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影の王の婚姻  作者: 天海りく
影の王の婚姻(初出2013.2.15/ビーズログ文庫)
2/12

4~エピローグ


 祭事から二日、中央宮から離れたフィグネリアの執務室のある小宮はものものしい雰囲気だった。

「護衛がいるっていうのは落ち着くと思ったけど、実際いたらいたでなんか……」

 黙々と急ぎの書類を確認していくフィグネリアに簡単な財務計算の課題を終えて提出しに来たクロードが耳打ちする。

 その視線の先には扉があり、外には筋骨隆々とした兵士がふたりいる。イーゴルが見つかるまで周囲に護衛を置くといって聞かないので、今日から十数名の兵士がこの小宮に詰めているのだ。

 視界には入らなくてもこれまで静かだった狭い小宮にかさばる男がそれだけいると息苦しい。

「出来るだけ気にせず集中しろ」

 フィグネリアはさっとクロードの課題に目を通し計算間違いを一カ所見つけ、新しい課題と一緒に返す。平静な態度とは裏腹にその内心は、クロードと同じく落ち着いていなかった。

 兵士達はタラスが選んだ者、つまり反九公家派ばかりで九公家側への体面も非常に悪い。

「……ああ、分かった。吹く」

 少しすると自分の席に戻ったクロードが、低音を中心とした重たい足音のような曲を吹く。妖精達も音に合わせるように足下で気だるげな風を吹かせている。

 曲調は周りの環境にも影響されやすいと言っていたが、このごろはこんな調子ばかりである。しかし、祭事からは妖精達は大人しく話を聞くようには多少はなっているらしい。

「……妖精が大人しいんでそれはいいんですけど、護衛はせめて半分ぐらいに出来ませんか?」

 妖精達は神霊達の言うことを聞いているのか、祭事の日から頻繁に笛を吹かなくても暴れることはない。周りに人が多い中、それだけは助かっている。

「兄上には後で言っておく。出来れば全ての兵達も退かせればいいのだが……そっちは終わったか?」

 自分の政務が終わってフィグネリアはクロードが課題を終えたことを確認する。

「終わりました。続きですね」

 クロードが終えた課題と自分の椅子を持ってフィグネリアの元に来る。

 フィグネリアはクロードと執務机を挟んで向かい合いに座り、一枚の紙を出す。結婚式から今日までの暗殺の書き出してみたものだ。

 昨日は怪我はなくともひとまずは安静にしろとイーゴルに政務をするのも禁じられ、サンドラと一緒に一日を過ごしたので何も出来なかった。そして今日になって護衛つきで政務に戻り、祭事の件の首謀者を洗い出すことを始めた。

「不自然だな」

「一昨日のはいくらなんでも派手すぎますよね」

 実際書き出して並べて見ると飲食物に毒。毒針、毒蛇。他にも毒蜘蛛もあった。見事に毒まみれである。どれも地味だが失敗成功に関わらず逃走の時間がとりやすく、首謀者を曖昧にしやすい。

 直接刺客が送り込まれたのは祭事を除くと一度きり。あの刺客についてはおそらく九公家のいずれかだろうということだ。

「いくら九公家といえどあの神聖な場で騒ぎを起こすのもおかしいな」

 フィグネリアは頬杖をついて文字の羅列の向こうにあるものを見るように目を細める。

 祭事の襲撃者の男は神官が検分したところ、やはり精神に作用する薬が盛られたのだろうということで首謀者の糸口すら掴めていない。しかしあれが九公家の仕業とも考えにくい。

「反九公家派だけじゃなくて国民纏めて敵にまわしますね。目的はフィグの暗殺だけ、なんでしょうか」

「他に目的か……」

 ふたりで額を突き合わせてしばらく沈黙する。

「フィグ、今、起こってることから何か出てきませんか?」

 そして先にクロードがそう切り出した。

「……この状況そのものが目的、ということか」

 現状といえば反九公家派の九公家への敵がい心が強まった事と多くの人間に第一皇女が何者かに命を狙われたということが知れ渡ったことだろうが。

「でも騒動起こしたのって九公家じゃない可能性ありますよね」

「ああ。そこが曖昧だがすでに反九公家派は今までのことからそうだと思い込んでいるな。身に覚えのないことで祭事を穢したと言いがかりをつけられる九公家側もどう出るか」

「どっちもすごく苛々しててあんまりよくない雰囲気ですね」

 顔を見合わせてフィグネリアとクロードは考え込む。

「だが、両者の対立が深まって誰が得をする?」

 現状を考えるだにこのふたつが争いあって得られる利などまるでない。

「うう、ディシベリアの人は困りますよね。ロートムとか?」

「ディシベリアの軍の半分は九公家の私兵だ。残り半分が反九公家派について内乱となればロートムの国力でもってもそれを治めて新たに治世を布くというのは難しい。下手に手を出せば共倒れする。それに、兵器の開発を進めているようだが、それ以外に戦の支度をしている様子はないぞ……何かがたりないな」

 答えを導き出すための重要な何かが欠けている。それを握っていそうなのはとフィグネリアはクロードを見る。

「結局誰がなぜお前を送り込んだかだな。可能性としてはその神の楽士としての力だろうが……本当に誰も知らないのか?」

「母は父にも伝えてないですし、もう何代も前から隠してるって言ってましたからね。大体ばれてたら今頃俺、ここにいないですよ」

 クロードの力を利用してと仮定を立てるにしてもそこで躓くのだ。

 ロートムとしてもハンライダの様な弱小国など年に一度思い出すかどうかの存在で、公子が何人いるかなどどうでもいいだろうし、クロードの存在を認識している人間はハンライダ公国内ぐらいにしかいそうにない。

「本当にどこから引っ張り出されてきたんだ、お前は」

 問うと本人もさあ、と首を傾げる。そしてまた行き詰まってしまいふたりは同時にため息を落とした。

 どうしたものかと考えていると今日はいつもより早くイーゴルが尋ねてきた。今日は兵士が扉を開くので普段よりは静かな登場だった。

「フィグネリア!」

 しかしその声はいつも以上に切迫していて大きい。そして怒気も感じる。

「なぜお前は黙っていたのだっ!!」

 何事かと立ち上がってイーゴルの前に立った次の瞬間には怒鳴りつけられた。

 兄にこんなにも激しく怒られるのはこれが初めてで、訳が分からず呆然としながらフィグネリアはその顔を見上げる。

「命を狙われたのがこれが初めてではないというのは本当か!?」

 ようやくイーゴルの怒りの理由が分かったフィグネリアの顔から血の気が引く。

「一体、誰がそのようなことを……」

「大勢の人間が俺に言ってきた。お前の口にするものたびたび毒が入れられていたことも、刺客が何人もお前を狙ってきたことも全部だ。五年も前から続いていてなぜ今まで言わなかった!!」

 イーゴルは恫喝しながらもその目は悲しげでフィグネリアは見ていられずうつむいた。

「……兄上に、いらない心配をかけたくなかったからです」

 弱々しい声で言うと肩を掴まれて顔を上げさせられる。

「いらないとはなんだ。妹を心配するのにいらないことなどあるものか!」

 兄の言葉に不意に視界が滲んで喉がひりつく。

 それに気がついたイーゴルが目を丸くしてフィグネリアの肩から手を離してうろたえる。

「す、すまない。だがな、フィグネリア、兄としてお前が困っているときに何もしてやれないのは自分が情けなくなる」

 嗚咽と涙を呑み込んでフィグネリアは首を横に振った。

「私ひとりで解決出来る問題です。どうかこの件は全て私にお任せ下さい」

 そう、自分で出来る。やらないといけない。だから、兄は何もしなくていい。

 長年の間に染みついた思考は剥がれない。出来ないからと言ってこの兄が自分を見放すことはないと分かっていても、恐怖が先に立ってしまう。

「俺は、頼りならないのか?」

 お互い一歩も譲らない中、イーゴルがそう言って兄妹の間に重たい沈黙が降りる。フィグネリアが何も言い返せずにいると、彼はそのまま肩を怒らせて部屋を出て行こうとする。

「兄上」

 心まで離れて行ってしまうのが恐くて呼びかけるが、一瞬イーゴルは動きを止めるもののその足を止めることはなかった。

「フィグ……」

 まるで入る隙がなくずっと様子を見ていたクロードが、立ち尽くしているフィグネリアの肩を叩いて兵士達に扉を閉めるように言う。

「……別に兄上が頼りないわけではないんだ。ただ全部明かすと、アドロフ公まで関わっている可能性があることまで言わなければならなくなる。そうしたら必ず兄上は悲しむだろうし九公全てを敵に回しかねない」

 フィグネリアはふらりと自分の椅子に戻ってイーゴルに言えなかった事をぐちぐちと零す。言わない以外に兄を護る術はないのだ。しかしそのことでかえって傷つけてしまっている。

「ここまで来たら全部説明しちゃった方がいいんじゃないんですか?」

 クロードが自分の椅子をフィグネリアの隣まで移動させて並んで座りながら軽い口調で言う。

「駄目だ、まだ、大丈夫だと思えないんだ」

 物心ついてからずっとひとりでやってきたのだ。急には気持ちを切り替えられなかった。

「でもどうするんですか? このままだと義兄上ひとりで犯人探し始めてしっちゃかめっちゃかになりそうですよ」

 クロードに言われてフィグネリアは、ありとあらゆる兄の取りそうな行動を考えて頭痛を覚える。

 兄に怒鳴られて半ば頭が真っ白でそこまで考えていなかった。これまでの暗殺の事を告げたのは反九公家派だろう。祭事という神聖な場で事を起こした九公家側に対しての怒りもことさら大きくなったことと、イーゴルが直接目撃したことで堰を切ってしまったのかもしれない。

 あれだけ口の軽い者は信用ならないと釘を刺していたのに勝手なことをしてくれると、フィグネリアは歯噛みした。

「……兄上は止めないとまずいな」

 このまま救いようのない馬鹿が九公家が裏にいる事を兄に告げてしまうとそれこそ内政が混乱する。

 少々冷静になってきたフィグネリアは腰を上げるもののそのまま止まってしまう。

「クロード、どうやって兄上に切り出せばいい」

 さっきの今でどんな顔をして会っていいのかも分からなかった。

「フィグ、兄妹喧嘩ってこれが初めてですか?」

「……ないな。というかこれは喧嘩なのか?」

 その時点でもうよく分からないとフィグネリアはクロードに答えを求める。

「意見が対立して揉めてるんだから喧嘩じゃないんですか? お互い思い合っての事だから素直に話せば解決すると思いますよ」

 その素直にというのはどういうことなのだろう。何を明かして何を隠せばいいのか。

「いかん、答えが出ない」

 考えれば考えるほど何も浮かばなくなって、フィグネリアは父から出された課題で行き詰まったときと同じ感覚を覚える。

 十歳頃、国務のための基礎が全部出来上がると実際に父の政務を手伝うことが出てきた。その中で父はその時起こっている内政問題を自分に考えさせた。

 すでに要因が出そろっている過去の事例と違い刻一刻と変わる情勢の先読みが出来ず、迷っているうちに物事はどんどんと先へ進んでいき、父が次々と手を打って自分の意見を何も出せなくなるあの焦燥感。

「フィグ、フィグ」

 過去の記憶も相まって完全に動けなくなっているフィグネリアの手を、クロードが目を丸くしながら引く。

「……兄上とどう会話していいか分からない」

「仲いい兄妹なのに?……あ、分かった」

 クロードが不思議そうに言いながらすぐに回答にたどり着いて、フィグネリアを椅子に座らせる。

「フィグ、本音だけで義兄上と話したこと、ほとんどないんじゃないですか?」

 クロードと向き合う形で座るフィグネリアは彼の言葉に一種の衝撃を受けた。

「ないかもしれない。そうだな、お前との結婚を決めたときも嫌とは言わなかった」

 子供の頃から今日までずっと常に自分は兄が一番喜ぶ言葉を探していた。常に、兄の前では兄が褒めてくれて、喜んでくれる可愛い妹でありたかったのだ。

「……嫌だったんですか」

「敵対国寄りの弱小国の第六公子。この条件だけ出されて喜んで結婚したいという馬鹿がどこにる」

 まあそうですね、とクロードが肩を落とすのを見てフィグネリアは言葉をつけ加える。

「今は全くそう思っていないからな。生涯を誓い合う相手がお前でよかった、と思っている。というかお前も期待していなかったと言っていただろう」

 恥ずかしさを誤魔化すように詰め寄ると、クロードは少し考え込む。

「確かに期待はしてなかったですけど大帝国の皇女殿下ですし、いい暮らしも出来て家からも出られるからそれなりに乗り気でしたね」

 なんとも軽い気分で婿に来たものだと呆れるより他なかった。

「まあ、お互い最良の相手と巡り会えてよかったって事じゃないですか?」

 クロードが小首を傾げて問いかけてきてフィグネリアはそうだな、とうなずく。それから話題が大きく脱線していることに気付いてクロードを真顔で見つめた。

「それより、兄上とはどう話せばいいんだ」

「ああ、そうでしたね。うーん、もう俺と話してるのと同じような感じでいいんじゃないですか? 今の全部、フィグの本音ですよね」

 あらためて確認されて自分の言動を振り返りフィグネリアは耳まで赤くする。

 それを見つめるクロードの目は優しい。

「む、無理だ。お前に接するように兄上と話すなんてことは私には出来ない。そうだ、義姉上がいらっしゃる。義姉上がいれば兄上も無茶はしない」

 フィグネリアは大きな音を立てて椅子から立ち上がってから、義姉の存在を思い出しまた着席する。

 サンドラは国務などについてはイーゴルと同じでからきしだが、場の空気は読めるのである程度は適切な判断をしてくれる。義姉がいればとにかくそう大きな問題にはまだならないはずだ。

「……フィグ、それは根本的な解決になってないと思うんですけど」

 クロードの指摘にフィグネリアはいや、と首を横に振る。

「義姉上が兄上を抑えて下さっている間に私が解決すればいいんだ」

 フィグネリアはひとり思案しながら、まださわさわと落ち着かない感情をゆっくりと落ち着かせていく。

 そして半眼を伏せじっと思考に没頭していると、ふっと膝に置いていた手を握られた。

「ちょうどいい機会だから利用したりされたりじゃなくて一緒に頑張る練習してみましょう」

「一緒に頑張る……」

 難問に取りかかるようにまた考え込むフィグネリアにクロードが苦笑する。

「フィグはやろうと思ったらなんでもひとりで出来たから、全部やらないとって頑張りすぎてるんですよ。少し、分けられる相手がいるならちょっとぐらい任せたって大丈夫ですよ。俺、あんまり頼りにならないかもですけど」

「別に、頼りにならないとまでは今は思ってないぞ」

 でも、いいのだろうかとやはりまだ心は迷う。

「じゃあ、期待に添えるように頑張らないとな、俺……」

 自分で言っておきながら勝手に緊張してしまっているクロードの頬を、フィグネリアは優しく撫でる。

「そこまで過度な期待していないから安心しろ。……一緒に、か。私も鋭意、努力する」

 難しいけれど、彼とならどうにか出来そうだとフィグネリアは思った。


***


 結局なかなか真相にたどり着けずそれからさらに三日が経過した。

 寒さも一日ごとに厳しくなり、窓の向こうの景色は灰色の雲がべっとりと空を覆って陽光を遮っているせいで全体がくすんだ色をしていた。

 長い冬の始まりの光景には陰鬱な気分を増長させられる。

「早く、どうにかしなければな」

 政務を終え一度机から離れて窓辺に立つフィグネリアはため息をつく。

 クロードが来てからほとんど毎日この宮を訪れていたイーゴルは今日も来ていない。政務は書類のやりとりで滞りなく行われているが、それだけで兄の様子をうかがい知ることは出来ない。

「ちゃんと説明して大人しくしてもらったらいいんじゃないですか?」

「……それは駄目だ」

 まだどんな顔をして、どんな言葉を最初に言うのか分からないままだ。

 自分の机の上で黙々と課題をこなしていたクロードがその手を止めて、フィグネリアの執務机の書類を手に取る。

「これを口実に義兄上の様子、見てきましょうか」

 クロードが半分もう行くことを決めたように言うのに、フィグネリアは頼むとすぐに言えなかった。

 兄の様子は気になるが、背後に誰がいるのか分からないこの状況でクロードひとりを行かせるのも躊躇われる。

「……護衛をつけるんだぞ」

 とはいえ中央宮はすぐそこで、護衛さえいればそう心配することもないだろう。

「じゃあ、行ってきます」

「外套、忘れているぞ」

 フィグネリアは書類を持ってそのまま部屋を出て行こうとするクロードに、すぐ側の壁に掛けてある外套を渡す。

 部屋は煉瓦造りの暖炉で暖められているが廊下は冷える。

「フィグがなんか奥さんっぽくていいですね」

 書類をいったんフィグネリアに預けて外套を着ながらクロードは顔を綻ばせる。

 どちらかといえば初めて子供をおつかいに行かせる母親の気分なのだが。

 夫の緩みきった顔にその言葉は呑み込んでフィグネリアは彼を送り出した。扉が開くと冷たい風が一瞬、入り込む。

 それはすぐに部屋の温度に馴染んでしまったが頬に妙な違和感を残した。

 それから二時間ほど。

「遅いな……」

 フィグネリアはいつまで経っても戻ってこないクロードに不安を感じ始めていた。

 ここから中央宮のイーゴルの執務室までまで歩いて往復で四十分ほど。話し込んでいるのだろうかともう少し待って見るものの、さらに一時間経っても帰ってこない。

「すまない、クロードの様子を見てきてくれないか?」

 扉の外に控えている衛兵に中央宮まで行ってもらうが、クロードはやはり見つからなかった。彼についていた護衛も同じだった。

 迂闊だった。

 この宮についている衛兵の名前と顔は全て覚えてはいるが、一部は背後関係に関しては未調査だ。きちんと自分で選んでクロードにつけておけばよかった。

 また、判断を誤ったのだ。

「皇女殿下、どういたしましょう」

 フィグネリアは全ての報告にクロードのかすかな痕跡すら見つけられず、次の指示を待つ兵に何も命じられなかった。

 クロードがどこにもいない。感情すら凍りついて、何かを考えるなど出来なかった。

 ふたりで一緒に。

 ふっと留まっていた物を揺り動かすように彼の言葉が浮かんで、フィグネリアは一度瞼を伏せる。

 命が目的なら、ここまで周到に痕跡を隠す必要もない。これまで命を狙われたのも自分のついでだ。クロードだけを消し去る意味もないだろう。

 祭事のあの神霊達の戯れで夫婦仲が良好であると知れ渡り、身代金や政治的要求の取引の材料に使えると思った者か。

 あるいは、クロードの力を知っていて祭事で確信を得た者が動いたのか。

 前者は人質がいないと困る。後者は殺害するなら、妖精が動く前にその場で仕留めるはずだ。

 ならば、自分は自分でやるべき事をしなければならない。

 フィグネリアは捜索の手を増やさせ、最後に消えたのはどこか、護衛の素性、王宮に出入りする荷馬車、とにかく思いつく限りの全てのことに人手を割いた。それをやりつくす頃には日が傾いていた。

「皇女殿下……」

 火をつけた燭台を持ってきた侍女がじっと執務机に座っているフィグネリアに声をかける。

 しかし返事がないのでその傍らに燭台を置いて侍女は静かに退出した。

「まだ、帝都の外には出てはいないはずだ……」

 闇雲に動いても無駄だと分かっていてもそうしたくなる自分を抑えながら、フィグネリアは集めた情報を頭の中でかき混ぜる。

 クロードは中央宮にたどり着く前に消えている。捜索を始める前に王宮を出る余裕は十二分にある。荷物を運んで急ぎで帝都から出ようとすると目立つので検問は間に合っているはずだ。消えた護衛に後ろ暗いものは何もなくそこから手がかりは得られそうにない。

 あとはさっさと要求が来れば動けるのだが。

「目的はクロード自身の身柄である可能性の方が高いか」

 ならば一体、誰が。

 また同じ所で行き詰まる。しかし、そこが敵側の最大の目的である事には違いない。

「……外を見てくる」

 結局、フィグネリアは部屋に籠もっていられずに外に出た。護衛ふたりが距離を取ってついてくるのが煩わしいが仕方ない。

 曇り空で夜も間近に迫りあたりはほの暗い。フィグネリアは肌がひりつく冷気を浴びながら馬で王宮を出る。

 門を出るときに積み荷は必ず確認される。人ひとり運ぶならそれなりの大荷物で目立つ。

 どうやって誤魔化して切り抜けたか。

 つらつらと考えながら兵舎と市街への分かれ道にさしかかった時に、市街側に続く通りにフィグネリアは何気なく目を向ける。

 石畳の両脇には黒い針葉樹の林があって街並みは見えない。しかし大神殿の七つの尖塔はまだはっきりと見えた。その灯の滲む窓辺は無数の神の目の様に帝都を覗き込んでいる。

「……検閲されない」

 可能性があるとすれば神殿に運び込まれる荷だ。神殿へ運ばれる物はみだりに中を見てはいけないので検閲されることはない。そのかわり荷を運ぶ業者は限られ、神殿からは受け取りの証文が出される。

 それを利用するにしても、途中で荷の積み替えなど目立ちすぎる。

「フィグ、クロード見つかった?」

 ふと、声をかけられて兵舎側へ馬首を向けるとサンドラがいた。フィグネリアはそれにまだ、と弱々しく首を横に振る。

「あたしは裏の森の方を見てきたんだけど、誰かが入った形跡はみつからなかったわ。イーゴルも街の方を見に行っているんだけど」

「兄上も捜索に出ていらっしゃるのですか? 申し訳ありません、私の不手際で義姉上達にまでお手をかけさせてしまって」

 予想外のことにフィグネリアは困り顔をする。

「そりゃ、あのひとクロードの事、フィグのお婿さんにしようって思ったぐらい気にいってるしね。あんなことがあった後だし、自分が動かなきゃ気がすまないもの。あたしもそうだけど」

 サンドラが白い吐息を零して微笑む。

「イーゴルもあたしも、クロードの事は当然心配だけど、フィグのためでもあるのよ。あたし達夫婦でやっと半人前で難しい事はさっぱりだけど、腕っ節だけはあるんだからそっちで頼ってくれたっていいんだから。あたし達に出来ないことをフィグがやって、フィグが出来ないことをあたしらがやるの。それじゃ駄目?」

 それでいいんだとクロードは言ってくれていたけれど、うまく言葉を見つけられない。

 隣に彼がいてくれれば、まだ違ったかもしれない。

 フィグネリアが逡巡していると、何かが破裂するような音が遠くでする。そして余韻が周囲の空気を波紋が広がるように震わせる。

「銃声だ」

 それがなんであるかフィグネリアが察したときにもう一度同じ音が響く。

 嫌な予感がした。

「銃声って、何?」

「とにかく行きましょう」

 状況はまるで分からないがとにかくフィグネリアは音のした市街へと方向転換して馬を走らせた。

 神殿に繋がる赤煉瓦で舗装された大通りを進めば進むほど、人垣が増えて馬を降りざるを得なくなる。フィグネリア達の姿に気付いた者が道を空けるものの、彼らの顔には不安と恐怖が張り付いていた。

 耳に入ってくる皇帝陛下が、という声にサンドラが駈け出す。フィグネリアも竦む足を奮い立たせてそれを追った。

 そして目にした光景を最初は受け止められなかった。

 イーゴルが荷車に数人の衛兵によって乗せられているところだった。側にタラスと数人の神官もいて彼らは一様に血塗れだった。

「イーゴル! 分かる、フィグもいるわ」

 サンドラに呼ばれてフィグネリアはイーゴルの側に駆け寄りその姿に凍りつく。

 肩と脇腹のあたりに巻かれた元は白かっただろう包帯が深紅に染まり、兄はかろうじて意識はあるようだがその瞳は虚ろだ。

 震える指先で頬に触れると、兄はかすかに笑った。

「……止血は終わりました。後の処置は神殿でします」

 タラスに言われてもフィグネリアはなかなかその場から動けず、サンドラに抱き寄せられて荷車から離される。

「一体、何が……」

 震える声で問うと、残っている近衛が数軒先にある宿の三階のバルコニーを指差す。あそこから狙撃されたが、急なことと銃というものをよく知らないのですぐには何が起こったのかよく分からず混乱の中で狙撃手にも逃がしてしまったそうだ。

「大丈夫よ、大丈夫。イーゴルはは頑丈なのが取り柄なんだから」

 フィグネリアをきつく抱きしめるサンドラは自分自身に言い聞かせるようにそう告げる。

 今、彼女に大丈夫だと声をかけねばならないのは自分の方なのに。

 フィグネリアは凍える空気を胸いっぱい吸い込んで内から頭を冷やす。

「義姉上、私は王宮に戻るので兄上のところへ」

「それなら一緒に行けばいいわ。今はフィグをひとりにしておけないわよ」

「私は、私の出来ることをします。だから、義姉上は」

 そう言い終わる前にきつく抱きしめられる。冷えた体に義姉の体は温かすぎるほどだった。

「夜には戻るわ。今日は一緒に寝るわよ。タラス、フィグのことちゃんと送り届けて護っておいて」

 そろりとフィグネリアを離してサンドラは大神殿へと向かった。

「なぜ銃が……」

 石畳の上に広がる血痕と転がっている二つの銃弾を見ながらフィグネリアは眉根を寄せる。これを国内で扱える人間は限られている。

「フィグネリア様……」

 重苦しく名を呼んでくるタラスを疑心の目で見ながら、フィグネリアは後で訊くと衛兵や近衛に訊かれないように声を潜める。

 そして頬に冷たい欠片が触れて顔を上げる。

 冬を司る神霊スノウェンの足音とも呼ばれる雪が降り始めていた。夜になれば一層冷え込み、明日の朝には帝都は白く染まるだろう。

 寒がりなクロードが外套一枚だけで震える夜を過ごさないか心配だった。


***


 王宮に戻るとすでに騒然として重臣らがフィグネリアにイーゴルの状態を聞いてきた。

 とにかく落ち着いて今は普段通りにするよう命じた後に中央宮の応接室にフィグネリアはタラスを呼んだ。

「タラス殿、あなたはあの銃の出所を知っていますね」

 確信を持って問うとタラスは重苦しくうなずく。

「フィグネリア様を帝位につけた時に万一、内乱が起こるような事があったときのために少しばかり用意しました」

「まさか、本気で簒奪を企んでいたのですか。万一、どころでなく確実に内乱になることぐらいあなたなら分かるでしょう!!」

 思わず立ち上がって激昂するフィグネリアにタラスは小さく首を横に振った。

「クロード様さえいれば、神霊方が後ろ盾となり内乱を回避して即位させられるはずでした」

 全く予期していなかったことにフィグネリアは愕然とする。

 ここまでまるでクロードの婿入りの経緯が掴めなかったのは、自分が調査を命じた反九公家派が裏で糸を引いていたからだ。そうして、タラスならイーゴルにクロードを紹介するのも簡単だろう。

「なぜ、私に何の打診もなく計画を進めたのですか。そもそも、どこでクロードの事を知ったのですか」

「全てロジオン大神官長様のご進言です。神の楽士が夫となれば神霊方も大いに祝福し混乱を招くこともなく正しき治世が敷かれるだろうと。そして準備が整うまでは何も知らない方がよいと仰せになりました」

 ありえないと、フィグネリアは呆然とつぶやく。

「神殿が国政に関わることに口出しするなどあるはずがありません」

 しかし、クロードがロジオンに怯えていたことを思い出すと、何か裏があることは間違いないと思える。

「自分も、最初は不思議に思いました。しかし、それが神霊方の意志となるならばやるべきだと言われたとおりクロード様を探しだしました」

 三年がかりでタラスはクロードを見つけ出したという。最初は南西の小国の王族としか分からず、それから徐々に髪の色、目の色、年頃などを神殿から聞いてようやくたどりついたということだった。

 銃に関しても検閲がされないことを利用して大神殿へとひっそり運び込んでいたらしかった。

 三年もの間その行動をよく隠し通せたものだ。

 フィグネリアは反九公家派の監視に甘かった自分に歯噛みする。

「クロードは今、神殿に?」

 理由は分からないものの神殿が関わっているならクロードを運ぶのは容易いはずだ。

「護衛についていた者は熱心な信徒ですのでその可能性が高いかと。……祭事も件も九公家側かと思っていましたが、あまりにも杜撰すぎます」

「それは、私も同じように思いました。ですが、まさかそこまで神殿が」

 だが、体調不良を指摘されて神官に薬を渡されれば疑わずに服用してしまう。

 タラスが膝の上で握った拳を震わせて躊躇いがちに口を開く。

「……陛下を撃った男の顔を見ました。見たことのある神官でした」

 フィグネリアは虚脱状態でソファーに腰を下ろす。

 今、イーゴルが治療を受けている場所は神殿だ。そこにサンドラもいる。

 全てにおいて絶対的に信用できるはずの神殿が一気に疑惑に染まり、目の前が真っ暗になっていく。

「あの神官は、我が国の民に似ていますがロートムの出身かもしれません」

「国外から来る……」

 フィグネリアはロジオンが神を降ろすことについてクロードに話していたときに言った言葉を思い出す。

 他国から来た人間が神殿に来ることなどない。

 大神官長は正しいという先入観にとらわれて疑問に思うことすらなかった。

 もはやなにも考えられずにフィグネリアは誰かに答を求めたかった。それでもここで思考を止めてしまうわけにもいかなかった。

「九公家と反九公家派の対立が深まり内乱が起これば国内は確実に内から崩れる。神殿……ロジオン大神官長はクロードの力を利用してそれを治める気か」

 だがそれならば大神子ひとりを担ぎ出せばすむ。

「まだ、他にクロード自身ですら知らない事があるのか……」

 しかしそればかりは想像も及ばないので、フィグネリアはひとまず密偵についての話へと戻す。

「そのロートムの者とおぼしき神官の年齢は? 最初に見たのはいつですか?」

「三十半ばで、六年前に見たのが最初だったと思います。十年ほど前からいて出自は知らないということでした」

「そうなると、密偵として今回の件に関係なく潜り込み、この騒動に乗じたとみた方がよさそうですね。……大神殿にいるということは他の神殿にも潜り込んでいるということか」

 神官は幼少期から神殿で従事している者が三分の二、残る三分の一は何らかの事情で身分や名を捨てて神官となる。それを審議するのは神殿側のみで志望者を受け入れないことはほとんどない。

 おそらく鉱脈を見つけるための秘策を神殿が握っていると考えて潜り込んだのだろう。

 そして銃の取り扱いが出来るということは、他にも近年訓練を受けて入り込んだ神官もいるということだ。

「厄介な……」

 面倒事がまた増えてフィグネリアは頭を抱える。しかしそこは今は切り離して、ロジオンの目的だ。

「……兄上の無事が確認されるまでは動けませんね。神殿相手となるとなおさら」

 全てが向こうに握られていては本当にどうしようもなかった。

「タラス殿、後で今回の件に関わった全員の名前。それと銃の取引の詳細全てまとめて提出して下さい。あなたへの処罰は皇帝陛下が戻り次第、裁断させていただきます」

 必要なことを命じた後にフィグネリアは一呼吸間を置いて口を開く。

「ひとつ、お聞きします。私が帝位についてあなたになんの利があるというのですか?」

 それがどうにも分からないことだった。

 タラスの身分と才能なら独力で改革を進めることはけして不可能ではない。自分を帝位につけるよりむしろイーゴルに上手く取り入ってやっていく方が効率もいいだろう。

「……利、ですか。そうですね、理想の君主を得ることでしょうか」

 苦いものを噛みしめるように言ってタラスはその瞳をフィグネリアに向ける。

「このような言い方は失礼だと思いますが、イーゴル殿下もサンドラ様も自分にとっては、よき兄、姉のような存在でした。しかし朽ちかけたディシベリアを立て直した偉大な先帝の跡を継ぐ者として見たとき、どうしても失望することが多くありました。この国の行く先に不安さえ覚えました」

 覚えていますか、とタラスが続ける。

「九つであなたは神霊方の恩寵を受けるだけではなく、自らで新しいものを作り出していかねば国は衰えていくと言った。自分はそのとき希望を見いだしたと思いました」

 そんな話をしたことがあったかもしれない。

 兄に難しい話が出来そうな相手がいると紹介されて、自分がタラスに最初に覚えたのは警戒心。その聡明さに期待もやがて生まれたが、九公家嫡男という立場も相まってそれ以上に警戒心を大きくさせられた。

「あなたは、期待どおりに成長された。きっと、自分は勝手な夢を見すぎたのでしょう。誰よりもあなたをお支えしたいと思いながらそのようなお顔をさせてしまっている」

 罪悪感に似た怯えと悲しみが混じり合った顔でいるフィグネリアから視線を外し、タラスは命じられたことをまとめてくると部屋を出て行った。


***


 クロードは暖炉で暖められた部屋の清潔なベッドの上で毛布を羽織り、体はぬくぬくと過ごしていた。啜っている杯の中の薬湯は子供向けなのか苦みより甘みが強い。

 簡単なおつかいの途中で神殿に拉致されて今日で三日目。

 ここまで運ばれる間に小一時間ほど屋外の荷車の中に放置されたせいか、風邪をひいてしまい昨日まではほとんど動けずにいた。

 暖かさと薬のせいで眠気がやってきてクロードは思い切って毛布から出る。

 足をつけた部屋の床には見るから高価そうな毛皮の敷布、目線の先には花や蝶の透かし彫りが凝っている鏡台と、置かれているものは品がいい。すぐ側の壁に飾られているタペストリーも細やかで繊細な花模様。

 要は神子である少女にとって使い勝手のいい広さと可愛さを兼ね備えた部屋だ。

「俺は何やってるんだろう」

 そしてこの部屋を一望する度に思ったことをつぶやいてクロードは部屋の外に出る。

 外気に触れる肌がぴりぴりと痛む。体をすくめて下を向いた先には、小さな泉の湧いている丸い庭が見えた。ちょうど太陽が真上から降り注いでいて、積もった雪が光を反射して眩い。

 ここは神殿の他の棟と同じく五階層で庭園を取り囲むように立っている。今、クロードがいるのは三階層の回廊だ。

 風の妖精達が遠慮がちにまとわりついてきてクロードはまだ、と小さく答える。

 笛は取り上げられてしまっているので吹けないのだ。妖精達はいつもとは違ってすぐに諦めて離れていった。

 ここへ来てから妖精達は萎縮している。ロジオンに呼び出された時や、祭事の時に神霊が降りてきている時と同じだ。

 特に、前者の時の閉塞感とまるで同じだ。

(やっぱり、誰か降りてきてるのかな?)

 そもそも神霊というのはどういったものかは正直よく分からない。

 自分が祭事で話した神霊はどれもナルフィス教でいうところの使徒、つまりは人間に害をなさない神霊だ。あんな神霊ばかりならいいが、自分たちが悪魔と呼んでいた神霊はどうだろう。

「すごく、嫌な予感がする……。あー、寒い! 暖炉よりフィグで暖まりたい」

 意外と体温が高くてあれとかそれとかふにふにと柔らかい妻の抱き心地を思い返しながら、クロードはテラスの手すりに額を当てるようにうなだれる。

 そして一階の回廊にひとりの中年ぐらいの神官の姿を見つけてそちらに向かった。

 昨日、少し動けるぐらいまでに回復したとき、彼の面立ちがこちらの人間と少し違うことに気付いた。それでどうにか彼にハンライダから密偵と思い込ませて、ロートムからの密偵だと明かさせた。

「どうも、今日も寒いですね」

「お前か、体はもういいのか?」

「おかげさまで。ここの薬ってよくききますよね。皇帝陛下も回復してるって言うし。あっ、どうも」

 神官は親切に寒いだろうからと近くの部屋に入れてくれる。

「ありとあらゆる面で時代遅れだっていうのに医術だけは発展してるな。あの図体のでかすぎる皇帝も二発食らってもう歩いてやがる」

 苦々しげに言う神官にすごいですねえ、とクロードは感心する。

 イーゴルが撃たれたと聞いたときには驚いたが、二発の銃弾は貫通し、脇腹に至っては掠めた程度で臓器に傷もなく手当が早かったこともあって容態はいいらしい。

「しかし、あれですよね。神殿が内乱起こさせて後釜狙うって俺たちからしたらすごい話ですよ」

 ここまで来れば九公家と反九公家派が争って誰が得をするのか明白だった。

(あの大神官長様、胡散臭いと思ったらやっぱり悪い人じゃないか)

 クロードは暖炉の火を見ながら、胸の内でもう何度目かのロジオンへの悪態をつく。

「神降ろしだの、妖精だの、国民全員が信じてるってのが恐ろしいな。地下で銃の訓練してちょっと音が漏れても妖精が騒いでるんじゃないかですましちまうんだぜ」

 その辺りについてさらに詳しく聞いてみると、地下には牢屋があってそこは音が外にほとんど漏れないような造りでこの数年気付かれずに訓練が出来たらしい。

「お前も笛が出来るだけでこんなところにまで連れて来られて苦労するな。ついでに密偵になってこいって言われてもすでにこっちが握ってる情報しか手にいれてねえし」

 いい機会だからロートムに対して何か恩を着せられるような情報を手に入れておけ。

 そう命じられていると向こうは勝手に勘違いしてくれている。

 おかげで大体の事情は分かったが、これからどうするかだ。まず銃撃犯がここに潜んでいる事は知らせないといけないだろうが。

(義兄上がもっと回復してからがいいな)

 クロードはぼろが出ないようにあまり自分からは喋らず、神官の世間話に適当に相づちを打ちながら機会を窺うことにした。

 

***


 五日後、王宮内は緊張を高めていた。

 イーゴルは手もう少し傷が塞がってくるまでは大神殿で療養となっている。

 そのため皇帝代理としてサンドラが表向きとりしきり、フィグネリアがそれを援護するという形で混乱を最小限に抑えていた。しかし日に日に反九公家派側への疑いは強まり、皆口にこそしないものの険悪な雰囲気が王宮中に広まっている。

 帝都もあの見るからに頑丈そうな皇帝に、小さな鉛玉ふたつで重傷を負わせられる見慣れない武器を持った者が潜んでいるかもしれないという話が広まってしまい、住民達は外に出なくなってしまっている。

 そのせいで雪に覆われた街は巡回を強化している兵がうろついている姿しか見えず、どこかしこも重苦しく鬱屈した空気が漂っている。

 夫と兄の無事を祈るという名目でここ数日通い詰めている神殿の帰り、フィグネリアも同じように気を塞がれながら街を見渡す。

 イーゴルとの接触はまだサンドラにしか許されていないが、伝え聞くところにはすっかり元気らしい。わざわざ治療して回復させているとなると、なんらかの切り札にするつもりだろう。

 神殿の様子からして全体が今回のことに荷担しているわけでもなさそうなので、踏み込むならことさら慎重にならねばならない。ロジオンが姿を見せていないこともきがかりだ。

 後はクロードだ。どこかから笛の音は聞こえないものかと耳を澄ませていても何もない。笛の音が聞こえるという噂すらないのは不自然だった。

 いい加減妖精達がこらえきれずに暴れ出しそうなものだが、神霊に近い場所ではそうはならないのかもしれない。

「もう少し、何かあればな」

 クロードについてはなにひとつ状況が掴めない。無事だとは思うが、なんでもいいからその確証を得られるものがほしい。

 そして鬱々とした気分で小宮に戻り、いつもの時刻にサンドラが訪れてきて政務をこなしている時だった。

「フィグお姉様!」

 執務室の静けさをかき乱して飛び込んできたのは妹のリリアだった。その格好は今まさに外からやってきたらしく、耳当てのついた帽子や外套には雪片がくっついていて、新雪の色をした肌も頬や鼻先が真っ赤になっている。

「お兄様が撃たれたってなにごとですの。それに首謀者がフィグお姉様とか何がどうなっていますの!」

「ちょっと落ち着いて。ほら、それ脱いでこっち座る」

 サンドラが興奮しているリリアの帽子と雪で湿った外套を脱がせて暖炉の前に座らせる。

「兄上が撃たれたのは事実で今のところ命に別状はない。だが、首謀者は私ではない。いつそれを聞いた」

 そう情報が流されることは予想がついたが、リリアの所まで話が行き着いて彼女がここまで戻ってくるのに五日は早すぎる。

 冷静にそう考えるフィグネリアはリリアのそばに屈んで乱れた髪を手櫛でなおしてやる。

「分かっていますわよ。お兄様が好きすぎて婚期逃しかけてたフィグお姉様がそんなことするなんてありえませんもの!」

「……いろいろと語弊を招く言い方はやめてくれ」

 信じてくれるのはいいが根拠がそれは他人が聞いたら勘違いされると、一言忠告してからフィグネリアは本題へと話を戻す。

「お爺様のところに旦那様と子供を見せに行ってたらお兄様が撃たれたって帝都から知らせがあって、その翌日にはこんな文が」

 言いながらリリアが壁に掛けられている外套の内ポケットを示す。

 アドロフ公の元からなら無茶をして馬を飛ばせばたどり着けるが、本当にろくに休む間もなかっただろう。

 改めてリリアの疲労具合を気にしながらフィグネリアは手紙を取り出して、眉根の皺を深くする。

――賢帝を影に貶めただけに留まらずその命を奪わんとした愚帝の罪は死に値する。

「なんかすごくあからさまね。ていうかこれ持ってきて大丈夫なの?」

「伯父様が大事な証拠とかなんとか言ってたけど知りませんわ。フィグお姉様には直接見せた方がわかりやすいでしょう」

 見たところはただのその辺の紙に書き殴ったようなものである。おそらく他の九公家へも同じようなものが送られているだろう。

「後で筆跡に心当たりはないかは調べるが……アドロフ公はなんとおっしゃっている?」

「お爺様はあんなまだ子供も同然の若造ふたりで国政が上手くいくはずがなかった、ですって。伯父様の方は完全に頭に血が昇ってましたわね。で、わたくしは一番中立な立場ということで旦那様に子供を預けてここに」

 アドロフ公は今のところはまだ様子見といったところのようだ。祭事の件からここまでがあまりに早急すぎて不可解な要素が多く、さすがに下手に動く者はいないと思いたいが、気が短く血の気の多い男が多いのがディシベリアである。

 一番遠い九公領に話が行き着くまでにはまだ時間もかかる。それまでにどうにかせねばならないだろう。

「それでフィグお姉様、こんな馬鹿なことしでかした人をさっさと捕まえてしまいましょう。このままだとお兄様側とお姉様側の関係が悪化して、中立を通しているわたくしの旦那様の寿命が縮まってしまいますわ。それに内乱なんてことになったら、わたくしが旦那様や子供達と平和にいちゃいちゃしてられなくなってしまいますし」

 言いながらリリアがふと何かに気付いたようにあたりを見回す。

「……そういえばクロードお兄様は?」

「拉致された」

 簡素に答えると、リリアが口を半開きにしてフィグネリアを見た後にその両肩を掴んだ。

「いつ、誰に!? フィグお姉様、どうしてそんなに平然としてますの! 愛する旦那様が拐かされたっていうのに!」

 愛する旦那様という言葉にむずがゆい思いをしながらフィグネリアはいや、それはと口ごもる。

「フィグは何か掴んでるみたいだけど喋ってくれないのよね。でも、落ち着いてるように見えてあたし何回か、ベッドでクロードって呼び間違えられたけど」

「それは、ただの癖です。他意はありません」

 そう、ただの癖だ。普段ベッドの上で話しかける相手はクロードひとりでつい出てしまっただけのことである。

「まあ。ごめんなさい。フィグお姉様も寂しいのですわよね。ねえ、何か掴んでるならお手伝いさせてくれません? 子供の時からあんまりお手伝いさせてくれなくてつまらないですわ」

 子供の頃、自分が勉強している傍らでリリアがよく紙や本を運んだりしてきてくれたものだ。紙はともかく、本は重いので持たないように、インクは綺麗な髪や爪が汚れるから触らないようにと言って何度泣かれただろうか。

 そしてお姉様と一緒にいたいの、という上目遣いにどれだけ負けたことか。

「それならあたしも手伝わせてよ。取り返しに行くんならイーゴルの代わりに先陣きるから」

 それはそれで大惨事になるので止めて欲しい。

 意気込むサンドラにそう思いながらフィグネリアは神殿が裏にいることを話すべきか迷う。

 だが、この事態を招いたのは自分があまりにもひとりよがりになって、タラスの真意に気づけなかったことだ。

 たぶん、これから全部ひとりで片付けようとすると同じ轍を踏むかもしれない。ふたりには事情ぐらいは話すべきだろう。

「おそらく、これまでにない事態になると思います。……大神官長様と対峙することになるかと」

 意を決してリリアとサンドラの反応を窺いながらそろそろと口にしてみると、やはり想定外のことだったらしく沈黙してしまった。

 しかし、ふたりはすぐにもうちょっとだけ詳しく教えて欲しいと求めてきて、フィグネリアは説明する

「……フィグがやるっていうなら、手伝うわ」

「そうですわね。わたくしも覚悟を決めますわ」

 さすがに大神官長と事をかまえるということは重く、ふたりの表情は硬い。

 それでもやるという彼女たちにフィグネリアは長年の重石が少し軽くなった気がした。

「出来るだけ、神殿側に非がないようにはします。銃撃犯が潜んでいることにして強行突入する際は、義姉上には人を動かす手伝いをお願いします。リリアには神殿が封鎖されている間の患者達を診る薬師のまとめ役を頼む」

 ひとまずの計略を明かすと義姉と妹はうなずいた。決行は策をもう少し詰めた後に少なくとも三日以内には動くつもりだとまで説明すると、ふたりは緊張を解いた。

「ひとまずは待機、ですわね。ところでお姉様方、一緒に寝てらっしゃるの? だったら今夜はわたくしも混ざってもいいですわよね。もちろん真ん中がいいですわ」

「リリアが真ん中ねえ……あたしとしては義妹ふたりを両脇に侍らしたいんだけど」

「サンドラお姉様はもう十分フィグお姉様をひとりじめしたから、今度はわたくしがお姉様ふたりを侍らす番ですわよ」

 平和な話題で盛り上がる義姉と妹にフィグネリアは目を細める。

 そこにものものしい足音がわらわらとやってくる。姉妹が和やかに過ごす部屋に遠慮なしに入ってきたのは九公家派の兵士達だ。

「大神殿にて銃声が聞こえたということです! 負傷者はなしです。クロード様が狙撃犯ともみ合いになったそうですが、こちらも無事だということです!」

 そして告げられた言葉は、予測していた事態のどれにも当てはまらなかった。

(先に、あちらが動いたのか……?)

 これで銃撃犯がいるという根拠をねつ造する手間は省けた。だが、クロードに関しては何も掴ませなかったのに、情報をもらすという事に引っかかりを覚える。

 何らかの罠かもしれない。今、動くのは正しいのだろうか。しかしこの状況は動かざるをえない。

 自分ひとりで全て、収められるのだろうか。

「フィグ」

 無意識のうちにまた自分の中に潜り込みかけていたフィグネリアは、サンドラの声に顔を上げる。

 ここにはサンドラがいて、リリアもいる。そして、神殿にはイーゴルとクロードが。

 だから、ひとりではない。

 フィグネリアは前を真っ直ぐ見て、口を開く。

「大神殿を兵士で取り囲んでの封鎖し、患者は兵舎に誘導し薬師達に診せろ。リリア、大丈夫そうならそちらに向かってくれ。無理はしないようにな」

「大丈夫ですわ。子供を産んでからすっかり体力がつきましたのよ」

 リリアが元気に笑んで、立ち上がる。

「……頼む。重臣全員に連絡はいっているな。義姉上、私達はそちらに」

 フィグネリアの指示に異を唱える者はおらず、それぞれが動き出した。


***


 時はわずかに遡り、発砲の数十分前。

「とにかく銃声さえすれば……」

 クロードは一階の銃を隠してある部屋にいた。小部屋にはタラスに見せてもらったような細長い箱が二十ほど積まれている。神子達は中身を見ることもないらしく、二日前に見たときと変わりない。

 フィグネリアがここへ来るきっかけにするにはこれしかないだろう。

「俺にも撃てればいいんだけどな」

 訓練を受けていなくても誰かに当てるわけでなく撃つだけならとなんと出来るかもしれない。

 フィグネリアに聞けば肩の力をもう少しつけなければいけないということだったが、その頃よりは力はついているはずだ。

 しかし病み上がりのこの状態だと尚更厳しいかもしれない。

「お前、どうした?」

 箱の中身を確認しようとすると、すっかり顔なじみになったロートムの密偵である神官が声をかけてきて、クロードはゆっくりと後ろを向く。

「えっと、自分にも撃てないかなあって思って……」

 彼はクロードが来た中庭に面した扉とは違う扉から入ってきたようだった。その手には銃が握られている。

「……俺、実は妖精とか信じてるんですよね」

 ふとある事を思いついて、中庭側の扉へとクロードは移動する。

「妙な薬でも盛られたのか?」

「いいえ。ずっと昔からですよ。子供の時からずっと、俺の友達でしたから……後で好きなだけ聞かせてやるからちょっとだけ、力貸してくれないか? ちなみにあそこから出る鉛の弾が当たるともう二度と笛が聞けなくなるから」

 クロードはぶつぶつつぶやきながら庭に降り立つ。そして不気味そうにこちらを眺めている神官に微笑みかけた。

「おもいっきりその辺暴れろ!」

 わざと聞こえるように叫ぶと風の妖精達が庭を駆けた。神官は風の中心に立っているクロードにひっ、と息を呑んだ。

「ほら、妖精はここにいるでしょう」

 男に笑みを浮かべたまま近づく.

「く、来るな。この悪魔の使いが!」

 怯えた神官が引き金を引く。弾は横なぶりの風にそらされてクロードの銅の髪を掠めていった。

 銃声は思ったよりも大きく、少し耳が痛いぐらいによく響いてくれた。

(あ、当たるかと思った)

 顔を引きつらせながらもクロードは腰が抜けている神官に急いで駆け寄ってその銃を奪う。

 上の方で見ていた神子達が悲鳴を上げているのが聞こえる。

 クロードは奪った銃を見下ろし、その重さに沈黙する。

「あれ、これはこれでまずいか?」

 そうしてそんなことをつぶやいたのだった。



 俗世とは醜悪なものだ。

 ロジオンは地母神像の前に立ち、無人の礼拝堂を眺める。

 幼い頃から人々が俗世の汚濁を神聖な場に持ち込んでくるのがたまらなく嫌だった。

 神殿という清い空間に上がり込み、さも当然の顔をして嫉妬、欲、憎悪とありとあらゆる感情を吐き出していく。

 当時の大神官長になぜ、我々はあのような醜悪なものに触れねばならないのかと、問うたことがある。

 彼の人は清めるためだと答えた。

 しかしそれになんの意味があるだろうか。どれだけ清めても毎日のように人は汚濁を撒き散らしていく。

 神の御許にあるこの場のようになぜ清浄でいられないのだろう。

 慌ただしい足音が駆け込んでくる。汚濁の根源ともいえるものたちが。

 扉が開いて、冷気が吹き込んでくる。

 屈強な男達の間にひとり異彩を放っている女がこちらを見据えている。銀糸の髪に白雪の肌、薄氷の瞳。

 穢れなき色の彼女は、この世の汚濁の全てを象徴するかのように漆黒の色をした軍服を身に纏っている。

 なんとも醜悪だ。

「どうかなさいましたか」

 胸の内で蔑みながらロジオンはおもむろにそう口を開いた。


***


 フィグネリアは騒然としているかと思った大神殿の静けさに違和感を覚える。

 ここに向かうことに反対する大臣連中を主にサンドラがやり込めて、彼女に王宮を任せてくるまでに時間がかかったせいかもしれない。

 一緒についてきた兵の一部にに患者の保護を任せて、フィグネリアは残る兵と礼拝堂へと入る。

 そこにいるのは地母神像の前に立つロジオンひとりだった。

「どうかなさいましたか」

 何事もなかったように彼はそう言った。

「……ここから銃声が聞こえたとのことで、来たのですが」

「いえ、そのような音は聞こえて来ませんでした。ですがちょうど皇女殿下にお話ししたいことがあったので、他の方々はどうかお下がりいただけますか?」

 大神官長の言葉に従わない者はいなかった。フィグネリアは広い礼拝堂にロジオンとふたりぽつんと残される。

 婚礼の時と同じように中央を緩やかに進んでロジオンとの距離を詰める。

「あなたの為したことは全て分かっています。どうかこれ以上、神殿を穢すようなことはなさらず、ロートムの密偵を引き渡し、夫を返して下さいませんか?」

 単刀直入に言うとロジオンが首を横に振った。

「穢しているわけではありません。浄化のためです。皇家、九公家、欲に穢れる全てを内乱をもってそれらが世界の汚濁の元であることを人々に知らせるのです。そしていかに人が治める世が醜悪で、苦しみに満ちたものかを。やがて彼らは神が治める世界こそが真に必要と知るでしょう」

 罪を否定することなく蕩々と語るロジオンの無表情に、フィグネリアは息を呑んだ。

 彼の目にはどこまでも澄み切った狂気しかなかった。

「……あなたは人間です。神ではない」

「ええ。私は神ではありません。真に世界の王たるに相応しい方はただひとり。妖精王たるあの方です。その存在を神霊様に聞いたときに私は悟りました。この世の汚濁を浄化し、妖精王を真の世界の王とすることが私の定めなのだと」

 妖精王、というのはどうやらクロードのことらしかったが、あの妖精にもてあそばれている夫がそんな大層なものにはまるで思えなかった。

「分かっていただけましたか?」

 フィグネリアはいいえ、と静かに答える。

「残念ながら心惹かれる要素はひとつとしてありませんでした。清浄な世界のために自分も、家族も犠牲になど出来ません」

 どれほど先にある世界が美しかろうと、大切なものを全て失い、自分を捧げるなどそんなことを受けいれられるはずがなかった。

「そうですか。ですが父君が望むものを得るにはそうするしかありません。彼はここで安泰した世を築き、心安らかになりたいと仰っていました」

 ロジオンが地母神像を見上げる。

「私は、感銘を受けました。望むものは同じだと。だから先に地母神様の御許にお送りしてさしあげました」

 ロジオンが告げた言葉にふっと意識が遠のくような感覚があった。

「あなたが、父に渡していた薬は毒だったのですか?」

 憤りに声が震える。

「ええ。彼の皇帝は多くの汚濁をここに吐き出しに来ました。そして自分の命が潰えればもろく崩れ去る世を築いた。愚かな行いを為した者を私は浄化したのです」

「違う。父上は国を立て直した。腐敗した全てを取り去り新たな世を築こうといた!」

 フィグネリアの脳裏には必ず自分で神殿に通い滋養の薬を飲んでいた父の姿があった。長年の疲労が溜まった体を薬で労り神霊に未来を望んでいた父は、信じていたはずのものに裏切られてなにもかもが断ち切られてしまったのだ。

 この男が全てを奪ったのだ。

 フィグネリアは掴みかかりたい衝動をわずかな理性で押しとどめる。

「いいえ。人が世界を治める限り世界は穢れたままです。どうして誰も理解できないのでしょうか。先の大神官長とて私の話をご理解いただけなかった」

 だから殺したのだと暗にその言葉は語っている。

「アドロフ公は実に素直にあなたが先帝の子ではないかもしれないということを信じて下さったようですが」

「もういい! 貴様の馬鹿げた妄執にこれ以上耳を貸す気はない! クロードはどこにいるっ!!」

 声を荒げて詰め寄ろうとした時に閉められていた礼拝堂の扉が開かれた。兵と神官が駆け寄ってきてロジオンから引き離された。

「皇女殿下! いったいロジオン大神官長様に何をなさっているのですか!?」

「たいしたことではありません。ただ己の罪深さにいたく苛まれていたようです」

 ロジオンは実に白々しく言いのけるのに、フィグネリアは歯噛みして彼を睨む。

「フィグネリア、何があったのだ?」

 そうして最後に不思議そうな顔でイーゴルがやってきた。誰の支えもなくひとりで歩いている姿は健康そうで、フィグネリアは束の間怒りを忘れて安堵する。

「皇帝陛下、皇女殿下はあなたを暗殺しようとしたことを詫びたいそうですよ」

 しかし、ロジオンがそう口にして穏やかな気持ちは続かなかった。今いる兵は九公家派と反九公家派の半々。兵達が聞いていない、やはりと様々な声が乱れて堂内に響く。

「……なぜ、妹が俺の命を狙うのでしょうか」

 その中でひとり心底理解できないといった顔で首を傾げたのはイーゴルだった。

「皇帝として相応しい教育を受け、その役目を担いながらもけして表に立つことは出来ず、影にいるしかなく、そうしてそれを疎まれ命を狙われる。それにもう耐えられないと、おっしゃっていました」

 ロジオンが告げることに反九公家派がそこまで追い詰められていたのかと同情の声を上げれば、九公家派が浅ましいと詰る。

 それを眺めていたロジオンの瞳がフィグネリアに向けられる。

 自分が正しいと言わんばかりの視線だった。

「それがなぜ俺を殺す動機になるのですか?」

 イーゴルがますます混乱するのに堂内は一時的に静まりかえった。彼の側にいる兵がつまりフィグネリアは皇帝になるために兄殺しを企てたのだと説明する。

「……それは理屈に合わんぞ。俺はこのまま世継ぎが出来なければフィグネリアに跡目を継がせる気だ。それはフィグネリアにも言ってある。なにより、俺に心配かけさせまいと命を狙われていることを隠しておいたのに、なぜ俺を殺して解決しようとするのだ?」

 さっぱり分からんとイーゴルがいつものようにフィグネリアに答を求めてくる。

 兄の率直さと純真さは本当に素晴らしいと感動を覚えつつ、フィグネリアは大きくうなずく。

「今のは兄上のご意見が正しいです。私は帝位に興味もないし、兄上のお役に立てることに不満はない。それと兄上、銃の音を聞きませんでしたか?」

「おお、聞いたが、あれは何か別の音だと神官様がおっしゃっていた。俺の耳には同じものに聞こえたが神官様が違うというなら違うのかもしれん」

 イーゴルの発言とロジオンの言葉の矛盾に周りが動揺し始める。

 そこへ新たにひとつ、銃声が響く。

「これはなんの音だというのですか?」

 フィグネリアが問うても、ロジオンはこの事態においても表情を何ひとつ崩しはしなかった。そこに不気味さはあるものの、クロードの身に何かあったわけでもなさそうだと安心した。

 そうして、その場にいた兵の一部が出入口を塞ぐ。ロジオンの近くにいた兵も彼の盾になるように動く。

 よく見れば、そのほとんどの顔ぶれが連れてきた兵と違う。おそらく大神殿前の広場で対応に当たっている兵に紛れ込んでいたのだろう。そして自分がロジオンとふたりきりになっている間に、適当な理由をつけて入ってきたのだ。

 彼らが何をしようとしているのか察したフィグネリアは歯噛みする。

「潰し合いに見せかけるつもりか」

 クロードを連れ去った護衛は、熱心な信徒。他にロジオンに取り込まれている兵がいてもおかしくはなかった。

 ここでイーゴルが話を信じて争いになるか、この閉ざされた中で皇帝と皇女が骸となって一気に国が混乱するか、どちらに転んでもいいように仕組んであったのだ。むしろ後者の方が手間がかからず都合が良いだろう。

 神官とするには惜しいほどだ。

 フィグネリアはロジオンの周到さと執念に半ば感心しながら短刀を抜く。

「あの神を知らぬ者たちもいずれ浄化されるでしょう。これより流れる血は不浄を洗うもの。正しき神の国のために」

 ロジオンの言葉に十五人ほどの兵が武器を抜いた。ロジオンに荷担していない残る十名ほどの兵も武器を抜くものの、迷っていた。

「皇女と皇帝。この両派の争いにこれ以上心を磨り減らす必要はありません。終わることのない争乱か、永久の平穏か選びなさい」

 堂内に響くロジオンの声に四人が向こうへ着く。残るは味方は六人。自分とイーゴルを合わせても八人。

「全員、フィグネリアを護れ! 俺はひとりでかまわん!」

 味方についた衛兵らに囲まれたイーゴルが命じるが兵達のうちふたりが動いた。彼らはフィグネリアへと向かっていた兵士を止める。

 だがすでに五人の兵は彼女のすぐ側まで向かってきていた。

 中央の広い場所から長椅子が並べられている右手側へとフィグネリアは移動し、繰り出された槍の穂先を避け、長椅子の背に体が隠れるよう身を屈める。

 そして椅子と椅子の間を半ば転がるようにして逃げた。

 兵達は椅子が邪魔で集団では追ってこられていない。

 だがいずれは追い詰められる。

 フィグネリアは兵達がまばらになったことを確認してわずかに動きを遅くする。

 槍が突き出されると同時に右に避けて椅子に飛び乗る。

 勢いづきながらフィグネリアを狙った穂先は彼女が乗る椅子の背をぶち抜いた。

 堂内の長椅子の材質は屈強な男が十数人座っても耐えられるほど硬い。武器を取られたら抜くのは容易ではない。

 そのまま兵が動きを止めた隙に背後に飛び降りて、同時に足の腱を切り裂いた。

 これでひとり。

 だが、そこですでにフィグネリアの息は上がっていた。

「くそ、体力が持たん!」

 どうしても政務が立て込むと体力をつける時間がなくなる。

 ここを無事切り抜けたらクロードと仕事を分担して走り込みでもするかと考えながら、フィグネリアは長剣を持った男が迫り来るのから逃げる。

 残る四人は厳しい。

「兄上! それは!」

 隙を見て兄の様子を確認したフィグネリアはぎょっとする。

 イーゴルは長椅子の端を両手で抱えていた。そして雄叫びを上げながらそれを持ち上げ振り回し、一気に四人を沈めた。

 兄の腕力を考えれば不思議ではないが、さすがに撃たれて五日だ。無謀すぎる。

「何! この程度の怪我、たわいも、ない! お前達は早く、フィグネリアの元へ急げ!」

 イーゴルは声を張り上げているが、いつもよりやや弱い。痛みを食いしばっているようだった。

 フィグネリアは踏み込まれてもすぐに避けられる距離である事を確認して椅子の上に立つ。

「この愚か者どもめが! 争いを産んでいるのは貴様ら自身だ! 私は兄上の影だ。けして別たれることもなければ、それを拒むこともない。それを無理にふたつに引き裂いて自滅していることが分からないのか!」

 息を吸って恫喝すると兵らがしばし動きを止める。

 実際声を張り上げてみると、思った以上に自分の心は怒りに満ちていた。

 自分は争いなど望んでいないのだ。それなのに自分勝手に動き回る彼らのせいで兄はこんな目に合うし、夫は拉致されてしまっている。

 何よりも腹立たしいことは、自分だ。

 自分の感情を押し殺しすぎて、周りに思い違いをさせて暴走させてしまった。そのことにこんなことになるまで気づけなかった。

「なんだかよくわからんが、とにかく俺はフィグネリアを敵と見なすことをない! 俺の可愛い妹の敵は全員俺の敵だ!!」

 さらにイーゴルが畳みかけて再び長椅子を持ち上げた。

「兄上! だから無茶はおやめ下さい!」

「いいや、やめんぞ! この五年のお前が受けた屈辱ここで全部はらしてやる!」

「兄上に万が一のことがあれば私は一生、自分を恨みます!!」

 怒鳴り合う兄妹に誰も動けなかった。その間に、外から大勢の足音が聞こえてくる。

 新手か、銃声に駆けつけてきたものか。どちらにしろこの状況を見られれば混乱は大きくなる。

 フィグネリアは身構え、現れた兵団の中心に立っているのはタラスの姿に目を見張る。

「皇帝陛下、皇女殿下のおふたりに武器を向ける者、全て捕らえよ!」

 タラスの命に兵が雪崩れ込んできて次々にロジオンに従った兵達を捕らえていく。味方についてくれた者たちは捕らえないよう、イーゴルが命じる。

「兄上!」

 そのひとがきの向こうでイーゴルが膝を床につけるのが見え、フィグネリアは急いで駆け寄る。兄の顔には汗が伝い、負傷していた場所には血が滲んでいる。

「誰か早く治療を! 言ったでしょう、そのお体では無理だと」

 イーゴルの手を握りながらフィグネリアは顔を歪める。

「痛むが、それほどでもない。しかし、銃というやつはすごいな。この俺があの距離からたった二発でやられるとは。あれで攻めてこられたら確かに手こずりそうだな」

「ええ。あとでそのお話はゆっくりしましょう。今は体を休めて下さい」

「……この五年の間に、何があったかも全部だぞ」

 しっかりと手を握りしめられながらフィグネリアはうつむいて、震える唇をどうにか笑みに変える。

「そのかわり、あまり怒りすぎないでくださいね」

「ううむ。難しいが、こらえてみる」

 薬師がやってきてフィグネリアはイーゴルを託し、それをずっと見守っていたタラスを見る。

「タラス殿、助かりました。しかしなぜここに……」

「姿の確認できない兵がいたのでもしやと思い、来ました。皆、フィグネリア様のためならばと動いてくれました」

 その言葉にフィグネリアは駆けつけてきた兵達の中に、刺客が潜り込んで来た時にいつも駆けつけてきていた者がいることに気付く。それから、タラスに戸惑い気味に視線を戻す。

 タラスとはあれから一度も顔を合わせておらず、どこか気まずい。

「このような事態を引き起こし本当に申し訳ありませんでした」

 言葉を探していると、タラスが先にそう言った。

「いいえ。全て、私が利害にばかり目を向けていたせいです」

 父に子供の頃からよく諭されていた。近づいてくる人間はなんらかの利益を得ようとしている。ただそれは全部悪いことだと決めつけるのではなくて、その個人の利は多くの人間が共有出来るものかどうか見極め、相応しい対価を与えろと」

 今になってそれが出来ていなかった事を痛感させられている。

 地位や名誉、財産ならならすぐに見極めがついたが、それ以外のこととなるとまるで間違っていたのだろう。

 兄や家族に対して、タラスや他の皆にも。

「私はもっと、共に歩んでもらえる人間の気持ちを慮らねばならなかったのです」

 それに気付かせてくれたのはクロードだった。ここまで多くのことがあったが、彼と出会えたことは不幸中の幸いだった。

 フィグネリアは地母神像の背後に開かれた扉の向こうに目を向ける。

「……クロード様はあちらに?」

「おそらく。ロジオン大神官長もそこでしょう」

 気がついた時にはロジオンはもう堂内にいなかった。逃げる場所など、もうそこしかない。

 そしてクロードもそこで迎えを待っているはずだ。

 フィグネリアは残る夫を取り戻すべく、扉の向こうへと向かった。


***


 うっかり銃撃犯にされるかと思ったクロードだったが、幸いそれはなかった。

 軍人上がりとみられる屈強な神官が数名すぐに集まってきて、丁重に保護されたのだ。さらに神子達も集まってきて身を案じられた。

 ひとまず一階の応接間で猫足のソファーの上に座り、かけてもらった毛布にくるまってクロードは一息つく。

 これで自分の居場所はともかく、イーゴルを撃った相手が大神殿にいることは伝わったはずだ。

「ここでのんびり助けてもらうのを待ってる……わけにもいかないか」

 目に見える出口は中庭の向こうに見える礼拝堂へと繋がっているだろう扉ひとつのみ。あの厳つい神官は一階に六人控えているので突破は無理そうだ。

「一番上にたぶんもう一個出口がありそうなんだけどな」

 大神殿は今いる棟と礼拝堂が合わさった建物を七つの尖塔が取り囲む構造だ。

 そしいてこの真裏が大神官長のいる塔。その最上階に大神子が自分で礼拝堂を通ってあそこまで移動した、というより最上階同士が繋がっていると考えるのが妥当だろう。

 が、さすがに最上階は大神子がいるだけに近寄らせてもらえない。

 妖精達も上に行こうとすると妙にそわそわし始めるのでそこも気がかりだ。

「今ちょっとばたばたしてるし行ける、かな」

 クロードは部屋を抜け出て周囲を見渡す。神子達は少し不安そうな顔でうろうろしていて、部屋に戻りたいと言うと快く許可してくれた。

 そこにほんの少し罪悪感を覚えながら階上へと行く。三階が自分に与えられている部屋がある階なので問題ない。

 近くに人がいないのを確認して一気に五階まで駆け上がる。そこまではいいが息切れしてしまった。

「もうちょっと、体力欲しい……」

 うずくまってぜえぜえ言いつつクロードは息を整えてどうにか立ち上がる。

 窓がなく薄暗い廊下を見る限り下の階と構造はさして変わらないようだった。階段の位置と礼拝堂への道の位置を頭の中で確認して、もう一つの通路がありそうな場所を探る。

「あ、そうか。部屋から直接繋がってるのか」

 明らかに大神子の部屋と思われる不思議な文様が彫り込まれた両開きの扉の前で、クロードは落ち込む。

 肝心なことが抜けていて、フィグネリアが訊いたら呆れることだろう。

 どうしようかと考えていると、風の妖精達が自分の周りをぐるぐると回り始めて髪を揺らされた。

「誰が降りてきて来てるかぐらい教えてく……っ!!」

 妖精に語りかけようとするクロードの声は銃声にかき消される。妖精達がそらしてくれたようで扉に銃弾がめり込んだだけですんでいる。

「悪魔など、あるはずが……」

 下で撃ってきたのとは別の男が震えている間に、クロードはとりあえず部屋に飛び込む。

「さっきからうるさいなあ。本当に嫌な音! 兄様達はどうしてあれが好きなのかな? ねえ、君もそう、思……あれ、妖精王?」

 そして部屋の奥の御簾の向こうから文句を言いながら出てくる人物がいた。声から少年かと思っていたが、三十間近と思われる女だった。真白い髪からして大神子らしかった。

 白い飾り気のないドレスに毛皮のガウンを羽織っている大神子の造作は、年を重ねた色香と少女めいた幼さが絶妙に解け合っていて美しい。

 その紅玉のような瞳だけはひどく幼い雰囲気を漂わせている。

「大神子様、じゃなくて神霊様? しまった、扉、塞いでなかった!」

 クロードが問いかけている内に襲撃者が乗り込んでくる。

「ちょっと、何やってるんだよ! 僕の前でそんな音たてないで!」

 神霊の怒りに風が大きく動いて男が部屋の外へと吹き飛ばされ、銃が折れ曲がる。そしてそのまま扉が閉まった。

「すごい」

 自分が普段知っている妖精の動きとはまるで違っていて、クロードはぽかんとする。

「あ、大丈夫? どうしよう。もっと、劇的な対面を想定してたんだけどな。あともうちょっと準備が出来てからのほうがよかったな」

 十分、劇的だと思いながらクロードは、年頃の少女のように髪を整えて服の乱れを直しあたふたとしている神霊を見る。

「初めまして、久しぶり? まあどっちでもいっか。妖精王、僕はラウキルっていうんだけど、知ってるかな?」

 知っているも何もなかった。

 それはナルフィス教においては、一度捕まったら最後、死ぬまで演奏をさせられるという音楽家達の間で恐れられている悪魔の名だ。

 これは相当まずい状況かもしれない。

 クロードはそのまま抗うことも出来ずに手を引かれ、大神子のための広いベッドの上と連れていかれた。

(ちょっと手、繋いじゃったけど、浮気じゃない。これは不可抗力)

 頭の中で妻に対する言い訳を考えながら、クロードは熱っぽい目でこちらを見ているラウキルからわずかに身を引く。

「ラウキル、様。ええっと、俺をここまで連れてくるように言ったのはあなたですか?」

 尋ねてみると嬉しそうにラウキルが顔を綻ばせた。

「そう! 大変だったんだよ。母様にばれないようにこっそり出てきてちょっとずつ教えて。ああ、僕の妖精王、ようやく会えた……」

 ラウキルが手を伸べてクロードの銅の髪に触れる。

「綺麗だなあ。昔の銀色の髪に金色の目もすごく綺麗だったけど、今のが断然いいや」

 ラウキルが身を乗り出して前屈みになっているせいで豊かな谷間が見える。それから視線を引きはがしてクロードは意識を別の方向に向ける。

 ラウキルは一体誰と勘違いしているのだろう。それにさっきから言っている妖精王とはなんなんだろうか。

 疑問を口にするとラウキルは不思議そうな顔をした。

「妖精王は、妖精王だよ。奏でる音も、姿も綺麗で完璧な妖精達の支配者。人でありながら人でなく、神ではく神の力を持つ、影の王」

 うっとりと陶酔した瞳でラウキルがクロードを見つめる

「すいません、残念ながら俺、そんなたいしたものじゃないんですけど。妖精を支配とか全然出来ませんし。そもそもそこまですごい呼び名じゃなくて神の楽士とかいうやつなんじゃ……」

 若干伝承と重なる部分もあるが、やはりこんな自分がそんな王、などと呼ばれるのは身の丈に合わなくて落ち着かない。

「神の楽士なんて、妖精王の存在を誤魔化すためだけのものだよ。人間達も僕の兄姉達もみんなして妖精王をひとりじめしたくて取り合うから、君は逃げてしまったんだ。母様がそれに力を貸して、妖精王の存在は隠されたんだよ」

「……で、隠されてた俺をなんで引っ張り出してきたんですか?」

 あんまり答は聞きたくないが、一応聞くだけ聞いてみた。

「もちろん、僕だけの物にするためだよ。昔、どうにかして手に入れようとしたけど逃げられちゃったんだ」

「そうなんですか。ところでですね、一番肝心なこととして逃げたのは俺じゃなくて俺のご先祖だと思うんですよ」

 クロードはラウキルからずりずりと距離を取る。だがすぐに迫ってこられてしまう。

「そうか、人間は一度死んじゃうと別のもになるんだよね。でも僕にはどうだっていいことだよ。必要なのは魂の本質が抱える力なんだ」

 ちょっと、もう理解できない。

 クロードはそろそろ投げ出したくなって来た。

 それにこのラウキルの保護者は何をやっているのか。昔助けてくれたなら今回も助けてくれたらいいのに。

 地母神への不敬な文句を胸の内でつぶやきながらどうやって逃げるか考えていると、部屋の扉が開く音がする。

「少し、予定が狂いました。かの皇女が妖精王を奪いに来ます」

 静かなその声は、ロジオンのようだった。

 フィグネリアがすぐ側まで来ているということを聞いてクロードは、すぐにでもここから飛び出したくなる。

「奪いに来るんじゃなくて迎えに来るんですよ。何したって俺はあなたの都合良いように使われる気はないですから」

「使うなど、おこがましいことは思っておりません。むしろ私はあなたに仕えたいのですよ。あなたによって築かれる浄化された世界を私は待ち望んでいるのです」

 こっちもこっちでよく分からない、とクロードは頭痛を覚える。

 ラウキルは神霊なので多少人間の常識が通じないのはまだ分かるとして、ロジオンの方はもう少し理解できる範疇で話して欲しい。

「浄化された世界ってなんなんですか? だいたい俺にそんな世界を築くとか無理です」

 ロジオンはそれに黙々と答えた。

 今回の件でなく先帝の暗殺までしていたことをきいて、クロードはこの男が正常でないことを思い知らされる。

「妖精王、あなたがさえいれば世界は浄化されるのです

「……言っておくけど、俺に妖精を従える力だってないですよ。それに俺だって人間で、そんな綺麗なものじゃないですから」

 ロジオンのように無私無欲とは絶対になれない。

 ここに来るまではそれに近い状態だったけれど、今は違う。得たい物がたくさんあるし、ここへ来て得た物もなにひとつ捨てられない。

「いいえ、あなたはもうすぐそちらのラウキル様によって真の力を得るのです」

 ロジオンが言い切ったときに銃声が響く。

「フィグ……」

 不安に思わず妻の名を零すとラウキルが不快そうに眉をひそめた。

「絶対に、奪わせないでよ。婚姻を結ばせるなんてやめさせとくんだった」

 ラウキルが唇を尖らせてお前達、と妖精を呼ぶ。

「少しあの人間の言うことをきいてやってよ」

 その声と共に周囲の妖精達が動き、いつも身近に感じている気配が遠ざかっていく。

 クロードは感覚を研ぎ澄ませるが、風の妖精以外は指先が掠める程度にしか存在を掴めない。

「行くな」

 声をかけても彼らはもう何も聞き入れない。

 いつも煩わしいほどまとわりついてじゃれていた風の妖精すら離れていってしまう。

「怖がらないで。少し、借りるだけだから」

 ラウキルが優しく囁く声にはまるで安心できるものではなかった。

 孤独を埋めていてくれた彼らの存在が失われようとしていることは、恐怖以外の何物でもない。

 全て、遠ざかってしまう。

 最後に風の妖精が別れを惜しむように硬直するクロードの頬にすり寄ってから帳の向こうへと行ってしまった。

「では、仰せの通り、邪魔者を排除して参ります」

 ロジオンが静かに礼をする衣擦れが聞こえて、クロードはそれを追おうとする。しかし背後からきつく抱きしめられて動けなかった。

「駄目。もう絶対に逃がさない」

 そうして耳元で、ラウキルが楽しげに笑った。



「この近距離で外したらこうなることを覚えておけ」

 大神子の棟に乗り込んだフィグネリアは動揺し発砲した神官の一撃目を避けて引き倒し、その肩を外す。

 ロートムの銃は遠距離からの正確な狙撃を目的として開発され、照準を定めるのに少し手間を取る。なので近接戦に持ち込み一発目を上手く逸らせば、二発目までに大きな隙が出来てしまう。

 建物の構造上、庭にさえ降りなければ銃撃はそこまで恐くない。

「フィグネリア様、神子様達の避難が終わりました。銃も外に運び出しました。上へはお供させていただけないでしょうか」

 一階の回廊にいるフィグネリアの元にタラスがやってくる。これで最後とみられるロートムの密偵はさらにもうひとり来た兵に引き渡す。

「しかし、五人も潜り込んでいたとは。クロードはよく無事でいたな」

 連れて行かれる兵を見ながら上がった息を整える。

 最初の発砲はクロードの力に驚いた密偵で、次の発砲はそれを遠くから目撃していた神官が恐慌状態に陥ったため、ということだ。

 妖精の存在を信じず、理解の範疇を超えた事態にそのふたりはずいぶん錯乱していた。

 悪魔だのなんだのとわめき散らかしてくれているおかげで、密偵ではないと白を切られることもなさそうだ。

「ええ。やはり妖精がお守りくださっているのでしょう」

 それならばよいが、とフィグネリアは重くなってきた足を奮い立たせて、階段へと向かうために回廊へと出る。

 クロードは二日も風邪で寝込んでいたと聞いたので病み上がりで無理をしていないか心配だ。

 寒さにまだ慣れきっていないのだから、連れて行く時には毛布で巻いてくれればよかったものを。

 礼拝堂で襲ってきた兵達の中に混じっていたクロードを連れ去った男への恨み言を、胸の中でつぶやきながらフィグネリアは階段へと向かう。

 しかしそこまで行くのに風が吹きつけてきて足を止められる。まるでこれ以上進むなと言わんばかりの叩きつけるような強風だった。

「これは一体」

 妖精に違いないだろうが、道を阻まれる理由は思いつかなかった。

「クロード!」

 フィグネリアは一度回廊側へと出てみて夫の名を呼ぶ。その声は庭の真上の薄青の空に吸い込まれて、冷たい沈黙が落ちる。

 そして寒風が頬を嬲り、痛みが走った。

 初めは冷気のせいかと思ったが、違和感に頬に触れると指先に血がついていた。

「フィグネリア様……」

 タラスが目を見張る先では中庭の泉が蛇のようにくねりながら水の柱をとなる。それはそのまま床に倒れ、いつの間にか閉じている礼拝堂への扉へと向かって行く。

 そしてその水の塊に触れられた扉が凍りついた。すでに他の兵達は礼拝堂へと行っていて残るのは自分とタラスだけだ。

「閉じ込められたのか。なぜ……」

 これがクロードの仕業とは思えなかった。彼がまともに妖精を使えたとしてもこの行動はおかしい。

「皇女殿下。私は正しいのです」

 不意にロジオンの声が響き渡る。姿を探せば正面の回廊に、ロジオンは佇んでいた。ちょうど階段のあるあたりだ。

「これが、その証明です。神霊様は私に力を貸し与えて下さった。これでもまだあなたは私の言うことを妄執だと言いますか?」

 風が雪片を巻きあげながら吹き荒んでいく。

 神霊が味方についているということが不可解だ、とフィグネリアは目を細める。

 神々は人に恵みばかり与えるものではないが、こんな関わり方をしてくるのは神の楽士と同じぐらい遠い昔の話だ。

 とはいえ、今さら誰が敵に回ろうと退く気はなかった。

 フィグネリアはロジオンを見据えて、タラスが留めるのを聞かずに中庭に出る。

「ああ。そうだな。その世界を治めるのはクロードだ。家族を蔑ろにされてそんなものを築くはずがない」

 いたぶるように風がフィグネリアの柔肌を浅く傷つける。

「妖精王はそんなことには囚われはしません。救いを求める民にかならずや手をさしのべるでしょう」

「ならば試してみるか? ここで私を殺してみるがいい。私の夫はけして貴様を許しはしない」

 フィグネリアは雪を踏みしめてロジオンへと近づいていく。こうなったら力尽くで上に行くしかない。

「もはや、あの方はあなたの夫ではありません。

「誰がそれを決める?」

 会話で気を引きながらじりじりと距離を詰めていく。

「神霊、ラウキル様のお言葉です。人の裁量ではありません」

 出された神霊の名にフィグネリアは逡巡する。

 音楽を司るかの神霊は純粋に音を好むが祭事で降り立つことはない。過去に勝手に楽士を攫って独占しようとしたために他の神霊達や地母神により地上に降り立つことを禁じられているという逸話が残っている。

「……ロジオン大神官長、地母神ギリルア様はなにもお言葉を授けて下さってはいないのでは?」

 何においても地母神の決定が最上のものだ。それもなしに過去に罰を受けたとされる神霊が好き勝手しているのはおかしいと思わないのかと、冷静にフィグネリアは問いただしてみる。

「ラウキル様はいずれは地母神様も降り立ち、世界は妖精王によって浄化されると確かにおっしゃいました」

 ひとりの神霊の言葉のみだけを鵜呑みにするのは危うい。大神官長ともあろう人間がそれに気付かないのは、自分の理想にとりつかれてなにもかもを都合のいいように捕らえてしまっているからか。

「だが、クロードは妖精を使役出来ていない。それでどうやって王と名乗れる」

「ええ。それは妖精王自身ですら知らなかった」

 ロジオンまで残り、十歩をきる。

「妖精王は神霊ラウキル様と婚姻を結ぶことによって、その力を発露するのです」

 そしてロジオンが告げた言葉に、フィグネリアは眉を顰める。

「なぜ、それを担うのがラウキル様なのだ?」

「音楽を司る神ですから。その力を完成させるのに必要でしょう」

 あと、五歩。

「どうにも、私には疑問が多く残るな」

 短刀は抜かなくてもいい。背丈はあっても細身のロジオンならば素手でどうに出来るはずだ。

「あなたは神を疑うのですか?」

「この場合は理に合わないと感じているだけです」

 フィグネリアはロジオンの視線を引きつけたまま、妖精達の動きがおさまっていることを確認する。

 集中が散漫すると上手く操れないのかもしれないという予測はあたったようだ。

「……あなたも、多くを望みすぎた」

 しかし、風がまた強くなる。

「タラス殿!」

 フィグネリアの意図に気付いたらしかったタラスが回廊を移動し、すでにロジオンの左側に迫って攻撃を仕掛けていた。

 その体は強風に押され、突きだした槍は凍り付いて真ん中から折れた。

 それでも彼はロジオンに向かって行こうとする。

 フィグネリアは地面を蹴り、タラスと共にロジオンを挟み撃ちにする形を取る。

 だが、風が狂暴に唸った。

 吹き飛ばされたフィグネリアは側の柱に強かに体を打ちつけられる。

「……あなたの言ったことを試してみましょう。私はけして間違ってはいないのですから」

 床に倒れ伏した体を起こしているフィグネリアを見下ろすロジオンの瞳は明確な殺意があった。


***


「僕との婚姻が鍵って、いうのはすごくいい嘘だと思うんだ」

 ふふっとラウキルがいたずらっ子のように微笑む。

「俺をここまで連れてくるためだけにここまでする必要がどこにあったんですか?」

 クロードは寝台の上から逃げられず、ラウキルがロジオンについた嘘を聞かされていた。

 あまりにも多くのものが犠牲になりすぎている。それがどれだけの重荷となってフィグネリアにのしかかっているかを考えると、怒りを覚えずにはいられなかった。

「だって、僕ひとりじゃ無理だから。母様にばれないようにこっそり降りてくるのも大変なんだよ。君がいたところには干渉出来ないしね。で、この頃、地上の争いが地味で退屈してた兄様達に協力してもらったんだ」

 ラウキルがあげる神霊の名はどれもナルフィス教において悪魔と呼ばれるものだった。

 彼らはラウキルが勝手に降りている間のことを誤魔化したり、代わりに降りて痕跡を消したりと小細工をしたらしかった。

 そして神霊達は全員が全員好きなときに降りて来るわけではなく、冬籠もりの祭事の後に降りることが出来る神霊が入れ替わるそうだ。ラウキルは隙が多くなるその調整期を狙って、大神子の体を独占したということだった。

「面倒くさくて大変だし、兄様達に君を貸してあげなくちゃならないけどけどそれは仕方ないよね。君の力がすごく不安定なこんな機会、滅多にないんだから逃す手はないよ」

 言いながら、ラウキルがガウンの中から見慣れた銀の笛を取り出す。

「……それ、俺のです。返して下さい」

 指先で笛を弄びながらラウキルはどうしようかな、とつぶやく。

「僕も、すごく、すごく、君の音を聞きたいよ。でも、それが僕のためだけのものじゃないとやだ」

「人の物勝手に取っておいてそれは駄目です」

 このクソガキとでも罵りたい気持ちを抑えてクロードは出来るだけ声を穏やかに保つ。

 下の方でかすかに騒がしい物音が聞こえてきていた。妖精達はまだ大人しくしているらしく、気配が薄い。

 彼らを好きに動かされる前にどうにかしないとならない。

「好き雰囲気を言ってくれたら、なんでも吹きますよ。楽しい曲とか、きらきらしてたり、丸くてふわふわしてるとか、そういうのでもなんでも」

 出来るだけ自然な笑顔で語りかけると、ラウキルがうずうずとした様子をみせる。

「だ、駄目だよ。約束が先!」

 しかし、向こうもずいぶん警戒しているようだった。笛を吹かれるとまずいらしい。

「ちょっとだけですよ」

 自分から歩み寄ってみると、じいっとラウキルが目を覗き込んでくる。

 あまり見つめられると困る。フィグネリアにすぐになんでも顔に出しすぎだと何度か注意を受けたが、自分でも嘘が下手なのはよく分かっている。

 すでに顔の筋肉がつりそうだ。

「僕との婚姻、本当にしてくれる?」

 小動物のような顔でそう迫られてクロードは言葉に詰まった。

「……すいません、ラウキル様、男同士で婚姻はちょっと」

 さっきからやたらその辺りが気になっていたものの、考えないようにしていた。しかし婚姻とまで言われるとそう断るしかなかった。

 ラウキルの方はきょとんとした顔をした後に頬を膨らます。

「僕、女の子だもん。そりゃ、本当の姿はこの器とかあの人間みたいに胸がおっきくなくて男の子みたいって言われるけど。ひどいよ」

 傷ついた顔をして泣きそうになっているラウキルの声も表情も、言われてみれば少女のものだった。

(これはこれですごく、面倒くさい)

 クロードはその姿を見つめながら戸惑うが、妖精が激しく動いている気配を遠くに感じて気持ちが焦ってくる。

 ここに入り込んできたロートムの神官がいともあっさり吹き飛ばされたのだ。

 フィグネリアなどひとたまりもないはずだ。それに庭には水の妖精も雪の妖精もいてどちらも使いようによっては危ない。

「……ラウキル様、約束します。俺はあなたのためだけに笛を吹きます」

 クロードは一つ深呼吸をして真摯にラウキルを見つめる。

 ラウキルの名を口にしながらも、その気持ちは全てフィグネリアに向かっていた。

 彼女はたった数日で自分の閉じきった世界を開いた。

 この力をありのまま受け入れ、そうして自分の可能性を見つけて成長を喜んでくれた。

 それだけでなくて、愛していると彼女は返してくれた。

 ここへ連れた来てフィグネリアと引き合わせてくれたことはラウキルに感謝する。だが、自分は自分の意思で、ここで生きていく。

 愛する妻と、その家族、そうして騒がしすぎる友人達も共に。

 クロードはラウキルから視線を逸らさずに手を伸べる。

 まだ届かないフィグネリアにもう一度触れること思いながら。

 

***


 笛の音が上階から降りて来て、フィグネリアに向けられていたロジオンの視線が階上へと移動する。

 フィグネリアは痛む体を起こし、その隙にロジオンを床にうつぶせに倒してその腕を後ろ手にねじ上げる。風はざわめいているが、こちらに向かってこようとはしない。

「どうやら、私の方が正しかったようだな」

 ロジオンは諦めきったのか、何も答えずに抵抗はしなかった。

「フィグネリア様、お怪我は?」

「ありません。タラス殿も無事ですね。……ロジオン大神官長をお願いします」

 フィグネリアはタラスにロジオンを任せて訝しげに眉根を寄せる。

 笛の音がいつになく激しい。乱暴とすら思えるほど様々な音階が入り乱れていながら、音のひとつ、ひとつが精密に計算されたかのように絡み合って極彩色の旋律を形作っている。

 その嵐のような音を体現しようとするかのように、風たちが踊り狂い、積もった雪は空へと綿のようの跳んでいき、泉の水も帯状になって舞う。

 やがて足下の地面すら小刻みに揺れ、建物もみしみしと音を立て始めた。

「一体、何を……」

 これまでにない異常なほどの力の流れにフィグネリアは唖然とする。

 そこへ鈴の音がふたつ、響いた。神霊が降りてきた合図だろうが上にはすでにラウキルがいるはずである。

「あらまあ、大変」

 そして聞こえて来た柔らかな女性の声はこの状況下ではあまりにものんびりしすぎたものだった。

「ギリルア様……」

 ロジオンがそう言ってフィグネリアは声の方へと目を向ける。

 そこにはどこから入ってきたのか、まだ十になるかどうかという幼い神子が口に手を当てて目を丸くしていた。

「思ったよりずっと不安定ね。まあ、どうしましょう……」

 そう言いつつギリルアはまるで動揺した様子はなく落ち着きはらっている。

「ギリルア様、私は神の国を……」

 なんの言葉もかけられないことに戸惑いを見せるロジオンにギリルアが微笑みかける。

「残念ながらあなたは少し勘違いをされています。あれは争乱こそ巻き起こせど平穏など与えないもの。けして迂闊に触れてはいけない、といっても手遅れですね」

 柔らかないながらそれははっきりとした侮蔑がこめられていた。

 理想を潰えさせられた人間の顔をロジオンの中に見て、フィグネリアは目を伏せる。

 もう永劫に叶わない望みを抱いて生きながらえていけばいい。父を殺し、自分から大切な物を奪おうとしたこの男には、一度刃を突き立てる程度では気が済まない。

「……ギリルア様、これは私の夫のなしていることで間違いないのでしょうか」

 澱んだ感情を振り払い、フィグネリアは自分の先に目を向ける。

「おそらく、ラウキルから妖精の支配権を取り戻そうとして加減が分からなくなってしまっているのでしょう。とにかく上に行きましょう」

 ギリルアが小さな体を懸命に動かしてよたよたとフィグネリアの側まで来る。

「……差し出がましいことかと思いますが、抱きかかえてもよろしいでしょうか」

 あまりにも動きにくそうなギリルアの様子にフィグネリアはそう申し出た。

「あら、助かるわ。動かせる体がこの子しかなくて、不便で困っていたんです」

「では、失礼します。……この状況は大神子様がふたりという事になるのでしょうか」

 フィグネリアは階段を上りながら、腕の中にいるギリルアの栗色の髪を見下ろす。

 本来なら必ず大神子に選ばれた者は髪が白へと変わり、その者しか神を降ろせないはずだ。

「それが、あちらの器をラウキルに浸食されてしまって……」

 どうやら今大神子の体を使っているラウキルは十数年かけて、大神子の体を自分だけが使えるようにひっそりと細工をしかけていたということだった。クロードを手に入れ、今は神界側との繋がりを絶ってしまっているらしい。

「そんなことが、出来るのですか……」

 説明されてもよくは分からずフィグネリアはそう答えるしかなかった。

「いいえ、普通は出来ないのですけれど、妖精王がいると神界と人間界の境界が揺らいでしまうので可能になるのです。今回は得に妖精王の力が不安定で、それに引きずられるようにして揺らぎが大きくなっていて、こうやって同時に降りてくることもできるんです」

 本当に困ったわ、とギリルアがため息をつく。

「……妖精王とはただ妖精を従えられる王というだけではないのですか?」

「わたしたちにもあのような存在が人の世界に生まれ落ちるかはよくは分かりません。ただ妖精達を従えるわたしたちとの均衡を図るためのものでもあると一時期は考えていました。だから世界の陰の王、とも呼んでいました」

 ですが、とギリルアが耳を塞ぐような素振りを見せる。

「この音は、妖精達を従属させ、その力に人が群がり、神もまた、この音にひきよせられてしまう。全ての均衡を崩してしまいかねない。彼の存在は遠いようで近い神界と人間界の境界の調整を行っているのかもしれません」

 フィグネリアは話を聞いてもやはり、あのぼんやりとしたクロードがそこまでのものとは信じがたかった。

 たが今流れている旋律は、あまりにも感情を揺らされすぎて耳を塞いでしまいたくなるのに、永久に聴き続けていたいという誘惑にかられてそれが出来ないだけの力を持っている。

 ただの人間の自分がこれならば妖精達や神霊達はどうなのかと考えると空恐ろしい。

「ギリルア様、クロードの力が発露するのにラウキル様との婚姻が必要というのは?」

 ラウキルの伝承を合わせて考えると、どうにも胡散臭すぎる。

「まあ。誰がそんなことを? ラウキルが自分で? あら、あら、あの子ったらなんて嘘を。昔からあの子は妖精王がお気に入りで欲しがってしかったなかったんです。今回も妖精王の誕生にそわそわしていたからちょっと心配してたんですけれど、まさかこんなことになるなんて」

「……勘づいていたならもう少し、監視の目を厳しくしてはいただけなかったものでしょうか」

 ひとまずそれが嘘と言うことなら、夫はラウキルに奪われてはいないだろうと安堵しつつ、フィグネリアはそう問うた。

「ええ。それがまだ神界側には影響を及ぼしていなかったし、珍しく兄妹で仲良く楽しそうにしてるのに邪魔するのも可哀相だしで、のんびりと構えていたのですが、ラウキルが想定外の事をしてしまっていたもので対応が遅れてしまいました」

 まったくもっていい加減な対応である。

 フィグネリアは揺らぎそうな自分の信仰心を押しとどめて最上階へと登り着く。笛の音は近い。

「ギリルア様、場合によってはラウキル様に対して暴言を吐くかもしれませんが、よろしいですか?」

 そして大神子の部屋の前でフィグネリアはギリルアを降ろす。

 場合によってはと言ったものの、すでにラウキルに対する敬意は皆無に等しい。夫を奪われかけているのにそんなことにこだわる余裕などない。

 踏み込んだ広間では暖炉の炎が異様な大きさで燃え上がり、風が部屋中を引っかき回していた。置かれているもの全てが床になく、天井か壁にぶつかったのか折れたテーブルや椅子の有様に先へ進むのも躊躇われる。

 そして奥でばたばたとはためく帳の向こうから溢れ出てきている笛の音に、一気に感情をつかみ取られた。

 思考も何もかもその音に絡め取られてしまう。

 自分がここに何をしに来たのかさえ、あやふやになっていきそうなほど、間近で聞く笛の音の誘惑は強い。

 だが、自分が欲しいのはこんな音ではない。

「クロード! もう終わりだ。そこまででいい!」

 必死に理性を保って音の嵐をかいくぐり声を発するが、それは届かない。

 フィグネリアは飛んでくる椅子や机の破片や、敷物、小物達を避けたり払いのけたりしつつ、フィグネリアは部屋の奥へと真っ直ぐに突き進んでいく。

 この先にクロードがいる。

 彼さえいれば、それでいい。

 その感情は音への誘惑に勝る。

 呼吸をする暇さえ惜しいほどに心が急いて心臓が早鐘を打ち、フィグネリアは求めるままに帳を掴んで開く。

「クロード!」

 そうして見えたのは、ベッドの上に夫と他の女がふたりきりでいるところだった。

 こういう場合は妻としてどういう顔をしたらいいのだろうか。

 フィグネリアは一瞬、動きを止めてしまったが、笛を吹いているクロードの様子が尋常でないことに息を呑む。

 半ば伏せられた瞳は金色になり、妖精を狂わせる音を途切れ差すことのない彼はもはや人の摂理から外れたもののようだった。

 そこにいるのは妖精王、そうして世界の影の王と呼ばれる存在。

 その真意を初めて知った気がした。

 だが、クロードである事は間違いない。自分の愛おしい夫だ。

「邪魔しないでよ、妖精王はもう僕のなんだから。僕のためだけに音を奏でてくれるの。綺麗で、激しくて、こんなにも強い力を持っている音。人間なんかには相応しくない」

 クロードに近づこうとするフィグネリアを、ラウキルがベッドから降りて阻む。

 白い髪を風に揺らめかせてこちらを睨みつけてくるその姿は、神霊とだけあってさすがに気圧されるものがあった。

「笛の音だけが欲しいだけなのか、お前は」

「妖精王の奏でる音が欲しくない神霊なんていないよ。君だってそうだろう、この音を独り占めしたくて仕方ないんだ」

 陶酔したラウキルにフィグネリアは嘲笑を浮かべる。

「いらんとは言わない。だが、それがクロードの全てではない。ただの笛を奏でる道具扱いするお前にこそもったいないというものだ」

 取り柄はそれだけなんて、ない。

 彼はたくさんの物を持っている。これからもずっと成長していくだろう。それも含めて全部、自分の物だ。

 誰にも譲らない。

「クロードは、私の夫だ」

 フィグネリアはラウキルを射貫くように見据えて断言する。

「違う。お前との婚姻はこっちに妖精王を連れてくるためと、兄様達に手を貸してもらうのに面白いことを見せなきゃいけないから仕方なくなんだよ。先に妖精王を見つけたのは僕なんだから!」

「だが、婚姻を結んだのは私だ。さっさと捕まえておかなかったお前が悪い。例え神であろうと人の亭主を奪うというのなら覚悟してもらう」

 フィグネリアはラウキルの間近まで迫る。

 もはや目の前にいるのは神でも何でもく、自分とクロードを阻む障害にすぎない。

 殴り倒さねばクロードに触れることが叶わないなら、そうしてもいい。

「お前達! 追い出して!」

 怯んだラウキルが切羽詰まった声で妖精に命じたが、吹き荒れる風は音に合わせて踊るばかりだ。

「なんで……」

「さあな」

 呆然とするラウキルの横を小馬鹿にするようにそう言ってフィグネリアは通り過ぎる。

「ちょっと、駄目、勝手に触らないでよ」

 ラウキルの言葉はまるきり無視してフィグネリアは夫の肩にそっと触れる。

 指先に伝わるぬくもりに安堵を覚える。

 でも、まだ足りない。視線が欲しい、声もききたい。そうして愛していると口づけて欲しい。

「クロード、迎えに来たぞ」

 自分だけのものだと背中からゆっくりと抱きつくと、音が止まった。

 クロードが笛から口を離して寝起きのようなとぼけた顔で振り返る。その瞳は名残なのか、朧気な月明かりのような金色になっていた。

「フィグ……」

 名前を呼ばれると、心の奥で抑えていたものが弾けて泣きたいのか笑いたいのかよくわからなくなる。

 体を一度離すと、向かい合った彼はまだどこかぼんやりと自分を見ていた。

「まったく。やりすぎだったぞ」

 とにかくもっと彼の温度を確かめたくて、その胸に顔を埋める。聞こえてくる鼓動の音が心地よい。

「あれ、ちょ、あっちこっち怪我してるじゃないですか!?」

 ようやく自分を取り戻したらしいクロードがフィグネリアの状態に声をひっくり返した。

「このぐらいはたいしたことない。お前は体はもういいのか?」

 体は離さずに下から顔を覗き込むと、彼はきまり悪そうな顔をした。

「俺が風邪ひいたこときいたんですね。すごく間抜けだから隠しておこうと思ったのに……それより顔にまで怪我!」

「お前が抜けているのは今さらだろう。傷はそのうち塞がるし問題ない」

 笑ってみせると、抱きすくめられた。打ち身や切り傷が少々痛むが、それがどうでもよくなるほどにその力も温度も幸福だった。

「俺がもうちょっとしっかりしてれば、こんなことさせなかったのに……」

 悔やむ声が耳元で聞こえて来てフィグネリアはその背を撫でる。

「おかげで、こうも早く解決できたんだ。私は、お前と兄上が無事に帰ってきてくれればいい」

 クロードが抱きしめる力を緩めてフィグネリアの頬を撫でる。

 そのままフィグネリアは彼に顔を寄せて唇を軽く重ねた。

「で、もうそのへんでいいだろ!」

 二度目の口づけを前にしてラウキルの不機嫌な声が割り込んで来て、夫婦は不満げに体を離す。

 ふてくされているラウキルの側には、いつの間にかギリルアが立っていた。

「こら、邪魔してはいけません」

「だって、これ見よがしにひどい、僕の物になってくれるって約束したのに!」

 駄々をこねるラウキルにフィグネリアは視線でクロードにどういうことかと問う。

「笛を取り戻すのに必要だったんです。俺にはフィグだけですから」

 必死に弁明してくる夫に、それならいいとフィグネリアはあっさりと答える。

「ギリルア様。そちらのお子様は二度と夫に手を出さないようにしていただけますか?」

 フィグネリアはひとまずベッドから降りてギリルアと向かい合う。

「ええ。それは気をつけますけど……」

 なんとなく不穏な気配を感じ取って見下ろすと、ギリルアは曖昧に微笑む。

「このとおりすっかり境界が揺らいでしまって、うちの子達もなにかとっかかりがあれば降りて来られる状態なので、また今後もまたうちの子がご迷惑をおかけすることもあるでしょうけど、そのときはごめんなさいね」

 その意味はだいたい把握出来たが、したくない。ほんのひとときだけでも現実逃避していいだろうかと、フィグネリアはベッドから降りてきたクロードに寄りかかる。

「すいません、迷惑かける前になんとかしてくれませんか?」

 すでに言葉を発する気力のない妻に変わりクロードがお願いするとギリルアが困ったように首を傾げる。

「そうは言われましても、なにぶん子供の数が多いので目が行き届かなくて。それに子供達には出来るだけ好きにさせてあげたいので……人間の言葉で言うと放任主義? というものでしょうか」

 それはけしていい言葉ではない気がするのだが。

 激しく信仰心を揺さぶられながらフィグネリアはギリルアに名前を呼ばれて姿勢を正す。

「妖精王のことはあなたにお任せいたします。彼が心穏やかであればここまでの騒動はあまり起きないはずですから。おそらく」

 あまりとかおそらくとかはっきりしない言葉に、夫婦は顔を見合わせて同時にげんなりした顔をする。

「一個だけ教えて下さい。王って言っても俺、妖精に敬われるようなことないんですけど」

「きっと、距離が近すぎるせいでしょう。あなたはこれまであまりにも妖精と深く接しすぎています。だから、均衡がとれずに揺らぎが大きくなっていると思います」

「これまでみたいに、妖精達に話しかけたりねだられたらすぐに笛を吹いたりしちゃ駄目って事ですか?」

 そう言うクロードはひどく寂しげだった。無理もないだろう。長年ずっと寄り添っていてくれた友人達と離れていなければならないのだ。

「出来れば、そうしたら良いのでしょうけれど、妖精達ももうすっかりそのことに馴染んでしまっていますし、引きはがそうとするとそれはそれで今回のように均衡が崩れてしまいます。自分でちょうどいい加減を見つけて下さい」

 完全に人任せなギリルアにクロードは努力します、と力なく答えた。

「さて、ラウキルを連れて帰るのはいいのですけれど、他の子達が使えなくなってしまいますね。でも、この体は不便だけど……すぐに成長するからいいかしら」

 ギリルアがうなずくと当時に栗毛が一瞬で真白に変わり、その瞳も深紅に変わる。

 ラウキルの方はベッドへと行くよう母に言われ、渋々と仰向けに寝転び胸の上で手を組む。

「……ねえ、妖精王、次に会ったら、今度は僕を選んでくれる?」

 瞳を閉じる前にラウキルがそう問いかけた。

「次、がいつかは知りませんけど、とにかく俺が俺である限りはフィグ以外の誰も選びませんよ」

 フィグネリアは自分の手を握るクロードの手を握り返す。

「だれが来ようと私も渡す気はありません」

 やっぱり婚姻が最大の失敗だった、とラウキルが最後に言って目を閉じる。その額にギリルアが触れると同時に、その髪の色は漆黒に変わった。

 胸がゆっくりと上下しているところを見ると、眠っているらしかった。

「さあ、これは後片付けが大変ね」

 ギリルアが開けられた帳の向こうの物が散乱しぐちゃぐちゃになった広間を見ながらため息をつく。

 フィグネリアも事後処理の事を考えて頭痛を覚えつつ、また新しい器に慣れないギリルアを抱きかかえてクロードと下に降りていく。

 ようやくたどりついた礼拝堂には多くの神官や兵がいて、フィグネリアが大神子を抱えていることに騒然としていた。

「ああ、待って。これはお礼とお詫びです」

 寄ってきた神官と神子達に託そうとしたとき、ギリルアがフィグネリアの頬に触れて傷を癒やす。他の場所も同じように痛みが引いた。

 それからギリルアは神子達がいつの間にか用意いていたベールを被り、では、と神官らと共に礼拝堂を出て行った。

 その様子に周囲がさらにどよめくのを他所に、フィグネリアは近くの長椅子に深く腰を下ろす。

「……この椅子、そういえば高かったな」

 全く同じ長椅子ふたつ作るのにいくらかかるだろうと頭の中で試算して嫌になった。

「フィグ、穴が空いてますけど何があったんですか?」

 後ろの方の席の大穴にクロードが恐る恐る聞いてくるのに、フィグネリアはかいつまんで説明する。

「……なんか、俺のせいでもありますよね、この騒動。というより元凶のような気もするんですけど」

「お前には罪がない。ラウキル様が騒動を拡大させたとはいえ、結局、火種を巻いたのはディシベリアの不安定な情勢だ。責任を取り違えるな」

 これを全てクロードとラウキルの責任としてしまい、大きな問題から目をそらすわけにはいかない。

 政治闘争に疲弊してロジオンの妄執に追従してしまう者が多く出てしまったことは、重大な問題だ。例え父の死がもっと先でも、この争いを根元から断ち切るのはそうたやすいものではない。

 そこに、隣国がつけいる隙すら与えてしまっている。

 誰かに責任を押しつけてしまえばこの国の先はないだろう。

「難しいですね」

「だが、なんとかしなければならない。……今日のところはもう休みたいがな」

 やらなければならないことは山積しているものの、今日はいますぐクロードをそばに置いてぐっすりと眠りたい。

「フィグネリア様、クロード様」

 ふたりが疲労にぐったりして沈黙していると、タラスがやってくる。

「皇帝陛下は傷が少し開いただけで得に問題はないようです。今は薬でよく眠っています」

「そうですか。起きたらクロードを連れて会いに行きます」

 兄の事だからそう心配はしていなかったが、それを聞いてとても安心した。

 それからタラスは跪いてクロードに向けて頭を垂れた。

「クロード様、このたびは本当に申し訳ありませんでした。この国へあなた様をお連れしたのは自分です。そのお力を利用し……」

「ああ、そういうのもういいです。俺はフィグと結婚出来てよかったです。どっちかっていうと良いことの方が多かったから感謝するぐらいです」

 クロードに謝罪を遮られたタラスは顔を上げて寂しげに微笑んだ。

「……あなたのような方が、フィグネリア様の伴侶となられたことは自分も間違ってはいなかったと思っています。そのお力がなくとも、フィグネリア様にはあなたのような方が必要でした」

 その後に何か続けようとしたタラスはそのまま口を噤み、一礼してから立ち去っていった。

「あの人、どうなるんですか?」

 クロードが気遣わしげに聞いてくる。

「……処罰は重いものになる。あれだけ有能な人材を失うのは痛手だが、こればかりは仕方ない」

 銃の密輸に、簒奪の画策。これを許すわけにもいかない。

「全部、帰ってからだな。義姉上とリリアに、先に、報告して。それから重臣達を集めて、ロートムの、ほうも……」

 フィグネリアは言いながらクロードの肩にもたれかかる。

 疲労がそろそろ限界に来て瞼が重くなってきた。やはりもう少し体力はつけておかねばならない。

「……仕事が一段落したら走り込みをするぞ」

「なんで、そんな余計に疲れそうなこと。うう、でも俺も付き合います。あと寒さにも慣れます」

 それからふたりはぽつぽつととりとめのない会話をしながら、全てを包み込むような穏やかな微笑みをたたえる地母神像を見上げる。

「ギリルア様って、あの像と印象違いますよね。慈愛に満ちてるっていうより……」

「それは言うな。けして言ってはならん」

 人間のいざこざはまだしもこれから神霊達が介入して来ることがあったらというのは、今は考えたくない。

 ふたりはもう一度物憂げに地母神像を見上げる。

 本人に止めるのは難しいと言われた以上、もはや救いを求める先はどこにもなさそうだった。


***


 イーゴルがようやく王宮に戻ってきたのは神殿での騒動が終わって六日後だった。まだ傷は塞がりきっていないものの、自室で安静でいいということだ。

 事件は表向きタラスを中心とする反九公家派の一部が簒奪を企てていたことを、大神殿に潜り込んでいたロートムの密偵が知り、ロジオンを人質にとって皇帝、皇女を潰し合わせて内紛を起こそうとしたことにするで落ち着いた。

 フィグネリアはアドロフ公や他九公家への今度のことの説明をイーゴルと連名で書簡で出して、王宮内でもこの騒動の収集にかかっていた。

 そしてリリアがアドロフ公へ報告ついでに夫と子供達を呼び寄せたのが到着し、家族全員が一室に集まっていた。

「……むう、半分ぐらいよく分からん」

「要するにみんなが仲良くしないせいでそうなっちゃったってことよ」

「そこは分かるが、それ以外が分からん。とりあえずきちんと話し合いするなりなんなりすればすむ話なのか」

 事の顛末やら、父の死後に起こっている内政混乱についてフィグネリアが説明した後のイーゴルとサンドラの反応はそんなものだった。

「……そこを分かって下されば問題はありません。その話し合いというのがそう上手いっていないのです」

 フィグネリアが言うのに、イーゴルがすこし理解を深めたようにうなずく。

「俺ではどうにもどっちが正しいのかああいうのは判別がつかん。小難しいことを並べられるとどっちも正しいように思えてくる」

 それにサンドラがあたしも、とうなずく。それにリリアの夫のデニスは無表情で固まっている。おそらく皇帝、皇后のふたりそろってここまで政務に不向きだとは思っていなかったのだろう。

「……お父様がいたら、こんな大変なことにもならなかったし、フィグお姉様だって酷いことをされることもかったんだわ」

 リリアが言った言葉に、部屋が静まりかえった。その目が潤むのに、デニスがそっと妻の肩を抱いて慰める。

 父の死については先に兄妹三人だけで話していた。それからそれぞれの伴侶へと伝えていた。

「……うむ。そうだな。父上がいてくださればまだ俺達を叱ってくれてかもしれんな。俺達はフィグネリアに頼りすぎていた。お前は賢く、何でも出来る物だから過信しすぎていたのだ。もっと、お前の身の周りに気をつけてやらねばならなかったのにな」

 兄の言葉にフィグネリアは小さく、頭を振る。

「いいえ。気づかれないようにしていたのは私です。……見放されたくなくて。兄上もリリアも、そんなことはしないと分かっていた。それでも、ふたりのことも好きで、愛しているから、自分に出来ることはそれぐらいで……それしかなくて、出来ないと居場所がない気がして」

 家族に対して自分の感情を言葉にするのは、これまで挑んできたどんなことよりも難しかった。

 あまりのつたなさに情けなくて、フィグネリアはうつむいてしまう。

 そうすると大丈夫とでも言うように隣のクロードが手を重ねてきて、それに縋るように握り返した。

「俺は、赤子のお前を初めて抱かせてもらったとき、こんなに可愛い赤ん坊は初めてだと思った。同じぐらい可愛かったのはリリアだけだ。なにがあってもお前達を護ろうと決めた。俺はこの通りでお前に頼らねばならないことも多いが、望むのはお前に頼られる兄になることだ」

 イーゴルが声を張り上げることなく静かに言って、フィグネリアはゆるりと顔をげる。

「フィグお姉様はいつもひとりでなにもかもやってしまうから、わたくし、寂しいわ。お父様が亡くなられたときだって何かしたかったのに、フィグお姉様はリリアは何もしなくていいって、いつもそればっかりで……」

 さっきからずっと感情が高ぶっていたリリアがついにぼろぼろと泣き出してしまった。

「す、すまない。リリア、これからはもう少し、頼るから、な」

 妹に泣かれると弱いフィグネリアはうろたえながら、そう言うとリリアが昔と変わらない拗ねた顔で本当に、と問うてくる。

「……ああ。ひとりではやりきれない。手伝って欲しい。兄上にも、リリアにも」

 そしてフィグネリアは兄と妹のそれぞれの伴侶にも目を向ける。

「義姉上も、デニス殿もお願い、できますか?」

 そこに対する返事はひとつだった。

「とはいえ、俺に出来そうなことは軍の強化ぐらいしかないが……」

「あたしらそれ以外に出来ることないけど大丈夫?」

 兄夫婦がそう言うのにフィグネリアはそれで大丈夫です、とうなずく。

「私達は中立の立場を保ち、これからの国造りにお力添えをしたいと思っています」

「わたくしは旦那様を助けて、お爺様との橋渡し役をしますわ。何か困ったことが絶対に! わたくしとお兄様に言ってくださいますわよね」

 リリアが言うのに、笑ってそうする、と答えたつもりだが喉に引っかかってしまって出来なかった。

 ずっと、ずっと抱えていた不安がもうどこにもない。

 あるのは暖かな幸福感だけで、幸せすぎて涙が溢れてくる。そうして引き寄せられるままにクロードの肩に顔を埋めて、少しの間そうしていた。

 その間、だれひとりとして口をひらくことなくふたりを見守った。

「フィグ、俺も一緒に頑張りますよ」

 そうして嗚咽がおさまって顔を上げると、クロードが涙をぬぐってれくれながらそう言った。

「ああ、お前にはこれから一番頑張ってもらわねばならんからな」

「もちろん、愛妻のために頑張りますよ。やっぱりこれって一番もっともらしいと思うんですけど、駄目ですか?」

 小首を傾げる夫にフィグネリアは今度はそれで十分だと答えてようやく笑顔をつくった。

「新婚ってやっぱりいいですわよね」

 肩の力を抜いたリリアが楽しげに微笑めば、残る皆も温かい眼差しを向けてくる。

「……それは、置いておいて、具体案に移ります」

 さすがに身内全員の視線はおもはゆく、フィグネリアは真面目な顔を取り繕って場をしきる。

 それでも家族の誰もがその赤い頬に緩めた口元を引き結ぶことはなかなか出来なかった。


***


 その翌日、フィグネリアは兵舎へと馬を走らせていた。そして兵舎の門扉にはラピナ家の家紋の旗を持った一個の兵団が見えて、馬を降りる。

「タラス殿!」

 兵達の中央にいるタラスの名を呼ぶと、彼は驚いた顔をしてこちらを見る。

「フィグネリア様……どうされたのですか?」

「せめて、見送りをと思ったので」

 タラスを初めとして簒奪と銃の密輸に深く関わった者達は皆、無期限の謹慎、領地の一部を没収などとなった。首謀犯が九公家の嫡男ともあり、爵位と領地の全没収とまではいかなかった。実家にて追放、あるいは廃嫡処分となり神官となる事を決めた者も多くいる。タラスも廃嫡は保留となっているが、本人はもう弟に家督を委ねる事に決めたらしかった。

「そうですか。ありがとうございます。最後にあなたの顔を見ることが出来てよかったと思います」

 子供の頃から、ずっと変わらない表情でタラスが目を細める。

 あのとき話し相手が出来て本当は嬉しかった。自分自身で認められなかったその思いをちゃんと分かっていたなら、彼とは志を共に出来るような友人になれたはずだった。

「……私はあなたとは、盟友になりたかったのだと思います」

 思いを口にすると、彼は喜ばしいのか悲しいのか、複雑な笑みを口元にはいた。

「もったいない、お言葉です。これよりは己のなしたことを再考し、日々を慎ましく生きていく所存です。……本来ならば、いますぐ神官となり俗世から離れるべきでしょうが」

 ロジオンが深く関わっていたことを知るタラスがそれを出来ないのは当然だろう。

 彼は縋るべきを場所をなくしてしまったのだ。

「私は、あなたの期待通りにひとりで父のなそうとしたことをやり遂げることは出来ません。これから兄や夫、家族の他に多くの人の手を借りていくでしょう」

 それでもいいのだろうか、フィグネリアは不安げに瞳を揺らす。

「きっと、それは先帝がなされるよりも素晴らしいものになるでしょう」

 タラスが笑って、安心した。そうして彼は兵達に急ぐようにと促されて騎乗する。

「では、自分はこれで失礼いたします」

 兵団が動き出す。タラスが一度も振り返らずに、いくつもの蹄の跡が残る雪の道を進んで行くのをフィグネリアは見続ける。

 去りゆくものが残していく足跡も大切にしていかなければならない。よいことも、悪いことも、たぶんきっとこれからの自分を導いていってくれるだろう。

 そうして自分は自分の足跡をつけていこう。

 ひとりではなく、たくさんの大事な人と共に。

 フィグネリアは自分も馬に乗り、道を引き返した。


***


 そしてその夜、皇帝の復帰の宴が行われることになった。

「お姉様達、子供達寝かしつけてくるから後をお願いしますわね」

 リリアがそう言って子供と夫と共に客間のほうへと消える。

「ああ。任せておけ。クロード、その資料はこっちだ」

 王宮の大広間で宴の前にする今回の件に関する書類を整理しているフィグネリアは、眠たげな目で手を振る姪達に手を振り返して、他の書類を抱えるクロードを呼ぶ。

「ええっと、そっち? そうか、だからそっちか」

 書類の文面を確認しながらクロードがうなずいて、玉座に近い席につく。他の重臣達の手元に行くものはすでに係の者によって配られているものの、自分たちが扱うぶんはさらに細かい記述があるので自分で確認しないとならない。

 朝議が始まる頃にはイーゴルが玉座につき、サンドラもその傍らの椅子につく。

 この場で多くの発言をしたのはフィグネリアだったが、皆、粛々と聞いていた。

 過去に例を見ない事態が重なり、その対処を行うのにフィグネリアがいないと困るとこの数日で全員、理解していた。

 話し合うことはイーゴルが戻って来る前に協議したことのまとめで皇帝への報告という形だったので、そう多くの時間はとらなかった。

 そして終わると、その場はそのまま宴の場となる。

 書類などが下げられると酒や料理が次々と運ばれて来て、続きの間へ繋がる両扉が開かれてそこに朝議には加わらなかった兵達も入ってくる。

 そして誰もが真っ先に酒杯を取って頭上に掲げると皇帝の復帰の祝いの言葉を口にする。

「皆、今日まで俺が不在の間、よく、勤めを果たしてくれた」

 イーゴルが声を上げると賑わい盛り上がっていた場がいっせい静まりかえりその言葉に耳をすます。

「とはいえ、俺がいてもさして何も出来なかっただろう。もう、誰が、この国のために多くの事をなしているか、分かっただろう」

 全員の視線がイーゴルの近くにいるフィグネリアに向かう。

「俺には難しい事はさっぱり分からん。しかし今回のことでこの国はひとつにまとまったものではないことが分かった。そしてそれが俺の力不足であるせいだということもな。そしてまとまりがないがためにロートムに入り込まれ神殿を奪われかけた。そしてこのディシベリアの大地もまた然りだ。俺ならこのことに気づく事もなかっただろう。そして気付いたとしてもこれほど首尾よく奪還は出来なかった。今、国に必要なのは団結だ。そして、先見の明を持った賢き者だ。フィグネリア、こちらへ来い」

 名前を呼ばれてフィグネリアはクロードと一度目を合わせてイーゴルの隣に立つ。

「今後一切の内政の統括はフィグネリアに任せることとする!」

 イーゴルの宣言に場がどよめいた。

 それは実質の譲位と代わりはないではないかと批難の声があがる。

「だがしかし、軍の統括は俺がとりしきる! いいか、ロートムはこちらにいずれ大きな戦をしかけてくることになる。その時のために、この大陸随一の軍をさらに鍛え上げ、あちらの銃に対抗する手段を講じる。今、必要なのは、それぞれが己が得意とし出来ることをやり抜くことだ」

 イーゴルの言葉に場はゆっくりと静まりかえっていく。そしてフィグネリアを自分の前に出す。

「私は、今までの自分の立ち位置を悔いたことも、嘆いたこともない。そして、我が兄が皇帝としても相応しいと思う。協調を重んじ、己をよく知るこの方は、よき人のあり方を民に示すだろう。そんなあり方は私には出来ない。私に出来ることは父の意思を継ぎ、兄のあり方を見習う民が生きやすい治世をしくことだ。これに不満を持つ者はいるか?」

 誰も、反論はしなかった。

 それは自分が己の利害しか考えていないと表明するも同然のことになるからだ。

「よし、これより新たな国の門出を祝うぞ!」

 それぞれに、先への不安や期待の表情があったが、もう一度全員が祝杯を掲げた。

 その中にいつの間にかリリアとデニスも紛れ込んでいて、彼らを見つけたサンドラがふたりを前まで手招く。

 クロードもフィグネリアのすぐ隣に立つ。

 これから先はどこまでも不透明で、多くの困難が待ち受けているだろう。

 それでも、とフィグネリアは側にある家族の楽しげな笑みを目に映す。

 この光景が鮮明である限りは大丈夫だと強く思った。


エピローグ


 あれから一月半が経ち、帝都が雪に沈んでいくのと同じようにフィグネリアは忙しさに埋もれていた。

 帝都は皇帝暗殺未遂事件と、その実行犯が隣国の者で、大神殿に籠城したという一大事にまだ浮き足立っている。だが、ロートムの密偵に人質にとられ負傷し、療養のために辞職したとなっているロジオンの次の大神官長が正式に決まり、落ち着きを取り戻し始めていた。

 これ以上の混乱を招かないために、神殿には被害者という立場を貫いて貰う事になった。再発の防止も向こうが対応するらしい。神殿の再編成には政府側が口を挟めないので任せるしかない。

 そして、フィグネリアが内務を取り仕切る件については、九公家は反対はしないが賛成も明確にせず、静観するという立場をとっている。

 大神子の交代が各地の神殿に伝えられ、フィグネリアが地母神の手により奇蹟を賜った事も一緒に広まったからだ。

 民が唯一安心を得られる神殿を救い、地母神に感謝されたフィグネリアを今、糾弾するのは分が悪い。そしてロートムの密偵が本物であったため、これ以上内政を混乱させる事も出来ないので静観するとしか言いようがなかった。

 そうして事後処理で最も面倒だったのはロジオンに従った兵達の処分だった。降格や減給という処分は下したが、誰もがロジオンの失脚と、ギリルアがフィグネリアの傷を癒やしたことに信条を折られて無気力になった彼らをどうするかが最大の問題になった。

 しかしこれにはイーゴルやサンドラが文字通り体当たりで接して、どうにか彼らは心を持ち直している。

 それだけでなく、イーゴルは今回身を持って知った銃の威力などについても教え込んでくれているようだ。

 これで意識が変われば多少は技術革新に向かって半歩ほどでも前に進めるはずだ。

 それからロートム側も動いた。銃が密売されてその首謀犯を捕まえたので証拠品でもある銃を返してほしいというふざけた申し出があった。

 向こうが知らぬ存是ぬを貫く密偵を吐かせたところ、結局向こうの目的である銃の使用実験と国内の混乱を引き起こすことに成功して十二分に満足、といったところらしい。

 おそらくまだ国内に多数潜んでいるだろう密偵をあぶり出すにはまだ骨が折れそうだ。

 以上の問題を片付けるのに必死だが、クロードがどうにか実務をこなしながらいろいろやれるようになって来たので少しは息を抜けるようになってきた。

 執務室は中央宮に移動してはという案もあったが、長らく過ごした小宮からは離れがたくそのままになった。

 そうしてクロードも仕事を覚えてきて落ち着きを取り戻した頃に、フィグネリアはもうひとつ片付いていない事があったと思い出したのだ。

「わざわざこれを引っ張り出すことはなかったか。いや、しかしこれが正式な衣装だからな。けしてクロードが好きだからと言ったから出してきたわけではなく」

 寝室の暖炉の前で独り言を言いながら、うろうろとするフィグネリアは薄い絹で出来た夜着を纏っていた。

 結婚式の日の夜に着ていたものである。

「やはり、気負いすぎかこれは……」

 着替えるべきかどうか迷っている間にドアが叩かれて、とっさに入っていいと言ってしまう。

「フィグ、どうしたんですか、その格好」

 隣の部屋で夜着に着替えてきたクロードがまじまじと上から下まで眺めてきて、頬に血が昇った。

「察しろ!」

「……答は分かってるんですけど。本当にいいんですか?」

 信じられないといった顔をしながらも、クロードはちゃっかりと近寄ってきて腰を引き寄せられる。

 薄布越しの体温に心拍数が上がり、間近にある黄金の瞳が優しく溶けるのに胸の奥が詰まる。

「さ、寒いから、もうごたくは」

 本当は恥ずかしさで体の芯から熱いのだがそう言ってしまうと言葉をうばわれてしまう。

 いつもより少し長い口づけはどこまでも優しく、ふっと強張っていた肩の力が少しばかり抜ける。

 そして無言で手を引かれてベッドへと誘われた。

「……これからもしばらく平穏と呼べない日が続くと思う。おそらくお前にもこれまで以上に負担をかけるはずだ」

 ベッドの上に座ってフィグネリアは夫を見上げる。

「俺の方もたぶんなんかこの力で訳のわからないことに巻き込んじゃいそうですしお互い様ですよ」

 クロードの指先がフィグネリアの銀糸の髪を梳いて、こめかみに口づけをひとつ落とす。

 そしてその指がどくどくと脈打つ首元に降りてきてフィグネリアは体を硬くする。

「せめてこの時間だけは心穏やかでいましょう」

 それはそれで別の意味で落ち着かないのだが。

 耳元で囁かれる言葉にフィグネリアは頭の中がぐるぐるしてきていた。

「愛しています。誰よりも、あなたを」

 肩を撫でたクロードの手がフィグネリアの手を取り、彼はその甲に唇を押し当てる。

 そこからじんわりと熱は広がり、想いが胸を満たしてすうっと気持ちが落ち着いてくる。

「私も、愛している。だから一番近くにいて欲しい。これからもずっと」

 そのまま掌を重ね合わせてふたりは寝台に倒れ込んだ。

 見つめ合うと自然と笑みがこぼれて、喜びを分かち合うように唇を重ねる。

 風がそっと天蓋を閉じて燭台の炎を消す。

 もう言葉はいらないと思えるほど重ねた掌や混じり合う呼吸から愛に満たされてほんのひとときの穏やかな夢の中へとふたりは沈んでいった。




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