ちょっと……」
ザハールが退出してすぐの頃、クロードが悪戯が見つかった子供のような顔をして、執務室の入り口で突っ立っていた。
フィグネリアは何かあったのだろうかと、彼の前に立って琥珀の瞳を覗き込む。
「ごめんなさい。ニカに全部喋っちゃいました」
クロードが徐々に視線を別に逸らしながらニカに妖精王としての力や、ルーロッカについて話したことを説明する。
「自分の判断は間違っていたと思っているのか?」
すでに説教待ちの体勢でいるクロードに、フィグネリアは穏やかに問う。
「ええっと、ニカになら大丈夫だと思いました。でも、こんな大事なことフィグに相談もなく、勝手にいろいろ喋っちゃって……」
「相談はあった方がいい。だが、その力の危うさは自分自身がよく分かっているだろう。お前が大丈夫だと思うなら、私はその判断を信じる。驚きはしたがな」
自分からクロードが力について話すのは初めてだ。なにやら大きく前進したように思えて嬉しくて、フィグネリアは口元を綻ばす。
「それは喋っちゃった自分が一番びっくりしてます。あ、で、ニカがそこにいるんでルーロッカ様についてどうするか、と不正事件についてフィグと相談した方がいいってなって……」
クロードが廊下にいるらしいニカを手招く。だがなかなか部屋にまで入って来ないらしく、一度彼は廊下にまで出た。
「ニカ、そんなに緊張することないから。フィグはいろいろすごいけど、美人で可愛い普通の女の子だから!」
聞こえてくる夫の声に、フィグネリアは恥ずかしさと呆れで脱力しそうになる。
「説得するにしても、他に言いようがあるだろう……」
しばらく待っているとニカがクロードの背に隠れる格好で部屋に入ってくる。と言っても、クロードと同じ背丈なのでまったく隠れていないが。
すぐさまニカは跪いて、深く頭を下げる。全身からみなぎる緊張に、ザハールと違い形ばかりでないとすぐ分かる。
(クロードが話してもいいと思ったわけだ)
フィグネリアは苦笑してニカの前に立つ。
「楽にしていい。面を上げ、立て」
「……い、いえ。自分如きが皇女殿下を見下ろす形になるのは無礼かと」
顔すら上げず、声を上擦らせるニカにフィグネリアはもう一度立つように促す。
「男共は皆、私より背が高い、いちいち気にはしていられん」
そうつけ加えるとニカがやっと立ち上がる。はらはらと彼を見守っていたクロードも、ほっとした顔をしていた。
「ほら、普通の女の子だろ。間近で見ると遠目で見るよりもっと可愛いし!」
「……お前は余計なことは言わずに、要点だけ喋れ」
「だって、ニカ、緊張しすぎて話進まなそうですし」
フィグネリアは身の置き場に困っているニカに目を向ける。まだまだ表情は硬いが、クロードの調子に多少は力が抜けているらしかった。
それからとつとつと話し、不正問題は後日に回し明日にでもクロードふたりでルーロッカの居所を探る予定をたてた。
しかし、その予定通りにことが進むことはなかった。
***
「資料がない……?」
翌日の朝、自分の鍵のついた執務机の引き出しを開けたザハールは、自分の目を疑いつつ鍵穴を確認する。無理にこじ開けた形跡はなかった。
というよりさっきは確かに鍵がかかっていたので、資料の入れ忘れということもあるが、それは自分の性格上ないはずだ。
「ザハール! まずいぞ」
同僚が駆け込んできて半分焼け焦げた書類を持ってくる。目を落とせば、引き出しの中にあったはずの資料である。
「なるほど、まずいな。どこにあったんだ」
あげくに自分の身内関連である。
「隣の政務室だ。証拠隠滅じゃないかって疑われてる」
「他に燃やされているものは? 誰かが器用に開けたらしくてこの通りなんだ」
空になった机の引き出しを見せる同僚の顔から色がなくなる。
「嘘だろ、誰が。まさかお前皇女殿下に馬鹿やって消されそうになってるんじゃないだろうな」
「それはないな。こんなことをする方ではない」
ザハールは言い切ってなくなった資料の中に、ジトワ家関連も入っていることを思い出す。
言いがかりをつけるならニカを三日も放置しておいたのは、身内絡みの不正の件を隠すためだとかなんとかだろう。
「他の九公家派がうるさいだろうな。とにかく大臣の所へ行ってくる。久々の長期休暇がもらえるかもしれないな」
そう嘯いて同僚を見やると、彼は呆れた顔をする。
「お前本当に気をつけろよ。その性格だからあっちこちに敵作ってるだろう」
「ただの正直者だよ、僕は。後は頼んだ」
ザハールはわらわらと集まってくる不安げな部下や同僚達を、大丈夫だと軽口でいなして部屋を出る。
そうして彼は五日の私室での謹慎処分に決まった。
それから間もなくして、ニカがジトワ二等官襲撃の件で拘束されることになった。